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笑顔の重さ

ご覧いただきありがとうございます。

評価、ブックマークしていただきありがとうございます。

入学式からさらに数日が過ぎ、歓迎行事の準備期間に入ると、生徒会への協力は特別な用事ではなくなっていた。


最初は、本館二階の新入生控室に届いた白い封筒だった。


学園の紋章。


整った文字。


新入生代表としての確認。


ブライアンの丁寧な依頼。


それは一度きりの手伝いに見えた。


けれど、白い封筒はやがて薄い資料になり、薄い資料は短い伝言になり、短い伝言は廊下での呼び止めに変わっていった。


講義の前。


昼食の後。


社交用サロンへ向かう途中。


控え室で髪を整えられている短い間。


マーリンの日常の隙間に、ほんの少しの確認が入り込んでくる。


歓迎行事の席次。


来賓の導線。


挨拶文の言い回し。


花飾りの位置。


地方貴族への案内順。


軍関係者の控え室。


ひとつひとつは、本当に小さい。


机いっぱいに広がるような仕事ではない。


徹夜を命じられるわけでもない。


怒鳴られるわけでもない。


むしろ、みんな丁寧だった。


「ロイス嬢のお手が空いている時で構いません」


「確認だけで結構です」


「あなたに見ていただけると助かります」


助かる。


その言葉を向けられるたび、マーリンは断り方を少しずつ失っていった。


頼られることは、嬉しい。


必要とされることも、嫌ではない。


誰かが困っていて、自分に手を伸ばせる距離なら、放っておきたくない。


それは嘘ではない。


むしろ、マーリンの本心だった。


だから余計に厄介だった。


嫌なら、断れる。


無理なら、下がれる。


不当なら、拒める。


けれど、それが嫌ではなく、無理というほどでもなく、筋も通っている時、人は案外逃げられない。


マーリンは資料に目を通し、席順を直し、言葉を選び、場が丸く収まる形を探す。


どの名を先に置けば角が立たないか。


どの家を近づけすぎると噂になるか。


どの挨拶文なら上位貴族が満足し、地方貴族も置き去りにされないか。


どの導線なら、軍関係者と文官が不自然に交わらずに済むか。


読めば、道筋が見える。


少し考えれば、整え方が浮かぶ。


身体が、いつものように正しい角度を探していく。


ロイス家の名を傷つけず。


学園の面子を守り。


誰かの顔を潰さず。


場を美しく見せる形。


マーリンの手が入ると、紙の上の皺はきれいに伸びた。


だから、また次が来る。


その日、マーリンは本館二階の生徒会室にいた。


窓の外には中庭が見える。


白い花壇が風に揺れていた。


大広間ほど華やかではないが、生徒会室もよく整えられている。机は磨かれ、資料は種類ごとに分けられ、インク瓶の位置まで揃っていた。


整いすぎていて、少しだけ息が詰まる。


その整い方は、ブライアンに似ていた。


「ロイス嬢のおかげで、歓迎行事の進行がずいぶん整いました」


ブライアンは資料に目を落としながら言った。


声は穏やかだった。


褒める時でさえ、彼は場を乱さない。


「お役に立てたのであれば、何よりです」


マーリンは微笑む。


その笑みは美しく、穏やかで、誰が見ても疲れなど感じさせない。


だから、周囲は安心する。


生徒会役員たちの肩から力が抜ける。


学園側の教師も、ほっとした顔になる。


ブライアンもまた、静かにうなずいた。


「ですが、無理はなさらないでください。あなたのお力を借りられるだけで、我々は十分に助かっています」


それは気遣いだった。


間違いなく。


言葉の形も正しい。


ブライアンは、マーリンを使い潰そうとしているわけではない。


少なくとも、この時点では。


けれどマーリンには、別の響きも混じって聞こえた。


あなたの力が必要だ。


あなたがいれば助かる。


あなたなら整えられる。


その言葉は優しい。


優しいから、逃げにくい。


責められているなら、まだ楽だった。


命じられているなら、嫌だと思う余地がある。


けれど、助かると言われる。


必要だと言われる。


それも、とても礼儀正しく。


マーリンは胸の奥に落ちた小さな重さを、微笑みで覆った。


「大丈夫です、ブライアン様。無理などしておりません」


そう答えれば、場は整う。


誰も困らない。


誰も心配しない。


誰も皺の寄った顔をしない。


だから、笑う。


ブライアンはその笑顔を見て、少しだけ表情をやわらげた。


「それなら安心しました」


安心。


また、その言葉だった。


マーリンは静かにうなずく。


「ご確認いただいた挨拶文ですが、こちらの一文を残してもよろしいでしょうか」


ブライアンが紙を差し出す。


マーリンは受け取る。


ほんの数行。


本当に、ほんの数行だけ。


けれど、その一文の中にある「帝国の若き礎」という表現は、地方貴族には少し重く響くかもしれない。上位貴族の子女には誇らしいが、下位の家には役割を押しつけられたようにも聞こえる。


