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記録されない震え

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評価、ブックマークしていただきありがとうございます。

シャルンホルストは、救援に来た帝国軍の護衛艦に守られながら、最寄りの軍事ステーションへ入った。


宇宙は、もう静かだった。


黒い影は遠ざかり、警告音も止んでいる。


護衛艦の灯が規則正しく並び、損傷した研究艦をゆっくりと誘導していく。外から見れば、それは落ち着いた帰港だったのかもしれない。


けれど、艦内に残っていた空気は違った。


焦げた配線の匂い。


非常灯の赤。


小さく泣く生徒の声。


教師たちは軍への説明に追われ、生徒たちは順番に保護区画へ移されていった。誰も大きな怪我はしていない。そう確認されるたびに、誰かがほっと息を吐く。


その息が、また誰かの泣き声を誘った。


マーリンは、そこにうまく戻れなかった。


リュールのコクピットから降りた。


クリスチーナの手に支えられた。


ミハイルに叱られた。


医療班に引き渡された。


耐Gスーツのまま搬送艇に乗せられ、軍事ステーションへ移された。


出来事は順番に進んでいる。


それなのに、身体だけがまだ黒い宇宙に置き去りにされているようだった。


白い糸が、指先の奥に残っている。


リュールへ伸びた糸。


黒い宇宙へ伸びた糸。


誰かを守るために、離せなかった糸。


もうリンクは切れている。


コクピットにもいない。


全周囲モニターも、赤い警告表示もない。


けれど、目を閉じると、まだ敵影の赤い点が浮かんだ。


光のソードが黒い宇宙を裂く。


急旋回で胃が持ち上がる。


肩をかすめた衝撃が、自分の身体の痛みみたいに返ってくる。


もう終わったはずなのに。


終わった場所に、身体が追いつかない。


搬送艇の座席に固定されている間も、マーリンは何度か指を握った。


震えを止めるためだった。


けれど、握るたびに糸の感覚が強くなる。


リュールの腕。


リュールの肩。


リュールの背中。


あの白い機体の輪郭が、まだ自分の身体の外側にもう一つあるようだった。


「お嬢様。気分は」


クリスチーナの声がすぐ横からした。


マーリンは答えようとして、少しだけ息を整える。


「……あまり、よくないわ」


大丈夫とは言わなかった。


言わなかっただけで、クリスチーナの眉がわずかに下がる。


「医務室に着きましたら、すぐに軍医へお伝えいたします」


「ええ」


短く答える。


それ以上話すと、喉の奥の気持ち悪さが戻ってきそうだった。


搬送艇の小さな窓から、軍事ステーションの外壁が見えた。


灰色の装甲。


無数の接続口。


慌ただしく動く作業艇。


学園でも、社交場でも、展望区画でもない。


完全に軍の場所だった。


そこへ連れていかれる。


保護されているのだと分かっている。


それなのに、胸の奥が少しだけ硬くなる。


戦場は終わった。


けれど、別のものが始まっている気がした。


軍事ステーションの医務室は、白かった。


壁も、床も、寝台も、検査機器も、すべてが清潔で、冷たい。


マーリンは白い寝台に座らされていた。


耐Gスーツは脱がされ、校外授業用の式服も一部が緩められている。手首、首元、こめかみに簡易検査用の端子がつけられていた。規則的な電子音が、すぐそばで鳴っている。


指先が震えていた。


止めようとすると、余計に震える。


膝の上で手を重ねても、細かな震えは布越しに伝わってきた。握り込むと、白い糸の感覚がまだ手の奥に残っている気がする。


気持ち悪い。


そう思うのに、吐けない。


吐いた方が楽になるのかもしれない。


けれど、吐くことさえ体面に悪い気がして、身体が勝手に耐えてしまう。


おかしな身体だった。


危ない時は勝手に前へ出る。


怖い時は笑おうとする。


吐きそうな時は、我慢する。


誰がそんなふうに教えたのだろう。


少なくとも、リュールではない。


「お嬢様、お水を」


クリスチーナは傍らにいた。


侍女として整った顔をしている。


髪も乱れていない。


声も静かだった。


けれど、目だけはずっとマーリンの指先を見ている。


マーリンは差し出されたコップを受け取ろうとした。


指が震えた。


水面が、小さく揺れる。


クリスチーナがすぐに手を添えた。


「私が」


「ありがとう、クリス」


