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第2話 お客様になった公爵

ヴォス公爵は、自邸の正門に三度名乗った。


一度目は、家名を。


二度目は、爵位を。


三度目は、王国へ納めている税額を告げた。


正門は、そのすべてを聞き終えてから、礼儀正しく答えた。


『ご来訪ありがとうございます。ヴォス公爵閣下』


「そうだ。分かったなら開けろ」


『恐れ入りますが、ご当主様からの招待状をご提示ください』


公爵のこめかみに、太い筋が浮かんだ。


王宮から公爵邸へ向かう馬車の窓越しに、リズはそのやり取りを聞いていた。


隣に座るサラは、両手を膝の上で重ねている。血の滲んでいた右袖には、リズが巻いた白い布が覗いていた。


王宮地下から聞こえた音も、ハンが押した三つの黒い《異議》も、まだ何一つ解決していない。


それでも、先にサラを屋敷から逃がす必要があった。


真名台帳が婚姻の失効を宣言しても、人間の記憶までは変わらない。


ヴォス公爵は、サラを今までどおり自分の妻だと思っている。


公爵邸の使用人も、彼を昨日までの主人として覚えている。


変わったのは、王国が彼の命令をどこまで現実として認めるかだけだった。


馬車が正門前で止まった。


公爵は門柱に埋め込まれた認証石を拳で叩いた。


「この屋敷の主人は私だ!」


『記録上、現在のご身分は《婚姻関係審査中の来訪者》となっております』


「誰の婚姻を審査していると思っている!」


『回答権限がございません』


「私の婚姻だ!」


『回答権限がございません』


公爵は振り返り、門衛を睨みつけた。


「お前が開けろ」


門衛は背筋を伸ばした。


「閣下のご命令に従いたいのは山々ですが、家族用結界がご当主として認証しておりません」


「ならば手動で開けろ」


「手動解錠には、ご当主の許可が必要です」


「私が許可している!」


「結界が閣下をご当主として認証しておりません」


門衛は一言ずつ、申し訳なさそうに同じ場所へ戻ってきた。


公爵は門を蹴った。


門は少し考えるように淡く光り、公爵の靴へ泥落としの魔法をかけた。


リズは馬車から降りた。


その後ろから、サラも地面へ足を下ろす。


公爵が二人に気づいた。


「サラ」


サラの肩が強張った。


ただ名前を呼ばれただけだった。


それなのに、彼女の身体は、殴られる直前のように小さくなった。


公爵は門ではなくサラへ歩み寄ろうとした。


正門の結界が横から伸び、彼の前へ透明な壁を作った。


『ほかのお客様への接触は、双方の同意を得てからお願いいたします』


「客ではない。妻だ」


『該当する婚姻記録を確認できません』


「今朝まであった!」


『現在時刻における記録をご利用ください』


公爵は初めて、リズを見た。


彼の目に浮かんだのは、混乱ではなかった。


理解だった。


何が起きたかまでは分からない。


だが、目の前の地味な戸籍官が関わっていることだけは理解したらしい。


「貴様、何をした」


リズは答えなかった。


口頭で嘘をつく必要がない時は、黙るのが最も簡単だった。


公爵はサラへ手を伸ばした。


「こちらへ来い」


サラの足が、一歩動いた。


長く従ってきた命令は、台帳の一行だけでは身体から抜けない。


リズはサラの前へ立った。


「その命令には、婚姻上の強制力がありません」


「強制などしていない。妻に帰宅を命じているだけだ」


「妻ではありません」


「黙れ!」


公爵が怒鳴った。


正門の結界が、柔らかな警告音を鳴らす。


『ヴォス公爵閣下。屋敷前での威嚇行為は、今後の訪問許可へ影響する場合がございます』


「私の屋敷だ!」


『ご意見として記録いたします』


公爵は正門を諦めた。


門衛へ何かを言い残すこともなく、石塀に沿って歩き始める。


リズはその背中を見送った。


サラが小さな声で尋ねる。


「どちらへ」


「裏口です」


リズは答えた。


公爵邸の構造図は、婚姻課にも保管されている。貴族の婚姻では、家族用結界の接続範囲を確認しなければならないからだ。


「裏口なら、使用人用の認証しかありません」


サラの顔色がさらに悪くなった。


「開いてしまうのですか」


「いいえ。使用人用の認証しかないので、公爵はもっと入れません」


屋敷の反対側から、怒鳴り声が聞こえた。


続いて、裏口の案内魔法が明るく告げる。


『御用の方は、正門へお回りください』


少し間を置いて、公爵の声が返った。


「正門から来たのだ!」


『では、お帰りは正門をご利用ください』


何かを蹴る音がした。


今度は泥落としの魔法では済まなかったらしい。公爵の怒鳴り声に混じり、洗浄水が勢いよく噴き出す音が聞こえた。


正門脇に控えていた若い門衛が、俯いて唇を噛んでいる。


笑えば職を失う。


笑わなくても、かなり苦しい顔だった。


サラは笑わなかった。


