返らない声
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扉の前で、足音が止まった。
マーリンは窓辺に立ったまま、振り返れなかった。
端末は机の上で沈黙している。
静かだった。
静かすぎた。
音が鳴らないことが、こんなにも恐ろしいものだとは知らなかった。今までは、知らせが来ない時間はただの空白だった。講義と講義の間。支度と支度の間。返事を待つだけの、薄い時間。
けれど今は違う。
沈黙が、何かを抱えている。
開けてはいけない箱のように。
机の端には、機械仕掛けの小さな鳥が置かれていた。翼を閉じて、硝子の目で前を見ている。ぜんまいを巻けば、またぎこちなく跳ねるのだろう。
でも、マーリンはもう巻かなかった。
動けば、また止まる。
止まるところを、今は見たくなかった。
クリスチーナが先に動く。
足音を立てずに扉へ向かい、声を低くした。
「どなたでございますか」
扉の向こうから返った声は、硬かった。
学園職員の声だった。
いつもの事務的な響き。
けれど、少しだけ息が乱れている。
「ロイス嬢に、至急お伝えすべきことがございます」
至急。
その言葉だけで、胸の奥が冷えた。
マーリンはゆっくり振り返る。
「お通しして」
声は揺れなかった。
揺れなかったことが、ひどく嫌だった。
扉が開く。
入ってきたのは、学園職員と生徒会の連絡役だった。どちらも顔色が悪い。礼の角度は正しいのに、指先だけが落ち着いていない。
その後ろに、ブライアンがいた。
整った制服。
乱れのない髪。
いつもの静かな表情。
けれど、その目だけが少し暗い。
マーリンは、そこで理解してしまった。
まだ何も聞いていない。
まだ誰も名前を出していない。
それなのに、胸の奥が先に知ってしまう。
知りたくなかった。
ブライアンが一歩進む。
「ロイス嬢」
「はい、ブライアン様」
正しい呼び方が、自然に出た。
正しい場だから。
人がいるから。
マーリンはロイス家の令嬢だから。
ブライアンは少しだけ間を置いた。
その間が、長い。
ひどく長い。
「和平交渉の予備会合が、王国側の好戦派に襲撃されました」
言葉は、ゆっくり届いた。
和平交渉。
予備会合。
王国側。
好戦派。
襲撃。
意味はつながる。
けれど心が追いつかない。
「交渉団の一部と護衛部隊に被害が出ています」
ブライアンの声は落ち着いていた。
落ち着きすぎていた。
マーリンは端末を見る。
鳴らない。
「ミハイル様は」
口にした瞬間、部屋の空気が止まった。
クリスチーナが息を呑む音がした。
ブライアンは目を伏せない。
それが残酷だった。
「ミハイルは、交渉団の退避を支援中に被弾しました」
被弾。
人に使うには冷たい言葉だった。
人形にも、艦にも、建物にも使える言葉。
人の傷を、少し遠くする言葉。
マーリンは、もう一度聞く。
「ミハイル様は」
声が少しだけ細くなった。
ブライアンは答える。
「死亡が確認されました」
世界は壊れなかった。
窓は割れない。
床も沈まない。
天井も落ちてこない。
机の上の茶は、そのまま冷めている。
端末も、そのまま黙っている。
クリスチーナも、ブライアンも、学園職員も、部屋にいる。
何も変わっていない。
おかしい。
ミハイルが死んだのなら、世界は壊れるはずだった。
それくらいのことが起きたはずだった。
なのに、世界はただ静かに続いている。
鳥も動かない。
茶もこぼれない。
遠くの廊下では、誰かが普通に歩いている。
マーリンは、端末へ視線を戻した。
鳴らない。
返らない。
ミーシャ。
胸の中で呼ぶ。
返事はない。
「……そう、ですか」
マーリンの声は、聞き慣れた自分の声だった。
綺麗で、整っていて、ロイス家の令嬢らしい声。
誰の声なのか、一瞬分からなくなる。
ブライアンが続ける。
「詳細はまだ確認中です。ただ、王国側の好戦派による計画的襲撃である可能性が高いと見られています。帝国としては、和平への重大な妨害行為として扱うことになります」
和平。
妨害。
帝国。
扱う。