コップを支えられながら、一口飲む。


水はひどく冷たかった。


喉を通る冷たさが、黒い宇宙の冷たさと少しだけ似ていて、マーリンは思わず目を伏せる。


「お嬢様」


「大丈夫……」


言いかけて、止まった。


クリスチーナの顔が、ほんの少しだけ強張る。


マーリンは小さく息を吸った。


「まだ、少し気持ち悪いだけよ」


「それを、大丈夫とは申しません」


「そうね」


素直に頷くと、クリスチーナがかえって痛そうな顔をした。


そんな顔をさせたかったわけではない。


けれど、大丈夫と笑えば、もっと痛い顔をさせたのだろう。


難しい。


戦場より、こちらの方が難しい気がした。


そこへ、医務室の扉が開いた。


白衣の軍医。


端末を持つ聴取官。


そして、軍服の男が入ってくる。


鋭い目。


銀灰色の髪。


シャルンホルストの軍責任者。


「ロイス嬢」


メッサーシュミットは、まず礼をした。


その所作は正しい。


だが、彼の視線はマーリンの顔色に長く留まらなかった。


一瞥。


それだけ。


すぐに端末へ落ちる。


「短時間で結構です。試作一号機、機体呼称リュールの起動時の状況を確認します」


丁寧な言い方だった。


無礼ではない。


責めてもいない。


それでもマーリンは、背筋を伸ばしてしまう。


「はい」


声は細かった。


けれど、返事は整った。


それだけで、医務室の空気が少し変わる。


ロイス家の令嬢。


希望の花。


戦場から戻った少女ではなく、質問に答えられる貴族の娘。


その役割の方が、この場では扱いやすいのだろう。


マーリンは、それに自分から座ってしまった。


「最初に魔力の糸が伸びた感覚はありましたか」


聴取官が尋ねる。


「はい。格納区画にいた時点で、指先の奥から伸びるような感覚がありました」


「意識的に伸ばしましたか」


「いいえ」


「操縦席に入る前から、機体側に反応があったのですね」


「はい」


端末に記録される。


短い音。


マーリンの言葉が、項目へ変わっていく。


「リンク時に痛みは」


「痛みというより、引かれる感覚でした。手からではなく、胸の奥から」


「魔力消耗の自覚は」


「ありました。光のソードを展開した時に、特に」


「通常の物理ソードではなく、試作型の光学ソードです。魔力消費は大きい。展開直後、意識に混濁はありましたか」


「いいえ。ただ、吐き気が」


軍医が端末に視線を落とす。


「急加速、急旋回による負荷と魔力消耗の複合反応でしょう」


複合反応。


言葉はきれいに整理される。


吐き気。


胸の苦しさ。


指先の痛み。


それらは、整理されれば怖くないものに見える。


マーリンは膝の上の手を見た。


まだ震えている。


「NewEraの表示は認識しましたか」


メッサーシュミットが言う。


「はい」


「表示内容を覚えていますか」


「NewEra計画試作一号機。操縦者登録、未確定。魔力波形、照合完了。接続確立。それから、機体呼称が未登録でした」


「機体呼称リュールは、あなたが入力したものですか」


「……はい」


「理由は」


マーリンは一瞬、答えに迷った。


白かったから。


光みたいだったから。


番号だけで呼びたくなかったから。


あの子、と思ってしまったから。


そのまま言えば、きっと幼い。


けれど嘘をつく気力もなかった。


「光のように見えたからです」


聴取官の指が止まる。


メッサーシュミットも、わずかに目を細めた。


「光」


「はい」


「戦闘機体に対する印象としては、少々詩的ですね」


責めてはいない。


笑ってもいない。


ただ、記録に困るような声だった。


マーリンは少しだけ微笑んだ。


「申し訳ございません。正式な理由としては、不十分かと存じます」


「いえ。入力者の心理状態として記録します」


心理状態。


その言葉が、少しだけ嫌だった。


今この場で、初めて心が記録された。


けれど、それは震えではない。


恐怖でもない。


機体に名前をつけた理由だけだった。


質問は続いた。


全周囲モニターの展開に遅延はあったか。


視界の酔いはどの程度だったか。


ソードへの反応速度はどうだったか。


護衛機との連携は意図したものか。


敵機の進路をどう判断したか。


損傷部への攻撃を、なぜ管制より先に察知したのか。


マーリンは答える。


分かる範囲で。


令嬢らしく。


混乱していないように。


「敵機の動きが、艦尾側へ流れるように見えました」


