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落ち着かない日

ご覧いただきありがとうございます。

評価、ブックマークしていただきありがとうございます。

マーリンは、落ち着かなかった。


それは、とても困ることだった。


落ち着かない、というだけなら誰にでもある。


試験前の生徒も、社交会の前の令嬢も、軍港へ向かう士官も、きっと落ち着かないことくらいある。たぶん、貴族の屋敷の猫だって知らない部屋へ入れられれば落ち着かない。


けれどマーリンは、ロイス家の令嬢だった。


希望の花だった。


帝国の未来を背負うべき少女だった。


だから、落ち着かないくらいで乱れてはいけない。


乱れてはいけない。


そう思えば思うほど、胸の奥がざわついた。


講義室の窓の外には、薄い雲が流れている。


帝都の空は静かだった。


あまりにも静かだった。


その静けさの向こうに、ミハイルを乗せた艇がいる。


交渉関連の任務。


和平のための予備調整。


戦争を終わらせるための道。


正しい言葉を並べれば、いくらでも綺麗になる。


けれどマーリンの中にあるのは、もっと小さくて、もっと身勝手な言葉だった。


行かないで。


言ってしまった。


言ったのに、止められなかった。


ミハイルは行った。


強い約束はしなかった。


必ず、とも言わなかった。


二人は、未来をはっきりした形にしなかった。


話の続きを残しただけ。


それが今は、ひどく頼りない。


教師の声が講義室に響く。


和平が成立した場合の帝国貴族社会への影響。


王国との交易再開の可能性。


軍事予算の再編。


AI統治構想との整合性。


どれも大切な話だ。


大切な話のはずだった。


マーリンはきちんと聞いているふりをした。


姿勢を崩さない。


必要なところで頷く。


筆記用具にも手を添えている。


その姿だけなら、誰が見てもロイス家の令嬢だった。


けれど、文字は少し遅れて頭に入ってくる。


和平。


交渉。


任務。


安全確保。


王国側代表。


言葉の端々が、ミハイルへつながってしまう。


マーリンは窓の外を見る。


遠く、小さな航行灯が流れていた。


違う。


あの艇ではない。


分かっている。


分かっているのに、目で追ってしまう。


白い点は雲の下をすべり、すぐに塔の影へ消えた。


ただそれだけのことに、胸の奥が小さく沈む。


講義室では、教師がまだ穏やかに話していた。


穏やかな声は、時々残酷だ。


何も起きていないように聞こえるから。



講義が終わると、廊下でいくつもの声がかかった。


「ロイス様、和平交渉が進むとよろしいですわね」


「ルフトハンザ様もご同行されているとか」


「若い世代が帝国の未来を支える。素晴らしいことです」


マーリンは微笑む。


「ええ。本当に」


声は揺れない。


「ミハイル様なら、きっと誠実にお役目を果たされるでしょう」


言えた。


言えてしまった。


そのたびに、胸の奥で小さく何かが削れる。


周囲の生徒たちは満足そうに頷く。


希望の花がそう言うなら、和平は美しいものになる。


そんな空気が生まれる。


マーリンは、その空気の中で微笑んでいる。


自分がどこにいるのか、少し分からなくなる。


ここは学園の廊下。


目の前には同級生たち。


足元には磨かれた床。


窓の外には帝都の空。


なのに、心だけが別の場所へ行っている。


発着区画。


閉じる扉。


遠ざかる航行灯。


ミハイルの背中。


「ロイス様?」


声をかけられて、マーリンは瞬きをした。


相手の令嬢が、不安そうにこちらを見ている。


ほんの一拍。


返事が遅れた。


たったそれだけ。


けれどマーリンには、その一拍がとても大きく感じられた。


「失礼いたしました。少し考えごとを」


「お疲れなのではございません?」


「お気遣いありがとうございます。少し講義の内容を整理していただけですわ」


嘘ではない。


まったくの嘘ではない。


講義の内容は、確かに頭の中にある。


ただ、その周囲をミハイルの不在がぐるぐる回っているだけだ。


相手は安心したように微笑んだ。


「さすがロイス様ですわ」


さすが。


その言葉は、便利な布のようにマーリンの上へかけられる。


少し寒い時ならありがたい。


今は、少し息がしにくい。


「お嬢様」


クリスチーナの声が、そっと横から入った。


その声で、マーリンは少し息ができた。


「次の予定まで、少しお時間がございます」


「そう」


「お茶をお持ちいたしますか」


マーリンは頷く。


「お願い、クリス」


クリスチーナは何も聞かない。


