それでも隣に
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マーリンは、言えなかった言葉を胸の奥にしまったまま過ごしていた。
ミーシャが好き。
その言葉は短い。
短いからこそ、逃げ場がない。
長い挨拶なら、飾れる。
社交の言葉なら、柔らかく包める。
父へ向ける返事なら、家の名にふさわしい形へ整えられる。
けれど、好き、は違った。
二音しかない。
余白も、逃げ道も、言い換えもほとんどない。
言えば、変わってしまう。
幼馴染という名で許されていた距離も、ガゼボでの穏やかな茶の時間も、手を借りるだけで胸が跳ねることも。
全部、名前を持ってしまう。
名前を持った想いは、きっと誰かに見つかる。
ロイス家の令嬢。
希望の花。
帝国の未来。
婚約候補。
家格。
噂。
マーリンの周りには、いつも名前が多すぎた。
自分の気持ちひとつにまで、誰かが立派な札をつけようとする。
それが嫌で、怖くて、マーリンは何も言えない。
けれど、言えないままでも苦しい。
ミハイルと目が合う。
それだけで、胸が少し温かくなる。
ミハイルが他の生徒と話している。
それだけで、少しだけ落ち着かなくなる。
彼が誰かに笑いかけたわけでもない。
ただ質問に答えているだけ。
それなのに、胸の奥で小さな何かが椅子を倒す。
行儀が悪い。
マーリンは、自分の心にそう思った。
できれば整列してほしい。
席次表のように、きちんと。
上位貴族はこちら。
下位貴族はこちら。
教師はこちら。
来賓はこちら。
想いは、ここ。
嫉妬は、そこ。
不安は、目立たない角。
そんなふうに並んでくれたら、どれほど楽だろう。
けれど心は、席次表よりずっと行儀が悪かった。
こちらの許可もなく動く。
勝手に跳ねる。
勝手に痛む。
そして、勝手にミハイルを探す。
ロイス家の令嬢としては、かなり困った仕様だった。
噂は、少しずつ形を変えていた。
シャルンホルストの件が伏せられてから、学園は表向きには平穏を取り戻している。
授業もある。
茶会もある。
生徒会の仕事もある。
廊下を行く足音も、教師の声も、庭園の花壇も、いつもの学園へ戻ろうとしていた。
けれど、その平穏の中に、新しい噂が混じっている。
ロイス家の令嬢とカーチスライト家の生徒会長は、やはり釣り合う。
臨時集会で並んだ姿が絵のようだった。
あの二人なら、学園としても帝国としても申し分ない。
誰も、真正面からマーリンに言うわけではない。
ただ、回廊の角や、ティーカップの影や、閉まりかけた扉の向こうから聞こえてくる。
そして、もうひとつ。
ルフトハンザ家の青年は、少し距離が近すぎるのではないか。
幼馴染とはいえ、ロイス家の令嬢の周囲には目が多い。
親しさは美しいが、節度もまた美徳だ。
悪意だけではない。
むしろ、善意の顔をしている。
だからマーリンは困る。
棘なら避ければいい。
刃なら痛いと訴えればいい。
けれど、善意の布で包まれた針は、触れるまで分からない。
「ロイス様は、本当にお幸せですわね」
そう言われた時も、マーリンは微笑んだ。
「身に余ることばかりです」
便利な言葉だった。
相手は笑い、話題は流れる。
その場は美しく終わる。
でも、胸の奥では何も終わらない。
幸せ。
その言葉の形を、マーリンはうまく持てなかった。
たしかに幸せな時間はある。
ガゼボで菓子を食べたこと。
ミハイルに休めと言われたこと。
クリスチーナが少し過保護に茶を注いだこと。
あの時間は、間違いなく温かかった。
でも、それは誰かに飾られるための幸せではない。
家格表に記されるものでもない。
誰と釣り合うかを測るための材料でもない。
マーリンだけの、小さな場所だった。
そこへ他人の声が入ってくるたびに、白い花の上へ薄い灰が積もるような気がした。
汚れたわけではない。
まだ綺麗だ。
けれど、息がしにくい。
その日、マーリンは庭園の奥へ向かった。
クリスチーナは何も言わずについてくる。
いつもの一歩後ろ。
ただし、少しだけ近い。
シャルンホルストの件から、その距離はすっかり戻らなくなった。
侍女としては近い。
