静かな航路
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校外授業の集合場所は、ヘルリッヒ学園の北棟発着ホールだった。
普段は来賓用の小型艇や貴族家の送迎船が発着する場所で、生徒がまとまって使う機会は少ない。高い天井には帝国の紋章旗が吊られ、壁面の表示板には発着予定が淡い光で流れている。
そこに、いつもより少し浮き立った声が満ちていた。
行き先は、軌道上中継ステーションに停泊中の帝国宇宙軍研究艦シャルンホルスト。
目的は、軍艦内部の見学、航行管制の基礎説明、そして貴族子女として必要な軍務理解のための特別授業だった。
戦争中とはいえ、あくまで学園行事である。
護衛艦もつき、航路は安全圏に設定されている。教師たちの表情にも緊張はあるが、危険を警戒するものではない。むしろ、生徒たちが不用意に浮かれすぎないよう見張る顔だった。
マーリンも、例外ではなかった。
白い髪を整え、校外授業用の式服に袖を通し、いつものようにロイス家の令嬢として立っている。
けれど、目元だけが少し違っていた。
眠そうなのではない。
疲れているのでもない。
きらきらしている。
クリスチーナは一歩後ろでそれを見て、少しだけ安堵した。
社交会や生徒会室で見せる、誰かを安心させるための笑顔ではない。公爵令嬢として抑えてはいるが、好奇心がこぼれていた。
「お嬢様。お顔が、少しだけ楽しそうでございます」
「校外授業ですもの。学ぶことを楽しみにするのは、悪いことではないでしょう?」
「問題ない範囲に収めていただければ」
「クリス。私を何だと思っているの」
「お嬢様です」
即答だった。
マーリンは少しだけ唇を尖らせた。
その表情は、周囲の生徒が近づく前に消える。
彼女はすぐに美しい微笑みを戻した。
発着ホールの入口側で、人の流れが整う。
上級生が新入生の列を分け、教師が名簿を確認し、生徒会役員が乗艇順を告げている。
その中心に、ブライアンがいた。
「ロイス嬢。本日は新入生代表として、来賓士官への挨拶にも同席していただくことになります。ご負担でなければ、お願いいたします」
負担でなければ。
その言葉に、マーリンはほんの少しだけ間を置いた。
休憩室で聞いたミハイルの声が、胸の奥を小さく叩く。
嫌なら嫌と言え。
疲れたなら疲れたと言え。
世界は壊れない。
マーリンは微笑む。
「承知いたしました。ただ、見学中は説明をきちんと聞きたいので、挨拶は必要な場に限らせていただけますか」
言えた。
とても小さな線だった。
けれど、線だった。
ブライアンは一瞬だけ目を細め、それから穏やかにうなずいた。
「もちろんです。学ぶための校外授業ですから」
そのやり取りを、少し離れた場所から見ている令嬢がいた。
蜂蜜を薄く溶かしたような金の髪。
校外授業用の式服は、少しの乱れもなく整えられている。華やかというより、磨かれている。美しさが、努力の跡を隠さない。
彼女は取り巻きの令嬢たちから一歩だけ離れ、マーリンの方へ歩み寄った。
「ごきげんよう、マーリン様。ブライアン様」
「ごきげんよう、アンネリーゼ様」
マーリンは礼を返した。
アンネリーゼだった。
ブライアンも穏やかに会釈する。
「フェアチャイルド嬢。本日はよろしくお願いいたします」
「こちらこそ。研究艦シャルンホルストの見学など、そう何度もある機会ではございませんもの。末席とはいえ、公爵家の名に恥じぬよう学ばせていただきますわ」
末席。
アンネリーゼは、その言葉を自分で口にした。
卑下ではない。
棘だった。
「マーリン様は、宇宙軍の研究艦にもご関心がおありなのですね」