行った先が気になるのか。


連絡はあるのか。


怖いのか。


そういうことを、聞かない。


聞かれたら、きっと答えてしまう。


怖い、と。



小休憩室の茶は、いつもより香りが強かった。


クリスチーナがわざとそうしたのだと、マーリンには分かる。


落ち着けるように。


眠気を飛ばせるように。


息を整えられるように。


ありがたい。


けれど、ティーカップの中の水面がわずかに揺れているのを見て、マーリンは手を止めた。


自分の指が震えている。


ほんの少し。


誰にも気づかれない程度に。


けれどクリスチーナは気づく。


「お嬢様」


「少し、熱かっただけよ」


「左様でございますか」


信用していない声だった。


マーリンは困る。


「クリスは、最近ミーシャに似てきたわ」


「それは、光栄と受け取るべきでしょうか」


「困るべきかもしれないわ」


「では、困っておきます」


その返しに、マーリンは小さく笑う。


笑えた。


ほんの少しだけ。


クリスチーナは、静かに茶菓子を置いた。


小さな焼き菓子が二つ。


ひとつではない。


マーリンは皿を見て、少しだけ目を細める。


「クリス」


「はい、お嬢様」


「私は、ひとつでよいと言ったはずよ」


「予備でございます」


「予備の多い生活ね」


「お嬢様に関しては、予備が必要でございます」


ひどい言い方だった。


でも、反論するほどの力はない。


マーリンは焼き菓子をひとつ取った。


甘い。


きちんと甘い。


けれど、味が少し遠い。


「お嬢様」


「何かしら」


「何もなさらなくてよい時間も、必要でございます」


マーリンはティーカップを見つめる。


何もしない時間。


それが一番難しい。


何かをしていれば、考えずに済む。


講義を受ける。


挨拶をする。


微笑む。


書類に目を通す。


それなら慣れている。


何もしないでいると、耳の奥に声が戻ってくる。


行かないで。


自分の声。


届いた声。


届かなかった声。


「何もしないと、余計に考えてしまうわ」


「それでも、お嬢様のお心は休まなければなりません」


「心は、休めと言われて休むものかしら」


「身体も似たようなものでございます」


「それはそうね」


少しおかしかった。


心も身体も、命令だけではうまく動かない。


ロイス公爵が聞いたら、きっと不機嫌になるだろう。


役割を果たせ。


私情を挟むな。


器であれ。


父の声が、また胸の奥に落ちる。


マーリンはティーカップを置いた。


「クリス」


「はい」


「私、ちゃんと振る舞えているかしら」


「何としてでございますか」


「ロイス家の令嬢として。帝国の希望として」


クリスチーナは、すぐには答えなかった。


その沈黙が優しかった。


「お嬢様は、いつも十分すぎるほど務めておられます」


十分すぎるほど。


その言葉に、マーリンは目を伏せる。


十分すぎるほど務めているのなら、どうしてこんなに足りない気がするのだろう。


ミハイルに行かないでと言ってしまった。


それでも止められなかった。


和平を願いながら、彼に行ってほしくないと思った。


矛盾ばかりだ。


人間だからな。


ミハイルの声が浮かぶ。


マーリンは、ティーカップの縁に指を添えた。


「人間って、面倒ね」


「はい」


クリスチーナがあまりにも自然に頷くので、マーリンは少しだけ目を丸くした。


「否定しないのね」


「面倒でないお嬢様など、お嬢様ではございませんので」


「ひどいわ、クリス」


「申し訳ございません」


謝っている顔ではなかった。


マーリンは笑う。


笑ったあと、また窓を見る。


空は静かだった。


休憩のあと、マーリンは一度自室へ戻った。


ほんの短い時間。


次の予定までの隙間。


クリスチーナは手袋を替えましょうかと尋ね、マーリンは首を横に振った。


部屋は整っていた。


机の上には必要な資料。


窓辺には小さな花。


そして、卓の端に、機械仕掛けの小さな鳥が置かれている。


休日市でミハイルに買ってもらった鳥だった。


金属の羽。


硝子の目。


掌に乗るほどの小さな重み。


あの時、店主は言った。


机の上なら立派な旅です、と。


マーリンは鳥へ手を伸ばした。


ぜんまいを少しだけ巻く。


きり、と細い音がする。


それから、鳥は小さく羽を震わせた。


一歩。


もう一歩。


机の上でぎこちなく跳ねる。


飛べない。


ただ跳ねるだけ。


それでも、動いている。


マーリンはそれをじっと見つめた。


あの日のミハイルの声が浮かぶ。


休日市の記念だ。


次は君が買えばいい。


次もあるの?


