食堂の歓声
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初期評価が終わったあとも、格納庫の空気はまだ落ち着ききっていなかった。
整備兵たちはリュールとシューティングスターの周りで忙しく動き回り、技術士官たちは端末に記録を打ち込んでいる。
誰かが低い声で確認をし、別の誰かがそれに短く応じる。
任務は終わった。
けれど、終わったものを片づけるための時間が、まだそこには残っていた。
マーリンは手すりに添えた指先を、そっと握り込んだ。
震えは、もうほとんど収まっている。
少なくとも、そう見えるはずだった。
「マーリン様」
隣で、ステラが声をかける。
振り向くと、ステラは少しだけ頬を赤くしていた。
疲れているのは分かる。顔色もまだよくはない。
けれど、その空色の瞳には、先ほどよりも明るい光が戻っていた。
自分が役に立てた。
きっと、その実感があるのだろう。
マーリンはそれを、悪いことだとは思わなかった。
むしろ、よかったと思った。
ステラが自分の働きを少しでも誇れるなら。
あの子が、自分はただ危険に晒されただけではなかったと思えるなら。
それは、きっとよいことだ。
「何?」
「このあと、食堂へ行きませんか?」
ステラはそう言ってから、すぐに目を丸くした。
「あっ」
今、自分が何を言ったのかに気づいたらしい。
彼女は慌てて背筋を伸ばし、両手を胸の前で小さく振った。
「も、申し訳ありません。マーリン様を軍艦の食堂にお誘いするなんて、失礼でした」
「失礼?」
「はい。その、私は軍学校で慣れていますけれど……マーリン様はロイス公爵家の令嬢ですし」
ステラは言葉を探すように視線を泳がせた。
「軍艦の食堂なんて、行きたいと思われるはずがないですよね。すみません、少し浮かれていました」
浮かれていた。
その言葉に、マーリンは少しだけ目を細めた。
ステラは確かに、少し浮かれているのかもしれない。
初めての実戦から戻り、自分の支援が評価されて、まだ興奮が完全には抜けていない。
けれど、それは責めるようなものではなかった。
生きて戻ったのだ。
役に立てたのだ。
少しくらい、浮かれてもいい。
本当は、マーリンも同じように喜べたらよかった。
「気を使ってくれてありがとう」
マーリンは静かに言った。
ステラが恐る恐る顔を上げる。
「でも、誘ってくれて嬉しいわ。一緒に行きましょう」
「……よろしいのですか?」
「ええ」
マーリンは頷く。
「それに、食事は取った方がいいのでしょう?」
「あ、はい! 初陣の後は、温かいものを入れた方がいいって、軍学校でも言われました」
そこまで言って、ステラは少しだけ表情を緩める。
「あと、さっき整備兵の方にも言われました。ちゃんと食べておけって」
「そう」
マーリンは、格納庫の端で整備兵がこちらをちらりと見ているのに気づいた。
ステラが無事に戻ったことを、彼らも喜んでいるのだろう。
あるいは、初陣を終えた候補生を放っておけなかったのかもしれない。
ステラは、そういうふうに周囲から気にかけられる少女なのだ。
「では、その助言に従いましょう」
「はい」
ステラはぱっと顔を明るくした。
けれど、すぐに少しだけ声を落とす。
「マーリン様も、少しだけでも食べてくださいね」
マーリンは返事に、一拍だけ遅れた。
「……ええ」
ステラは気づいただろうか。
分からない。
けれど、彼女はそれ以上追及せず、ただ嬉しそうにうなずいた。
「では、ご案内します。軍艦の食堂なら、私の方が少しだけ詳しいと思いますので」
その言い方が、少し誇らしげだった。
公爵令嬢を軍艦の食堂へ案内する伯爵令嬢。
考えてみれば、少し不思議な構図だった。
けれど今のマーリンには、その不思議さが少しだけありがたかった。
「お願いするわ、ステラ」
「はい!」
返事は、やはり少し大きかった。
近くの整備兵が、口元を緩める。
ステラはすぐに気づいて、頬を赤くした。
「……はい」
小さく言い直す。
