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英雄ではなく

ご覧いただきありがとうございます。

評価、ブックマークしていただきありがとうございます。

訓練は、静かに終わった。


派手な撃墜はない。


大きな失敗もない。


実機搭乗もない。


軍の管理施設に用意された訓練用シミュレーション室で、投影された仮想戦域を見つめ、前衛と支援の動きを確認する。


それだけの訓練だった。


けれど、ステラには分かった。


マーリンは強い。


リュールを想定した白い前衛機影を扱うマーリンは、まるで戦場の形を最初から知っているようだった。


敵機の進路。


味方の退避線。


補給艦に見立てた目標を守るため、空けてはいけない場所。


それらを、マーリンは迷わず見つける。


迷っていないように見える。


少なくとも、ステラにはそう見えた。


ステラが後方支援として索敵と死角管理を行うと、マーリンは短い返事だけで動いた。


『ロイス様、右下は囮です。本命は左上です』


『承知しました』


『退避線、三秒後に開きます』


『合わせます』


『ロイス様、敵二機、挟み込みます』


『抜けます。後ろをお願い』


後ろをお願い。


その言葉を聞いた時、ステラの胸は少しだけ跳ねた。


任された。


リュールの操縦者に。


本物の英雄に。


ステラは、いつもより少しだけ背筋が伸びた。


『はい!』


返事が少し大きくなった。


通信越しでも分かったらしく、マーリンが小さく息を漏らす。


笑ったのかもしれない。


ほんの少し。


それだけで、ステラはうれしくなる。


単純だ。


とても単純。


でも、仕方ない。


ステラにとってマーリン=ロイスは、ずっと遠くにいる人だった。


フルール・デスポワール。


リュールを起動した少女。


高負荷の中で、白い人形を止めた人。


怖いと言いながら、機体に飲まれなかった人。


帝国の希望。


初めて見た時、思わず「わぁ、本物だ……」と言ってしまったくらいには。


その人が今、自分に後ろを任せている。


ステラは浮かれそうになる気持ちを、無理やり訓練画面へ押し戻した。


浮かれて落ちたら、笑えない。


いや、少しは笑えるかもしれない。


でも、たぶんメッサーシュミットに怒られる。


それは嫌だった。


とても嫌だった。


だから、ステラは真面目に後ろを見た。


マーリンが前を見るなら、ステラは横と後ろを見る。


そう決めたのだから。


訓練用の仮想戦域では、白い前衛機影が滑るように動く。


実際のリュールではない。


ただの演算表示だ。


訓練用の椅子に座ったまま、視線入力と簡易魔力反応で動かす、あくまで模擬機動。


それなのに、マーリンが動かすと、白い機影は妙に生々しく見えた。


速い。


けれど、乱暴ではない。


進路を塞ぐ。


押し返す。


退避線を開く。


敵機影の中央へ突っ込まず、補給艦に見立てた目標の周囲へ空白を作る。


倒すためではなく、守るための動き。


ステラは、その動きが好きだと思った。


好き、というのは少し変かもしれない。


訓練機動に向ける言葉ではない。


けれど、そう感じた。


力があるのに、使い切らない。


速いのに、置き去りにしない。


前へ出るのに、後ろを信じてくれる。


それが、とてもきれいに見えた。


『イルクート候補生』


マーリンの声が通信に乗る。


『はい』


『左上、もう一度確認を』


『はい。敵一機、加速中です。正面の機影は囮です』


『分かりました』


白い機影が少し角度を変える。


本命の進路を塞ぎ、囮の射線から味方機影を逃がす。


きれいだった。


でも。


ステラは、ふと気づく。


きれいすぎる。


マーリンの動きは、迷いがないように見える。


けれど、迷いがないのではなく、迷う前に身体が動いているのかもしれない。


戦術を理解しているから。


リュールの癖を知っているから。


それだけではない何かがある。


ステラは喉の奥を少し鳴らした。


通信には乗せない。


訓練中に余計な感情を混ぜてはいけない。


「イルクート一等候補生、索敵範囲が広がりすぎている」


外部監督席から、メッサーシュミットの声がした。


通信ではない。


