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正しさが来る

ご覧いただきありがとうございます。

評価、ブックマークしていただきありがとうございます。

扉の向こうから、ブライアンの声がした。


「ブライアンです。ロイス嬢に、お伝えしたいことがあります」


正しい声だった。


乱れていない。


急いでいない。


悲しみに沈んでもいない。


ただ、必要な用件を必要な形で運んできた声。


マーリンは寝台の端に座ったまま、目を閉じた。


正しさが来た。


悲しみがまだ床に落ちている部屋へ。


泣き腫らした目も、乱れた息も、片づけきれていないままの部屋へ。


クリスチーナが扉の前で止まる。


「お嬢様」


入れてよいのか、と聞いている。


マーリンはすぐには答えられなかった。


会いたくない。


誰にも会いたくない。


ロイス嬢と呼ばれたくない。


希望の花に戻されたくない。


けれど、扉の向こうにいるのはブライアンだった。


彼は待つ。


待つことができる。


礼儀正しく、こちらの返事があるまで、決して踏み込まない。


だから余計に逃げ場がない。


マーリンは、ゆっくり息を吸った。


声を整える。


「お通しして、クリス」


自分の声は、思ったより落ち着いていた。


嫌になるくらい、落ち着いていた。


クリスチーナは一度だけマーリンを見た。


止めたい、という顔だった。


それでも彼女は扉を開ける。


侍女として。


マーリンを守りたい人として。


どちらの立場も、今は彼女を苦しめているようだった。



ブライアンは部屋に入ると、深く一礼した。


「お辛いところ、失礼いたします」


辛い。


その言葉は正しい。


けれど、今のマーリンには少し遠い。


辛い、という言葉では足りない。


でも、他の言葉も見つからない。


ブライアンはマーリンの顔を見る。


泣いたことには気づいているはずだった。


目元の赤みも、声のかすれも、完璧には隠せていない。


それでも彼は、そこに触れない。


触れない優しさなのか。


触れる必要がないと判断しているのか。


マーリンには分からない。


「ブライアン様」


「はい」


「ご用件を」


早く終わらせたい。


けれど、終わらせたところでミハイルは帰らない。


ブライアンは一枚の封書を差し出した。


軍と学園、そしてロイス家の印がある。


三つ。


重い印だった。


「戦況が動き始めています」


「……そうでしょうね」


マーリンは封書を見る。


開きたくない。


紙の中には、きっと正しいことが書いてある。


正しい言葉で、正しい手順で、正しい命令が並んでいる。


そしてそのどこにも、ミーシャはいない。


ブライアンは静かに続ける。


「和平交渉は凍結されました。王国側は、襲撃を一部勢力の暴走として処理しようとしています。ですが帝国側は、それをそのまま受け入れません」


「戦争が進むのですね」


「進みます」


短い答えだった。


残酷なほど、正確だった。


マーリンは少し笑いそうになる。


戦争が進む。


まるで列車の話みたいだった。


発着時刻が決まり、線路が伸び、誰かが乗せられていく。


その線路の上に、ミハイルの死が置かれている。


「それを、わたくしにお伝えに?」


「それだけではありません」


ブライアンは、少しだけ声を低くした。


「ロイス嬢にできることがあります」


来た。


マーリンは、胸の奥で何かが冷えるのを感じた。


できること。


その言葉を、彼女はよく知っている。


できることは、頼まれる。


頼まれたことは、断りにくい。


断らなければ、いつの間にか役割になる。


そうやって、マーリンは少しずつ削られてきた。


「わたくしに、何をさせたいのですか」


言い方が少し鋭くなる。


ブライアンは責めない。


「まず、学園内の混乱を抑えるための声明です。ロイス嬢の言葉には力があります」


「また、希望の花として?」


「はい」


迷いのない肯定。


マーリンは息を止めた。


嫌だと言いたい。


ミハイルが死んだ。


泣いた。


崩れた。


名前を呼ぶ人がいなくなった。


それなのに、また花として立てと言う。


綺麗に咲いて、周囲を安心させろと言う。


「わたくしの目が赤くても?」


「それもまた、哀悼として受け取られます」


正しい。


本当に、正しい。


目元の赤みさえ、意味に変えられる。


泣いた顔も、役に立つ。


マーリンは膝の上で手を握った。


「それから」


ブライアンは続ける。


「軍から、追加の適性確認要請が出ています」


クリスチーナが反応する。


