案件としての死
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ミハイルの死は、朝を待たずに名前を変えた。
ミハイル=ルフトハンザ。
そう呼ばれていたはずの人は、書類の上で別のものになっていく。
和平交渉予備会合襲撃事件。
王国好戦派による重大な挑発行為。
帝国側交渉関係者死亡。
ルフトハンザ家子息殉職。
殉職。
その言葉を見た時、マーリンは少しだけ息を止めた。
殉職は、綺麗な言葉だった。
死を整えてしまう言葉だった。
ミハイルは、殉職したのではない。
マーリンをマーリンと呼んでくれた人が、返らなくなった。
話の続きを残したまま、声が届かない場所へ行ってしまった。
それだけのことだった。
それだけのことのはずだった。
けれど、帝国はそれをそれだけのことにはしてくれない。
学園は、静かに騒がしかった。
廊下では誰も大声を出さない。
けれど、声は止まらない。
王国の好戦派。
和平妨害。
帝国への侮辱。
若き犠牲。
報復。
言葉だけが、早い。
マーリンはその中を歩いた。
背筋を伸ばして。
白い髪を揺らさず。
ロイス家の令嬢として。
すれ違う生徒たちが道を空ける。
「ロイス様……」
誰かがそう呼ぶ。
別の誰かが、慌てて口を閉じる。
気遣いなのか、好奇心なのか、恐れなのか。
判別できない。
マーリンは微笑んだ。
「ご心配には及びませんわ」
言えた。
また、言えてしまった。
心配には及ぶ。
及びすぎるくらい及んでいる。
胸の奥は空っぽで、空っぽなのに焼けている。目を閉じれば、発着区画の航行灯が見える。庭園の木陰が見える。ミハイルの手が、声が、目が見える。
それでも微笑める。
役割に慣れた身体は、悲しみより先に礼儀を選ぶ。
「ロイス様は、本当にお強いのですね」
誰かが小さく言った。
強い。
違う。
そう言いたかった。
強いのではない。
崩れる場所がないだけだ。
けれど、マーリンは言わない。
「恐れ入ります」
そう返す。
口は、今日もよく働いた。
心よりずっと。
生徒会室には、いつもより多くの書類が積まれていた。
ブライアンは机の向こうに立っている。
座っていない。
その姿だけで、事態が通常ではないことが分かる。
机上には、学園内発表文案、関係者通知、臨時説明会の進行表、通信制限に関する注意書きが並んでいる。紙の角は揃っていた。乱れはない。
人の死も、紙になると角が揃う。
それが少しだけ不思議で、少しだけ気持ち悪かった。
「ロイス嬢」
「はい、ブライアン様」
「学園内での発表文案です。確認をお願いしたい」
確認。
それは、マーリンに拒否を求めている言葉ではない。
正しく整っているか。
希望の花として不自然ではないか。
場を荒らさないか。
そのための確認だ。
マーリンは紙を受け取った。
和平交渉予備会合における不幸な襲撃。
帝国の未来を担う若き人材の尊い犠牲。
学園として哀悼を示す。
同時に、王国側の不誠実な勢力に対して強い抗議を表明する。
どこにも、ミーシャはいない。
ミハイル様も、いない。
ルフトハンザ様、という文字だけがある。
その文字もすぐ、尊い犠牲という言葉に溶けていく。
マーリンは紙を持つ指に力を込めた。
少し、皺が寄る。
ブライアンがそれを見る。
「文面に問題が?」
問題。
ある。
ありすぎるほどある。
ミハイルは文面ではない。
犠牲という形に整えられるために死んだのではない。
帝国の怒りを飾るために、交渉の席へ行ったのではない。
けれど、それをこの場で言えば何になる。
個人の悲しみ。
私情。
不適切な動揺。
ロイス公爵なら、そう呼ぶだろう。
マーリンは、ゆっくり紙を戻した。
「……過度に扇動的な表現は避けた方がよろしいかと」
声は静かだった。
「和平を望む者の死が、ただ報復の旗印になるのは……ミハイル様も望まれないと思います」
ブライアンは少しだけ目を伏せた。
「ロイス嬢らしいご意見です」
穏やかな返答だった。
けれど、その穏やかさもまた、書類の端のように整っている。
「ただし、現実として帝国世論は動きます。和平を壊したのが王国側勢力である以上、穏健な言葉だけでは収まりません」
「ミハイル様の死を、使うのですか」
問いは、思ったより鋭く出た。
ブライアンは逃げない。
「使われます」
正直な答えだった。
冷たい。
