表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
74/113

伏せられた白

ご覧いただきありがとうございます。

評価、ブックマークしていただきありがとうございます。

マーリンたちは、ヘルリッヒ学園へ戻された。


校外授業は中止。


研究艦シャルンホルストで起きたことは、宙賊による襲撃事故として処理されることになった。


生徒たちは無事だった。


負傷者は出た。


けれど、命を落とした者はいない。


それは、間違いなく幸いなことだった。


だから学園は、すぐに形を整える。


壊れたものを見せないように。


怯えた声を、礼儀の中へ戻すように。


事故を、事故として置き直すように。


白い医務室から戻ったあとも、マーリンの指先には震えが残っていた。


手袋をはめれば見えない。


袖を整えれば隠れる。


背筋を伸ばせば、誰も気づかない。


髪も、制服も、表情も、クリスチーナの手でいつも通りに整えられている。


鏡の中のマーリンは、少し顔色が白いだけの公爵令嬢だった。


少なくとも、遠目にはそう見える。


「お嬢様。きつくはございませんか」


クリスチーナが、手袋の端を整えながら尋ねた。


「ええ」


マーリンは答える。


すぐに、もう一言を飲み込んだ。


大丈夫よ。


そう言いそうになった。


危なかった。


クリスチーナの指が、一瞬だけ止まる。


聞こえていないはずなのに、聞こえたような止まり方だった。


マーリンは小さく笑う。


「少しだけ、まだ手が変な感じ」


「変な感じ、でございますか」


「ええ。糸が残っているみたいなの」


白い糸。


リュールへ伸びた糸。


黒い宇宙で、離せなかった糸。


もうコクピットにはいない。


全周囲モニターもない。


光のソードもない。


それでも、指の奥に細い感覚だけが残っている。


クリスチーナは何も言わなかった。


ただ、手袋の上からそっと指先を包む。


「では、無理に握られませんように」


「握らないと、震えるの」


「震えてよろしいのです」


すぐに返ってきた言葉に、マーリンは少しだけ目を丸くした。


クリスチーナは顔を上げない。


「少なくとも、私の前では」


マーリンは返事に迷う。


その短い沈黙の間に、控室の外から教師の声が聞こえた。


臨時集会の時間が近づいている。


マーリンは息を整えた。


整えることには慣れている。


どんな気持ちでも、表情は整えられる。


歩く角度も、礼の深さも、声の高さも、全部。


そういうものを、ずっと学んできた。


「行きましょう、クリス」


「はい、お嬢様」


クリスチーナは一歩後ろへ下がる。


けれど、いつもより少しだけ近い。


マーリンはその距離に気づいて、何も言わなかった。


臨時集会は、大講堂で開かれた。


入学式の日と同じ場所。


けれど、空気は違う。


あの日は期待と好奇心と家格の視線が混じっていた。


今は、その下に薄い恐怖がある。


生徒たちは整然と並んでいるが、誰も完全には落ち着いていなかった。小さな声で話す者。黙って床を見ている者。無理に背筋を伸ばしている者。教師に注意されるほどではないが、いつもの学園の静けさとは少し違う。


