バディ候補
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バディ候補の顔合わせは、軍の管理施設で行われることになった。
学園ではない。
茶会でもない。
社交場でもない。
白い壁と、滑らかな床と、無駄のない照明。
人の感情が入り込む余地を、最初から少なくしてある場所だった。
マーリンは控え室で、手袋の指先を整えていた。
整える必要はない。
もう整っている。
それでも、何かをしていないと落ち着かなかった。
手袋の下では、指先がまだ時折疼く。
白い糸の感覚。
リュールの奥へ伸びて、戻ってきたはずなのに、完全には戻りきっていないような細い感覚。
「お嬢様」
クリスチーナがそっと声をかける。
「きつくはございませんか」
「ええ。大丈夫……ではないけれど、きつくはないわ」
言い直せた。
それだけで、クリスチーナの目元が少しだけ緩む。
マーリンは小さく息を吐いた。
ミハイルなら、きっとそこで満足そうに頷いた。
大丈夫を言いかけて止めただけで、少し勝ったような顔をしたかもしれない。
もう、その顔は見られない。
その代わりに、扉の向こうには次の役割が待っている。
リュールの操縦者。
帝国の防衛戦力。
そして、誰かのバディ。
バディ。
生存を預ける相手。
重い言葉だった。
自分の命を誰かに預ける。
誰かの命を、自分が預かる。
どちらも怖い。
マーリンは、まだ誰かの隣に立てる気がしなかった。
隣、という言葉が苦しい。
ミハイルがいた場所とは違う。
まったく違う。
それは分かっている。
恋人の隣と、戦場の隣は違う。
手を繋いで歩くことと、背中を預けることは違う。
それでも、胸の奥が拒む。
隣という言葉には、まだ少し血が滲む。
「お嬢様」
「ええ」
「無理をなさらないでくださいませ」
「それは、難しいお願いね」
「存じております」
「なら、言わなくても」
「言わなければ、お嬢様はお忘れになります」
マーリンは少しだけ笑う。
軽い。
けれど、笑った奥がすぐ痛む。
「クリスは、時々意地悪ね」
「必要なら」
その言葉を返されて、マーリンは目を丸くした。
そして、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。
必要なら。
あれほど嫌だった言葉が、クリスチーナの口から出ると少しだけ違って聞こえる。
命令ではなく、支えに近い。
同じ言葉でも、誰が置くかで重さが変わる。
それを知ってしまうと、正しい言葉だけで人が救われない理由も少し分かる気がした。
「では、必要なのでしょうね」
マーリンは手袋から手を離す。
「行きましょう」
クリスチーナは何も言わず、扉を開けた。
顔合わせの場には、数名の候補生がいた。
帝国宇宙軍士官学園から選ばれた者たち。
いずれも人形操縦成績上位。
魔力制御、空間認識、判断速度、礼節。
書類の上では、全員が優秀だった。
作戦会議室の中央には長い机があり、正面の壁には戦術投影用の表示板が眠っている。椅子は候補生の人数より少し多い。余分なものはない。花も、菓子も、話題をやわらげるための装飾もない。
ただ、人を選ぶための場所だった。
マーリンが入ると、候補生たちは一斉に姿勢を正した。
揃った敬礼。
揃った視線。
その正しさが、少しだけ息苦しい。
誰も彼も、マーリンを見る。
ロイス家の令嬢を見る目。
リュールを動かした操縦者を見る目。
境界宙域で補給艦隊を守った人を見る目。
憧れ。
緊張。
警戒。
期待。
どれも違う。
マーリンを見ている目ではない。
そのことに、もう慣れたはずだった。
慣れたはずなのに、少し息が詰まる。
ブライアンは壁際に立っていた。
静かな表情。
整った制服。
必要な距離。
彼はマーリンへ一礼する。
「ロイス嬢」
「ブライアン様」
その声のやり取りで、場の空気がまた整う。
メッサーシュミットは資料端末を手に、候補生たちの前へ進んだ。
「本日は、リュール随伴候補の顔合わせと一次適性確認を行う」
軍人の声はよく通る。
感情を含まず、必要な情報だけを運ぶ声。
「リュールの戦闘運用には、随伴機との連携が必要となる。単機性能は高いが、それゆえに操縦者への負荷も大きい。候補者には、ロイス嬢の支援、索敵、死角管理、進路補正を担ってもらう」
前衛と支援。
二機一組。
人形戦の基本。
マーリンは静かに聞く。
分かっている。
分かっているから怖い。