ミハイルの名前が、もうそこから消えていく。
たった今、死んだと言われたばかりなのに。
すでに出来事は、政治の言葉に置き換えられている。
マーリンは立っている。
立っていられる。
それが嫌だった。
膝が折れてほしかった。
泣き崩れてしまいたかった。
声を上げて、いやだと言いたかった。
でも、身体は立っている。
役割に慣れた身体だった。
希望の花として。
ロイス家の令嬢として。
人前で乱れない少女として。
整ってしまう。
整ってしまうことが、こんなにも憎い。
クリスチーナが、マーリンのそばへ一歩寄る。
「お嬢様」
その声だけが、少しだけ世界の内側に届く。
マーリンは振り向かない。
振り向いたら、崩れてしまう気がした。
「ロイス嬢」
ブライアンの声が続く。
「学園内にも情報が広がる可能性があります。生徒たちの動揺を抑えるため、あなたにはしばらく表に出ないでいただく方がよいかと」
それは気遣いの形をしていた。
けれど同時に、処理でもあった。
混乱を防ぐ。
噂を抑える。
象徴を守る。
学園を整える。
ミハイルの死は、もう整理され始めている。
マーリンはブライアンを見る。
彼は正しい。
正しく判断している。
混乱を抑えるために必要なことを考えている。
正しい。
だからこそ、息が苦しい。
「ブライアン様」
「はい」
「ミハイル様は、苦しまれたのですか」
部屋の空気が固まった。
聞いてはいけないことだったのかもしれない。
ロイス家の令嬢らしくない問いだったのかもしれない。
けれど、マーリンにはそれしか聞けなかった。
ブライアンは一瞬だけ沈黙する。
「確認中です」
確認中。
便利な言葉。
分からないことを、綺麗に棚へ置く言葉。
マーリンは小さく頷いた。
「承知いたしました」
また言えた。
承知なんて、していないのに。
ブライアンの目が、ほんのわずかに揺れた。
彼もまた、何かを飲み込んでいるのかもしれない。
けれど、その何かは表に出ない。
出せない。
ここには学園職員がいる。
生徒会の連絡役がいる。
ロイス家の令嬢がいる。
悲しみが座る椅子は、最初から用意されていなかった。
「ロイス嬢。今後の対応については、追って連絡します」
「はい」
「何か必要なことがあれば、クリスチーナ嬢を通じて知らせてください」
「ありがとうございます」
礼まで言えた。
本当に、よくしつけられた口だった。
人が出ていく。
扉が閉まる。
部屋には、マーリンとクリスチーナだけが残った。
その瞬間、空気が重くなる。
クリスチーナが近づく。
「お嬢様」
マーリンは端末を見ている。
「鳴らないの」
小さく言う。
「はい」
「返事がないの」
「……はい」
「ミーシャは、続きを覚えていると言ったの」
クリスチーナは何も言わない。
マーリンは端末に手を伸ばした。
指先が震えている。
今度は隠せない。
端末を起動する。
通信履歴を見る。
最後に交わした短い連絡。
公的な確認。
何でもない文字。
声ではない。
文字だけ。
それでも、そこにミハイルがいた。
マーリンは、通信を送ろうとして止まる。
何を書けばいい。
無事ですか。
今どこにいますか。
声を聞かせて。
違う。
どれも違う。
もう届かない。
届かないと告げられたばかりだ。
それなのに、指が動こうとする。
ミーシャ。
画面に、そう打ちかける。
けれど、送れない。
通信の欄は空白のまま。
返らない声を求めても、返らない。
当たり前のことが、こんなに痛い。
マーリンは端末を握りしめた。
涙は出ない。
出ない。
どうして出ないのか分からない。
悲しくないはずがない。
苦しくないはずがない。
胸の奥は焼けるように痛い。
なのに涙だけが遠い。
代わりに、耳の奥でミハイルの声がする。
マーリン。
怖いと言っていい。
残しておこう。
覚えている。
あの声が、もう新しく増えない。
それを思った瞬間、息が詰まった。
マーリンは端末を胸に押し当てる。
「クリス」
「はい、お嬢様」
「私、今、何をすればいいの」
クリスチーナの顔が歪んだ。
答えられない問いだった。