ステラは背筋を伸ばす。


「申し訳ありません。修正します」


視野が広がりすぎていた。


必要以上にマーリンを見すぎていたのだ。


後ろを見ると言ったのに。


ステラは頬が少し熱くなるのを感じながら、視界を戦域範囲へ戻した。



訓練後の休憩室には、甘いものが置かれていた。


簡素な白い部屋。


丸い卓。


温かい茶。


小さな焼き菓子。


軍の管理施設にしては、少しだけ優しい光景だった。


ステラは椅子に座るなり、焼き菓子を見て目を輝かせる。


「甘いものです」


マーリンが向かい側に座りながら、少しだけ首を傾げる。


「見れば分かります」


「はい。ですが、確認は大切です」


「それは訓練の話ではなくて?」


「甘いものにも適用されます」


真面目に答えた。


マーリンは少し困った顔をする。


その顔が、ステラにはうれしかった。


ロイス様が困っている。


英雄が困っている。


いや、英雄を困らせて喜んではいけない。


でも、少しだけ普通の表情だった。


ステラは焼き菓子を一つ手に取る。


「ロイス様も召し上がりますか」


「ええ。いただくわ」


マーリンは手を伸ばした。


その時だった。


ステラは気づいた。


マーリンの指先が、わずかに震えている。


本当に少しだけ。


手袋越しでは見落としてしまうくらいの小さな震え。


けれど、ティーカップの縁に触れた時、かすかに音が鳴った。


ちいさな、硬い音。


ステラは目を止める。


マーリンは何事もなかったようにティーカップを持ち上げた。


白い髪。


整った姿勢。


静かな目元。


いつものロイス様。


けれど、指先だけが違う。


「ロイス様」


「何かしら」


「お疲れですか」


言ってから、ステラは少し後悔した。


聞き方がまっすぐすぎたかもしれない。


マーリンは一拍置いて、微笑む。


「少しだけ」


少しだけ。


その言葉は軽い。


軽いのに、ステラには妙に重く聞こえた。


「訓練の負荷でしょうか」


「そうね。リュールを想定した機動は、まだ身体が覚えているのだと思うわ」


「身体が」


「ええ。実際には乗っていないのに、おかしいでしょう」


マーリンはそう言って、焼き菓子を手に取る。


笑っている。


きれいに。


ステラは、それを見て胸の奥が少しざわついた。


おかしいでしょう。


そう言う声は、とても静かだった。


けれど、本当におかしいと思って笑っている声ではなかった。


怖いものを、少しだけ軽い言葉に包んだ声だった。


「おかしくありません」


ステラは思わず言う。


マーリンが目を上げる。


「そう?」


「はい。身体が覚えることはあります。私も、訓練用の急旋回で目が回った後、しばらく椅子に座っているだけで回っている気がしました」


「それは、単に回りすぎではなくて?」


「そうかもしれません」


マーリンが少し笑う。


ほんの少し。


ステラはほっとした。


けれど、安心しきれない。


マーリンの指先は、まだ完全には止まっていなかった。


クリスチーナは一歩後ろに控えていた。


何も言わない。


けれど、マーリンのティーカップが少し揺れた瞬間、ほんの少しだけ身じろぎした。


ステラはそれにも気づいた。


クリスチーナは、ずっと見ている。


マーリンの指先。


呼吸。


目線。


言いかけて止める言葉。


まるで、落ちそうな花弁を手のひらで受け止めようとしているみたいだった。


ステラは焼き菓子を口に入れる。


甘い。


おいしい。


けれど、さっきまでより味が少し遠い。


「イルクート候補生」


マーリンが呼ぶ。


「はい」


「訓練中の後方確認、とても助かりました」


「ありがとうございます!」


反射で返事が大きくなる。


マーリンは少し目を瞬く。


「元気ね」


「すみません」


「謝ることではないわ」


「はい」


「あなたの声は、よく通るもの。訓練中も助かると思います」


ステラは一瞬、胸を張りかけた。


けれど、そこで気づく。


マーリンは「戦場」とは言わなかった。


訓練中。


そう言った。


それが意図的かどうかは分からない。


けれど、ステラには少しだけ分かる気がした。


甘いものがある部屋へ、戦場という言葉を入れたくなかったのかもしれない。