彼女が前に出れば、誰かが後ろを見る。
彼女が敵を止めれば、誰かが逃げ道を示す。
彼女がリュールを走らせれば、誰かがその速度についてこなければならない。
その誰かが、死ぬかもしれない。
自分のせいで。
マーリンの手袋の中で、指先が冷える。
「選定は、志願意思、模擬戦術判断、支援適性、そしてロイス嬢との基礎相性を総合して行う」
メッサーシュミットは候補生たちを見る。
「では、立候補者」
候補生たちの空気が少し動く。
義務ではない。
少なくとも、形式上は。
リュールの随伴は名誉でもある。
危険でもある。
ロイス家との距離を間違えれば、政治的にも厄介だ。
ほんの一拍。
そのわずかな間を置いて、一人の少女が手を挙げた。
迷いがなかった。
「イルクート一等候補生」
「はい」
少女が一歩前に出る。
背筋はまっすぐ。
敬礼は正確。
けれど、瞳だけが少し明るすぎる。
大きな空色の瞳。
肩口で切りそろえたプラチナブロンド。
整った顔立ち。
軍の場にいるには、あまりにも光を含んだ少女だった。
華やかというより、まっすぐ光を受けてしまう硝子みたいだった。
彼女はまっすぐマーリンを見た。
そして、ほんの少しだけ目を輝かせる。
「わぁ、本物だ……」
場の空気が止まった。
とても小さな声だった。
けれど、静かな部屋では十分に聞こえた。
少女自身も、すぐに気づいたらしい。
顔が一気に赤くなる。
「あっ、失礼いたしました!」
勢いよく敬礼する。
「帝国宇宙軍士官学園、一等候補生、ステラ=イルクートです! ロイス様のバディ候補として、志願いたします!」
声が大きい。
まっすぐすぎる。
少しだけ、場の空気が丸くなる。
メッサーシュミットは眉を動かしただけだった。
ブライアンは静かに彼女を見る。
クリスチーナは、マーリンの横顔を見ている。
マーリンは、すぐに返事ができなかった。
本物。
その言葉が、胸に刺さったから。
本物の何だろう。
希望の花。
リュールの操縦者。
補給艦隊を守った英雄。
帝国の未来。
そのどれも、目の前の少女には輝いて見えているのだろう。
悪意はない。
むしろ、あまりにも純粋だった。
だから痛い。
「イルクート候補生」
マーリンは静かに声を出す。
「はい!」
「志願の理由を伺ってもよろしいかしら」
ステラの背筋が、さらに伸びた。
「はい。ロイス様の再リンク試験記録を拝見しました」
再リンク試験。
マーリンの中で、白い糸がリュールの奥へ沈んでいく感覚が戻る。
胸部装甲の内側。
魔力変換炉。
関節部の回路。
ソードへ伸びかけた白い指。
「高負荷下で同期率が上がり続けていたこと。武装接続への反応が出た時、機体を止められたこと。試験継続中も、リュールを暴走させなかったこと。私、すごいと思いました」
すごい。
簡単な言葉だった。
けれど、ステラは本気で言っている。
「人形戦では、速く動けることや強く斬れることだけが重要なのではないと学びました。強い機体ほど、止める判断が必要です。力があるのに、使い切らないこと。怖くても、機体に飲まれないこと。それができる方の隣に立ちたいです」
隣。
また、その言葉。
マーリンは少しだけ息を止める。
ステラは続ける。
「それに、私は支援機動と死角管理が得意です。ロイス様が前を見るなら、私は横と後ろを見ます。リュールが速すぎるなら、その速さで見落とすものを拾います」
自信がある。
けれど、嫌な自信ではなかった。
自分を大きく見せるためではなく、役に立つための自信。
マーリンは、その眩しさに目を細めたくなる。
「危険です」
ぽつりと言う。
ステラは瞬きをした。
マーリンは続ける。
「リュールは、私にもまだ分からない機体です。応えてくれる。けれど、深く繋がりすぎる。随伴する方には、大きな負荷がかかります」
「はい」
「私が判断を誤れば、あなたを危険に巻き込むかもしれません」
「はい」
「それでも?」
ステラは、まっすぐ答えた。
「それでも、志願します」
迷いがない。
マーリンには、その迷いのなさが怖かった。
「どうして」
声が少しだけ低くなる。
「どうして、そこまで」
ステラは一瞬だけ考える。
それから、少しだけ表情をやわらげた。
「守りたいからです」
簡単な言葉。
でも、軽くはない。
「家族も、帝国の人たちも、戦場に出る仲間も。怖くないわけではありません。でも、怖いから何もしないでいたら、もっと怖いことになると思います」
マーリンは黙る。