マーリンは、ほんの少しだけ目元を和らげた。
格納庫の白い照明は、相変わらず冷たい。
リュールも、シューティングスターも、まだ整備兵たちの手の中にある。
けれど、その冷たい場所から食堂へ向かおうとするステラの背中は、少しだけ温かく見えた。
護衛艦の食堂は、格納庫とは違う種類の熱を持っていた。
通路を抜けた先で扉が開くと、まず聞こえてきたのは食器の触れ合う音だった。
それから、低く交わされる会話。
笑い声。
誰かが椅子を引く音。
白い壁と金属の床は他の区画と変わらない。
けれど、ここには人の息づかいがあった。
マーリンは、ほんの少しだけ足を緩めた。
軍艦の食堂。
長い配膳台。
湯気の立つ大鍋。
整然と積まれた金属製のトレイ。
列に並ぶ兵士たち。
その横を、慣れた様子で整備兵が通り過ぎていく。
どこにも華やかさはない。
けれど、温かい匂いがあった。
「こちらです、マーリン様」
ステラは少しだけ得意げに、配膳台の方へ歩き出した。
その足取りは格納庫にいた時より軽い。
軍学校で何度も似た場所を使ってきたのだろう。
どこでトレイを取るのか、どこに並ぶのか、迷う様子がなかった。
マーリンはその後ろについていく。
どう振る舞えばよいかは分かる。
けれど、この場所の手順には慣れていなかった。
トレイを手に取る。
配膳台の前へ進む。
料理を選ぶ。
ただそれだけのことが、少しだけ新鮮だった。
「この艦では、まずスープを取るのが決まりだそうです」
ステラが、湯気の立つ鍋を見ながら言った。
「詳しいのね」
マーリンが返すと、ステラは少し照れたように笑った。
「いえ、さっき整備兵の方に教えていただきました。ここのスープは、見た目よりずっとおいしいって」
そう言ってから、ステラは少しだけ声を落とす。
「私も、まだ試したことはないのですが」
「そうなの」
「はい。でも、たぶん大丈夫です。教えてくださった方が、とても自信ありげでしたので」
その言い方があまりに真面目で、マーリンは少しだけ目元を和らげた。
その時、配膳台の向こう側から声が飛んだ。
「イルクート候補生、スープを取るのを忘れるなよ」
格納庫で見かけた整備兵の一人だった。
大きな声ではない。
けれど、親しみがあった。
ステラはぱっと顔を上げる。
「は、はい! いただきます!」
返事が少し大きい。
近くにいた兵士が小さく笑い、ステラはすぐに頬を赤くした。
「……いただきます」
小さく言い直すと、整備兵は満足そうに頷いて作業着のまま食堂の奥へ歩いていった。
マーリンは、その様子を見ていた。
ステラは、こういうふうに周囲から声をかけられる。
からかわれすぎるわけでもなく、距離を置かれすぎるわけでもない。
少し危なっかしくて、真面目で、返事が大きくて。
だからきっと、放っておけない。
軍学校でも、こんなふうに先輩たちに声をかけられていたのかもしれない。
「皆さん、親切なのね」
マーリンが言うと、ステラは少しだけ目を丸くした。
「はい。厳しい方も多いですけれど、親切です」
それから、慌てて付け足す。
「あ、もちろん、私が候補生だから甘くされているという意味ではなく! 必要な時はちゃんと叱られます!」
「そう」
「はい。とても」
その言い方に、実感がこもっていた。
マーリンは小さく頷き、配られたスープをトレイに乗せる。
見た目は、確かに少し地味だった。
けれど、湯気はまっすぐ立っている。
温かい。
それだけで、今の身体には少し必要なもののように見えた。
「こちらの席が空いています」
ステラが、食堂の端に近い席を見つける。
中央からは少し外れている。
けれど、完全に隅でもない。
周りの様子を見ながら、落ち着いて食べられる位置だった。
偶然なのか、ステラなりに気を使ったのか。
マーリンには分からなかった。
二人は向かい合って座る。
ステラはトレイを置くと、ほっとしたように息を吐いた。
「こうして座ると、少しだけ戻ってきた感じがします」
「戻ってきた感じ?」
「はい。任務中は、ずっと身体のどこかが浮いているような感じがしていましたので」
