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和平の噂

ご覧いただきありがとうございます。

評価、ブックマークしていただきありがとうございます。

学園の空気が、少しだけ変わった。


最初は、廊下の端のささやきだった。


戦線が動かない。


補給線が伸びきっている。


王国側にも帝国側にも、これ以上削れない場所がある。


そういう言葉は、いつもなら講義室の中や、生徒会室の書類の上に閉じ込められている。けれどその頃から、閉じたはずの扉の隙間を抜けるように、学生たちの間へ漏れ出していた。


そして、和平交渉の可能性。


その言葉は、軽い羽のように学園中を舞った。


けれど、落ちた先では石のように重くなる。


和平。


綺麗な言葉だった。


戦争が終わるかもしれない。


人が死ななくなるかもしれない。


リュールに乗らなくて済む日が来るかもしれない。


その言葉を初めてはっきり聞いた時、マーリンの胸の奥には、小さな灯りがともった。


守りたい未来。


ミハイルといる未来。


怖いと言える場所。


それが、ただの夢ではなくなるかもしれない。


帝都の夜明けの余白にしまったものが、朝の光の中でも消えずに残るかもしれない。


そう思った。


思ってしまった。


けれど、学園の生徒たちは和平を単純には喜ばなかった。


ある者は、帝国の勝利なくして和平など屈辱だと言う。


ある者は、王国が時間稼ぎをしているだけだと言う。


ある者は、和平が成立すれば軍需で伸びた家が沈むと囁く。


別の者は、父の部隊が前線にいるから早く終わってほしいと、小さな声で言った。


その声だけは、少し震えていた。


戦争は遠くにあるようで、誰かの家の利害に深く刺さっている。


社交場と同じだ。


席次。


家格。


利害。


誰が得をして、誰が沈むか。


ただ、そこに死者の数が加わっている。


マーリンはそのことに、少しだけ吐き気を覚えた。


けれど、廊下の中央で立ち止まるわけにはいかない。


ロイス家の令嬢は、そんなところで顔色を変えない。


だから微笑む。


「和平が成るなら、それは望ましいことですわ」


正しい言葉。


正しい声。


周囲の生徒たちが頷く。


希望の花がそう言うなら、そうなのだろう。


そんな空気が、すぐに生まれる。


マーリンは、自分の言葉が自分のものではなくなっていく感覚を覚えた。


和平を望んでいるのは本当だ。


戦争が嫌いなのも本当だ。


人形に乗りたくないのも、黒い宇宙が怖いのも、嘘ではない。


けれど、その言葉が美しく飾られた瞬間、自分の胸の奥にあった小さな願いが、大きな旗に縫い込まれていくような気がした。


旗は、遠くから見るには綺麗だ。


けれど縫い込まれた糸は、自分でほどけない。


講義室でも、和平の話題は避けられなかった。


教師は慎重な言葉を選んでいた。


まだ正式ではない。


帝国政府が発表したものではない。


王国側の意図も読めない。


しかし、長引く戦争が双方の国力を削っていることは事実であり、接触の可能性を検討する段階に入っている。


穏やかな声だった。


穏やかな声で、重いことをいくつも並べる。


マーリンは背筋を伸ばし、手元の資料へ視線を落とした。


戦況図。


補給線。


中立宙域。


交渉候補地。


小さな文字が整然と並んでいる。


整然としているほど、その下にあるものが見えにくい。


燃えた船。


戻らない人形使い。


届かない手紙。


名前の消えた兵士。


リュールの操縦席で見た黒い宇宙。


マーリンは指先を膝の上で重ねた。


手袋の下は、もう大きく震えてはいない。


けれど、完全に何もなくなったわけではない。


白い糸の感覚は、時々ふと戻ってくる。


黒い宇宙の冷たさも、今でも目の奥にある。


和平が成立すれば、あれは遠ざかるのだろうか。


それとも、帝国は別の理由を見つけて、またリュールを呼ぶのだろうか。


そんなことを考えたところで、教師の声が耳に戻る。


