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クリスチーナの沈黙

ご覧いただきありがとうございます。

評価、ブックマークしていただきありがとうございます。

夜明けの光は、学園の窓にも同じ色で差し込んでいた。


けれどマーリンは、同じではなかった。


白いカーテンの向こうで、帝都の朝が淡くほどけている。遠くの塔の輪郭は薄い霞に沈み、庭園の木々はまだ眠たげに揺れていた。学園の一日は、いつもと同じように始まろうとしている。


支度室の鏡の前で、マーリンは背筋を伸ばした。


髪は整えてある。


襟元も乱れていない。


手袋も、ロイス家の令嬢にふさわしいものを選んだ。


いつも通り。


そう見える。


少なくとも、扉の外にいる誰かが見れば、そう思うだろう。


けれどクリスチーナは、扉の外の誰かではなかった。


髪飾りの角度。


いつもならマーリン自身が直してしまうはずの、小さなずれ。


手袋をはめる時、一瞬だけ止まった指先。


窓の外へ視線を向けた時の、柔らかすぎる沈黙。


それから、クリスチーナが何気なく外出予定を確認した時、ミハイルの名に触れた瞬間の呼吸。


ほんの少しだけ、遅れた。


たったそれだけ。


けれどクリスチーナには見えた。


マーリンの中に、誰にも見えない場所ができている。


クリスチーナにも届かない場所。


そこに、ミハイルがいる。


それは喜ばしいことのはずだった。


ミハイルは、マーリンを希望の花としてではなく、マーリンとして見てくれる人だ。怖いと言えば、怖くていいと言う。大丈夫と笑えば、その言葉をそのまま信じずにいてくれる。