ステラはスプーンを手に取り、少しだけ笑う。
「食堂に座ると、ああ、ちゃんと艦の中に戻ってきたんだなって」
マーリンは、その言葉を聞いて、手元のスープを見つめた。
戻ってきた。
ステラはそう感じている。
そのことに、マーリンは少しだけ安堵した。
「そうね」
マーリンは静かに答える。
「戻ってこられたのね」
ステラは嬉しそうに頷いた。
その表情を見て、マーリンは思う。
この場所は、華やかではない。
けれど、今のステラにとっては、帰ってきたことを確かめる場所なのだ。
そう思うと、軍艦の食堂も、少しだけ違って見えた。
ステラがスープを一口飲んだ。
少しだけ目を丸くする。
「……本当に、ちゃんとおいしいです」
その声があまりに真面目だったので、マーリンは小さく目元を緩めた。
「よかったわね」
「はい。整備兵の方は正しかったです」
ステラは、ほんの少し誇らしげに頷いた。
その時だった。
近くの席にいた若い兵士が、こちらを見ていることにマーリンは気づいた。
視線が合うと、兵士は慌てたように目を逸らす。
けれど、一度生まれた視線は、そこだけでは終わらなかった。
少し離れた席。
配膳台の前。
食堂の入口近く。
誰かがこちらを見る。
そして、隣の者へ小さく何かを囁く。
ざわめきは、最初は本当に小さかった。
「ロイス公爵令嬢だ」
誰かの声が聞こえた。
「本当に食堂に……」
「リュールの操縦者だろう」
「イルクート候補生もいる」
ステラの手が、スプーンを持ったまま止まった。
「マーリン様……」
少し困ったような声だった。
「気にしなくていいわ」
マーリンは静かに答えた。
こういう視線には慣れている。
羨望。
好奇。
期待。
畏れ。
それらは、マーリンの周りにいつもあった。
学園でも、屋敷でも、式典でも。
だから、微笑むことはできる。
マーリンは、視線を向けてきた兵士たちへ、軽く会釈した。
公爵令嬢として、失礼にならない程度に。
近づきすぎない程度に。
相手を安心させる程度に。
それだけで、向こうの空気が少し揺れた。
「今、礼をされたぞ」
「こちらに?」
「いや、たぶん食堂全体にだろう」
その小さな騒ぎに、ステラはますます姿勢を正してしまう。
「ステラ」
マーリンが呼ぶと、ステラはびくりとした。
「は、はい」
「スープ、冷めてしまうわ」
「あっ」
ステラは慌ててスプーンへ視線を戻す。
「そ、そうですね。冷める前にいただきます」
そう言って、もう一口スープを飲む。
けれど、耳は赤かった。
その様子を見て、近くの整備兵が小さく笑う。
「イルクート候補生、緊張しすぎだ」
「し、していません」
「してるだろ」
「していません」
そのやり取りに、周囲の空気が少しだけ和らいだ。
ステラが皆に可愛がられていることが、そこでも分かった。
彼女は、戦果を上げた英雄というより、無事に帰ってきた後輩として見られている。
それはきっと、悪いことではない。
マーリンはその光景を見て、少しだけ胸の奥が緩むのを感じた。
けれど、ざわめきはそれだけでは終わらなかった。
「初任務で敵四機を止めたって」
誰かが言った。
その言葉に、マーリンの指先が止まる。
敵四機。
止めた。
とても正しい言い方だった。
任務としては、確かにそうだった。
外縁哨戒線への侵入を阻止した。
護衛対象への接近を防いだ。
敵四機を戦闘不能にした。
どれも、記録に残る事実なのだろう。
けれどマーリンの中で、その言葉は別のものに変わる。
赤い光点。
黄色に変わった表示。
消えた反応。
ソードを弾いた感触。
打ち付けた瞬間の、指に伝わるわずかな抵抗。
「二機で四機だぞ」
「しかも初任務だろう?」
「リュールって、本当にあんなに動くんだな」
その声に悪意はない。
むしろ、好意だった。
驚きと、称賛と、ほんの少しの興奮。
戦場で生きて帰ってきた者へ向ける、当然の反応なのかもしれない。
マーリンは分かっている。
分かっているのに、胸の奥が少しずつ冷えていく。
ステラがこちらを見た。