あるだろう。


自然にそう言った声。


あまりにも自然で、マーリンの胸を困らせた声。


鳥は机の端まで進み、そこで小さく止まった。


それ以上は進まない。


落ちる前に止まるよう作られているのだろう。


賢い。


とても賢い。


少しだけ腹立たしい。


「あなたは、ちゃんと止まるのね」


マーリンは小さく言った。


鳥は答えない。


硝子の目で、ただ前を見ている。


机の上の旅。


終わりのある旅。


戻ってくる必要も、戻ってこない不安もない旅。


ぜんまいが切れれば止まる。


もう一度巻けば、また同じように動く。


それだけ。


それだけなのに、なぜか胸が痛い。


ミハイルは今、机の上ではない。


決まった線の上でもない。


誰かが落ちる前に止めてくれる仕組みの中でもない。


和平のための道は、きっともっと広くて、もっと遠くて、ずっと危うい。


マーリンは小さな鳥を掌に乗せた。


冷たい。


少しだけ重い。


「クリス」


「はい、お嬢様」


「この子、飛べないの」


「はい」


「でも、旅はできるのですって」


クリスチーナはしばらく黙っていた。


それから、静かに言う。


「お嬢様がお気に召されたのでしたら、立派な旅かと」


「そうね」


マーリンは鳥を元の場所へ戻した。


鳥はもう動かない。


翼を閉じて、机の上にいる。


それだけで、部屋の中にあの日の休日市の匂いが少し戻った気がした。


焼き菓子の甘さ。


人波のざわめき。


手を取られた時の温かさ。


今は、そのどれも遠い。


遠いけれど、消えてはいない。


マーリンは鳥から手を離した。


「行きましょう、クリス」


「はい、お嬢様」


机の上の小さな鳥は、窓から差す光の中で、静かに翼を閉じていた。



午後になると、生徒会室へ呼ばれた。


ブライアンが、和平に関する学園内対応を整えている。


発表文案。


生徒向け説明。


噂の抑制。


過激な主戦論を煽らないための言い回し。


ブライアンの机の上には、整った紙束が並んでいる。


乱れがない。


迷いもない。


「ロイス嬢」


「はい、ブライアン様」


「和平に関して、あなたの発言は慎重に扱われるべきです」


「承知しております」


「学園内で不用意な希望を煽ることは避けたい。一方で、不安を広げることも望ましくない。あなたには、その均衡を保っていただきたい」


均衡。


また正しい言葉だった。


マーリンは頷く。


「わたくしにできることがあれば」


「あなたにはできます」


ブライアンはそう言う。


迷いなく。


「ロイス嬢の言葉には、人を落ち着かせる力があります。あなたが穏やかであれば、周囲も穏やかになる」


穏やか。


マーリンは、自分の内側を思う。


落ち着かない。


怖い。


不安。


息苦しい。


どれも穏やかではない。


けれど表に出さなければ、ないのと同じに扱われる。


「努めます」


また言えた。


本当に、よく整えられた口だった。


ブライアンは満足したように頷く。


「助かります」


助かる。


その言葉も、便利だった。


マーリンは微笑む。


「お役に立てるなら、何よりです」


胸の奥が、少しだけ冷えていく。


ブライアンに悪意はない。


彼は場を整えている。


不安が広がらないように。


噂が人を傷つけないように。


学園が乱れないように。


それは正しい。


正しいから、マーリンはうなずく。


うなずきながら、心のどこかで、自分の不安も整えられた紙束の一枚にされていくような気がした。



生徒会室を出ると、回廊は夕暮れの色に染まっていた。


窓の外、帝都の空は薄い金色から青へ移り変わりかけている。


その色が、あの夜明けを思い出させた。


帝都の夜景。


窓ガラスに重なったシルエット。


朝の沈黙。


曲がった髪飾り。


幸福は、確かにあった。


だから怖い。


あったものは、失われることがある。


マーリンは、胸元に手を当てる。


そこには何もない。


証も、約束の品も、形あるものは何もない。


あるのは、言わずに残した話の続きだけ。


ミハイルは、続きを覚えていると言った。


それを信じたい。


信じたいのに、通信端末が気になって仕方がない。


交渉関連の任務中、私的な連絡は制限される。