壇上には教師たちと軍関係者が並んでいた。


その中に、メッサーシュミットの姿もある。


銀灰色の髪。


鋭い目。


軍服の皺ひとつない立ち姿。


シャルンホルストの格納区画で見た赤い非常灯の下の顔とは違う。けれど、視線の冷たさは変わっていなかった。


ブライアンは生徒会長として、壇下の列を整えていた。


生徒の間隔。


教師の導線。


軍関係者への礼。


乱れた空気を、ひとつずつ正しい位置へ戻していく。


その姿は、いつものブライアンだった。


落ち着いている。


正しい。


整っている。


マーリンは、その少し後ろの列に立っていた。


いつものように背筋を伸ばす。


制服も髪も整えられている。


顔色は少し白いが、遠くから見れば分からない。


指先の震えも、手袋の下に隠れている。


クリスチーナだけが、それを知っている。


ミハイルも、少し離れた場所からマーリンを見ていた。


公の場だから、近づきすぎない。


けれど、その目はずっと彼女から離れない。


黒い髪。


深い海の底のような蒼い瞳。


その視線は、壇上ではなく、教師でもなく、マーリンの手元を見ている。


マーリンは少しだけ困った。


見つけられている。


今は隠しているのに。


ちゃんと笑っているのに。


けれど、その困り方は嫌ではなかった。


集会が始まる。


学園長の言葉は穏やかだった。


危険な状況であったこと。


生徒たちが冷静に避難したこと。


教師と生徒会が協力し、大きな混乱を防いだこと。


そして、帝国宇宙軍の迅速な対応により全員が保護されたこと。


言葉は、よく磨かれていた。


怖さを削り、不安を整え、聞く者が受け止めやすい形にしている。


それは間違いではない。


大講堂にいる生徒たちは、まだ怯えている。


その前で赤い非常灯や黒い宇宙や、格納区画の白い人形のことを語る必要はない。


必要はない。


そう思うのに、胸の奥が少しだけ冷えた。


語られないものは、なかったものに似ていく。


次に軍関係者が短く説明した。


宙賊による突発的襲撃。


護衛隊の応戦。


研究艦の安全確保。


生徒たちの保護。


整った言葉が並ぶ。


そこにも、リュールの名はない。


白い人形のこともない。


マーリンが試作機へ乗ったことも、黒い宇宙へ出たことも、宙賊機の射線を塞いだことも、護衛機を支援したことも語られない。


急加速に胸を潰され、急旋回に吐き気をこらえ、震える手で白い糸を握っていたことも。


ない。


どこにもない。


教師が壇上で言った。


「混乱の中で、ロイス嬢は下級生たちを励まし、避難中も周囲の冷静さを保つ一助となりました。また、格納区画での待機中も、令嬢として模範的な振る舞いを示し、生徒たちの不安を和らげました」