クリスチーナにはできない救い方を、彼はする。


だから、祝福すべきだ。


そう思う。


思うのに、胸の奥が静かに痛んだ。


お嬢様の心に、自分の手が届かない場所がある。


その事実は、侍女としては当然の境界だった。


けれど、長くそばにいた者としては、少しだけ寂しい。


そして、とても怖い。


「お嬢様、少し曲がっております」


クリスチーナは、鏡越しにそう告げた。


マーリンは目を瞬かせる。


「あら」


鏡に映る髪飾りは、ほんのわずかに傾いていた。


直すべきだ。


ロイス家の令嬢なら、直さなければならない。


廊下へ出れば、生徒たちの目がある。教師の目もある。誰も髪飾りの角度だけでマーリンを責めはしないだろう。けれど、完璧な令嬢とは、責められる前に整っているものだ。


マーリンは鏡の中の自分を見つめた。


その指先が、髪飾りへ伸びかけて、止まる。


一瞬。


本当に一瞬だった。


けれどクリスチーナは見逃さない。


「……このままでは、いけないかしら」


マーリンが小さく言った。


からかうような声ではない。


甘えるような声でもない。


何かを、ほんの少しだけ残しておきたい声だった。


クリスチーナは髪飾りを見つめる。


曲がっている。


とても曲がっているわけではない。


でも、曲がっている。


令嬢としては直すべきもの。


けれど、マーリンとしては残したいもの。


そのわずかな傾きに、夜明けの名残があった。


誰が留めたのか。


なぜ直さずにいるのか。


クリスチーナは尋ねなかった。


尋ねなくても、分かることがある。


分かっても、口にしてはならないこともある。


クリスチーナは髪飾りに触れた指を止めた。


「本日の講義が始まる前には、お直しいたしましょう」


マーリンが鏡越しに彼女を見る。


「今は?」


「今は、まだお部屋の中でございます」


少しの沈黙。


それから、マーリンの表情がほどけた。


驚いたような。


困ったような。


少しだけ嬉しそうな顔。


それは、希望の花の顔ではなかった。


クリスチーナの胸が、静かに痛む。


その顔を守りたいと思う。


同時に、その顔を見られてよかったとも思う。


相反する感情は、どちらも本当だった。


「ありがとう、クリス」


「お礼をいただくほどのことではございません」


「そうかしら」


「はい」


マーリンは小さく笑った。


その笑い方が、いつもより少し幼い。


いつもより少し、女性らしい。


クリスチーナは何も言わず、支度の続きを始めた。


マーリンは窓辺へ移った。


ティーカップを両手で包み、しばらく外を見ている。


茶は温かい。


以前なら、資料へ目を落としているうちに冷めていた。最近は、冷めきる前に口をつけるようになった。それだけでもクリスチーナには、胸の奥が少し緩む変化だった。


「クリス」


「はい、お嬢様」


「何も、聞かないのね」


クリスチーナはティーポットを置いた。


白い湯気が細く上がる。


「お聞きしてもよろしいのですか」


マーリンは答えなかった。


ティーカップの縁に視線を落とす。


頬がほんの少しだけ赤い。


その反応だけで、クリスチーナには十分だった。


聞きたいことはあった。


どこへ行ったのか。


何を見たのか。


どんな言葉を交わしたのか。


ミハイルは、マーリンに何を残したのか。


けれど、それはクリスチーナが踏み込んでよい場所ではない。


専属侍女として守りたい。


姉のように心配している。


けれど、マーリンのすべてを自分の手元に置くことは違う。


それは守ることではない。


きっと、縛ることだ。


「お嬢様がお話しになりたい時に、お聞きいたします」


マーリンは小さく息を吐いた。


「……ずるいわ」


「お嬢様ほどではございません」


「私、ずるいかしら」


「はい。時々、とても」


「ひどいわ」


そう言って、マーリンは笑う。


笑ったあと、少しだけ目を伏せた。


ティーカップの中で、茶の表面がわずかに揺れる。


「幸せなの」


声は静かだった。


クリスチーナは動かなかった。


動けば、その言葉が壊れてしまいそうだった。


「怖いくらいに」


大丈夫、ではない。


平気、でもない。


怖いくらいに幸せ。


その言葉だけで、クリスチーナは祝福と不安を同時に抱える。


幸せであることを、怖いと呼ばなければならないお嬢様。


その幸福を、ただ喜ぶだけでは済ませられない世界。


ロイス家。


帝国。


戦争。


白い人形。


伏せられた記録。


社交界の噂。


まだ影のように遠くにいるブライアンの名。


そのすべてが、いつかこの小さな幸福へ手を伸ばすかもしれない。


クリスチーナは、その想像を飲み込んだ。


「それは、何よりでございます」


言えたのは、それだけだった。


もっと言いたいことはある。


どうか傷つかないでください。


どうか奪われないでください。


どうか、その幸福があなたを壊す刃になりませんように。


