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名前のない想い

ご覧いただきありがとうございます。

評価、ブックマークしていただきありがとうございます。

小さな休日のあと、マーリンは少しだけ休み方を覚えた。


ほんの少しだけだ。


机に向かう時間を、以前より少し短くする。


ティーカップの茶を冷ましきる前に飲む。


菓子をひとつ、残さず食べる。


クリスチーナに「お休みください」と言われたら、まず反論する前に椅子へ座る。


大きな進歩ではない。


帝国の歴史にも、ロイス家の記録にも残らない。


けれどクリスチーナは、そのたびに少しだけ嬉しそうな顔をする。


嬉しそう、というより、ほっとする顔だった。


マーリンが焼き菓子をひとつ食べるだけで。


マーリンが資料を閉じるだけで。


マーリンが「少し休むわ」と言うだけで。


クリスチーナは、ほんのわずかに目元を緩める。


その顔を見ると、マーリンも少し嬉しくなる。


休むことが、誰かを安心させる。


そんなことを、今まであまり考えたことがなかった。


役に立つこと。


正しく振る舞うこと。


笑って、場を整えること。


それなら知っている。


けれど、自分が菓子を食べているだけで誰かが安心するなんて、少し不思議だった。


少し、くすぐったい。


そして、少し怖い。


誰かに心配されることに慣れてしまうと、ひとりで立つのが下手になりそうだった。


けれど、クリスチーナの顔を見ると、まあいいか、と思ってしまう。


それもまた、困った変化だった。


もうひとつ、困った変化があった。


ミハイルの声を探してしまう。


廊下で誰かが自分の名を呼ぶたび、ほんの少しだけ期待する。


庭園の白いガゼボを見ると、彼が座っていた場所を思い出す。


茶菓子を前にすると、仕事より先にこれ、と言われた声が浮かぶ。


焼き菓子を取る時は、二つと言われたことを思い出して、つい皿を見てしまう。


おかしい。


幼馴染なのだから、思い出すのは自然だ。


心配してくれたのだから、感謝するのも自然だ。


あの黒い宇宙のあと、そばにいてくれたのだから、安心するのも自然だ。


マーリンは、自分にいくつも理由を並べた。


理由は多い。


多すぎる。


だから、かえって怪しい。


そんなことを考えている時点で、すでに少しおかしいのではないか。


マーリンは廊下の窓に映った自分を見る。


きちんと結われた髪。


乱れのない襟元。


ロイス家の令嬢として正しい姿。


その顔が、ほんの少しだけ困っていた。


「お嬢様?」


クリスチーナの声に、マーリンは瞬きをする。


「ええ。何でもないわ」


「何でもない、とおっしゃる時は、たいてい何かございます」


「クリスまでミーシャみたいなことを言うのね」


言ってから、マーリンは口を閉じた。


自然に出た。


あまりにも自然に。


クリスチーナは何も言わない。


ただ、ほんの少しだけ目を伏せた。


その沈黙が優しい。


そして少し、恥ずかしい。


マーリンは咳払いをして、手元の本を抱え直した。


「図書室へ行くわ」


「かしこまりました」


クリスチーナは、何も追及しない。


追及しない代わりに、マーリンの歩幅へ合わせて後ろを歩く。


その足音が、今はありがたかった。


図書室は静かだった。


高い天井。


長く並ぶ書架。


窓から差し込む淡い光。


木製の机には数人の生徒が座り、紙をめくる音だけが小さく響いている。


外の回廊より、ここは時間がゆっくり流れていた。


マーリンは奥の専門書架へ向かう。


目的は、航路図と人形操縦の基礎資料だった。


リュールのことは口外できない。


NewEraの名も、白い人形のことも、誰にも話してはいけない。


軍は、あれを試作機と呼んだ。


学園の記録には存在しない。


臨時集会の言葉にも、掲示板にも、白い人形の名はなかった。


それでも、マーリンの指先にはまだ白い糸の感覚が残っている。


完全には消えていない。


ふとした拍子に、手袋の下で糸が揺れるような気がする。


何もないのに。


何も残っていないはずなのに。


怖かった。


それは言えた。


クリスチーナにも、ミハイルにも、少しだけ言えた。


