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守りたいもの

ご覧いただきありがとうございます。

評価、ブックマークしていただきありがとうございます。

マーリンは、未来という言葉が少し苦手だった。


美しい言葉だ。


響きもいい。


式典で使えば拍手が起きる。社交場で使えば、大人たちは満足そうに頷く。教師が講義で口にすれば、生徒たちは姿勢を正し、紙面へ丁寧に線を引く。


帝国の未来。


ロイス家の未来。


次代を担う若者たちの未来。


大きい。


とても大きい。


大きすぎて、マーリンの手には少し余る。


その日の講義室でも、未来という言葉は何度も使われた。


戦争後の帝国。


AIによる管理体制。


貴族社会の再編。


王国との関係。


人間は間違える。だから、間違えない仕組みが必要になる。


教師の声は穏やかだった。


穏やかな声で、とても重いことを言う。


窓の外では、庭園の木々が柔らかく揺れている。白い花壇には光が落ち、遠くの空中回廊を小型艇が静かに流れていく。学園は、平和そうに見えた。


見える、だけだ。


帝国は戦争中で、軍港の赤い灯りは夜だけのものではない。ロイス家の名は、いつもどこかで重さを持っている。白い人形は伏せられたまま、帝国軍の奥にある。


マーリンは姿勢よく座り、必要なところで頷いた。


頷く角度も、視線の置き方も、手元の動きも、体に染みついている。


ロイス家の令嬢として。


希望の花として。


求められる形を、彼女はよく知っていた。


けれど、教師が「未来」と言うたびに、胸の奥には別の景色が浮かぶ。


帝都の夜景。


人波の中でつながれた手。


窓ガラスに映った二人の影。


朝の沈黙。


少し曲がった髪飾り。


講義の内容とはまるで釣り合わない、小さなものばかりだった。


帝国の未来ではない。


ロイス家の未来でもない。


もっと小さなもの。


ミハイルが隣にいる未来。


同じ景色を見て、何でもないことで笑って、怖い時に怖いと言える未来。


ロイス家の令嬢としてではなく、ただマーリンとして息をする時間。


それは、帝国の未来よりずっと小さい。


地図にも載らない。


演説にも向かない。


祝典の壇上で口にすれば、誰かが困った顔をするかもしれない。


けれどマーリンには、その方がずっと大切に思えた。


大きな未来は、いつも誰かが用意している。


小さな未来は、自分で手を伸ばさなければ消えてしまう。


そのことに気づいた途端、胸の奥が少し痛んだ。



講義後、回廊は生徒たちの声で満ちていた。


教師の言葉を論じる者。


社交の約束を交わす者。


午後の予定を確認する者。


そのすべてが、学園の日常として流れていく。


マーリンは講義資料を抱え、穏やかに挨拶を返しながら歩いた。


「ロイス様、先ほどの講義、興味深うございましたね」


「ええ。戦後の制度については、まだ学ぶべきことが多いと感じました」


正しい答え。


相手は満足そうに笑う。


「ロイス様なら、きっと帝国の未来を担われますわ」


マーリンは微笑んだ。


「身に余るお言葉です」


便利な言葉だった。


きれいで、軽くて、何も渡さずに済む。


相手は会釈して離れていく。


マーリンはその背中を見送り、ほんの少しだけ息を吐いた。


帝国の未来。


そう言われるたび、自分がとても遠くへ置かれていく気がする。


花瓶の中ではなく、もっと高い場所。


皆が見上げる棚の上。


落ちたら割れる。


けれど、手を伸ばして降ろしてくれる人は少ない。


「ロイス嬢」


廊下の先でブライアンが立っていた。


腕には書類。


表情は静かで、周囲の流れまで整えてしまうような空気をまとっている。


マーリンは足を止める。


「ブライアン様」


「午後の確認ですが、避難経路見直しの件は先に資料をまとめておきました。あなたは講義後の休息を優先してください」


「ありがとうございます。ですが、必要な確認があるなら出席いたします」


「無理のない範囲で構いません」


ブライアンは丁寧だった。


言葉も、配慮も、正しい。


「帝国の次代を担う立場として、ロイス嬢の負担は管理されるべきです」


負担は管理されるべき。


その言葉は、たぶん善意だった。