「はい。知らないものを学べるのは、素直に楽しみです」
言ってから、マーリンは少しだけ恥ずかしくなった。
公爵令嬢としては、あまりにも正直だったかもしれない。
けれどアンネリーゼは笑わなかった。
「楽しみ、と言えるのは羨ましいことですわ。軍の船は、我が家にはもう少し違って見えますもの」
フェアチャイルド家。
末席公爵家。
軍需と工廠に近い家。
学園の社交場では花や家格の話に見えていたものが、ここでは軍艦の冷たい外殻へつながっている。
「ですが、今日ばかりは私も学ぶ側です。マーリン様と同じように」
「ええ。共に、よい時間にいたしましょう」
「ただ、マーリン様があまり目を輝かせていらっしゃると、皆がそちらばかり見てしまいますわ。お気をつけくださいませ」
それは冗談の形をしていた。
けれど、完全な冗談ではなかった。
マーリンは一瞬だけ言葉を探し、それから微笑む。
「では、アンネリーゼ様にもご一緒に見ていただけると心強いですわ」
アンネリーゼの目が、ほんの少しだけ揺れた。
すぐに整う。
「……まあ。そう返されますのね。少し、面白いと思っただけです」
そう言って、彼女は取り巻きの令嬢たちの方へ戻っていった。
少し離れた場所には、ミハイルがいた。
下級生を補助する上級生として同行する彼は、新入生の列の乱れを直しながら、マーリンの方へ目を向けていた。
マーリンが視線に気づく。
ミハイルは、ほんの少しだけうなずいた。
よく言った。
言葉にはしない。
けれど、そんなふうに見えた。
マーリンはすぐに顔をそらした。
少しだけ、頬が熱かった。
軌道連絡艇は、発着ホールから滑るように離れた。
人工重力が安定し、窓の外で学園の尖塔が小さくなっていく。
「この連絡艇は軌道上中継ステーションまで直行します。到着後、研究艦シャルンホルストへ搭乗します。艦内では必ず引率者の指示に従うように」
教師の説明に、生徒たちの声がそろう。
けれど、その返事には少し弾んだものが混じっていた。
窓の外に、大気の薄い青が広がっていく。
やがて青は深まり、黒へ変わる。
星が現れる。
マーリンは思わず、窓へ少し近づいた。
「お嬢様」
クリスチーナの声がする。
「分かっているわ」
近づきすぎない。
椅子から身を乗り出しすぎない。
公爵令嬢は、窓に張りつかない。
分かっている。
分かっているけれど、宇宙はずるい。
広い。
とても広い。
広すぎて、少し怖い。
怖いのに、目を離せない。
「楽しそうだな」
通路側から声がした。
マーリンは姿勢を正す。
「ミハイル様。見回りですか」
「上級生補助だからな。君が窓へ吸い込まれないか確認している」
「失礼ね。吸い込まれません」
「今、少し吸い込まれかけていた」
「見間違いですわ」
ミハイルは信じていない顔をした。
クリスチーナも否定しなかった。
マーリンは言い返そうとして、少しだけ笑った。
言い返すより、宇宙を見る方が今は大事だった。
窓の外で、軌道上中継ステーションが近づいてくる。
銀色の輪のような構造物。
そこから何本もの接続アームが伸び、軍用艦や輸送艇が静かに停泊している。
その中に、ひときわ大きな艦があった。
研究艦シャルンホルスト。
濃い灰色の装甲。
長く伸びた船体。
観測機器らしき突起が並び、艦腹には帝国宇宙軍の紋章が光っている。
戦闘艦ほど威圧的ではない。
けれど、ただの研究船とも違う。
静かで、重い。
連絡艇が接続アームへ滑り込むと、船体がかすかに震えた。
固定音。
気密確認。
接続完了を告げる表示が、艇内の案内板に流れる。
『軌道上中継ステーションに到着しました。降艇の指示があるまで、そのままお待ちください』
生徒たちの声が少し高くなる。