間違いではない。


完全な嘘でもない。


マーリンは、確かに避難の時に声をかけた。


格納区画でも、泣き出しそうな生徒へ目を向けた。


でも、大事な白い部分だけが伏せられている。


白い人形。


白い糸。


白い恐怖。


その白だけが、講堂の空気から抜き取られていた。


「ロイス嬢」


教師が名前を呼ぶ。


マーリンは一歩前へ出た。


大講堂の視線が集まる。


入学式の日と同じ。


あの日も、ここで拍手を受けた。


希望の花として。


今も、同じように見られている。


マーリンは壇上へ向かい、礼をした。


拍手が起きる。


音が大きい。


大きすぎる。


黒い宇宙では音が届かなかった。


爆発も、火線も、護衛機が落ちる光も、音を持たなかった。


なのに、今は拍手の音だけがこんなに近い。


マーリンは微笑む。


「身に余るお言葉です。皆様がご無事で、本当に何よりでした」


正しい言葉だった。


綺麗に言えた。


声も震えなかった。


だから周囲は安心する。


ロイス家の令嬢は、やはり立派だ。


あれほどの事故のあとでも、少しも取り乱さない。


帝国の希望にふさわしい。


そんな空気が、大講堂に広がっていく。


マーリンは、笑顔のまま息をする。


また整った。


また、誰も安心できる顔になった。


拍手の中で、アンネリーゼがこちらを見ていた。


蜂蜜を薄く溶かしたような金の髪。


美しく整えられた姿勢。


けれど、その目にはいつもの棘だけではないものがある。


妬み。


悔しさ。


そして、ほんのわずかな怯え。


彼女は見ていた。


格納区画で、白い人形を。


マーリンがそれに近づいたことを。


周囲の視線が、マーリンへ向いた瞬間を。


たぶん、すべてではない。


けれど、何かを見てしまった目だった。


マーリンはその視線に気づく。


けれど、何も言えない。


自分でも、自分が何をしたのか分からないのだから。


集会が終わると、生徒たちは教室へ戻される。


表向きの話は終わった。


けれど、マーリンには別の呼び出しがあった。


学園本館の応接室は、静かだった。


大講堂からは少し離れている。


厚い扉と絨毯が、外のざわめきを吸い込んでいた。壁には古い帝国旗と学園創設者の肖像が飾られ、窓の外には中庭が見える。


華やかだが、逃げ場の少ない部屋だった。


そこには、メッサーシュミット、学園側の上級教師、そしてブライアンがいた。


ブライアンは生徒会長として同席を許されている。


ミハイルも同席を求めたが、最初は断られた。


廊下で、低い声のやり取りがあった。


マーリンには内容までは聞こえない。


けれど、引く気のない声だということは分かった。


やがて、ミハイルはルフトハンザ家の名と、上級生補助として現場にいた立場を出し、ようやく部屋の端に立つことを許された。


その顔は、笑っていない。


クリスチーナはマーリンの後ろに控える。


一歩後ろ。


いつもの距離より、少し近い。


メッサーシュミットは、端末を卓上へ置いた。


「ロイス嬢。こちらで確認する内容は、すべて軍機に属します」


静かな声だった。


「はい」


マーリンは答える。


「試作一号機に関する一切。NewEra計画の表示。機体呼称リュール。あなたの搭乗。起動方法。戦闘時の詳細。これらはすべて口外禁止です」


リュール。


その名が、軍人の口から出た。


マーリンの胸の奥で、白い糸が小さく震えた気がした。


自分がつけた名前。


あの白い人形へ、初めて渡した名前。


それが、もう軍の端末の中にある。


少しだけ、嫌だった。


「生徒たちには、避難経路閉鎖に伴い、一時的に格納区画へ入ったと説明されます。目撃した機材については、軍用機材と認識するに留めること。白い人形の形状、呼称、起動状態について語ってはなりません」