彼女は何か言いたそうにしていたが、言葉を選んでいるようだった。
マーリンは先に微笑んだ。
「大丈夫よ」
そう言うと、ステラは少しだけ眉を下げた。
「……はい」
返事はしたが、納得しきってはいない顔だった。
その気遣いが、ありがたくて、少しだけ苦しかった。
食堂のざわめきは、まだ大きな歓声にはなっていない。
けれど、波のように広がっている。
ロイス公爵令嬢。
リュール。
初任務。
敵四機。
シューティングスター。
イルクート候補生。
いくつもの言葉が、食堂のあちこちから零れてくる。
そのどれもが、今日起きたことを形にしようとしていた。
けれど、マーリンの中にあるものとは、少しずつ違っていた。
マーリンは、冷めかけたスープを見つめる。
湯気はまだ残っている。
温かいはずなのに、手元だけが少し遠く感じた。
ざわめきの中で、誰かが小さく手を叩いた。
最初は、本当に一人分の音だった。
ぱち、ぱち、と控えめに。
食堂の広さに比べれば、あまりにも小さな拍手。
けれど、その音はすぐに隣へ移った。
一人が叩く。
もう一人が続く。
それから、配膳台の前にいた兵士が、トレイを片手にしたまま手を叩いた。
拍手は、少しずつ食堂の中へ広がっていく。
ステラが驚いて顔を上げる。
「えっ」
どこかで声が上がった。
「ロイス公爵令嬢!」
その声に、何人かが頷くように拍手を強めた。
「初任務で敵四機を退けたんだろう!」
「リュールを動かしたって、本当だったんだな」
「イルクート候補生もよく戻った!」
ステラが慌てて背筋を伸ばす。
「あ、ありがとうございます!」
声が少し大きい。
すぐに自分でも気づいたのか、彼女は赤くなって小さく頭を下げ直した。
「……ありがとうございます」
その姿に、近くの整備兵が笑う。
食堂の空気が、ほんの少しだけ明るくなる。
マーリンは、静かに立ち上がった。
座ったまま受けるには、拍手が少し大きくなりすぎていた。
公爵令嬢として、礼を返すべき場面だった。
彼女は食堂全体へ向かって、浅く一礼する。
「皆さま、ありがとうございます」
声はきちんと出た。
微笑みも、きっと崩れていない。
そのはずだった。
拍手がさらに大きくなる。
そして、誰かが言った。
「フルール・デスポワールだ」
その一言で、食堂の空気が変わった。
ロイス公爵令嬢。
リュールの操縦者。
初任務で敵四機を退けた少女。
そういう言葉が、別のものへまとめられていく。
帝国の希望。
フルール・デスポワール。
「フルール・デスポワール!」
声が重なる。
「帝国の希望だ!」
「本当に、敵を退けたんだ」
「これで補給航路も少しは安心だな!」
拍手は歓声に変わっていく。
誰かが立ち上がり、また誰かが名前を呼ぶ。
食堂の中に熱が生まれる。
戦場から戻ってきた者たちが、勝利を確かめるための熱だった。
それは、悪いものではないのだろう。
護衛対象は守られた。
船団は無事だった。
ステラも戻った。
マーリンも、ここに立っている。
喜ぶ理由は、確かにある。
けれど。
マーリンの胸の奥は、少しも温かくならなかった。
フルール・デスポワール。
その名は、いつも綺麗な花のように差し出される。
白く、明るく、誰かを励ますものとして。
暗い時代に咲く、帝国の希望として。
けれど、その花がどこに置かれているのかを、誰も見ようとしない。
戦場だ。
金属と血と、壊れた機体の漂う暗い宇宙の中だ。
希望の花は、今日もそこで敵を退けた。
そう語られるのだろう。
その敵が、誰だったのか。
生きているのか。
死んだのか。
そんなことは、歓声の中では形を持たない。
「マーリン様……」
ステラが、小さく呼んだ。
マーリンは、ほんの少しだけ視線を落とす。
ステラは心配そうにこちらを見ていた。
けれど、その頬にはまだ称賛された時の赤みが残っている。
ステラが嬉しいと思うことを、マーリンは責めたくなかった。
この子は戻ってきた。
役に立てた。
後ろを固められた。
それを認められた。
それは、嬉しいことでいいはずだ。
