役に立つ力
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リュールから戻ってから、マーリンの指先には白い糸の感覚が残っていた。
手袋をしていても消えない。
ティーカップに触れても、教本の頁をめくっても、髪飾りの位置を直されても、指の奥で細い光が眠っているような気がした。
眠っているだけ。
そう思いたかった。
けれど、マーリンはもう知っている。
あの糸は、呼ばれれば伸びる。
呼ばれなくても、リュールへ向かおうとする。
学園の居室は静かだった。
窓の外には、帝都の午後の光がある。庭園の木々は整えられ、花壇は相変わらず美しい。軍港区画の白と灰色の壁も、拘束フレームも、格納区画の冷たい床も、ここにはない。
それなのに、マーリンの中からは消えなかった。
白い人形。
白い糸。
白い表示。
《同期率上昇中》
あの文字だけが、目の奥に残っている。
机の上には、機械仕掛けの小さな鳥が置かれていた。金属の羽を閉じて、硝子の目で何もない場所を見ている。
その隣に、軍から届いた封書がある。
薄い紙。
硬い封蝋。
中身は、評価試験の結果だった。
「お嬢様」
クリスチーナがティーカップを置く。
香りの強い茶だった。
落ち着くように。
目を覚ますように。
心がどこかへ行きすぎないように。
クリスチーナは、いつもそういうところが細かい。
マーリンは少しだけ笑った。
「ありがとう、クリス」
「熱いうちに、少しでも」
「ええ」
返事をしながら、マーリンは封書を見ている。
開ける前から、中身はだいたい想像がついた。
良好。
有用。
継続可能。
戦力化の検討。
そんな言葉が、きっと並んでいる。
怖い、という言葉はない。
嫌だ、という欄もない。
ミハイルの名も、ないだろう。
封蝋を切る。
紙を開く。
予想は、ほとんど外れなかった。
魔力波形、前回記録と高一致。
リュールとの同期率、想定基準を大幅に上回る。
四肢応答、良好。
スラスター低出力点火、安定。
武装接続への反射的指向反応あり。
精神負荷、高。
継続運用、条件付きで許容範囲内。
条件付き。
許容範囲内。
マーリンは、その二つの言葉をしばらく見つめた。
条件とは何だろう。
医療班を置くことか。
リンク遮断手順を増やすことか。
耐Gスーツを調整することか。
それとも、マーリンが倒れない程度に使うことか。
許容範囲とは、誰にとっての範囲なのだろう。
軍にとって。
学園にとって。
ロイス家にとって。
それとも、マーリンにとって。
紙は答えない。
紙はいつもそうだ。
答えないくせに、決めたことだけを綺麗に並べる。
「お嬢様」
クリスチーナの声が少し低くなる。
「無理にご覧にならなくても」
「見ない方が怖いわ」
マーリンは紙から目を離さない。
「知らないまま、誰かに決められる方が怖いの」
「それは……」
「分かっているわ。見ても、決めるのは私だけではないのでしょうけれど」
自分で言って、少しだけおかしかった。
おかしいのに、笑えない。
マーリンは資料の次の頁をめくる。
そこには、今後の予定案があった。
再リンク試験継続。
格納区画内機動確認。
限定空間での姿勢制御試験。
模擬標的への非接触反応測定。
補助随伴候補の選定。
候補生との顔合わせ。
段階的な連携訓練。
マーリンの指が、その行で止まった。
補助随伴候補。
候補生。
顔合わせ。
連携訓練。
知らない言葉ではない。
学園でも軍でも、連携は重要だと教えられる。単独で突出する者ほど、周囲の観測や通信、緊急時の補助が必要になる。それは理屈として正しい。
正しい。
けれど、胸の奥が少しざわついた。
リュールの中へ入るだけでも、まだ怖い。
そこへ、誰かが来る。
補助のため。
随伴のため。
見張るため。
守るため。
どれもあり得る。
どれも紙の上では綺麗に見える。
マーリンは頁を戻した。
