言えない言葉
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マーリンは、言葉にできないものを抱えていた。
それは白い糸よりも細く、社交場の視線より厄介で、甘い菓子より少し困るものだった。
ミハイルの声を聞くと、顔を上げてしまう。
回廊で姿を見つけると、足取りが少し軽くなる。
彼が本を持ってくれたことを思い出すと、胸の奥が妙に温かくなる。
そして、すぐに苦しくなる。
言いたいことがある。
ミーシャが好き。
たったそれだけの言葉だ。
短い。
短すぎて、挨拶より簡単に聞こえる。
けれどマーリンには、それが言えない。
ロイス家の令嬢であること。
フルール・デスポワールと呼ばれていること。
帝国の希望として、誰からも見られていること。
その全部が、言葉の前に並んでいる。
並んで、礼儀正しく微笑んで、こちらです、と道をふさいでくる。
とても行儀のいい障害物だった。
だから余計に厄介だった。
乱暴に蹴ることも、泣いてどかすこともできない。
マーリンは今日も、講義室で微笑んだ。
教師に褒められれば礼をする。
同級生に声をかけられれば、穏やかに答える。
廊下でシャルンホルストの事故について触れられれば、皆様がご無事で何よりでした、と言う。
正しい言葉は、すぐに口から出る。
もう何度も使った言葉だ。
けれど、それとは別の言葉だけが、胸の奥でずっと行き場を失っている。
好き。
たった二音。
なのに、ロイス家の式典挨拶より難しかった。
噂は、いつも真正面から来ない。
茶会の端。
回廊の曲がり角。
扉が閉まる直前。
小さな笑い声の後ろ。
そういう場所に、細い針のように潜んでいる。
ロイス家の令嬢にふさわしい婚約相手は誰か。
カーチスライト家なら釣り合うのではないか。
生徒会長と新入生代表なら、見栄えもよい。
家格も、評判も、将来性も申し分ない。
ブライアン様は落ち着いていらっしゃるし、ロイス嬢も品位がある。
そんな声は、誰もマーリンへ直接は言わない。
言わないから、否定もしにくい。
耳に入った時だけ、マーリンは少し微笑む。
「そのようなお話は、わたくしにはまだ早うございます」
便利な言葉だった。
上品で、角が立たず、どこにも答えがない。
言った相手は、まあ、と笑って別の話題へ移る。
それで済む。
済むはずなのに、胸の奥に小さな苦さが残る。
生徒会室の前で、ブライアンと行き会った時もそうだった。
ブライアンは書類を手にしていた。
いつものように姿勢がよく、表情は静かで、声の温度も乱れない。
「ロイス嬢。体調はいかがですか」
「お気遣いありがとうございます、ブライアン様。講義には支障ございません」
「それは何よりです。ただ、必要な手続きはこちらで引き受けます。あなたは休息を優先してください」
言葉は優しかった。
少なくとも、形はそうだった。
ブライアンは本当に配慮している。
それもマーリンには伝わる。
けれど、その配慮はどこか広い。
学園の秩序。
生徒会の進行。
ロイス家の令嬢としての立場。
その全部を崩さないための、正しい配慮だった。
「ありがとうございます」
マーリンは礼をする。
「ですが、必要な確認がございましたら、わたくしにもお知らせくださいませ」
「承知しました」
ブライアンは一拍置いた。
「無理は不要です、ロイス嬢」
「はい」
返事は素直に出た。
けれど、その場を離れた後、廊下の向こうで小さな声がした。
やはりお似合いね。
カーチスライト様は頼もしいわ。
ロイス様も、ああして自然に並ぶと絵になる。
絵。
マーリンは、少しだけ足を止めた。
絵になる。
それは褒め言葉なのだろう。
美しく整ったもの。
遠くから眺めるにふさわしいもの。
でも絵の中の人物は、自分の足で歩かない。
描かれた手は、誰かを選んで触れることもない。
マーリンは笑わなかった。
笑う必要のない角だったからだ。
代わりに、手袋の指先を少しだけ握った。
