白い糸、黒い宇宙
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格納区画の管制卓に、同じ表示が残り続けていた。
適合候補、マーリン=ロイス。
接続待機。
操縦席、開放準備。
赤い非常灯の下で、その文字だけが妙に白く見える。
マーリンは、試作一号機を見上げていた。
自分の中から伸びた見えない糸が、まだ白い人形の奥に触れている。
意識して伸ばしたわけではない。
そうしようと思ったわけでもない。
けれど、糸は伸びた。
白い人形は反応した。
その意味が分からない。
分からないから、怖い。
「マーリン嬢を乗せる必要はない」
ミハイルの声が、格納区画に低く響いた。
彼はマーリンの前に立っていた。
公の場の礼儀は残している。
だが、その背中は完全に幼馴染のものだった。
守ろうとしている。
クリスチーナも、マーリンの腕を離さない。
「お嬢様を、行かせるわけにはまいりません」
マーリンは二人の声を聞いている。
聞いているのに、すぐには何も言えなかった。
戦いたくない。
乗りたくない。
怖い。
そう言えばいい。
ミハイルに叱られたばかりだ。
嫌なら嫌と言え。
疲れたなら疲れたと言え。
休みたいなら休みたいと言え。
なら、今こそ言えばいい。
嫌だ。
怖い。
行きたくない。
けれど艦はまた揺れた。
壁際の生徒たちが悲鳴を上げる。
天井から火花が散る。
外の戦闘を示す表示で、護衛機の光がまた一つ消える。
その瞬間、言葉が喉の奥で止まった。
自分が嫌だと言っている間に、誰かが落ちている。
メッサーシュミットが管制卓の表示を見ていた。
顔は硬い。
けれど、迷っている時間はないと分かっている顔だった。
「試作一号機を出す」
短い言葉だった。
整備士たちが顔を上げる。
教師たちが息を呑む。
ブライアンは何も言わず、その判断の意味を測るように目を細めた。
ミハイルが一歩前へ出る。
「彼女は生徒です」
「この艦にいる全員が、今は標的です」
メッサーシュミットの声は冷たい。
怒っているわけではない。
慌ててもいない。
ただ、状況だけを見ている声だった。
「護衛は崩れかけている。避難経路は閉鎖。迎撃火器も落ちている。試作一号機が起動できるなら、それが最善です」
「最善のために、未訓練の令嬢を乗せるのですか」
「適合したのは彼女です」
その言葉で、格納区画の視線がマーリンへ集まった。
希望の花を見る目ではない。
助けてくれるかもしれないものを見る目。
その視線が痛い。
マーリンは唇を結ぶ。
ロイス家の令嬢として、正しい答えは何か。
帝国の貴族として、守るべきものは何か。
一人の少女として、本当は何をしたいのか。
答えは、ばらばらだった。
ミハイルが振り返る。
「マーリン嬢。嫌なら、嫌だと言っていい」
その声は、彼だけがくれる逃げ道だった。
クリスチーナも腕を握る力を強める。
「お嬢様」
マーリンは二人を見る。
行きたくない。
それは本当。
でも、何もしないで誰かが死ぬのを見ている方が、もっと嫌だった。
マーリンは小さく息を吸う。
「……起動だけです」
声は震えなかった。
震えなかったことが、自分でも少し怖い。
「戦うためではありません。皆を逃がすために、あの子を動かします」
あの子。
そう言ってしまってから、マーリンは自分の言葉に気づいた。
試作一号機。
番号で呼ばれていた白い人形。
けれど、もうそうは見えなかった。
眠っている。
呼びかければ目を開けるかもしれない。
そんなふうに見えてしまう。
ミハイルの顔が強張る。
クリスチーナが首を振る。
それでもマーリンは、二人の手からそっと抜けた。
「大丈夫、とは言わないわ」
言ってから、少しだけ笑う。
ひどく下手な笑みだった。
「怖いもの。でも、行きます」
ミハイルは何か言おうとして、言えなかった。
クリスチーナの指が、最後までマーリンの袖を掴んでいた。
それが離れる時、布が小さく鳴る。
その音が、やけに大きく聞こえた。
整備士たちが慌ただしく動き出す。
格納区画の脇にある準備室へ、マーリンは通された。
