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夜明けの余白

ご覧いただきありがとうございます。

評価、ブックマークしていただきありがとうございます。

休日の帝都は、学園の中とは違う顔をしていた。


講堂の拍手もない。


社交場の視線もない。


ロイス家の紋章も、今は少し遠い。


マーリンは、鏡の前で帽子の角度を直した。


つばの広い、薄い灰色の帽子。


髪はいつもより低くまとめ、目立つ髪飾りは使わない。制服ではなく、帝都の学生たちがよく着る簡素な外出着に袖を通している。上質ではあるが、ロイス家の令嬢だと一目で分かるほど華やかではない。


ほんの少しの変装。


今日は、少しだけロイス家から離れたい。


それだけだった。


「お嬢様」


クリスチーナが背後から声をかける。


マーリンは鏡越しに彼女を見る。


クリスチーナは外出用の上着を手にしていた。いつものように整った顔をしている。けれど、その目にははっきり心配があった。


「ええ」


「本当に、お一人で」


「中央区画までよ。許可は取ってあるし、護衛の目も完全には外れないわ」


「それでも、お側には」


「クリス」


マーリンは振り向いた。


強く止めるためではない。


お願いするための声だった。


「今日は、少しだけ」


クリスチーナはその続きを聞かずに、静かに目を伏せた。


「かしこまりました」


「ありがとう、クリス」


「ただし」


「ただし?」


「お帰りになりましたら、私が髪を直します」


マーリンは少し目を丸くした。


「まだ崩れていないわ」


「崩れます」


「断言なのね」


「お嬢様は、楽しいものを見ると歩幅が乱れますので」


ひどい言い方だった。


でも、反論は少し弱い。


マーリンは帽子のつばに触れ、小さく笑った。


「では、気をつけるわ」


「大丈夫、とはおっしゃらないのですね」


「言わない方が、クリスは少し安心するでしょう」


クリスチーナの表情が、ほんの少しだけ緩む。


「はい」


外へ出る直前、クリスチーナはもう一度だけ呼んだ。


「お嬢様」


「ええ」


「……お気をつけて」


「ええ。行ってきます、クリス」


大丈夫とは言わなかった。


それを言えば、きっとクリスチーナは余計に心配する。


それにマーリン自身も、もうその言葉を少しだけ疑っている。



帝都の中央区画は、休日の音で満ちていた。


高い塔の間を小型艇がゆっくり流れ、空中回廊には人の列ができている。表通りの宝飾店は窓いっぱいに光を並べ、劇場の前では次の公演を知らせる楽士たちが短い曲を奏でていた。