「表示より先に?」


「はい」


「予測ですか」


「たぶん」


「たぶん、では記録できません」


聴取官の声に、少しだけ硬さが混じる。


マーリンは指先を握った。


「では、感覚です」


「感覚」


さらに困ったような沈黙。


マーリンは、少し申し訳なくなった。


まるで、席次表の理由を聞かれて、なんとなくこちらがよいと思いました、と答えているみたいだった。


けれど本当に、そうなのだ。


赤い点が動く。


線が浮かぶ。


そこへ行くと、身体の奥が告げる。


それを何と呼べばいいのか、マーリンは知らない。


「白い線が見えた気がしました」


医務室が、少し静かになる。


「白い線」


「実際の表示ではありません。けれど、どこへ入れば射線をずらせるか、線のように見えたのです」


聴取官が端末へ入力する。


メッサーシュミットは表情を変えない。


けれど、視線だけが少し鋭くなった。


「ロイス嬢。あなたは人形の操縦訓練を受けたことは」


「ありません」


「模擬操縦は」


「ありません」


「魔力糸の制御訓練は」


「学園の一般授業の範囲のみです」


「戦術教育は」


「貴族子女としての軍務理解程度です。実戦を想定したものではありません」


分かっていたはずなのに、答えるたびに寒くなった。


自分は何も知らない。


知らないまま、リュールに乗った。


知らないまま、戦場へ出た。


知らないまま、敵の射線をずらした。


怖い。


今さら、怖い。


「にもかかわらず、リュールは反応した」


メッサーシュミットが言った。


「初回リンクで、あの機体はあなたの魔力波形を受け入れた。接続率は通常の適合試験を大きく超えています。光のソード展開時の出力も、未訓練者としては異常です」


異常。


その言葉が、医務室の白い壁に小さく跳ねた。


マーリンは自分の手を見る。


この手から、勝手に糸が伸びた。


自分でも知らない力が、リュールへ届いた。


それが何なのか、分からない。


ただ、分からないものを分からないまま評価されていることが、ひどく怖かった。


「私は……」


言いかけて、止まる。


何を言うつもりだったのか、自分でも形にならない。


怖かった。


もう乗りたくない。


なぜ私なのか分からない。


リュールは悪くない気がする。


でも、リュールに乗った自分が自分ではないみたいで怖い。


言葉はどれも医務室の床に落ちる前に消えた。


代わりに、マーリンは微笑む。


「皆様がご無事で、何よりです」


正しい言葉だった。


言った瞬間、クリスチーナの顔がわずかに歪んだ。


その微笑みが、いつもの「大丈夫」に似ていたからだ。


聴取官は気づかない。


軍医も、数値を見ている。


メッサーシュミットは、マーリンの答えを受けてうなずいた。


「あなたの判断で、シャルンホルストは救われました」


褒め言葉だった。


マーリンは礼をする。


「恐れ入ります」


声は整っていた。


膝の上の手は、まだ震えている。


「リュールは、これまで誰にも応じなかった。あなたの魔力波形と接続経路は極めて特異です」


特異。


異常より少し丁寧で、少し冷たい言葉だった。


クリスチーナが一歩だけ前へ出る。


「お嬢様は、休息が必要です」


静かな声だった。


聴取官が顔を上げる。


「もちろんです。必要事項が終わり次第、休んでいただきます」


必要事項。


その言葉が、医務室の白い壁に落ちる。


マーリンは何も言わなかった。


必要なこと。


そう言われると、断る場所がなくなる。


生徒会室の書類と似ている。


来賓の席次。


挨拶文。


導線。


全部、必要なことだった。


小さくて、軽くて、断るほどではなくて。


それらが積もると、重くなった。


今は、もっと重い。


命がかかっていた。


艦が救われた。


だから、記録も必要だ。


聴取も必要だ。


分かっている。


分かっているから、逃げ道が消える。


ミハイルは医務室の外にいた。


扉越しに声は聞こえない。


けれど、入室を許されずに待っていることは分かる。


時折、廊下の向こうで低い声が動いた。


軍人の声。


それに返す、抑えた声。


怒鳴ってはいない。


だが、マーリンには分かる。


彼は怒っている。


静かに、深く、逃がさない形で怒っている。


もし彼がここにいたら、きっとまず顔色を見ただろう。


大丈夫か、と聞いてくれたかもしれない。