「適性確認、でございますか」


「試作機との再リンク試験です」


その言葉が部屋の空気を変えた。


試作機。


軍の言い方。


マーリンの中では、白い名前がすぐに浮かぶ。


リュール。


白い人形。


黒い宇宙。


白い糸。


急加速。


吐き気。


指先の震え。


マーリンは、膝の上で握った手にさらに力を込めた。


「まだ、わたくしは生徒です」


「承知しています」


「軍人ではありません」


「その通りです」


「では、なぜ」


ブライアンは少しだけ沈黙する。


「戦争が動くからです」


正しい答えだった。


あまりにも正しい。


「襲撃によって、帝国側は報復の圧力を受けています。王国側も、好戦派と穏健派の対立が激しくなる。今後、局地戦が再燃する可能性があります」


「それで、リュールを?」


その名前を口にした瞬間、マーリンの胸が少し痛んだ。


自分がつけた名前。


軍の書類には載らない名前。


白い人形をただの試作機ではなく、この子にした名前。


ブライアンは一拍置いてから頷く。


「リュールは、ロイス嬢に反応した唯一の機体です。軍の記録では試作機のままですが、ここではその名で呼びます」


「優しいのですね」


自分でも驚くほど、平たい声だった。


ブライアンは表情を変えない。


「ロイス嬢がそう呼ぶ機体ですから」


「その優しさも、必要な手順ですか」


「否定はしません」


否定しない。


その正直さが、かえって痛い。


マーリンは封書を見つめた。


「ミハイル様が亡くなられたから、わたくしを乗せるのですか」


ブライアンの目が、わずかに揺れる。


「そうではありません」


「では、違うのですか」


今度は、ブライアンがすぐに答えなかった。


それが答えだった。


マーリンは呼吸を浅くする。


ミハイルの死。


和平の破綻。


戦争の再加速。


リュールの適性確認。


全部がつながっている。


つながってほしくないのに、つながってしまう。


「ロイス嬢」


ブライアンの声は静かだった。


「ミハイルは、和平を望んでいました」


胸が痛む。


「その名を、都合よく使わないでください」


マーリンの声は低かった。


クリスチーナが息を呑む。


ブライアンは顔を上げる。


「使っています」


逃げなかった。


「その自覚はあります」


マーリンは言葉を失った。


認められるとは思わなかった。


「ただ、彼の死を怒りだけに渡すつもりはありません」


「怒りだけに?」


「はい」


ブライアンは封書を机の上に置く。


「今、帝国の世論は王国への報復へ傾いています。ミハイルの死は、そのための旗印にされる。すでにそうなり始めている」


マーリンは唇を噛んだ。


分かっている。


分かっているから苦しい。


「ですが、ロイス嬢が立つなら、意味を変えられる可能性があります」


「わたくしが?」


「はい。彼が望んだ和平を、ただの弱さにしない。彼の死を、無秩序な憎悪ではなく、帝国の民を守る意思へ向ける」


綺麗な言葉だった。


とても綺麗で、とても危うい。


悲しみを怒りに変える道に、花を敷くような言葉。


マーリンは、その危うさに気づく。


気づいているのに、胸の奥で何かが動いた。


王国好戦派。


和平の席を襲った者たち。


ミハイルを奪った者たち。


その存在を思うと、空っぽだった胸の奥に、熱が差す。


悲しみとは違う。


冷たくない。


焼けるような熱。


「……許せないわ」


言葉が、ぽつりと落ちた。


クリスチーナがマーリンを見る。


ブライアンも、黙っている。


「ミーシャは、戦争を止めようとしていたのに」


公の場ではない。


だから、その名前が出た。


ミーシャ。


返事はない。


けれど名前を口にした瞬間、涙とは別のものが胸を満たす。


「言葉で止めようとしたのに。和平の席で、殺されたのね」


「はい」


「そんなことが、許されるの」


ブライアンは答えない。


答えないことで、答えている。


許されない。


誰かがそう言ってほしかった。


怒っていいと。


悲しみだけでなく、怒っていいと。


けれどそれは、危ない救いだった。


怒りは立ち上がらせる。


同時に、どこかへ運んでいく。


マーリンはそれを分かっている。


分かっているのに、立てそうな気がした。


泣いているだけでは息ができない。


でも怒れば、息ができる。


それが怖い。


「ブライアン様」


「はい」


「あなたは、わたくしに何を望んでいるのですか」


「今は、立っていただくことを」


「その後は?」


「必要なら、リュールとの適性確認に応じていただくことを」