だからマーリンは、もう一度微笑む。
「大丈夫よ」
そう言うと、ステラは何かを言いかけて、やめた。
歓声はまだ続いている。
「フルール・デスポワール!」
その声が、また食堂のどこかから上がった。
マーリンは浅く一礼した。
花は、笑うものだから。
希望は、俯いてはいけないものだから。
たとえその根が、もう冷たい宇宙に絡め取られ始めていたとしても。
拍手が少しずつ落ち着いても、食堂の熱はすぐには消えなかった。
席に戻ったマーリンのもとへ、何人かの若い兵士や士官候補生が近づいてくる。
みな、どこか興奮した顔をしていた。
戦場から戻った者を見る目。
勝った者を見る目。
そして、帝国の希望を見る目。
「すごいです、マーリン様!」
最初に声をかけてきたのは、まだ若い士官候補生だった。
勢い余って「ロイス公爵令嬢」と呼び損ねたのかもしれない。
けれど本人は、それに気づいていないようだった。
「初任務で敵四機を退けるなんて、もうエース級ですよ!」
エース。
その言葉が、ひどく遠くから聞こえた。
戦場で敵を落とす者。
撃墜数を重ねる者。
勝利を持ち帰る者。
そう呼ばれることが名誉なのだと、マーリンは知っている。
だから、きちんと微笑んだ。
「……そう。よかったわね」
周囲には、謙遜に聞こえただろうか。
あるいは、少し疲れているだけに見えただろうか。
士官候補生は気にした様子もなく、さらに目を輝かせた。
「はい! ロイス公爵令嬢がいれば、この航路もきっと安全になります!」
安全。
その言葉は、少しだけ胸に刺さった。
安全にするために、誰かを戦闘不能にした。
守るために、別の誰かを宇宙に置いてきたかもしれない。
マーリンは、もう一度小さく頷くだけにした。
すると、別の整備兵がステラへ視線を向ける。
「イルクート候補生もよくやったな」
「えっ、私ですか?」
ステラは驚いたように顔を上げた。
「私は、その、敵を落としていませんので!」
慌ててそう言うステラに、近くの兵士が笑う。
「でも、リュールの退路を残したんだろう?」
「そうそう。あそこで回り込みを止めなかったら、危なかったって聞いたぞ」
「初陣でそれができるなら十分だ」
ステラの頬が、じわじわと赤くなっていく。
「あ、ありがとうございます」
彼女は両手を膝の上でぎゅっと握り、深く頭を下げた。
「次は、もっと上手くやります」
「おう。期待してるぞ」
「スープもちゃんと飲めよ、イルクート候補生」
「はい!」
また返事が少し大きい。
周囲が小さく笑う。
ステラは慌てて口元を押さえた。
「……はい」
小さく言い直した声に、またやわらかな笑いが起きる。
マーリンは、その光景を見ていた。
ステラが褒められている。
敵を落としたからではない。
誰かを斬ったからでもない。
後ろを固めたから。
戻る場所を残したから。
そのことが、ほんの少しだけ救いのように思えた。
「よかったわね、ステラ」
マーリンが言うと、ステラはすぐにこちらを向いた。
「はい」
小さく、でも確かに嬉しそうに。
「私、少しだけ役に立てたんですね」
「少しではないわ」
マーリンは静かに答えた。
「あなたが後ろを見てくれたから、私は戻れた」
ステラは、息を止めたように固まった。
それから、耳まで赤くなる。
「そ、それは……その、ありがとうございます」
「お礼を言うのは私の方よ」
「いえ、でも」
「戻れたのは、あなたのおかげでもあるわ」
ステラはもう、何を言えばいいのか分からないという顔をしていた。
その顔が、少しだけ年相応で。
マーリンはほんのわずかに目元を緩めた。
周囲の称賛は、まだ少しざわめきとして残っている。
フルール・デスポワール。
エース級。
初戦果。
帝国の希望。
そういう言葉は、マーリンの胸を冷たくする。
けれど。
ステラが「後ろを固めた」と認められることだけは、少し温かかった。
その温かさがあるからこそ、余計に分からなくなる。
これは喜んでいいことなのか。
それとも、喜んではいけないことなのか。