「ロイス様の前衛機動も、すごかったです。敵の進路が見えているみたいで」


「見えているわけではないの」


マーリンは静かに言う。


「たぶん、見えた気がしているだけ」


「気がしているだけで、あれほど動けるのですか」


「身体が先に反応するの」


その声が、ステラの胸に引っかかった。


誇る言葉ではなかった。


喜ぶ言葉でもなかった。


むしろ、困っているように聞こえた。


ステラは、焼き菓子を持つ手を止める。


「ロイス様は、戦うことが得意なのではないのですか」


言ってから、また後悔する。


違う。


聞き方が違う。


けれど、言葉はもう戻らない。


マーリンは怒らなかった。


ただ、少しだけ目を伏せた。


「得意、なのかもしれないわ」


その答えは、とても曖昧だった。


「リュールは私に応えてくれる。私は、敵機の進路も、味方の退避線も、ある程度読める。結果として、守れたものもある」


ステラは黙って聞く。


「でも、好きではないの」


マーリンは焼き菓子を見つめる。


「戦争は嫌い。人形に乗るのも怖い。戦うことが得意だと言われるたびに、自分の知らない名前をつけられている気がするわ」


自分の知らない名前。


ステラには、その意味がすぐには分からない。


けれど、胸が痛くなることだけは分かった。


ロイス様。


リュールの操縦者。


帝国の希望。


英雄。


ステラも、その名前でマーリンを見ていた。


そのどれもが間違いではない。


でも、それだけでは足りないのかもしれない。


「……すみません」


ステラは小さく言った。


マーリンが顔を上げる。


「どうして謝るの?」


「私も、ロイス様をすごい方だとばかり思っていました」


「実際、すごいと言われるだけのことはしているのでしょうね」


「そういう言い方をなさらないでください」


思ったより強い声が出た。


ステラ自身が驚く。


マーリンも少し驚いた顔をした。


クリスチーナも、静かにこちらを見る。


ステラは慌てる。


「あっ、申し訳ありません。命令するつもりでは」


「いいえ」


マーリンは首を振る。


「続けて」


続けて。


言われて、ステラは困った。


勢いで言ってしまっただけで、きれいな言葉は用意していない。


でも、ここで引っ込めたら、何か違う気がした。


「その……ロイス様は、すごいです」


「ええ」


「でも、すごいから傷つかないわけではないと思います」


言えた。


少し不格好だった。


でも、言えた。


マーリンの目が揺れる。


本当に、小さく。


ステラはそれを見逃さなかった。


「訓練の後、指先が震えていました」


マーリンの手がわずかに止まる。


「ティーカップを持つ時も。リュールの名前が出た時も、少し息が浅くなりました」


言ってよいことなのか分からない。


でも、言わないと、マーリンはまた平気な顔をする気がした。


「私は、ロイス様のようになりたいと思っていました。強くて、綺麗で、何でもこなす方だと」


マーリンは黙っている。


「でも、少しだけ違うと思いました」


「違う?」


「はい」


ステラは真剣に頷く。


「ロイス様は、英雄だから強いのではなくて、怖くても立っている方なのだと思います」


言葉にした瞬間、ステラは自分でも少し恥ずかしくなった。


真面目すぎる。


少し暑苦しい。


兄なら、顔が赤いぞと言うかもしれない。


でも、マーリンは笑わなかった。


ティーカップを置き、静かにステラを見ている。


「イルクート候補生」


「はい」


「買いかぶりすぎです」


「そうでしょうか」


「そうです」


「でも、私はそう見えました」


「見間違いかもしれないわ」


「その場合は、また見ます」


マーリンが瞬きをする。


ステラは続ける。


「私は後ろを見る役目です。でしたら、ロイス様のことも見ます。前だけではなく、横も、後ろも。見落とさないように」


その言葉を口にして、ステラは少しだけ怖くなる。


踏み込みすぎたかもしれない。


ロイス家の令嬢に。


リュールの操縦者に。


帝国の希望に。


けれど、今のステラには、目の前の人がそれだけには見えなかった。


白い髪の、疲れた少女。


甘いものを手にしたまま、指先の震えを隠そうとする人。


