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名前を呼ぶ人はいない

ご覧いただきありがとうございます。

評価、ブックマークしていただきありがとうございます。

部屋の扉が閉まった。


外の声が遠くなる。


廊下ではまだ、誰かがミハイルの死を語っている。


王国好戦派。


和平破綻。


帝国の怒り。


報復の必要。


どれも正しい言葉だった。


正しい言葉は、よく通る。


遠くまで届く。


人の口から人の口へ渡って、あっという間に広がる。


でも、マーリンのところには届かない。


届く前に、胸の奥で全部こぼれていく。


ミハイルは死んだ。


その一文だけが、こぼれない。


重い。


冷たい。


動かない。


マーリンは扉の前に立ったまま、手袋を外そうとした。


右手の指先を引く。


うまく抜けない。


もう一度、引く。


やはり抜けない。


ただの手袋なのに。


朝は簡単にはめられた。講義の前にも、会議室に入る前にも、何度だって整えられた。微笑みと同じように、決まった手順で、決まった形に収まってくれた。


なのに今は、指が動かない。


「お嬢様」


クリスチーナが近づく。


その声は優しい。


とても優しい。


けれど、違う。


お嬢様。


それはマーリンを守るための名前だった。


ロイス家の令嬢を呼ぶ名前だった。


大切に思ってくれる声だった。


でも、違う。


マーリンは手袋を見つめたまま、唇を動かす。


「……違うの」


声は小さかった。


「お嬢様?」


クリスチーナが息を呑む。


マーリンは首を振った。


何が違うのか、うまく言えない。


ロイス嬢。


希望の花。


お嬢様。


帝国の象徴。


ロイス家の顔。


どれも違う。


ミハイルだけが、ただ名前を呼んでくれた。


マーリン。


それだけでよかった。


それだけで、彼女は彼女でいられた。


なのに、もうその声は返らない。


「クリス」


「はい」


「名前を呼んでくれる人が、いなくなったわ」


クリスチーナの顔が歪む。


「お嬢様」


「それも、違うの」


マーリンは笑おうとした。


笑えない。


口元がひどく重い。


「クリスが悪いのではないわ。分かっているの。あなたは私を守ってくれている。ずっと。今も」


「お嬢様……」


「でも、違うの」


同じ言葉しか出てこない。


違う。


何もかもが違う。


ミハイルがいない世界は、形だけ同じで中身が違う。


部屋も、窓も、机も、椅子も、端末も、同じ場所にある。


けれど違う。


ミハイルが死んだのに、世界がまだ形を保っているのが、おかしかった。


マーリンは手袋を外すのを諦めた。


そのまま、窓辺へ歩く。


それでも足は前へ出た。


何事もなかったように身体が歩き方を覚えている。


それがまた、少し嫌だった。


窓の外には帝都の灯りが広がっている。


あの夜と同じ街。


帝都の夜景を背景に、二人の影が重なった街。


マーリンは窓ガラスを見る。


映っているのは、一人だけだった。


白い髪。


整った制服。


崩れていない姿勢。


希望の花。


綺麗だった。


綺麗で、空っぽだった。


マーリンは窓ガラスに手を触れる。


冷たい。


「ミーシャ」


呼ぶ。


小さく。


返事はない。


「ミーシャ」


もう一度。


返事はない。


三度目は、声にならなかった。


喉の奥で詰まって、息だけが漏れる。


その瞬間、ようやく膝が揺れた。


ほんの少し。


けれど、立て直せなかった。


身体が沈む。


クリスチーナが駆け寄る。


「お嬢様!」


マーリンは床に膝をついた。


痛みは遅れて来る。


でも、どうでもよかった。


手袋をしたままの指が、床を掴む。


掴めるものなど何もないのに。


「いや」


短い言葉が落ちた。


「いやよ」


それは、令嬢の言葉ではなかった。


希望の花の言葉でもなかった。


ただの少女の声だった。


「いや。いやよ、クリス」


「はい。お嬢様、はい」


クリスチーナは抱き寄せようとして、少しためらった。


侍女として。


護衛として。


一歩後ろにいる者として。


越えていい距離と、越えてはいけない距離がある。


でも、マーリンの指が床を掻くのを見て、その迷いは消えた。


クリスチーナは膝をつき、マーリンの肩を支える。


「お嬢様」


「ミーシャが」


言葉が続かない。


死んだ。


いない。


返らない。


どれも言いたくない。


言えば本当になる。


もう本当なのに。


「ミーシャが、返事をしないの」


「はい」


「呼んでも、返事をしないの」


「はい」


「続きを、残したのに」


クリスチーナは何も言えない。


マーリンは、ようやく泣き始めた。


声は大きくない。


叫びにもならない。


ただ、息が崩れる。


吸えない。


吐けない。


胸の奥が詰まって、肩が震える。


涙が頬を伝う。


一度こぼれると、止まらない。


それまで遠かったものが、急に追いついてきたみたいだった。


発着区画。


閉じる扉。


白い航行灯。


庭園の木陰。


行かないで、と言った声。


強い約束はしなかった。


未来を明言しなかった。


