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ロイス公爵の影

ご覧いただきありがとうございます。

評価、ブックマークしていただきありがとうございます。

ロイス公爵家からの呼び出しは、静かに届いた。


封蝋も、文面も、乱れていない。


ただ短い。


マーリン。帰邸せよ。


それだけだった。


優しい言葉はない。


体調を案じる言葉もない。


和平の噂に触れる前置きすらない。


帰邸せよ。


命令だった。


マーリンはその紙を見つめた。


紙は白い。


とても白い。


白いものを見ると、最近は少しだけ胸がざらつく。


リュールの装甲。


白い糸。


自分の髪。


学園の医務室。


そして、ロイス家の便箋。


白いものは、いつも綺麗な顔をしている。


その奥に何を隠していても。


「お嬢様」


クリスチーナが声を落とす。


マーリンは紙から視線を外し、いつもの形に唇を整えた。


「平気よ、クリス」


大丈夫、とは言わなかった。


けれど、平気という言葉もあまり信用ならない。


少なくとも、クリスチーナは信用していない。


彼女の視線が、マーリンの手元に落ちる。手袋の指先が、ほんの少しだけ便箋を強く押さえていた。


「すぐにお支度を」


「ええ」


クリスチーナはそれ以上問わず、外出の支度を整え始めた。


髪をまとめる。


髪飾りを選ぶ。


手袋を替える。


襟元を直す。


ロイス家の令嬢にふさわしい姿が、ひとつずつ作られていく。


それは鎧に似ていた。


美しくて、軽そうで、実際は重い。


マーリンは鏡の中の自分を見た。


白い髪。


整った顔。


誰に見せても不足のない微笑み。


その奥に、帝都の夜明けはもう見えない。


見えないように、隠した。


隠せることが、少し嫌だった。



学園を出る車は、ロイス家の紋章を掲げていた。


目立つ。


とても目立つ。


けれど、ロイス家の車が目立つことを恥じる者はいない。むしろ目立つためにある。道を空けさせ、視線を集め、誰が通っているのかを周囲へ知らせるために。


マーリンは車窓の外を見た。


帝都の街並みが、静かに流れていく。


高い塔。


整った空中回廊。


遠くの軍港へ伸びる赤い航行灯。


休日市で歩いた通りは、もっと明るく見えた。


焼き菓子の匂いも、人の声も、機械仕掛けの鳥も、ちゃんとそこにあった。


同じ帝都なのに、ロイス家の車の中から見る街は違う。


硝子一枚を挟むだけで、街は景色になる。


触れられないものになる。


マーリンは膝の上で手を重ねた。


ミハイルの手の温かさは、まだ覚えている。


人波の中でつながれた手。


展望庭園で重なった指。


木陰で交わした、戻るという約束。


それらは確かにあった。


あったはずなのに、ロイス家の紋章の下では、少しずつ遠くなる。


「お嬢様」


隣に座るクリスチーナが、静かに声をかける。


「ええ」


「少し、お顔の色が」


「屋敷が近いからかしら」


軽く言ったつもりだった。


けれどクリスチーナは笑わない。


マーリンも、少し遅れて笑わなかった。


冗談にするには、少しだけ本当すぎた。



ロイス家の屋敷は、いつ見ても静かだった。


広い。


とても広い。


広いぶんだけ、音が消える。


足音も、息遣いも、人の気配も。


屋敷に仕える者たちは多い。廊下には使用人が控え、庭には手入れの行き届いた木々が並び、玄関広間には花も飾られている。


けれど、誰も必要以上に声を出さない。


この家では、静かなことが礼儀だった。


そして、感情を見せないことが忠誠だった。


マーリンは玄関広間で短く迎えを受けた。


「お帰りなさいませ、マーリン様」


「ええ」


それだけで終わる。


誰も、学園のことを尋ねない。


和平の噂にも触れない。


ミハイルの名など、もちろん出ない。


この屋敷では、まだ言葉になっていないものは存在しないことにされる。言葉になったものも、都合が悪ければ置き場所を与えられない。


マーリンは案内もなく、父のいる奥の区画へ向かった。


道は覚えている。


覚えたくなくても、覚えてしまう。


長い廊下。


飾られた肖像画。


磨かれた床。


途中で枝分かれする通路。