ただ、先ほどまで震えていた肩から、少しずつ力が抜けていった。


「夫人」


リズは呼びかけた。


「今のうちに、必要なものを」


サラは頷いた。


正門はサラも家族として認証しなかった。


しかし屋敷へ招かれた客として申請すると、執事が内側から通行を許可した。


扉が開く。


長年サラに仕えてきた執事は、何も尋ねなかった。


彼女の袖に巻かれた白い布を一度だけ見て、深く頭を下げた。


「お荷物は、すでにまとめてございます」


「なぜ」


サラが尋ねる。


「奥様が三度目の離縁申請をなさった日に、必要になると思いました」


サラは言葉を失った。


執事は視線を上げなかった。


「お渡しする機会が来るまで、少々時間がかかりました」


二人の侍女が、小さな革鞄を運んできた。


豪華な衣装箱ではない。


着替えが数枚。


身分証明書。


母親の形見らしい銀の髪飾り。


そして、使い込まれた小さな本。


サラが自分で選んだものだけが、一つの鞄に収まっていた。


「使用人たちへの処罰は」


「閣下は現在、屋敷内の命令系統から外れております」


執事は淡々と答えた。


「少なくとも、正式な再認証が済むまでは」


サラは鞄を受け取った。


自由とは、もっと明るいものだとリズは思っていた。


扉が開き、光が差し、誰かが泣いて喜ぶ。


実際の自由は、一つの鞄ほどの重さしかなかった。


屋敷の外で、再び公爵の声がした。


「梯子を持ってこい!」


リズは窓へ目を向けた。


公爵は庭師の梯子を塀へかけ、二階の窓を目指していた。


誰も彼へ梯子を渡してはいない。


花壇の手入れに置かれていたものを、自分で運んだらしい。


公爵は重い正装の裾を片手で抱え、梯子を上った。


一段。


二段。


三段。


窓の外側にある侵入防止の術式が、彼の顔を照らした。


『窓からのご訪問は受け付けておりません』


「私は訪問者ではない!」


『ご意見として記録いたします』


公爵は窓枠へ手をかけた。


屋敷は少し考えた。


次の瞬間、防犯結界が公爵の身体を丁寧に包み、庭の中央へ運んだ。


空中で一度、姿勢を整える。


そのまま噴水へ返した。


大きな水音がした。


公爵が噴水の中央で立ち上がる。


髪から水を滴らせながら、屋敷を睨んでいた。


執事はサラの鞄を侍女へ預けた。


それから玄関を出て、噴水まで歩いていく。


公爵の前で最敬礼した。


「ヴォス公爵閣下。ご来訪ありがとうございます」


「今すぐ中へ入れろ」


「恐れ入ります。ご当主からの招待状をお持ちでしょうか」


「お前まで私を愚弄するのか」


「滅相もございません」


執事は腕にかけていた白い布を差し出した。


「客用のタオルでございます」


続いて、使用人が一足の室内履きを運んできた。


家紋の入っていない、来客用の上履きだった。


「屋敷へお入りになる際は、こちらへお履き替えください」


公爵は上履きを噴水へ投げた。


屋敷の清掃魔法が即座に反応し、水面から上履きを拾い上げる。


洗浄する。


乾燥させる。


もう一度、公爵の足元へ揃えた。


門衛がとうとう咳き込んだ。


リズは公爵を見た。


昨日まで、サラの実家も、使用人も、領地の医師も、すべて自分の命令で動かせると信じていた男。


その男が今、自分の屋敷から客用の上履きを勧められている。


たった一行で。


胸の奥に、小さな熱が生まれた。


サラを救えた安堵とは違う。


もっと鋭く、甘いものだった。


自分の書いた文字が、公爵の怒声より強い。


剣も兵士も使わず、一滴の血も流さず、王国有数の権力者を噴水の中へ立たせた。


リズは、その光景から目を離せなかった。


「リズ様」


サラの声で我に返る。


サラは屋敷の階段を見上げていた。


「ノアがいません」


「ノア?」


「この屋敷で保護していた子です」


サラは執事へ振り返った。


「今朝は書庫にいたはずです。私が戻るまで、外へ出ないよう伝えてありました」


執事の顔色が変わった。


「確認してまいります」


その時、屋敷の奥で鐘が鳴った。


来客を告げる鐘ではない。


家族台帳の変更を知らせる、低く乾いた音だった。


玄関横の認証板へ、銀色の文字が浮かぶ。


《婚姻関係の失効に伴い、家族登録を更新しました》


《サラ・ヴォスに付随する扶養資格を解除》


《対象者一名の所属を確認できません》


サラが認証板へ駆け寄った。


「対象者とは、誰ですか」


文字が一度消え、新しい表示へ変わる。


《仮登録名・ノア》


《出生記録・未確認》


《市民権・未確認》


《家族資格・失効》


リズは表示を読み返した。


ノアはサラの実子でも、正式な養子でもない。


無戸籍のまま、公爵夫人の家族枠へ仮登録されていた。


サラの婚姻が失効したことで、彼女に付随していた扶養枠も消えた。


ヴォス公爵を屋敷から締め出した、同じ一行で。


