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適性確認

ご覧いただきありがとうございます。

評価、ブックマークしていただきありがとうございます。

封書を開いたあと、マーリンはしばらく動かなかった。


紙には、丁寧な言葉が並んでいる。


リュール再リンク試験。


適性確認。


魔力波形の再測定。


戦況変化に伴う協力要請。


どれも正しい言葉だった。


怖い、とは書いていない。


嫌だ、もない。


ミハイルが死んだから、という言葉もない。


けれどマーリンには分かる。


全部、つながっている。


ミハイルが死んだ。


和平が壊れた。


戦争が動き始めた。


だからリュールが必要になった。


だからマーリンが呼ばれた。


とても簡単な流れだった。


簡単すぎて、息が苦しい。


机の上では、機械仕掛けの小さな鳥が翼を閉じている。ミハイルに買ってもらった鳥。飛べないけれど、机の上を旅する小さな鳥。


その隣に、軍と学園とロイス家の印がある封書が置かれている。


小さな余白と、正しい命令。


同じ机の上に置かれていることが、ひどく乱暴に思えた。


「お嬢様」


クリスチーナが声をかける。


マーリンは紙を見つめたまま、少しだけ笑った。


「本当に、私にできることを見つけるのが上手ね。皆」


「お嬢様」


「皮肉よ、クリス」


「存じております」


「そう」


マーリンは封書を机に置いた。


紙は軽い。


けれど、置いた音は重かった。


リュール。


白い人形。


最初に見た時、怖かった。


美しかった。


そして、分からなかった。


自分の指先から伸びた白い糸が、勝手にあの人形へ向かった。止めようとしても止まらなかった。リュールは、それに応えた。


マーリンはまだ、その意味を知らない。


知らないままでいたかったのかもしれない。


けれど、知らないままでいられる時間は終わった。


戦争が動き出す時、知らないことは逃げ道にならない。


「試験は、軍の管理施設で行われるのね」


「はい」


「学園ではないのね」


「はい」


「そう」


学園ではない。


つまり、花を飾る場所ではない。


軍の場所。


リュールが眠る場所。


マーリンが、希望の花ではなく適合者として見られる場所。


どちらにしても、マーリンではない。


マーリンは小さく息を吐いた。


「必要なら、行くわ」


クリスチーナの手が止まる。


「お嬢様」


「必要なら」


その言葉は、便利だった。


行きたいわけではない。


戦いたいわけでもない。


怖くないわけでもない。


けれど、必要なら。


そう言えば、すべてが少しだけ整う。


マーリン自身の気持ちを、紙の端に追いやれる。


ミハイルが望んだ和平は壊れた。


彼を殺した者たちは、まだどこかにいる。


次に誰かが死ぬかもしれない。


それなら。


必要なら。


言葉は、静かにマーリンの中へ沈んでいく。


「クリス」


「はい」


「私、戦いたいわけではないの」


「はい」


「それだけは、覚えていて」


クリスチーナは、すぐに頷かなかった。


頷けば、それを認めることになる。


認めたうえで、止められない自分まで受け入れることになる。


少しの沈黙のあと、彼女は深く頭を下げた。


「必ず、覚えております」


マーリンは、そこでようやく封書から目を離した。


目の端に、小さな鳥が映る。


翼は閉じたまま。


ぜんまいは巻かれていない。


マーリンは、それに触れなかった。



軍の管理施設は、学園から離れた帝都北側の軍港区画にあった。


学園の居住棟を出て、専用車で外周回廊を抜ける。


窓の外では、帝都の景色が少しずつ変わっていく。学園の白い塔や整えられた庭園が遠ざかり、代わりに低い軍用施設と無骨な管制塔が増えていく。


同じ帝都なのに、空気が違った。


社交のための美しさではない。


戦争を支えるための整然さ。


それは、磨かれた刃物に少し似ていた。


クリスチーナは隣に座っている。


ブライアンは同行者として向かい側の席にいた。姿勢はいつも通り正しく、膝の上に置かれた書類も乱れていない。


マーリンは窓の外を見る。


会話は少なかった。


話せば、何かが決まってしまう気がした。


決まっていることばかりなのに。


軍用車が認証門をくぐる。


高い外壁。


厳重な魔力認証。


滑らかな床。


無駄のない照明。


美しい場所ではない。


けれど、整っている。


人の不安やためらいが入り込まないように作られた場所だった。


マーリンは案内に従って歩いた。


クリスチーナは一歩後ろ。


ブライアンは少し離れた位置を歩く。


