行かないで
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ミハイルが交渉関連の任務へ向かうことは、正式に決まった。
正式に。
その言葉は便利だった。
誰かの迷いも、不安も、祈りも、綺麗に押し流してしまう。
正式に決まったのなら、従うしかない。
帝国のため。
和平のため。
戦争を終わらせるため。
とても正しい。
正しすぎて、マーリンは何も言えなくなる。
学園の回廊では、生徒たちがその話題を声を潜めて語っていた。
和平。
予備交渉。
ルフトハンザ家。
帝国の若き使節。
言葉だけを並べれば、少し物語めいている。
勇敢な若者が、国の未来のために交渉の場へ向かう。
きっと社交場なら、誰かが美しい比喩を添えるだろう。帝国の夜明けだとか、次代の架け橋だとか、そういう、綺麗で少し扱いに困る言葉を。
そこにあるのは期待と不安と、少しの好奇心だった。
マーリンは微笑む。
「ミハイル様なら、きっと立派にお務めを果たされますわ」
正しい声で。
正しい微笑みで。
誰も気づかない。
その言葉を口にしたあと、手袋の中で指先が冷たくなっていることに。
「ロイス様がそうおっしゃると、心強いですわ」
そう言われて、マーリンはもう一度微笑んだ。
心強い。
そう見えるなら、それでいい。
希望の花は、人を不安にさせてはいけない。
けれど、胸の奥では小さな未来が震えていた。
誰にも見せない。
見せてはいけない。
ロイス公爵の声が、まだ耳の奥に残っている。
私情を挟むな。
役割を果たせ。
器であれ。
その言葉に触れるたび、マーリンの中の柔らかい部分が、少しずつ冷たい布で包まれていくようだった。
ブライアンは、生徒会室で淡々と準備を進めていた。
いつも通りの姿勢。
いつも通りの声。
机の上には資料が整然と積まれている。交渉団の日程、学園側の対応、関係者への周知範囲、警備上の注意事項。文字はどれも細く、整っていて、驚くほど感情がなかった。
「ロイス嬢。発着区画での見送りは、関係者のみになります」
「承知いたしました」
「公的な式典ではありません。過度な注目を集めることは避けたい。ですが、学園としては穏健な姿勢を示す必要がある」
「はい」
「あなたがその場にいることにも意味があります」
マーリンは、静かに指先を重ねた。
意味。
役割。
象徴。
最近、そのような言葉ばかりが増えていく。
どれも美しく整っている。
けれど、その中にマーリン自身が入る隙間はあまりない。
ブライアンは書類から目を上げる。
「ミハイルは冷静です。余計な挑発にも乗らない。交渉の前段階に同行する者として、適任でしょう」
ミハイル。
ブライアンはそう呼ぶ。
幼馴染としてではない。
同じ学園にいる、評価すべき人物として。
その呼び方は間違っていない。
ブライアンにとって、ミハイルは有能な候補であり、ルフトハンザ家の青年であり、交渉団にとって有益な駒だ。
そして、それだけではないのかもしれない。
それでもマーリンには、その言葉が少し遠く聞こえた。
ミーシャではない。
マーリンをマーリンと呼ぶ人ではない。
帝国の若き使節。
その名が彼を遠ざけていく。
「そうですね」
マーリンは答えた。
「ミハイル様は、きっと冷静に務めを果たされます」
自分の声は、きれいだった。
きれいすぎて、嫌になるくらいだった。
ブライアンは頷く。
「当日は、ロイス嬢も落ち着いた対応をお願いします」
「もちろんです」
もちろん。
その言葉まで、きれいだった。
生徒会室を出た後、クリスチーナが一歩後ろで声を落とした。
「お嬢様」
「ええ」
「少し、お茶を」
「まだ資料があるわ」
クリスチーナは何も言わない。
ただ、沈黙が少しだけ強かった。
マーリンは立ち止まり、小さく息を吐いた。
「分かっているわ。戻ったら、いただくわ」
「はい」
大丈夫とは言わない。
けれど、大丈夫ではないとも言わない。
その中途半端な沈黙を、クリスチーナは受け取ってくれた。
ミハイルと会ったのは、庭園の奥だった。
人目の届かない木陰。
何度も言葉を交わした場所。
怖いと言っても許された場所。
守りたい未来を、初めてはっきり口にした場所。
けれど、この時だけは、そこも少し遠く感じた。
木漏れ日は柔らかい。
白い花は風に揺れている。
遠くの回廊から、生徒たちの声も聞こえる。
何も変わっていないように見える。
なのに、見えるものの奥に、出立という言葉が影を落としていた。
「ミハイル様」
最初は公の呼び方。
ミハイルも、静かに返す。