「ノアは、どこへ行くのですか」


サラが尋ねた。


リズは答えられなかった。


屋敷の外から、車輪の音が聞こえた。


黒い鉄枠で囲まれた馬車が、正門前へ止まる。


側面には《王都未登録者収容課》の紋章が刻まれていた。


門はその馬車を、招待状も求めずに通した。


家族ではない者を屋敷から運び出すための車両は、最初から来訪を許可されている。


「待ってください!」


サラが外へ走った。


リズも追う。


馬車の後部では、灰色の制服を着た収容官が扉を閉めようとしていた。


鉄格子の向こうに、少年が一人座っている。


痩せた身体。


伸びた茶色の髪。


膝の上には、何冊もの本を包んだ布袋が置かれていた。


「ノア!」


サラが名前を呼んだ。


少年が顔を上げる。


「奥様」


扉の隙間から手を伸ばしかけ、途中で引っ込めた。


「よかった。逃げられたんですね」


自分が連れ去られようとしているのに、少年はサラの袖の傷を見て笑った。


サラは馬車へ手をかけた。


「その子は私が保護しています」


収容官が台帳板を確認する。


「保護関係は先ほど失効しました」


「もう一度、私の扶養へ入れます」


「現在の夫人には、独立した家族枠がありません」


「では、私個人の使用人として」


「雇用登録には、本人の市民番号が必要です」


「その番号がないから、私が保護していたのです!」


「事情は記録いたします」


収容官は本当に記録した。


小さな板へ、《事情あり》とだけ書く。


それで終わりだった。


リズは馬車の側面に差し込まれた移送票を抜いた。


《仮登録者移送通知》


《対象・ノア》


《移送先・中央収容院》


《処理期限・翌朝第一鐘》


処理期限。


その言葉に、指先が冷えた。


「翌朝、何を処理するのですか」


リズが尋ねた。


収容官は彼女の事務服を見て、同業者へ説明する口調になった。


「所属を失った仮登録記録の整理です。新しい家族、雇用、徒弟、教会保護のいずれかが確認できなければ、仮台帳を焼却します」


仮台帳が焼かれれば、ノアの肉体が消えるわけではない。


記憶から消えるわけでもない。


ただ、王国が彼を人として扱うために残していた、最後の細い糸が切れる。


医療院の患者名簿に載らない。


都市の防護結界に守られない。


食料配給を受け取れない。


新しい所属を申請するための、過去の仮登録さえ証明できなくなる。


「異議申立てをします」


リズが言った。


「受付は中央収容院です」


「今夜中に」


「夜間の異議窓口は閉まっています」


「処理は翌朝なのでしょう」


「はい」


「窓口が開くのは」


「翌朝第二鐘です」


リズは移送票を見た。


仮台帳が焼かれるのは第一鐘。


異議窓口が開くのは第二鐘。


間に合わない手続きだった。


まただ。


リズは馬車の中のノアを見た。


つい先ほどまで、ヴォス公爵を噴水へ落とした一行に、自分の力を感じていた。


同じ一行が、今度は十六歳の少年を王国の外へ押し出そうとしている。


サラを救った。


ヴォスを止めた。


だから正しかった。


そう思えるはずだった。


だが、台帳は善悪を判断しない。


一つの権利を動かせば、つながっていた別の権利が止まる。


リズには、それが見えていたはずだった。


見ようとしなかっただけだ。


「出してください」


サラが馬車の扉を掴んだ。


「その子は何もしていません」


収容官は静かに手を外させた。


「罪人として収容するのではありません」


「では、何として連れていくのですか」


収容官は答えに詰まった。


馬車の認証石が代わりに告げた。


『分類不能者として移送します』


扉が閉じた。


錠がかかる。


馬車が動き出した。


サラは追いかけようとしたが、傷ついた腕を押さえて足を止めた。


リズは移送票を握ったまま、走り去る馬車を見つめた。


その背後では、ヴォス公爵がまだ噴水の中から使用人を怒鳴りつけている。


執事は最敬礼したまま、客用のタオルを差し出していた。


少し前まで痛快に見えた光景が、今はひどく遠かった。


中央収容院。


翌朝第一鐘。


新しい合法的所属がなければ、ノアの仮登録は焼却される。


夜明けまで、もう八時間もなかった。

第2話をお読みいただき、ありがとうございます。


自邸から丁寧に締め出され、客用の上履きまで用意されたヴォス公爵。その一方で、同じ一行によってノアは家族資格を失いました。書類は権力者だけを選んで罰してはくれません。


次話では、リズの偽造へ早くも一人の監査官がたどり着きます。七つ穴の用紙、乾ききっていない青いインク、閉庁後の受理時刻。三つの証拠を前に、口頭では嘘をつけないリズは何を答えるのか。そして、ノアの台帳が焼かれるまでに残された時間は減り続けます。


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