数字の方が、まだ冷たいだけで済む気がした。
「本当に、役に立つのね」
ぽつりと、言葉が落ちた。
クリスチーナが息を止める。
「お嬢様」
「数字がそう言っているわ」
「数字が何を言っても、お嬢様はお嬢様でございます」
「ええ」
マーリンは頷く。
「でも、数字はそれを必要としないのね」
紙の上では、マーリンの名前は操縦者欄に入っているだけだった。
ロイス嬢。
適合者。
被験者。
予定操縦者。
どれも間違いではない。
けれど、ミハイルが呼んだ名前ではない。
マーリンはティーカップを持ち上げる。
水面は、ほんの少し揺れていた。
作戦会議室は、学園の中にあるのに軍の匂いがした。
重い机。
壁面の大型表示板。
簡易投影機。
椅子の間隔まで、無駄がない。
社交のための部屋ではない。
話し合うためというより、決めるための部屋だった。
マーリンが入ると、ブライアンはすでに資料を広げていた。
姿勢はいつも通り正しい。
彼の周りだけ、紙の角がきちんと揃っている。
「ロイス嬢」
「ブライアン様」
マーリンは礼をする。
クリスチーナは一歩後ろに控えた。
ブライアンは椅子を勧める。
「評価結果について、軍から補足説明があります」
「承知しております」
「その前に、私からも概要を」
マーリンは席につく。
机上には、軍の資料と学園の管理計画が並んでいた。
そこにあるのは、すべて正しい紙だった。
「リュールとの適合結果は、極めて高い」
ブライアンは淡々と言う。
「魔力波形の一致率、初期リンク速度、四肢応答、いずれも想定以上です。特に武装接続への反応は、運用上重要な要素になります」
武装接続。
ソードへ伸びかけた白い指が、すぐに浮かぶ。
マーリンは膝の上で手を握った。
「意図した反応ではありません」
「記録にはそうあります」
「なら、なぜ重要な要素に?」
「意図せずとも、戦闘動作へ移れることが確認されたためです」
正しい答えだった。
気持ちの悪いくらい、筋が通っている。
マーリンは視線を上げる。
「私が怖いと思ったことも、記録にありますか」
「精神負荷、高、と」
「便利な言葉ですね」
ブライアンは少しだけ黙った。
「そうですね」
認める。
また、逃げない。
「怖い、も、苦しい、も、ミーシャの声が返らないことも、精神負荷という欄に入るのですか」
クリスチーナが息を呑む。
ブライアンは目を伏せない。
「資料上は、そう扱われます」
「では、私の悲しみも運用可能なのですね」
部屋が静かになった。
マーリンの声は穏やかだった。
穏やかすぎて、自分でも少し怖かった。
ブライアンはすぐには答えない。
沈黙の後で、低く言う。
「不快な言い方になりますが、戦場は感情を完全には待ちません。管理可能な範囲に収められるなら、運用上の障害ではないと判断されます」
「とても正しいわ」
「はい」
「正しすぎて、吐き気がするほど」
クリスチーナが一歩動きかける。
マーリンは手を少し上げて止めた。
怒っているわけではない。
いや、怒っている。
でも、その怒りの先はブライアンだけではなかった。
資料にも。
軍にも。
帝国にも。
リュールへ応えてしまった自分にも。
「ロイス嬢」
ブライアンの声は、いつもより少し低い。
「私は、あなたを粗末に扱いたいわけではありません」
「知っています」
「ですが、君の力は役に立ちます」
また、その言葉。
役に立つ。
マーリンは、机上の資料を見る。
同期率。
応答速度。
出力安定性。
戦力化可能性。
どの数字も、綺麗に並んでいる。
「役に立つことは、良いことなのでしょうね」
「状況によります」
「ブライアン様らしいお答え」
「便利な答えしか残らない場面もあります」
「では、今がその場面?」
「そうです」
迷いがない。
その迷いのなさが、ブライアンの強さであり、冷たさでもあった。
マーリンは椅子の背に触れる。
作戦会議室の椅子は、社交室の椅子より硬い。