近すぎない。


遠すぎない。


それぞれの立場が、廊下の幅にまで表れているようだった。


格納区画前の広い通路で、メッサーシュミットが待っていた。


軍服の襟元はきっちり整っている。顔には疲労があったが、それは私的な疲れではなく、職務の中で許される範囲の疲れだった。


「ロイス嬢」


「メッサーシュミット様」


マーリンは礼をする。


「ご協力、感謝いたします」


協力。


マーリンは頷いた。


「必要なことでしたら」


また言えた。


メッサーシュミットは、その言葉を軍人らしく受け取る。


「今回は再リンク前の適性確認を行います。魔力波形、精神負荷、前回搭乗時のリンク経路の再現性。搭乗を伴う本格試験は、結果確認後となります」


搭乗を伴う本格試験。


つまり、今回はその前段階。


けれど、リュールは近くにいる。


それだけで、マーリンの指先は冷たくなる。


「リュールを見ることは?」


メッサーシュミットは少しだけ間を置いた。


「必要になります」


「そうですか」


必要。


また、その言葉。


マーリンは笑わない。


笑えない代わりに、背筋を伸ばす。


ロイス家の令嬢としてではなく、倒れないために。


検査室では、魔力測定器が並んでいた。


手にはめるタイプの簡易インターフェース。


波形記録用の薄い端末。


心拍と魔力消費を測る小さな装置。


魔力糸の伸長方向を読み取る半透明の板。


どれも無機質だった。


職員たちは丁寧だった。


丁寧すぎるくらいだった。


椅子に座る位置も、手首の角度も、呼吸を整えるタイミングも、すべて細かく説明される。まるで、マーリンの身体が初めから測定台の一部であるように。


マーリンの身体が、数値に変えられていく。


魔力総量。


出力安定性。


糸の伸長反応。


リンク拒絶耐性。


精神負荷推定値。


紙の上に並べれば、どれも便利な項目だった。


怖いかどうかは、項目にない。


マーリンは椅子に座り、指先を開いた。


白い糸を出す。


本当は出したくない。


けれど、出る。


細く、静かに。


白い光を帯びた糸が、指先から伸びる。


測定器が反応した。


職員たちの空気が変わる。


驚き。


興奮。


期待。


マーリンはそれを見ない。


白い糸だけを見る。


綺麗だった。


嫌になるほど綺麗だった。


これがあるから、リュールは動いた。


これがあるから、軍はマーリンを呼ぶ。


これがあるから、彼女は普通の少女でいる場所を失っていく。


「出力、安定。前回記録と一致」


誰かの声がする。


「伸長反応、異常値」


異常。


マーリンは少しだけ目を伏せた。


自分の中にあるものが、また異常と呼ばれる。


珍しい。


重要。


有用。


どれも似ている。


どれも、少しずつマーリンからマーリンを遠ざける。


「ロイス嬢、負荷は」


メッサーシュミットが問う。


マーリンは答える。


「少し、指先が冷える程度です」


嘘ではない。


本当は胸の奥も冷えている。


けれど、それは測定項目ではない。


「継続できますか」


「必要なら」


クリスチーナが一歩、動きかける。


でも止まる。


止められない。


ここは軍の場所だ。


そしてマーリンは、自分で答えてしまった。


必要なら。


その言葉が、クリスチーナの手を止める。


「糸の方向を固定します。ロイス嬢、白い糸を正面の誘導板へ」


「はい」


誘導板へ。


そう言われても、糸は簡単には従わなかった。


まっすぐ伸ばそうとすればするほど、細い先端が横へ流れる。


検査室の奥。


格納区画のある方角へ。


まだ扉の向こうにいるはずのリュールへ。


マーリンは唇を噛む。


「……そちらへ行きたがるのね」


誰にも聞かせるつもりのない声だった。


けれど、メッサーシュミットは聞き逃さなかった。


「試作機に反応している可能性があります」


試作機。


その言葉に、マーリンは少しだけ眉を動かした。


軍の記録では、そうなのだろう。


でも、マーリンの中では違う。


「リュールです」


静かに言った。


検査室の空気がほんの少し止まる。


メッサーシュミットは短く頷いた。


「失礼しました。リュールへの指向反応として記録します」


記録。


それもまた、正しい。


けれど、名前が消されなかったことに、マーリンはほんの少しだけ息をつけた。



測定が終わると、リュールの格納区画へ向かった。


通路の照明は、検査室より少し暗い。


壁には認証装置がいくつもあり、進むたびに低い機械音が鳴る。扉が開くたび、冷たい空気が流れ込んだ。


マーリンは歩く。


白い糸はもう出ていない。


それでも、指先の奥に細い疼きが残っている。


