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もう一度リュールへ

ご覧いただきありがとうございます。

評価、ブックマークしていただきありがとうございます。

リュールの格納区画は、白かった。


壁も、床も、照明も。


無駄な色がない。


そこに立つ白い人形だけが、白の中でさらに白く見えた。


Nep-001Pt。


軍の資料では、まだ試作機と呼ばれている機体。


けれどマーリンにとって、それはもうリュールだった。


初めて見た時より、近い。


近いぶんだけ、怖い。


白い装甲は、あの日と同じように静かだった。細い四肢も、伏せられた頭部も、眠っているように見える。けれど、マーリンはもうそれをただの眠りだとは思えなかった。


待っている。


そう感じてしまう。


それが怖い。


マーリンは耐Gスーツに袖を通していた。


身体に沿う硬い生地。


固定具。


胸元の計測器。


腕に通された魔力反応用の細い線。


令嬢のドレスではない。


学園の制服でもない。


戦うための服だった。


まだ試験だと言われている。


再リンク確認。


搭乗を伴う適性試験。


実戦投入ではない。


けれど、服は知っている。


これは、リュールに乗るための支度だ。


「お嬢様」


クリスチーナが留め具を整える。


指先が少しだけ震えていた。


マーリンはそれに気づく。


気づいてしまう。


「クリス」


「はい」


「きつくないわ」


「承知しております」


「本当に?」


「少し、確認が多いだけでございます」


「それは、きついという意味ではないの?」


「違います」


クリスチーナは真面目な顔で言った。


マーリンは少しだけ笑いそうになる。


笑えそうで、笑えない。


ミハイルなら、ここで何か言っただろう。


その留め具は拷問具か、とか。


軍の設計者は少女の体型を知らないのか、とか。


そんな、少し意地の悪いことを言ってくれたかもしれない。


もう言わない。


その沈黙が、耐Gスーツより重い。


マーリンは胸元の固定具に触れた。


硬い。


冷たい。


自分の胸を守るためのものなのか、数値を取るためのものなのか、よく分からない。


たぶん、どちらでもある。


この場所では、守ることと測ることが同じ顔をしている。


「行ってくるわ」


「お嬢様」


クリスチーナは止めない。


止められない。


止めたい顔をしているのに、止められない。


そのことが、マーリンには苦しかった。


「必要なら、よ」


そう言うと、クリスチーナの目が少しだけ痛む。


必要なら。


それはマーリンが自分を納得させるための言葉だった。


同時に、周囲がマーリンを動かすための言葉にもなっていた。


便利な言葉は、時々とても危ない。


それを知っているのに、マーリンはその言葉に縋っている。


何もかもを自分の意思にしてしまえば、きっと耐えられない。


だから、必要という形にする。


そうすれば少しだけ、怖さを置く場所ができる。


少しだけ。


本当に、少しだけ。



メッサーシュミットが試験内容を説明する。


リュールへの搭乗。


初期リンク。


魔力波形の安定確認。


四肢応答。


スラスター出力の段階確認。


実戦機動は行わない。


格納区画内の拘束フレームに接続したまま、最低限の稼働を確認する。


最低限。


その言葉は、あまり信用できなかった。


リュールにとっての最低限と、マーリンにとっての最低限は違う。


前回もそうだった。


ただ動かしただけ。


ただ守っただけ。


ただ帰ってきただけ。


そういう言葉の下に、震えも吐き気も恐怖も隠れてしまった。


「負荷が上がった場合は、即時中断します」


メッサーシュミットはそう言った。


マーリンは頷く。


「承知いたしました」


「ロイス嬢」


「はい」


「恐怖や違和感があれば、必ず申告してください」


その言葉だけは、少し意外だった。


軍人の声だったが、ただの数値確認ではなかった。


マーリンは一拍遅れて答える。


「怖いです」


メッサーシュミットの表情がわずかに変わる。


ブライアンも、少しだけ視線を上げた。


マーリンは続ける。


「ですが、続けられます。必要なら」


また言った。


必要なら。


その言葉で、怖さを閉じ込める。


閉じ込めたはずなのに、胸の奥ではまだ震えている。


ミハイルの声が、遠くで聞こえた気がした。


怖いと言っていい。