「帝国としては、強硬姿勢を保ちつつ、王国側に譲歩を示させる形が望ましい。だが、交渉の場に若い世代を象徴的に加える案も検討されている」


若い世代。


象徴。


その言葉に、講義室の空気が少しだけ動いた。


誰かが小さく息を呑む。


誰かが隣と視線を交わす。


マーリンは顔を上げなかった。


顔を上げれば、何かが表に出てしまう気がした。


希望の花。


白い人形を動かしたことは伏せられている。


けれど、彼女の名はすでに学園の中で重い。


表彰された令嬢。


事故の中でも落ち着いていた生徒。


臨時集会で拍手を受けた存在。


真実は伏せられているのに、役割だけが増えていく。


それは、少し不気味だった。



講義後、マーリンは生徒会室に呼ばれた。


クリスチーナが一歩後ろを歩く。


廊下の窓からは、帝都の空が見えた。薄い雲の向こうを、軍用艇の航行灯がゆっくり流れていく。あれも和平の準備の一部なのか、それともただの巡回なのか、マーリンには分からない。


分からないことが、ずいぶん増えた。


生徒会室の扉の前で、クリスチーナが静かに足を止める。


「お嬢様」


「ええ」


「ご無理は」


マーリンは振り返り、少しだけ笑った。


「分かっているわ、クリス」


大丈夫、とは言わない。


クリスチーナはそれだけで、ほんの少し表情を緩めた。


部屋の中では、ブライアンが書類を整えていた。


机の上には複数の資料束がある。避難経路見直しの書類、講義日程の調整表、それから封印の押された薄い資料。


ブライアンは顔を上げる。


「ロイス嬢」


「ブライアン様」


「急な呼び出しで申し訳ありません。座ってください」


「ありがとうございます」


マーリンは勧められた椅子に腰を下ろした。


ブライアンの声はいつも通り整っている。


それだけで、この話がただの学園業務ではないと分かった。


静かすぎる時の彼は、場を整え終えている。


誰が何を聞き、どこまで知るべきか。


その線が、すでに引かれている。


「和平交渉について、噂が広がっています」


「ええ。講義でも触れられておりました」


「正式決定ではありません。ただ、水面下で接触があるのは事実です。帝国側は、若い世代の象徴を交えた柔らかな交渉姿勢を見せたい。王国側も、全面衝突を避ける理由を探している」


ブライアンは資料に視線を落とす。


「学園には、今後その空気を支える役割が求められます」


「学園に、ですか」


「ええ。特に、上位貴族の子女には」


マーリンは指先を重ねた。


上位貴族の子女。


言い方は柔らかい。


けれど、そこに自分が含まれていることは分かる。


「ロイス嬢にも、今後は和平機運を支える発言をお願いすることになるかもしれません。あなたの言葉には力があります」


あなたの言葉。


けれど、それは本当にマーリンの言葉なのだろうか。


講義室で口にした「望ましいことですわ」という声が、頭の奥で小さく響く。


あの言葉は、確かにマーリンの口から出た。


でも、マーリンだけのものだっただろうか。


希望の花の言葉として、誰かに飾られた瞬間、もう別のものになっていたのではないか。


「承知いたしました」


マーリンは曖昧に頷く。


いつものように。


整った声で。


ブライアンは続ける。


「交渉団の予備調整に、学園関係者からも数名が関わる予定です。正式な外交官ではありませんが、若い世代の視察、あるいは補助役という形になります」


嫌な予感がした。


胸の奥で、小さな灯りが揺れる。


ブライアンは書類をめくる。


「候補者の中に、ミハイルの名があります」


その瞬間、マーリンは息を忘れた。


短い間だった。


たぶん、他人には分からない程度。


けれど、手袋の下で指先が冷えた。


ブライアンは気づかないふりをした。


「ルフトハンザ家は、軍と外交の双方に顔が利く。彼自身も学園内での評価が高く、過激な主戦論に寄りすぎていない。和平交渉の予備調整に同行する候補として、名前が挙がっています」