子どもの頃は、この廊下が少し怖かった。


広すぎて、まっすぐで、どこまで歩いても誰にも抱き上げてもらえない気がした。


今はもう怖くない。


そう思う。


けれど足音は、いつもより少しだけ硬かった。


クリスチーナは途中で止められる。


奥の区画には、許可された者しか入れない。


彼女は控えの位置で足を止め、深く頭を下げた。


「お待ちしております」


「ええ。すぐ戻るわ」


すぐ。


その言葉も、あまり信用ならなかった。


マーリンはひとりで奥へ進んだ。


廊下の先。


厚い扉。


魔力認証。


低い機械音。


その向こうに、ロイス公爵がいる。


父であるはずの人。


けれど、マーリンはその扉の前に立つたび、父に会うというより、家そのものに呼ばれているような気がした。


扉が開く。


室内は薄暗かった。


窓は厚い遮光幕で覆われている。外の光は入らない。壁際には生命維持装置が並び、淡い光を規則正しく点滅させていた。


空気を押し出す音。


何かを循環させる低い振動。


管の中を液体が通る、ごく小さな音。


機械が呼吸を肩代わりしている部屋だった。


ロイス公爵は、椅子に深く沈むように座っていた。


痩せた身体。


冷たい目。


人工心肺装置につながれた管。


指先は細く、肌は紙のように薄い。


生きている。


けれど、その姿は生きているというより、まだ終わることを拒んでいるようだった。


「マーリン」


ロイス公爵はそう呼んだ。


娘を呼ぶ声ではない。


帳簿の数字を確認するような声だった。


マーリンは深く礼をする。


「お父様」


返事はない。


ロイス公爵の視線が、マーリンを上から下まで測った。


美貌。


姿勢。


魔力。


血筋。


世間から向けられる羨望。


リュールを動かした適合性。


たぶん、父はそのすべてを見ている。


そして、そのどれも娘とは呼ばない。


「和平の噂は聞いているな」


「はい」


「ルフトハンザが交渉関連の任務に関わる」


「……はい」


一拍だけ、返事が遅れた。


ほんの少し。


けれどロイス公爵は見逃さない。


「私情を挟むな」


短い言葉だった。


マーリンの胸の奥が、きゅっと冷える。


「お前が何を思おうと、ロイス家には関係がない」


「……承知しております」


「承知しているなら、振る舞え」


慰めではない。


助言でもない。


命令だった。


ロイス公爵は表情を変えない。


機械音だけが、部屋の中で規則正しく続いている。


それがかえって怖かった。


人の声より、機械の方が温度を持たない。


そしてこの部屋では、人の声の方まで機械に近づいている。


「和平が進むなら、お前は帝国の希望として穏健な象徴になる」


ロイス公爵は淡々と続けた。


「交渉が揺らぐなら、帝国の威信を示す花になる。交渉が決裂するなら、リュールの適合者として戦場に出る準備をする」


どの道でも、マーリンは必要だと言う。


必要。


便利な言葉だ。


そこにマーリンの気持ちは入らない。


怖いも、嫌だも、行かないでほしいも、入る場所がない。


「お前はロイス家の令嬢だ」


「はい」


「帝国の希望だ」


「はい」


「NewEraの成果を示す器でもある」


マーリンは息を止めた。


器。


その言葉は、静かに落ちた。


静かすぎて、逃げ場がなかった。


リュールに乗った時、身体の中から白い糸が伸びた。


あの時は怖かった。


自分の中に、自分の知らない何かがあるようで。


けれど今は、それとは違う怖さだった。


自分の中身を見られているのではない。


中身など最初から問題にされていない。


ただ、何を入れるか。


何を示すか。


何のために使うか。


そういう話をされている。


「お前個人の幸福は、役割を果たした後に残っていれば拾えばよい」


胸の奥で、何かが小さく軋む。


夜明けの余白。


帝都の夜景。


ミハイルの声。


守りたい未来。


それらが、父の言葉の前で急に小さくなる。


消えたわけではない。


けれど、踏み潰されそうになる。


マーリンは手袋の中で指を握った。


「お父様」


声は震えなかった。


震えなかったことが、少し嫌だった。


「わたくしは、何をすればよろしいのでしょうか」