先輩としてなら、まだ少し遠い。
けれど今のマーリンには、その半端な距離がありがたかった。
近すぎれば、言えないことまでこぼれてしまう。
遠すぎれば、立っていられない。
白い花壇の向こうに、ミハイルがいた。
ガゼボではない。
大きな木陰の下。
枝葉が薄く光を遮り、風が通るたびに影が揺れる。
人目からは少し外れているが、完全に閉じた場所ではない。
それが、今の二人にはちょうどよかった。
近すぎない。
けれど、遠すぎない。
マーリンは礼を整えた。
「ミハイル様」
ミハイルも、きちんと返す。
「マーリン嬢」
正しい距離。
正しい呼び方。
その正しさが、今日は少しだけ寂しい。
ほんの少し前なら、それでよかった。
公の場では公の呼び名。
私的な場では、幼い頃からの呼び名。
境界は分かりやすく、守れば安全だった。
けれど今は、その境界が少し痛い。
ミハイルはクリスチーナへ視線を向けた。
「クリスチーナ嬢。少しだけ、マーリン嬢と話をしても?」
クリスチーナはマーリンを見る。
問いかける目だった。
侍女としてではなく、マーリン自身に選ばせる目。
その視線が、いつもより優しい。
けれど、逃げ道も残してくれている。
嫌なら断っていい。
そう言っている目だった。
マーリンは小さく頷く。
「お願い、クリス」
「かしこまりました」
クリスチーナは離れる。
けれど、完全には離れない。
呼べば届く距離。
守れる距離。
それから、聞こえないふりをしてくれる距離。
その優しさに、マーリンは少しだけ息を吐いた。
ミハイルはしばらく黙っていた。
いつものように、すぐ叱らない。
すぐ茶化さない。
その沈黙が、かえって落ち着かない。
マーリンは先に口を開いた。
「何か、言いたいことがある顔をしているわ」
ミハイルが少し笑う。
「先に言われた」
「いつも言われているもの。たまには返してもいいでしょう?」
「いいと思う」
穏やかな会話。
けれど、空気の奥に別のものがある。
マーリンの胸が、先に察する。
たぶん、逃げられない。
ミハイルは木陰の先、庭園の白い花を見た。
「噂を聞いた」
マーリンの胸が小さく強張る。
「どの噂かしら」
「ロイス家とカーチスライト家の話」
ああ、とマーリンは思った。
やっぱり、そこへ来る。
「噂は噂です」
正しい答えが口から出る。
「わたくしには、まだ何も決まっておりません」
綺麗な言葉。
便利な言葉。
誰に聞かれても困らない。
誰にも隙を見せない。
けれどミハイルは、それを聞いても納得した顔をしなかった。
「マーリン」
私的な呼び方。
その一言で、マーリンの作った正しい壁に、小さなひびが入る。
「ここには、今、俺と君しかいない。クリスチーナ嬢は聞こえない場所にいる」
「……聞こえるかもしれないわ」
「聞こえていても、きっと聞こえなかったことにしてくれる」
それは、たぶんそうだった。
クリスチーナは優しい。
優しいだけではなく、見ないでいてほしいものを見ないふりにしてくれる人だ。
マーリンは視線を落とした。
「何を、言うつもりなの」
声が少しだけ硬い。
ミハイルは逃げなかった。
「君が好きだ」
とても短かった。
世界が、少し止まる。
風も、花も、遠くの生徒の声も、全部が薄くなった。
残ったのは、ミハイルの声だけだった。
マーリンは息を忘れる。
好き。
その言葉を、彼が言った。
自分が言えなかった言葉を。
家格の前で止めた言葉を。
噂の中に落とすのが怖かった言葉を。
ミハイルが、先に置いた。
木陰の下に。
マーリンの前に。
逃げずに。
「……ミーシャ」
名前を呼ぶだけで精一杯だった。
ミハイルは、少し困ったように笑う。
「驚かせたいわけじゃなかった」
「十分、驚いているわ」
「だろうな」
「だろうな、ではないわ」
怒りたいのに、声が震える。
ミハイルは真面目な顔に戻った。
「俺は、希望の花が好きなんじゃない」
マーリンの指先が動く。
「ロイス家の令嬢だからでもない。皆が褒めるからでもない。帝国の未来だとか、そういう綺麗で大きな言葉のためでもない」
ひとつずつ、花びらを外すように。
ミハイルは、マーリンにつけられた名前を外していく。
