断れない優等生
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入学式から数日が過ぎた頃。
マーリンは、本館二階の新入生控室にいた。
入学後しばらくの間、新入生代表や上位貴族家の生徒には、来賓対応や案内のために一時的な控室が用意されている。
大げさな部屋ではない。
窓際に応接用の椅子があり、壁際に小さな机が置かれているだけの、静かな部屋だった。
大広間の華やかさは、ここまでは届かない。
花の香りも、音楽も、上品な笑い声もない。
かわりに、廊下を行き交う生徒たちの足音と、遠くで教師が誰かを呼ぶ声が聞こえていた。
マーリンは窓際の椅子に腰かけ、歓迎行事の予定表に目を通していた。
クリスチーナは一歩後ろ、机のそばに控えている。
そこへ、生徒会役員が封筒を届けに来た。
社交会の終わり際、ブライアンからの伝言として告げられた依頼。
新入生代表として、少しだけ力を貸してほしい。
その時は丁寧な口約束に近かった依頼が、学園の紋章入りの白い封筒に収められ、改めてマーリンの元へ届いたのである。
封筒の表には、整った文字でマーリンの名が記されていた。
「生徒会室ですって」
マーリンは封筒を閉じた。
「はい」
クリスチーナの声はいつも通り穏やかだったが、視線は封筒に向いたまま動かない。
「歓迎行事の確認だけよ。大げさなことではないわ」
「そのようでございますね」
「クリス」
「はい、お嬢様」
「今、少し疑っているでしょう」
「少しではございません」
マーリンは目を瞬かせた。
それから、ほんの少し笑った。
「正直ね」
「お嬢様に嘘を申し上げる理由がございませんので」
「侍女としては、時々その正直さを薄めてもいいと思うの」
「必要に応じて検討いたします」
「検討で終わる返事だわ」
そう言いながら、マーリンは立ち上がった。
封筒は丁寧だった。
丁寧すぎるほど丁寧だった。
無理を言っているようには見えない。
命令でもない。
断る余地も、きちんと残されている。
ただ、断った場合にどこへ小さな皺が寄るのかも、文面の端からうっすら透けていた。
困っている。
助かる。
意見を聞きたい。
そういう言葉は、マーリンの中の柔らかい場所に触れる。
希望の花と呼ばれるのは重い。
帝国の象徴として見られるのは息苦しい。
けれど、誰かの役に立つことは嫌いではなかった。
むしろ、好きだった。
誰かがほっとする。
場が整う。
ありがとうと言われる。
それだけで、胸の奥の不安が少し静かになる。
だからマーリンは、生徒会室へ向かった。
クリスチーナを伴って。
きちんとした歩幅で。
きちんとした令嬢の顔で。
まだ増える前の荷物を、何も持たない両手で。
生徒会室は、本館二階の奥にあった。
大広間ほど華やかではない。
けれど、簡素でもなかった。
重い扉には学園の紋章が刻まれ、廊下には歴代生徒会長の肖像画が並んでいる。
花の香りはない。
かわりに、紙とインクと磨かれた木の匂いがした。
マーリンは扉の前で一度足を止めた。
胸の中に、社交会の光が少しだけよみがえる。
ブライアンの言葉。
正しい依頼。
正しい役割。
正しい場所。
また、花瓶が用意されたのかもしれない。
その考えを、マーリンは胸の奥へ押し込めた。
クリスチーナが扉を叩く。
中から、控えめな声が届いた。
「どうぞ」
扉が開く。
窓際の机から、ブライアンが立ち上がった。
「ロイス嬢。お越しいただき、ありがとうございます」
彼は前に見た時と同じように礼儀正しかった。
椅子を引く角度も、視線を置く距離も、声の高さも、すべてが落ち着いている。
押しつけがましくない。
けれど、場の流れはすでに整えられていた。
机の上には資料が並んでいる。
手前には歓迎行事の進行表。
奥には来賓名簿。
横には席次案。
さらに、貴族家ごとの簡単な関係図まで用意されていた。
大した量ではない。
そう見えるように、きれいに分けられている。
「突然のお願いになり、申し訳ありません」
ブライアンは言った。
「ロイス嬢の判断をお借りしたいだけです。ご負担になるようでしたら、もちろん遠慮なくお断りください」
断れる形だった。
言葉の上では。
マーリンは微笑む。
「新入生代表としてお役に立てるのであれば、拝見いたします」