マーリンは胸の前で手を重ねた。
心臓が、少し速い。
怖いからではない。
たぶん。
きっと。
たぶん。
中継ステーションの通路は、学園とはまったく違っていた。
床も壁も磨かれているが、装飾は少ない。
貴族的な美しさではなく、機能の美しさだった。
壁面の表示灯が淡く点滅し、通路の上部には航行情報が流れている。空気は少し冷たく、金属と消毒液の匂いがした。
教師が前に立ち、ブライアンが生徒会長として最後尾と中央を確認する。ミハイルは新入生の列の脇につき、歩幅の遅い生徒をさりげなく内側へ入れていた。
クリスチーナは、いつも通りマーリンの一歩後ろ。
アンネリーゼは少し離れた列にいた。
取り巻きの令嬢たちと共に歩いているが、その視線は誰よりもよく動いている。通路の構造、警備兵の配置、表示板の内容。華やかな見学気分だけではない目だった。
一行はステーションの接続通路を通り、シャルンホルストの乗艦口へ向かった。
軍の船へ入る前で、生徒たちの声は自然と小さくなる。
乗艦口の前には、帝国宇宙軍の士官が待っていた。
銀灰色の髪を後ろへ撫でつけた、鋭い目の男だった。背筋は硬く、礼装ではなく実務用の軍服を着ている。
男は一同へ向かって礼をした。
「帝国宇宙軍研究艦シャルンホルストへようこそ。本日の艦内見学を担当する、ハインリヒ=メッサーシュミットであります」
声は低く、よく通った。
ブライアンが一歩前へ出た。
「ヘルリッヒ学園生徒会長、ブライアン=カーチスライトです。本日は貴重な機会をいただき、感謝申し上げます」
「カーチスライト様。歓迎いたします」
メッサーシュミットの視線が、ブライアンから生徒たちへ流れる。
そして、マーリンの前でほんの一瞬だけ止まった。
「ロイス嬢にも、ご乗艦いただけるとは光栄です」
「こちらこそ、学ばせていただきます。よろしくお願いいたします」
マーリンは礼をする。
軍人の視線は、貴族の社交場の視線とは違った。
値踏みはある。
敬意もある。
けれど、それ以上に、役に立つものかどうかを見ているような冷たさが混じる。
メッサーシュミットは案内を始めた。
「本艦は研究艦でありますが、軍所属艦です。立入禁止区画には絶対に入らないようお願いいたします。艦内では、赤い表示のある扉には近づかないこと。警報が鳴った場合は、引率者の指示に従い、指定の待機区画へ移動してください」
その中で、マーリンの視線は自然と艦内へ向いていた。
重厚な隔壁。
滑るように開く自動扉。
壁面に流れる航行情報。
観測窓の外に広がる星の光。
公爵令嬢としては、あまり露骨に興奮してはいけない。
けれど、好奇心が勝つ。
「お嬢様」
クリスチーナが、ごく小さく言った。
「まだ何もしていないわ」
「まだ、でございますね」
「言い方」
「必要な確認でございます」
マーリンは少しだけ口をつぐむ。
ミハイルが横で聞いていたらしく、かすかに視線を寄こした。
完全に笑ってはいない。
けれど、目元が少しだけ呆れている。
マーリンはすました顔をした。
立入禁止区画へ勝手に入るつもりなどない。
ただ、気になるだけだ。
赤い表示のある扉の向こうに何があるのか。
なぜ研究艦なのに、装甲隔壁があれほど厚いのか。
少し気になるだけ。
本当に、それだけ。
最初の見学区画は、航行管制の説明室だった。
本来の作戦会議室を教育用に開放したらしく、壁面には艦の簡略図と航路図が表示されている。前方の大型表示には、シャルンホルストの現在位置、護衛艦の位置、設定された安全航路が淡い線で示されていた。
生徒たちは席に着く。
マーリンは前方から二列目の席に座った。
クリスチーナは壁際に控える。