「こちらは、少し柔らかくした方がよいかもしれません」


マーリンは指先で文字を示した。


「礎、ではなく、担い手。あるいは、学び手。新入生全体へ向けるなら、その方が角が立ちにくいと思います」


「なるほど」


ブライアンはすぐにうなずく。


「では、担い手に」


「その前に、共に、を入れるとよりよいかと。共に未来を担う学び手、でしたら、上から役割を与える響きが薄れます」


「美しい表現です」


「言葉を薄めただけですわ」


「必要な調整です。人は、言葉の重さを時に見落としますから」


ブライアンの言葉は、正しかった。


とても正しい。


だからマーリンは、少し困る。


見落とされている言葉の重さなら、今、マーリンの胸にも積もっている。


助かる。


必要だ。


ロイス嬢なら。


それらは美しい花のような顔をして、彼女の腕に紙を増やしていく。


「こちらの控え室割りについても、一点だけ」


ブライアンは別の紙を示した。


「軍関係者と工廠関係者の動線が重なります。現場からは問題ないとの返答でしたが、ロイス嬢の目から見て、不自然はありますか」


一枚だけ。


一点だけ。


その言い方は、いつもとても軽い。


マーリンは紙へ視線を落とした。


控え室の配置図。


廊下の曲がり角。


来賓の入退室順。


控え室の番号。


少し眺めただけで、そこに詰まりが見える。


「このままですと、軍務省の方が入室される時、フェアチャイルド系の工廠関係者と正面で重なります。表向きは問題ないと思いますが、挨拶の順が乱れるかもしれません」


「では、控え室を入れ替えた方が?」


「完全に入れ替えると、今度は地方伯爵家の方々が奥へ追いやられたように見えます。こちらの小応接室を一時待機に使えば、導線はかなり滑らかになるかと」


「小応接室ですか」


ブライアンはすぐに配置図へ印をつける。


迷いがない。


「確かに。では、その案で進めましょう」


「まだ案ですわ。学園側のご都合もあるでしょうし」


「調整は生徒会で行います。ロイス嬢は、判断を示してくださいました」


判断。


その言葉が、また小さく胸に触れる。


マーリンの言葉が、誰かの行動を決めていく。


その感覚は、少し怖くて、少し面白い。


そして、少し嬉しい。


「ロイス嬢」


ブライアンは資料を整えながら、穏やかに言った。


「あなたは、場の歪みを見つけるのがお上手ですね」


「歪み、ですか」


「ええ。紙の上では正しいものが、実際の場では不自然になることがあります。家格、派閥、感情、過去の経緯。そういったものを含めて見なければ、社交は整いません」


「私は、教えられたことをなぞっているだけです」


「それを自然に扱える方は多くありません」


自然に。


その言葉に、マーリンは少しだけ目を伏せた。


自然に見えるだけだ。


たくさん直されて、たくさん覚えて、たくさん間違えないようにしてきただけ。


それでも、できているように見えるなら、周囲は安心する。


誰も、その練習の跡を見ない。


「本当に、助かりました」


ブライアンは時間を確認した。


「本日の講義に遅れないようになさってください。こちらは生徒会で修正します」


気遣いはある。


それも確かだった。


ブライアンはマーリンを拘束しすぎないようにしている。


彼は雑ではない。


乱暴でもない。


むしろ、どこまでも正しい。


「はい。では、失礼いたします」


マーリンは礼をして、生徒会室を出た。


廊下に出ると、腕の中には資料が数枚残っていた。


返すはずだったものが、確認用として残った。


確認用。


便利な言葉だった。


持ち帰っても、仕事とは呼ばれない。


少し目を通せば済む。


そういう顔をして、資料は白く軽かった。


クリスチーナだけは、その笑顔をそのまま受け取らなかった。


彼女は一歩後ろで、マーリンの変化を見ている。


ティーカップを持つ時間が少し長くなった。


甘い菓子に手を伸ばす回数が減った。


返事の前に、ほんのわずか息を整えるようになった。


笑うまでの間が、少し遅くなった。


誰にも分からないほどの違い。


けれど、クリスチーナには見える。


マーリンの「大丈夫」は、本当に大丈夫な時ほど出てこない。


本館二階の新入生控室へ戻ると、クリスチーナは湯気の立つ紅茶を淹れ、マーリンの前に置いた。


窓際の小さな机。


午後の光。


廊下を行き交う足音。


