甘いものの約束
ご覧いただきありがとうございます。
評価、ブックマークしていただきありがとうございます。
ステラ=イルクートは、少し騒がしい少女だった。
大声で騒ぐという意味ではない。
動きが多い。
表情が変わる。
目がよく輝く。
敬礼は正しい。
姿勢も正しい。
言葉遣いも、基本的には正しい。
イルクート伯爵家の令嬢。
その肩書きにふさわしい礼節は、きちんと身についている。
けれど、その正しさの端から、ぽろぽろと普通の少女らしさがこぼれる。
「ロイス様、本日はお時間をいただきありがとうございます!」
「顔合わせは、すでに終わっていますよ。イルクート候補生」
「あっ、そうでした。ですが、改めてお礼を申し上げたく」
「律儀なのね」
「母に、礼は何度言っても減らないと教わりました」
母。
その言葉が、何気なく部屋に落ちる。
軍の管理施設の一角。
訓練前の小休憩室。
白い壁と、簡素な卓。
温かい茶と、軍施設にしては珍しく甘い菓子が用意されている。
ステラが持ち込んだものだった。
「屋敷の料理人に分けてもらいました。あ、もちろん、許可は取りました」
「そこは疑っていないわ」
「よかったです。勝手に持ち出したと思われたら、母に叱られます」
「お母様は厳しい方なの?」
「厳しい時は厳しいです。でも、甘いもののことになると少し甘いです」
ステラは真面目に言う。
「特に訓練の後は、甘いものがないと駄目です。少なくとも私は駄目です」
「断言するのね」
「はい。甘いものは大切です」
あまりにも真剣なので、マーリンは少しだけ困る。
困る。
けれど、嫌ではない。
ステラは卓上の包みを丁寧に開いた。
小さな焼き菓子が並ぶ。
丸いもの。
細長いもの。
砂糖がかかったもの。
端が少し欠けているもの。
貴族家の菓子にしては、少しだけ不揃いだった。
それが、妙に可愛らしい。
「形が崩れていて申し訳ありません。急いだわけではないのですが、少し急ぎました」
「急いだのね」
「少しだけです」
「少しだけ」
「はい。廊下では走っていません。階段で少しだけ」
「イルクート候補生」
「申し訳ありません」
ステラはきちんと頭を下げる。
その後、すぐに顔を上げた。
「でも、よいものを持ってこられました」
勝利したような顔だった。
マーリンはとうとう、ほんの少し笑ってしまう。
本当に少しだけ。
ステラは目を輝かせる。
「今、笑われましたよね」
「確認しないでください」
「はい!」
元気な返事。
クリスチーナが一歩後ろで、静かに目を伏せている。
笑いをこらえているのかもしれない。
マーリンは焼き菓子を一つ手に取った。
軽い。
甘い香りがする。
とても普通のものだった。
戦争も、リュールも、同期率も関係ない。
ただの焼き菓子。
「イルクート候補生は、甘いものが好きなのね」
「はい。とても」
ステラは迷いなく答える。
「母がよく用意してくれたんです。疲れて帰ると、必ず何か置いてあって」
母が用意した菓子。
疲れて帰る場所。
必ず置いてある何か。
マーリンは、焼き菓子を持つ指を少し止める。
眩しい。
その言葉が胸に浮かぶ。
ステラは気づかず続ける。
「父は甘いものが得意ではないと言うのですが、結局食べます」
「食べるのね」
「はい。しかも端の焼き色が濃いものを選びます。母には、また渋い顔をして食べるならやめなさいと言われています」
「仲がよろしいのね」
「はい。よいと思います」
これも迷いがない。
ステラにとって、それは疑う必要のないことなのだろう。
家族は優しい。
帰る場所は温かい。
母は菓子を用意し、父は渋い顔で食べる。
そして、その話を何の警戒もなく口にする。
マーリンには、それがひどく眩しい。
ロイス家の食堂を思い出す。
広い部屋。
長すぎる卓。
磨かれた銀器。
決められた席。
けれど、向かい側には誰もいない。
ロイス公爵は、もう食卓へ来る身体ではなかった。
屋敷の奥、医療設備に囲まれた部屋で、人工心肺装置の低い音とともに生きている。
食事の席に届くのは、父の気配ではなく、短い通達だけだった。
役割を果たせ。
私情を挟むな。
器であれ。
温かな皿が並んでも、食卓は冷たい。