何かが、そこに道を覚えてしまったようだった。


格納区画の扉が開く。


広い空間だった。


白い人形が、そこに立っている。


Nep-001Pt Lueur。


軍の資料には、試作機と記される白い機体。


マーリンが名づけた、この子。


白い装甲。


長い四肢。


静かに伏せられた頭部。


眠っているようにも見える。


けれどマーリンには、眠っているとは思えなかった。


待っている。


そんな気がした。


怖い考えだった。


マーリンが一歩近づく。


指先が勝手に熱を持つ。


いや。


そう思うより早く、白い糸が細く伸びた。


伸ばしたつもりはない。


けれど伸びる。


リュールの胸部装甲の奥で、淡い光が走った。


整備員たちが息を呑む。


メッサーシュミットの表情が引き締まる。


ブライアンの目が、静かに鋭くなる。


「……反応しましたね」


誰かが呟いた。


マーリンは、糸を引き戻そうとする。


指先を握る。


けれど、糸はすぐには戻らない。


リュールの方へ向かいたがる。


白い糸が、白い人形を求めている。


マーリン自身の意思とは少し違う場所で。


「止めて」


小さく言う。


誰に言ったのか分からない。


リュールにか。


糸にか。


自分にか。


クリスチーナがそばへ寄る。


「お嬢様」


その声で、糸がわずかに揺れた。


マーリンは息を吸う。


「だいじょ――」


言いかけて、止める。


違う。


大丈夫ではない。


ミハイルなら、きっとそこで眉をひそめた。


君の大丈夫は信用しない。


その声が、記憶の奥で静かに響く。


もう、その声は新しく返らない。


なら、自分で止めなければならない。


マーリンは唇を噛み、もう一度息を吸った。


「怖いわ」


そう言った。


声は小さい。


でも、確かに言えた。


クリスチーナが頷く。


「はい」


ブライアンは何も言わない。


メッサーシュミットも、記録係も、整備員たちも黙っている。


その沈黙の中で、リュールの胸の光だけが静かに脈打っていた。


白い糸が、少しずつ緩む。


マーリンは指を閉じる。


今度は、戻ってくる。


細い光が手袋の中へ消えていく。


リュールの胸の光も弱くなった。


完全には消えない。


奥の奥で、まだ小さく残っている。


それが、マーリンには返事のように見えた。


怖かった。


でも、少しだけ悲しかった。


リュールは何も悪くない。


ただ、応えただけなのだ。


マーリンの糸に。


マーリンの中の、まだよく分からない何かに。


「ロイス嬢」


メッサーシュミットの声が戻る。


「今の反応で、身体的な異常は」


「ありません」


「精神負荷は」


マーリンはリュールを見上げたまま答える。


「高いと思います」


検査室の空気が、また少し止まる。


軍人たちは、そういう答えに慣れていないのかもしれない。


痛いなら痛い。


動けるなら動ける。


数値化できるものなら扱える。


けれど、怖い、や、苦しい、や、まだ泣きたい、は置き場所がない。


マーリンは続けた。


「それでも、今は立っています」


メッサーシュミットは短く頷く。


「記録します」


記録。


やはり、それしかない。


マーリンは少しだけ笑いそうになった。


笑えなかった。


試験結果は、良好すぎた。


魔力波形は前回と一致。


リュールの反応は再現。


リンク経路の初期接続も確認。


精神負荷は高いが、継続不可能ではない。


継続不可能ではない。


それは、続けられるという意味だった。


マーリンが苦しくても。


怖くても。


泣いたばかりでも。


壊れないなら、使える。


メッサーシュミットは資料をまとめる。


「ロイス嬢。今回の結果から、次段階の試験に進めると判断されます」


「次段階」


「搭乗を伴う再リンク試験です」


クリスチーナの表情が強張る。


マーリンは、それを見ない。


見れば、揺らぐ。


「安全性は?」


ブライアンが問う。


「完全な保証はできません。ただし、前回の起動時より管理環境は整っています。耐Gスーツ、医療班、リンク遮断手順、緊急停止系統も準備済みです」


安全そうな言葉が並ぶ。


けれど、リュールの中へ入るのはマーリンだ。


黒い宇宙を思い出すのも、白い糸を伸ばすのも、吐き気を飲み込むのも、マーリンだ。


「ロイス嬢」


メッサーシュミットが言う。


「次回試験への協力を、正式に要請いたします」


マーリンは目を閉じた。


ミハイルの声を探す。


マーリン。


怖いと言っていい。


声は記憶の中にある。


けれど返事はない。


代わりに、別のものが胸に残っている。


