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第1話 夫を殺さない方法

「夫を殺したいのです」


公爵夫人は、王宮の婚姻窓口でそう言った。


リズは死亡課ではなく、婚姻課の台帳を開いた。


「殺さずに済む方法なら、一つあります」


その言葉を口にした時点では、まだ本当に実行するつもりはなかった。


窓口の向こうに座るサラ・ヴォスは、夫を殺したい女には見えなかった。


王都で流行している淡い水色のドレス。真珠を一粒ずつ縫いつけた手袋。公爵夫人として模範的な装いだったが、どれもわずかに季節が古い。


新しいものを買えないのではない。


自分で選ぶことを許されていない人間の服だった。


「死亡に関するご相談でしたら、東棟三階です」


リズは規則どおりに告げた。


サラは首を振った。


「夫を死者にしたいのではありません」


「先ほどは、殺したいと」


「殺さなければ、逃げられないのです」


王宮の閉庁を告げる鐘が鳴った。


天井近くの魔法灯が一つずつ薄くなり、隣の窓口では同僚が台帳を閉じ始めている。床を磨くゴーレムが、まだ座っているサラの椅子を避けて、不満そうに方向を変えた。


リズは申請書へ目を落とした。


離縁申請は三度。


一度目は、夫による撤回。


二度目は、申請者本人の意思確認ができなかったとして返却。


三度目には、サラ自身の署名で取り下げられている。


三枚とも筆跡が違った。


「この署名は、夫人が書いたものではありませんね」


サラの肩がわずかに動いた。


「私の署名です」


嘘だった。


リズは一度見た筆跡を忘れない。


サラが今日書いた相談票では、文字の終わりがすべて左へ流れている。幼少期に右手を矯正された者の癖だ。


三度目の取り下げ署名には、その迷いがなかった。


「公爵が書かせたのですか」


サラは答えなかった。


口にすれば、それさえ証言として記録されると知っている顔だった。


リズは申請書を揃え直した。


「夫婦間の問題について、婚姻課ができるのは申請を受け付けるところまでです。相手方が異議を申し立てた場合は、教会裁定へ移ります」


「その教会の司祭は、夫の従兄です」


「暴行の証拠があれば――」


「医師は夫の領地医です」


「ご実家へ戻ることは」


「戻れば、父と弟が横領の罪で捕らえられます」


サラは穏やかな声で答えた。


すべて、もう試した後なのだ。


彼女が逃げれば実家を罰する。


告発すれば使用人を共犯にする。


屋敷の外へ手紙を出した者は、盗みの罪で解雇する。


ヴォス公爵は、法を破っていなかった。


法の届かない場所を、一つずつ選んでいるだけだった。


「今夜、戻らなければなりません」


サラが言った。


「夕食の席に私がいなければ、侍女が罰を受けます。明日の朝まで戻らなければ、庭師の息子が徴兵名簿へ入れられます」


リズは時計を見た。


公爵邸の夕食までは、馬車を飛ばしても二時間。


正式な保護申請を出すには三日。


仮の避難命令でも、上官二名の署名が必要だった。二人とも、すでに帰宅している。


最短の合法手段は、間に合わない。


リズは、間に合わない手続きが嫌いだった。


人が迷い、相談し、順番を待っている間に、書類の中では結論が出ている。必要な項目も、不足している印も、どの条文を動かせばよいかも見えている。


見えているのに、権限がない。


それが彼女の仕事だった。


「本日は、ここまでです」


リズは台帳を閉じた。


サラが立ち上がる。


その動作で、右の袖口が机の角に触れた。


赤い滴が一つ、申請書の余白へ落ちた。


サラはすぐに手袋で押さえた。


「失礼いたしました」


その謝罪の仕方が、あまりに慣れていた。


リズは血のついた申請書を見た。


つい先ほどまで、そこには何も書かれていなかった。


血が一滴落ちただけで、ただの相談票が証拠らしきものに変わった。


だが、証拠らしきものではサラを救えない。


必要なのは、夫の承諾でも、司祭の判断でもない。