菓子が出ても、甘さを語る相手はいない。
マーリンはいつも、広すぎる食堂で、一人で食べていた。
菓子の甘さを語る場所ではなかった。
マーリンは焼き菓子を口に運ぶ。
さくり、と小さな音がした。
甘い。
少しだけ、喉が詰まりそうになる。
「お口に合いませんでしたか」
ステラが不安そうに身を乗り出す。
「いいえ」
マーリンは首を振る。
「おいしいわ」
ステラの顔がぱっと明るくなる。
「よかったです!」
その喜び方が、また眩しい。
人に菓子を食べてもらって、素直に喜ぶ。
そんなことが許されるのだ。
そんなふうに、誰かと向き合ってもよいのだ。
マーリンは小さく息を吐く。
「あなたのお母様は、気配りがお上手なのね」
「はい。とても」
「お父様は?」
「不器用です」
即答だった。
マーリンは目を瞬く。
ステラは真面目な顔で続ける。
「気を遣わなくていい場面で気を遣って、気を遣うべき場面で少し言葉が足りません。母によく叱られています」
「それは、少し見てみたいわ」
「兄も同じことを言います」
兄。
その言葉が出ても、ステラは名前を口にしない。
けれど、表情だけで分かる。
大切な人なのだ。
「兄は、父に似ているんです。本人たちは否定しますけど」
「似ていると言われるのは、嫌なのかしら」
「嫌というより、照れるのだと思います。二人とも認めませんけど」
ステラは少し楽しそうに笑う。
その顔が、マーリンにはやはり眩しい。
父。
母。
兄。
妹。
イルクート伯爵家。
貴族家である以上、そこにも役割はあるはずだった。
責務も、期待も、家の重さもある。
けれどステラの言葉の中では、家族は温かかった。
完全に軽いわけではない。
むしろ、重さを知っているからこそ、温かさを大切にしているように見えた。
「妹は、父に似ていると言われると少し怒ります」
ステラはふと思い出したように言う。
「怒るの?」
「はい。でも、甘いものをもらうと機嫌が直ります」
「それは分かりやすいわね」
「とても分かりやすいです。母には、あなたは顔に全部出ると言われています」
「イルクート候補生も、少し似ているのではなくて?」
ステラははっとした顔をする。
「私もでしょうか」
「ええ。少し」
「兄にも言われます」
「やはり」
マーリンがそう言うと、ステラは少しだけ頬を膨らませた。
本当に少しだけ。
すぐに、候補生らしく姿勢を正す。
遅い。
もう見えてしまっている。
マーリンはまた少しだけ笑った。
ステラの家族の話には、戦場ではない世界がある。
誰かが誰かに似ていると笑う。
甘いもので機嫌が直る。
不器用な父を母が叱る。
兄がそれを横で見ている。
そんな、どうしようもなく普通で、優しい世界。
マーリンには、それが眩しかった。
眩しくて、痛い。
痛いのに、目を逸らしたくない。
「ロイス様は」
ステラが少し迷いながら言う。
「ご家族と、甘いものを召し上がることはありますか」
クリスチーナの気配が、わずかに固まる。
マーリンは焼き菓子を置いた。
問いは無邪気だった。
悪意はない。
だからこそ、逃げにくい。
「公の席では、あります」
「公の席」
「茶会や晩餐会で。菓子はよく出るわ」
「そうなのですね」
ステラは少し首を傾げる。
その違和感に、マーリンは気づく。
ステラが聞いたのは、そういうことではなかったのだ。
家族と、甘いものを食べるか。
同じ卓で笑いながら。
誰かが用意し、誰かが選び、誰かが文句を言うように。
そういう意味だった。
マーリンには、その答えがない。
「ロイス様?」
ステラの声が少し小さくなる。
マーリンは微笑む。
「ロイス家では、あまりそういう時間はありません」
言えた。
きれいに。
傷ついていないように。
ステラは、はっとした顔をする。
「申し訳ありません。失礼なことを」
「いいえ。失礼ではないわ」
「ですが」
「あなたの家族の話は、眩しいわ」
ステラは黙る。
マーリンは少しだけ視線を落とす。
「眩しくて、少し羨ましい」
言ってしまった。
ロイス家の令嬢らしくない。
帝国の希望らしくない。
けれど、ステラは笑わなかった。
からかいもしなかった。
ただ、真剣な顔で頷く。
「では、また話します」
「え?」