大丈夫と言いかけて、飲み込む人。


強いだけではない人。


英雄ではなく。


「あなたは」


マーリンがぽつりと言う。


「不思議なことを言うのね」


「よく言われます」


「ご家族に?」


「はい。主に兄に」


「そう」


マーリンの口元が、ほんの少しだけ緩む。


ステラはそれを見て、胸をなで下ろした。


笑ってくれた。


でも、ただ嬉しいだけではない。


その笑みは、少し壊れやすかった。



しばらく、二人は静かに茶を飲んだ。


クリスチーナが新しい茶を注ぐ。


ステラは「ありがとうございます、アリソン様」と礼を言う。


クリスチーナは静かに頷く。


その視線が一瞬、ステラに向く。


責める目ではない。


試す目でもない。


ほんの少しだけ、頼むような目だった。


気のせいかもしれない。


でも、ステラにはそう見えた。


マーリンを見ていてほしい。


そんな目。


ステラは背筋を伸ばす。


甘いものを食べる時より真面目に。


「イルクート候補生」


マーリンが言う。


「はい」


「私は、あなたが思うほど立派ではないわ」


「はい」


「そこは否定しないのね」


「ロイス様がそう仰るなら、きっとそうなのだと思います」


マーリンは少し困ったように笑う。


「素直すぎるのも考えものね」


「ですが」


ステラは焼き菓子を一つ持ち上げる。


「立派ではないことと、尊敬できないことは別です」


マーリンは黙る。


「私は、ロイス様を尊敬しています。ですが、それはたぶん、少し変わりました」


「変わった?」


「はい。遠くから見上げるだけではなくなったというか……」


言葉を探す。


難しい。


甘いものなら、甘い、おいしい、大切、で済むのに。


人のことは難しい。


「近くで支えたいと思うようになりました」


言ってから、ステラは顔が熱くなる。


これは、かなり恥ずかしい。


でも取り消さない。


マーリンは、しばらく何も言わなかった。


それから、静かに目を伏せる。


「近くにいると、危ないわ」


「はい」


「リュールの隣は、きっと楽ではない」


「はい」


「私は、あなたを巻き込むかもしれない」


「はい」


「それでも?」


「それでもです」


同じ言葉。


顔合わせの時にも答えた。


でも、今は少し意味が違う。


英雄の隣に立ちたいからではない。


怖がっている人の隣に、誰かが必要だと思ったから。


ステラは、それをまだうまく言えない。


でも、胸の中には確かにある。


「ロイス様が前を見るなら、私は横と後ろを見ます」


マーリンは、焼き菓子を見つめたまま言う。


「あなたは、約束を軽く言うのね」


「軽かったでしょうか」


「少し」


「申し訳ありません」


「でも」


マーリンは顔を上げる。


「軽い約束の方が、今は息がしやすいのかもしれないわ」


ステラには、その言葉の奥が全部は分からない。


けれど、少し苦しい言葉だとは思った。


だから、明るく言う。


「では、軽めに約束します」


「軽めに?」


「はい。ロイス様が前を見る時、私は横と後ろを見ます。あと、甘いものも忘れません」


マーリンが瞬きをする。


それから、本当に少しだけ笑った。


「最後は必要かしら」


「必要です」


「そう」


「甘いものは大切ですので」


「イルクート候補生は、そればかりね」


「はい」


ステラは胸を張る。


マーリンの笑みが、少しだけ長く残った。


それを見て、ステラは思う。


英雄として見上げるだけなら、きっと気づかなかった。


この人は、強い。


けれど、傷ついている。


美しい。


けれど、疲れている。


何でもこなすように見える。


けれど、本当は怖いと言っている。


それを知ってしまったら、もう遠くの英雄としてだけは見られない。


ロイス様は、ロイス様だ。


でも、その中にいる少女を、ステラは少しだけ見た気がした。


「イルクート候補生」


マーリンが、ふいに言う。


「はい」


「あなたは、どうしてそんなにまっすぐなの」


ステラは考えた。


家族の顔が浮かぶ。


甘いものを用意してくれる母。


不器用な父。


照れ隠しばかりの兄。


甘いもので機嫌が直る妹。


そういう場所から、自分はここへ来ている。