ロイス公爵は満足したように、ほんのわずか目を細めた。


「それでいい」


それでいい。


娘が何を思うかではなく。


何をしたいかでもなく。


命令を受け取る形になること。


それでいい。


「和平に関する場で、お前は希望として振る舞え。ルフトハンザに対しても同様だ。個人的な関係を匂わせるな。必要なら距離を置け」


「……はい」


「ルフトハンザが戻ろうと戻るまいと、帝国は止まらない」


マーリンは顔を上げた。


戻ろうと戻るまいと。


その言い方が、あまりにも冷たかった。


まるで、ミハイルが人ではなく、交渉に使われる駒の一つでしかないように。


「お父様」


「何だ」


「ミハイル様は、帝国のために働こうとしておられます」


「当然だ」


それだけだった。


ロイス公爵にとって、誰かが帝国のために使われることは当然だった。


ミハイルも。


マーリンも。


家に連なる者すべてが。


きっと、父自身でさえ。


人は役割を果たすためにいる。


役割を果たせないものは、価値を失う。


ロイス家の論理は、とても簡単だった。


簡単すぎて、息が苦しい。


「和平とは感情で扱うものではない」


ロイス公爵は続ける。


「勝利より有利なら使う。休戦より有利なら進める。不利なら捨てる。それだけだ」


マーリンは黙って聞いた。


教師の講義よりも、ブライアンの説明よりも、ずっと冷たい和平だった。


そこに人の命はある。


けれど、人の顔はない。


「お前も同じだ」


ロイス公爵の目が、薄暗い部屋の中でマーリンを射抜く。


「必要なら笑え。必要なら黙れ。必要なら戦え。涙は必要な時以外に見せるな」


涙。


まだ失っていない。


まだミハイルは戻ると言っている。


それなのに、父はもう涙の置き場所まで決めようとしている。


マーリンの胸が、静かに冷えた。


怒りではない。


悲しみでもない。


もっと奥の、名前のない冷たさだった。


「承知いたしました」


マーリンは礼をする。


「ロイス家の名を損なわぬよう、務めます」


それは正しい返答だった。


正しすぎる返答だった。


ロイス公爵は、もうマーリンを見ていない。


次の書類へ視線を移している。


話は終わったのだ。


娘との会話ではない。


道具の調整が済んだだけ。


マーリンは静かに退室した。


扉が閉じる。


低い機械音が、分厚い扉の向こうへ遠ざかる。


廊下は、部屋の中より少し明るい。


けれど、空気は冷たかった。


マーリンはしばらく歩けなかった。


足は動く。


動くはずだ。


けれど、胸の奥に何かが重く沈んでいる。


器。


その言葉が、耳に残る。


希望の花。


ロイス家の令嬢。


リュールの適合者。


NewEraの成果を示す器。


どれもマーリンであって、マーリンではない。


ミーシャが呼ぶマーリンだけが、彼女を彼女にしてくれる。


だから失いたくない。


なのに、そのミハイルも、帝国の大きな手の中へ進もうとしている。


和平のために。


誰かを生かすために。


マーリンが戦わなくていい未来のために。


知っている。


知っているから、苦しい。


「お嬢様」


廊下の先で、クリスチーナが待っていた。


いつからいたのかは分からない。


けれど、きっと長く待っていた。


マーリンは微笑もうとする。


形は整う。


整ってしまう。


「戻りましょう、クリス」


クリスチーナはすぐに動かない。


その目が、マーリンの顔を見る。


髪飾りを見る。


手袋の指先を見る。


ロイス公爵の前でどんな顔をしていたか、クリスチーナは知らない。


けれど、戻ってきたマーリンがどんな顔をしているかは、見れば足りた。


「お嬢様」


「何かしら」


「……お疲れではございませんか」


疲れている。


怖い。


悔しい。


悲しい。


腹も立っている。


けれど、そのどれも屋敷の廊下には置けない。


置けば、誰かが拾ってしまう。


拾われた感情は、また家の論理で処理される。


だからマーリンは、少しだけ首を傾げた。


「少しだけ」


それだけ言う。


大丈夫とは言わない。


クリスチーナの表情が、わずかに揺れる。


「では、少しだけ、ゆっくり歩きましょう」


「ええ」