「ありがとうございます」
ブライアンは安堵したように礼をした。
その礼に、大げさな喜びはない。
当然の結果を、正しく受け取る顔だった。
クリスチーナは一歩後ろで、静かに部屋の中を見ている。
扉の位置。
資料の量。
同席している生徒会役員の人数。
退室するための自然なタイミング。
侍女として見ているものは多い。
マーリンは椅子に腰かけた。
姿勢を正し、手袋の指先を机の端へそっと置く。
紙は白い。
けれど、その上に並んだ名前は白くない。
家格。
派閥。
婚姻関係。
軍部との距離。
帝国議会での発言力。
各家が抱える小さな不満。
それらが、文字の下で静かに動いている。
ブライアンが進行表を示した。
「まず、歓迎行事の来賓席についてです。学園側の案では、こちらの配置になっています」
マーリンは資料へ目を落とした。
普通の新入生なら、見ただけで頭が痛くなる内容だった。
名前が多い。
肩書も多い。
似たような爵位、似たような官職、似たような親族関係が、紙の上にぎっしり並んでいる。
けれど、マーリンの目には、ただの文字列には見えなかった。
どの家を近くに置くべきか。
どの家の隣は避けた方がよいか。
どの来賓へ先に挨拶を通すべきか。
どの名前を軽く扱うと、あとで面倒な火種になるか。
紙の上の席が、実際の会場の空気として立ち上がってくる。
「こちらの席ですが」
マーリンは、指先で一か所を示した。
「軍務省筋の方を先に通した方がよいかもしれません。この位置ですと、工廠系の家が奥へまとめられすぎているように見えます」
ブライアンはすぐに資料へ目を落とした。
「なるほど」
「それから、こちらの家はフェアチャイルド家と近すぎます。実際に不和があるわけではありませんが、近年の軍需契約の件で、周囲が妙な意味を持たせるかもしれません」
「たしかに」
生徒会役員が横で小さく息を呑む。
マーリンは別の列へ視線を移した。
「地方貴族の方々を奥にまとめすぎるのも、避けた方がよいと思います。歓迎ではなく、隔離に見えてしまいますから。こちらの伯爵家を間に置けば、見た目の印象はかなり和らぐはずです」
「理由は?」
ブライアンが静かに問う。
試すような声ではない。
確認するための声だった。
マーリンは少し考え、言葉を選んだ。
「その伯爵家は中央との距離を取りつつも、地方貴族の調整役として知られています。上位貴族の隣に置いても不自然ではありませんし、地方側から見ても顔を立てられた形になります」
「……さすがです、ロイス嬢」
ブライアンは静かにうなずいた。
「やはりお願いして正解でした」
正解。
その言葉が、マーリンの胸に小さく触れた。
温かい。
頼られるのは、嬉しい。
自分の知識が誰かの役に立つ。
目の前の紙を少し動かすだけで、会場の空気が柔らかくなる。
そう思うと、胸の重さがほんの少し軽くなる。
「お役に立てたのであれば、何よりです」
返事もまた、きちんとしていた。
ブライアンは追加の資料を数枚、机の端から取った。
「こちらも、時間がある時で構いません。歓迎行事の進行表です。新入生代表としての視点が入ると助かります」
本当に数枚だった。
少なくとも、そう見えた。
マーリンは資料へ視線を向ける。
来賓挨拶の順。
新入生の導線。
花飾りの配置。
控室の割り振り。
細かな確認事項。
どれも大げさではない。
ひとつひとつは、小さい。
だからこそ、断りにくい。
「承知いたしました。確認しておきます」
マーリンは資料を受け取った。
その瞬間、クリスチーナの視線がほんのわずかに動いた。
マーリンはそれを感じた。
感じたが、見ないふりをした。
今は、そんなに重くない。
本当に、数枚だけだ。
「ありがとうございます、ロイス嬢」
ブライアンは礼をする。
「あなたがいてくださると、本当に助かります」
助かる。
その言葉は、マーリンの断れなさを静かに撫でた。
自分が引き受ければ、場は丸く収まる。
席次の不満も減る。
生徒会も助かる。
学園側も安心する。
ロイス公爵家の令嬢が関わったというだけで、いくつかの面倒な火種は消える。
なら、断る理由はどこにあるのだろう。
疲れるから。
自分の時間が減るから。
少し重いから。
そういう理由は、マーリンの中でいつも声が小さい。