正しい評価だった。


正しい。


正しすぎる。


だから、嫌だと言えない。


マーリンは微笑む。


「ミハイル様なら、きっとよいお働きをなさるでしょう」


言えた。


言えてしまった。


胸の奥で、小さな灯りがまた揺れる。


和平が近づく。


ミハイルがそこへ行く。


嬉しいことのはずだった。


戦争が終わるかもしれない。


誰かが死なずに済むかもしれない。


マーリンがリュールに乗らなくて済む日が来るかもしれない。


それなのに、なぜ指先はこんなに冷たいのだろう。


「その通りです」


ブライアンは静かに頷いた。


「ミハイルの参加は、交渉団にとって有益でしょう。若く、聡明で、かつ帝国の威信を損なわない」


帝国の威信。


その言葉の横に、ミハイルの名前が置かれる。


マーリンは、少しだけ嫌だと思った。


彼は帝国の飾りではない。


ロイス家のための駒でもない。


マーリンにとっては、ただミーシャだった。


けれど、それはこの場では言えない。


言えば、ただの私情になる。


ロイス家の令嬢としてふさわしくない言葉になる。


だからマーリンは、微笑みを保った。


「詳細が決まりましたら、お知らせくださいませ」


「もちろんです」


ブライアンは書類を閉じた。


「ロイス嬢」


「はい」


「あなた個人にとっても、和平は望ましいはずです」


その言葉は、優しさの形をしていた。


ブライアンは、リュールの件を知らない者ではない。


マーリンがあの白い人形に乗ったことも、どれほど負荷が大きかったかも、少なくとも記録の上では知っている。


だから、彼の言葉は間違いではない。


和平が進めば、マーリンが戦場へ出される可能性は下がる。


それは望ましい。


本当に。


「はい」


マーリンは答える。


「そう思います」


嘘ではない。


けれど、本当がすべてではない。


ミハイルが危ない場所へ行く。


その事実だけが、胸の奥で小さく冷えていた。



庭園の奥で、ミハイルと会った。


約束していたわけではない。


少なくとも、表向きは。


けれどミハイルはそこにいて、マーリンもそこへ向かった。


偶然というには、もう少しだけ互いを知りすぎている。


人目が途切れたところで、呼び方が変わる。


「ミーシャ」


声に不安が混じった。


自分でも分かるくらいに。


ミハイルは少し困ったように笑う。


「聞いたんだな」


「ええ」


マーリンは短く答えた。


言いたいことは、たくさんあった。


行かないで。


危ないのではないの。


和平交渉なんて、本当に信じていいの。


あなたまで帝国の道具にされるのではないの。


けれど、そのどれも言えない。


ミハイルが和平に関わる理由は、分かるからだ。


彼は戦争を止めたい。


マーリンがリュールに乗らなくていい未来を、少しでも近づけたい。


誰かが死ぬ前に、言葉で止められるなら、そこへ行く人だ。


だから好きになった。


だから、止められない。


「危ないわ」


やっと言えたのは、それだけだった。


ミハイルは頷く。


「安全だとは言わない」


「そういうところ、嫌いだわ」


「嘘をつけばよかったか?」


「もっと嫌いになるわ」


「難しいな」


「ええ。私は面倒なの」


「知ってる」


マーリンは笑おうとした。


けれど、うまくいかなかった。


唇の端が少し動いただけだった。


ミハイルは、そんなマーリンを見て、声を低くする。


「和平が進めば、君が戦わなくて済むかもしれない」


その言葉が、胸に刺さった。


優しい言葉の形をした刃だった。


マーリンは戦いたくない。


本当に戦いたくない。


黒い宇宙は怖い。


白い糸も怖い。


リュールも、帝国に見つかった自分の力も怖い。


でも。


「そのために、ミーシャが危ない場所へ行くの?」


ミハイルはすぐには答えなかった。


沈黙が落ちる。


庭園の葉が、風に揺れる。


白い花が一枚、木陰へ落ちた。


「俺は、君を守りたい」


その答えは短かった。


けれど、マーリンには十分すぎた。


胸の奥で、何かが痛む。


「私は、ミーシャを失いたくない」


言ってしまった。


まっすぐすぎる言葉だった。


ロイス家の令嬢なら、もっと整えられた。


もっと遠回しに言えた。


もっと上品に隠せた。


でも、マーリンは隠さなかった。


隠せなかった。


ミハイルは目を伏せる。


その表情は、嬉しそうでもあり、苦しそうでもあった。


「戻る」


短い言葉。


約束としては、頼りない。


戦争の前では、あまりにも小さい。


和平交渉の場で何が起こるか、誰にも分からない。王国が本当に交渉を望んでいるのか、帝国がどこまで本気なのか、誰が何を利用するのか。若い二人の願いだけで、道が安全になるわけではない。


