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見覚えのない少女

ご覧いただきありがとうございます。

新入生代表の宣誓を終えて壇上を降りた時、シュヴァルベ=ユンカースは、ほんの少しだけ息をついた。


本当に、ほんの少しだけ。


胸の奥に溜まっていた空気を、誰にも気づかれない程度に逃がす。


歩幅は変えない。


背筋も緩めない。


表情も崩さない。


シュヴァルベはユンカース侯爵家の令嬢として、王立宇宙軍士官学校の新入生代表として、式典の場で安堵を見せるわけにはいかなかった。


失敗したわけではない。


言葉も詰まらなかった。


礼も乱れなかった。


視線も、声も、すべて整えた。


だから問題はない。


問題はないのだから、疲れる必要もない。


こんなことで疲れていては、ユンカースの名に相応しくない。


シュヴァルベは自分にそう言い聞かせ、静かに席へ戻った。


会場の空気が、彼女の背中にまとわりついている。


抑えられた称賛。


小さな感嘆。


誰かの囁き。


「さすがユンカース様」


「本当にお美しいわ」


「新入生代表に相応しい方ね」


その声は、聞こえている。


聞こえていないふりをするだけだ。


賞賛を拒むのは傲慢。


賞賛に溺れるのは未熟。


ならば、受け取る。


当然のものとしてではなく、与えられた役目の一部として。


シュヴァルベは席へ戻り、軽く頭を下げた。


周囲にいた高位貴族の令嬢たちが、柔らかな笑みを向けてくる。


その中でも、特に華やかな少女が一歩近づいた。


ルイーゼ=ハインケル。


ハインケル侯爵家の令嬢。


淡い金の髪を飾る髪留めも、制服の着こなしも、どこか鮮やかだった。


同じ濃紺の制服を着ていても、彼女は自分の色を隠さない。


「素晴らしいご挨拶でしたわ、シュヴァルベ様」


ルイーゼは微笑んだ。


「ありがとう、ルイーゼ。けれど、学園の代表として当然のことをしただけよ」


「その当然が難しいのですわ」


周囲の令嬢たちも頷く。


「本当に」


「お声もよく通っていらして」


「学長も満足そうなお顔でした」


言葉が重なっていく。


好意。


敬意。


期待。


それらは柔らかい絹のように見えて、時々、鎖のようにも感じられる。


だが、そんなことを顔に出すことはない。


シュヴァルベは穏やかに微笑んだ。


「皆さんも、長い式典でお疲れでしょう。午後の予定に備えた方がいいわ」


「シュヴァルベ様は、本日の検査は?」


令嬢の一人が尋ねた。


「私は済ませているわ。家で事前に」


ユンカース家をはじめとした高位貴族の子女は、入学前に専門の測定を受けている。


身体測定。


魔力測定。


基礎適性。


学園側へ正式な記録も提出済みだ。


もちろん、入学後にも改めて詳細な訓練や確認はある。


けれど今日、下級貴族や地方出身の新入生たちと同じ列に並ぶ必要はなかった。


それは特別扱いではない。


家格に応じた準備の差であり、責務の差でもある。


そう教えられてきた。


シュヴァルベも、それを疑わない。


貴族社会は平等ではない。


平等ではないからこそ、上に立つ者は、より正しくあらねばならない。


ユンカースの者として。


貴族筆頭家の令嬢として。


皆の前に立つならば、相応しい姿でいなければならない。


疲れてはいない。


疲れたと思ってはいけない。


シュヴァルベは胸の奥に残る小さな重さを、静かに押し込めた。



式典後、シュヴァルベたちは学園職員に案内され、測定棟の近くへ移動した。


直接検査を受ける必要はない。


だが、高位貴族の生徒にも確認書類の提出や、後日の訓練区分に関する説明がある。


新入生の流れは、身分や事前測定の有無によっていくつかに分けられていた。


廊下の向こうでは、多くの新入生が順番を待っている。


緊張した顔。


興味深そうな顔。


自信を隠さない顔。


自分の数値がどう出るかを楽しみにしている者もいれば、不安げに手を握っている者もいる。


シュヴァルベはそれを自然に見渡した。


新入生の水準を見ることも、無駄ではない。


同じ学年。


いずれ訓練で隊を組む者もいる。


貴族であれ、選抜された平民であれ、戦場に近づく以上、適性は軽く見られない。


特に、人形使いの適性は。


人形は誰でも動かせるものではない。


魔力量。


制御。


反応速度。


空間認識。