姿勢を崩すことを許さない形をしている。
「私は、守るために戦うつもりです」
「はい」
「ミハイル様が守ろうとしたものを、守りたい」
その名を公の声で呼ぶと、胸が痛む。
ミーシャではない。
ここでは、そう呼べない。
「けれど、それが戦果として数えられるのは嫌です」
ブライアンは資料の上に視線を落とす。
「戦場では、守った数も、落とした数も、結果として記録されます」
「人を守ることと、敵を落とすことは違います」
「違います」
「でも、同じ欄に入るのですね」
「多くの場合は」
正しい。
また、正しい。
マーリンは、小さく息を吐いた。
「ブライアン様」
「はい」
「正しいことは、私を助けてくれませんね」
ブライアンの目がわずかに揺れた。
「助けになることもあります」
「あるといいですね」
その返しは、少し意地が悪かった。
ミハイルなら、そこで笑ったかもしれない。
クリスチーナなら、後でそっと眉を下げるだろう。
ブライアンは笑わない。
ただ、受け止める。
ブライアンは卓上端末を操作した。
少しの間を置いて、作戦会議室の正面表示板に通信状態の表示が灯る。
声だけだった。
『ロイス嬢、聞こえますか』
メッサーシュミットの声。
軍の場所から届く声は、やはり少し遠い。
「聞こえております、メッサーシュミット様」
『評価結果は確認いただいたと思います。補足します。現時点で、リュールはロイス嬢以外への反応を示していません。通常手順での起動も不安定です』
「つまり、私がいなければ動かないのですね」
『現段階では、その判断になります』
現段階。
また逃げ道のような言葉。
けれど、実際には逃げ道ではない。
『軍としては、格納区画内試験を継続し、その後、限定空間での機動試験へ進めたいと考えています。あわせて、リュール運用時に補助と随伴を担う候補生の選定も進めます』
マーリンは、資料の中で見た行を思い出した。
補助随伴候補。
候補生との顔合わせ。
連携訓練。
紙の上では細い予定だったものが、声になると急に近くなる。
「補助と随伴、ですか」
『はい。リュールはロイス嬢への反応が突出していますが、実戦環境では観測、通信、負荷確認、緊急時の判断補助を担う者が必要です。まずは選定中の候補生と顔合わせを行い、その後、段階的に連携訓練へ移行します』
「……私に、バディがつくのですね」
『現時点では候補です。正式決定ではありません』
候補。
正式ではない。
それでも、次の扉はもう少し開いている。
マーリンは、少しだけ視線を落とした。
リュールの中へ入るだけでも、まだ怖い。
そこに、誰かが隣へ来る。
守るための配置なのか。
見張るための配置なのか。
それとも、また別の役割を増やすためなのか。
紙の上では、きっとそれも必要な手順になる。
「その方は、リュールに乗るのですか」
『同乗ではありません。随伴機、管制、または支援席からの補助を想定しています。候補生の適性により、詳細は調整されます』
支援。
補助。
随伴。
優しい言葉に聞こえる。
けれど、マーリンはすぐに受け取れなかった。
誰かがそばにいることは、ありがたいことかもしれない。
でも、リュールに乗るマーリンを見て、その人は何を見るのだろう。
希望の花。
ロイス家の令嬢。
リュールの操縦者。
戦力。
それとも、ただのマーリン。
最後のものを期待するには、まだ早すぎた。
「実戦ではないのですね」
『現時点では、実戦投入の要請ではありません』
現時点では。
マーリンは、その言葉の奥を聞く。
今はまだ。
けれど、戦況次第で変わる。
それくらいは、マーリンにも読めた。
「私は軍人ではありません」
『承知しています』
「学園の生徒です」
『承知しています』
「それでも、必要なのですね」
通信の向こうで、ほんのわずかな沈黙があった。
『必要です』
短い答えだった。
誠実で、残酷だった。
マーリンは目を伏せる。