怖かったか、と聞いてくれたかもしれない。


無理をするなと、また言ったかもしれない。


それから、医務室にいる人たちへ怒ったかもしれない。


今それを聞いたら、泣いてしまう気がした。


だから、扉の外でよかったのかもしれない。


よくない。


よくないけれど、少しだけよかった。


でも、この場で求められているのはそれではない。


求められているのは、何が起きたか。


どれほど動けたか。


どうすれば再現できるか。


マーリンは、少しずつその輪郭を見た。


自分は人を助けた。


それはたぶん、間違いではない。


けれど軍が見ているのは、助けた少女ではない。


リュールを動かした操縦者だった。


しかも、訓練もなく、初回リンクで、NewEra試作一号機を起動させた操縦者。


聴取は続く。


マーリンの恐怖は、項目にならない。


震えは、疲労反応として処理される。


吐き気は、急加速と急旋回による負荷。


魔力消耗は、初回リンクにしては許容範囲。


適合率は、異常値。


異常値。


マーリンの中で、その言葉だけが残った。


「ロイス嬢、最後に確認します」


聴取官が端末を持ち直す。


「再度、リュールへのリンクを求められた場合、同様の接続が可能だと思いますか」


クリスチーナの指が、寝台脇でぴくりと動いた。


マーリンは、その動きを見てしまう。


答えたくない。


そう思った。


けれど、沈黙もまた答えになる。


「……分かりません」


今度は、曖昧だと責められなかった。


聴取官はただ入力する。


不明。


たぶん、そう記録された。


とても便利な言葉だった。


怖い、ではなく。


嫌だ、でもなく。


不明。


マーリンの胸の奥まで、白い端末の文字になっていくようだった。


軍医が検査結果を確認する。


「魔力消耗が強く出ています。脈拍も高い。休息が必要です」


「面会は」


クリスチーナが尋ねる。


「短時間なら。ですが、まずは安静を」


「承知いたしました」


侍女の返事だった。


けれど、その奥にあるものは、もう侍女だけの声ではなかった。


守りたい。


怒りたい。


泣きたい。


それでも整えている声だった。


やがて、聴取が終わった。


端子の一部が外される。


首元に貼られていた検査用の薄い板が剥がれ、ひんやりした空気が肌に触れた。


軍医は休息を命じ、クリスチーナが毛布をかける。


メッサーシュミットたちは医務室を出ていく。


扉が閉まる直前、マーリンは廊下の向こうでミハイルの姿を見た。


黒い髪。


深い海の底のような瞳。


その顔は、明らかに怒っていた。


メッサーシュミットへ何か言っている。


声は聞こえない。


けれど、怒っているのは分かる。


マーリンは少しだけ笑いそうになった。


ミーシャは、また怒っている。


そう思ったら、胸の奥が少しだけ緩んだ。


そしてその緩みと同時に、身体の震えが強くなる。


今さら。


本当に、今さら。


怖かったのだと、身体がようやく思い出した。


クリスチーナがマーリンの手を包む。


「お嬢様」


マーリンは答えようとする。


大丈夫よ、クリス。


そう言いかけて、飲み込んだ。


「……少し、怖かったわ」


声は小さかった。


白い医務室の壁に吸い込まれそうなほど。


クリスチーナは、何も言わなかった。


ただ、手を握る力だけが少し強くなる。


その沈黙が、いちばん優しかった。


マーリンは毛布の下で指を丸めた。


震えはまだ止まらない。


止まらないままでいいのかもしれない。


少なくとも今だけは。


医務室の外では、リュールの起動データが軍関係者の間で扱われ始めていた。


初回リンク。


白い魔力の糸。


高い適合率。


NewEra試作一号機の実戦起動。


そこに、マーリンの震えはほとんど残らない。


記録されるのは、接続率。


出力。


反応速度。


敵機接近阻止。


損傷艦の防衛成功。


医務室の中で、マーリンは毛布の下に手を隠した。


指先はまだ震えていた。


クリスチーナだけが、その震えを見ている。


扉の向こうで、ミハイルだけが怒っている。


けれど帝国は、もう別のものを見ていた。


白い人形を動かした、ロイス家の令嬢を。


マーリンの痛みではなく。


マーリンの恐怖でもなく。


リュールを動かせる、彼女の白い糸を。

ここまでお読みいただき有り難うございました。

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