名前で呼ばれたい少女
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軍事軌道上の施設は、地上よりも静かだった。
正確には、音がないわけではない。
低く響く空調音。どこか遠くで鳴る機械の駆動音。整備兵たちが交わす短い声。金属床を踏む靴音。
けれど、それらはすべて白い壁と厚い隔壁に吸い込まれて、必要な分だけ残されているように聞こえた。
マーリンは、案内された通路を歩きながら、少しだけ指先を握った。
今日は訓練ではない。
出撃でもない。
前回のシミュレーター訓練結果を受けた、機体調整と連携データの確認。
正式な呼出状には、そう記されていた。
正しい言葉だった。
そして、いつものように少しだけ冷たかった。
「ロイス公爵令嬢。こちらです」
案内役の士官が立ち止まった先に、格納庫へ続く扉があった。
扉が開く。
白い照明が、整然と並んだ整備台と機材を照らしていた。
整備兵たちが端末を手に行き交い、技術士官が投影された数値を確認している。
その奥に、二機があった。
リュール。
そして、シューティングスター。
広い格納庫の奥では、リュールとシューティングスターが並んで整備を受けている。
二機一組という言葉が、今日は少しだけ形を持って見えた。
マーリンは、足を止めかけた。
リュールの白い装甲を見ると、胸の奥がかすかに冷える。
ただそこにあるだけで、マーリンの指先に魔力の糸の感覚を思い出させた。
けれど今日は、その隣にシューティングスターがいる。
リュールより少し細く、軽やかな輪郭。
白を基調とした装甲には、淡い空色のラインが肩から腕部へ、脚部へと細く走っていた。派手ではない。けれど、その色はどこか、ステラの瞳を思わせた。
シューティングスター。
名前の通り、流れ星の尾を引くような機体だった。
ステラの機体。
そう思った瞬間、マーリンは前回の訓練記録を思い出した。
赤く途切れた軌跡。
それでも、リュールの後ろへ戻ろうとしていた線。
「ロイス公爵令嬢!」
明るい声がして、マーリンは視線を戻した。
シューティングスターの足元近くに、ステラがいた。
今日は簡易な軍装姿だった。手には端末を持ち、整備兵の説明を真剣に聞いていたらしい。
「お待ちしておりました」
ステラはぴんと背筋を伸ばし、いつものように少し勢いよく頭を下げた。
その横で、整備兵が端末を抱えたまま一歩引く。
ステラはそれに気づいて、少しだけ頬を赤くした。
「……失礼しました」
「いいえ」
マーリンは小さく首を振る。
「熱心なのね」
「はい!」
ステラは顔を上げた。
空色の瞳が、ぱっと明るくなる。
「前回の訓練記録を基に、シューティングスターの追従補正と支援位置の維持設定を確認していました。私が斜め下に残る場合、リュールとの通信遅延をもう少し短くできないかと思いまして」
言い終えてから、ステラは少しだけ口を閉じた。
「……すみません。説明が長くなりました」
「いいえ。分かりやすかったわ」
本当に、そう思った。
少なくとも、ステラが何を見て、何を考えているのかは伝わった。
マーリンは、シューティングスターを見上げる。
もう単なる資料の中の名前ではない。
ステラが乗る機体で、ステラが後ろを固めるための場所だ。
「調整は順調なの?」
「はい。整備班の方々が、とても丁寧に見てくださっています」
ステラはそう言って、近くの整備兵へ向き直る。
「先ほどの支援位置維持の件、次の確認までにもう一度見直していただけますでしょうか」
「了解しました、イルクート候補生」
整備兵が頷く。
ステラは礼を返し、すぐに端末へ目を落とした。
その横顔は真剣だった。
明るく、よく慌てる少女。
けれど、訓練と機体のことになると、きちんと目が変わる。
マーリンは、そのことを前より少し自然に受け止めていた。
「ロイス公爵令嬢」
ステラがまた顔を上げる。
「このあと、連携データの確認を行うそうです。もしよろしければ、前回の支援位置について一緒に確認していただけますか」