「承知いたしました。予定を確認いたします」
クリスチーナの手が、かすかに動く。
止めたい。
その気配が、背後から伝わる。
でも、クリスチーナは声を出さない。
ここは作戦会議室だ。
軍の通信が入っている。
ブライアンがいる。
マーリンは、ロイス公爵令嬢として座っている。
止める場所ではない。
それが、クリスチーナの手を縫い止めている。
通信が切れる。
作戦会議室に静けさが戻る。
ブライアンは資料を閉じた。
「ロイス嬢。無理に返答を急がせるつもりはありません」
「でも、待てる時間は多くない」
「はい」
「正直ですね」
「嘘をついても、状況は変わりません」
マーリンは、少しだけ笑った。
笑いはすぐに消える。
「ブライアン様。私は、戦いたいとは言っていません」
「覚えています」
「守りたいと言いました」
「はい」
「その二つを、同じ意味にしないでください」
ブライアンは、静かに頷いた。
「覚えています」
「覚えているだけでは、足りないかもしれません」
「それでも、覚えます」
前にも似た言葉を交わした気がする。
同じ場所を回っているようで、少しずつ深いところへ沈んでいる。
ブライアンの正しさは、止まらない。
マーリンの怖さも、止まらない。
その間に、リュールがいる。
白い人形が、静かに待っている。
そして、その隣へ来るかもしれない誰かがいる。
まだ名前も知らない候補生。
紙の上の、細い予定。
けれど次の試験では、その予定が顔を持つのだろう。
マーリンは胸の奥で、返らない声を探した。
ミーシャ。
返事はない。
その沈黙の中に、新しい足音だけが近づいている気がした。
作戦会議室を出ると、廊下の空気は少し軽かった。
軽いはずなのに、マーリンの足は重い。
窓の外では、学園の庭園が見える。刈り込まれた木々、白い小道、訓練棟へ向かう生徒たち。
その中で、何人かがマーリンに気づいて道を空けた。
「ロイス様」
「ごきげんよう」
「試作機の試験、順調と伺いました」
噂は早い。
誰が流したわけでもないのだろう。
学園では、沈黙も噂になる。
マーリンは微笑んだ。
「皆様にご心配をおかけしない結果であれば、何よりですわ」
綺麗な声だった。
使い慣れた声。
ロイス公爵令嬢の声。
相手の生徒たちは少し安心したように頷く。
希望の花は、今日も立っている。
それで学園は落ち着く。
マーリンの中身がどうであれ。
「やはりロイス様は、帝国の希望でいらっしゃいますね」
希望。
その言葉は、少し前まで重かった。
今は、重いだけではない。
冷たい。
希望という名前で、どこへでも運ばれていく気がする。
マーリンは礼を返し、歩き出した。
クリスチーナが一歩後ろにいる。
「お嬢様」
「ええ」
「お部屋へ戻られますか」
「少し、庭を歩きたいわ」
「承知いたしました」
庭園へ出ると、空気が少しだけ変わる。
軍の紙も、作戦会議室の硬い椅子も、ここにはない。
けれど、胸の中には残っている。
マーリンは、以前ミハイルと話した木陰を避けた。
避けたつもりはない。
気づけば、別の道を選んでいた。
クリスチーナは何も言わない。
そういうところが、ありがたい。
そして、少しだけ苦しい。
歩いている途中で、マーリンは立ち止まった。
「クリス」
「はい」
「あなたは、止めたいのよね」
クリスチーナはすぐに答えない。
風が葉を揺らす。
遠くで、生徒たちの笑い声がした。
その声が、少し現実離れして聞こえる。
「はい」
ようやく、クリスチーナは答えた。
「止めたいです」
正直な声だった。
「お嬢様が怖いと仰る場所へ、行ってほしくありません。お嬢様が戦いたくないと仰るのなら、そのまま遠ざけたいです」
「うん」
「リュールがどれほどお嬢様に応えようと、軍がどれほど必要だと言おうと、私には……」
言葉が止まる。
侍女としての線。
守りたい人としての線。
その二つが、クリスチーナの喉を締めている。