それでも、どこかで信じていた。


続きを聞けると。


呼べば返事があると。


マーリン、と、また呼んでくれると。


「私、言わなかったの」


「お嬢様」


「ちゃんと言わなかった。もっと、言えばよかった。好きだって。怖いって。行かないでって。もっと、もっと」


「お嬢様は、お伝えになりました」


「足りないわ」


マーリンは首を振った。


「足りない。全然足りないの。あんな少しじゃ、足りないわ」


言葉は、あとからあとから溢れてくる。


整っていない。


美しくない。


誰かに聞かせるためのものではない。


「私、和平を願っていたの。戦争が終わればいいと思っていたの。ミーシャが行くのも、止めてはいけないと思ったの」


「はい」


「でも、行ってほしくなかった」


「はい」


「帝国なんて、和平なんて、役目なんて、全部どうでもいいから、隣にいてほしかった」


「はい」


「そんなこと、思ってはいけないのに」


「思ってよろしいのです」


クリスチーナの声が震える。


「お嬢様は、思ってよろしいのです」


マーリンは顔を上げた。


涙で視界が滲んでいる。


クリスチーナの顔も、少し歪んで見える。


「本当に?」


「はい」


「ロイス家の令嬢でも?」


「はい」


「希望の花でも?」


「はい」


「お父様が、私情に沈むなと言っても?」


クリスチーナは、一瞬だけ息を止める。


それでも答えた。


「はい」


その一言は、とても小さな反逆だった。


ロイス公爵には届かない。


帝国にも届かない。


戦争を止める力もない。


けれど、マーリンの胸には届いた。


届いたのに、救いにはならなかった。


少しだけ温かい。


でも、痛みは消えない。


ミハイルは帰らない。


マーリンをマーリンと呼ぶ声は、もう増えない。


クリスチーナは寄り添ってくれる。


手を取ってくれる。


泣いていいと言ってくれる。


けれど、ミハイルの代わりにはなれない。


なってほしいわけでもない。


だからこそ、救われない。


マーリンはクリスチーナの袖を掴んだ。


「クリス」


「はい」


「助けて」


その言葉は、幼い子どものようだった。


マーリン自身も驚くほど、弱い声だった。


クリスチーナの目が潤む。


「はい。お嬢様。私はここにおります」


「違うの」


また、違う。


クリスチーナはここにいる。


それは分かっている。


分かっているのに、届かない場所がある。


「ミーシャがいないところから、助けて」


クリスチーナは言葉を失った。


そんな場所からは、誰も助けられない。


死んだ人がいない世界から、人は逃げられない。


逃げても、朝が来る。


講義がある。


呼び出しがある。


声明がある。


戦争が動く。


そして、その全部の中にミハイルだけがいない。


クリスチーナはマーリンを抱きしめた。


強く。


けれど壊さないように。


「申し訳ございません」


「クリス?」


「申し訳ございません、お嬢様」


謝らないでほしかった。


クリスチーナは悪くない。


悪いのは、襲撃した者たち。


和平を壊した者たち。


戦争。


帝国。


ロイス家。


父。


たぶん、いくつもある。


けれど、今のマーリンには、どれも遠い。


ただ、ミハイルがいない。


それだけが近い。


近すぎる。



泣き疲れても、眠れなかった。


マーリンは長椅子に座っている。


クリスチーナが濡らした布で目元を冷やしてくれる。


目が腫れている。


顔も崩れている。


人前には出られない顔だった。


それが少しだけ救いだった。


少なくともこの顔では、希望の花にはなれない。


けれど、扉の外には世界がある。


世界は待ってくれない。


ロイス公爵の命令も、ブライアンの処理も、学園のざわめきも、戦争の動きも。


すべてが、またマーリンを呼ぶ。


ロイス嬢。


お嬢様。


希望の花。


誰も、ただマーリンとは呼ばない。


マーリンは端末を見つめた。


暗い画面。


何も映らない。


指先で触れれば、最後の通信履歴を開ける。


でも開けない。


見たい。


見たくない。


声ではない文字を見ても、余計に痛くなる気がした。


机の上には、機械仕掛けの小さな鳥が置かれている。


ミハイルに買ってもらった鳥。


金属の羽は閉じられ、硝子の目は何も映さない。


ぜんまいを巻けば、また机の上をぎこちなく跳ねるだろう。


けれど、マーリンは手を伸ばせなかった。


あの鳥は飛べない。


それでも、机の上なら立派な旅だと言われた。


その時は、少し笑えた。


飛べなくても旅はできるのだと、そんな小さな言葉が嬉しかった。


今は違う。


鳥は机の上にいる。


ミハイルは、どこにもいない。


旅の終わりが机の端で止まるなら、どれほどよかっただろう。


落ちる前に、戻れたなら。


誰かが、ぜんまいを巻き直せたなら。


マーリンは鳥を見つめたまま、唇を噛んだ。


マーリンは、鳥の横に置かれた小さな箱にも目を向けた。


買った時に包まれていた、薄い紙箱。


クリスチーナが捨てずに取っておいたものだった。角は少しへこんでいる。中にはもう何も入っていないのに、蓋を開ければ、あの日の市のざわめきがこぼれてきそうな気がする。