それでもマーリンは、その小さな言葉に縋りたくなる。


「必ず?」


「必ず」


「大丈夫って言ったら怒るわ」


「言わない」


少しだけ、二人は笑った。


笑えたことが、かえって痛かった。


マーリンは、ミハイルの手に触れる。


短い時間。


木陰の中だけ。


「ミーシャ」


「うん」


「私は、和平を願うわ」


「うん」


「でも、あなたに行ってほしくないとも思っている」


「うん」


「矛盾しているわ」


「人間だからな」


その言葉に、マーリンは息を止めた。


人間だから。


帝国は、人間は間違えると言う。


だからAIが必要だと言う。


だから正しい仕組みが必要だと言う。


けれどミハイルは、人間だから矛盾していいように言う。


間違えて、迷って、それでも選ぶものの中に、何かがあるように。


マーリンは、その考え方が好きだった。


好きで、怖かった。


失いたくなかった。


「ミーシャは、そういうところがあるわ」


「どこだ」


「私が好きになったところ」


言ってから、マーリンは自分で少し驚いた。


前よりも、その言葉が自然に出る。


好き。


一度口にしてしまった言葉は、消えるどころか、胸の奥で少しずつ居場所を増やしている。


ミハイルは一瞬だけ目を見開いた。


それから、困ったように笑う。


「それは、行きにくくなる」


「行かなくていいと言ったら?」


「困る」


「でしょうね」


マーリンは小さく息を吐いた。


「だから言わないわ」


言わない。


行かないで、と叫びたい心を、そっと胸の奥に押し込める。


それは我慢ではあった。


けれど、ただの我慢ではない。


ミハイルが戦争を止めたいと思う心を、大切にしたかった。


自分がミハイルとの未来を守りたいと思うように、彼にも守りたいものがある。


それを奪ってまで隣にいてほしいとは、言えなかった。


言えない自分を、少しだけ嫌だと思う。


同時に、少しだけ誇らしいとも思う。


人間の心は、やはり整列しない。


「戻ってきて」


マーリンはもう一度言った。


「うん」


「約束よ」


「約束する」


ミハイルの声は、静かだった。


強くはない。


けれど、逃げない声だった。



その後、和平の噂は少しずつ形を持ちはじめた。


噂だったものが、予定になる。


予定だったものが、準備になる。


学園の掲示板には何も出ない。


表向きは静かなまま。


けれど、教師たちの会話が減る。


生徒会室に届く文書が増える。


ブライアンの表情が少しだけ硬くなる。


昼食の席で主戦派の子息たちが声を潜め、回廊の端では和平派の家の令嬢たちが慎重に言葉を選ぶ。


誰も大声では言わない。


けれど、誰もが何かを聞いている。


何かを待っている。


その中でミハイルは、時折学園を離れるようになった。


戻ってくるたび、彼はいつも通りに見えた。


少なくとも、周囲には。


姿勢は崩れない。


声も乱れない。


マーリンへ向ける公の呼び方も正しい。


「マーリン嬢」


「ミハイル様」


それだけを聞けば、何も変わっていない。


けれどマーリンには分かる。


目元に少し疲れがあること。


手袋を外す時、指の動きがいつもより遅いこと。


笑うまでに、ほんの一拍かかること。


「大したことはない」


ミハイルは、そうは言わなかった。


言えばマーリンが怒ると分かっているから。


代わりに、彼は言う。


「まだ途中だ」


途中。


その言葉が、マーリンにはひどく心細い。


途中のものは、終わっていない。


終わっていないものは、壊れる可能性がある。


それでも、彼の目には迷いがない。


和平が成立すれば、誰かが生きる。


戦場に出るはずだった人形使いが戻れる。


リュールの出番が減る。


マーリンが、マーリンのままでいられる時間が増える。


そう信じている目だった。


マーリンは、その目を好きだと思う。


同時に、嫌だと思う。


そんな目をするから、行ってしまうのだ。


守りたいもののために。


マーリンと同じように。


同じだから、止められない。



回廊で、ロイス公爵からの指示が届いた。


使者は短く礼をして、封書を差し出す。


ロイス家の紋章。


重い封蝋。