そして、魔力の糸を通す感覚。


訓練で伸ばせる部分もある。


だが、最初から持っているものもある。


持っている者と持っていない者では、初めの一歩から違う。


残酷だが、そういうものだ。


シュヴァルベ自身は、それを早くから知っていた。


自分が恵まれていることも。


期待されていることも。


その期待に応えなければならないことも。


「こちらですわ、シュヴァルベ様」


ルイーゼが隣で声をかける。


「後日の訓練班説明は、あちらの部屋だそうです」


「ええ」


シュヴァルベは頷いた。


だが、その時だった。


測定室の一つから、わずかに空気が変わるのを感じた。


声が聞こえたわけではない。


大きな音がしたわけでもない。


ただ、検査員の動きが止まった。


廊下を歩いていた職員が一瞬だけそちらを見る。


室内にいた別の測定員が、端末を覗き込む。


表情が硬い。


何かが起きた。


そう感じた。


シュヴァルベは足を止めた。


「シュヴァルベ様?」


ルイーゼが不思議そうに振り返る。


「……少し待って」


言ってから、シュヴァルベは自分の声が思ったより低かったことに気づいた。


測定室の扉は開いている。


中が少し見えた。


検査されているのは、一人の少女だった。


茶色い髪。


小柄な体。


濃紺の制服に、まだ少し着られているような印象。


下級貴族の令嬢だろう。


制服は正しく着ているが、華やかな装飾はない。


付き添いもいない。


荷物の少なさや、立ち方の控えめさから見て、家格は高くないはずだった。


気にする必要はない。


そう判断するべきだった。


測定室で数値が少し乱れることは珍しくない。


緊張で魔力が揺れる新入生もいる。


制御が未熟な者もいる。


検査員が険しい顔をしたからといって、それが特別な異常とは限らない。


シュヴァルベが立ち止まる理由はなかった。


それなのに。


少女が顔を上げた瞬間、シュヴァルベは息を忘れた。


整った顔立ちだった。


貴族令嬢として磨かれた華やかさではない。


飾られていない。


むしろ、本人が自分の顔をどう扱っていいのかわかっていないような、頼りなさがあった。


淡い色の瞳。


少し慌てた表情。


叱られる前の子どものように、小さく肩を縮めている。


その顔を見た瞬間、胸が苦しくなった。


理由は、わからない。


痛みに近い。


けれど嫌悪ではない。


懐かしさに似ている。


しかし、懐かしいはずがない。


シュヴァルベは、その少女を知らない。


会ったこともない。


名前すら知らない。


それなのに、胸の奥が締めつけられる。


見つけた。


そんな言葉が、どこか深い場所で形になりかけた。


誰を。


何を。


何のために。


わからない。


わからないまま、目だけが離せなかった。


少女は測定板から手を離し、測定員に何かを聞かれていた。


小さくなりながら答えている。


遠くて声は聞こえない。


だが、表情は見えた。


困ったように。


怯えたように。


それでも、何とか笑おうとしている。


その笑い方に、シュヴァルベの胸がさらに苦しくなった。


なぜ、そんな顔をするの。


言葉にならない問いが浮かぶ。


けれど問いかける相手が誰なのか、シュヴァルベ自身にもわからなかった。


「シュヴァルベ様、どうかなさいましたか?」


ルイーゼの声で、シュヴァルベははっとした。


視線を外す。


一拍遅れて、自分が周囲から見られていることに気づいた。


いけない。


侯爵令嬢が、見知らぬ下級貴族の少女に目を奪われるなど、不自然だ。


まして、理由もなく立ち止まるなど。


シュヴァルベはすぐに表情を整えた。


いつものように。


穏やかに。


揺れのない微笑みを作る。


「なんでもないわ」


声も整っていた。


少なくとも、そう聞こえたはずだ。


ルイーゼは少しだけ首を傾げた。


「そうですの?」


「ええ。検査室の様子が少し気になっただけ」


「新入生の測定ですものね。緊張で失敗する方も多いでしょうし」


ルイーゼは軽く笑った。


悪意というほどではない。


ただ、自分たちとは違う場所にいる者を見る時の、自然な軽さだった。


「下位の家では、事前測定も十分ではないでしょうから」


「ルイーゼ」


シュヴァルベは静かに名を呼んだ。


強くはない。


だが、ルイーゼはすぐに口を閉じた。


