表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
92/112

役に立つ力

ご覧いただきありがとうございます。

評価、ブックマークしていただきありがとうございます。

リュールから戻ってから、マーリンの指先には白い糸の感覚が残っていた。


手袋をしていても消えない。


ティーカップに触れても、教本の頁をめくっても、髪飾りの位置を直されても、指の奥で細い光が眠っているような気がした。


眠っているだけ。


そう思いたかった。


けれど、マーリンはもう知っている。


あの糸は、呼ばれれば伸びる。


呼ばれなくても、リュールへ向かおうとする。


学園の居室は静かだった。


窓の外には、帝都の午後の光がある。庭園の木々は整えられ、花壇は相変わらず美しい。軍港区画の白と灰色の壁も、拘束フレームも、格納区画の冷たい床も、ここにはない。


それなのに、マーリンの中からは消えなかった。


白い人形。


白い糸。


白い表示。


《同期率上昇中》


あの文字だけが、目の奥に残っている。


机の上には、機械仕掛けの小さな鳥が置かれていた。金属の羽を閉じて、硝子の目で何もない場所を見ている。


その隣に、軍から届いた封書がある。


薄い紙。


硬い封蝋。


中身は、評価試験の結果だった。


「お嬢様」


クリスチーナがティーカップを置く。


香りの強い茶だった。


落ち着くように。


目を覚ますように。


心がどこかへ行きすぎないように。


クリスチーナは、いつもそういうところが細かい。


マーリンは少しだけ笑った。


「ありがとう、クリス」


「熱いうちに、少しでも」


「ええ」


返事をしながら、マーリンは封書を見ている。


開ける前から、中身はだいたい想像がついた。


良好。


有用。


継続可能。


戦力化の検討。


そんな言葉が、きっと並んでいる。


怖い、という言葉はない。


嫌だ、という欄もない。


ミハイルの名も、ないだろう。


封蝋を切る。


紙を開く。


予想は、ほとんど外れなかった。


魔力波形、前回記録と高一致。


リュールとの同期率、想定基準を大幅に上回る。


四肢応答、良好。


スラスター低出力点火、安定。


武装接続への反射的指向反応あり。


精神負荷、高。


継続運用、条件付きで許容範囲内。


条件付き。


許容範囲内。


マーリンは、その二つの言葉をしばらく見つめた。


条件とは何だろう。


医療班を置くことか。


リンク遮断手順を増やすことか。


耐Gスーツを調整することか。


それとも、マーリンが倒れない程度に使うことか。


許容範囲とは、誰にとっての範囲なのだろう。


軍にとって。


学園にとって。


ロイス家にとって。


それとも、マーリンにとって。


紙は答えない。


紙はいつもそうだ。


答えないくせに、決めたことだけを綺麗に並べる。


「お嬢様」


クリスチーナの声が少し低くなる。


「無理にご覧にならなくても」


「見ない方が怖いわ」


マーリンは紙から目を離さない。


「知らないまま、誰かに決められる方が怖いの」


「それは……」


「分かっているわ。見ても、決めるのは私だけではないのでしょうけれど」


自分で言って、少しだけおかしかった。


おかしいのに、笑えない。


マーリンは資料の次の頁をめくる。


そこには、今後の予定案があった。


再リンク試験継続。


格納区画内機動確認。


限定空間での姿勢制御試験。


模擬標的への非接触反応測定。


補助随伴候補の選定。


候補生との顔合わせ。