ブライアンのことが嫌いなわけではない。
彼は正しい。
場を整え、必要なものを見極め、感情に流されない。
シャルンホルストの件でも、彼の判断がなければ格納区画へ逃げ込むことはなかったかもしれない。
その正しさを、マーリンは知っている。
けれど、正しいことと、胸が温かくなることは同じではなかった。
ミハイルの名が噂に出ることもある。
幼馴染だから親しい。
ルフトハンザ家なら悪くない。
けれどロイス家の立場を考えれば、もっと政治的に有利な縁がある。
そういう言葉には、悪意がない。
むしろ親切な分析だ。
だから余計に苦しい。
マーリンは人ではなく、家と家を繋ぐ札のように扱われる。
花なら、どの花瓶に飾るのが一番美しいか。
そんな話に似ていた。
フルール・デスポワール。
希望の花。
花は、自分で花瓶を選ばない。
そう考えかけて、マーリンは手袋の中で指を握った。
白い糸の感覚が、ほんの少しだけ残っている。
あの時、自分の手はリュールへ伸びた。
誰に命じられたわけでもなく。
家格表に従ったわけでもなく。
誰かを守りたいと、身体が先に動いた。
なら、この胸の奥の言葉も、自分のものではないのだろうか。
好き。
そう思うことくらい、誰かの許可が必要なのだろうか。
そこまで考えて、マーリンはすぐに視線を伏せた。
考えるだけなら簡単だ。
言葉にするのは、まるで別の戦場だった。
その日の午後、マーリンは庭園の白いガゼボへ向かった。
前に三人で休んだ場所だ。
白い柱と丸い屋根。
花壇に囲まれた、小さな休憩場所。
大講堂ほど広くない。
宇宙ほど怖くない。
けれど、完全に安全というわけでもない。
学園の庭園は美しいぶんだけ、誰かの目が潜んでいる。回廊から見える角度、花壇の向こうに立つ生徒、遠くで庭師と話す教師。誰も悪気はない。ただ見える。見えてしまう。
それだけで、言葉は少し堅くなる。
ミハイルは先に来ていた。
ガゼボの柱に寄りかかることもなく、きちんと立っている。公の場ではないはずなのに、誰かに見られても困らない距離と姿勢を選んでいた。
そういうところが、彼らしい。
近づきすぎない。
けれど、逃げない。
マーリンは胸の奥を整えてから、軽く礼をした。
「ミハイル様」
「マーリン嬢」
少し堅い。
少し遠い。
その距離が、今日はやけに痛かった。
クリスチーナはマーリンの後ろに控えている。
一歩後ろ。
けれど、前より少し近い。
シャルンホルストの件以来、クリスチーナはその距離を少しも譲らない。侍女としては正しい距離で、守るには少し近い距離だった。
ガゼボの卓には、すでにティーポットと菓子皿が置かれていた。
焼き菓子。
小さなタルト。
砂糖をまぶした木の実。
前より少し多い気がする。
マーリンは席に着きながら、そっと皿を見る。
「クリス」
「はい、お嬢様」
「これは、休息ではなく補給作戦ではないかしら」
「必要量を考慮いたしました」
「作戦なのね」
クリスチーナは真顔で茶を注いだ。
ミハイルが菓子皿をマーリンの前へ寄せる。
「食べること」
「また義務なの?」
「君には必要な義務だ」
マーリンは少しむくれる。
「ミーシャは、私を食事嫌いの子どものように扱うわ」
「違う」
「違うの?」
「放っておくと仕事と心配ごとを食べる子どもだと思っている」
「ひどいわ」
そう言いながら、笑ってしまう。
ひどい。
本当にひどい。
でも、彼はたぶん本気で心配している。
そして、ひどい言い方をしないとマーリンが逃げると思っている。
そこまで読まれていることが、少し悔しい。
少し嬉しい。
クリスチーナも、後ろでほんのわずかに目元を和らげた。
穏やかな時間だった。
だからこそ、言いたくなる。
ミーシャが好き。
でも、言えない。
マーリンは焼き菓子をひとつ取る。
指先は震えていない。
少なくとも、今は。
甘い香りが近づく。
前の休日と同じように、甘さは身体の奥を少しだけほどいた。