軍港へ向かう赤い警戒灯も、遠くには見える。


戦争中の帝都。


けれど、休日市の入口だけは少し違った。


焼き菓子の匂い。


紙袋の音。


露店の掛け声。


小さな楽団の軽い調べ。


マーリンは人波の手前で足を止めた。


ミハイルは、噴水のそばで待っていた。


黒い髪は、帝国の街灯の下でもよく目立つ。深い蒼の瞳がこちらを見つけ、少しだけ表情が和らいだ。


最初は正しく。


人目があるから。


二人とも、きちんとその距離を知っている。


マーリンは軽く礼をする。


「ミハイル様」


ミハイルも礼を返した。


「マーリン嬢」


少し堅い。


少し遠い。


ミハイルはマーリンの帽子を見た。


「似合っている」


「本当に?」


「本当に」


「少し地味ではない?」


「それが目的だろう」


「そうだけれど、地味と似合うを同じところに置かれると複雑だわ」


ミハイルが少し笑う。


「では、目立たずに似合っている」


「それは褒め言葉として受け取っていいのかしら」


「俺は褒めたつもりだ」


「ミーシャは、時々言葉の置き方が不器用ね」


「努力する」


人波を抜け、休日市の通りへ入る頃には、呼び方が少しずつほどけていった。


「ミーシャ」


「マーリン」


それだけで、街の音が変わったように感じる。


少し近くなる。


少し軽くなる。


名前とは、こんなにも不思議なものだっただろうか。



休日市は、表通りより少し狭かった。


その分、人の声が近い。


学生や若い士官、家族連れ、商人、休暇中の軍人。貴族街ほど磨かれてはいないが、汚れているわけでもない。雑多で、明るくて、少しだけ気楽だった。


マーリンは、すぐに足を止めた。


古い星図を並べた露店があった。


黄ばんだ紙に、帝国航路の古い線が細かく描かれている。今は使われていない航路や、名前の変わった小惑星帯もある。端には手書きの注釈が残っていた。


「見て、ミーシャ。これ、第二開拓期の航路図だわ。今の中央航路と少しずれている」


「詳しいな」


「地理資料で見たもの。あ、ここ。今は軍用航路に変わっているはず」


「休日に軍用航路の話をする令嬢は珍しい」


「帝都文化の観察よ」


「便利な言葉だな」


マーリンは少し胸を張る。


「ロイス家の令嬢ですもの」


「そういう時だけ使う」


「使えるものは使うべきだわ」


軽い会話。


なんでもない会話。


けれど、そのなんでもなさが眩しい。


リュールのことも、NewEraのことも、軍の聴取も、白い糸も、消えたわけではない。帝国は戦争中で、マーリンはもう見つかっている。


それでも、古い星図は面白い。


ミハイルは隣で少し呆れた顔をする。


それだけのことで、息ができる。



次に足を止めたのは、機械仕掛けの小さな鳥を売る店だった。


金属の羽。


硝子の目。


ぜんまいを巻くと、小さく羽ばたく。


本物の鳥ほど滑らかではない。


むしろ少しぎこちない。


けれどそのぎこちなさが、妙に可愛らしかった。


「飛ぶの?」


マーリンが尋ねると、店主は笑った。


「飛びませんよ、お嬢さん。跳ねるだけです」


「跳ねるだけ」


「ええ。けれど、机の上なら立派な旅です」


マーリンは少し笑った。


机の上の旅。


それは、ずいぶん小さな旅だ。


でも今の自分には、ちょうどいい気もする。


ミハイルが横から覗き込む。


「買うのか」


「見ているだけよ」


「三回羽ばたかせた」


「観察よ」


「二回目からは楽しんでいた」


「観察にも楽しみは必要だわ」


結局、ミハイルが店主に硬貨を渡した。


マーリンは目を丸くする。


「待って、ミーシャ」


「休日市の記念だ」


「私が買うわ」


「次は君が買えばいい」


「次もあるの?」


言ってから、胸が少し跳ねた。


ミハイルはごく自然に答える。


「あるだろう」


その自然さが、ずるい。


マーリンは機械仕掛けの鳥を受け取った。


小さい。


掌に乗るほどの重さ。


けれど、なぜだか胸の奥にまっすぐ残った。


「ありがとう」


「どういたしまして、マーリン嬢」


「今だけ様子を戻すのはずるいわ」


「人目が近い」


確かに、店主がにこにことこちらを見ていた。


マーリンは咳払いをして、帽子のつばを少し下げた。


「では、礼儀正しく感謝いたします。ありがとうございます、ミハイル様」


「どういたしまして、ロイス嬢」


二人とも、ほんの少し笑っていた。



通りが混み始めたのは、焼き菓子の屋台が近づいた頃だった。


甘い匂いに人が集まり、狭い道がゆっくり詰まっていく。マーリンは店先の砂糖菓子を見ようとして、横から来た学生の集団に押されかけた。


その瞬間、ミハイルの手が伸びた。


強くはない。


けれど迷いはなかった。


マーリンの手を取り、人波の内側から少しだけ引き寄せる。


指先が触れる。


手のひらが重なる。


街の音が、一瞬だけ遠くなった。


「足元」


ミハイルが言う。


「……ええ」


返事が少し遅れた。


手をつないでいる。


それだけのことなのに、胸の奥が大騒ぎしている。


さっきまで砂糖菓子の形を見ていたはずなのに、今は何も目に入らない。


ミハイルの手は温かかった。


リュールの白い糸とは違う。


光のソードの重さとも違う。


持っていかれるのではなく、支えられている。