部屋の外は穏やかだった。


「お嬢様。少し、お休みください」


マーリンは椅子に座り、資料を膝の上に置いたまま笑った。


「休んでいるわ、クリス」


「資料をお閉じください」


「少し確認するだけよ」


「お嬢様」


その声は、いつもより少しだけ強かった。


マーリンは瞬きをする。


それから、困ったように笑った。


「……そんな顔をしないで。大丈夫だから」


また、その言葉。


クリスチーナの指先が、ティーポットの取っ手に触れたまま止まる。


大丈夫。


何度も聞いた。


幼い頃から、マーリンはよくそう言った。


転んで膝を擦りむいた時も。


ロイス公爵から厳しい言葉を受けた後も。


人前で完璧な礼を求められた時も。


大丈夫と言って笑う時、マーリンはたいてい大丈夫ではなかった。


クリスチーナは、今すぐ資料を取り上げたいと思った。


もう休んでくださいと、命じるように言いたかった。


けれど、それはできない。


彼女は侍女であり、マーリンの一歩後ろに立つ者だ。


主の意思を越えて動けば、それは支えではなく押しつけになる。


まして、生徒会への協力は筋の通った依頼で、マーリン自身も嫌がってはいない。


だから、強く止める理由を持てない。


守りたい。


けれど、守るには理由がいる。


そのことが、クリスチーナには悔しかった。


マーリンはティーカップを手に取る。


一口飲んで、ようやく資料を閉じた。


「ほら、閉じたわ」


少し得意げな顔だった。


クリスチーナは叱るべきか迷い、結局、小さく息を吐く。


「閉じただけでございます」


「休む第一歩でしょう?」


「第一歩で終わらないことを願っております」


マーリンはくすりと笑う。


その笑顔は、少しだけ本物だった。


クリスチーナはその一瞬に安堵する。


けれど安堵は長く続かない。


控え室の扉が、軽く叩かれた。


クリスチーナが扉へ向かう。


外に立っていたのは、生徒会補佐らしき生徒だった。生徒会の腕章をつけ、申し訳なさそうに書類を抱えている。


名前は名乗らない。


必要な距離で礼をし、声を低くした。


「ロイス嬢に、確認をお願いしたいと伺っております。歓迎行事の進行表に修正が入りまして、可能であれば一度ご意見をいただけないでしょうか」


可能であれば。


一度だけ。


ご意見。


ひとつひとつが軽い言葉だった。


マーリンは反射的に顔を上げる。


クリスチーナは止めようとした。


だが、マーリンの返事の方が早かった。


「ええ。すぐに伺います」


声は明るく、柔らかかった。


誰かを安心させるための声。


クリスチーナは、その声を聞いて胸が沈む。


マーリンは立ち上がる。


閉じたばかりの資料を手に取り、鏡の前で髪を整える。


白い髪は乱れていない。


けれど彼女は、念のため指先で整える。


表情はもう、いつもの公爵令嬢のものに戻っている。


「お嬢様」


クリスチーナは呼んだ。


マーリンは振り返る。


「本当に大丈夫よ、クリス。少し確認して戻るだけ」


少し。


その言葉もまた、便利すぎた。


「控え室へお戻りになったばかりでございます」


「だから、すぐ戻るわ」


「紅茶もまだ」


「冷める前に戻れたら、私の勝ちね」


冗談めかした言葉だった。


軽い。


いつものマーリンらしい。


けれど、クリスチーナは笑えなかった。


マーリンはそれに気づいて、少しだけ目を伏せる。


ほんの一瞬。


だが、すぐに微笑みを戻した。


「行きましょう」


廊下に出ると、学園の空気は穏やかだった。


窓の外には中庭が見え、白い花が風に揺れている。


遠くで講義室の扉が開き、生徒たちの声が少しだけこぼれる。


戦争中の帝国だということを、ふと忘れそうになるほど美しい。


けれどマーリンの腕の中には、また資料が増えている。


まだ軽い。


歩けないほどではない。


笑えないほどでもない。


だから、マーリンは笑える。


それが余計に、クリスチーナには怖かった。


マーリンは自分の疲れに鈍いわけではない。


疲れていることには、おそらく気づいている。


けれど、それを止まる理由にするのが下手だった。


役に立てる。


頼られている。


自分が見れば早く済む。


それなら、もう少しだけ。


その「もう少し」は、いつも静かに増えていく。


回廊を歩きながら、生徒会補佐の生徒が慌てたように言った。