少なくとも、ブライアンに悪意はない。


マーリンはそれを知っている。


けれど、胸の奥で何かが少しだけ静かになった。


管理。


必要なことだ。


人間は間違える。だから、間違いを減らす仕組みがいる。帝国では何度もそう教えられる。


けれど、自分の怖さも、幸福も、未来も、いつか誰かに管理されるのだろうか。


負担として。


役割として。


家の事情として。


マーリンは微笑みを崩さない。


「お気遣いに感謝いたします、ブライアン様」


「何かあれば、知らせてください」


「はい」


会話は穏やかに終わった。


どこにも間違いはない。


間違いがないからこそ、少し息苦しい。



ブライアンが去ったあと、クリスチーナが一歩後ろへ寄る。


「お嬢様」


「ええ。大丈……」


言いかけて、マーリンは口を閉じた。


クリスチーナの目が、静かにこちらを見ている。


マーリンは小さく笑った。


「少し、庭園を歩くわ」


クリスチーナの表情が、ほんのわずかに緩む。


「かしこまりました」


大丈夫とは言わなかった。


それだけで、少しだけ空気が軽くなった。


庭園へ出ると、講義室の重さが少し遠ざかった。


木々の影が石畳に落ちている。


花壇の白い花は、風に揺れるたび、光を小さく跳ね返した。遠くにはガゼボが見える。前に休んだ場所。甘い菓子と、温かな茶と、くだらない言い合いがあった場所。


マーリンは歩きながら、少しだけ目を細める。


その先に、ミハイルがいた。


木陰の下。


人目からは少し外れているが、完全に閉じた場所ではない。


いつものように、ちょうどいい場所だった。


マーリンは近づき、礼を整える。


「ミハイル様」


ミハイルも、正しく返した。


「マーリン嬢」


周囲にはまだ、数人の生徒がいる。


だから二人は、正しい距離を守る。


それでも視線が合うと、胸の奥が少しだけ温かくなった。


ミハイルはマーリンの顔を見る。


「講義で難しい話をされた顔だな」


「そんな顔?」


「帝国を丸ごと棚にしまう方法でも考えている顔だった」


マーリンは思わず瞬きをした。


「棚に入る帝国なら、少し扱いやすそうね」


「たぶん棚が壊れる」


「壊れたら、誰が片づけるのかしら」


「君が拾い始める前に、俺が止める」


軽い言葉だった。


けれど、その軽さに救われる。


重いものを、重いまま少しだけ持ち上げてくれるような言葉。


ミハイルは周囲へ視線を向ける。


「歩くか」


「ええ」


偶然を装うには、少し足並みがそろいすぎていた。


けれど誰も指摘しない。


クリスチーナは少し離れてついてくる。


呼べば届く距離。


見守る距離。


踏み込まない距離。



庭園の奥へ進み、木陰に入ると、空気が変わった。


マーリンは小さく息を吐く。


「ミーシャ」


「マーリン」


名前を呼ぶだけで、肩から力が抜ける。


そのことにも、もう驚かなくなってきている。


驚かなくなっている自分に、少しだけ驚く。


ミハイルは木の幹に寄りかかることなく、少し横に立った。


近すぎない。


でも、ちゃんと隣にいる距離だった。


「講義で、未来の話をしていたの」


「帝国の?」


「ええ。帝国の。ロイス家の。戦争後の」


マーリンは指先でスカートの端を軽く摘んだ。


「大きすぎて、よく分からなくなるわ」


ミハイルは急かさない。


「マーリンは、どんな未来がいい?」


その問いは、思ったより静かに胸へ落ちた。


マーリンはすぐに答えられない。


帝国のために。


ロイス家のために。


民のために。


正しい言葉はいくつも浮かぶ。


どれも間違いではない。


けれど、そのどれも今は少し違った。


マーリンは木漏れ日の落ちる足元を見る。


白い花びらが一枚、石畳の端に乗っている。


小さい。


踏めばすぐに傷む。


けれど目を離せない。


「ミーシャがいる未来がいい」


言ってから、顔が熱くなった。


かなり熱い。


たぶん、木陰のせいではない。


ミハイルも、一瞬だけ言葉を失った。


それが少し珍しくて、マーリンは困る。


言った本人がいちばん困っているのだから、世話がない。


「……それは」


ミハイルが口を開く。


「かなり、ずるいな」


「ミーシャに言われたくないわ」