「失礼いたしました」


「測定は誰にとっても緊張するものよ」


「ええ。おっしゃる通りですわ」


ルイーゼは素直に微笑んだ。


周囲の令嬢たちも、それ以上は何も言わなかった。


シュヴァルベは再び歩き出そうとした。


しかし、足がすぐには動かなかった。


もう一度だけ。


もう一度だけ、あの少女を見たい。


そんな衝動があった。


理由はない。


理由がないからこそ、不快だった。


自分の感情が、自分のものではないような気がする。


それはシュヴァルベにとって、ひどく落ち着かない感覚だった。


彼女は常に、自分を律してきた。


怒りも、不安も、喜びも、誇りも、すべてあるべき形に整える。


貴族令嬢として。


ユンカースの娘として。


弱さを見せない。


迷いを晒さない。


感情に流されない。


それが彼女の正しさだった。


なのに今、その正しさの外側から、何かが胸を叩いている。


あの子を見なさい。


そう言われているような気がした。


次の検査室へ移った少女を、シュヴァルベは廊下の少し離れた場所から見た。


見ようとしていたわけではない。


そう自分に言い訳をした。


説明を受ける部屋へ向かうには、同じ廊下を通る必要があった。


たまたま。


本当に、たまたま。


だが、視線は自然と少女を追っていた。


今度の検査は、適性検査らしい。


扉の上に表示された項目が見えた。


人形操縦基礎適性。


シュヴァルベの目が、わずかに細くなる。


人形。


新入生の多くが、この検査に緊張する。


憧れる者もいる。


恐れる者もいる。


自信を持つ者もいる。


あの少女はどうなのか。


扉の向こうで検査が始まる。


中は完全には見えない。


だが、検査員の様子は廊下からでも少しわかった。


最初は通常通り。


やがて、表情が変わる。


まただ。


測定員が端末を見る。


別の職員が覗き込む。


記録を確認する仕草。


ただの緊張ではない。


シュヴァルベは、その空気を知っていた。


優秀な結果が出た時の空気。


予想外の値が出た時の空気。


そして、扱いに困る結果が出た時の空気。


あの少女は、何を示したのだろう。


追従能力か。


反応速度か。


戦術判断か。


それとも、リンク特性か。


シュヴァルベは自分の手を軽く握った。


人形とのリンクは、才能が出る。


魔力の糸を通す感覚。


人形の四肢へ魔力を巡らせる直感。


理論で説明できても、実際にできるかどうかは別だ。


ユンカース家の者として、シュヴァルベは幼い頃からその訓練を受けてきた。


できて当然。


そう言われる環境で育った。


だからこそ、未訓練の新入生がどの程度の反応を示すかも知っている。


普通は、ぎこちない。


魔力が詰まる。


通り道を間違える。


強く流しすぎる。


弱すぎて反応しない。


それが自然だ。


だが、測定室内の検査員の顔は、そういう自然な困り方ではなかった。


少女が簡易インタフェースを外す姿が見えた。


顔色はよくない。


けれど、魔力切れのような疲労は見えない。


むしろ、怖がっている。


自分の結果に。


自分の手に。


そう見えた。


シュヴァルベの胸が、また痛んだ。


どうして。


なぜ、あの少女が怖がると、自分まで息が詰まるのか。


わからない。


知らない。


関係ない。


そのはずなのに。


少女が検査室から出てきた。


小さな歩幅。


けれど、急いでいる。


逃げるように、というほどではない。


だが、その場に長くいたくないのは明らかだった。


廊下の壁際には、別の令嬢が待っていた。


栗色の髪。


上品だが控えめな雰囲気。


ヒースロー伯爵家の令嬢だったはずだ。


入学式で席が近かったため、名前は記憶している。


セシリア=ヒースロー。


彼女が茶色い髪の少女へ声をかける。


少女は笑った。


小さく。


ぎこちなく。


大丈夫だと伝えるための笑み。


シュヴァルベには、なぜかそう見えた。


あれは、平気な者の笑みではない。


平気だと思われたい者の笑みだ。


その瞳が、かすかに揺れていた。


困惑。


恐れ。


それを押し込めようとする、幼い我慢。


その揺れを見た瞬間、シュヴァルベの指先に力が入った。


守らなければ。


唐突に、そんな思いが浮かんだ。


あまりに唐突で、シュヴァルベ自身が驚いた。


守る?