段階的な連携訓練。


マーリンの指が、その行で止まった。


補助随伴候補。


候補生。


顔合わせ。


連携訓練。


知らない言葉ではない。


学園でも軍でも、連携は重要だと教えられる。単独で突出する者ほど、周囲の観測や通信、緊急時の補助が必要になる。それは理屈として正しい。


正しい。


けれど、胸の奥が少しざわついた。


リュールの中へ入るだけでも、まだ怖い。


そこへ、誰かが来る。


補助のため。


随伴のため。


見張るため。


守るため。


どれもあり得る。


どれも紙の上では綺麗に見える。


マーリンは頁を戻した。


数字の方が、まだ冷たいだけで済む気がした。


「本当に、役に立つのね」


ぽつりと、言葉が落ちた。


クリスチーナが息を止める。


「お嬢様」


「数字がそう言っているわ」


「数字が何を言っても、お嬢様はお嬢様でございます」


「ええ」


マーリンは頷く。


「でも、数字はそれを必要としないのね」


紙の上では、マーリンの名前は操縦者欄に入っているだけだった。


ロイス嬢。


適合者。


被験者。


予定操縦者。


どれも間違いではない。


けれど、ミハイルが呼んだ名前ではない。


マーリンはティーカップを持ち上げる。


水面は、ほんの少し揺れていた。



作戦会議室は、学園の中にあるのに軍の匂いがした。


重い机。


壁面の大型表示板。


簡易投影機。


椅子の間隔まで、無駄がない。


社交のための部屋ではない。


話し合うためというより、決めるための部屋だった。


マーリンが入ると、ブライアンはすでに資料を広げていた。


姿勢はいつも通り正しい。


彼の周りだけ、紙の角がきちんと揃っている。


「ロイス嬢」


「ブライアン様」


マーリンは礼をする。


クリスチーナは一歩後ろに控えた。


ブライアンは椅子を勧める。


「評価結果について、軍から補足説明があります」


「承知しております」


「その前に、私からも概要を」


マーリンは席につく。


机上には、軍の資料と学園の管理計画が並んでいた。


そこにあるのは、すべて正しい紙だった。


「リュールとの適合結果は、極めて高い」


ブライアンは淡々と言う。


「魔力波形の一致率、初期リンク速度、四肢応答、いずれも想定以上です。特に武装接続への反応は、運用上重要な要素になります」


武装接続。


ソードへ伸びかけた白い指が、すぐに浮かぶ。


マーリンは膝の上で手を握った。


「意図した反応ではありません」


「記録にはそうあります」


「なら、なぜ重要な要素に?」


「意図せずとも、戦闘動作へ移れることが確認されたためです」


正しい答えだった。


気持ちの悪いくらい、筋が通っている。


マーリンは視線を上げる。


「私が怖いと思ったことも、記録にありますか」


「精神負荷、高、と」


「便利な言葉ですね」


ブライアンは少しだけ黙った。


「そうですね」


認める。


また、逃げない。


「怖い、も、苦しい、も、ミーシャの声が返らないことも、精神負荷という欄に入るのですか」


クリスチーナが息を呑む。


ブライアンは目を伏せない。


「資料上は、そう扱われます」


「では、私の悲しみも運用可能なのですね」


部屋が静かになった。


マーリンの声は穏やかだった。


穏やかすぎて、自分でも少し怖かった。


ブライアンはすぐには答えない。


沈黙の後で、低く言う。


「不快な言い方になりますが、戦場は感情を完全には待ちません。管理可能な範囲に収められるなら、運用上の障害ではないと判断されます」