今夜のうちに、ヴォス公爵がサラへ命令できなくなる事実だった。


リズは立ち上がり、窓口の仕切りを閉めた。


閉庁札を裏返す。


床磨きのゴーレムが、ようやくサラの椅子の下へ入り込んだ。


「もう一度、座ってください」


「ですが、閉庁では」


「記録上は、そうなります」


サラはゆっくりと座り直した。


リズは婚姻台帳を再び開いた。


レグナ王国では、人が夫婦になるのは誓いを交わした瞬間ではない。


《真名台帳》へ記録された瞬間だ。


出生、親子、婚姻、所有、爵位、市民権。


王国における人間関係の大半は、《真名台帳》へ書かれて初めて現実になる。


婚姻が登録されれば、屋敷の防護結界は配偶者を家族として迎える。銀行は共有財産を開き、病院は家族の同意を認め、死後は相続権を発生させる。


反対に、婚姻が存在しなければ。


夫は、ただの他人になる。


「ヴォス公爵は、夫人と結婚する以前に婚姻していたことがありますか」


「ありません」


「婚約ではなく、婚姻です」


「ありません。あの人は、自分の経歴に傷がつくことを何より嫌います」


「そうですか」


リズは棚の最下段から、遡及訂正用紙の束を取り出した。


通常の紙には、右端に四つの綴じ穴がある。


一枚だけ、七つ穴の紙が混じっていた。


紙質は古い。


だが、保存魔法の光沢は新しかった。


左下には管理番号を削り取った跡があり、爪でなぞると繊維がわずかに逆立っている。


誤配された廃版用紙。


そう考えれば、戻すべきだった。


リズは七つの穴を見つめた。


遡及訂正に必要な魔法式が、すべて残っている。


過去の婚姻を一件、差し込める。


どこから来た紙なのかは分からない。


だが、何に使える紙なのかは分かった。


リズはそれを選んだ。


「これから何をするのですか」


サラが尋ねた。


リズは口頭の嘘が苦手だった。


書類の上なら、どれほど大きな嘘でも整然と書ける。しかし人の目を見て、本当ではないことを言おうとすると、喉が固くなる。


だから正直に答えた。


「公爵に、先妻がいたことにします」


サラは瞬きもせずにリズを見た。


「そんなことが」


「できません」


リズは婚姻台帳の索引を繰った。


「正式な文書を偽造し、閉鎖された教会の印章を転記し、死者を証人に使わない限りは」


「それは、犯罪ではありませんか」


「三つです」


「何がですか」


「今申し上げた犯罪の数です」


サラの唇が、ほんの少し震えた。


笑ったのか、泣きそうになったのか、リズには分からなかった。


「私が頼んだことにしてください」


「なりません。あなたが依頼したのは殺人です。これは私の訂正です」


リズは三十年前の婚礼名簿を開いた。


人間を無から作ることはできない。


先妻として記録するなら、実在した肉体か、出生証言か、過去の記録の影が必要になる。


婚礼名簿に並ぶ名を追い、同じ年の死亡台帳と照合する。


一人の女性がいた。


出生登録あり。


婚姻歴なし。


三十年前に死亡。


王都の施療院で働き、身寄りを残さなかった。


死者の人生へ、偽りの婚姻を足す。


リズの指が止まった。


救う相手のためなら、死者は使ってよいのか。


よいはずがない。


けれど、死者は今夜殴られない。


リズはその名を書いた。


青いインクが七つ穴の紙へ吸い込まれ、淡く光った。


次は印章。


閉鎖教会の旧記録から婚姻印の形を薄紙へ写し、腰に下げた六本の赤い訂正紐から一本を解く。


紐へ残された転記魔法を使い、紙の上へ古い聖印を焼きつける。


印章の縁にあった欠けまで、正確に。


最後は社会的証人。


婚姻は二人だけの意思では成立しない。王国が婚姻を認識するには、それが社会の中で行われたと証明する者が要る。


リズは同じ婚礼名簿から、死亡済みの二名を選んだ。


一人は当時の教会守。


もう一人は楽師。


署名の筆圧、文字の傾き、インクのにじみ。


リズは一度見れば忘れない。


二人の死者は、三十年後の夜、ヴォス公爵の存在しない結婚へ立ち会った。