怖いから、何もしないでいたら、もっと怖いことになる。
ミハイルの死のあと、マーリンの中でずっと疼いていたものに近い言葉だった。
守るため。
必要なら。
役に立つ力。
そのすべてが、ステラのまっすぐな声の中では、まだ汚れていない。
「ロイス様」
ステラは、少しだけ緊張した顔で言う。
「私は、ロイス様のようにはなれません。でも、ロイス様の後ろを見ることはできます。ロイス様が前を見るなら、私は横と後ろを見ます」
その言葉に、部屋が静かになる。
バディとしては、正しい。
とても正しい。
けれどマーリンの胸には、少し違う痛みが走る。
ミハイルも、マーリンの大丈夫を信じずに見てくれた。
前だけではなく、指先や息の乱れまで。
ステラは、まだそこまでは知らない。
彼女が見ているのは、ロイス様だ。
英雄だ。
それでも。
横と後ろを見る、と言った。
その言葉だけは、少し温かかった。
マーリンは一度だけ目を伏せた。
「分かりました。イルクート候補生の志願、受け止めます」
「ありがとうございます!」
元気がよすぎる。
ステラはすぐにまた顔を赤くし、敬礼の角度を直した。
少し忙しい少女だった。
選定試験は、戦術シミュレーション形式で行われた。
実機には乗らない。
リュールも起動しない。
候補生たちの判断力、支援適性、索敵範囲、そして前衛機との距離感を見るための机上試験だった。
投影された戦場図。
補給艦を中央に置いた防衛戦。
敵機二機一組が複数方向から接近する想定。
リュール役は、演算上の高速前衛として置かれている。
白い表示で示された前衛機は、実際のリュールよりもずっと従順だった。
命令通りに動き、数値通りに戻り、疲れも怖さも持たない。
それを見て、マーリンは少しだけ苦しくなる。
本物のリュールは、もっと深く応える。
もっと怖い。
もっと温かい。
そして、その中にいるのは人間だ。
マーリンは観覧席側で、ブライアンとメッサーシュミットの近くに座る。
クリスチーナは一歩後ろ。
候補生たちは順に操作席へ座る。
優秀だった。
どの候補生も、成績上位者らしい判断を見せる。
索敵範囲を広げ、味方の位置を確認し、補給艦の退避経路を守る。
けれど、どこかでリュール役に目を奪われる。
速すぎる前衛。
白い表示。
戦場の中心。
そこへ意識が寄る。
すると、別の死角が空く。
リュールを見ることは重要だ。
でも、見すぎれば周りが消える。
ステラの番が来た。
最初の「本物だ」は何だったのかと思うほど、操作席に着くと表情が変わる。
明るさは残っている。
けれど、視線が鋭い。
彼女はまず、リュール役を見なかった。
補給艦を見る。
退避経路を見る。
敵の本命と囮を見る。
それから最後に、リュール役の位置を確認する。
順番が違った。
マーリンは、思わず息を止める。
「右、見過ぎです。左上、抜けます」
「補給艦に近づけないでください。追うより押し返して」
「今、前へ。大丈夫です、後ろは私が見ています」
声は落ち着いていた。
少し高めで、明るい。
でも、戦場図の中ではよく通る。
マーリンは思わず見入る。
ステラは強い。
派手ではない。
けれど、崩れない。
敵を倒すためではなく、味方を落とさないために動く。
それが、今のマーリンには少しだけ救いに見えた。
ステラが支援する前衛役は、何度も危ない進路を避ける。
補給艦への接近も防ぐ。
敵機を撃破する場面より、退避させる場面が多い。
戦果としては地味かもしれない。
けれど、防衛としては強い。
メッサーシュミットが小さく頷く。
「イルクート一等候補生は、やはり優秀です」
ブライアンも言う。
「ロイス嬢の意志とも合う」
意志。
守るために戦う。
その意志。
マーリンはモニターを見つめる。
ステラの判断は、マーリンが望む戦い方に近かった。
近いからこそ、怖い。
この少女なら、マーリンの隣に立てるかもしれない。
立ててしまうかもしれない。
それは、彼女を戦場へ連れていくということだった。
模擬戦の最後、敵機の一つが補給艦の下部へ潜り込む動きを見せた。
リュール役は前方の敵を抑えている。
多くの候補生なら、前衛を戻す。
けれどステラは戻さなかった。
「前衛はそのまま。戻らないでください」
声は落ち着いている。
「補給艦、下方へ三度傾けて。遮蔽物にします。支援機、私が入ります」
自分の機体を危険な位置へ入れる判断。
けれど、無謀ではない。
補給艦の影を使い、敵の進路を狭め、味方の射線を開く。