誰を。


あの少女を。


なぜ。


知らない相手だ。


下級貴族の新入生。


名前もまだ知らない。


何の責任もない。


守る理由などない。


それなのに、その言葉は胸の奥で消えなかった。


守らなければ。


まるで、ずっと前からそう決めていたように。


まるで、一度果たせなかった約束を思い出しかけているように。


シュヴァルベは唇を引き結んだ。


おかしい。


自分らしくない。


感情に根拠がない。


根拠のない感情は、判断を誤らせる。


彼女はそう教えられてきたし、自分でもそう思っている。


貴族として、指揮官を目指す者として、曖昧な衝動に身を任せてはいけない。


「シュヴァルベ様」


再びルイーゼの声がした。


今度は少し心配そうだった。


「やはり、どこかお加減が?」


シュヴァルベはゆっくり息を吸った。


そして、いつもの微笑みを浮かべる。


「問題ないわ」


「ですが」


「少し、人形適性の検査結果が気になっただけよ。優秀な新入生がいるなら、いずれ同じ訓練で顔を合わせるでしょう」


それは嘘ではない。


嘘ではないが、すべてでもない。


ルイーゼは納得したように頷いた。


「なるほど。シュヴァルベ様は本当に真面目でいらっしゃいますわ」


周囲の令嬢たちも微笑む。


「もう次の訓練のことを考えていらっしゃるのですね」


「さすがです」


称賛がまた寄せられる。


シュヴァルベはそれを受け止めた。


当然のように。


正しく。


綺麗に。


けれど胸の奥では、まだあの少女の瞳が揺れていた。


茶色い髪。


整った顔。


小さな肩。


怯えたように笑う口元。


それらが、妙に鮮明に残っている。


忘れようとすればするほど、輪郭が濃くなる。


まるで、一度見失ったものを、ようやく見つけた時のように。


シュヴァルベはその考えをすぐに打ち消した。


見失ってなどいない。


そもそも、あの少女を知らない。


「行きましょう」


シュヴァルベは言った。


「後日の説明に遅れるわけにはいかないわ」


「はい、シュヴァルベ様」


ルイーゼが嬉しそうに応じる。


取り巻きの令嬢たちも、それに続いた。


歩き出す。


背筋を伸ばして。


歩幅を乱さず。


侯爵令嬢として相応しく。


シュヴァルベ=ユンカースは、常に完璧でなければならない。


ユンカースの名を背負う者として。


貴族筆頭家の令嬢として。


新入生代表として。


周囲が望む姿で。


自分が信じる正しさで。


そうでなければならない。


それなのに。


廊下の角を曲がる直前、シュヴァルベは一度だけ振り返った。


茶色い髪の少女は、もう検査室の前にはいなかった。


ヒースロー伯爵家の令嬢と並んで、別の廊下へ向かっている。


小柄な背中。


古い痛みをかばうような、ほんの少し慎重な歩き方。


シュヴァルベはその背中を見送った。


胸の奥が、また静かに痛んだ。


自分の気持ちが理解できなかった。


ただの興味ではない。


ただの同情でもない。


才能ある新入生を見つけたという、指揮官候補としての関心でもない。


もっと深く、もっと厄介で、もっと名をつけにくいもの。


それが、彼女の内側で小さく震えている。


シュヴァルベは手袋の下で指を握った。


今は考えるべきではない。


そう判断する。


判断したはずなのに、胸の奥の違和感は消えなかった。


茶色い髪の少女。


あの揺れる瞳。


もう一度、名前を確認しなければ。


そう思った瞬間、シュヴァルベはまた自分に驚いた。


なぜ、そこまで気にするのか。


答えはなかった。


答えはないまま、彼女は前を向く。


完璧であろうとする少女は、完璧な微笑みを浮かべて歩き続けた。


けれどその日、シュヴァルベ=ユンカースの心の一部だけは、測定棟の廊下に置き去りにされたままだった。

ここまでお読みいただき有り難うございました。

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