マーリンは、まだその答えを出せなかった。
ひとしきり声をかけられたあと、二人はようやく食事へ戻った。
戻った、というほどマーリンは手をつけていなかったけれど。
トレイの上には、スープと固めのパン、それから薄く切られた肉と豆の煮込みが並んでいる。
軍艦の食事としては、きっと悪くないのだろう。
湯気が、まだ細く立っていた。
ステラはスプーンを手に取ると、まずスープを一口飲んだ。
それから、ほっとしたように息を吐く。
「……温かいです」
その声は、先ほどまでの照れた声よりも少しだけ落ち着いていた。
「整備兵の方が言っていた通りでした」
「おいしい?」
「はい。温かくて、ほっとします」
ステラは真面目に頷いた。
その真剣さが少しだけおかしくて、マーリンはほんのわずかに目元を緩める。
ステラはもう一口、スープを飲んだ。
疲れているのだろう。いつもより動きはゆっくりだった。
けれど、食べようとしている。
身体を戻すために。
次に動けるように。
そう教わってきた者の食べ方だった。
マーリンは、自分のスープを見下ろした。
湯気は細くなっている。
表面に浮いた油が、食堂の明かりをぼんやり映していた。
温かい。
香りもある。
けれど、喉を通る気がしなかった。
スプーンを持ち上げる。
口元まで運ぶ。
スープの表面に浮いた小さな油が、食堂の明かりを受けて、赤くちらついた。
ほんの一瞬。
それが、表示面の中の光点に見えた。
それまでこちらへ向かっていた敵機の反応が、ふっと消える。
完全に落としたのか。
戦闘不能になっただけなのか。
脱出できたのか。
まだ、分からない。
分からないまま、周囲は勝ったと言っている。
マーリンは、スプーンをそっと下ろした。
「マーリン様?」
ステラが気づく。
「食べないのですか?」
「……少し、疲れているだけよ」
嘘ではなかった。
身体は疲れている。
急旋回の負荷はまだ胃の奥に残っている。
耐Gスーツを脱いだあとも、身体のどこかが締めつけられているような感覚が消えない。
けれど、それだけではない。
ステラは、心配そうにマーリンを見ていた。
何か言いたそうにする。
けれど、言わない。
代わりに、自分のスープへ視線を落とした。
「軍学校では、食べられる時に食べなさいって、よく言われました」
「そうなの」
「はい。緊張している時ほど、あとで動けなくなるからって」
ステラは少しだけ苦笑する。
「最初の頃は、私もあまり食べられませんでした。食堂のざわざわした感じも苦手で」
「今は?」
「今は……少し慣れました」
そう言って、ステラは周囲を見る。
食堂にはまだ声が満ちている。
誰かが笑い、誰かが任務の話をし、誰かがトレイを置く音を立てている。
食器の音も、椅子の音も、会話も、全部が重なっていた。
マーリンには、少し大きすぎる音だった。
ステラはその中に、ちゃんと座っている。
疲れていても、少し青ざめていても、スープを飲み、パンをちぎり、隣の兵士に軽く会釈している。
戻ってきた場所として、ここにいる。
マーリンは、まだ戻りきれていない。
身体は食堂にある。
けれど、意識の端はまだ黒い宇宙に残っている。
左下から回り込んだ敵機。
シューティングスターの肩をかすめたソード。
黄色く変わった表示。
そして、消えた光点。
そのすべてが、食堂のざわめきの奥に薄く重なっている。
「マーリン様」
ステラが、少しだけ声を落とした。
「無理に全部食べなくてもいいと思います」
マーリンは顔を上げる。
ステラは、少し困ったように笑った。
「でも、一口だけでも。温かいので」
その言い方が、まるで先ほど整備兵に言われた言葉を、そのままマーリンへ渡しているようだった。
マーリンは、しばらくスープを見つめた。
それから、もう一度スプーンを手に取る。
今度は、少しだけ口に運んだ。
温かかった。
味は、よく分からない。
おいしいのかどうかも、まだ分からない。
けれど、温度だけは分かった。
喉を通る時、胸の奥に残っていた冷たいものが、ほんの少しだけ輪郭を変えた気がした。