ミハイルは上級生補助として後列に立ち、ブライアンは教師のそばで生徒全体を見ていた。
アンネリーゼは、マーリンとは通路を挟んだ斜め後ろに座る。
メッサーシュミットは表示を切り替える。
「本艦を含む大型艦は、通常動力として核融合反応炉を用いております。都市区画や大型軍艦、航空艦においては安定した出力を得られる方式です。ただし、人形のような小型機へ搭載できるものではありません」
表示板に反応炉の模式図が浮かぶ。
炉心。
冷却系。
出力配分。
推進系への供給線。
説明は簡潔だった。
生徒向けに整えられている。
けれど、マーリンの目はそこに引っかかる。
通常動力。
反応炉。
出力配分。
重力制御。
航行補助。
どこまでが自動で、どこからが人の判断なのか。
説明を聞きながら、頭の中で線がつながっていく。
面白い。
もっと知りたい。
それは、希望の花としての義務とは少し違った。
誰かに求められたからではない。
褒められるためでもない。
マーリン自身の内側から、勝手に湧いてくるものだった。
「ロイス嬢」
メッサーシュミットの声が、ふいに向けられた。
「反応炉から推進系へ出力を配分する際、最も避けるべき状態は何だと思われますか。難しく考えず、授業の範囲で結構です」
周囲の視線が集まる。
マーリンは一瞬、口を閉じた。
「出力の急変、でしょうか」
「理由は」
「艦全体の重力制御と姿勢制御に影響が出ます。推進系だけを見れば加速できても、艦内設備や人員への負荷が増える。特に研究艦では観測機器の精度にも影響するかと」
答えすぎただろうか。
けれど、メッサーシュミットは満足げにうなずいた。
「その通りです。大型艦では、速さだけではなく安定性が重要となります」
生徒たちが感心したようにざわめく。
マーリンは微笑む。
いつものように。
ただ、その微笑みの奥で、少しだけ胸が弾んでいた。
面白い。
やっぱり、面白い。
「さすがですわ、マーリン様」
斜め後ろから、柔らかな声が届いた。
アンネリーゼだった。
「私は、そのあたりはどうにも苦手で。図面だけならまだしも、数値が並ぶと少し冷たい顔をされている気分になりますの」
マーリンは振り返りすぎない角度で微笑む。
「私も、知らないことばかりですわ」
「ご謙遜を。今のご返答で、知らないことばかりと言われてしまうと、こちらは何も知らないことになってしまいます」
棘。
でも、薄い。
マーリンは少し考えた。
「では、アンネリーゼ様は、どのあたりをご覧になりますか?」
「……装備の配置と、整備士の動線ですわ。どれほど立派な艦でも、整備する者が動けなければ、ただの大きな箱ですもの」
その言い方は軽い。
けれど、努力の匂いがした。
マーリンは素直にうなずいた。
「それは、私も見たいです」
アンネリーゼは少しだけ黙った。
それから、視線をそらす。
「……マーリン様は、時々ずるい返し方をなさいますわね」
「ずるい、ですか?」
「褒めておりますの」
たぶん、褒めていない。
けれど、完全に否定でもない。
マーリンは少しだけ笑った。
説明室を出ると、一行は艦内通路へ移動した。
現在位置は、シャルンホルスト中央区画。
ここから前方へ進むと航行管制室、後方へ進むと整備区画と格納区画があると説明された。
もちろん、生徒が入れるのは見学許可区域だけだ。
赤い表示の扉には、立入禁止の文字が光っている。
マーリンは、見ないふりをしながら見た。
扉は厚い。
認証盤が二つ。
その奥へ続く通路の床には、重い機材を運んだ跡がうっすら残っている。
研究艦。
教材。
安全な校外授業。
そう説明されているのに、扉の向こうは明らかに別の顔を持っていた。
「マーリン嬢。また何か覗き込みたそうな顔をしている」