そこは更衣室というより、軍人が出撃前に装備を整えるための小さな区画だった。壁には耐Gスーツが並び、簡易調整台と医療用の測定器が置かれている。扉の向こうでは、警告音が鳴り続けていた。
耐Gスーツが運ばれてくる。
マーリンの身体に合わせるには大きすぎる。
それでも今は、細かく調整している時間がない。
「肩幅が合っていません」
クリスチーナが言った。
声は静かだった。
侍女としての手つきは正確だった。
けれど、指先だけが少し遅い。
整備士が焦ったように答える。
「最低限の固定はします。耐圧補助が効けば――」
「最低限では困ります」
クリスチーナの声が、少しだけ鋭くなった。
整備士が黙る。
マーリンはその横顔を見た。
いつものクリスチーナだった。
いや、いつもよりも必死なクリスチーナだった。
「クリス」
「……はい」
「きつすぎないわ」
「まだ何も申し上げておりません」
「顔がそう言っていたもの」
クリスチーナは泣きそうな顔で、泣かなかった。
留め具を締める。
肩を調整する。
腰部の固定を確認する。
脚の圧力補助を合わせる。
どれも侍女の仕事ではない。
けれど、彼女の手は迷わなかった。
マーリンを整える。
それだけなら、彼女はどんな場所でも侍女でいられる。
「お嬢様」
「ええ」
「必ず、お戻りください」
マーリンは頷く。
「戻るわ」
約束に聞こえるように言った。
本当は、自分でも分からない。
分からないまま、言った。
準備室の扉が開く。
赤い光が流れ込む。
格納区画では、白い人形の胸部装甲が低い音を立てて開いていた。
操縦席へ向かう昇降機が降りている。
球状のコクピット。
全周囲モニター。
手にはめるインターフェース。
赤く点滅する警告表示。
初めて見るはずなのに、知っている。
胸の奥が冷える。
マーリンは人形に乗ったことなどない。
訓練も受けていない。
授業で聞いただけだ。
なのに、身体の奥が答えを知っている。
座ればいい。
手を入れればいい。
糸を通せばいい。
そんなはずはない。
マーリンは唇を噛み、昇降機へ足を乗せた。
ミハイルが下から見上げている。
「マーリン嬢」
「はい」
「戻ってこい」
短い。
飾りのない言葉だった。
マーリンは少しだけ笑う。
「命令ですか」
「願いだ」
返す言葉がなくなった。
クリスチーナは両手を胸の前で握っている。
ブライアンは、少し離れた場所で生徒たちを下がらせていた。けれどその視線は、時折マーリンと白い人形へ向く。
アンネリーゼも見ていた。
顔色は悪い。
それでも、目は逸らしていない。
マーリンは、その全部を見た。
見てから、操縦席へ入った。
肩。
腰。
脚。
固定具が身体を固定する。
ハッチが閉じる。
外の音が遠くなる。
世界が丸く閉ざされる。
けれど、まだ何も見えない。
球状のコクピットの内側は暗く、赤い待機灯だけが低く点滅している。
全周囲モニターは沈黙したままだった。
管制卓から通信が入る。
『ロイス嬢、聞こえますか』
「聞こえます」
自分の声が、思ったより小さく返る。
『インターフェースへ手を。力まず、魔力の糸を機体へ通してください』
力まず。
そんなことを言われても困る。
マーリンは手をインターフェースへ入れた。
冷たい。
硬い。
けれど指に馴染む。
馴染んでしまう。
指先の奥から、白い糸が伸びる。
今度は、無意識だけではなかった。
怖がりながら、マーリンはそれを追いかける。
糸は白い人形の腕へ。
肩へ。
胸へ。
腰へ。
脚へ。
背中の回路へ。
眠っていた白い人形の中に、細い光が通っていく。
暗い部屋に、一本ずつ灯りをつけるみたいに。
白い人形が目を覚ます。
表示が走った。
『NewEra計画試作一号機』
『操縦者登録、未確定』
『魔力波形、照合完了』
『接続確立』
NewEra。
新しい時代。
綺麗な名前。
綺麗すぎる名前。
意味は分からない。
けれど、胸の奥が少しざらつく。
続いて、別の表示が浮かぶ。
『試作一号機 Nep-001Pt 機体呼称、未登録』
マーリンは、息を止めた。
名前がない。