ロイス公爵令嬢。
礼儀正しく、間違いのない呼び方だった。
マーリンは頷く。
「ええ。もちろん」
ステラは嬉しそうに笑った。
その笑顔は、以前より少し近く見えた。
けれど呼び方だけは、まだ少し遠かった。
格納庫に併設された調整スペースには、リュールとシューティングスターの連携データが投影されていた。
前回の訓練で記録された二本の軌跡。
リュールが前へ出る線。
シューティングスターがその後ろへ戻ろうとする線。
整備兵が端末を操作すると、赤く途切れた箇所が淡く点滅した。
「ここで支援位置が崩れています」
ステラは端末を覗き込む。
「はい。私がもう少し早く斜め下へ残れれば、射線を避けられたと思います。なので、推力をもう少し強くすることはできますか?」
「可能です。ただ、追従補正を強めすぎると魔力消費が増えます」
「では、補正ではなく、表示の方を調整できますか。ロイス公爵令嬢が加速される前に、こちらで兆候を拾いやすくしたいんです」
ステラは、端末に表示されたリュールの軌跡を指先で示した。
「私が早く気づければ、ロイス公爵令嬢を無理に追いかけなくて済みますから」
ロイス公爵令嬢。
その呼び方は、白い調整スペースの中で丁寧に響いた。
マーリンは、投影された軌跡を見ながら小さく頷く。
ステラの言っていることは分かる。
彼女は、自分が追いつけなかったことを機体だけのせいにはしていない。
どこを見ればよいのか。どの位置に残ればいいのか。どうすれば次に落ちないのか。
そのために考えている。
「ロイス公爵令嬢」
ステラが振り向いた。
「前回、加速の直前にリュールの姿勢がわずかに沈みました。あれは意識して行っている動きでしょうか」
「……たぶん、意識はしていなかったと思うわ」
「やはり感覚的なものですか?」
「ええ。嫌な感じがする時と、似ているかもしれない」
「分かりました。では、そのあたりも含めて見ます」
ステラは真剣に端末へ入力する。
ロイス公爵令嬢。
また、そう呼ばれた。
間違ってはいない。
マーリンはロイス公爵家の令嬢であり、ステラはイルクート伯爵家の娘で、帝国宇宙軍の士官候補生だ。
身分としても、立場としても、その呼び方は正しい。
けれど、正しい呼び方は、時々少しだけ遠い。
前回の訓練のあと、ステラは言った。
後ろを固める、と。
帰ってこられる位置にいる、と。
そして今日は、彼女は本当にそのための調整をしている。
リュールの後ろを見るために、シューティングスターの表示を変えようとしている。
それなのに、呼び方だけはまだ会議室の中にいるようだった。
「ロイス公爵令嬢、この表示色ですが」
「ええ」
「警告を強くしすぎると、かえって視界を邪魔するかもしれません。私の側だけ調整していただく形でよいでしょうか」
「ステ……」
マーリンは、言いかけて止まった。
ステラ。
そう呼ぼうとしたのだと、遅れて気づく。
まだ、そう呼んだことはない。
それどころか、そう呼んでいいと許されたわけでもない。
マーリンは一度、目を伏せる。
「イルクート候補生の判断に任せます」
「はい!」
ステラは嬉しそうに返事をした。
明るい。
いつものように、少し大きい。
整備兵の一人が小さく笑いそうになり、すぐに端末へ視線を戻す。
ステラは気づいていない。
その無邪気さに、マーリンの胸が少しだけやわらいだ。
けれど同時に、呼び損ねた名前が舌の上に残った。
ステラ。
短い名前だった。
イルクート候補生よりも、ずっと近い。
けれど、その近さが少し怖かった。
「ロイス公爵令嬢?」
ステラが首をかしげる。
「どうかなさいましたか」
「いいえ」
マーリンは首を横に振る。
「少し、考えごとをしていただけ」
「お疲れですか?」
「そうではないわ」
「では、何か気になるところが?」
ステラはすぐに端末を構え直す。
その顔があまりに真剣だったので、マーリンは少しだけ困ってしまった。
「今は、人形のことではないの」
「そうですか?」
「ええ」
ステラは不思議そうに瞬きをした。