けれど、そんな言葉は口にしない。


口にすれば、幸せな朝に影を落とす。


クリスチーナの役目は、影を指差すことではない。


少なくとも、今は。


マーリンはティーカップを胸元に寄せる。


「クリスは、怒らないの?」


「怒る理由がございません」


「心配は?」


「しております」


即答だった。


マーリンが少し目を丸くする。


クリスチーナは静かに続けた。


「お嬢様が幸せでいらっしゃることは、嬉しく存じます。けれど、心配が消えるわけではございません」


「正直ね」


「お嬢様には、なるべく」


「なるべくなの?」


「侍女にも、沈黙が必要な時がございます」


マーリンは困ったように笑った。


「今日のクリスは、少し意地悪だわ」


「ミハイル様ほどではございません」


マーリンの呼吸が、ほんの少しだけ遅れた。


それから、頬がまた少し赤くなる。


クリスチーナは見なかったふりをする。


見なかったふりをして、覚えておく。


これは、お嬢様が自分で選んだ幸福の色だ。


誰かに飾られた色ではない。


社交界の照明で作られた色でもない。


夜明けの光のように淡く、今にも消えそうで、それでも確かにそこにある色だった。



講義の時間が近づくと、クリスチーナは髪飾りへ手を伸ばした。


「お直しいたします」


マーリンは鏡の中で、ほんの少しだけ迷った。


けれど今度は頷く。


「お願い」


クリスチーナは、曲がっていた髪飾りを外し、もう一度丁寧に留める。


今度は、完璧に。


白い髪に沿う角度。


横顔を美しく見せる位置。


廊下で誰の目に触れても、ロイス家の令嬢として不足のない形。


マーリンは鏡の中で微笑んだ。


その微笑みは正しい。


どこに出しても恥ずかしくない。


けれど、奥にまだ夜明けの光が残っている。


クリスチーナはそれを、見なかったことにした。


見なかったことにして、覚えておく。


「よくお似合いでございます」


「さっきの方が、少し特別だったわ」


「特別なものは、必ずしも人目にさらす必要はございません」


マーリンは鏡越しにクリスチーナを見た。


「クリス」


「はい」


「あなたは本当に、時々ずるいわ」


「光栄でございます」


「褒めていないのだけれど」


「存じております」


マーリンはまた笑った。


この朝、何度笑っただろう。


数えるほどでもない小さな笑い。


それなのに、クリスチーナにはどれも大切に思えた。


幸福とは、もっと大きなものだと思っていた。


祝宴。


婚約。


花束。


家同士の承認。


誰かに示される形。


けれど、目の前にある幸福は、曲がった髪飾りと、赤くなる頬と、飲み頃の茶の中にある。


小さくて、頼りない。


だからこそ、守りたい。


回廊へ出ると、学園はいつもの音に戻っていた。


生徒たちの足音。


教師の声。


遠くで鳴る鐘。


窓から差し込む光。


マーリンは背筋を伸ばし、廊下で会う生徒へ穏やかに挨拶を返す。


「おはようございます、ロイス様」


「おはようございます」


声は整っている。


微笑みも美しい。


誰も気づかない。


彼女の髪飾りが、ほんの少し前まで曲がっていたことを。


その曲がりを残したいと願ったことを。


幸せなの、と小さく言ったことを。


クリスチーナだけが知っている。


それでいい。


そう思うのに、胸の奥には冷たいものが残っていた。


幸福は、弱点にもなる。


大切なものが増えるほど、人は奪われた時に深く傷つく。


クリスチーナは、それを知っているわけではない。


未来を見たわけでもない。


けれど、ロイス家の空気を知っている。


帝国の冷たさを知っている。


役割という言葉が、人の心をどれほど静かに削るかも知っている。


マーリンの幸福が、いつまでも部屋の中の髪飾りのように守られているとは限らない。


そう思うだけで、息が少し浅くなる。


それでも、クリスチーナは何も言わない。


今のマーリンに必要なのは、不安の説明ではない。


歩くための沈黙だった。



講義棟へ向かう回廊で、ミハイルとすれ違った。


ミハイルは数人の生徒と共に歩いていた。


黒い髪。


深い蒼の目。


いつものように姿勢は崩れず、周囲との距離も乱さない。


マーリンも歩みを緩めすぎない。


人目がある。


だから二人は、正しく立つ。


「マーリン嬢」


「ミハイル様」


声は正しい。


距離も正しい。


周囲の誰も気づかない。


ただの挨拶。


幼馴染である二人が、貴族の礼儀に従って交わした朝の挨拶。


それだけに見える。


けれどクリスチーナには分かる。


視線が一瞬だけ重なる。


離れる時、ほんの少しだけ名残が残る。


マーリンの指先が、手袋の中でわずかに動く。


ミハイルの目元が、ごく薄く柔らかくなる。


それだけで、二人の間にあるものが見えてしまう。


祝福したい。


心から。


ミハイルなら、お嬢様を希望の花ではなくマーリンとして見てくれる。