やはり、この子には名前がない。
番号だけ。
計画名だけ。
試作一号機 Nep-001Pt。
それで十分だと、軍は思っているのかもしれない。
けれどマーリンの糸に応えたものを、番号だけで呼びたくなかった。
白い装甲。
赤い非常灯の中でも失われない白。
黒い宇宙へ出ようとしている、ひとすじの光。
「……リュール」
声は、ほとんど息だった。
光。
そう呼びたかった。
どこの言葉なのか、なぜその音が浮かんだのか、自分でもよく分からない。
けれど、その名が一番近い気がした。
表示が一瞬だけ揺れる。
『機体呼称、登録』
『リュール』
マーリンの胸の奥で、糸が震えた。
返事のようだった。
『接続確立……本当に通った』
整備士の声が震える。
『起動率、上昇。関節ロック解除。機体側変換炉、安定域。試作一号機、起動します』
その瞬間、全周囲モニターが開いた。
暗かった球状の壁が、外の景色へ変わっていく。
格納区画。
赤い非常灯。
壁際の生徒たち。
整備士。
メッサーシュミット。
ブライアン。
ミハイル。
クリスチーナ。
すべてが、リュールの目を通して映し出される。
自分の身体が、一つ増えた。
マーリンはそう思った。
気持ち悪い。
でも、分かる。
視界が広すぎる。
音が遠すぎる。
なのに、白い指先の重さまで自分のもののように近い。
マーリンは息を呑む。
その瞬間、糸が揺れ、リュールの右手がわずかに動いた。
格納区画の整備士たちが後ずさる。
生徒たちの間から、押し殺した悲鳴が漏れる。
「ごめんなさい」
誰に謝ったのか、自分でも分からない。
リュールにか。
ミハイルにか。
クリスチーナにか。
これから傷つけるかもしれない誰かにか。
通信が入る。
『ロイス嬢、格納区画外へ出ます。射出時に強い加速がかかります。耐G制御を信用してください』
信用。
初めて乗る軍の試作機に、そんな言葉を使うのは少し無茶だと思う。
けれど、笑えなかった。
ハッチの向こうで、リュールの固定具が外れる。
重い音が響く。
機体がわずかに沈み、それから立ち上がる。
全周囲モニターに、格納区画の人々が映る。
ミハイルがこちらを見ている。
クリスチーナが両手を握りしめている。
ブライアンは表情を崩さず、けれど目だけが強くリュールを見ている。
アンネリーゼは、青ざめたまま唇を結んでいた。
マーリンは、通信を開く。
「ミハイル様」
『マーリン嬢』
声が返る。
「クリスを、お願い」
短い沈黙。
『君が戻って言うべきことだ』
ミハイルの声は怒っていた。
怒っているのに、震えていた。
マーリンは少しだけ笑う。
泣きそうな笑みだった。
「……そうね」
通信を切る直前、クリスチーナの声が入る。
『お嬢様』
「クリス」
『お戻りを』
命令ではない。
祈りだった。
「ええ」
今度は、大丈夫とは言わなかった。
射出口が開く。
黒い宇宙が見える。
展望区画で見た宇宙とは違う。
美しいだけではない。
冷たくて、暗くて、遠くで光が爆ぜている。
黒い影が、そこにいる。
リュールのスラスターに白い光が灯った。
『射出準備。三、二、一』
胃の奥が縮む。
『射出』
白い人形が、黒い宇宙へ撃ち出された。
急加速。
身体が座席に押しつけられる。
胸が潰れる。
息が詰まる。
視界の端に赤い警告が走る。
耐Gスーツが締めつけ、骨の奥まで重さがかかる。
吐き気がせり上がる。
喉の奥が熱い。
それでも、マーリンは糸を離さない。
離したら、リュールがばらばらになってしまう気がした。
いや。
ばらばらになるのは、自分の方かもしれない。
前方に敵影が赤く表示される。
黒い小型艇。
歪な装甲。
規格外の推進光。
宙賊の機体が、シャルンホルストへ食いつくように接近していた。
『ロイス嬢、正面の敵影を牽制してください。接近を阻止できれば十分です』
「牽制……」
意味は分かる。
でも、どう動けばいいのかは知らない。
授業で聞いた人形の説明が頭をよぎる。
魔力の糸を通す。
自分の身体を動かすように、機体の四肢へ感覚を流す。
簡単そうに言っていた。
まったく簡単ではなかった。