言ったわ。


でも、進むの。


返事はない。


返事のない場所へ向かうように、マーリンはリュールを見上げた。


白い人形は、何も言わない。


何も言わないのに、マーリンの指先は熱を持ち始めている。



リュールの胸部ハッチが開いた。


内部は暗い。


球状のコクピット。


全周囲モニターはまだ眠っている。


リンク前だから、何も映らない。


それが正しい。


前と同じ。


マーリンは足をかけた。


金属の感触が靴底から伝わる。


一歩。


もう一歩。


白い人形の中へ入っていく。


人形の中は、思ったより静かだった。


外の機械音が遠ざかる。


整備員の声も、クリスチーナの息遣いも、ブライアンの視線も。


すべてが、厚い装甲の外へ置かれていく。


操縦席に座る。


身体を固定される。


肩。


腰。


脚。


胸元。


固定具が順に閉じていく。


身動きが取りにくくなるたび、リュールに受け入れられているというより、リュールの中へしまわれていくような気がした。


手にはめるタイプのインターフェースが、左右から差し出される。


指を通す。


冷たい。


前も冷たかった。


マーリンは指先を少し動かす。


そこから白い糸が伸びるのを、もう知っている。


知らないふりはできない。


ハッチが閉じる。


音がする。


小さな音なのに、胸に響く。


暗い。


まだ、何も見えない。


『ロイス嬢、聞こえますか』


通信が入る。


メッサーシュミットの声。


近くにいるのに、遠い。


「聞こえています」


『初期リンクを開始してください。無理に出力を上げる必要はありません』


「承知いたしました」


マーリンは息を吸う。


ゆっくり吐く。


指先を開く。


白い糸が伸びる。


今度は、前より早かった。


考えるより先に、リュールの奥へ届く。


胸部装甲の内側。


魔力変換炉。


関節部の回路。


四肢へ伸びる細い経路。


見えないはずのものが、分かる。


知らない場所のはずなのに、道筋が指先へ返ってくる。


リュールの中が、白い線で満ちていく。


まるで、長く眠っていたものが目を覚ますように。


全周囲モニターが起動した。


暗闇がほどける。


格納区画が映る。


整備員。


計測機材。


拘束フレーム。


一歩後ろで立つクリスチーナ。


ブライアン。


メッサーシュミット。


表示が走る。


《機体識別:Nep-001Pt Lueur》


《NewEraプロジェクト》


《操縦者リンク確認》


《魔力波形同期》


《同期率上昇中》


白い文字。


綺麗な文字。


そして、嫌な文字。


NewEra。


その名前が、また胸の奥をざらつかせる。


「リンク、確立しました」


『確認しています。同期率、前回記録を超過。ロイス嬢、負荷は』


マーリンは答えようとする。


その前に、リュールが応える。


応える、という感覚がある。


機械が動いたのではない。


糸を通した先から、こちらへ何かが返ってくる。


待っていた。


そんな感覚。


マーリンの胸が冷える。


「……少し、深いです」


『深い?』


「前より、奥まで繋がっています」


言葉にすると、おかしい。


けれど、それ以外に言いようがない。


リュールの四肢が、遠くない。


自分の手足の延長のように近い。


怖い。


気持ち悪いほど、自然だった。


『同期率、上昇。制御範囲、全身へ拡大。拘束フレーム、保持』


計測員の声が混じる。


『ロイス嬢、右腕部を微動作。指先のみ』


「はい」


マーリンは、自分の右手の指をほんの少し曲げる。


リュールの右手が動く。


巨大な白い指が、静かに折れる。


格納区画の空気が変わる。


驚きではない。


期待だった。


もっと動く。


もっと使える。


もっと戦える。


そんな空気。


マーリンは、それをモニター越しに感じた。


『次、左腕部』


「はい」


動く。


『脚部関節、最小出力』


「はい」


動く。


リュールは、マーリンの糸に素直だった。


素直すぎた。


まるで、命令を待っている子どものように。


あるいは、失った何かを埋めるように。


マーリンは小さく息を吸う。


「この子は……」


言いかけて、止める。


この子。


そう呼ぶには早すぎる。


これは兵器だ。


NewEraの試作機。


軍が戦力として見ているもの。


けれど、糸の先ではリュールが静かに脈打っている。