けれど、怖いだけでは終われない。


なぜ自分の糸が伸びたのか。


なぜリュールだけが応えたのか。


あの時、身体は何を知っていたのか。


答えは軍の奥に伏せられている。


学園の図書室にあるはずもない。


それでも、知らないよりはましだった。


分厚い専門書の背表紙には、訓練機の操縦理論、魔力波形と反応遅延、有人人形の基礎制御、といった題が並んでいる。


マーリンは一冊ずつ目で追った。


読めばすぐ理解できるとは思っていない。


それでも、最初の一行くらいは自分で選びたかった。


リュールに乗せられたからではなく。


軍に記録されたからでもなく。


自分の身に起きたことを、自分の手で確かめたい。


そう思った。


棚の少し高い位置に、古い航路図集があった。


帝国初期の宙域図。


今の軍用航路とは違うが、基礎資料としては面白そうだった。


マーリンは背伸びをする。


届きそうで、少し届かない。


あと少し。


本当に、あと少し。


指先が背表紙に触れた瞬間、横から別の手が伸びた。


「これか?」


ミハイルだった。


マーリンは振り向き、思わず姿勢を正す。


図書室には他の生徒もいる。


だから彼は、きちんと距離を守っている。


「ミハイル様」


「マーリン嬢」


正しい呼び方。


正しい距離。


けれど、手に取った本を差し出す指先が少しだけ優しい。


マーリンは本を受け取った。


「ありがとうございます」


「礼を言われるほどではない」


「届きましたのに」


「届いていなかった」


「もう少しでした」


「そのもう少しで、棚を倒しそうな顔をしていた」


「倒しません」


「君なら倒す前に支えるだろう。そこが問題だ」


マーリンは返事に詰まる。


言い返したい。


とても言い返したい。


けれど、少しだけ当たっている。


倒れる棚を見たら、たぶん支える。


本が崩れたら、たぶん拾う。


自分の手首が痛くなるかどうかは、その後で考える。


ミハイルは、それを知っている顔をしていた。


ずるい。


マーリンは視線を本へ落とした。


「……ミハイル様は、いつからそこに?」


「君が三度目の背伸びをしたあたりから」


「声をかけてくださればよかったのに」


「四度目で届くか見ていた」


「意地悪」


「五度目に入る前には取った」


「そこは誇るところではないわ」


小さな声で言い合う。


図書室の空気を乱さない程度に。


それがかえって、二人だけの会話のようで落ち着かなかった。


ミハイルは、マーリンが抱えた本を見る。


「航路図と操縦基礎か」


「少し、気になっただけです」


「少し」


その言い方が、あまりにも疑っている。


マーリンは小さく眉を寄せた。


「ミハイル様は、その言葉に厳しすぎます」


「君がその言葉を便利に使いすぎるからだ」


また言い返せない。


悔しい。


でも、少し楽しい。


図書室の大きな窓から、柔らかな光が差し込んでいる。


黒い宇宙とは違う光だった。


冷たくない。


まぶしすぎない。


マーリンは本を胸元に抱える。


その時、ミハイルの視線が彼女の手元で止まった。


「震えは?」


短い問いだった。


マーリンは一瞬だけ、指先を見下ろす。


手袋の下。


今は、ほとんど震えていない。


「少しだけ」


「怖いのは?」


マーリンは周囲を確認する。


誰も近くにはいない。


それでも声を落とす。


「まだ、少し」


ミハイルはうなずいた。


慰めない。


大げさに励まさない。


ただ、聞いて受け取る。


それが、今のマーリンにはありがたかった。


「でも、知りたいの」


言ってから、自分で少し驚いた。


思っていたより、まっすぐな声が出た。


ミハイルも、少し目を細める。


「怖いのに?」


「怖いから、かもしれないわ」


マーリンは本の背表紙を撫でた。


古い紙の匂いがする。


「何も知らないまま怖いのは、もっと嫌なの」


ミハイルはしばらく黙る。


それから、少し困ったように笑った。


「やっぱり君は、守られるだけの令嬢じゃないな」


その言葉に、胸の奥が小さく跳ねた。


褒め言葉だったのかもしれない。


ただの感想だったのかもしれない。