お嬢様が怖いと言えば、怖くていいと言ってくれる。


大丈夫と笑えば、信じないでいてくれる。


それは、クリスチーナには届かない救いだった。


だからこそ、不安になる。


自分では守れない場所に、マーリンの心がある。


そこを傷つけられたら、きっと手が届かない。


ミハイルが通り過ぎる。


マーリンも前へ進む。


たったそれだけのことなのに、回廊の空気が少しだけ変わった気がした。


甘くはない。


けれど、冷たくもない。


朝の光に似ている。


触れれば消えそうで、でも確かにある。


「お嬢様」


クリスチーナは小さく呼んだ。


マーリンは振り返らない。


けれど、声だけで返す。


「ええ」


それだけでよかった。


振り返れば、きっと顔に出る。


マーリンもそれを知っているのだろう。


だから前を向いたまま、少しだけ歩幅を整えた。


クリスチーナは一歩後ろを歩く。


いつもの距離。


忠誠の距離。


守るための距離。


けれどその距離が、少しだけ遠く感じる。


マーリンは前を歩く。


背筋を伸ばし、微笑みを整え、希望の花として人々の視線を受け止める。


けれどクリスチーナだけが知っている。


その胸の奥に、誰にも見えない幸福があることを。


そして、その幸福があるからこそ、マーリンはこれからもっと深く傷つくかもしれないことを。


クリスチーナは何も言わない。


祝福も、不安も、祈りも、すべて沈黙の中にしまう。


ただ、一歩後ろで歩き続ける。


届くように。


けれど、踏み込みすぎないように。



その先で、ブライアンが書類を抱えて立っていた。


生徒会の腕章。


乱れのない姿勢。


落ち着いた目。


彼の周りには、いつも場が整っている。人の流れも、声の大きさも、書類の束でさえ、彼の手の中では正しい位置に収まって見えた。


「ロイス嬢」


マーリンはすぐに微笑みを整える。


「ブライアン様」


「午後の講義後、避難経路見直しの確認があります。体調に障るようなら、こちらで進めます」


「お気遣いありがとうございます。必要な確認であれば、出席いたします」


「無理は不要です」


「はい。無理のない範囲で」


そのやり取りは、どこにも乱れがなかった。


正しい生徒会長。


正しいロイス家の令嬢。


周囲の生徒たちは、それを自然なものとして見ている。


釣り合う。


そんな声が、いつかまた回廊の端で囁かれるかもしれない。


クリスチーナは、静かに視線を伏せた。


ブライアンに悪意はない。


少なくとも、この時点では。


彼は必要な配慮をしている。学園の混乱を防ぎ、マーリンの負担も減らそうとしている。それは間違っていない。


けれど、間違っていないものほど、マーリンの気持ちとは別の場所で進んでいく。


家格。


役割。


生徒会。


周囲の期待。


それらは誰かが叫ばなくても、静かに道を作る。


そして人は、その道があまりに整っていると、自分の足で別の方へ曲がることをためらう。


クリスチーナは、マーリンの背中を見る。


さきほどミハイルとすれ違った時の柔らかさは、もう表には出ていない。


髪飾りも、微笑みも、声も、完璧だった。


けれど完璧であるほど、その内側にしまわれた朝の光が、かえってか細く思えた。


「では、後ほど」


ブライアンは静かに頭を下げる。


「はい、ブライアン様」


マーリンも礼を返す。


二人はすれ違った。


たったそれだけの場面だった。


誰も不自然には思わない。


けれどクリスチーナの胸の奥には、小さな棘が残った。


幸福は、まだ部屋の中にあるものではない。


廊下へ出た瞬間から、もうたくさんの視線と予定と名前の中を歩かされている。


講義室の前で、マーリンはふと足を止めた。


そして、ようやく振り返る。


「クリス」


「はい、お嬢様」


「ありがとう」


何に対しての礼なのか、マーリンは言わない。


聞かないでいてくれたこと。


髪飾りを少しだけ待ってくれたこと。


幸せを、否定しなかったこと。


その全部かもしれない。


クリスチーナは深く頭を下げた。


「お嬢様のお心が、少しでも軽くなられたのなら」


マーリンは微笑む。


「ええ。少しだけ」


大丈夫、とは言わなかった。


そのことに、クリスチーナは少しだけ救われる。


けれど同時に、胸の奥へ冷たい予感が沈む。


少しだけ軽くなった心は、奪われた時に、きっと重く落ちる。


クリスチーナは顔を上げた。


マーリンはもう前を向いている。


白い髪が、講義室の光を受けて淡く揺れた。


幸福は、確かにそこにあった。


だからこそ、クリスチーナは沈黙した。


その幸福を祝福するために。


その幸福が壊れないよう祈るために。


そして、いつか壊れてしまった時、せめて一歩後ろから手を伸ばせるように。


クリスチーナは、何も言わずにマーリンの背中を見守った。

ここまでお読みいただき有り難うございました。


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