「ロイス嬢。政治とは、出来事を意味に変えることです」
「人の死も?」
「残念ながら」
残念。
その言葉も、ずるい。
ブライアンは残念だと思っている。
おそらく本当に。
けれど、止めない。
止められないのか。
止める気がないのか。
マーリンには分からない。
分からないけれど、息が苦しい。
「ミハイルの死は、帝国にとって転換点になります」
転換点。
また、別の名前。
ミハイルの死に、次々と名前が貼られていく。
殉職。
犠牲。
侮辱。
転換点。
政治案件。
そのたびに、ミーシャが遠くなる。
マーリンは、手袋の中で指を握った。
「ブライアン様」
「はい」
「ミハイル様は、和平を望んでいました」
「分かっています」
「では」
「分かっているからこそ、扱いが難しいのです」
ブライアンの声は低かった。
「彼の死を、ただの報復の口実にするべきではありません。ですが、なかったことにもできない。帝国は怒る。王国は疑われる。主戦派は勢いづく。和平派は沈黙する。その流れを、完全には止められません」
正しい分析だった。
たぶん。
けれど、正しい分析は、ミハイルを返さない。
マーリンは目を伏せる。
「それでも、名前を奪わないでください」
ブライアンの視線が止まった。
「名前を?」
「ルフトハンザ家子息、殉職者、転換点。そう呼ばれるたび、ミハイル様が遠くなります」
言いながら、胸の奥が痛んだ。
公の場だから、ミーシャとは呼べない。
それだけでもう、ひとつ奪われている。
「せめて、ミハイル様が何を望んでいたかを消さないでください」
ブライアンはしばらく黙った。
それから、文案の一枚を取り、短く線を引く。
「分かりました。表現を調整します」
「ありがとうございます」
礼が出る。
これもまた、整っている。
マーリンは、そのことに少しだけ疲れた。
軍からの正式通達は、昼前に届いた。
学園にも内容が回る。
和平交渉は無期限凍結。
王国側への強い抗議。
国境宙域の警戒レベル引き上げ。
宇宙軍の一部部隊に待機命令。
外交経路は維持しつつ、軍事的対応を検討。
膠着していた戦争が、ゆっくり動き始める。
ゆっくり。
けれど確実に。
止まっていた歯車に、誰かが手をかけたみたいだった。
マーリンは窓の外を見る。
帝都の空を、軍用艇が横切っていく。
普段より数が多い。
白い航行灯。
赤い警戒灯。
綺麗ではない。
もう、綺麗には見えない。
リュールの操縦席を思い出す。
黒い宇宙。
急加速。
白い糸。
指先の痛み。
あの場所へ、また連れていかれる気がした。
マーリンは戦いたくない。
戦争は嫌いだ。
けれど、ミハイルは死んだ。
和平の席で。
言葉で止めようとした場所で。
それを、帝国は怒りに変えようとしている。
王国は敵だ。
報復が必要だ。
犠牲を無駄にするな。
言葉は分かる。
分かってしまう。
だから怖い。
悲しみが、怒りに変わる音がする。
それは外からだけではなかった。
マーリンの中にも、確かにあった。
王国側の好戦派。
襲撃。
被弾。
死亡確認。
その言葉を思い出すたび、胸の奥に冷たい火が灯る。
許せない。
そう思う。
そう思ってしまう。
ミハイルは和平を望んでいたのに。
戦争を止めようとしていたのに。
誰かがそれを壊した。
ミハイルを奪った。
その事実だけが、何度も同じ場所を刺す。
けれど、怒りに身を任せれば、ミハイルの願いから遠ざかる気もした。
報復の旗を振ることが、彼の望みだったとは思えない。
それでも、何もしないでいることもできない。
できることなら、胸の中の矛盾を一列に並べて、順番に問いただしたかった。
あなたは悲しみ。
あなたは怒り。
あなたは後悔。
あなたは恐怖。
あなたはまだ、彼の声を待っている。
整列してくれたらいい。
けれど人間の心は、相変わらず言うことを聞かない。
ミハイルなら、きっと少し困った顔で言う。
人間だからな。
マーリンは目を閉じた。
その声だけが、まだ温かかった。
ロイス公爵からの通信は、午後に入ってからだった。
公的回線。
また、映像はない。
声だけが部屋に落ちる。
『マーリン』
父の声。
低く、冷たい。
マーリンは立ったまま応じる。
クリスチーナは一歩後ろに控えている。
その距離が、ひどく遠く感じる。
「はい、お父様」
『ルフトハンザの死は、帝国にとって有用な転機となる』
最初の一言で、マーリンの指先が冷えた。