「本当に、急ぎでなければ後でも」


「いいえ。呼びに来てくださったのですもの。確認いたします」


「ありがとうございます。ロイス嬢に見ていただけると、皆が安心します」


また、安心。


マーリンは微笑む。


「それなら、急ぎましょう」


廊下の床に、窓からの光が長く落ちている。


マーリンはその上を歩いた。


光の線を踏むたび、腕の中の紙が少しずつ重くなるような気がした。


それでも彼女の歩幅は乱れない。


白い手袋の指先だけが、資料の端を少し強く押さえていた。


回廊の角を曲がったところで、マーリンは足を止めた。


先に、人影があった。


黒い髪。


静かな蒼い瞳。


壁際に立っていた青年は、こちらへ向き直ると、まずマーリンの腕の資料を見た。


それから顔を見る。


笑顔ではなく、目元を見る。


礼装の乱れではなく、呼吸を見る。


ミハイルだった。


偶然ではない。


少なくとも、マーリンにはそう見えなかった。


マーリンは反射的に微笑む。


「ミハイル様。ごきげんよう」


公の場の呼び方。


正しい距離。


逃げ道のような礼儀。


だが、ミハイルはそこに乗ってこなかった。


彼は一歩近づき、低く言う。


「マーリン嬢。少し、話を」


マーリンは笑顔のまま、ほんの少しだけ困った。


「これから生徒会室へ伺うところですの」


「その前に」


「急ぎの確認だそうです」


「その前に」


同じ言葉。


短く、逃がす気がない。


廊下には他の生徒もいる。


だからミハイルは声を荒らげない。


近づきすぎもしない。


それでも、退かない。


クリスチーナは一歩後ろで、静かに息を吐いた。


今度は、自分だけではない。


ミハイルも気づいている。


マーリンの笑顔が、少しずつ重くなっていることに。


生徒会補佐の生徒が戸惑ったように立ち止まる。


「ロイス嬢……?」


マーリンはすぐにそちらへ顔を向け、いつもの笑みを戻した。


「少しだけお待ちください。すぐに参ります」


「は、はい」


その返事に、ミハイルの眉がわずかに寄った。


少しだけ。


すぐに。


便利な言葉が、また増える。


「ミハイル様」


マーリンは、柔らかく言った。


「本当に大丈夫です」


ミハイルは、その言葉を遮らなかった。


代わりに、まったく信じない目で彼女を見た。


クリスチーナもまた、同じ目をしていた。


二人に見つめられ、マーリンは初めて少しだけ笑い損ねた。


希望の花の笑顔が、ほんの一瞬だけ重さに負ける。


その一瞬を、ミハイルは逃さなかった。


「その顔で、大丈夫と言うな」


声は静かだった。


けれど、廊下の空気が少しだけ止まった。


マーリンは資料を抱えたまま、指先に力を入れる。


紙の角が白い手袋に食い込んだ。


痛いほどではない。


けれど、確かにそこにある。


「……本当に、少し確認して戻るだけなの」


「それを何回言った」


マーリンは返せなかった。


ミハイルの視線は厳しい。


けれど、責めるための厳しさではない。


落ちかけているものを、どうにか引き止めようとする目だった。


「マーリン嬢」


ミハイルは、公の呼び方のまま言った。


「話を」


逃げられない。


少なくとも、このまま笑って通り過ぎることはできない。


クリスチーナは一歩後ろで、深くは頷かず、ただ静かに立っていた。


その沈黙が、同じ意見を示していた。


マーリンは、生徒会補佐の生徒へ向き直る。


「申し訳ありません。確認は少し遅れます。急ぎの箇所だけ、先に生徒会室へお戻しください」


言葉はきれいに整っていた。


でも、口にするのに少しだけ力がいった。


生徒会補佐の生徒は驚いた顔をしたが、すぐに礼をする。


「かしこまりました。お伝えいたします」


足音が離れていく。


回廊に、短い沈黙が落ちた。


腕の中の資料は、まだ軽い。


けれど、軽いものばかりが積もっている。


そのことを、マーリンだけがまだ上手に認められずにいた。


窓の外で、白い花が風に揺れる。


決められた場所で、きれいに咲いている。


マーリンはその花を見て、ほんの少しだけ息を吸った。


笑顔はまだ顔の上にある。


けれど、その笑顔は、さっきより少し重かった。

ここまでお読みいただき有り難うございました。

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