「私でよろしければ」
マーリンは微笑んだ。
「できる範囲で、お手伝いいたします」
クリスチーナの指先が、袖の端をほんの少し握った。
ブライアンは穏やかにうなずく。
「ええ。ロイス嬢のご負担にならない範囲で」
その範囲を決めるのは、誰なのだろう。
マーリンは、そこまで考えなかった。
頼られた。
だから応えた。
今は、それだけのことだと思っていた。
生徒会室を出る時、マーリンの腕には資料が増えていた。
大した量ではない。
本当に、大した量ではない。
折り目をつけないように抱えても、歩く邪魔になるほどではない。
だからこそ、クリスチーナも強く止められない。
廊下へ出ると、マーリンは少し晴れやかな顔をしていた。
「思ったより、面白いのね」
「面白い、でございますか」
「ええ。席次ひとつで、あれほど空気が変わるのだもの。まるで盤上遊戯みたい」
クリスチーナは小さく眉を下げた。
「お嬢様」
「分かっているわ。遊びではないのでしょう?」
マーリンはそう言って、少しだけ笑う。
好奇心がにじんだ顔だった。
そこにいるのは、完璧な公爵令嬢だけではない。
難しい仕組みを見つけると、つい覗き込みたくなる少女でもあった。
貴族の席次。
会場の導線。
花飾りの色。
誰がどこへ立ち、誰と目が合い、誰が不満を飲み込むのか。
それはきれいな盤面ではない。
生身の人間がいる。
笑顔の下で、欲も誇りも嫉妬も動く。
それでも、仕組みが見えると面白い。
少し動かすと、空気が変わる。
絡まった糸がほどけるような感覚がある。
マーリンはそれが嫌いではなかった。
むしろ、目が輝いていた。
「こちらの侯爵家と伯爵家を入れ替えただけで、来賓の導線まで変わるのよ。挨拶の順番も自然になるし、教師の方々の移動も少なくて済むわ」
「お嬢様」
「それから、花飾りも。赤を中央に置きすぎると軍務色が強くなるでしょう? 白を少し挟めば柔らかくなると思うの」
「お嬢様」
「はい」
三度目で、マーリンはようやく足を止めた。
クリスチーナは静かに言う。
「楽しそうでいらっしゃいます」
「……悪いことかしら」
「いいえ」
クリスチーナは首を振った。
「ですが、楽しさと負担は、同じ顔をして近づくことがございます」
マーリンは資料を抱え直した。
「そんなに心配しなくても」
「心配いたします」
短い返事だった。
マーリンは少し困った顔をする。
クリスチーナがここまではっきり言う時は、だいたい本当に心配している時だ。
それは知っている。
知っているのに、資料の重さはまだ腕に優しい。
机一つ分の仕事ではない。
数枚の紙。
少し目を通して、少し意見を出すだけ。
「本当に、大したことではないわ」
マーリンは柔らかく言った。
「お手伝いよ。新入生代表としての」
「はい」
クリスチーナはそれ以上、強く言わなかった。
ここで押せば、マーリンはきっと困った顔をする。
そして次からは、もっと上手に隠すようになる。
それが分かるから、止めきれない。
守りたいのに、守るための言葉が多すぎると、かえって遠ざけてしまう。
クリスチーナは一歩後ろへ戻った。
マーリンは歩き出す。
腕の中の紙は、まだ軽い。
けれど、確かに増えていた。
回廊の先で、生徒会補佐らしき生徒が小走りに近づいてきた。
名前は名乗らなかった。
生徒会の補佐らしい腕章をつけ、少し息を弾ませている。
「ロイス嬢」
マーリンは足を止めた。
「はい」
「突然申し訳ありません。歓迎行事で使う花飾りの配置について、少しだけご意見をいただけないでしょうか。カーチスライト様から、必要があればロイス嬢に確認を、と」
少しだけ。
その言葉が、廊下に軽く落ちた。
マーリンは瞬きをする。
これは自分が見なくてもよいことかもしれない。
花飾りの配置など、生徒会の中で決めればいい。
けれど、相手は困っている。
しかも花飾りなら、すぐに済みそうだった。
「分かりました。少しだけなら」
クリスチーナの視線が、また動いた。
少しだけ。
便利な言葉だった。
便利すぎて、少し怖い。
花飾りの件は、本当にすぐに終わった。
回廊に面した小広間には、白、青、赤の飾り布と花が並べられていた。どれも美しいが、赤が中央に寄りすぎている。