「とても正しいわ」


「はい」


「正しすぎて、吐き気がするほど」


クリスチーナが一歩動きかける。


マーリンは手を少し上げて止めた。


怒っているわけではない。


いや、怒っている。


でも、その怒りの先はブライアンだけではなかった。


資料にも。


軍にも。


帝国にも。


リュールへ応えてしまった自分にも。


「ロイス嬢」


ブライアンの声は、いつもより少し低い。


「私は、あなたを粗末に扱いたいわけではありません」


「知っています」


「ですが、君の力は役に立ちます」


また、その言葉。


役に立つ。


マーリンは、机上の資料を見る。


同期率。


応答速度。


出力安定性。


戦力化可能性。


どの数字も、綺麗に並んでいる。


「役に立つことは、良いことなのでしょうね」


「状況によります」


「ブライアン様らしいお答え」


「便利な答えしか残らない場面もあります」


「では、今がその場面?」


「そうです」


迷いがない。


その迷いのなさが、ブライアンの強さであり、冷たさでもあった。


マーリンは椅子の背に触れる。


作戦会議室の椅子は、社交室の椅子より硬い。


姿勢を崩すことを許さない形をしている。


「私は、守るために戦うつもりです」


「はい」


「ミハイル様が守ろうとしたものを、守りたい」


その名を公の声で呼ぶと、胸が痛む。


ミーシャではない。


ここでは、そう呼べない。


「けれど、それが戦果として数えられるのは嫌です」


ブライアンは資料の上に視線を落とす。


「戦場では、守った数も、落とした数も、結果として記録されます」


「人を守ることと、敵を落とすことは違います」


「違います」


「でも、同じ欄に入るのですね」


「多くの場合は」


正しい。


また、正しい。


マーリンは、小さく息を吐いた。


「ブライアン様」


「はい」


「正しいことは、私を助けてくれませんね」


ブライアンの目がわずかに揺れた。


「助けになることもあります」


「あるといいですね」


その返しは、少し意地が悪かった。


ミハイルなら、そこで笑ったかもしれない。


クリスチーナなら、後でそっと眉を下げるだろう。


ブライアンは笑わない。


ただ、受け止める。


ブライアンは卓上端末を操作した。


少しの間を置いて、作戦会議室の正面表示板に通信状態の表示が灯る。


声だけだった。


『ロイス嬢、聞こえますか』


メッサーシュミットの声。


軍の場所から届く声は、やはり少し遠い。


「聞こえております、メッサーシュミット様」


『評価結果は確認いただいたと思います。補足します。現時点で、リュールはロイス嬢以外への反応を示していません。通常手順での起動も不安定です』


「つまり、私がいなければ動かないのですね」


『現段階では、その判断になります』


現段階。


また逃げ道のような言葉。


けれど、実際には逃げ道ではない。


『軍としては、格納区画内試験を継続し、その後、限定空間での機動試験へ進めたいと考えています。あわせて、リュール運用時に補助と随伴を担う候補生の選定も進めます』


マーリンは、資料の中で見た行を思い出した。


補助随伴候補。


候補生との顔合わせ。


連携訓練。


紙の上では細い予定だったものが、声になると急に近くなる。


「補助と随伴、ですか」


『はい。リュールはロイス嬢への反応が突出していますが、実戦環境では観測、通信、負荷確認、緊急時の判断補助を担う者が必要です。まずは選定中の候補生と顔合わせを行い、その後、段階的に連携訓練へ移行します』