ミハイルは、あの鳥を選ぶ時、少しだけ真面目な顔をした。


派手な宝石でも、貴族らしい飾りでもない。


机の上を跳ねるだけの、飛べない鳥。


それを渡されて、マーリンは困った。


困って、嬉しかった。


彼はいつもそうだった。


大きな言葉ではなく、小さなものをくれる。


逃げ場のない正しさではなく、逃げ込める余白をくれる。


怖いと言える場所。


名前を呼ばれる場所。


その全部が、あの小さな鳥の金属の翼に触れた時、確かにあった。


マーリンは鳥を掴もうとして、途中で指を止めた。


触れたら、あの日まで壊れてしまいそうだった。


触れなければ、少なくとも机の上に残っている。


それもまた、弱い願いだった。


「クリス」


「はい」


「私は、ミーシャの声を忘れるかしら」


クリスチーナはすぐに答えない。


その沈黙が怖い。


「忘れたくないの」


「忘れません」


「本当に?」


「はい」


「でも、人は忘れるわ」


「それでも、お嬢様は忘れません」


「どうして分かるの」


クリスチーナは、布を持つ手を止める。


「お嬢様が、忘れたくないと願っておられるからです」


それは根拠としては弱かった。


けれど、優しい弱さだった。


マーリンは目を閉じる。


ミハイルの声を思い出す。


マーリン。


一度。


もう一度。


何度も。


記憶の中では返事がある。


でも現実には返らない。


その差が、胸を切る。


「私、何もしたくないわ」


「はい」


「立ちたくない」


「はい」


「微笑みたくない」


「はい」


「帝国のために、なんて言いたくない」


「はい」


「王国を憎めと言われても、今はまだ何も考えられない」


「はい」


「ただ、ミーシャに会いたい」


最後の言葉で、また涙がこぼれる。


今度は静かだった。


クリスチーナは、布を置いてマーリンの手を包む。


「お嬢様」


「なに」


「今は、それだけでよろしいかと」


「よくないわ」


マーリンは首を振った。


「きっと、よくない。お父様は許さない。学園も、帝国も、誰も待たない」


「それでも」


クリスチーナは言葉を選ぶ。


「この部屋の中だけでも」


この部屋の中だけ。


狭い。


とても狭い。


けれど、今のマーリンに許された悲しみは、その程度の広さしかない。


部屋の中だけ。


扉が閉まっている間だけ。


クリスチーナがそばにいる間だけ。


それでも、ないよりはましだった。


マーリンは頷けない。


ただ、手を握り返す。


クリスチーナの手は温かい。


温かいのに、足りない。


それを口にしない程度の優しさは、まだ残っていた。



夜が深まっても、マーリンは眠れない。


寝台に横になっても、目が閉じられない。


目を閉じると、発着区画の扉が閉まる。


航行灯が遠ざかる。


ミハイルが背中を向ける。


行かないで。


声が戻る。


それから、返らない沈黙。


マーリンは起き上がった。


クリスチーナもすぐに気づく。


「お嬢様」


「ごめんなさい」


「謝らないでくださいませ」


「眠れないの」


「はい」


「ミーシャも、眠れなかったかしら」


クリスチーナは答えられない。


マーリンは窓辺へ行く。


帝都の夜景が見える。


あの夜は、あんなに綺麗だった。


今は、ただ遠い。


街の灯りは無数にある。


その一つ一つに人がいて、生活があって、願いがある。


ミハイルも、その一つを守ろうとした。


言葉で戦争を止めようとした。


その人が死んだ。


なのに街は光っている。


許せない、と思うほどの力もない。


ただ、取り残された感じがした。


マーリンは窓ガラスに映る自分を見る。


泣き腫らした目。


乱れた髪。