「俺は、今かなり嬉しい」


まっすぐ言われて、マーリンはますます困る。


けれど、嫌ではない。


嫌ではないどころか、胸の奥がやわらかくほどけていく。


マーリンは小さく息を吸った。


「戦争は嫌いよ」


「知ってる」


「人形に乗るのも、怖いわ」


「それも知ってる」


「でも」


言葉が止まる。


言ってしまえば、何かが変わる気がした。


けれど、もう変わっている。


帝都の夜明けを見た時から。


ミハイルの手を取った時から。


自分の声で、好きと言った時から。


マーリンはミハイルを見る。


「守りたいものが、できたの」


それは、弱さかもしれない。


大切なものがある人間は、強くなる。


でも同時に、壊れやすくもなる。


守りたいものがある。


それは、奪われたくないものがあるということだ。


失いたくないものがあるということだ。


マーリンは、それを何となく知っていた。


知っているから、少し怖い。


怖いのに、手放したくない。


ミハイルは、すぐに守らなくていいとは言わなかった。


代わりに、静かに答える。


「俺も、守りたい」


「何を?」


「君が、怖いと言える場所」


その答えに、マーリンは目を伏せた。


帝国の未来ではない。


戦争の勝利でもない。


家格の維持でもない。


怖いと言える場所。


そんな小さなものを守りたいと言ってくれる人がいる。


マーリンは、自分の胸元にそっと手を当てた。


そこには宝石も証書もない。


けれど、夜明けの余白がまだ残っている。


「ミーシャ」


「うん」


「私、戦いたくないわ」


「うん」


「でも、守るためなら……きっと、私は動いてしまう」


ミハイルの表情が少しだけ曇る。


マーリンはそれに気づいた。


「そんな顔をしないで」


「する」


「素直ね」


「君がそう言う時は、だいたい危ないことを考えている」


「まだ何も考えていないわ」


「まだ、が余計だ」


マーリンは笑った。


笑えた。


けれど胸の奥には、静かな重さが残る。


ミハイルとの未来。


笑い合う未来。


怖いと言える未来。


戦争のない未来。


それは欲しいと思ってはいけないものではなかった。


欲しい。


初めて、はっきりそう思う。


帝国のために与えられる未来ではなく。


ロイス家のために選ばされる未来でもなく。


マーリン自身が手を伸ばしたい未来。


ミハイルは、その未来の中にいる。


だから守りたい。


マーリンはミハイルの手にそっと触れた。


短い時間。


人目の届かない木陰の中だけ。


指先が触れると、夜明けの部屋の静けさが胸の奥へ戻る。けれどここは学園の庭園で、空は明るく、遠くで生徒たちの声がしている。


同じ温かさが、別の場所にもちゃんとある。


それが嬉しかった。


「私、守りたいわ」


「うん」


「ミーシャといる未来を」


ミハイルは、少しだけ笑う。


「なら、俺も守る」


「何を?」


「マーリンがそう言える未来を」


二人はそれ以上、言葉を重ねなかった。


言葉を重ねれば、今ある小さなものを大きくしすぎてしまう気がした。


大きくしすぎると、誰かに見つかる。


帝国の未来という言葉に絡め取られてしまう。


だから今は、小さいままでいい。


木陰に隠れるくらいの大きさで。


手袋の中に残る温かさくらいの密やかさで。


それで十分だった。



しばらく歩くと、庭園の端から講義棟が見えた。


戻らなければならない。


鐘が鳴る前の学園には、少しだけ急ぐ空気がある。生徒たちはそれぞれの教室へ向かい、教師たちは資料を抱え、使用人たちは廊下を整える。


日常が、こちらへ手を伸ばしていた。


マーリンは手を離す。


離した指先に、温かさが残る。


「戻らなくては」


「そうだな」


ミハイルの返事は短い。


けれど、急かすものではなかった。


マーリンは講義棟の方を見た。


「戻れば、また未来の話をしなければならないわ」


「今度は棚にしまう話ではなく?」


「ええ。もっと立派な顔で」


「疲れそうだ」


「疲れるわ」


「なら、休むこと」


「また義務?」


「義務だ」


「ミーシャは、本当に義務が好きね」


「君を休ませる時だけだ」


軽いやり取り。


それだけで、胸の重さが少しだけ持ち上がる。