リュールの腕が重い。
脚が遠い。
背中のスラスターが熱い。
全身の感覚が広がりすぎて、どこを掴めばいいのか分からない。
マーリンは奥歯を噛む。
白い糸を握る。
右手。
左手。
肩。
腰。
足。
背中。
ひとつずつ、糸を結び直す。
リュールがソードへ手を伸ばした。
リュールが右腰部の武装ラックへ手を伸ばした。
白い指が、長い柄を掴む。
管制卓から、整備士の声が飛ぶ。
『標準装備、ソード把持確認。ロイス嬢、注意してください。それは試作型の光学ソードです。通常の物理ソードより威力は高いですが、魔力消費が大きい』
「魔力、消費……」
言葉を繰り返すより早く、リュールの指が柄を引き抜いた。
その瞬間だった。
マーリンの中から、何かがごっそり持っていかれた。
息が止まる。
指先からではない。
腕からでもない。
胸の奥、もっと深いところに溜めていた熱を、白い人形が当然のように吸い上げていく。
光を放つの刃が展開した。
金属の刃ではない。
柄の先から、白く揺らめく光が伸びる。
美しい。
そう思った直後、吐き気がこみ上げた。
「っ……」
耐Gスーツとは別の締めつけが、身体の内側から来る。
魔力を使うというのは、こういうことなのだろうか。
授業で聞いた言葉は、もっと整っていた。
魔力供給。
変換効率。
武装展開。
けれど実際には、そんな綺麗な言葉ではなかった。
持っていかれる。
リュールに。
光のソードに。
自分の中身を、白い光へ変えられていく。
『ソード展開確認』
通信の向こうで、整備士が息を呑む。
『初回搭乗で、展開まで通した……』
その続きは聞こえなかった。
黒い影が接近する。
速い。
思っていたよりずっと速い。
リュールの視界に、赤い警告が増える。
『接近警告。敵機、射線形成』
「え」
光が来た。
考えるより先に、マーリンの身体が強張る。
リュールも強張る。
だが、機体は勝手には避けない。
避けなければ当たる。
当たれば、後ろにはシャルンホルストがいる。
ミハイルがいる。
クリスチーナがいる。
生徒たちがいる。
マーリンは息を吸い込んだ。
吸い込んだ息が、喉で止まる。
「避けて!」
叫んだ瞬間、白い糸が跳ねた。
リュールが急旋回する。
世界が横へ裂けた。
急加速とは違う負荷が、身体を斜めに潰す。
首が持っていかれる。
胃が持ち上がる。
視界が一瞬、暗くなる。
赤い警告。
警告音。
耐G制御、限界補助。
そんな表示が走る。
「っ、う」
吐き気がこみ上げる。
口の中に苦い味が広がる。
それでも、光は外れた。
敵の射撃が、リュールの脇を抜けていく。
背後の宇宙で、白い光が散った。
マーリンは荒く息をする。
一度避けただけ。
ただそれだけで、身体の芯が震えている。
リュールは強い。
速い。
たぶん、とても高性能だ。
けれど、乗っているマーリンの身体は、ただの少女の身体だった。
魔力が引かれていく。
指先から、腕から、胸の奥から。
白い糸を通じて、リュールへ流れていく。
痛いわけではない。
けれど、ひどく寒い。
「……まだ」
マーリンは呟く。
戦いたくない。
殺したくない。
でも、守りたい。
その全部が胸の中で絡まり、白い糸になる。
リュールの手が、光のソードを構える。
白い光の刃が、黒い宇宙の中で細く震えていた。
その震えが、マーリンの指先にも伝わる。
重い。
物理ソードではないはずなのに、重い。
刃そのものではなく、刃を保つために流れ続ける魔力が重かった。
黒い宇宙の中で、白い人形だけが淡く光っている。
その光が強くなるたび、マーリンの中から少しずつ熱が失われていった。
背後には、損傷した研究艦。
その中には、生徒たちと教師たち、クリスチーナとミハイルがいる。
前方には、黒い影。
全周囲モニターに、敵影が赤く表示される。
警告音が鳴る。
マーリンは震える指で糸を握った。
白い糸が、黒い宇宙へ伸びていく。
初めての戦場は、あまりにも広かった。
そして、あまりにも冷たかった。
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