その違いに、胸が少し痛くなる。


人波を抜けても、ミハイルはすぐには手を離さなかった。


マーリンも離さない。


二人とも、少しだけ何も言わない。


やがて、ミハイルが小さく尋ねる。


「嫌なら離す」


「……嫌ではないわ」


「そうか」


「でも、少し困る」


「なぜ」


「顔が熱いから」


ミハイルは横を向いた。


笑ったのだと、すぐに分かる。


「笑わないで」


「笑っていない」


「横を向いているわ」


「帝都文化の観察だ」


マーリンは思わず吹き出した。


先ほどの仕返しのつもりだろうか。


かなり雑だった。


でも、その雑さが嬉しい。


手は、通りを抜けるまでそのままだった。


誰かに見られたかもしれない。


見られなかったかもしれない。


どちらでも、すぐには考えたくなかった。



焼き菓子を買う時、マーリンは片手で袋を受け取った。


紙袋の中には、砂糖をまぶした小さな菓子が入っている。温かく、甘い匂いがする。


ミハイルが言う。


「口元に砂糖をつけるな」


「まだ食べていないわ」


「予告だ」


「ひどい」


そう言いながらひとつ食べると、本当に少し砂糖が口元についた。


ミハイルがじっと見ている。


マーリンは慌ててハンカチを出した。


「何も言わないで」


「まだ言っていない」


「顔が言っているわ」


「予測通りだ、と」


「言っているじゃない」


ミハイルは小さく笑う。


マーリンも笑った。


砂糖菓子は甘い。


休日市はにぎやかで、少し疲れる。


でも、疲れ方が違った。


戦場の疲れではない。


社交場の疲れでもない。


歩きすぎて、見すぎて、笑いすぎた疲れだった。


そんな疲れがあることを、マーリンは少し忘れていた。



夕暮れが近づく頃、二人は高層区画の展望庭園へ向かった。


帝都を一望できる場所。


貴族たちの社交場としても使われるが、休日の終わりには人が少なくなる。


空中昇降機で上がる間、街の灯りが少しずつ下へ離れていった。露店の灯り。劇場の看板。航行艇の軌跡。遠くの軍港へ続く赤い点。


高くなるほど、帝都は綺麗に見える。


綺麗なものは、時々ずるい。


遠くから見れば、傷も汚れも隠れてしまう。


展望庭園に着くと、空は淡く沈みかけていた。


青が紫へ変わり、その下で街の灯りがひとつずつともる。風は少し冷たく、手すりには夕暮れの光が細く残っている。


マーリンは手すりに触れ、下を見下ろした。


帝都は大きい。


とても大きい。


きらびやかな街並み。


整った交通路。


高くそびえる塔。


軍港へ続く赤い警戒灯。


美しい。


けれど、その美しさの奥には戦争がある。


人形がある。


貴族たちの思惑がある。


リュールの白い機体も、帝国軍の奥に伏せられている。


マーリンは小さく呟いた。


「綺麗なのに、少し怖いわ」


ミハイルは隣に立つ。


「怖くていい」


「また、それを言うのね」


「何度でも言う」


「ミーシャは、時々ずるいわ」


「君が大丈夫と言うよりは、ましだ」


マーリンは言い返せない。


大丈夫。


その言葉で、何度も自分を閉じ込めてきた。


けれどミハイルの前では、閉じ込めきれない。


「私、ミーシャといると、怖いものを怖いと言えてしまうの」


「それは悪いことじゃない」


「悪いことではないけれど……少し、困るわ」


「どうして」


「弱くなった気がするから」


ミハイルは首を振った。


「違う。君がちゃんとここにいるだけだ」


ここ。


帝都の展望庭園。


休日の終わり。


ミハイルの隣。


希望の花でもなく。


ロイス家の令嬢でもなく。


リュールを動かした特別な人間でもなく。


ただのマーリンとして、ここにいる。


その事実が、胸に深く落ちる。


マーリンはミハイルを見た。


「ミーシャ」


「うん」


言葉は、今度は逃げなかった。


胸の奥から上がってきて、喉で少し震え、それでも外へ出る。


「私、あなたが好き」


静かな声だった。


叫ぶ必要はない。


飾る必要もない。


帝都の灯りに誓う必要も、家名を添える必要もない。


ただ、そのままの言葉でよかった。


ミハイルは少しだけ目を細める。


「俺も、マーリンが好きだ」


答えは短い。


けれど、マーリンには十分だった。


十分すぎて、息をする場所を探すほどだった。


ミハイルの手が、またマーリンの手に触れる。


今度は人波のせいではない。


守るためでもない。


ただ、触れるために。


マーリンは少しだけ指を動かし、その手を受け取った。


指が絡む。


夜が、少し近づいた。



展望庭園から奥へ進むと、貴族子女が休息に使う宿泊区画がある。


社交の合間に体調を整えるための部屋。


遠方から来た者が短く滞在するための部屋。


建前はいくつもある。


それらは、どれも整っている。


整いすぎていて、かえって胸が騒いだ。


マーリンは扉の前で足を止めた。


引き返せる。


ミハイルは、そういう距離で待っている。


急かさない。


触れない。


言葉で縛らない。


だからこそ、マーリンは自分の足で一歩を踏み出せる。


「私は、私の意思でここにいるの」


自分に言い聞かせるような声だった。


けれど、ミハイルへ向けた言葉でもあった。