ルフトハンザの死。
ミハイルではない。
有用。
転機。
胸の奥で、何かが音を立てずに割れる。
『和平は崩れた。王国側の不安定さは証明された。帝国は、正当な怒りを示す必要がある』
「……はい」
『お前は、その怒りと悲しみを体現しろ』
また、体現。
『泣き崩れる必要はない。むしろ不要だ。お前は帝国の希望であり、ロイス家の顔だ。個人としての悲嘆より、帝国全体の感情を優先せよ』
個人としての悲嘆。
それは、あると認められている。
認められて、不要だと言われている。
マーリンは、少しだけ笑いそうになる。
笑えない。
笑えるはずがない。
でも、あまりにもひどい言葉は、時々冗談みたいに聞こえる。
『必要に応じて、声明の場に立て。ルフトハンザ家との関係は、過度に私的なものとして扱うな。ロイス家に不要な噂を生む』
噂。
ミハイルと過ごした時間。
夜明けの余白。
言わずに残した未来。
行かないで、と言った声。
それらは、父の言葉の中で不要な噂になる。
マーリンは目を伏せた。
「承知いたしました」
声は、やはり整っている。
『それでいい』
通信は切れる。
それでいい。
ロイス公爵はいつも、それで終わらせる。
マーリンが何を失ったか。
何を抱えているか。
泣けるか、泣けないか。
そんなことは関係ない。
器は、器として立てばいい。
通信が切れたあと、クリスチーナが近づく。
「お嬢様」
マーリンは答えない。
少し遅れて、振り返る。
「クリス」
「はい」
「私は、ちゃんと立っている?」
クリスチーナの表情が、痛む。
「はい」
「そう」
ちゃんと立っている。
なら、役割は果たせる。
悲しみが足元から崩れても、立っているなら使える。
声が出るなら、声明を読める。
微笑めるなら、希望の花になれる。
便利だ。
本当に便利だ。
マーリンは、自分がひどく便利なものに思えた。
「お嬢様」
クリスチーナの声が震える。
「今は、どうか……」
休んでください。
泣いてください。
崩れてください。
きっと、そのどれかを言おうとした。
でも言えなかった。
マーリンがこれから呼ばれることを、クリスチーナも分かっている。
悲しむ少女であることを許さない力が、この部屋の外で待っている。
ロイス家。
学園。
帝国。
戦争。
そして、ミハイルの死を政治案件として運ぶ人々。
クリスチーナは、そのすべてからマーリンを守れない。
マーリンは少しだけ首を振る。
「まだ、泣かないわ」
「お嬢様」
「泣いたら、何かが終わってしまいそうなの」
終わっている。
もう、とっくに。
ミハイルは死んだ。
声は返らない。
話の続きは、閉じられた。
それでもマーリンの中では、まだ何かが認めていない。
認めてしまえば、崩れる。
崩れたら、立てない。
立てなければ、父の命令に背く。
帝国の希望でいられない。
ロイス家の令嬢として失格になる。
そうやって、悲しみの上に役割が積まれていく。
重い。
とても重い。
けれど、まだ潰れない。
潰れないことが、マーリンには悲しかった。
夕刻、学園で臨時の説明が行われた。
生徒全員ではない。
まずは代表生徒と関係者のみ。
マーリンはそこに立つ。
希望の花として。
壇上ではない。
小さな会議室だ。
それでも、視線は集まる。
誰もが言葉を探している顔をしていた。悼みたいのか、怒りたいのか、怯えたいのか、自分でも決めかねているような顔。学園は貴族社会の縮図だ。悲しみも、まず形を探す。
ブライアンが状況を説明する。
和平交渉予備会合への襲撃。
王国好戦派の犯行と見られること。
帝国政府が強く抗議していること。
今後、学園としても冷静な対応を求めること。
言葉は整っている。
整いすぎている。
ミハイルの死も、綺麗な文の中に収まっている。
マーリンの番が来る。
ブライアンが視線だけで促す。
マーリンは一歩前へ出た。
部屋の中が静まる。
喉は乾いている。
でも声は出る。
「ミハイル様は、和平を望まれていました」
最初に、そう言った。
用意された文ではない。
空気が少し揺れる。
マーリンは続けた。
「戦争を望まない方でした。誰かが傷つく前に、言葉で止められるならと……その場へ向かわれたのだと思います」
ミーシャ。
胸の中で呼ぶ。
返事はない。
「だからこそ、わたくしたちは軽率な言葉で憎しみを広げるべきではありません」
一瞬、部屋の空気が止まった。