「……私に、バディがつくのですね」


『現時点では候補です。正式決定ではありません』


候補。


正式ではない。


それでも、次の扉はもう少し開いている。


マーリンは、少しだけ視線を落とした。


リュールの中へ入るだけでも、まだ怖い。


そこに、誰かが隣へ来る。


守るための配置なのか。


見張るための配置なのか。


それとも、また別の役割を増やすためなのか。


紙の上では、きっとそれも必要な手順になる。


「その方は、リュールに乗るのですか」


『同乗ではありません。随伴機、管制、または支援席からの補助を想定しています。候補生の適性により、詳細は調整されます』


支援。


補助。


随伴。


優しい言葉に聞こえる。


けれど、マーリンはすぐに受け取れなかった。


誰かがそばにいることは、ありがたいことかもしれない。


でも、リュールに乗るマーリンを見て、その人は何を見るのだろう。


希望の花。


ロイス家の令嬢。


リュールの操縦者。


戦力。


それとも、ただのマーリン。


最後のものを期待するには、まだ早すぎた。


「実戦ではないのですね」


『現時点では、実戦投入の要請ではありません』


現時点では。


マーリンは、その言葉の奥を聞く。


今はまだ。


けれど、戦況次第で変わる。


それくらいは、マーリンにも読めた。


「私は軍人ではありません」


『承知しています』


「学園の生徒です」


『承知しています』


「それでも、必要なのですね」


通信の向こうで、ほんのわずかな沈黙があった。


『必要です』


短い答えだった。


誠実で、残酷だった。


マーリンは目を伏せる。


「承知いたしました。予定を確認いたします」


クリスチーナの手が、かすかに動く。


止めたい。


その気配が、背後から伝わる。


でも、クリスチーナは声を出さない。


ここは作戦会議室だ。


軍の通信が入っている。


ブライアンがいる。


マーリンは、ロイス公爵令嬢として座っている。


止める場所ではない。


それが、クリスチーナの手を縫い止めている。


通信が切れる。


作戦会議室に静けさが戻る。


ブライアンは資料を閉じた。


「ロイス嬢。無理に返答を急がせるつもりはありません」


「でも、待てる時間は多くない」


「はい」


「正直ですね」


「嘘をついても、状況は変わりません」


マーリンは、少しだけ笑った。


笑いはすぐに消える。


「ブライアン様。私は、戦いたいとは言っていません」


「覚えています」


「守りたいと言いました」


「はい」


「その二つを、同じ意味にしないでください」


ブライアンは、静かに頷いた。


「覚えています」


「覚えているだけでは、足りないかもしれません」


「それでも、覚えます」


前にも似た言葉を交わした気がする。


同じ場所を回っているようで、少しずつ深いところへ沈んでいる。


ブライアンの正しさは、止まらない。


マーリンの怖さも、止まらない。


その間に、リュールがいる。


白い人形が、静かに待っている。


そして、その隣へ来るかもしれない誰かがいる。


まだ名前も知らない候補生。


紙の上の、細い予定。


けれど次の試験では、その予定が顔を持つのだろう。


マーリンは胸の奥で、返らない声を探した。


ミーシャ。


返事はない。


その沈黙の中に、新しい足音だけが近づいている気がした。


作戦会議室を出ると、廊下の空気は少し軽かった。


軽いはずなのに、マーリンの足は重い。


窓の外では、学園の庭園が見える。刈り込まれた木々、白い小道、訓練棟へ向かう生徒たち。


その中で、何人かがマーリンに気づいて道を空けた。


「ロイス様」


「ごきげんよう」


「試作機の試験、順調と伺いました」


噂は早い。


誰が流したわけでもないのだろう。


学園では、沈黙も噂になる。


マーリンは微笑んだ。


「皆様にご心配をおかけしない結果であれば、何よりですわ」


綺麗な声だった。


使い慣れた声。


ロイス公爵令嬢の声。


相手の生徒たちは少し安心したように頷く。


希望の花は、今日も立っている。


それで学園は落ち着く。


マーリンの中身がどうであれ。


「やはりロイス様は、帝国の希望でいらっしゃいますね」


希望。


その言葉は、少し前まで重かった。


今は、重いだけではない。


冷たい。


希望という名前で、どこへでも運ばれていく気がする。


マーリンは礼を返し、歩き出した。


クリスチーナが一歩後ろにいる。


「お嬢様」


「ええ」


「お部屋へ戻られますか」


「少し、庭を歩きたいわ」


「承知いたしました」



庭園へ出ると、空気が少しだけ変わる。


軍の紙も、作戦会議室の硬い椅子も、ここにはない。