「マーリン嬢」
正しい。
とても正しい。
その正しさが、少しだけ悲しい。
周囲の足音が遠ざかり、木陰の奥に二人だけの空気が戻ってくる。
マーリンは、そこでようやく息を吐いた。
「ミーシャ」
「マーリン」
名前を呼ばれただけで、胸が痛くなる。
行かないで。
その言葉が、喉の奥まで来る。
けれど、すぐには言えない。
ミハイルは戦争を終わらせるために向かう。
マーリンが戦わなくて済む未来のために向かう。
誰かが死ぬ前に、言葉で止められるかもしれない場所へ向かう。
それを、止められない。
止めたいのに。
止められない。
マーリンは視線を落とす。
足元の白い花びらが、風で少し動いた。
「準備は、進んでいるの?」
なんでもないことのように尋ねた。
少しだけ気にしているだけのように。
ミハイルは頷く。
「進んでいる」
「そう」
「怖い?」
ずるい聞き方だった。
何が、とは聞かない。
マーリンが誤魔化せない聞き方をする。
マーリンは少し笑った。
「怖くないと言ったら、怒るのでしょう」
「怒る」
「では、怖いわ」
ミハイルは頷く。
「うん」
それだけ。
大丈夫とは言わない。
心配するなとも言わない。
その優しさが、いちばん困る。
マーリンは、木陰の影を見つめた。
「私、言ってはいけないことばかり考えているの」
「例えば?」
「和平なんて、他の誰かが行けばいいのに、とか」
ミハイルは笑わない。
「うん」
「ミーシャが行かなくても、きっと誰かが何とかするわ、とか」
「うん」
「帝国の未来より、あなたが隣にいる方がいい、とか」
言ってから、マーリンは唇を結んだ。
重い言葉だった。
あまりにも自分勝手で、あまりにも本音だった。
ロイス家の令嬢なら、こんなことは言わない。
希望の花なら、もっと美しい言葉を選ぶ。
ブライアンの前なら、和平の意義を語れた。
ロイス公爵の前なら、承知いたしましたと答えられた。
けれど今だけは、マーリンだった。
ミハイルは静かに答える。
「俺は、その本音を聞けて嬉しい」
「嬉しいの?」
「嬉しい」
「困った人ね」
「たぶん、君ほどじゃない」
少しだけ笑えた。
けれど、笑ったあとに沈黙が残る。
マーリンは、その沈黙の中で手を伸ばした。
ミハイルの袖に触れる。
引き止めるほど強くはない。
けれど、離したくないくらいには弱い。
中途半端だった。
とても中途半端。
でも今のマーリンには、それが精一杯だった。
「ミーシャ」
「うん」
「未来の話をしてもいい?」
「いい」
マーリンは少し考えた。
未来を明言してはいけない気がした。
言葉にすれば、戦争がそれを聞きつける気がした。
帝国が、ロイス家が、父の冷たい声が、その未来を奪いに来る気がした。
だから、はっきりとは言わない。
「まだ、話していないことがあるの」
「たくさんありそうだ」
「失礼ね」
「違うのか?」
「……違わないわ」
マーリンは小さく笑った。
「だから、全部は言わないでおくわ」
「どうして」
「言ってしまったら、終わってしまう気がするから」
ミハイルは、しばらく黙った。
それから、静かに頷く。
「じゃあ、残しておこう」
「ええ」
「言わないまま、残しておく」
約束の形をしている。
けれど、約束とは言わない。
未来を明言しない。
前に聞いた言葉を、今は繰り返さない。
必ずとも言わない。
ただ、言葉を残す。
話の続きを、まだ閉じない。
マーリンは、それに縋った。
「私、続きを聞きたいわ」
「俺も、聞きたい」
「なら、覚えていて」
「覚えている」
その言葉だけでよかった。
それ以上は怖かった。
強い言葉を言わせたくなかった。
言ってほしくないのではない。
言わせたら、壊れてしまう気がした。
ミハイルも、それを察していた。
だから言わない。
大丈夫とも。
必ずとも。
ただ、マーリンの手にそっと触れる。
「マーリン」
「何?」
「君は、怖いと言っていい」
「……今?」
「今も。この先も」
マーリンは目を伏せる。
この先。
その言葉だけで、胸が少し熱くなる。
明確な未来ではない。
けれど、完全な別れでもない。
曖昧で、弱くて、頼りない。
でも、人間の約束はきっとそれくらいでいいのかもしれない。
強すぎる言葉は、時々嘘になる。
だから二人は、弱い言葉だけを選ぶ。
マーリンはミハイルの袖を見つめる。
掴んでいるわけではない。
触れているだけ。
触れているだけなのに、離すことがひどく難しい。
「ミーシャ」
「うん」
「行かないで」
とうとう言ってしまった。
小さな声だった。