「……温かいわね」
マーリンが言うと、ステラの顔がぱっと明るくなる。
「はい!」
また少し声が大きい。
すぐに周囲を見て、ステラは小さく言い直した。
「……はい」
マーリンは、ほんの少しだけ笑った。
それは、食堂の歓声に向けた微笑みではなかった。
公爵令嬢としての笑みでもない。
ただ、目の前の少女が心配してくれていることに対する、小さな反応だった。
ステラはそれを見て、安心したようにスープをもう一口飲んだ。
マーリンも、もう一口だけ口に運ぶ。
まだ、食べられるとは言えない。
けれど、完全に何も受けつけないわけではなかった。
それだけで、今は十分なのかもしれない。
マーリンはそう思おうとした。
食堂のざわめきは続いている。
歓声の余熱も、まだ残っている。
それでも、スープの温かさと、ステラの沈黙だけは、マーリンのすぐ近くにあった。
食堂の歓声は、少しずつ日常のざわめきへ戻っていった。
ステラは、両手で包んだスープの器を見下ろす。
温かい。
整備兵の人が言っていた通りだった。
見た目よりずっとおいしいし、喉を通ると、まだ少し強張っていた身体の奥がほぐれる気がする。
生きて戻ってきたのだ。
そう思うと、胸の奥がじわりと熱くなった。
怖かった。
本当は、すごく怖かった。
敵機が近づいてきた時。
シューティングスターの肩をソードがかすめた時。
リュールの背後へ敵が踏み込もうとした時。
その全部が、まだ身体のどこかに残っている。
それでも、戻ってきた。
マーリン様も戻ってきた。
だから、ステラは少しだけ嬉しかった。
食堂のどこかで、またマーリンの名が上がる。
「フルール・デスポワール」
その声に、周囲が小さく沸く。
誰かがリュールの機動を話し、誰かが敵四機を退けたことを繰り返す。
ステラは、少し誇らしかった。
マーリン様は、やっぱりすごい。
怖くても、前へ出た。
敵を止めた。
船団を守った。
そして、自分も少しだけ役に立てた。
後ろを見た。
戻る場所を残した。
マーリン様が、「ありがとう」と言ってくれた。
そのことは、まだステラの胸を明るくしている。
けれど。
ステラは、ふと向かいの席を見た。
マーリンは、スプーンを置いたまま静かに座っていた。
食堂の音が届いていないような顔だった。
目の前には、まだほとんど減っていないスープがある。
湯気はもう薄い。
「マーリン様」
ステラは小さく呼んだ。
「少しは、温まりましたか?」
「ええ」
マーリンは頷いた。
「少しだけ」
声は優しかった。
いつものように、きちんとしていた。
けれど、ステラはすぐには安心できなかった。
マーリンの目が、食堂を見ていない気がした。
ここにいるのに、まだどこか遠い。
さっきまでの宇宙に、少しだけ残っているように見えた。
ステラは、何かを言おうとした。
大丈夫ですか。
無理をしていませんか。
食べられないのですか。
どれも違う気がした。
言えば、マーリンはきっと笑って、大丈夫だと言う。
そういう人だと、ステラはもう少しだけ分かっている。
だから、ステラは自分のスープへ視線を落とした。
整備兵の人に言われた通り、温かいものをきちんと入れる。
自分にできることからする。
そして、顔を上げた。
「マーリン様」
「何?」
「……次は、もっとちゃんと後ろを見ます」
それは、今ここで言うべき言葉ではなかったかもしれない。
でも、ステラにはそれしか言えなかった。
マーリンは少しだけ瞬きをした。
それから、静かに頷く。
「ええ。お願いね」
その声は優しかった。
でも、少し遠かった。
ステラは、それ以上何も言わなかった。
食堂のざわめきは続いている。
勝った。
戻ってきた。
守れた。
そのすべては、きっと正しい。
けれど、向かいに座るマーリンは、まだどこかへ戻りきれていない。
ステラは、そう思った。
そして、温かいはずのスープを、もう一口だけ飲んだ。
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