必要なら。


その言葉が、部屋に落ちる。


マーリンは目を伏せた。


リュールに乗る。


また白い糸を伸ばす。


また黒い宇宙を見る。


怖い。


怖いはずなのに、今はその怖さの上に、別のものが重なっている。


王国好戦派。


襲撃。


ミハイルの死。


許せない。


その言葉が、胸の奥で静かに形を持ち始める。


「お嬢様」


クリスチーナが声をかける。


止めたい声だった。


まだ早い。


まだ悲しんでいい。


まだ戦いのことなど考えなくていい。


そう言いたい声。


マーリンはクリスチーナを見る。


「クリス」


「はい」


「私、戦いたくないわ」


「はい」


「それは、変わらない」


「はい」


「でも」


続きが出ない。


言えば、何かが決まってしまう。


まだ決めたくない。


けれど、ブライアンはその空白に、正しい言葉を置く。


「守るためです」


マーリンは目を上げる。


「帝国の民を。次に交渉へ向かう誰かを。ミハイルが守ろうとしたものを」


正しい。


あまりにも正しい。


だから、残酷だった。


「ロイス嬢にしか、できないことがあります」


その言葉は、鍵のように胸へ入ってくる。


できること。


自分にしかできないこと。


それは呪いに似ている。


でも今は、救いにも見えた。


何もできずに泣くより。


返らない声を呼び続けるより。


怒りに名前を与えられるなら。


マーリンは、ゆっくり封書に手を伸ばした。


クリスチーナの視線が痛い。


ブライアンの視線は静かだ。


封書を取る。


紙は軽い。


けれど、持った瞬間、手が重くなる。


「わたくしは、まだ返事をしていません」


「承知しています」


「今は、確認するだけです」


「それで構いません」


マーリンは封書を胸元に引き寄せた。


胸の奥では、ミハイルの声がまだ残っている。


怖いと言っていい。


その声が、怒りの熱に飲まれそうになる。


マーリンは小さく呟く。


「怖いわ、ミーシャ」


返事はない。


代わりに、ブライアンの声がある。


「ロイス嬢」


正しい声。


「ロイス嬢には、できることがあります」


その言葉は、優しい形をしていた。


けれど、その先には戦場があった。



ブライアンが帰ったあと、部屋はまた静かになった。


けれど、先ほどまでの静けさとは違う。


悲しみだけだった場所に、別の熱が残っている。


マーリンは封書を机に置いた。


開けない。


まだ開けない。


でも、置いた場所から目を離せない。


クリスチーナがそばに立つ。


「お嬢様」


「怒っているのね、クリス」


「……はい」


珍しく、はっきりした返事だった。


マーリンは少しだけ笑った。


「私に?」


「いいえ」


「ブライアン様に?」


「少し」


「少しなのね」


「かなり、かもしれません」


その答えに、マーリンは本当に少しだけ笑った。


笑って、すぐに顔が歪む。


「でも、ブライアン様は間違っていないわ」


「正しいことと、お嬢様を救うことは同じではございません」


その言葉が、胸に刺さった。


ブライアンは正しい。


ロイス公爵も、帝国の論理としては正しい。


戦争が動く以上、リュールの適性確認が必要になるのも分かる。


正しいことばかりが来る。


そして、そのたびにマーリンの悲しみは置き場所を失う。


「クリス」


「はい」


「私、怒ってもいいのかしら」


クリスチーナはすぐに答えない。


少しだけ迷って、それから言う。


「怒ってよろしいと思います」


「でも、怒ったら……どこかへ行ってしまいそう」


「はい」


「ミーシャが好きだった私は、そこに残れるかしら」


クリスチーナの表情が歪む。


「お嬢様」


「分からないの」


マーリンは机の上の封書を見る。


「悲しいの。とても。ミーシャに会いたい。声が聞きたい。名前を呼んでほしい」


涙がまた滲む。


けれど今度は、涙だけではない。


「でも、許せないの」


王国好戦派。


和平の席。


襲撃。


死亡確認。


その言葉が、胸の奥で火種になる。


「どうして、ミーシャだったの」


誰も答えない。


答えなどない。


ないから、怒りは行き場を探す。


ブライアンは、その行き場を持ってきた。


ロイス嬢にできること。


リュール。


適性確認。


マーリンは、それが危ないことだと分かっている。


それでも、封書から目を離せない。


クリスチーナは机の上の封書を見つめた。


「お嬢様は、まだお返事をなさる必要はございません」


「ええ」


「まだ、開かなくても」


「ええ」