ミハイルは静かに頷く。


「わかった」


それ以上、余計なことは言わなかった。



部屋の灯りは、低く落とされた。


窓の外には、帝都の夜景が広がっている。


無数の灯り。


ゆっくり流れる航行灯。


遠くでまたたく軍港の赤。


その光を背に、マーリンとミハイルは向かい合った。


マーリンは目を逸らさない。


怖い。


けれど、戻りたくない。


不安はある。


けれど、後悔ではない。


ミハイルが手を伸ばす。


マーリンは、その手を取る。


窓ガラスに、二人の影が映った。


帝都の夜景を背景に、ふたつの影が近づく。


それは、社交界に飾られるための美しい場面ではない。


家同士の取り決めでもない。


誰かに命じられた役割でもない。


マーリンが、自分で選んだ夜だった。


言葉は少しずつ減っていく。


名前だけが残る。


ミーシャ。


マーリン。


その先は、夜景の光と沈黙の中へ溶けていった。



朝の光は、白く淡かった。


帝都の夜景は消え、窓の向こうには薄い霞がかかっている。


マーリンは、しばらく何も言わなかった。


言葉にした途端、夜のすべてが壊れてしまいそうだった。


髪は少し乱れている。


窓辺の椅子には、ミハイルの上着がかかっている。


小さな卓の上には、休日市で買った機械仕掛けの鳥が置かれている。


鳥は動かない。


ただ、翼を閉じている。


マーリンは自分の指先を見る。


震えていない。


黒い宇宙を思い出せば、まだ怖い。


白い糸も、リュールも、帝国の奥に伏せられたものも、消えたわけではない。


けれど、その上に新しい記憶が重なった。


休日市の甘い匂い。


帝都の灯り。


人波の中でつながれた手。


窓ガラスに映った二人の影。


そして、朝の沈黙。


ミハイルも黙っている。


その沈黙は気まずくない。


隠すための沈黙でもない。


大切なものを、まだ言葉にしないための沈黙だった。


「戻らなくては」


マーリンは小さく言った。


ミハイルは頷く。


「ああ」


短い返事。


けれど、それでよかった。


戻れば、また正しい顔をする。


ミハイル様。


マーリン嬢。


人前に立つ二人。


でも、もう何もかもが元通りではない。


マーリンは髪を整える。


髪飾りを留めようとして、少し手間取った。


鏡に映る自分は、いつものロイス家の令嬢へ戻りかけている。


帽子。


髪。


襟元。


手袋。


ひとつずつ整えるたび、夜が少し遠くなる。


それが少し寂しい。


ミハイルが手を伸ばしかけ、止めた。


マーリンは鏡越しにそれを見る。


「手伝って」


ミハイルは一瞬だけ驚いた。


それから、真剣な顔で髪飾りへ手を伸ばす。


あまりに真剣で、マーリンは少し笑いそうになった。


「そんなに難しいものではないわ」


「動くな」


「命令?」


「頼みだ」


「それなら聞くわ」


ミハイルは慎重に髪飾りを留めた。


少し曲がる。


かなり曲がる。


マーリンは鏡を見て、真顔で言った。


「これは、新しい流行?」


「努力の結果だ」


「努力は認めるわ」


「成果は」


「今後に期待します」


ミハイルは小さく息を吐いた。


マーリンは笑った。


朝の空気が、少し軽くなる。


マーリンは髪飾りを直さない。


ほんの短い間だけ、そのままにしておきたかった。


誰にも見せられない幸福のしるしみたいだったから。


大きな幸福ではない。


帝国を変える力も、戦争を止める力もない。


けれど確かに、マーリンには幸福があった。


誰かに与えられた役割ではなく。


飾られた花としての栄光でもなく。


自分で選び、受け取り、胸にしまった幸福が。


夜明けの余白に。



学園へ戻る手前で、二人は足を止めた。


ここから先には、人目がある。


高い門。


整えられた回廊。


教師の目。


生徒たちの声。


ミハイルが姿勢を正した。


「マーリン嬢」


マーリンも、ロイス家の令嬢として微笑む。


「ミハイル様」


正しい声。


正しい距離。


正しい微笑み。


けれど胸の奥には、夜明けの光が残っている。


休日市の甘さ。


帝都の夜景。


つながれた手の温かさ。


言葉にしなかった朝の沈黙。


それらは誰にも見えない。


誰にも見えないまま、マーリンの中に残っている。


回廊の向こうから、学園のざわめきが近づいてくる。


希望の花としての時間が、また始まる。


マーリンは歩き出した。


背筋は正しい。


微笑みも正しい。


けれど、指先だけが一度、胸元に触れる。


そこには何もない。


宝石も、証書も、約束の品もない。


それでも、確かに残っていた。


まだ誰にも奪われていない、夜明けの余白が。


門の影が近づく。


ミハイルは隣ではなく、半歩離れた場所を歩いている。


正しい距離。


けれど、指先にはまだ温かさが残っていた。


マーリンはその温かさを、胸の奥へそっと置く。


リュールの糸よりも深い場所へ。


ロイス家の名よりも静かな場所へ。


そこには、誰にも見えない小さな朝があった。


夜が明けても消えない、余白のような幸福が。

ここまでお読みいただき有り難うございました。


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