それなのに、胸の奥だけは硬い。
言葉がそこに引っかかっている。
菓子より小さな言葉なのに、飲み込めない。
ミハイルは、マーリンの変化に気づいた。
「マーリン」
私的な呼び方だった。
それだけで、胸が跳ねる。
本当に困る。
名前ひとつでこんなふうになるなら、戦場の急加速より危険ではないだろうか。
マーリンはティーカップを持ったまま、視線を落とした。
「なあに、ミーシャ」
「何か言いたいことがある顔をしている」
本当に困る。
どうして彼は、そういうところばかり見つけるのだろう。
大講堂の拍手は、マーリンの震えを見つけなかった。
軍の端末は、吐き気も恐怖も項目にしなかった。
けれどミハイルは、ティーカップの影に隠した小さな迷いまで拾ってしまう。
マーリンは笑って誤魔化そうとした。
「そんな顔、していたかしら」
「していた」
「気のせいよ」
「君の気のせいは信用していない」
逃げ道がない。
ガゼボには出口がいくつもあるのに、逃げ道だけがない。
マーリンはティーカップを置く。
指先が少しだけ熱い。
言えばいい。
今なら言えるかもしれない。
人目は遠い。
クリスチーナはきっと何も言わない。
ミハイルは、きっと笑わずに聞いてくれる。
それは知っている。
それでも言えない。
好きと言った瞬間、ただの気持ちでは済まなくなる。
ロイス家の令嬢の言葉になる。
噂になる。
婚約の話になる。
父の耳に届く。
誰かが利用する。
小さな幸福が、家格と政治と役割の盤面に置かれてしまう。
それが怖かった。
マーリンは、言葉を別の形へ変えた。
「……ミーシャといると、少し楽なの」
言えたのは、そこまでだった。
好き、ではない。
でも、嘘でもない。
言ったあとで、頬が熱くなる。
これでは、ほとんど言ったようなものではないだろうか。
いや、違う。
違うはずだ。
たぶん。
マーリンは、自分の心を説得するだけで忙しかった。
ミハイルはすぐには答えない。
マーリンを急かさない。
言葉の足りないところを、勝手に埋めようともしない。
ただ、少しだけ表情を柔らかくした。
「それなら、よかった」
その返しが優しくて、マーリンは余計に困る。
「それだけ?」
「それ以上を言わせたいなら、言うが」
「言わなくていいわ」
「では言わない」
あっさり引かれて、また困る。
言ってほしいような。
言われたら困るような。
面倒な心だ。
自分のものなのに、まるで他家の礼法みたいに扱いにくい。
ミハイルは茶を飲み、庭園を眺める。
「マーリンが楽だと思える場所があるなら、それは大事にした方がいい」
「場所?」
「人でもいい」
マーリンは、息を止めた。
ミハイルは、こちらを見ない。
ずるい。
見ないまま、逃げ場のないことを言う。
庭園の風が、白い屋根の下を抜けていく。
遠くで、生徒の笑い声がした。
世界は普通に動いている。
マーリンだけが、ティーカップの前で呼吸を忘れかけていた。
「……ミーシャは、時々本当にずるいわ」
「今回は自覚がある」
「あるのね」
「ある」
二人は小さく笑った。
けれど笑いのあと、沈黙が落ちる。
言えない言葉が、ガゼボの白い屋根の下で揺れている。
マーリンはその言葉を、そっと胸の奥へ戻した。
まだ言えない。
まだ、言ってはいけない気がする。
でも、消したくはない。
それは役割でも、義務でも、家のためでもない。
マーリン自身の中から生まれたものだった。
そのことが、少し怖くて、少し嬉しい。
クリスチーナが新しい茶を注ぐ。
その手つきは静かだった。
彼女は何も言わない。
けれど、マーリンの言えなかった言葉に気づいている。
たぶん最初から。
それがまた恥ずかしくて、マーリンは焼き菓子をもうひとつ取った。
甘い。
やっぱり甘い。
ミハイルが言う。
「ほら、食べた」
「勝ち誇らないで」
「大きな進歩だ」
「小さすぎるわ」
「小さい方が続く」
マーリンは笑う。
好きとは言えない。
けれど、こんな会話が続くなら、それだけで少し幸せだと思ってしまう。