それは帝国の怒りを求める流れとは、少しだけ違う言葉だった。
でも、マーリンは止めない。
「けれど」
声が少しだけ冷える。
「和平の席を襲撃した者たちの行いは、決して許されるものではありません」
今度は、部屋の空気が別の形で動く。
悲しみと怒り。
その両方を、マーリンは体現している。
ロイス公爵の命令通りに。
それが、ひどく嫌だった。
「わたくしは、ミハイル様の願いを忘れません」
ミーシャの名前を、ここでは呼べない。
「そして、帝国の民がこれ以上傷つかぬよう、ロイス家の者として務めます」
正しい締めだった。
正しすぎる。
会議室に静かな頷きが広がる。
希望の花は立派だった。
悲しみに沈まず、怒りに流されず、帝国のために言葉を尽くした。
そう見えたはずだった。
誰も知らない。
その言葉の内側で、マーリンが少しずつ壊れていることを。
説明が終わると、何人かが声をかけてくる。
「ロイス嬢、お辛い中……」
「ご立派でした」
「ルフトハンザ様も、きっと……」
その先は聞こえない。
聞きたくない。
ミハイルがきっと何を思うかなんて、誰にも分からない。
マーリンにも分からない。
もう聞けないから。
ブライアンが近づく。
「ロイス嬢」
「はい」
「見事でした」
見事。
マーリンは、一瞬だけ呼吸を忘れた。
見事。
恋人の死を受けて、見事。
政治案件として処理される場で、見事。
帝国の希望として、見事。
マーリンは微笑む。
「ありがとうございます、ブライアン様」
そう言うしかなかった。
ブライアンの表情が、わずかに曇る。
彼にも、何か思うところはあるのかもしれない。
けれど、今さらだった。
マーリンは礼をして、その場を離れる。
廊下に出ると、足元が少し揺れた。
本当に揺れたのか、そう感じただけなのか分からない。
クリスチーナがすぐに支える。
「お嬢様」
「平気よ」
口が勝手に言う。
大丈夫ではなく、平気。
たいして変わらない。
クリスチーナの手が、マーリンの腕に添えられる。
「平気ではございません」
その声は、静かだった。
けれど、強かった。
マーリンは笑おうとする。
うまくいかない。
口元が少しだけ歪む。
「そうね」
短く認める。
それだけで、胸の奥が軋んだ。
平気ではない。
ミハイルは死んだ。
声は返らない。
死は案件になった。
戦争は動き出した。
そしてマーリンは、まだ泣いていない。
泣けない。
泣いたら、名前を呼ぶ人がもういないことを、本当に知ってしまう。
ミハイルだけが、マーリンと呼んでくれた。
希望の花ではなく。
ロイス嬢でもなく。
役割でもなく。
マーリン。
その声がもうない。
世界がようやく、少し遅れて壊れ始める。
部屋へ戻る頃には、学園のあちこちで戦争の話が始まっていた。
報復。
警戒態勢。
王国好戦派。
和平の失敗。
帝国の決意。
誰もが、ミハイルの死を語っている。
けれど誰も、ミーシャを知らない。
部屋に入ると、マーリンは扉の前で立ち止まった。
クリスチーナがそっと扉を閉める。
外の声が遠くなる。
静かだった。
静かすぎた。
机の上では、機械仕掛けの小さな鳥が翼を閉じている。端末の画面は暗い。冷めた茶が、まだ置かれている。
全部、朝から変わっていないように見えた。
けれど、すべてが違っていた。
マーリンは手袋を外そうとして、うまく指が動かない。
クリスチーナが近づく。
「お嬢様」
その呼び方は優しい。
けれど、違う。
ロイス嬢。
希望の花。
お嬢様。
どれも、マーリンを守ろうとしてくれる名前だった。
でも、マーリンではない。
マーリンは唇を開く。
声が出ない。
ミーシャ、と呼ぼうとして、呼べなかった。
呼んでも返らないことを、もう知っている。
クリスチーナが手を伸ばす。
マーリンはその手を見つめた。
白い手袋の指先が、少し震えている。
ああ。
震えているのは、自分だけではないのだ。
そう思った瞬間、胸の奥に残っていた細い支えが、少しだけ音を立てた。
マーリンはまだ泣かなかった。
けれど、真っ直ぐ立っていることもできなかった。
一歩。
ほんの一歩だけ。
クリスチーナの手の方へ。
崩れる場所へ。
誰にも見せてはいけない少女の悲しみへ。
マーリンは、ようやく近づいていった。
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