「俺が好きなのは、マーリンだ」
胸が痛い。
優しい言葉なのに、痛い。
そんなふうに呼ばれたかった。
そんなふうに見てほしかった。
けれど、いざ差し出されると、胸の奥が追いつかない。
「棚の高い本を取ろうとして無茶をするマーリン。疲れているのに大丈夫と言うマーリン。怖いのに知ろうとするマーリン。綺麗な壺みたいに飾られるのが嫌なくせに、場が整うように笑ってしまうマーリン」
やめてほしい。
そう思う。
そんなふうに見られたら、隠していたものが全部ほどけてしまう。
でも、やめてほしくない。
もっと見てほしいと思ってしまう。
「それから」
ミハイルは少しだけ目を伏せる。
「黒い宇宙から戻ってきて、大丈夫と言いかけて、やめたマーリン」
マーリンの喉が詰まる。
あの時の震えを、彼は見ていた。
大丈夫ではないと、ちゃんと受け止めていた。
希望の花ではなく。
立派な令嬢ではなく。
怖くて、震えて、それでも帰ってきたマーリンを。
マーリンは唇を結んだ。
「そんな私では、きっと困るわ」
ようやく出た言葉は、告白への返事ではなかった。
自分でも、少しずるいと思う。
でも、最初に出てきたのはそれだった。
「ロイス家の令嬢として、私は……たぶん、もっと正しい相手を選ぶべきなの。お父様も、周囲も、きっとそう考える。噂だって、すぐに広がるわ。ミーシャにも迷惑がかかる」
言いながら、胸の奥が冷えていく。
好きと言いたいのに。
出てくるのは、言えない理由ばかり。
家。
噂。
父。
周囲。
迷惑。
まるで自分の心の前に、他人の椅子ばかり並べているみたいだった。
「私は、私だけのものではないの」
それがいちばん嫌な言葉だった。
けれど、それが今のマーリンの現実でもあった。
ロイス家の令嬢として生まれた。
希望の花と呼ばれた。
公爵家の娘として、たくさんの視線と期待を向けられている。
自分の気持ちだけで選べるほど、世界は小さくない。
それを知っているから、苦しい。
ミハイルは黙って聞いていた。
途中で遮らない。
励ましの言葉で塗りつぶさない。
全部聞いたあと、静かに言う。
「知っている」
その声は、優しかった。
「家格も、噂も、ロイス家の重さも。君が背負わされているものも。全部をなくせるとは言えない」
ミハイルは一歩近づく。
近い。
けれど触れない。
触れない距離で、ちゃんと隣にいる。
「それでも、隣にいたい」
マーリンは顔を上げた。
「君が希望の花でいなければならない時も、ロイス家の令嬢として笑う時も、疲れて笑えなくなる時も。俺は、君をマーリンとして見ていたい」
それは、約束に似ていた。
華やかな言葉ではない。
社交場で褒められるような美しい言い回しでもない。
けれど、マーリンの胸の奥にまっすぐ届く。
欲しかった言葉だった。
自分でも、欲しかったと気づいていなかった言葉。
マーリンは目を伏せる。
好き、と言いたい。
今度こそ、言いたい。
けれど、やはり言葉は喉で止まる。
家格。
噂。
役割。
未来。
それらが消えたわけではない。
ミハイルが好きだと言ってくれたからといって、ロイス家の重さが軽くなるわけではない。
父が優しくなるわけでもない。
周囲の視線が消えるわけでもない。
だからマーリンは、少し違う言葉を選んだ。
「……私も」
声は小さい。
「私も、ミーシャの隣にいたい」
好き、とは言えなかった。
でも、嘘ではない。
逃げでもない。
今のマーリンが、精一杯差し出せる言葉だった。
ミハイルはそれを、ちゃんと受け取った。
「うん」
たったそれだけ。
それだけなのに、マーリンは泣きそうになる。
泣かない。
ここは庭園で、まだ人目がある。
泣くには少し明るすぎる。
だから代わりに笑う。
下手な笑顔だった。
けれど、ミハイルも笑った。
その笑顔が、マーリンを少しだけ安心させた。
遠くで、クリスチーナが視線を伏せていた。
彼女は何も聞いていないふりをしている。
けれど、マーリンの手が震えていないことには、きっと気づいている。
マーリンは木陰の下で、少しだけ息を吸った。
世界は変わっていない。
ロイス家も。
噂も。
役割も。
帝国も。
戦争も。
何ひとつ消えていない。