マーリンは黙って聞く。


自分が乗ったもの。


自分の糸が触れたもの。


自分の身体にまだ震えを残しているもの。


それが、言葉の上で消されていく。


なかったことにはならない。


けれど、言ってはいけないことになる。


学園側の上級教師がうなずく。


「生徒たちの混乱を避けるためにも、その方針で統一いたします」


ブライアンも静かに話を聞いている。


彼は反論しない。


むしろ、必要な措置だと理解している顔だった。


「学園内の混乱を避けるためにも、妥当な処置かと存じます」


その言葉は正しい。


マーリンは、胸の奥が少し冷える。


正しい。


また正しい。


ミハイルが低く言った。


「ロイス嬢の負担については、どのように扱われるのですか」


メッサーシュミットが彼を見る。


「軍医の診断上、急性の魔力消耗と戦闘機動による身体負荷は確認されています。休息は許可されています」


「許可、ですか」


ミハイルの声が硬くなる。


「彼女は生徒です。軍人ではありません」


「承知しています」


「承知しているなら、これ以上関わらせるべきではない」


部屋の空気が張った。


マーリンは反射的に口を開きかける。


大丈夫です、と言いそうになる。


けれど、言わなかった。


クリスチーナの手が、後ろでそっと袖に触れたからだ。


止めるというより、思い出させるように。


大丈夫ではなかった。


急加速も。


急旋回も。


吐き気も。


白い糸が切れそうになる感覚も。


全部、まだ身体に残っている。


メッサーシュミットは答える。


「今回の件は、現時点では例外的事案として処理されます」


現時点では。


その言葉を、マーリンは聞き逃さなかった。


ブライアンも聞き逃していない。


ミハイルも。


クリスチーナも。


メッサーシュミットは続ける。


「ただし、ロイス嬢の適合性は極めて重要です。今後、追加確認が求められる可能性があります」


追加確認。


それは、また乗るかもしれないという意味だった。


マーリンの指先が震える。


手袋の下。


机の陰。


誰にも見えない場所で。


クリスチーナだけが気づく。


ミハイルも気づく。


だが、メッサーシュミットの視線はマーリンの手ではなく、彼女の経歴と適合性を見ている。


ブライアンの視線もまた、事件の意味と学園への影響を測っている。


「追加確認とは、具体的に」


ミハイルが言う。


「現時点で詳細は未定です」


「未定なら、求めないと明言してください」


「それはできません」


「では、承知しているとは言えない」


メッサーシュミットの目が細くなる。


「ルフトハンザ様。これは帝国軍の判断です」


「だから問題だと言っています」


その声は低い。


怒鳴らない。


けれど、明らかに怒っていた。


マーリンは、胸の奥が苦しくなる。


止めたくなる。


場を整えたくなる。


大丈夫です。


私は平気です。


そう言えば、この張りつめた空気は少しだけ和らぐかもしれない。


けれど、それを言ったらまた自分の震えが消える。


伏せられる。


マーリンは唇を閉じたまま、膝の上の手を握った。


ミハイルが、ほんのわずかにこちらを見る。


見つけられた。


また。


ブライアンが静かに口を開く。


「ミハイル。ロイス嬢の負担を軽視すべきではないというご意見は理解します。ですが、リュールに関する情報が無秩序に広まれば、ロイス嬢ご本人の立場も危うくなります」


「だから隠すと?」


「守るために伏せることもあります」


正しい。


とても正しい。


けれど、マーリンはその正しさの中に、自分の居場所が少ないことを感じた。


守るため。


混乱を避けるため。


軍機を保つため。


学園の秩序のため。


帝国のため。


どれも間違ってはいない。


その全部の間で、マーリンの吐き気や震えだけが、小さなものとして横へ寄せられていく。


マーリンは、ようやく分かる。


帝国は、自分が怖かったことを見ていない。


震えも、吐き気も、眠れないほど残った黒い宇宙の冷たさも。


見ているのは、リュールが動いたこと。


白い人形が、マーリンの糸に応えたこと。


そしてそれが、使えるかもしれないということ。


マーリンはゆっくり息を吸った。


「承知いたしました」


声は整っていた。


「リュールの件は、口外いたしません」


メッサーシュミットが頷く。


「ご理解に感謝します、ロイス嬢」


理解。


その言葉が、少し苦い。


理解したわけではない。


納得したわけでもない。


ただ、そう答えるしかない場所に立っているだけだ。


応接室を出ると、廊下は静かだった。


集会のざわめきは遠い。


大講堂の拍手も、もう聞こえない。


窓から差し込む光は穏やかで、中庭の白い花が風に揺れている。


校外授業の前なら、きっと綺麗だと思えた。


今は、白いものを見ると少しだけ息が詰まる。


マーリンはそこで、少しだけ立ち止まった。


ミハイルが近づく。


「マーリン嬢」


公の場の呼び方。


けれど声は、ひどく近い。


マーリンは顔を上げる。


「……怒っているの?」


「怒っている」


即答だった。


マーリンは少しだけ困ったように笑う。


「私に?」


「君以外に」


その言い方があまりにミハイルらしくて、マーリンはほんの少しだけ笑ってしまう。


笑えた。


それが不思議だった。


「ブライアン様にも?」


「少し」


「少しなのね」


「彼の言ったことにも理はある。だから余計に腹が立つ」


マーリンは目を伏せる。


ミハイルは続けた。


「君のためだと言いながら、君の怖さは後回しにされる」


その言葉に、胸の奥が揺れた。


見えていたのだ。


やっぱり。


「……私、ちゃんと答えられていたかしら」


「答えすぎだ」


「そう?」


「そうだ」


ミハイルは短く言う。


「君は、怖い時ほど整う」


マーリンは返せなかった。


クリスチーナがそっとコップを差し出す。


「お嬢様」


「ありがとう、クリス」


受け取る手は、まだ震えていた。


ミハイルの視線がそこへ落ちる。


クリスチーナも何も言わず、その震えを隠すようにマーリンの手元へ布を添えた。


マーリンは、もう「大丈夫」とは言わなかった。


代わりに、小さく息を吐く。


「少し、疲れたわ」


それだけだった。


けれどミハイルは頷く。


クリスチーナも、静かに目を伏せる。


言えた。


ほんの少しだけ。


大講堂では言えなかったこと。


応接室でも言えなかったこと。


二人の前でだけ、ようやく言えた。


「休め」


ミハイルが言う。


「今度は命令?」


「願いだ」


さっきと同じ言葉だった。


マーリンは小さく笑う。


「では、聞くわ」


「珍しい」


「失礼ね」


そう返した声は、少しだけ軽かった。


軽い声を出せたことに、マーリン自身が驚く。


けれど、胸の奥にはまだ黒い宇宙が残っている。


白い糸も。


光のソードの重さも。


使った魔力が戻らない空洞も。


消えてはいない。


ただ、今だけは二人が見てくれている。


それだけで、少し呼吸がしやすかった。


遠くで、生徒たちの声がする。


表向きには、事件は終わった。


マーリンは避難誘導に貢献した立派な令嬢として称えられた。


白い人形のことは伏せられた。


けれど、終わっていない。


マーリンの中には、まだ白い糸が残っている。


リュールへ伸びた感覚が、指先の奥で眠っている。


眠っているだけだ。


消えたわけではない。


学園の掲示板には、臨時集会での表彰内容だけが掲示された。


宙賊襲撃に際する冷静な避難協力。


ロイス嬢をはじめとする生徒会関係者の功績。


学園の秩序と品位を守った模範的行動。


そこに、リュールの名はない。


NewEraの名もない。


白い人形も、白い糸もない。


伏せられた白は、帝国軍の奥へ運ばれていく。


マーリンは掲示を見上げた。


周囲からは、また称賛の声が向けられる。


希望の花にふさわしい、と。


マーリンは微笑む。


指先の震えを、手袋の中に隠したまま。

ここまでお読みいただき有り難うございました。

面白いと思っていただけましたら、ご評価、ブックマークをお願いいたします。


ご意見、感想もお待ちしています。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