マーリンは受け取った瞬間、指先が冷えるのを感じた。


差出人の名を見なくても分かる。


ロイス公爵からの言葉は、いつも空気の温度を少し下げる。


クリスチーナがそばで息を呑んだ。


「お嬢様」


「ここで読むわ」


「お部屋に戻られてからでも」


「いいの」


マーリンは封を切った。


中の文面は長くなかった。


ロイス公爵家の人間として、和平交渉に伴う発言と行動に注意せよ。


軽率な私情を挟むな。


ロイス家の名を損なうな。


帝国の希望として振る舞え。


言葉は短い。


慰めはない。


心配もない。


そこにあるのは命令だけだった。


和平の話題が学園に広がっていること。


ミハイルの名が交渉団の候補に挙がっていること。


その全部を、ロイス公爵は把握しているのだろう。


娘が何を思うかではない。


娘が何を失うかでもない。


ロイス家にどう見えるか。


帝国にどう使えるか。


それだけが紙の上にある。


マーリンは文面を読み終え、静かに紙を閉じた。


胸の奥にある小さな未来へ、冷たい影が落ちる。


「お嬢様」


クリスチーナの声は低かった。


怒っているようにも、泣きそうにも聞こえた。


マーリンは微笑む。


「分かっているわ、クリス」


大丈夫、とは言わない。


言えなかった。


紙を持つ指先は、少しだけ冷えている。


和平の噂。


ミハイルの名前。


ロイス公爵の命令。


それらが、マーリンの小さな未来を囲んでいく。


ミハイルとの未来は、まだそこにある。


けれど、その未来へ続く道の上に、帝国の影が落ち始めていた。


クリスチーナは何かを言いかけて、飲み込んだ。


その沈黙が、以前より重い。


守りたいものができたことを、彼女は知っている。


だからこそ、何も言えないのだろう。


マーリンは封書を胸元から離し、もう一度だけ目を伏せた。


お父様は、きっと泣くことを許さない。


まだ何も失っていない今でさえ、私情を挟むなと言う。


もし本当に何かが起きたら。


その先を考えようとして、マーリンは思考を止めた。


まだ、起きていない。


ミハイルは戻ると言った。


約束した。


なら、今はその約束に手をかけて立つしかない。



庭園を出る頃、マーリンは一度だけ空を見上げた。


軍用艇の航行灯が、遠くをゆっくり横切っていた。


白い点が、夕の端へ消えていく。


ミハイルは戻ると言った。


和平が進めば、戦わなくて済むかもしれないとも言った。


その言葉を信じたい。


信じたいのに、胸の奥が少しだけ冷える。


「ミーシャ」


小さく呼ぶ。


ミハイルは振り返る。


「何だ、マーリン」


「戻ってきて」


それだけだった。


和平のために行かないで、とは言えなかった。


戦争を止める人を、止めることはできなかった。


ミハイルは短く頷く。


「戻る」


約束は小さい。


けれど、マーリンにはそれしかなかった。


回廊へ戻れば、二人はまた正しい距離に戻る。


「ミハイル様」


「マーリン嬢」


声も、姿勢も、微笑みも整っている。


周囲の誰も、気づかない。


マーリンの胸の奥で、小さな未来が震えていることも。


和平という美しい言葉が、その未来のすぐそばまで来ていることも。


クリスチーナだけが、一歩後ろで静かに見ていた。


その目には、祝福ではなく、祈りに近いものがあった。


マーリンは歩き出す。


窓の外には、帝都の灯りが広がっていた。


綺麗だった。


とても綺麗だった。


その灯りのどこかに、ロイス家の屋敷がある。


高い壁。


冷たい廊下。


閉じた扉。


父の声。


マーリンは、その影をまだ見ないふりをした。


ただ、胸元に触れた指先だけが、少しだけ冷たかった。


和平。


美しい言葉。


戦争を終わらせるかもしれない言葉。


ミハイルを連れていくかもしれない言葉。


マーリンはその言葉を、胸の奥でそっと抱え直した。


小さな未来を守るために。


まだ失っていないものを、失わないと信じるために。


その願いは、あまりにも細かった。


けれど今のマーリンには、それがすべてだった。

ここまでお読みいただき有り難うございました。


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