王国好戦派。


襲撃。


和平の破壊。


ミハイルの死。


許せない。


その熱が、悲しみの隣で息をしている。


マーリンは目を開ける。


「必要なら」


静かな声だった。


「協力いたします」


クリスチーナが、小さく息を呑む。


ブライアンは何も言わない。


メッサーシュミットは礼をする。


「感謝いたします、ロイス嬢」


マーリンは、その言葉を受け取った。


感謝。


また、綺麗な言葉。


けれどマーリンの中では、何かが少しだけ沈んでいく。


戦いたくない。


それは変わらない。


でも、必要なら。


その言葉が、彼女をリュールの方へ一歩近づけた。


確認書類に署名は求められなかった。


まだ正式な搭乗同意ではない。


あくまで確認。


あくまで要請。


あくまで次段階への準備。


そういう、逃げ道のようで逃げ道ではない言葉が並んでいた。


マーリンは椅子に座り直し、検査後の水を受け取った。


コップの水は冷たい。


口に含むと、喉の奥が少し痛んだ。


泣きすぎたせいか。


怖かったせいか。


それとも、また戦場に近づいたせいか。


分からない。


分からないことばかりだった。


ブライアンが静かに言う。


「ロイス嬢。無理をしているなら」


「無理ではありません」


即座に答えてから、マーリンは自分の声に驚いた。


早すぎた。


強すぎた。


ブライアンも気づいただろう。


けれど彼は指摘しない。


「そうですか」


それだけだった。


マーリンはコップを握る。


「無理では、ないのだと思います」


言い直す。


「ただ、分からないだけです。どこからが無理で、どこまでが必要なのか」


クリスチーナの息が浅くなる。


ブライアンは、少しだけ目を伏せた。


「それを見誤らないよう、こちらも手順を整えます」


手順。


また正しさが来る。


マーリンは、今度は笑わなかった。


「お願いします」


頼むしかなかった。


自分の境目が分からない。


なら、誰かが線を引く。


けれどその線が、マーリンを守るためのものなのか、使うためのものなのか。


それも、まだ分からなかった。


施設を出る前、マーリンはもう一度だけ格納区画を振り返った。


白い人形は、静かに立っている。


眠っているようで、眠っていない。


マーリンの指先が、手袋の中でわずかに疼く。


白い糸はもう出ていない。


けれど、リュールへ向かう感覚だけが残っている。


怖い。


確かに怖い。


それでも、その怖さの奥に、別の熱がある。


ミハイルの声は返らない。


けれど、彼を奪った者たちはまだどこかにいる。


マーリンは小さく息を吐く。


「必要なら」


誰に聞かせるでもなく、そう呟く。


クリスチーナは隣で顔を伏せる。


ブライアンは何も言わない。


メッサーシュミットは、すでに次の試験の準備を進めている。


もう一度、リュールへ。


白い人形は、静かにマーリンを待っていた。


施設の外へ出ると、帝都の空は薄く曇っていた。


軍港区画では、輸送艇が低く飛び、遠くで管制灯が点滅している。学園の庭園とは違う空。休日市のにぎわいとも違う空。


戦争へ向かう空だった。


マーリンは車に乗る前、振り返らなかった。


振り返れば、また白い人形が見える。


見えなくても、もういると知っている。


リュールは、軍の管理施設にある。


マーリンは、学園へ戻る。


場所は離れる。


けれど、白い糸の感覚だけが指先に残ったままだ。


クリスチーナが隣に立つ。


「お嬢様」


「なに、クリス」


「お戻りになられたら、お休みくださいませ」


マーリンは少しだけ目を伏せた。


休む。


そう言われても、休み方がもう分からない。


眠れば、ミハイルの背中を見る。


起きれば、リュールの白い姿を見る。


どちらにしても、胸が痛む。


それでもマーリンは頷いた。


「ええ。少しだけ」


少しだけ。


その言葉なら、まだ言える。


車の扉が閉まる。


軍の管理施設が窓の外で遠ざかる。


マーリンは膝の上で手を重ねた。


手袋の下、指先はまだ微かに疼いている。


白い糸。


白い人形。


白い紙。


白い髪。


白いものは、いつも綺麗な顔をしている。


その奥に何を隠していても。


マーリンは目を閉じる。


ミーシャ、と呼ぶ。


返事はない。


その沈黙の隣で、怒りが小さく息をした。


まだ戦いたくない。


けれど、必要なら。


その言葉が、もう彼女の中に残ってしまっていた。

ここまでお読みいただき有り難うございました。


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