それもまた、怖かった。
幸福は、気づくと手の中にある。
そして手の中にあると、落とすのが怖くなる。
ティーポットが空に近づく頃、風が少し冷たくなった。
クリスチーナが片付けの支度を始める。
マーリンはガゼボの外へ目を向けた。
花壇の白い花が揺れている。
前なら、ただ綺麗だと思った。
少し前なら、リュールの白を思い出して息が詰まった。
今は、そのどちらでもある。
綺麗で、少し怖い。
怖くても、目を逸らさずに見ていられる。
たぶん、隣にミハイルがいるからだ。
「マーリン」
「なあに」
「今度は何を考えている」
「また顔に出ていた?」
「出ている」
「そんなに分かりやすいかしら」
「俺には」
その言い方が、胸に悪い。
マーリンはティーカップの縁を指でなぞり、すぐに手を離した。
「……白い花を見ていたの」
「つらいか」
問い方が短い。
大丈夫か、ではない。
つらいか。
それなら、少しだけ答えやすかった。
「少し。でも、綺麗だとも思うわ」
「そうか」
それだけだった。
慰めも、励ましも、余計な理屈もない。
ミハイルは、マーリンの言葉をそのまま受け取る。
怖いと綺麗が同じ場所にあることを、変だと言わない。
そのことが、マーリンにはありがたかった。
「ミーシャ」
「うん」
「私、たぶん少しずつ戻っているのだと思う」
「元通りに?」
「いいえ」
マーリンは首を横に振った。
元通りではない。
黒い宇宙を見た。
リュールに乗った。
白い糸を伸ばした。
知らない怖さを知った。
それをなかったことにはできない。
「元通りではないけれど、歩ける場所へ」
ミハイルはしばらく黙っていた。
「それなら、急がなくていい」
「ミーシャは、すぐそう言うわ」
「君は急ぐからな」
「急いでいないつもりよ」
「つもり、という言葉は信用しない」
マーリンは少しむくれた。
「今日のミーシャは厳しいわ」
「今日だけではない」
「自覚があるのね」
「ある」
また、二人で笑う。
笑うたびに、胸の奥の言葉が少しだけ揺れた。
好き。
言えない。
でも、消えない。
それだけでよかった。
まだ今は。
ガゼボを出る時、ミハイルがマーリンへ手を差し出した。
ただ立ち上がるための手。
それ以上の意味はない。
少なくとも、表向きは。
マーリンはその手を見た。
大きな手だった。
戦場のものではない。
リュールの操縦桿でも、光のソードでも、白い糸でもない。
ただ、ミハイルの手。
取れば立てる。
ただそれだけ。
それだけのことが、こんなに難しい。
マーリンはゆっくりと手を重ねた。
指先が触れる。
温かい。
その一瞬で、言えなかった言葉がまた胸まで上がってくる。
ミーシャが好き。
喉元まで来て、止まる。
マーリンは微笑むだけだった。
ミハイルは手を引き、彼女が立ち上がるのを助ける。
力は強すぎない。
けれど、頼っても崩れない強さだった。
「ありがとう」
「どういたしまして、マーリン嬢」
公の呼び方に戻る。
少し離れた回廊では、生徒たちの声がしていた。
家格。
噂。
役割。
世界はまだ、二人だけのものにはなってくれない。
だからマーリンは手を離した。
温かさだけが、少し残った。
クリスチーナが何も言わずに後ろへ控える。
その沈黙も、少し温かい。
マーリンは手袋の中で指をそっと握った。
白い糸の感覚は、まだ完全には消えていない。
けれど今、その手の中に残っているのは、ミハイルの温かさだった。
誰にも見せない。
誰にも渡さない。
まだ言えない言葉と一緒に、胸の奥へしまっておく。
ガゼボの白い屋根の下で生まれた、小さくて困る幸福。
それは役割でも、義務でも、家のためでもない。
マーリンだけのものだった。
今はまだ、言葉にしない。
言葉にしないまま、大切にする。
それくらいなら、許される気がした。
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