リュール役が前を抑えている間に、後ろを閉じる。
横と後ろを見る。
さっき彼女が言った言葉の通りだった。
投影図の敵機が停止判定を受ける。
防衛成功。
作戦会議室の空気が少し動いた。
メッサーシュミットは資料へ視線を落とす。
ブライアンは、静かに頷いた。
マーリンは、ステラを見ていた。
操作席から立ち上がった彼女は、緊張で少し頬を赤くしている。
それでも、笑わない。
試験中の顔のまま、自分の判断を頭の中で確認しているようだった。
その横顔は、初めて見た時のきらきらしたものとは違っていた。
怖いけれど、逃げない。
そんな言葉が似合う顔だった。
試験後、ステラは正式な候補として選ばれた。
メッサーシュミットが告げる。
「リュール随伴候補として、イルクート一等候補生を第一候補に置く」
ステラは敬礼する。
「ありがとうございます!」
嬉しそうだった。
本当に嬉しそうだった。
その表情を見て、マーリンの胸が痛む。
選ばれたことを喜ぶ少女。
危険な役割に近づいたのに、誇らしそうに笑う少女。
その眩しさは、マーリンが失ったものとは別の形で胸を刺す。
「イルクート候補生」
マーリンは声をかける。
ステラが勢いよく振り向く。
「はい、ロイス様!」
「少し、よろしいかしら」
「はい!」
元気がよすぎる。
マーリンは少しだけ瞬きをする。
「……そんなに緊張しなくても」
「しています!」
「正直ね」
「はい!」
クリスチーナが少しだけ目を伏せる。
笑いをこらえたのかもしれない。
マーリンも、ほんの少しだけ口元を緩める。
本当に少しだけ。
ステラは、その変化に気づいて目を輝かせる。
「ロイス様が笑った……」
「イルクート候補生」
「あっ、失礼いたしました」
また敬礼。
やはり忙しい少女だった。
マーリンは、その忙しさに困る。
困るけれど、嫌ではなかった。
「あなたは、私を買いかぶっています」
「そうでしょうか」
「そうです」
「ですが、ロイス様はすごい方です」
まっすぐ返ってくる。
マーリンは視線を落とす。
「私は、すごくありません」
「でも、リュールを止められました」
「止めようとしただけです」
「その『だけ』が、すごいのだと思います」
ステラの言葉は、また痛い。
けれど不思議と、少し温かい。
ブライアンの「役に立つ」とは違う。
メッサーシュミットの「有効」とも違う。
ステラは戦果を見ている。
けれど、同時に守ろうとしたことも見ている。
まだ、ロイス様として。
英雄として。
それでも、少しだけ違う。
「イルクート候補生」
「はい」
「私は、戦争が嫌いです」
ステラは、目を丸くした。
マーリンは続ける。
「人形に乗るのも、怖い。リュールは私に応えてくれますが、それも怖いのです」
言ってから、少し息が止まる。
こんなことを、候補生に言うべきではなかったかもしれない。
バディ候補を不安にさせる。
ロイス家の令嬢らしくない。
帝国の希望らしくない。
でも、言ってしまった。
ステラはしばらく黙る。
そして、真剣な顔で頷いた。
「はい」
それだけ。
マーリンは少し驚く。
「怖い人の隣に立つのは、不安ではありませんか」
「不安です」
また正直だった。
「ですが、怖いと言える方の隣の方が、私は安心できます」
マーリンは言葉を失う。
ステラは少し慌てる。
「あ、もちろん、ロイス様が弱いという意味ではなくてですね」
「分かっています」
「本当ですか」
「ええ」
ステラはほっと息を吐いた。
その様子が、少しだけ普通の少女に見えた。
主席生徒。
一等候補生。
バディ候補。
その肩書きの下に、緊張して、憧れて、焦って、正直に喋りすぎる少女がいる。
マーリンには、それが眩しかった。
眩しくて、怖かった。
この少女も戦場に出る。
マーリンの隣で。
そしていつか、失われるかもしれない。
そんな考えがよぎり、マーリンは手袋の指を握る。
「イルクート候補生」
「はい」
「私の隣は、きっと楽ではありません」
「承知しています」
「本当に?」
「たぶん、これからもっと承知します」
マーリンは一瞬、返事に困った。
それから、小さく息を漏らす。
少し笑った。
今度は、ステラがぱっと顔を明るくする。
「今のは笑いましたよね」
「確認しないでください」
「はい、失礼しました」
元気に謝る。
マーリンは困る。
困るけれど、ほんの少しだけ、部屋の空気が軽くなった。
軽くなった空気の奥で、ミハイルの声が遠く揺れる。