「ロイス様が嫌でなければ。父の不器用な話も、母の菓子の話も、兄の照れ隠しも、妹のわがままも」
「妹さんは、わがままなの?」
「かわいいわがままです。たぶん」
「たぶん」
「私にはかわいいですが、母には叱られています」
ステラの声が、また少し明るくなる。
その明るさに、マーリンは救われる。
重い話を、重いまま終わらせない。
でも、なかったことにもしていない。
不思議な子だと思った。
「では、また聞かせて」
「はい!」
「ただし、訓練に支障のない範囲で」
「もちろんです!」
「甘いものも、無理に用意しなくてよいわ」
「いえ、それは必要です」
「必要なの?」
「はい。甘いものは必要です」
また真剣な顔。
マーリンは少し困り、そして少し笑う。
「では、必要なら」
「はい!」
その言葉が、少しだけ軽くなる。
必要なら。
戦場へ向かう時の重い言葉ではなく。
甘いものを食べるための、少し可笑しい言葉として。
ステラは菓子を食べながら、よく喋った。
訓練のこと。
士官学園の食堂のこと。
魔力制御訓練の後、甘いものを取りすぎて教官に呆れられたこと。
伯爵家の娘として振る舞わなければならない場では、甘いものを取りすぎないよう気をつけていること。
「でも、見つかります」
「誰に?」
「母に」
「なぜ?」
「目が泳ぐそうです」
「それは分かりやすいわね」
「はい。兄にも言われます」
兄の話は多い。
名前は出ない。
けれど、兄がステラにとって大きな存在であることは伝わってくる。
守りたい人。
帰れば叱ってくれる人。
余計な心配をして、照れ隠しに別の話をする人。
マーリンはそれを聞きながら、胸の奥に小さな痛みを覚える。
クロードの面影が過ぎる。
お兄様。
優しかった兄。
戦争を止めたいと言っていた兄。
開戦の前に姿を消した兄。
マーリンにロイス家を託した人。
兄という言葉は、いつも少し痛い。
ステラの兄の話は温かい。
だから余計に、痛い。
けれど、嫌ではなかった。
ステラの家族の話には、戦場ではない世界がある。
父。
母。
兄。
妹。
伯爵家の責務もある。
礼節もある。
外では正しく振る舞わなければならない場もある。
それでも、その中心に温かさがある。
マーリンは、それを守りたいと思った。
ミハイルの代わりではない。
代わりにはならない。
けれど、戦争に壊されてほしくないものが、また一つ増えてしまった。
それは怖いことだった。
守りたいものが増えるほど、失うものも増える。
「ロイス様」
「何かしら」
「甘すぎますか」
「いいえ。ちょうどよいわ」
「よかったです。私は甘すぎても平気なのですが、兄にそれは味覚が子どもだと言われます」
「手厳しいのね」
「はい。でも、兄も疲れている時は甘いものを食べます。絶対に認めませんが」
「お父様に似ているのね」
ステラは目を輝かせる。
「そうです! 似ています。本人たちは否定しますけど」
その顔が、あまりにも嬉しそうで。
マーリンは胸がきゅっと痛くなる。
誰かに似ていると笑える家族。
同じ食卓の記憶を分け合える家族。
眩しい。
本当に、眩しい。
「イルクート候補生」
「はい」
「あなたは、ご家族が好きなのね」
ステラは少し照れたように、でもはっきり頷く。
「はい。好きです」
まっすぐな答え。
迷いがない。
マーリンは、少しだけ目を伏せる。
好きです。
そんなふうに言える場所がある。
それがステラを支えているのだろう。
帰りたい場所。
守りたい人たち。
マーリンの守りたい人は、もう返らない。
その差が、どうしようもなく重い。
けれど、だからこそ思う。
ステラのその場所は、壊れてほしくない。
「イルクート候補生」
「はい」
「あなたのご家族の話、また聞かせて」
ステラは一瞬、目を丸くする。
それから、ぱっと笑った。
「はい! いくらでも!」
「いくらでもは、少し多いかもしれないわ」
「あ、では適量で」
「適量を知っているの?」
「努力します」
「よろしい」
軽いやり取りだった。
軽いのに、胸に残る。
ステラはまだマーリンを英雄として見ている。
ロイス様。
本物。
リュールの操縦者。
けれど、甘いものを前にした時だけ、少し距離が縮まる。