二人は廊下を歩いた。


ロイス家の屋敷は静かだった。


本当に静かだった。


静かすぎて、マーリンの中に残った小さな未来の音まで、消されてしまいそうだった。


けれど消えない。


ミハイルの声がある。


戻る。


たったそれだけの約束が、胸の奥に残っている。


小さい。


とても小さい。


でも今のマーリンには、それがすべてだった。


玄関広間へ向かう途中、壁の肖像画がいくつも並んでいる。


ロイス家の当主たち。


誰もが立派な顔をしている。


冷たく、整い、永遠に叱られなさそうな顔。


マーリンは、ふとその中に自分の絵が並ぶ未来を想像した。


希望の花。


リュールの適合者。


帝国に尽くした令嬢。


そんな題がつけられるのだろうか。


その絵の中の自分は、きっと笑っている。


正しく。


美しく。


誰にも、行かないでと言えなかった顔で。


マーリンは視線を外した。


まだ絵にはなりたくない。


まだ花瓶にも、器にもなりたくない。


自分の足で歩く人間でいたい。


そう思うことすら、ロイス家の廊下では少しだけ反抗に思えた。



屋敷を出る時、冷たい風が頬に触れた。


外の空気は、屋敷の中より少しだけましだった。


クリスチーナが車の扉を開ける。


マーリンは乗り込む前に、一度だけ屋敷を見上げた。


高い壁。


整った窓。


重い紋章。


美しい屋敷。


けれど、マーリンには巨大な箱に見えた。


中に入ったものを、形よく収めるための箱。


そこに何を入れたかではなく、外からどう見えるかを守る箱。


ロイス家。


その名は、いつもそうだった。


車が動き出す。


門が後ろへ遠ざかる。


マーリンは窓の外を見た。


帝都の灯りが、流れるように過ぎていく。


綺麗な街。


冷たい街。


人の願いも役割も、同じ光の中に溶かしてしまう街。


クリスチーナは隣で黙っている。


何も聞かない。


聞けないのではなく、聞かない。


その沈黙がありがたかった。


マーリンは手袋の指先を見つめる。


ロイス公爵の声が残っている。


私情を挟むな。


役割を果たせ。


器であれ。


胸の奥で、ミハイルの声も残っている。


戻る。


二つの声が、重ならないままマーリンの中にある。


屋敷の影は、まだ背中に張りついている。


けれど学園に戻れば、ミハイルに会える。


会えたら、いつも通りに笑わなければならない。


不安を隠して。


正しい距離で。


マーリン嬢とミハイル様として。


マーリンは目を閉じた。


行かないで。


その言葉だけは、まだ胸の奥にしまったままだった。


「お嬢様」


クリスチーナが、そっと呼ぶ。


「ええ」


「お戻りになられたら、少しお休みくださいませ」


マーリンは目を開け、窓に映る自分を見た。


いつもの顔だった。


少しだけ疲れている。


けれど、まだ崩れてはいない。


崩れていないことが、今は少し寂しかった。


「そうね。少しだけ」


大丈夫、とは言わなかった。


車窓の向こう、学園の灯りが近づいてくる。


そこにはミハイルがいる。


ミーシャがいる。


戻ると言った人がいる。


マーリンは手袋の中で指を握る。


ロイス公爵の言葉は冷たい。


屋敷の影は重い。


それでも、胸の奥に残る小さな約束だけは、まだ消えていない。


消さない。


消してしまったら、本当に器になってしまう。


だからマーリンは、何も言わずにその約束を抱えた。


行かないで。


戻ってきて。


私を、マーリンと呼んで。


言葉にしない願いが、胸の奥でいくつも重なる。


どれも小さい。


どれも、ロイス家の書類には載らない。


けれどその小さなものだけが、今のマーリンを人間の形につなぎ止めていた。


学園の門が見えてくる。


車が速度を落とす。


マーリンは背筋を伸ばした。


ロイス家の令嬢へ戻るために。


帝国の希望へ戻るために。


そして、その奥でまだ消えずにいる、ただのマーリンを守るために。


窓の外で、灯りがひとつ揺れた。


それは夜明けの光ではない。


けれど、完全な闇でもなかった。

ここまでお読みいただき有り難うございました。


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