庭園の葉擦れに紛れてしまいそうな声。
でも、ミハイルには届いた。
彼はすぐには答えない。
行かない、とは言えない。
行く、とも言いにくい。
マーリンは、その沈黙で答えを知る。
知っていた。
彼は行く。
和平のために。
戦争を止めるために。
マーリンが守りたい未来を、少しでも近づけるために。
だから、マーリンは袖から手を離した。
離したくない。
でも、離す。
「ごめんなさい」
「謝らなくていい」
「言わないつもりだったの」
「聞けてよかった」
「本当に、困った人」
「知ってる」
ミハイルは少しだけ笑う。
その笑顔を、マーリンは胸に刻む。
刻む、なんて大げさだと思う。
けれど、忘れたくなかった。
人は忘れる。
日々に流される。
役割に上書きされる。
だから今だけは、ちゃんと見ていたかった。
ミハイルの目。
声。
笑い方。
マーリンを見る時の、まっすぐな静けさ。
希望の花ではなく、マーリンを見る目。
それを、失いたくない。
「マーリン」
「なあに」
「君がそう言ったことを、俺は忘れない」
「ずるいわ」
「何が」
「それでは、私はますます忘れられない」
「忘れなくていい」
マーリンは、困ったように笑った。
「本当に、ずるい」
「知ってる」
その返しが少しだけ軽くて、少しだけいつも通りで、胸の奥が痛くなる。
いつも通りは、こんなに簡単に特別になる。
もっと早く知っていればよかった。
知っていたら、どうなっただろう。
たぶん、何も変わらない。
それでも、もう少し大事にできた気がしてしまう。
そんな後悔にも似たものが、まだ出立前の時間に入り込んでくる。
マーリンは息を吸う。
「ミーシャ」
「うん」
「私、待つわ」
それは、戻ってきてと言わせる代わりの言葉だった。
ミハイルは静かに頷いた。
「うん」
たったそれだけ。
でも、二人には足りた。
足りないものだらけの中で、なんとか足りる形を探していた。
出立の場は、学園の発着区画だった。
公的な見送りではない。
大げさな式典もない。
けれど関係者はいる。
教師。
生徒会。
軍の連絡官。
護衛要員。
どの顔も、出立に必要な表情をしていた。
緊張しすぎず、浮かれすぎず、役割にふさわしい温度で立っている。
マーリンもその中にいた。
ロイス家の令嬢として。
帝国の希望として。
前の木陰で「行かないで」と言った少女は、ここにはいない。
いないことになっている。
発着区画には、小型艇が待機していた。
白い航行灯が低く点り、装甲の表面に学園の明かりが薄く映っている。整備員が手順を確認し、軍の連絡官が端末へ視線を落とす。
すべてが進んでいく。
誰かの胸の内とは関係なく。
ブライアンもいた。
彼はいつものように整った姿で、ミハイルと言葉を交わしている。
「ミハイル。交渉団への同行、君なら適任だ」
「できることをするだけだ」
「期待している」
「期待は重いな」
「君なら持てる」
その会話は穏やかだった。
けれどマーリンには、少し冷たく聞こえた。
期待。
適任。
同行。
交渉団。
どれも正しい言葉だ。
正しい言葉は、人を遠くへ運んでいく。
ブライアンは悪意なく、整った道を示す。
その道がどれほど冷たくても、正しければ人はそこを歩く。
ミハイルも、歩く。
マーリンは一歩離れた場所で立っていた。
不安を隠す。
隠せる。
そのことが、少しだけ恐ろしい。
ミハイルが近づいてくる。
人目がある。
「マーリン嬢」
「ミハイル様」
二人は正しく礼を交わした。
それだけ。
たったそれだけ。
けれど視線が合う。
そこに、庭園で残した言葉がある。
言わないまま残しておく未来。
まだ閉じていない話の続き。
行かないで、と言ってしまった声。
マーリンは微笑む。
希望の花として。
その微笑みを見て、ミハイルの目がほんの少しだけ痛む。
彼だけが分かる。
その微笑みが、マーリンの本音ではないことを。
「お気をつけて」
マーリンは言う。
声は落ち着いている。
「ありがとう」
ミハイルも落ち着いている。
本当は、もっと言いたい。
怖い。
嫌だ。
行かないで。
私を置いていかないで。
けれど、ここは発着区画だ。
人目がある。
帝国がある。
ロイス家の影も、ブライアンの視線も、軍の記録もある。
私情を挟むな。
父の声が、胸の奥を冷やす。
マーリンは微笑みを崩さない。
ミハイルは小さく礼をして、踵を返した。
その背中が、搭乗口へ向かう。
マーリンは見つめる。
呼び止めない。
呼び止めたら、きっと声が崩れる。
だから立っている。
背筋を伸ばして。
指先を握って。
大丈夫ではないまま、微笑んで。