けれど、マーリンには妙に深く届いた。


フルール・デスポワールとしてではなく。


ロイス家の令嬢としてでもなく。


怖がりながら、それでも知りたいと思っている自分を見られた気がした。


マーリンは視線を逸らす。


「……そういう言い方は、ずるいわ」


「またずるいと言われた」


「ミーシャは、時々ずるいの」


言ってから、はっとする。


小さな声だった。


近くにいるのはミハイルだけ。


それでもここは図書室で、完全な私的な場所ではない。


ミハイルも一瞬だけ黙る。


その沈黙が、少し熱い。


マーリンは慌てて本を抱え直した。


「今のは」


「聞こえた」


「忘れて」


「無理だな」


「意地悪」


「それも聞こえた」


マーリンは困って、少し笑ってしまう。


笑ったあと、胸の奥がまた跳ねた。


おかしい。


ミハイルと話すのは慣れている。


幼い頃から何度も話してきた。


叱られたことも、助けられたことも、笑わされたこともある。


なのに、少し違う。


名前を呼ぶだけで、前より近い。


目が合うだけで、前より落ち着かない。


隣にいるだけで安心するのに、同時に少し苦しい。


その感情に、マーリンはまだ名前をつけない。


つけてしまったら、戻れない気がした。



図書室を出たあと、二人は庭園側の回廊へ移った。


クリスチーナは少し離れて控えている。


一歩後ろ。


けれど、マーリンが困ればすぐ届く距離。


窓の外には白い花壇が見えた。


前に休んだガゼボも、その先にある。


あの場所で食べた菓子の甘さが、ふと舌の奥に戻る。


ミハイルは、マーリンの歩幅に合わせて歩く。


それにも気づいてしまう。


速すぎない。


遅すぎない。


本を抱える腕が疲れていないか、さりげなく見ている。


気づかなければよかった。


気づくと、胸が落ち着かない。


「マーリン」


人の少ない回廊で、ミハイルが呼んだ。


マーリンは足を止める。


「なあに、ミーシャ」


返事は自然に出た。


その自然さが、少し怖い。


ミハイルは窓の外を見たまま言う。


「怖いなら、ひとりで調べるな」


マーリンは目を瞬かせる。


「それは、また叱っているの?」


「半分」


「残り半分は?」


「心配している」


まっすぐだった。


あまりにもまっすぐで、逃げ場がない。


マーリンは視線を落とす。


「心配しすぎよ」


「君は心配されることをしすぎる」


「それは……少しだけ、心当たりがあるわ」


「少し?」


「かなり」


ミハイルが笑う。


その笑みを見ると、マーリンも笑ってしまう。


笑ってしまってから、また少し困る。


こんなふうに笑える時間が、前より大切に思える。


大切だと思うほど、手の中の本より重くなる。


ミハイルは、マーリンの抱えた本を一冊取った。


「重いだろう」


「それくらい持てるわ」


「持てるのは知っている」


「では、なぜ」


「持ちたいから」


短い言葉だった。


マーリンは、返す言葉を失う。


ミハイルも、少しだけ言いすぎたような顔をする。


けれど、取り消さない。


本一冊。


ただそれだけ。


なのに、マーリンにはひどく大きなものを預けたような気がした。


重さを半分持たれること。


怖さを少し分けること。


名前のない何かを、近くに置くこと。


それらが全部、同じ場所で静かに触れ合っている。


マーリンは小さく息を吸った。


「……ありがとう、ミーシャ」


「どういたしまして、マーリン」


二人とも、それ以上は言わない。


言えない。


言葉を足せば、今あるものの形が変わってしまいそうだった。


クリスチーナが少し後ろで、静かに二人を見ていた。


彼女は何も言わない。


ただ、マーリンの横顔が少し柔らかいことには、たぶん気づいている。


マーリンも、それに気づいている。


見られている。


でも嫌ではない。


ガゼボの午後から、何かが少し変わっている。


形はまだない。


名前もない。


けれど、確かにそこにある。


マーリンは、それを胸の奥にそっとしまう。


しまったつもりで、きっと顔には出ている。


ミハイルが少しだけ目を逸らしたから。


その仕草に気づいて、マーリンの胸はまた小さく跳ねた。