隣から、ミハイルの声がする。
マーリンはすました顔で前を向いた。
「気のせいですわ」
「赤い扉を三回も見たのは?」
「安全確認です」
「立入禁止区画を見つめる安全意識は、あまり褒めない」
マーリンは少しだけ口をつぐんだ。
クリスチーナが小さく咳払いをする。
「お嬢様」
「何もしていないわ」
「何かする前のお顔でございました」
「そんな顔はありません」
ミハイルが横で低く言う。
「ある」
その時、アンネリーゼが横を通りかかった。
彼女は赤い扉を一瞥し、すぐに視線を戻す。
「マーリン様。お気持ちは少し分かりますけれど、そこは見ない方がよろしいですわ」
「見ていたかしら」
「見ていないふりをして、見ていらっしゃいました」
ミハイルが無言でうなずく。
クリスチーナも否定しない。
マーリンは小さく息を吐いた。
「今日は味方が少ないわ」
「危ない扉に関しては、味方が少ない方がよろしいかと」
アンネリーゼは涼しい顔で言った。
その言い方が少しおかしくて、マーリンは笑いそうになる。
笑わない。
少しだけ、笑った。
艦内見学が進むにつれ、軍艦という場所の重さも少しずつ見えてきた。
装甲板に残る補修痕。
緊急時の隔壁。
避難経路の赤い表示。
戦闘配置へ切り替えるための管制盤。
研究艦と呼ばれる船の中に、戦争の爪痕が静かに残っている。
マーリンは、楽しさの中で少しだけ黙った。
戦争は遠いものではない。
この船も、研究艦でありながら軍の船だ。
人を守るための技術と、人を殺すための技術は、同じ廊下の中に並んでいる。
「綺麗な技術だと思ったの。さっきまでは」
「今は?」
ミハイルが短く聞く。
「綺麗なだけではないのだと思っています」
「技術は使う人間次第だ」
「便利な言葉ね」
「そうだな」
「でも、少し怖いわ。使う人間次第なら、人間が間違えた時に全部間違うもの」
「だから、間違えた時に止まれるようにしておくんだろう」
マーリンはすぐに返事ができなかった。
人間は間違える。
けれど、間違いを認めて止まれるか。
自分はどうだろう。
少し疲れた時、自分の足を止めることすら下手だったのに。
「難しいのね」
「簡単なら、戦争はもう終わっている」
その言葉は重かった。
短いのに、廊下の金属より冷たく響いた。
展望区画に出ると、生徒たちの声が一斉に明るくなった。
そこは艦の側面に設けられた広い観測区画で、厚い強化窓の外に星々が広がっていた。
シャルンホルストは穏やかに航行している。
遠くには護衛艦の灯が二つ、一定の距離を保って並んでいる。
「わあ……」
誰かが小さく声を上げる。
その声を、誰も笑わなかった。
宇宙は、それくらいの声を許す広さだった。
マーリンも窓へ近づく。
今度はクリスチーナも止めなかった。
宇宙は綺麗だった。
怖いくらいに広くて、何もかもを飲み込んでしまいそうで、それでも目を離せない。
星々は冷たい光を放っている。
近くにあるようで、届かない。
届かないようで、確かにそこにある。
マーリンは、ほんの少しだけ息を忘れた。
ミハイルが隣に立つ。
近すぎない。
公の場の距離を守っている。
クリスチーナは一歩後ろに控える。
その距離が、マーリンには心地よかった。
「広いわね」
マーリンは小さく言った。
「そうだな」
「宇宙に出れば、少しは息がしやすいかと思っていたの」
「実際は?」
マーリンは少し考えた。
「広すぎて、息を忘れそう」
ミハイルは小さく笑った。
「それは危ない」
「ええ。クリスに叱られるわ」
「お嬢様」
すぐ後ろから声がした。
マーリンは肩を小さく揺らす。
「ほら」
「まだ叱っておりません」
「これから叱る声だったわ」