泣いていい。
座っていい。
何もしなくていい。
そう言いたいはずだ。
けれど、ロイス家の令嬢にはすぐに次の役割が来る。
帝国の希望には、悲しむ時間すら割り振られる。
クリスチーナは、それを知っている。
知っているから、すぐには言えない。
マーリンは少し笑った。
笑えてしまった。
「困らせたわね」
「いいえ」
「困っている顔をしているわ」
「……お嬢様が、泣いてくださらないからでございます」
その言葉で、マーリンの喉が詰まった。
泣けない。
泣きたいのかも分からない。
ただ、痛い。
痛い場所が広すぎて、どこを押さえればいいのか分からない。
「泣いたら、ミーシャは帰ってくるかしら」
クリスチーナの目が揺れる。
「……いいえ」
「そう」
マーリンは頷いた。
「なら、まだ泣けないわ」
それは理由になっていない。
でも、理由にするしかなかった。
端末の画面は暗くなり、そこにマーリンの顔が映る。
白い髪。
整った目元。
崩れていない表情。
希望の花の顔だった。
その顔が、少しだけ知らない人に見えた。
マーリンは端末を置き、机の上の鳥を見た。
機械仕掛けの小さな鳥は、まだ翼を閉じている。
動かない。
鳴かない。
飛べない。
けれど、そこにはミハイルがくれた時間が残っている。
休日市の甘い匂い。
人波の中で取られた手。
机の上なら立派な旅だと笑った店主の声。
次もあるの、と聞いた自分。
あるだろう、と言ったミハイル。
次。
その言葉が、胸の奥で崩れた。
マーリンは鳥に触れなかった。
触れたら、壊してしまいそうだった。
マーリンは椅子に手をかけた。
座るつもりだったのかもしれない。
けれど、腰を下ろす前に指が離れた。
座ってしまえば、もう立てなくなる気がした。立っていれば、まだ何かを保っているように見える。背筋を伸ばし、顎を少し引き、呼吸を乱さなければ、きっと誰かは言う。
さすがロイス様、と。
その言葉が、今は刃のようだった。
マーリンは窓の外を見た。
帝都の灯りが、いつも通りに並んでいる。遠くの軍港の赤も、空中回廊の青白い光も、どれも欠けていない。
世界は、ミハイルを知らないふりで光っている。
それが、許せなかった。
許せないのに、怒りの置き場も分からない。
王国へ向ければいいのか。
襲撃した好戦派へ向ければいいのか。
和平を道具にした帝国へ向ければいいのか。
行かないでと言い切れなかった自分へ向ければいいのか。
どこへ向けても、ミハイルは戻らない。
その事実だけが、ひどく正確だった。
外では、学園が動き始めている。
廊下を急ぐ足音。
抑えた声。
閉じられる扉。
通信室へ向かう教師。
情報は広がる。
どれだけ抑えても、広がる。
和平交渉の予備会合で王国好戦派の襲撃。
交渉団に被害。
ルフトハンザ家の子息が死亡。
和平は白紙か。
報復か。
戦争は動くのか。
言葉が走る。
ミハイルの死が、人々の口の中で形を変えていく。
若き犠牲。
帝国への侮辱。
和平を壊した王国の卑劣。
報復の正当性。
マーリンは部屋の中で、それをまだ聞いていない。
でも、分かる。
きっとそうなる。
ミハイルは、マーリンをマーリンとして見てくれた人だった。
怖いと言わせてくれた。
大丈夫を信じなかった。
希望の花ではなく、ただ名前を呼んでくれた。
その人の死が、もう別の名前を与えられようとしている。
政治案件。
襲撃事件。
和平破綻。
帝国の大義。
ミハイルが、ミハイルではなくなっていく。
マーリンは、それが怖かった。
死んだことよりも、いや、死んだことと同じくらい。
彼の名前が、遠くなる。
「ミーシャ」
声に出す。
小さく。
誰にも奪われないように。
クリスチーナだけが聞いている。
マーリンは、もう一度呼んだ。
「ミーシャ」
返事はない。
返らない。
それでも呼ぶ。
呼ばなければ、彼の名前まで帝国に持っていかれる気がした。
ロイス家の令嬢は、ミハイル様と呼ぶ。
帝国の希望は、ルフトハンザ家の犠牲に哀悼を示す。
でもマーリンは、ミーシャと呼ぶ。
それだけが残っている。
それだけは、まだ奪われていない。