文書。


印章。


社会的証人。


三つが揃った。


残るのは受理だけだった。


窓口の端には、旧式の受理ゴーレムが座っている。


名前はハン。


人の腰ほどの高さしかなく、丸い頭部には表情がない。胸の前には《受理》《却下》《保留》《異議》の四つの印が並んでいる。


リズは偽造した婚姻記録を、ハンの前へ差し出した。


ハンの頭部が動いた。


紙を見る。


リズを見る。


サラを見る。


もう一度、紙を見る。


「受理してください」


リズが言った。


ハンは動かない。


機械に罪悪感があるはずはない。


それでも、リズには拒まれているように思えた。


「手続き上の三条件は満たしています」


ハンの右腕が持ち上がった。


《受理》の印へ手を伸ばす。


その動きが途中で止まり、《異議》の上を一度通り過ぎた。


やがて、赤い印泥へ《受理》を押す。


七つ穴の紙へ、印が落ちた。


真名台帳の頁が、風もないのにめくれた。


遠い場所で巨大な歯車が噛み合うような音が、王宮の床下から響いた。


青い文字が台帳の上へ浮かぶ。


《遡及婚姻記録を受理しました》


《ヴォス公爵の先行婚姻を確認》


《サラ・ヴォスとの婚姻は重婚状態にあります》


《法定優先順位に基づき、後発婚姻を失効します》


サラが息を止めた。


次の瞬間、天井の魔法灯が一斉に明るくなった。


窓口に備えつけられた祝福魔法が、春の朝のように朗らかな声で告げた。


『おめでとうございます』


サラは動かなかった。


リズも動かなかった。


結婚でも、離婚でも、廃嫡でも、死亡でも。


王国の魔法は、何かが正式に成立するたび、同じ声で祝福する。


台帳に新しい文字が浮かんだ。


《ヴォス公爵邸・家族認証を更新》


《対象ヴォス公爵を来客として登録》


サラの口元から、かすかな息が漏れた。


笑いではなかった。


泣き声でもなかった。


それまで夫の命令として彼女を縛っていたものが、たった一行で他人の要求へ変わった音だった。


さらに、台帳の最下部へ見慣れない文字が現れた。


《王宮地下・第七保管扉》


《原本索引を照合》


《一時開錠》


王宮の奥深くから、重い扉が開く音がした。


一瞬だけだった。


すぐに閉じる。


リズは顔を上げた。


この庁舎の地下に、第七保管扉という場所があるとは聞いたことがない。


問いただす相手も、もう庁舎には残っていなかった。


「ノル官」


サラが、血のついていない方の手で台帳の端を握った。


「私は、自由になったのでしょうか」


リズは失効した婚姻欄を見た。


ヴォス公爵の名とサラの名を結んでいた銀色の線が消えている。


「記録上は、そうなります」


その時だった。


誰も触れていないハンの腕が、突然持ち上がった。


胸に並んだ四つの印のうち、《異議》を掴む。


印泥は赤かった。


紙へ落ちる直前、墨のような黒へ変わった。


ばちん。


《異議》。


ばちん。


《異議》。


ばちん。


《異議》。


ハンは、黒い印を三度押した。


偽造した婚姻記録ではない。


その下にある、真名台帳そのものへ。


三つの《異議》の中央で、七つ穴の紙から黒い文字が滲み出していた。


リズが書いたものではない。


読もうと身を乗り出した瞬間、文字は紙の繊維へ沈んで消えた。


残ったのは、黒い三つの印だけだった。


そして王宮の地下から、今度は扉を内側から叩く音がした。

第1話をお読みいただき、ありがとうございます。


夫を殺すのではなく、夫であったという記録を殺す。リズが書いた最初の嘘は、一人の女性を救うと同時に、王国の地下で眠っていた何かまで目覚めさせました。


次話では、突然自邸の扉から他人扱いされたヴォス公爵が、正門、裏口、そして窓から屋敷への帰還を試みます。しかし、リズの一行によって家族ではなくなったのは、公爵だけではありません。


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