けれど、それ以上は聞かなかった。
聞きたい気持ちはありそうだったが、きちんと飲み込んだ顔だった。
その控え方さえ、礼儀正しい。
礼儀正しいから、遠い。
マーリンは格納庫の奥を見た。
リュールとシューティングスターは並んでいる。
同じ照明の下で調整を受けている。
二機はもう、並ぶものとして扱われている。
それなのに、自分たちはまだ少し離れている。
呼び方ひとつで、そんなことを思うのはおかしいのかもしれない。
けれど、マーリンは思ってしまった。
「ロイス公爵令嬢」
ステラが、また呼んだ。
今度は少しだけ迷いがあった。
「はい」
「その……あとで、少しだけお時間をいただいてもよろしいでしょうか」
マーリンはステラを見る。
空色の瞳が、少しだけ揺れていた。
機体の話をしている時とは違う緊張だった。
「構いません」
「ありがとうございます」
ステラはほっとしたように笑った。
その笑顔は、さっきよりも少し近かった。
けれど、彼女の口から出る呼び名だけは、まだ遠いままだった。
調整確認が一段落すると、整備兵たちはそれぞれの作業へ戻っていった。
投影されていた連携データは縮小され、壁面の端へ移される。
リュールとシューティングスターの足元では、整備用アームが静かに動き続けていた。
金属の擦れる音。
端末の操作音。
誰かが短く交わす確認の声。
格納庫は相変わらず忙しい。
けれど、マーリンとステラの周りだけは、ほんの少し余白ができていた。
「それで」
マーリンは、ステラへ視線を向ける。
「私に話があるのではなかったかしら」
「は、はい」
ステラは、端末を胸の前で抱え直した。
その動きが、訓練中の彼女とはまるで違っていた。
機体の調整や支援位置の話をしている時は、あれほどはっきり言葉が出るのに、今は視線が少し泳いでいる。
「ええと、その……とても個人的なお願いなのですが」
「個人的な?」
「はい。任務や機体調整とは、あまり関係のないことでして」
そこでステラは、一度だけ周囲を見た。
近くの整備兵たちは作業に戻っている。
けれど、ここは格納庫だ。声を張れば、それなりに響く。
ステラはそれに気づいたのか、少しだけ声を落とした。
「もし、ご迷惑でなければ」
「ええ」
マーリンは静かに待った。
急かしてはいけない気がした。
ステラが今から言おうとしていることは、彼女にとって訓練で前へ出るより勇気がいることなのかもしれない。
ステラは唇を結び、そして勢いよく顔を上げた。
「す、ステラと!」
思ったより大きな声だった。
近くで配線確認をしていた整備兵が、ぴたりと手を止める。
別の技術士官も、端末から顔を上げた。
ステラの顔が、一瞬で赤くなる。
それでも、彼女は言い切った。
「私の事は、ステラとお呼びください!」
格納庫に、少しだけ沈黙が落ちた。
マーリンは目を瞬かせた。
予想していなかった。
いや、少しだけ予想していたのかもしれない。
先ほど、何度も「ロイス公爵令嬢」と呼ばれるたびに、呼び方の距離を感じていた。
ならば、ステラも同じように何かを感じていたとしても、不思議ではない。
けれど、ここまで勢いよく言われるとは思っていなかった。
「ステラ……」
マーリンは、そっとその名を口の中で転がした。
ステラは、さらに赤くなった。
「あ、いえ、今すぐでなくても構いません! もちろん任務中は正式な呼称で問題ありませんし、通信記録に残る場面ではイルクート候補生で当然ですし、その、私も立場は弁えておりますので!」
言葉が早い。
たぶん、言い出す前に何度も頭の中で練習していたのだろう。
その練習した言葉が、今いっせいに飛び出している。
「ただ……」
ステラの声が、少しだけ小さくなった。
「普段だけでも、ステラと呼んでいただけたら、嬉しいです」
その最後の言葉は、とても素直だった。
整備兵たちは、さりげなく作業へ戻っている。
聞こえていないふりをしているだけかもしれない。
けれど、その気遣いが逆にステラをさらに恥ずかしがらせていた。