英雄と候補生ではなく。
甘いものを分け合う、二人の少女として。
休憩の終わりが近づく。
次の訓練説明が入るため、ステラは席を立った。
「ロイス様、本日はありがとうございました」
「こちらこそ」
「次は母の焼き菓子を持ってきます」
「無理のない範囲で」
「はい。母は張り切ると思いますが、止めます。たぶん」
「たぶん」
「兄にも止めてもらいます」
「頼もしいわね」
ステラは嬉しそうに敬礼する。
きちんとした候補生の顔。
けれど、その頬には少しだけ焼き菓子の粉がついていた。
マーリンは一瞬、迷う。
言うべきか。
黙っておくべきか。
「イルクート候補生」
「はい」
「頬に」
ステラは固まる。
それから慌てて頬を拭く。
「ど、どちらでしょうか」
「反対です」
さらに慌てる。
クリスチーナが静かに布を差し出す。
「イルクート候補生、こちらを」
「あ、ありがとうございます、アリソン様!」
ステラは深々と頭を下げる。
その動きも少し大きい。
マーリンはまた少し笑ってしまう。
今度はステラも確認しなかった。
ただ、嬉しそうに笑った。
それがよかった。
確認されると困る。
でも、気づいてくれるのは少し嬉しい。
そんな小さな感情が、マーリンの中にまだ残っている。
そのことに、マーリン自身がいちばん驚いていた。
ステラが退出したあと、部屋は静かになった。
卓上には焼き菓子の欠片が少し残っている。
クリスチーナが片づけようとする。
マーリンは、その手を一瞬止めた。
「少し、残しておいて」
「お嬢様?」
「あとで、もう一つ食べるわ」
クリスチーナの目が、ほんの少しだけ丸くなる。
「承知いたしました」
マーリンは窓の外を見る。
軍用艇が空を横切っている。
戦争は止まっていない。
リュールも眠っていない。
ミハイルの声も返らない。
それでも、甘いものの約束ができた。
母の焼き菓子。
父の不器用な優しさ。
兄の照れ隠し。
妹のわがまま。
次に聞く話がある。
それはとても小さい。
けれど、小さいからこそ、壊れやすくて、守りたいと思った。
マーリンは胸元に手を当てる。
ミーシャ。
胸の中で呼ぶ。
返事はない。
でも、呼んだあとに残る痛みの隣に、ほんの少しだけ別の温度があった。
ステラの笑顔。
甘い焼き菓子。
眩しい家族の話。
それらは、ミハイルの代わりにはならない。
代わりには、絶対にならない。
けれど、真っ暗な場所に、小さな灯りを置くことはできるのかもしれなかった。
訓練が近づくにつれ、ステラはマーリンの近くにいる時間が増えていく。
最初は、憧れの目だった。
ロイス様。
リュールの操縦者。
本物の英雄。
そう呼ぶ目。
けれど、ステラは少しずつ気づき始める。
マーリンがティーカップを持つ時、指先がわずかに震えること。
大丈夫と言いかけて、飲み込むこと。
リュールの名が出た瞬間、呼吸が少し浅くなること。
甘いものを食べる時だけ、ほんの少しだけ少女の顔になること。
英雄として見上げていた人は、英雄の形をした少女だった。
ステラはまだ、そのことを言葉にはしない。
けれど、次の訓練の日。
マーリンが手袋をはめる横顔を見て、ステラは初めて思う。
この人は、強いだけではないのかもしれない。
守りたいと思ったのは、ステラの方だった。
マーリンは、その視線にまだ気づかない。
ただ、手袋の指先を整える。
整える必要はない。
もう整っている。
それでも、少しだけ落ち着かなかった。
卓の上には、小さな包みがある。
ステラが置いていった焼き菓子。
訓練の後に、と言われたもの。
マーリンはそれを見て、小さく息を吐く。
怖いものは、消えていない。
リュールも、戦争も、ロイス家の命令も。
何ひとつ消えていない。
それでも、終わったあとに食べるものがある。
次に聞く話がある。
それは戦場で役に立たない。
リュールを動かす力にもならない。
けれど、マーリンがマーリンのまま戻るための、小さな目印にはなるのかもしれなかった。
ここまでお読みいただき有り難うございました。
面白いと思っていただけましたら、ご評価、ブックマークをお願いいたします。
感想もお待ちしています。
励みになります!