必要な連絡は、軍と外交筋を通して届く。


直接声を聞けるわけではない。


分かっている。


分かっているのに、端末が沈黙していることが不安になる。


音が鳴らない。


表示が変わらない。


誰も呼ばない。


沈黙が、こんなに重いものだと知らなかった。


クリスチーナが隣を歩く。


「お嬢様」


「ええ」


「お部屋へ戻られますか」


「……少しだけ、庭を歩きたいわ」


「承知いたしました」


庭園は、夕暮れの匂いがした。


花壇の花はきちんと整えられている。


木々も剪定され、砂利道も美しい。


すべてが正しく管理されている。


それなのに、マーリンの心だけが整わない。


ミハイルと話した木陰へ向かう。


そこには誰もいない。


当たり前だった。


マーリンは足を止める。


ここで、行かないでと言った。


ここで、未来を明言しない約束をした。


ここで、続きを残した。


木陰は何も答えない。


葉が揺れるだけ。


「お嬢様」


クリスチーナが少し離れたところから声をかける。


近すぎない。


遠すぎない。


守るための距離。


マーリンは振り返らないまま言う。


「私、ちゃんと待てるかしら」


「お嬢様は、お待ちになることもお上手でございます」


「そうかしら」


「はい」


「でも、上手に待つのと、平気で待つのは違うわ」


「……はい」


クリスチーナの返事が、少しだけ重くなる。


マーリンは木陰を見つめる。


「平気ではないの」


「はい」


「怖いわ」


「はい」


それだけでよかった。


クリスチーナは、慰めの言葉を重ねない。


きっと無事ですとも言わない。


言えない言葉があることを、分かっている。


マーリンは小さく息を吐いた。


「ありがとう、クリス」


「何もしておりません」


「しているわ」


ただそばにいる。


それが、今はありがたかった。


夜が近づく頃、学園内の空気が少しだけざわついた。


誰かが廊下を急ぐ。


教師の一人が通信室へ向かう。


生徒会室の扉が閉まる音が、少し強い。


大きな騒ぎではない。


けれど、静かすぎる変化だった。


マーリンはそれに気づく。


気づいてしまう。


「クリス」


「はい」


「何かあったのかしら」


クリスチーナは周囲を見る。


「確認いたします」


「いいえ」


マーリンは止めた。


確認したい。


知りたい。


でも、怖い。


知れば何かが決まってしまう気がした。


端末は沈黙したまま。


表示は変わらない。


何もないのかもしれない。


ただの連絡遅延かもしれない。


交渉前の調整で通信が制限されているだけかもしれない。


理由はいくらでも作れる。


いくらでも。


マーリンは自分に言い聞かせる。


まだ何も起きていない。


まだ何も知らされていない。


まだ、話の続きは閉じていない。


けれど胸の奥で、冷たいものが少しずつ広がっていく。


部屋へ戻っても、マーリンは座れなかった。


窓辺に立ち、帝都の空を見る。


遠くの軍港に赤い灯りが並んでいる。


その光が、ひどく冷たく見える。


クリスチーナが茶を用意してくれる。


湯気が上がる。


けれどマーリンは、手を伸ばせない。


机の上では、機械仕掛けの小さな鳥が翼を閉じている。


さっきと同じ場所。


同じ角度。


何も変わっていない。


それが少し羨ましかった。


マーリンは窓辺から離れ、鳥の前に立つ。


もう一度ぜんまいを巻こうとして、やめた。


動かせば、また止まる。


止まるところを見たくなかった。


端末は静かなままだった。


静かすぎる。


マーリンは、その沈黙に耳を澄ませる。


聞こえるはずのない声を探してしまう。


ミーシャ。


胸の中で呼ぶ。


返事はない。


その時、廊下の向こうで足音が止まった。


扉の前に、人の気配がある。


呼吸が、少しだけ浅くなる。


まだ何も聞いていない。


まだ何も知らない。


それでも、マーリンは分かる。


落ち着かない日は、終わろうとしていた。


そして、返らない声が近づいていた。

ここまでお読みいただき有り難うございました。


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