マーリンは振り返る。
「言って、クリス」
クリスチーナの瞳が揺れた。
「行かないでくださいませ」
その言葉で、胸が痛くなる。
行かないで。
マーリンがミハイルに言った言葉。
届いたのに、止められなかった言葉。
今度は、自分が言われている。
「困るわね」
マーリンは小さく言った。
「言われると、困るわ」
「申し訳ございません」
「謝らないで。言わせたのは私だもの」
マーリンは、庭の白い花を見る。
咲いている。
何も知らない顔で。
花は、咲いているだけで意味を与えられる。
希望。
慰め。
祝福。
別れ。
花自身は、そんなことを選べない。
「私も、止まりたいのかもしれない」
マーリンは言う。
「リュールに乗りたくない。怖い。戦いたくない。役に立つなんて言われたくない」
「はい」
「でも、守りたいの」
「はい」
「ミーシャが守ろうとしたものを、あんなふうに壊した人たちを許したくない」
クリスチーナは目を伏せる。
「はい」
「その気持ちが、私を立たせるの。立たせてしまうの」
戦いたくない。
守りたい。
許せない。
その三つは、仲良く並んでくれない。
互いに引っ張り合い、マーリンの胸の中で絡まっている。
「それに、今度は誰かが隣に来るかもしれない」
「補助随伴候補の方、でございますね」
「ええ」
マーリンは小さく頷く。
「その人を、私はどう見ればいいのかしら。助けてくれる人? 見張る人? それとも、私が守らなければならない人?」
「まだ、お会いになっておりません」
「そうね」
会っていない。
名前も知らない。
顔も知らない。
それなのに、もう紙の上ではマーリンの戦いに組み込まれている。
「私だけでは足りない、ということでもあるのね」
「お嬢様」
「違うわね。私を守るためでもあるのでしょう。たぶん」
マーリンは自分で言って、少しだけ息を吐いた。
疑うことは簡単だ。
けれど、すべてを疑うのは苦しい。
補助と随伴が、本当にマーリンを守るためのものかもしれない。
リュールの中で深く繋がりすぎるマーリンを、誰かが外から呼び戻すためかもしれない。
それなら、必要だ。
必要。
また、その言葉。
「私は、何になっていくのかしら」
クリスチーナは答えない。
答えがない問いだった。
マーリンも、答えを求めてはいなかった。
ただ、言葉にしなければ、もっと早くどこかへ行ってしまいそうだった。
「お嬢様は、お嬢様です」
クリスチーナは、やがてそう言った。
いつもの答え。
優しい答え。
でも、今は少し足りない。
「そうね」
マーリンは頷く。
「あなたは、そう呼んでくれる」
お嬢様。
大切な声だ。
けれど、それはマーリンを守るための名前。
ミハイルが呼んだ名前とは違う。
違うけれど、今はそれにも縋るしかない。
「クリス」
「はい」
「もし私が、自分で自分を見失いそうになったら」
「はい」
「その時は、怒って」
クリスチーナが顔を上げる。
「怒る、でございますか」
「ええ。泣くより効きそうだから」
少し軽く言った。
軽く言わなければ、重すぎた。
クリスチーナは、ほんの少しだけ眉を下げる。
「努力いたします」
「そこは、はいと言ってほしかったわ」
「お嬢様に怒るのは、かなりの覚悟が必要でございます」
「そうなの?」
「はい」
その返答に、マーリンは少しだけ笑った。
笑ったあと、胸が痛んだ。
笑える。
まだ。
それが救いなのか、残酷なのか、もうよく分からない。
部屋へ戻ると、ロイス公爵家からの通信記録が届いていた。
映像ではない。
短い通達文。
ロイス家の印。
マーリンは、それを開く前から内容を察した。
予想通りだった。
軍の評価結果を確認した。
リュールとの適性はロイス家にとっても重要である。
帝国の情勢を鑑み、必要な協力を惜しまぬように。
ロイス家の名にふさわしい判断を期待する。
慰めはない。
体調を問う言葉もない。