マーリン。
その声は返らない。
けれど、今の小さな笑いだけは、誰かに怒られずに済む気がした。
正式な候補として登録された後、ステラは改めてマーリンの前に立った。
今度は少しだけ落ち着いている。
「ロイス様」
「はい」
「未熟者ですが、全力で務めます」
「私も未熟です」
「ロイス様が未熟なら、私は卵です」
「卵」
「はい。まだ割れてもいません」
マーリンは思わず目を瞬く。
「割れてはいけないのでは?」
「それもそうですね」
ステラは真面目な顔で頷く。
やはり忙しい。
マーリンは、少しだけ肩の力を抜く。
「イルクート候補生」
「はい」
「互いに、無理は申告しましょう」
「はい」
「怖い時も」
「はい」
「判断に迷った時も」
「はい」
「それから……」
マーリンは少しだけ言葉を探す。
生きて帰りましょう。
そう言いかけて、止める。
未来を明言することが怖い。
戻る、必ず、そんな言葉はもう使えない。
だから別の言葉にする。
「閉じない話を、残しましょう」
ステラは少し首を傾げる。
意味は分からなかっただろう。
けれど、彼女は真剣に頷いた。
「はい。残します」
分からないまま、受け取ってくれる。
その素直さが、胸に痛いほど眩しい。
マーリンは目を伏せる。
また誰かを隣に置く。
また誰かを失うかもしれない。
それでも、戦場は待ってくれない。
リュールにはバディが必要で、マーリンには後ろを見る目が必要だった。
必要なら。
その言葉は嫌いだった。
けれど、今はその必要の中に、ステラという少女が立っている。
英雄を見る目で。
まだ、マーリンを本当には知らないまま。
顔合わせが終わり、マーリンが退出しようとした時だった。
ステラが少し迷った顔で声をかける。
「ロイス様」
「何かしら、イルクート候補生」
「その……変なことを伺ってもよろしいでしょうか」
「内容によります」
「甘いものは、お好きですか」
マーリンは瞬きをする。
戦術でもない。
リュールでもない。
魔力制御でもない。
甘いもの。
あまりにも普通の問いだった。
ステラは少し頬を赤くして、早口になる。
「いえ、任務後に甘いものを食べると元気が出ると、母がよく言っていて。兄も、怖いことの後は甘いものだと言いますし。父は甘すぎるものには渋い顔をしますけど、結局食べます」
父。
母。
兄。
優しい家族の気配が、何気ない言葉の中にある。
マーリンには、それがひどく眩しく見えた。
「……嫌いではありません」
そう答えると、ステラの顔がぱっと明るくなる。
「では、いつかご一緒してください」
いつか。
未来を軽く差し出す声。
マーリンは少しだけ迷い、それから頷く。
「ええ。いつか」
その約束は、とても小さい。
戦争も、リュールも、撃墜数も関係ない。
甘いものを食べるだけの約束。
それが、なぜか胸の奥に残った。
軍の管理施設を出る頃、外の空は薄く曇っていた。
赤い警戒灯が遠くに見える。
戦争は近い。
リュールは白い格納区画で次の試験を待っている。
ステラ=イルクートは、その隣に立つ候補になった。
マーリンは車へ乗る前、作戦会議室の方を振り返らない。
振り返れば、あの大きな空色の瞳を思い出す。
本物だ、と言った声。
横と後ろを見ます、と言った声。
甘いものはお好きですか、と尋ねた声。
どれも、まだ新しい。
新しすぎて、胸に置く場所が決まらない。
「お嬢様」
クリスチーナがそばに立つ。
「ええ」
「少し、お疲れです」
「そうね」
否定しなかった。
クリスチーナの目元が、また少しだけ緩む。
マーリンは車へ乗り込む。
窓の外で、軍の管理施設がゆっくり離れていく。
白い壁。
滑らかな床。
無駄のない照明。
その中で、少しだけ眩しい少女に出会った。
まだ、希望の花を見る目で。
まだ、ロイス様と呼ぶ声で。
けれど、その声は戦場の話だけでは終わらなかった。
甘いもの。
閉じない話。
そんな小さな言葉が、マーリンの胸の中で静かに揺れている。
ミーシャ。
胸の奥で呼ぶ。
返事はない。
それでも、今日は別の声が残った。
ロイス様。
明るくて、まっすぐで、少し忙しい声。
それが救いかどうかは、まだ分からない。
けれど、次にリュールへ向かう時、マーリンの横と後ろを見る少女がいる。
その事実は、怖くて。
ほんの少しだけ、温かかった。
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