まったく、困った心だった。


閲覧席に戻ると、マーリンは借りた本を机へ並べた。


ミハイルは向かいではなく、斜め隣に座った。


近すぎない。


遠すぎない。


図書室で許される、ちょうどよい距離。


それなのに、さっき本を持ってくれた手のことばかり思い出す。


マーリンはページを開いた。


有人人形の基礎制御。


第一章、操縦者と魔力波形。


文字は読める。


内容も頭に入る。


けれど、ふとした瞬間に、横の気配へ意識が流れる。


ミハイルは別の資料を読んでいた。


航路図の古い注釈を眺め、時々眉を寄せる。


真面目な顔。


少し不機嫌そうにも見える顔。


でもマーリンは、その顔が考え込んでいる時のものだと知っている。


知っていることが、また少し胸にくる。


「何だ」


ミハイルが顔を上げた。


「何でもないわ」


「今、見ていただろう」


「資料を見ていたの」


「俺は資料ではない」


「似たようなものよ。時々、解読が難しいもの」


ミハイルは一拍置いて、低く笑った。


「それは君もだ」


「私は分かりやすいわ」


「そう思っているのは君だけだ」


「クリスまで頷きそうなことを言わないで」


少し離れた場所で、クリスチーナがページを整える手を止めた。


頷いてはいない。


頷いてはいないが、沈黙がとても丁寧だった。


マーリンは頬を少し熱くして、資料へ目を戻す。


「二人とも、私に厳しいわ」


「君が自分に甘くないからだ」


ミハイルの声は静かだった。


軽口の後に、急にそういうことを言う。


本当にずるい。


マーリンはページの端を指で押さえた。


「……甘やかされるのは、慣れていないの」


「知っている」


「知っているのなら、少し加減して」


「努力する」


「それ、あまり信用できないわ」


「俺も、君の少しと大丈夫は信用していない」


今度はマーリンが笑った。


声を出さないように、少しだけ肩を揺らす。


図書室の光は、柔らかい。


紙の匂いと、外から入る花の匂いが混じっている。


黒い宇宙は、遠い。


リュールの白い糸も、今は少し静かだった。


消えたわけではない。


けれど、別の温かさがそばにある。


そのことが、怖さを少しだけ薄くしている。


マーリンは資料へ視線を戻した。


文字の上に、指先を置く。


自分はまだ、何も知らない。


リュールのことも。


自分の魔力のことも。


帝国が何を見ているのかも。


ミハイルのそばで胸が跳ねる理由も。


けれど、知らないことは必ずしも恐ろしいだけではないのかもしれない。


知らないから、知りたいと思う。


怖いから、手を伸ばす。


名前がないから、今はまだ守れる。


そう思うと、少しだけ息がしやすくなった。


庭園の白い花が、風に揺れている。


図書室を出た頃には、光が少し傾いていた。


マーリンはミハイルと並んで歩く。


クリスチーナは一歩後ろで、二人を見守っている。


手元の本は、少し軽い。


怖さも、少しだけ軽い。


けれど胸の奥には、別の重さが生まれていた。


嫌ではない。


苦しくもある。


けれど、手放したくはない。


マーリンはまだ、その名前を知らない。


ミハイルも、たぶん知らないふりをしている。


二人は何も言わず、同じ歩幅で回廊を進んだ。


白い花壇のそばを通る時、マーリンはほんの少しだけ足を緩める。


リュールの白ではない。


医務室の白でもない。


ただ、花の白。


風に揺れ、光を受け、そこに咲いている白だった。


マーリンは、その白を見てから隣を見た。


ミハイルは何も言わない。


けれど、歩幅はきちんと緩んでいた。


それだけのことが、胸の奥に残る。


名前のない想いは、まだ名前のないまま。


でも確かに、そこにあった。


怖さの隣に。


安堵の隣に。


白い糸よりも深い場所に。


マーリンは、その小さな重さを抱えたまま歩いた。


まだ誰にも見つからないように。


自分でも、急いで名づけてしまわないように。


ただ、今だけは。


同じ歩幅で進むこの時間を、失くしたくないと思った。

ここまでお読みいただき有り難うございました。


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