けれど、胸の中には残っている。


マーリンは、以前ミハイルと話した木陰を避けた。


避けたつもりはない。


気づけば、別の道を選んでいた。


クリスチーナは何も言わない。


そういうところが、ありがたい。


そして、少しだけ苦しい。


歩いている途中で、マーリンは立ち止まった。


「クリス」


「はい」


「あなたは、止めたいのよね」


クリスチーナはすぐに答えない。


風が葉を揺らす。


遠くで、生徒たちの笑い声がした。


その声が、少し現実離れして聞こえる。


「はい」


ようやく、クリスチーナは答えた。


「止めたいです」


正直な声だった。


「お嬢様が怖いと仰る場所へ、行ってほしくありません。お嬢様が戦いたくないと仰るのなら、そのまま遠ざけたいです」


「うん」


「リュールがどれほどお嬢様に応えようと、軍がどれほど必要だと言おうと、私には……」


言葉が止まる。


侍女としての線。


守りたい人としての線。


その二つが、クリスチーナの喉を締めている。


マーリンは振り返る。


「言って、クリス」


クリスチーナの瞳が揺れた。


「行かないでくださいませ」


その言葉で、胸が痛くなる。


行かないで。


マーリンがミハイルに言った言葉。


届いたのに、止められなかった言葉。


今度は、自分が言われている。


「困るわね」


マーリンは小さく言った。


「言われると、困るわ」


「申し訳ございません」


「謝らないで。言わせたのは私だもの」


マーリンは、庭の白い花を見る。


咲いている。


何も知らない顔で。


花は、咲いているだけで意味を与えられる。


希望。


慰め。


祝福。


別れ。


花自身は、そんなことを選べない。


「私も、止まりたいのかもしれない」


マーリンは言う。


「リュールに乗りたくない。怖い。戦いたくない。役に立つなんて言われたくない」


「はい」


「でも、守りたいの」


「はい」


「ミーシャが守ろうとしたものを、あんなふうに壊した人たちを許したくない」


クリスチーナは目を伏せる。


「はい」


「その気持ちが、私を立たせるの。立たせてしまうの」


戦いたくない。


守りたい。


許せない。


その三つは、仲良く並んでくれない。


互いに引っ張り合い、マーリンの胸の中で絡まっている。


「それに、今度は誰かが隣に来るかもしれない」


「補助随伴候補の方、でございますね」


「ええ」


マーリンは小さく頷く。


「その人を、私はどう見ればいいのかしら。助けてくれる人? 見張る人? それとも、私が守らなければならない人?」


「まだ、お会いになっておりません」


「そうね」


会っていない。


名前も知らない。


顔も知らない。


それなのに、もう紙の上ではマーリンの戦いに組み込まれている。


「私だけでは足りない、ということでもあるのね」


「お嬢様」


「違うわね。私を守るためでもあるのでしょう。たぶん」


マーリンは自分で言って、少しだけ息を吐いた。


疑うことは簡単だ。


けれど、すべてを疑うのは苦しい。


補助と随伴が、本当にマーリンを守るためのものかもしれない。


リュールの中で深く繋がりすぎるマーリンを、誰かが外から呼び戻すためかもしれない。


それなら、必要だ。


必要。


また、その言葉。


「私は、何になっていくのかしら」


クリスチーナは答えない。


答えがない問いだった。


マーリンも、答えを求めてはいなかった。


ただ、言葉にしなければ、もっと早くどこかへ行ってしまいそうだった。


「お嬢様は、お嬢様です」


クリスチーナは、やがてそう言った。


いつもの答え。


優しい答え。


でも、今は少し足りない。


「そうね」


マーリンは頷く。


「あなたは、そう呼んでくれる」


お嬢様。


大切な声だ。


けれど、それはマーリンを守るための名前。


ミハイルが呼んだ名前とは違う。


違うけれど、今はそれにも縋るしかない。


「クリス」


「はい」


「もし私が、自分で自分を見失いそうになったら」


「はい」


「その時は、怒って」


クリスチーナが顔を上げる。


「怒る、でございますか」


「ええ。泣くより効きそうだから」


少し軽く言った。


軽く言わなければ、重すぎた。


クリスチーナは、ほんの少しだけ眉を下げる。


「努力いたします」


「そこは、はいと言ってほしかったわ」


「お嬢様に怒るのは、かなりの覚悟が必要でございます」


「そうなの?」


「はい」


その返答に、マーリンは少しだけ笑った。


笑ったあと、胸が痛んだ。


笑える。


まだ。


それが救いなのか、残酷なのか、もうよく分からない。