まっすぐでいられるのは、帰る場所があるからかもしれない。


でも、それをそのまま言うのは少し違う気がした。


マーリンには、その場所がないのだと、ステラは少しずつ気づき始めている。


「曲がるのが、あまり得意ではないのだと思います」


結局、そんな答えになった。


マーリンは少し目を瞬く。


「不器用なのね」


「はい。父に似たのかもしれません」


「お父様に?」


「不本意ですが」


ステラが真面目に言うと、マーリンはまた小さく笑った。


その笑いは、先ほどより少しだけ柔らかかった。


ステラはほっとする。


やはり甘いものは必要だ。


あと、父の不器用さも少しは役に立つらしい。


本人には言えない。


調子に乗るか、渋い顔をするか、たぶん両方だから。



休憩が終わる頃、メッサーシュミットから次の予定が告げられた。


ステラが正式なバディ候補として最終確認に進むこと。


リュールとの連携訓練を想定し、前衛と支援の役割分担を詰めること。


二機一組での運用を本格化すること。


ステラは緊張した。


当然だ。


候補から、正式な役割へ近づいている。


マーリンの隣へ、さらに一歩。


うれしい。


怖い。


どちらもある。


マーリンは静かに頷いている。


その横顔は、また少し遠い。


けれどステラは、もうその遠さだけを見ない。


ティーカップを持つ指先。


大丈夫と言いかけて止める口元。


甘いものを食べた時の小さな表情。


そういうものも見る。


見落とさない。


「イルクート候補生」


マーリンが声をかける。


「はい」


「次の訓練も、よろしくお願いします」


丁寧な言葉。


少し遠い呼び方。


でも、ステラはまっすぐ返事をする。


「はい、ロイス様」


今はまだ、その呼び方でいい。


きっと、もう少し近づける。


近づく必要がある。


バディとは、ただ横に並ぶことではない。


生存を預けること。


命を預かること。


そしてたぶん、弱さを見落とさないこと。


ステラはそう思い始めていた。


休憩室を出る時、ステラはふと振り返る。


マーリンはクリスチーナに手袋を直されていた。


指先は、もう震えていないように見える。


けれど、ステラには分かる。


震えが消えたのではない。


隠すのが上手いだけだ。


ロイス様は英雄だ。


でも、英雄だけではない。


そのことに気づいたステラは、扉の前で小さく拳を握る。


次の訓練では、もっと近くに立つ。


前衛と支援。


二機一組。


命を預け合う距離。


その距離に立つなら、呼び方もきっと今のままでは少し遠い。


ステラはまだ、それを口にはしない。


けれど胸の中で、小さく決める。


ロイス様を、もっと近くで支えるために。


廊下へ出ると、軍の管理施設の白い光が目に入る。


白い壁。


滑らかな床。


無駄のない照明。


ここは、感情を置くには向かない場所だ。


でも、ステラの胸にはまだ甘いものの味が残っている。


そして、マーリンの小さな震えも。


どちらも忘れない。


甘さだけでは支えられない。


憧れだけでは隣に立てない。


強さだけを見ていたら、きっと見落とす。


だから見る。


横と後ろを。


そして、ロイス様のことも。


ステラは一歩、前へ出た。


白い廊下の先に、次の訓練室がある。


そこへ向かう足取りは、少し緊張していて、少しだけ軽かった。


英雄ではなく。


強いだけの人ではなく。


傷つきながら立っている一人の少女。


その隣に立つには、自分ももっと見なければならない。


怖さも。


震えも。


甘いものを食べた時の、ほんの少しの笑顔も。


見落とさない。


ステラは胸の中で、もう一度だけ繰り返した。


ロイス様が前を見るなら、私は横と後ろを見る。


それは、軽めの約束だった。


でも、軽いからこそ、手の中に残った。


重すぎる誓いは、きっと今のマーリンを苦しめる。


だからステラは、甘いものと同じくらいの温度で、その約束を持っていくことにした。


次の訓練へ。


次の距離へ。


まだ遠い呼び名の、その少し先へ。

ここまでお読みいただき有り難うございました。


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