マーリンは、少しだけ目元を緩める。
「イルクート候補生、では遠い?」
「……少し」
ステラは正直に頷いた。
「ロイス公爵令嬢の隣に立つのに、いつまでも候補生のままだと、少しだけ……その、背中に追いつけない気がして」
「名前で呼べば、追いつけるの?」
「いえっ、そういう意味ではありません!」
ステラは慌てて首を振った。
「ただ、気持ちの問題です。私が勝手に、そう思っているだけなのですが」
そこで、彼女は端末をぎゅっと抱え直した。
「バディ、ですから」
小さな声だった。
けれど、はっきり聞こえた。
バディ。
その言葉は、軍の運用用語のはずだった。
二機一組。
互いの死角を補い、退路を作り、生還率を上げるための編成。
けれど、ステラが言うと、それだけではないものに聞こえる。
「……そうね」
マーリンは静かに答えた。
「バディ、なのよね」
ステラは少しだけ不安そうにマーリンを見る。
断られると思っているのかもしれない。
厚かましいと思われるかもしれないと、そう考えている顔だった。
マーリンは、そんな彼女へ小さく首を振る。
「迷惑ではないわ」
ステラの顔がぱっと明るくなる。
「本当ですか?」
「ええ」
「では」
期待に満ちた目で見つめられて、マーリンは少しだけ困った。
これほど分かりやすく喜ばれると、かえって慎重になる。
けれど、拒む理由はなかった。
むしろ、呼びたいと思っていたのは、自分も同じだったのだから。
「では、そうさせてもらおうかしら」
マーリンは言った。
「ステラ」
その名を口にした瞬間、ステラは固まった。
空色の瞳が大きく開かれる。
口が少しだけ開き、すぐに閉じる。
それから、両手で抱えていた端末を落としそうになって慌てて持ち直した。
「は、はい!」
また声が大きい。
今度は遠くの整備兵までちらりと振り返った。
ステラは真っ赤になりながら、頭を下げる。
「ありがとうございます!」
マーリンは、ほんの少しだけ笑いそうになった。
「お礼を言われるほどのことではないわ」
「いえ、私にとっては、とても大事なことです」
その言葉は、明るいのに、どこか真剣だった。
マーリンは、ステラを見つめる。
伯爵家の令嬢。
一等士官候補生。
シューティングスターの操縦者。
自分の後ろを固めると言った少女。
そのどれでもあるけれど、今目の前にいるのは、名前を呼ばれて嬉しそうにしている一人の少女だった。
「ステラ」
マーリンはもう一度、少しだけ確かめるように呼んだ。
ステラは、今度は小さく返事をした。
「はい」
その声は、さっきよりずっと柔らかかった。
ステラ、と呼ばれた少女は、まだ少し頬を赤くしていた。
端末を胸に抱えたまま、嬉しさを隠そうとしている。
けれど、空色の瞳があまりにも分かりやすく輝いていた。
マーリンは、その様子を見ているうちに、ふと思った。
ステラは、自分の名を差し出したのだ。
イルクート候補生ではなく。
イルクート伯爵家の令嬢でもなく。
シューティングスターの操縦者でもなく。
ただ、ステラと。
そのことが、少しだけ羨ましかった。
「では」
マーリンは、静かに口を開いた。
「私のことは、マーリンと呼んで頂戴」
ステラが、ぴたりと固まった。
先ほどまで整備音の中に紛れていた空気が、そこだけ止まったように見えた。
「……はい?」
「聞こえなかった?」
「い、いえ! 聞こえました! とてもよく聞こえました!」
ステラは慌てて首を振る。
それから、端末を抱えたまま一歩下がった。
「ですが、それは、その、いけません!」
「いけないの?」
「いけません!」
即答だった。
マーリンは少しだけ首をかしげる。
「どうして?」
「どうしてって……ロイス公爵令嬢は、ロイス公爵令嬢です!」
「それはそうね」
「ガイア帝国の公爵家のご令嬢で、フルール・デスポワールで、リュールの操縦者で、ええと、その、とにかく、とてもすごい方です!」
「最後がずいぶん曖昧ね」
「すみません!」
ステラは勢いよく頭を下げた。
その声がまた少し格納庫に響く。