「まだ、悲しんでよろしいのです」


「……ええ」


返事だけはする。


けれど視線は動かない。


封書は何も言わない。


ただ、そこにある。


開けられるのを待っている。


扉の向こうで待っていたブライアンと同じように。


礼儀正しく。


正しく。


逃げ場を与えずに。


マーリンは長い息を吐いた。


「正しさって、少し怖いのね」


クリスチーナは小さく頷く。


「はい」


「間違っていることなら、嫌だと言えるのに」


「はい」


「正しいことは、嫌だと言いにくいわ」


「はい」


「だから、来るのね」


ブライアンも。


ロイス公爵も。


軍の封書も。


帝国の怒りも。


全部、正しさの顔をして来る。


そして、マーリンの泣いている場所へ上がり込む。


靴をそろえて。


礼をして。


必要な用件です、と言って。



夜が近づいても、封書は机の上に置かれたままだった。


開封されていない。


けれど、無視もされていない。


マーリンは長い時間、その封書を見つめていた。


クリスチーナは何も言わず、そばにいる。


部屋の灯りが、紙の端を淡く照らしている。


赤い封蝋には、三つの印。


軍と学園とロイス家。


三つの正しさが、そこにある。


机の少し奥には、機械仕掛けの小さな鳥が置かれていた。


ミハイルに買ってもらった鳥。


金属の羽は閉じたまま、静かに眠っている。


マーリンは封書と鳥を交互に見た。


鳥は何も求めない。


ただ、あの日の余白を残している。


封書は何も語らない。


けれど、次の役割を持っている。


どちらも同じ机の上にある。


それがひどく残酷に思えた。


ミハイルがくれた小さな余白と、ミハイルの死のあとに届いた正しい命令。


近すぎる。


近すぎて、胸が痛い。


「ミーシャ」


小さく呼ぶ。


返事はない。


当たり前の沈黙。


でも、その沈黙の奥で、別の言葉が浮かぶ。


必要なら。


マーリンは手を伸ばした。


クリスチーナがわずかに息を呑む。


封蝋に指先が触れる。


冷たい。


「お嬢様」


「読むだけよ」


「……はい」


「返事は、まだしないわ」


「はい」


マーリンは目を閉じた。


ミーシャ、と胸の中で呼ぶ。


返事はない。


返事はないけれど、声は残っている。


怖いと言っていい。


マーリンは息を吸った。


「怖いわ」


誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。


ミハイルへ。


クリスチーナへ。


リュールへ。


それとも、自分の中で息をし始めた怒りへ。


マーリンは封書を開く。


紙の音が、部屋に小さく響いた。


中には、リュール再リンク試験の日程と、適性確認の要請が記されていた。


場所。


時間。


担当部署。


安全確認。


魔力消費量測定。


試作機との同調率再評価。


白い人形が、また彼女を待っている。


悲しみは、まだ消えていない。


消えるはずがない。


けれどその隣で、怒りが静かに息をし始めていた。


マーリンは文面を最後まで読み、紙を閉じた。


すぐには何も言わない。


返事もしない。


ただ、机の上の鳥へ視線を戻す。


飛べない鳥。


机の上を少しだけ旅する鳥。


ミハイルの残した、小さな余白。


その隣に、リュールの白い影が立っている。


マーリンは震える指で、鳥の金属の羽に触れた。


壊れなかった。


冷たいまま、そこにあった。


「クリス」


「はい、お嬢様」


「私、まだ戦いたくないわ」


「はい」


「でも、何もしないでいることも、もうできないかもしれない」


クリスチーナは目を伏せる。


「お嬢様」


「まだ決めない。まだ、決めたくない」


「はい」


「けれど、読んでしまったわ」


封書は、もう閉じた紙ではない。


中身を知ってしまった。


正しさは、部屋へ入ってきた。


そして、マーリンの中のどこかに場所を作ってしまった。


ミハイルの声が返らない沈黙の中で、怒りだけが小さく答える。


許せない、と。


マーリンは鳥から手を離した。


リュール再リンク試験の紙は、机の上で静かに白かった。


白い紙。


白い人形。


白い髪。


そして、まだ泣ききれないままの少女。


部屋の外では、学園がいつも通りに動いている。


部屋の中では、ひとつの道が開きかけている。


それは救いではなかった。


けれど、立ち上がる理由にはなってしまいそうだった。

ここまでお読みいただき有り難うございました。


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