クリスチーナは目を伏せたまま、そばにいる。
声をかけない。
慰めない。
ただ、マーリンがその名前を呼ぶのを止めない。
その沈黙が、今は何より優しかった。
しばらくして、再び扉が叩かれた。
今度は通信連絡だった。
ロイス公爵家から。
クリスチーナの表情が固まる。
マーリンは端末を置いた。
端末から手を離すのに、少しだけ時間がかかった。
通信は公的回線だった。
ロイス公爵の姿は映らない。
音声だけが室内に流れる。
『マーリン』
父の声。
低く、冷たい。
『状況は把握しているな』
マーリンは立つ。
「はい、お父様」
『泣く必要はない』
最初の言葉が、それだった。
慰めではない。
確認でもない。
ただの否定だった。
『和平交渉は崩れた。帝国は王国に対する姿勢を改める。お前はロイス家の令嬢として、帝国の怒りと悲しみを正しく体現しろ』
怒りと悲しみ。
体現。
マーリンは、端末の向こうの声を聞く。
父は、ミハイルの名を呼ばない。
ルフトハンザとも言わない。
彼の死は、もう材料になっている。
『私情に沈むな。役割を果たせ』
マーリンは息を吸う。
吐く。
声を整える。
「承知いたしました」
クリスチーナが、何かを言いかけて止まる。
通信はすぐに切れた。
部屋に静けさが戻る。
マーリンは立ったまま動かない。
父の命令。
ブライアンの処理。
学園のざわめき。
帝国の怒り。
すべてが、ミハイルの死の上に積み上がっていく。
マーリンの悲しみが置かれる場所は、どこにもない。
それでも、胸の奥では声がする。
マーリン。
彼だけが、そう呼んでくれた。
その声がもう返らない。
マーリンは、ようやく少しだけ目を伏せた。
涙は、まだ落ちない。
代わりに、端末の暗い画面に自分の顔が映る。
白い髪。
整った顔。
崩れていない表情。
希望の花の顔だった。
その奥で、ひとりの少女が、声のないまま壊れていく。
ミハイルの死は、夜が深まる前に学園中へ広がった。
誰もが声を潜める。
けれど、誰もがその名を口にする。
和平交渉の襲撃。
王国好戦派の暴挙。
帝国への侮辱。
報復の必要。
ミハイル=ルフトハンザの死は、すでに悲しみではなく、情勢を動かす言葉になっていた。
マーリンは部屋の中で、暗くなった端末を見つめる。
声は返らない。
それでも、外では次々と声が増えていく。
帝国のために。
犠牲を無駄にしないために。
和平を壊した王国へ正義を示すために。
ミハイルの名前が、別の意味に塗り替えられていく。
クリスチーナがそばに立っている。
何も言わない。
マーリンは小さく息を吸った。
「クリス」
「はい、お嬢様」
「ミーシャは、案件ではないわ」
それは、かすかな声だった。
けれど、確かな声だった。
クリスチーナの唇が震える。
「はい」
「事件でも、材料でも、帝国の怒りでもないわ」
「はい」
「ミーシャは、ミーシャよ」
言い終えた瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。
名前を守ることしかできない。
その人自身は、もう返らない。
それでも、名前まで奪わせたくなかった。
マーリンは端末から視線を外し、機械仕掛けの小さな鳥を見る。
鳥は翼を閉じたまま、机の上にいる。
机の上なら立派な旅。
その旅は、今は止まっている。
ぜんまいを巻く手は動かない。
マーリンは、鳥にも端末にも触れず、ただ立っていた。
次に扉が開く時、ミハイルの死は個人の悲しみではなく、帝国の政治案件として運ばれてくる。
マーリンはそのことを、もう知っていた。
知っていても、ミーシャと呼ぶ。
返らない声へ。
もう増えない言葉へ。
誰にも渡したくない名前へ。
部屋の外で、足音が遠ざかる。
部屋の中で、沈黙が残る。
マーリンはその沈黙の中に立ち尽くした。
まだ泣けないまま。
まだ壊れたことを、誰にも見せられないまま。
ここまでお読みいただき有り難うございました。
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