近くにいた整備兵の一人が、聞こえないふりをして端末を操作していた。
マーリンは、ほんの少し目元を緩める。
「私は、あなたをステラと呼ぶのでしょう?」
「はい。それは、その、お願いしました」
「なら、私も名前で呼ばれたいわ」
ステラは、ますます困った顔をした。
「ですが、さすがに呼び捨ては……」
「任務中でなければ、構わないと思うけれど」
「私が構います!」
「あなたが?」
「はい!」
ステラは真剣だった。
本当に、心の底から困っているらしい。
「だって、そんなことをしたら、後ろから刺されちゃいます!」
マーリンは、一瞬だけ返事を忘れた。
「……誰が刺すの?」
「たくさんです!」
「たくさん」
「はい。たくさんです。ロイス家の方とか、帝国宇宙軍の方とか、ロイス公爵令嬢を崇敬している方々とか、たぶん本当にたくさんです」
「崇敬は少し大げさではないかしら」
「大げさではありません!」
ステラはきっぱりと言った。
その真剣さがおかしくて、マーリンは少しだけ笑ってしまった。
「……ふふっ」
ほんの短い声だった。
ステラはそれを見て、ぱっと目を開く。
「あ」
「何?」
「いえ、その……今」
「今?」
「いえ。何でもありません」
ステラは慌てて首を振った。
けれど、嬉しそうなのは隠せていなかった。
マーリンは、格納庫の奥へ視線を向ける。
リュールとシューティングスターが並んでいる。
二機とも、白い照明の下で静かに調整を受けていた。
あの機体に乗れば、自分たちはまたロイス公爵令嬢とイルクート候補生になる。
通信記録に残る呼称。
命令系統に必要な立場。
報告書に書かれる名前。
それはきっと必要なものなのだろう。
けれど、それだけでいたいわけではなかった。
「ロイス公爵令嬢という呼び方は、間違っていないわ」
マーリンは言った。
ステラは姿勢を正す。
「でも、その中には家の名前も、立場も、いろいろなものが入っているでしょう」
「……はい」
「慣れてはいるの。ずっと、そう呼ばれてきたから」
マーリンは、リュールを見つめたまま続ける。
「けれど、時々、少し遠いの」
ステラは何も言わなかった。
さっきまでの慌てた様子が、少しだけ静まっている。
「私はロイス公爵令嬢だけれど、それだけではないわ」
そう言ってから、マーリンは自分の言葉に少し驚いた。
それだけではない。
そんなことを、自分で口にしたのはいつ以来だろう。
「だから」
マーリンはステラへ視線を戻す。
「あなたがよければ、名前で呼んでほしいの」
ステラは、端末を抱えたまま立ち尽くしていた。
その顔には、困惑と、恐れ多さと、それから少しの嬉しさが一緒に浮かんでいた。
「……本当に、よろしいのですか」
「ええ」
「怒りませんか」
「怒らないわ」
「あとで取り消したりは」
「しないわ」
「ロイス家の方に怒られたら」
「私が許したと言えばいいでしょう」
ステラは少し考え込んだ。
本気で考えている顔だった。
「それでも、たぶん怒られる気がします」
「では、怒られない形を考えましょう」
マーリンがそう言うと、ステラはぱちりと瞬きをした。
「怒られない形、ですか」
「ええ」
「……ありますでしょうか」
「あなたが考えてくれる?」
「私がですか!?」
「ええ。ステラは、後ろを固めるのが得意なのでしょう?」
そう言うと、ステラは一瞬きょとんとした。
それから、少しだけ口元を引き結ぶ。
真剣に受け止めたらしい。
「分かりました」
「ええ」
「怒られない形を、考えます」
その言い方があまりに真面目で、マーリンはまた少しだけ笑いそうになった。
ステラはしばらく考え込んだ。
格納庫の奥で、整備用アームが静かに動いている。
リュールの装甲に反射した白い光が、シューティングスターの外装にも淡く映っていた。
やがて、ステラが顔を上げる。
「では」
その声は、少し緊張していた。
「では……マーリン、様ではいけませんか」
マーリンは、目を瞬かせた。
ステラは真っ赤になりながらも、必死に続ける。