部屋へ戻ると、ロイス公爵家からの通信記録が届いていた。


映像ではない。


短い通達文。


ロイス家の印。


マーリンは、それを開く前から内容を察した。


予想通りだった。


軍の評価結果を確認した。


リュールとの適性はロイス家にとっても重要である。


帝国の情勢を鑑み、必要な協力を惜しまぬように。


ロイス家の名にふさわしい判断を期待する。


慰めはない。


体調を問う言葉もない。


ミハイルの名もない。


ただ、評価結果と、協力と、期待。


父の声が聞こえる気がした。


役割を果たせ。


器であれ。


マーリンは通達文を閉じた。


紙でも、通信でも、父の言葉はいつも同じ形をしている。


冷たくて、間違っていない。


間違っていないことが、一番息苦しい。


「お嬢様」


クリスチーナがそばに立つ。


「お休みを」


「そうね」


今度は、素直に頷いた。


休んだところで、何かが変わるわけではない。


けれど、クリスチーナの願いを無視したくなかった。


長椅子に腰を下ろす。


机の上には、評価結果の資料がある。


その隣には、機械仕掛けの小さな鳥。


マーリンは手を伸ばし、鳥の金属の羽に触れた。


冷たい。


けれど、軍の機材とは違う冷たさだった。


ミハイルが選んだもの。


机の上だけの小さな旅。


飛べない鳥。


役に立つかどうかで選ばれたものではない。


ただ、マーリンが少し笑えそうだから、そこにある。


そのことに気づいた瞬間、胸が痛くなった。


役に立たなくても、大切なものがある。


ミハイルは、それを知っていた。


ブライアンも、ロイス公爵も、たぶん知識としては知っている。


でも、世界はすぐに役に立つものを選ぶ。


戦争中なら、なおさら。


マーリンの魔力。


リュールへの適性。


高い同期率。


武装接続への反応。


それらは役に立つ。


だから呼ばれる。


だから測られる。


だから、次が来る。


そして今度は、誰かが隣へ来る。


名前も知らない候補生。


マーリンのために選ばれるのか。


リュールのために選ばれるのか。


帝国のために選ばれるのか。


まだ分からない。


マーリンは鳥から手を離す。


「クリス」


「はい」


「役に立つ力って、少し怖いわね」


「はい」


「役に立たないものの方が、私を助けてくれることもあるのに」


クリスチーナは答えなかった。


代わりに、そっとティーカップを置く。


温かい茶。


甘い香り。


今は何の役にも立たないかもしれない。


戦場では何も守れない。


リュールも動かせない。


敵を落とすこともない。


それでも、マーリンの指先を少しだけ温める。


「ありがとう」


マーリンはカップを両手で包む。


指先の震えは、まだ残っている。


白い糸の感覚も、まだ消えていない。


けれど、その上に温かさが乗る。


完全には消えない。


でも、上書きでもない。


ただ、一緒にある。


悲しみと怒り。


怖さと願い。


役に立つ力と、役には立たないのに大切なもの。


全部が、胸の中にある。


整理はつかない。


つかないまま、時間は進む。


窓の外では、帝都の空に軍用艇の灯りが流れていた。


戦争が近づいている。


リュールは、次の試験を待っている。


軍は、数字を並べている。


ブライアンは、正しい道を整えている。


クリスチーナは、止めたいままそばにいる。


そしてマーリンは、まだ戦いたくないまま、守りたいと願っている。


その願いが、いつか別の名前をつけられることを、彼女はまだ知らない。


撃墜女王。


そんな名前は、まだ遠い。


遠いはずだった。


けれど、評価結果の紙の上では、すでにその名前に似た影が、静かに形を取り始めていた。


マーリンはティーカップを持ったまま、目を伏せる。


「私は、役に立つ力になりたいわけではないの」


小さな声だった。


クリスチーナだけが聞いている。


「はい」


「ただ、守りたいだけ」


「はい」


「それだけのはずなのに」


言葉はそこで途切れた。


外の空を、赤い警戒灯が横切る。


カップの中の茶が、ほんの少し揺れた。


マーリンはその揺れを見つめる。


役に立つ力。


そう呼ばれるたび、マーリンの名前は少し薄くなる。


それでも、誰かを守れるなら。


ミハイルが守ろうとしたものへ、まだ手を伸ばせるなら。


必要なら。


その言葉が、また胸の奥で静かに沈んだ。


沈んだ先で、白い糸がわずかに疼いた。

ここまでお読みいただき有り難うございました。


面白いと思っていただけましたら、ご評価、ブックマークをお願いいたします。

感想もお待ちしています。

励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