白い人形は、マーリンを拒まない。


むしろ、深く迎え入れる。


それが怖い。


それが、少しだけ救いにも見える。


ミハイルの声は返らない。


でもリュールは応える。


その事実が、マーリンをひどく傷つけた。


こんなものに応えられても、ミーシャの代わりにはならない。


代わりになってほしくもない。


なのに、何も返らない世界で、反応があるものは残酷に温かい。


試験は予定より進む。


右腕。


左腕。


脚部関節。


姿勢制御。


魔力スラスターの低出力点火。


スラスターが白く灯る。


格納区画の床に、淡い光が流れる。


拘束フレームが軋む。


マーリンの胸にも負荷が来る。


まだ急加速ではない。


飛行もしていない。


それでも、身体は覚えている。


黒い宇宙。


押し潰される胸。


吐き気。


白い糸を離したら死ぬと思った感覚。


胃の奥が持ち上がる。


マーリンは息を止めた。


『ロイス嬢、心拍上昇。中断しますか』


中断。


ここで止められる。


試験なのだから。


負荷申告を求められているのだから。


けれど、モニターの端に表示される同期率が目に入る。


高い。


とても高い。


軍が欲しがる数字だ。


ブライアンが言った声が浮かぶ。


ロイス嬢には、できることがあります。


ミハイルを奪った者たちの顔は知らない。


でも、王国好戦派という名前はある。


和平を壊した者たちという意味がある。


その意味が、マーリンの悲しみに火を灯す。


「継続できます」


『本当に?』


メッサーシュミットが問い返す。


マーリンは、少しだけ目を閉じる。


ミハイルなら、怒ったかもしれない。


君のそれは、続けられるじゃない。


無理をしているだけだ。


でも、もう止める声はない。


あるのは自分の声だけ。


「必要なら」


その一言で、続行が決まる。


リュールはさらに深く応える。


マーリンが出力をわずかに上げると、白い糸が機体全体へ広がった。


指先だけでは足りない。


胸の奥から、背骨から、呼吸の底から、糸が伸びていくようだった。


人形を操るというより、人形に自分を通している。


リュールの感覚が返ってくる。


足裏に伝わる拘束フレームの圧。


腕部装甲の重み。


関節内部のわずかな抵抗。


スラスターの熱。


そんなものが、人間の身体にはないはずなのに、分かる。


マーリンは怖くなる。


怖くて、同時に、理解してしまう。


この機体なら、守れる。


艦を。


生徒を。


次に交渉へ向かう誰かを。


ミハイルが守ろうとしたものを。


守れる。


そのために戦える。


そう思った瞬間、別の言葉がすぐ後ろから来る。


殺せる。


マーリンは息を呑んだ。


違う。


守るため。


守るためだ。


けれど兵器の力は、守るだけでは終わらない。


リュールの白い指が、ソードの柄へ向かいかける。


まだ武装試験ではない。


なのに、マーリンの意識がそちらへ流れた。


メッサーシュミットの声が鋭くなる。


『ロイス嬢、右腕停止。武装接続は禁止です』


「……はい」


マーリンは手を止めた。


リュールの指も止まる。


白い指が、ソードの手前で静止する。


格納区画が静まり返る。


ほんの一瞬。


けれど、その一瞬で軍は見た。


リュールは動く。


マーリンは武装へ反応する。


実戦動作へ移れる。


マーリンが望んでいなくても。


「申し訳ありません」


『問題ありません。意図しない反応として記録します』


意図しない反応。


また、記録。


マーリンの中で起きた怖さも、迷いも、許せない熱も、全部その言葉にまとめられていく。


意図しない反応。


便利な言葉だった。


マーリンはモニターの中の白い手を見た。


リュールの手。


けれど、今は自分の手でもある。


その手が、ソードを取りかけた。


守るためと言いながら。


怖いと言いながら。


誰かを斬るための柄へ、自然に伸びた。


マーリンは唇を噛む。


血の味はしない。


でも、胸の奥が少し裂けたような気がした。



試験終了の合図が出る。


リンクを切る。


簡単には切れなかった。


白い糸が、リュールの奥に残りたがる。


マーリンは指を握る。


引く。


一度では戻らない。


「離して」


小さく言う。


リュールに。


糸に。


自分に。


『ロイス嬢?』


「問題ありません」


問題はある。


でも、言えない。