外したままの手袋。


希望の花には見えない。


それなのに、少し時間が経てばまた整えられる。


クリスチーナが髪を梳き、目元を冷やし、服を整えれば、マーリンはまたロイス家の令嬢になる。


それが怖い。


また戻れてしまうことが、怖い。


「クリス」


「はい」


「私、また笑えるようになるのかしら」


「……はい」


「笑いたくないのに?」


クリスチーナの表情が揺れる。


「お嬢様は、きっと笑えてしまわれます」


正直な答えだった。


マーリンは小さく息を吐く。


「そうね」


振る舞えてしまう。


そのたびに、ミハイルが遠くなる気がする。


「いやだわ」


「はい」


「ミーシャのいない世界で、うまくできるようになりたくない」


「はい」


「でも、きっとできてしまうのね」


クリスチーナは答えない。


答えなくても分かる。


マーリンは窓から離れた。


足元が少しふらつく。


クリスチーナが支える。


「お嬢様」


「名前」


「え?」


マーリンは、泣き疲れた声で言う。


「私の名前、どこへ行ったのかしら」


クリスチーナは何も言えない。


マーリンは笑わない。


ただ、静かに涙をこぼす。


「ミーシャが持っていってしまったのかしら」


その問いにも、答えはない。


答えがないまま、夜は続く。



扉の外に朝の気配が近づいてくる。


廊下を歩く足音。


控えめな声。


遠くで開く扉の音。


学園はまた動き出す。


ミハイルがいなくても。


マーリンが崩れていても。


世界は、何事もなかったように予定を進める。


クリスチーナはマーリンの髪を梳く。


乱れた白い髪が、少しずつ整えられていく。


目元の赤みは隠しきれない。


それでも、見られる顔には近づいていく。


マーリンは鏡を見ない。


見れば、また希望の花に戻される気がした。


マーリンは、鏡台の上に置かれた髪飾りを見た。


少し前、曲がったままでもいいかもしれないと思った髪飾り。


クリスチーナが少しだけ待ってくれた、あの朝のものだった。


その時のマーリンは、怖いくらい幸せだった。


怖いくらいに。


今になって、その言葉の意味が別の形で返ってくる。


幸せは、怖い。


本当に怖い。


ある時は胸を温めるのに、失った瞬間、同じ場所を空洞にしていく。


誰も教えてくれなかった。


社交の礼儀も、帝国の歴史も、AI統治論も、戦争の基礎も、学園ではいくらでも学ぶのに。


好きな人の声が返らなくなった時、どう息をすればいいのか。


その講義だけは、どこにもなかった。


「お嬢様、少しだけ目を閉じてくださいませ」


「眠るの?」


「いいえ。目元を冷やします」


「そう」


クリスチーナの声は、いつもより柔らかかった。


柔らかいまま、少しだけかすれている。


彼女も眠っていないのだろう。


マーリンは何かを言おうとして、やめた。


ありがとう。


ごめんなさい。


そばにいて。


どれも違って、どれも少し合っている。


言葉が選べない。


選べないまま、時間だけが進む。


その時、扉が叩かれた。


静かで、正しい音だった。


クリスチーナが振り返る。


「どなたでございますか」


扉の向こうから、落ち着いた声が返る。


「ブライアンです。ロイス嬢に、お伝えしたいことがあります」


正しさが来た。


悲しみがまだ床に落ちている部屋へ。


ロイス嬢、と呼ぶ声が。


マーリンは目を閉じた。


ミーシャ、と胸の中で呼んでも、返事はなかった。


ただ、名前を呼ぶ人のいない朝だけが、扉の向こうに立っていた。

ここまでお読みいただき有り難うございました。


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