マーリンは笑った。


「では、善処します」


「それは信用できない返事だ」


「努力します」


「少しましだ」


「厳しいわ」


「君には必要だ」


ミハイルの声には、いつもの硬さと、いつもの優しさが混ざっている。


それが、マーリンには嬉しい。


特別な言葉だけが幸福ではない。


こんなふうに、少し叱られて、少し笑って、少し腹を立てる時間も、同じくらい大切だった。


守りたいものは、華やかなものではなかった。


式典の花束でもない。


宝石でもない。


誰かに示すための誓約でもない。


ただ、こういう時間。


誰にも見えない木陰。


同じ歩幅。


怖いと口にしても壊れない場所。


大丈夫と言わなくても、沈黙が続く関係。


それを守りたい。


マーリンはそう思った。


その思いは、胸の奥で静かに形を持つ。


強さ、というには柔らかい。


弱さ、というにはまっすぐすぎる。


たぶん、それは理由だった。


これから先、怖いものを見ても。


帝国が大きな未来を差し出してきても。


ロイス家が正しい道を並べても。


自分がどこに戻りたいのかを忘れないための、小さな理由。


「マーリン」


ミハイルが呼ぶ。


「なあに」


「無理に強くならなくていい」


マーリンは瞬きをした。


「今、私が考えていたことが分かるの?」


「顔に出ていた」


「また?」


「また」


マーリンは少しだけ唇を尖らせた。


「それは困るわ。ロイス家の令嬢として、顔に出すぎるのは問題よ」


「俺の前では問題ない」


「そうやって甘やかすのね」


「少しだけだ」


「クリスと同じことを言うわ」


「クリスチーナ嬢は正しい」


「二人で組まれると、私に勝ち目がないのだけれど」


「勝たなくていい」


ミハイルは静かに言った。


「戻ってくればいい」


その言葉に、マーリンは胸の奥をつかまれたようになった。


戻ってくればいい。


どこへ。


たぶん、ここへ。


ミハイルの隣へ。


クリスチーナの一歩前へ。


怖いと言える場所へ。


希望の花ではなく、マーリンとして息をしていい場所へ。


「……戻るわ」


マーリンは小さく言った。


「きっと」


ミハイルは頷く。


「待っている」


その返事は短く、確かだった。



回廊へ戻る前に、マーリンは一度だけ振り返った。


木陰には、二人が立っていた余白だけが残っている。


何もない。


けれど、確かにあった。


ミハイルとの未来。


戦争のない時間。


怖いと言える場所。


それを欲しいと願った自分。


マーリンはその小さな願いを胸にしまった。


廊下の向こうから、生徒たちの声が近づいてくる。


マーリンは背筋を伸ばす。


希望の花としての微笑みを作る。


ミハイルも、隣から半歩離れた。


正しい距離。


正しい呼び名。


正しい二人。


「マーリン嬢」


「ミハイル様」


声は整っていた。


けれど、胸の奥だけは少し違っている。


守りたいものができた。


その幸福が、静かに彼女を強くしていた。


同時に、壊れやすくもしていた。


それでもマーリンは、もう知らないふりをしなかった。


小さな未来を望むこと。


そのために怖さを抱えたまま歩くこと。


それは、帝国の講義で語られる未来よりずっと小さい。


けれどマーリンにとっては、確かに手を伸ばす価値のある未来だった。


クリスチーナが一歩後ろで待っている。


マーリンは振り返らずに言った。


「クリス、講義のあとに少しお茶を」


「かしこまりました、お嬢様」


「菓子も、ひとつ」


「お二つご用意いたします」


「ひとつと言ったわ」


「予備でございます」


ミハイルが小さく笑った気配がした。


マーリンは少しむくれた顔を作る。


そのまま、回廊の光の中へ歩き出した。


希望の花として。


ロイス家の令嬢として。


そして、守りたい未来を胸にしまった、ただのマーリンとして。


大きな未来はまだ遠く、重い。


けれど小さな未来は、今、彼女の中にあった。


失えば世界が壊れるほど大切な、温かな重さとして。

ここまでお読みいただき有り難うございました。


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