言えば、リュールが自分の一部になりかけていることを認めなければならない。


マーリンはもう一度、指を強く握る。


白い糸が震える。


少しずつ引き戻される。


表示が落ちる。


全周囲モニターが暗くなる。


《リンク解除》


暗闇。


急に、身体が重くなる。


リュールの感覚が消えた分、自分の身体が頼りなく感じる。


ハッチが開く。


外の光が入る。


マーリンは立とうとして、力が入らない。


固定具を外される。


手を伸ばそうとして、指が震える。


クリスチーナが駆け寄る。


「お嬢様」


「……少し、足に力が入らないだけよ」


「座ってくださいませ」


「そうね」


大丈夫とは言わない。


もう、ミハイルに叱られることもないのに。


それでも言わない。


言えば、本当に一人になってしまう気がした。


クリスチーナに支えられ、マーリンは補助椅子へ座る。


吐き気がある。


頭が重い。


指先が冷たい。


けれど、意識ははっきりしている。


はっきりしすぎている。


整備員が計測装置を外していく。


耐Gスーツの胸元の固定具がひとつ外れるたび、空気が入り込む。苦しさは減るはずなのに、マーリンの胸は軽くならない。


リュールから離れた。


リンクは切れた。


なのに、まだ白い糸の感覚が手袋の内側に残っている。


メッサーシュミットとブライアンが、少し離れたところで話している。


聞こえない距離ではない。


「同期率は想定を大きく超えています」


「戦力化は可能ですか」


ブライアンの声。


静かで、正しい。


「調整次第です。ロイス嬢への負荷管理が必須ですが、リュールは明らかに彼女を操縦者として認識しています」


「運用案を前倒しする必要がありますね」


運用案。


戦力化。


マーリンは目を伏せる。


軍はもう、次を見ている。


今回の試験が終わったばかりなのに。


マーリンが吐き気を飲み込んでいる間に、リュールは戦力として数えられている。


怖い。


でも、同時に思ってしまう。


役に立つのなら。


ミハイルのように、誰かが奪われる前に止められるなら。


王国好戦派がまた誰かを殺す前に。


その考えが浮かんだ瞬間、マーリンは自分が少し遠くへ来てしまったことに気づく。


戦争は嫌い。


それはまだ変わらない。


でも、力がある。


役に立つ力がある。


その事実は、悲しみに空いた穴へ入り込んでくる。


ぴたりとはまるわけではない。


けれど、穴の縁を少しだけ固める。


立てるようにしてしまう。


それが怖かった。


「お嬢様」


クリスチーナが水の入ったコップを差し出す。


マーリンは受け取る。


手が震える。


水面も揺れる。


「ありがとう、クリス」


「ご無理をなさいました」


責める声ではなかった。


泣きそうな声だった。


マーリンはコップを見つめる。


「そうかしら」


「はい」


「でも、中断はしなかったわ」


「それを、ご無理と申し上げております」


マーリンは小さく笑った。


少しだけ。


「クリスは、やっぱりミーシャに似てきたわ」


言ったあと、胸が痛む。


似ている。


けれど違う。


ミハイルはもういない。


似ている誰かがいても、その穴は埋まらない。


クリスチーナは、静かに目を伏せた。


「光栄でございます」


いつもなら、少し皮肉を混ぜて返したかもしれない。


今は、ただ受け取る。


その優しさが、痛かった。



帰還前の控え室で、マーリンは手袋をはめ直した。


指先はまだ震えている。


白い糸の感覚が残っていた。


リュールの胸の奥まで繋がった感覚。


機体の重み。


スラスターの熱。


ソードへ伸びかけた白い指。


全部が、手袋の内側に残っている。


クリスチーナがそばに立つ。


「お嬢様」


「ええ」


「お辛ければ、少しだけでもお休みを」


マーリンは手袋の留め具を見つめる。


「休めるかしら」


「休んでいただきたいです」


「クリスの願いね」


「はい」


マーリンは少しだけ目を伏せる。


「私の願いは、まだよく分からないわ」


戦いたくない。


それは本当。


守りたい。


それも本当。


許せない。


それも、もう本当になりつつある。


本当が増えるたび、マーリンは自分が少しずつばらばらになっていく気がした。


ひとつの正しい気持ちだけなら、楽だったかもしれない。


戦いたい。


戦いたくない。


憎い。


憎みたくない。