ミハイルの名もない。
ただ、評価結果と、協力と、期待。
父の声が聞こえる気がした。
役割を果たせ。
器であれ。
マーリンは通達文を閉じた。
紙でも、通信でも、父の言葉はいつも同じ形をしている。
冷たくて、間違っていない。
間違っていないことが、一番息苦しい。
「お嬢様」
クリスチーナがそばに立つ。
「お休みを」
「そうね」
今度は、素直に頷いた。
休んだところで、何かが変わるわけではない。
けれど、クリスチーナの願いを無視したくなかった。
長椅子に腰を下ろす。
机の上には、評価結果の資料がある。
その隣には、機械仕掛けの小さな鳥。
マーリンは手を伸ばし、鳥の金属の羽に触れた。
冷たい。
けれど、軍の機材とは違う冷たさだった。
ミハイルが選んだもの。
机の上だけの小さな旅。
飛べない鳥。
役に立つかどうかで選ばれたものではない。
ただ、マーリンが少し笑えそうだから、そこにある。
そのことに気づいた瞬間、胸が痛くなった。
役に立たなくても、大切なものがある。
ミハイルは、それを知っていた。
ブライアンも、ロイス公爵も、たぶん知識としては知っている。
でも、世界はすぐに役に立つものを選ぶ。
戦争中なら、なおさら。
マーリンの魔力。
リュールへの適性。
高い同期率。
武装接続への反応。
それらは役に立つ。
だから呼ばれる。
だから測られる。
だから、次が来る。
そして今度は、誰かが隣へ来る。
名前も知らない候補生。
マーリンのために選ばれるのか。
リュールのために選ばれるのか。
帝国のために選ばれるのか。
まだ分からない。
マーリンは鳥から手を離す。
「クリス」
「はい」
「役に立つ力って、少し怖いわね」
「はい」
「役に立たないものの方が、私を助けてくれることもあるのに」
クリスチーナは答えなかった。
代わりに、そっとティーカップを置く。
温かい茶。
甘い香り。
今は何の役にも立たないかもしれない。
戦場では何も守れない。
リュールも動かせない。
敵を落とすこともない。
それでも、マーリンの指先を少しだけ温める。
「ありがとう」
マーリンはカップを両手で包む。
指先の震えは、まだ残っている。
白い糸の感覚も、まだ消えていない。
けれど、その上に温かさが乗る。
完全には消えない。
でも、上書きでもない。
ただ、一緒にある。
悲しみと怒り。
怖さと願い。
役に立つ力と、役には立たないのに大切なもの。
全部が、胸の中にある。
整理はつかない。
つかないまま、時間は進む。
窓の外では、帝都の空に軍用艇の灯りが流れていた。
戦争が近づいている。
リュールは、次の試験を待っている。
軍は、数字を並べている。
ブライアンは、正しい道を整えている。
クリスチーナは、止めたいままそばにいる。
そしてマーリンは、まだ戦いたくないまま、守りたいと願っている。
その願いが、いつか別の名前をつけられることを、彼女はまだ知らない。
撃墜女王。
そんな名前は、まだ遠い。
遠いはずだった。
けれど、評価結果の紙の上では、すでにその名前に似た影が、静かに形を取り始めていた。
マーリンはティーカップを持ったまま、目を伏せる。
「私は、役に立つ力になりたいわけではないの」
小さな声だった。
クリスチーナだけが聞いている。
「はい」
「ただ、守りたいだけ」
「はい」
「それだけのはずなのに」
言葉はそこで途切れた。
外の空を、赤い警戒灯が横切る。
カップの中の茶が、ほんの少し揺れた。
マーリンはその揺れを見つめる。
役に立つ力。
そう呼ばれるたび、マーリンの名前は少し薄くなる。
それでも、誰かを守れるなら。
ミハイルが守ろうとしたものへ、まだ手を伸ばせるなら。
必要なら。
その言葉が、また胸の奥で静かに沈んだ。
沈んだ先で、白い糸がわずかに疼いた。
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