「呼び捨ては、やはり私には難しいです。でも、ロイス公爵令嬢よりは、近いと思います。名前ですし、でも、敬意もありますし、たぶん、後ろから刺される人数も少し減ると思います」
「少しなのね」
「はい。少しです」
ステラは大真面目だった。
「ふふっ」
マーリンは、とうとう小さく笑った。
今度は、自分でもわかった。
ほんの短い、柔らかな笑いだった。
「マーリン様」
自分の名前に、様がつく。
おかしいことではない。
それなのに、少し不思議な響きだと思った。
けれど、ロイス公爵令嬢よりは近い。
フルール・デスポワールよりも、ずっと、近い。
「ええ」
マーリンは頷いた。
「それなら、いいわ」
マーリンがそう答えると、ステラはしばらく固まっていた。
端末を胸に抱えたまま、目だけをぱちぱちと瞬かせている。
格納庫の奥では整備用アームが動き、誰かが短く確認の声を上げていたが、ステラの周りだけ時間が止まったようだった。
「……本当に?」
「ええ」
「本当に本当に、よろしいのですか?」
「本当に本当に、いいわ」
マーリンがそう返すと、ステラはようやく息を吸った。
そして、すぐにまた固まる。
「で、では」
声が少し裏返っていた。
「ま……」
そこまで言って、止まる。
マーリンは静かに待った。
ステラは一度目を閉じ、何かを決意するように小さく頷く。
「マーリン、様」
その呼び方は、ぎこちなかった。
言葉の間に余計な隙間があって、まるで初めて起動する機械のように、少しだけぎくしゃくしていた。
けれど、確かに名前だった。
ロイス公爵令嬢ではない。
フルール・デスポワールでもない。
報告書に記される対象者でも、軍の予定表に載る肩書きでもない。
マーリン。
その名を、ステラが呼んだ。
様はついている。
距離も、敬意も、まだきちんと残っている。
それでも、少しだけ近かった。
マーリンは胸の奥で、何かが静かにほどけるのを感じた。
「はい」
短く答える。
それだけで、ステラの表情がぱっと明るくなった。
「マーリン様」
今度は、さっきより少しだけ滑らかだった。
「練習しなくていいわ」
「す、すみません」
ステラは慌てて口元を押さえた。
けれど、嬉しさは少しも隠せていなかった。
空色の瞳がきらきらしている。
もし格納庫でなければ、その場で跳ねていたかもしれない。
「では、ええと、その……」
ステラは姿勢を正した。
「マーリン様」
「はい」
「これからも、よろしくお願いいたします」
さっきより落ち着いた声だった。
けれど、まだほんの少し熱がある。
マーリンは、その呼び方をもう一度胸の中で受け止める。
マーリン様。
少し不思議で。
少し照れくさくて。
少しだけ、息がしやすい。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
そう答えてから、マーリンは少しだけ間を置いた。
そして、きちんと名前を呼ぶ。
「ステラ」
ステラは、また固まった。
今度は端末を落としそうになり、慌てて抱え直す。
「は、はい!」
「落とすわよ」
「あっ、はい。落としません。大丈夫です」
本当に大丈夫かしら。
そう思ったが、マーリンは口には出さなかった。
代わりに、少しだけ目元を緩める。
ステラはそれを見て、嬉しそうに笑った。
「なんだか、不思議です」
「何が?」
「名前を呼んでいただいただけなのに、前より少し近くに立てた気がします」
ステラは照れたように笑った。
その言葉に、マーリンはすぐには返事をしなかった。
近くに立てた気がする。
それは、マーリンも同じだった。
リュールとシューティングスターの距離が変わったわけではない。
軍の規則が変わったわけでもない。
ステラが候補生で、マーリンがロイス公爵令嬢であることも変わらない。
それでも。
「……そうね」
マーリンは、小さく頷いた。
「私も、少しだけそう思うわ」
ステラの顔が、ぱっと明るくなる。
「本当ですか?」
「ええ」
マーリンは、少しだけ目元を和らげた。
「名前を呼ぶだけで近くなるなんて、不思議ね」