守りたい。


殺したくない。


どれかひとつなら、きっと言葉にしやすい。


でも全部ある。


全部あって、全部が胸の中で手を伸ばしている。


クリスチーナは手袋の留め具を整えた。


「お嬢様」


「なに」


「今すぐ、ひとつに決めなくてもよろしいかと」


マーリンは少し驚いて、クリスチーナを見た。


「私、声に出していた?」


「いいえ」


「では、どうして」


「お顔に」


「そんなに分かりやすい?」


「私には」


マーリンは、今度こそほんの少し笑った。


笑うと、胸が痛む。


でも、痛いだけではなかった。


その小さな笑いは、泣いたあとの部屋に残っていた自分と、少しだけ繋がっている気がした。


まだ全部は、戦場に持っていかれていない。


そう思いたかった。



施設の外では、軍用艇が増えていた。


帝国と王国の境界で、戦闘状態が広がり始めているという連絡が入る。


控え室の外を、通信担当者が足早に通り過ぎる。


警戒レベル。


国境宙域。


哨戒部隊。


交戦確認。


言葉が短く、硬くなっている。


戦争が、また近づいている。


ブライアンはその報告を受け、静かにマーリンを見た。


「ロイス嬢。君の力は、役に立ちます」


役に立つ。


その言葉は、優しくない。


けれど、今のマーリンには深く刺さる。


「役に立つことは、良いことですか」


マーリンは尋ねた。


ブライアンはすぐには答えない。


「状況によります」


「便利なお答えですね」


「便利な答えしかない場面もあります」


「そう」


マーリンは窓の外を見た。


遠くの空に、赤い警戒灯が流れていく。


彼女は守るために戦うつもりだった。


ミハイルが守ろうとしたものを、守りたいと思った。


それは、嘘ではない。


けれど帝国は、その力を戦果として数え始めている。


リュールの同期率。


スラスター出力。


武装接続反応。


運用案。


戦力化。


マーリンが怖いと言ったことも、ソードへ手が伸びたことも、すべて資料になっていく。


「ブライアン様」


「はい」


「私は、まだ戦いたいとは言っていません」


「承知しています」


「守りたいとは、思っています」


「はい」


「その二つを、同じ意味にしないでください」


ブライアンの目が、静かに揺れた。


ほんの少し。


「覚えておきます」


「覚えているだけでは、足りないかもしれません」


「それでも、覚えます」


マーリンはそれ以上言わなかった。


ブライアンは正しい。


正しく、静かで、場を整える。


だからこそ、怖い。


彼の正しさは、マーリンの悲しみに名前をつける。


怒りに道を用意する。


力に役割を与える。


それは救いに見える時がある。


けれど、救いではないかもしれない。


マーリンはまだ、その違いを見分けられない。


ただ、窓の外を赤い光が流れていくのを見ていた。



施設を出る時、格納区画の方から低い機械音が聞こえた。


リュールの調整が続いているのだろう。


白い人形は、また眠りに戻ったのか。


それとも、起きたまま次を待っているのか。


マーリンには分からない。


分からないのに、指先だけが知っている。


あの白い糸の先に、リュールがいる。


マーリンは手袋の中で指を握った。


「ミーシャ」


胸の中で呼ぶ。


返事はない。


その沈黙の隣で、リュールの感覚が残っている。


返らない声。


応える人形。


その二つが並んでいることが、ひどく悲しかった。


車へ乗り込む前、マーリンは一度だけ振り返った。


軍の管理施設は、白と灰色でできている。


綺麗ではない。


でも、整っている。


その奥に、リュールがいる。


もう一度リュールへ。


そう言われたわけではない。


けれど次があることを、誰も否定しなかった。


マーリンも、否定できなかった。


車の扉が閉まる。


赤い警戒灯が窓の外で遠ざかる。


マーリンは膝の上で手を重ねた。


指先はまだ震えている。


それでも、白い糸は出ない。


出さない。


今はまだ。


けれど、必要なら。


その言葉が、また胸の奥へ沈む。


ミハイルの声が返らない世界で、リュールだけが応えた。


それは救いではなかった。


けれど、マーリンを戦場へ近づけるには、十分すぎるほどの反応だった。

ここまでお読みいただき有り難うございました。


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