「必要であれば」
「必要はありません」
そのやり取りに、ミハイルの目元が少し和らぐ。
少し離れた窓辺で、アンネリーゼが星を見ていた。
取り巻きの令嬢たちは華やかに声を弾ませている。けれどアンネリーゼだけは、静かだった。
アンネリーゼがこちらに気づく。
「マーリン様。宇宙は、お好きですか?」
唐突な問いだった。
マーリンは少しだけ考える。
「好き、というには、まだよく知りません。でも、目を離せません」
「そうですか」
アンネリーゼは窓の外へ視線を戻した。
「私は、綺麗だと思います。でも、綺麗な場所ほど遠いのだとも思いますわ」
「遠い?」
「ええ。見えているのに、簡単には届かない。届いたとしても、思っていた形とは違うかもしれない」
その言葉は、宇宙の話のようで、そうではない気がした。
けれど、アンネリーゼは先に微笑む。
「お気になさらないで。少し、詩的なことを言ってみたくなっただけです」
「アンネリーゼ様も、そのようなことを仰るのですね」
「私にも情緒くらいありますわ」
「失礼いたしました」
「本当に」
棘のある返しだった。
けれど、不思議と痛くない。
マーリンは小さく笑った。
艦内放送が、順調な航行を告げた。
『本艦は予定航路を安定航行中です。見学班は、引率者の指示に従い、次の区画へ移動してください』
生徒たちは名残惜しそうに窓から離れていく。
教師が列を整え、ブライアンが生徒会長として流れを確認する。
「ロイス嬢」
ブライアンが近づいてきた。
「次は航行管制室の外周見学です。直接の入室はできませんが、観測窓越しに説明を受けられるそうです」
「楽しみです」
マーリンは素直に言った。
その声に、ブライアンは少しだけ微笑む。
「ロイス嬢にも、興味深い内容かと」
「ブライアン様にも?」
「ええ。人間の判断を、どこまで補助機構が支えられるか。航行管制はよい教材です」
その言葉は静かだった。
けれど、マーリンはほんの少し引っかかる。
人間の判断。
補助機構。
支える。
正しい言葉。
正しい関心。
ブライアンらしい。
「補助機構があれば、人は間違えにくくなるのでしょうか」
マーリンは尋ねた。
ブライアンは迷わずうなずく。
「少なくとも、誤差は減ります。人間は疲れ、迷い、感情に左右される。だからこそ、補助が必要です」
「でも、最後に決めるのは人ですわ」
「現在は、そうですね」
現在は。
その言い方が、少しだけ残った。
けれど、ブライアンはすぐに礼儀正しい表情へ戻る。
「失礼。少し話が専門的になりました」
「いいえ。興味深いです」
それは本当だった。
本当だから、少し怖い。
面白いことと、怖いことは、時々同じ扉の向こうにある。
マーリンはもう一度だけ窓の外を見た。
静かな航路。
安全な見学。
穏やかな校外授業。
そのはずだった。
シャルンホルストは、予定航路を静かに進む。
窓の外には星が流れ、艦内には生徒たちの明るい声が響いている。
マーリンはその光景を、少しだけ自由なものとして胸にしまった。
けれど、艦の奥深くでは、立入禁止の格納区画へ続く扉が固く閉ざされている。
赤い表示。
二重認証。
厚い隔壁。
その向こうに、白い人形が眠っていることを、マーリンはまだ知らない。
航行管制室の表示に、小さな乱れが走ったのは、そのすぐ後だった。
護衛艦のひとつが、進路外の影を捉える。
まだ警報は鳴らない。
まだ誰も騒がない。
まだ、校外授業は穏やかなままだった。
黒い影が、静かな航路の外側から近づいていた。
ここまでお読みいただき有り難うございました。
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