それでも、少しだけ変わった。
マーリンはもう、名前のない想いをひとりで抱えていない。
ミハイルが、希望の花ではなくマーリンが好きだと言った。
マーリンも、好きとは言えなかったけれど、隣にいたいと言えた。
それは小さな幸福だった。
小さい。
とても小さい。
木陰から出れば、すぐに礼儀の中へ戻るくらいのもの。
回廊を歩けば、呼び名も距離も正しく整え直されるくらいのもの。
けれど、壊れたら世界が傾くくらいには、大切なものだった。
「マーリン」
ミハイルが静かに呼ぶ。
「なあに」
「無理に返事を急がなくていい」
「もう返事をしたつもりだったのだけれど」
「足りないとは言っていない」
「では、どういう意味?」
ミハイルは少し考えた。
「君が苦しくならない速さでいい、という意味だ」
また、ずるいことを言う。
マーリンはそう思った。
ずるい。
本当にずるい。
こんなふうに言われたら、また好きになってしまう。
好きと言えないまま、もっと好きになる。
それはかなり困る。
「ミーシャ」
「うん」
「私、たぶんとても面倒よ」
「知っている」
即答だった。
マーリンは目を丸くする。
「そこは、そんなことない、と言うところではないの?」
「君に嘘をついても仕方ない」
「ひどいわ」
「それでも隣にいたいと言った」
その言葉に、胸の奥が温かくなる。
怒ろうとしていたのに、怒る場所がなくなった。
マーリンは少しだけ唇を尖らせる。
「そういうところよ」
「どこだ」
「全部」
ミハイルは小さく笑った。
その笑い方が、穏やかで、近い。
マーリンはその横顔を見て、そっと息を吐く。
好き。
まだ言えない。
でも、いつか言えるかもしれない。
そう思えただけで、胸の奥の重さが少し変わった。
軽くなったわけではない。
ただ、ひとりで抱える形ではなくなった。
木陰を出る時、ミハイルはマーリンの隣を歩いた。
前ではなく。
後ろでもなく。
隣。
それだけのことが、ひどく心強い。
回廊へ戻れば、また二人は正しい呼び方に戻る。
ミハイル様。
マーリン嬢。
けれどマーリンは知っている。
その奥に、別の名前がある。
ミーシャ。
マーリン。
誰にも見せない、小さな場所でだけ呼べる名前。
クリスチーナが一歩後ろに戻る。
マーリンは振り返らず、小さく言う。
「クリス」
「はい、お嬢様」
「少し、歩きましょう」
「かしこまりました」
クリスチーナの声は静かだった。
けれど、ほんの少しだけ柔らかい。
たぶん、何も聞いていないふりを続けてくれている。
マーリンはそれに甘えることにした。
今日くらいは。
三人は庭園の道を歩いた。
白い花壇の横を通る。
少し前なら、その白に黒い宇宙が重なった。
今も、完全に消えたわけではない。
けれど、白い花は白い花だった。
風に揺れ、光を受け、ただそこに咲いている。
マーリンは花を見て、少しだけ微笑んだ。
リュールの白も、いつかこんなふうに見られるだろうか。
怖さだけではなく。
痛みだけではなく。
自分を救ったものとして。
誰かを守ったものとして。
そう思って、すぐに胸の奥へしまう。
今はまだ、そこまで考えなくていい。
今は、隣の歩幅に合わせるだけでいい。
ミハイルは急がない。
クリスチーナも急かさない。
マーリンの足取りは、ほんの少し軽かった。
戦争は終わっていない。
白い人形も、帝国の視線も、消えていない。
ロイス家の重さも、噂も、役割も、すべてそこにある。
それでも今は、隣にミハイルがいる。
それでも今は、クリスチーナが少し後ろにいる。
マーリンがマーリンとして息をしても、崩れない場所がある。
その幸福が、確かにあった。
大きなものではない。
誰かに誇れる形でもない。
けれど、胸の奥に灯るには十分だった。
木陰で交わした短い言葉。
隣にいたいという約束にも似た願い。
好きとはまだ言えないまま、それでも消えない想い。
マーリンは、その全部を抱えて歩いた。
失う日が来ることなど、まだ知らないふりをして。
今だけは、隣にある温かさを信じていた。
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