艇の扉が閉じる。
発着区画に低い振動が広がる。
航行灯が白く点る。
マーリンは息を止めた。
小型艇が、ゆっくりと浮上する。
機体の下で光が揺れ、床面に細い影が走る。
整備員が距離を取り、軍の連絡官が短く合図を送る。
そして艇は、帝都の空へ滑り出していった。
白い航行灯が遠ざかる。
遠くなる。
とても遠くなる。
マーリンは、その光が見えなくなるまで立っている。
誰にも分からない程度に、唇だけが動いた。
「行かないで」
今度は、誰にも届かなかった。
学園に戻ってからも、マーリンの一日は続いた。
講義がある。
挨拶がある。
生徒会からの連絡がある。
和平について、穏やかな期待を語らなければならない場もある。
やるべきことは多い。
多すぎるくらいだった。
けれど、そのどれも、どこか薄い。
文字を読んでも、意味が少し遅れて届く。
ティーカップを持てば、飲む前に茶が冷めている。
誰かが話しかければ、微笑むまでにほんの一拍だけ間が空く。
その一拍は、とても小さい。
周囲は気づかない。
気づいたとしても、疲れているのだろうと思うだけだ。
けれどクリスチーナだけが、それに気づく。
「お嬢様」
「ええ」
「少し、お休みになられますか」
マーリンは首を振った。
「平気よ、クリス」
大丈夫とは言わない。
けれど平気でもない。
それを、クリスチーナは知っている。
知っていて、それ以上は責めない。
「では、せめてお茶を淹れ直します」
「冷めていた?」
「はい」
「そう」
マーリンはティーカップを見た。
冷めた茶は、色だけは変わらない。
温かさだけがなくなる。
まるで、正しい微笑みみたいだった。
形は残る。
けれど、触れた時の温度が違う。
クリスチーナが新しい茶を用意する。
湯気が細く上がる。
マーリンはその湯気を見つめた。
庭園の木陰。
ミハイルの袖。
言わないまま残した未来。
発着区画の白い航行灯。
全部が、少しずつ遠くなる。
遠くなってほしくないのに、時間は勝手に進む。
「お嬢様」
クリスチーナの声は静かだった。
「何かしら」
「……お待ちになることは、悪いことではございません」
マーリンは顔を上げた。
クリスチーナは視線を伏せている。
踏み込みすぎないように。
けれど、届くように。
その距離で言ってくれる。
マーリンは少しだけ笑った。
「そうね」
待つ。
木陰でそう言った。
自分の口から出た言葉なのに、今は少し頼りない。
けれど頼りないものしか、持っていない。
約束の品もない。
証もない。
強い言葉も、交わさなかった。
ただ、言わずに残した未来だけがある。
まだ閉じていない話の続き。
それを抱えたまま、マーリンは落ち着かない一日へ入っていく。
窓の外を見る。
空にはもう、あの航行灯は見えない。
ミハイルを乗せた艇は、帝都の光の向こうへ消えている。
それでもマーリンは、胸元に手を当てた。
そこには何もない。
何もないのに、重い。
行かないで。
待っているわ。
怖い。
全部、胸の奥で重なっている。
どれも公には出せない言葉だ。
ロイス家の書類には載らない。
生徒会の記録にも残らない。
和平の資料にも記されない。
けれど、それらがあるから、マーリンはまだマーリンでいられる。
希望の花ではなく。
器ではなく。
ただ、好きな人を見送った少女として。
ほんの短い間だけ、そうありたかった。
けれど扉の外では、また誰かが彼女を呼ぶ。
ロイス様。
その声に、マーリンは背筋を伸ばす。
ティーカップを置く。
微笑みを整える。
クリスチーナが一歩後ろに控える。
「参りましょうか」
「はい、お嬢様」
マーリンは扉へ向かう。
廊下へ出れば、また正しい時間が始まる。
和平への期待。
帝国の未来。
ルフトハンザ家の名。
希望の花の微笑み。
それでも、胸の奥にはまだ残っている。
木陰の声。
触れた袖。
ミハイルの目。
言わないまま残した話の続き。
マーリンはそれを抱えたまま歩いた。
小さくて、頼りなくて、すぐに折れてしまいそうな未来。
けれど、それを手放したら、あの白い航行灯を見送った自分まで消えてしまう気がした。
だから、手放さない。
まだ。
まだ、終わっていない。
そう思いながら、マーリンはロイス家の令嬢として微笑んだ。
その微笑みの奥で、誰にも届かなかった言葉だけが、静かに揺れていた。
行かないで。
もう見えない航行灯へ向けて。
まだ閉じていない未来へ向けて。
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