格納庫の奥。
リュールとシューティングスターは、変わらず並んでいた。
冷たい白い照明の下で、整備兵たちの手により次の訓練へ向けて調整されている。
そこにあるのは、戦うための機体だ。
自分たちを同じ宇宙へ送り出すものだ。
その事実は変わらない。
けれど、今この瞬間だけは、少し違うものもあった。
機体名ではなく。
家名でもなく。
軍の役職でもなく。
名前。
たったそれだけのものが、冷たい格納庫の空気を少しだけやわらかくした。
「ステラ」
マーリンは、もう一度呼んだ。
今度は、確かめるためではなかった。
自然に、そう呼んだ。
「はい、マーリン様」
ステラも、自然に返した。
まだ少しだけ嬉しそうで、少しだけ緊張していて、けれどさっきよりずっと滑らかだった。
マーリンは、その呼び方を否定しなかった。
否定したくなかった。
「では、調整の続きを確認しましょう」
「はい!」
「声」
「あっ……はい」
今度は小さく返事をした。
それでも、ステラの顔は明るかった。
マーリンは端末へ視線を戻す。
隣に立つ少女の気配が、さっきよりほんの少し近く感じられた。
調整確認が終わる頃には、格納庫の照明が少しだけ落とされていた。
作業が終わったわけではない。
整備兵たちはまだリュールとシューティングスターの周りを行き来し、技術士官たちも端末を覗き込みながら低い声で確認を続けている。
けれど、マーリンとステラが確認すべき項目は、ひとまず終わった。
「本日の確認は以上です」
技術士官がそう告げる。
「次回訓練までに、シューティングスター側の表示補助と追従補正を再調整しておきます。リュール側の出力反応についても、記録を更新します」
「よろしくお願いいたします」
マーリンが答えると、ステラも隣で深く頭を下げた。
「よろしくお願いいたします」
並んで礼をする。
それだけのことだった。
けれど、マーリンには少し不思議だった。
少し前まで、自分の隣に誰かが立つことは、怖いだけだった。
今も怖くないわけではない。
むしろ、怖いことは変わらない。
けれど、隣に立つ少女の名前を知っている。
その少女が、自分の名前を呼んでくれる。
それだけで、怖さの形が少しだけ変わっていた。
「行きましょうか」
マーリンが言うと、ステラはすぐに頷いた。
「はい、マーリン様」
その呼び方は、まだ少しだけ新しい。
けれど、先ほどよりもずっと自然だった。
マーリンは、否定しなかった。
「行きましょう、ステラ」
ステラの頬が、また少しだけ赤くなる。
けれど今度は慌てなかった。
代わりに、嬉しそうに背筋を伸ばす。
二人は格納庫の出口へ向かった。
歩き出す前に、マーリンは一度だけ振り返る。
リュールとシューティングスターが、白い照明の下に並んでいる。
まだ動かない二機は、次の出番を待つように沈黙していた。
けれど、次に動く時はきっと二機で宇宙へ出る。
そのことが、少しだけ現実味を持って胸に落ちた。
「マーリン様」
出口の手前で、ステラが呼んだ。
「何?」
「次の訓練も、よろしくお願いします」
まっすぐな声だった。
さっきまでより少し落ち着いていて、でも、いつもの明るさは残っている。
マーリンは、小さく頷いた。
「ええ。よろしくね、ステラ」
ステラは、今度こそはっきり笑った。
「はい!」
声は、やはり少し大きかった。
近くの整備兵が一人、ちらりとこちらを見る。
ステラはすぐに口元を押さえた。
「……はい」
言い直した声は小さかったけれど、その表情は隠しきれないほど明るかった。
マーリンは、ほんの少しだけ笑う。
格納庫の扉が開く。
通路の白い光が、二人の足元へ細く伸びた。
冷たい軌道上施設の空気は、相変わらず少し硬い。
壁も、床も、行き交う士官たちの足音も、何も変わっていない。
けれど。
名前で呼ばれるだけで、少しだけ息がしやすくなる。
そんなことを、マーリンは久しぶりに思い出した。
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