マーリンは資料をクリスチーナに預け、飾りの前で少し考えた。
「中央の赤を二つ、こちらの白と入れ替えてください。青は奥へ下げすぎると沈んで見えますから、この柱の横へ」
「はい」
「それから、来賓の入口から見ると、こちら側の花が少し重いわ。背の低いものを前に出して、奥は空けた方がよいと思います」
生徒会補佐たちは、言われた通りに動く。
花の色が入れ替わる。
布の流れが変わる。
ほんの数か所だけで、小広間の印象は柔らかくなった。
帝国旗の色は残っている。
けれど、軍務色の強さは薄れ、歓迎らしい明るさが出る。
「すごい……」
生徒会補佐のひとりが、思わずこぼした。
すぐに口元を押さえ、慌てて礼をする。
「失礼いたしました。ありがとうございます、ロイス嬢」
「いいえ。少し動かしただけです」
マーリンは照れたように笑った。
大げさではない。
本当に嬉しそうだった。
「これくらいなら、いつでも」
言ってから、空気がほんのわずかに止まった。
クリスチーナが小さく息を呑む。
マーリンはそちらを向いた。
「クリス?」
「……いえ」
クリスチーナは静かに首を振った。
けれど、その目は笑っていなかった。
マーリンは、今の言葉を頭の中でそっとなぞる。
これくらいなら、いつでも。
言いやすい言葉だった。
親切で、柔らかくて、相手を安心させる。
同時に、自分の退路を少し狭くする。
「いつでも、は少し言いすぎたかしら」
マーリンが小さく言うと、生徒会補佐たちが慌てた顔をした。
「い、いえ、そのような意味では」
「大丈夫よ」
マーリンは微笑んだ。
「必要な時は、正式に生徒会を通してください。私が勝手に動いてしまうと、かえって皆さまを困らせてしまうもの」
言い直しとしては、悪くなかった。
相手の顔も潰さない。
自分の範囲も少し戻す。
生徒会補佐たちは安心したように礼をする。
クリスチーナの肩からも、ほんの少し力が抜けた。
けれど、完全には戻らない。
マーリンは資料を受け取り直した。
「では、失礼いたします」
小広間を出ると、廊下の空気が少し冷たく感じた。
腕の中の資料は、やはり軽い。
軽いはずだった。
それなのに、さっきより少しだけ、紙の角が腕に当たる。
中庭へ続く回廊に差しかかったところで、マーリンは足を止めた。
白い花壇の向こうに、人影がある。
黒い髪。
静かな立ち姿。
こちらを見ているわけではなかったが、資料を抱えたマーリンが近づくと、その深い蒼い瞳がすぐに動いた。
ミハイルだった。
公の場だ。
中庭には他の生徒もいる。
だから彼は距離を守る。
けれど、資料を見る目はまったく遠慮がなかった。
「マーリン嬢。それは?」
声は丁寧だった。
呼び方も正しい。
ただし、声の奥は全然丁寧ではない。
マーリンは思わず資料を少し抱え込んだ。
「生徒会のお手伝いです。少しだけ」
「少しだけ」
ミハイルは繰り返した。
その一言に、信じていない気配がたっぷり入っていた。
マーリンは笑う。
「本当に少しだけよ、ミハイル様」
「君の少しだけは、だいたい少しで終わらない」
「まあ。信用がないのね」
「信用しているから言っている」
マーリンは返事に詰まった。
ミハイルは、マーリンが役に立てることを疑っていない。
むしろ、やれてしまうことを知っている。
だから止めようとする。
それが少し嬉しくて、少し困る。
「無理はしません」
マーリンはそう言って微笑んだ。
ミハイルは納得していない顔をした。
クリスチーナも、よく似た顔をしている。
二人に同じ顔をされると、さすがに居心地が悪い。
マーリンは資料を抱え直し、咳払いをひとつする。
「本当に、まだ大丈夫よ」
その言葉は嘘ではなかった。
まだ疲れきってはいない。
まだ笑える。
まだ役に立てることが嬉しい。
だからこそ、危うい。
ミハイルは何か言いかけた。
けれど、周囲に生徒がいることを見て、言葉を飲み込む。
その代わり、少しだけ近づいた。
近すぎない。
公の距離は守ったまま。
「では、せめて休憩は取れ」
「はい、ミハイル様」
「返事が良すぎる」
「返事が悪いよりはよいでしょう?」
マーリンが少し得意げに言うと、ミハイルは呆れたように目を細めた。
「良い返事は、信用と別だ」
「ひどいわ」
「本当のことだ」
「ミハイル様は時々、礼儀正しい顔で失礼なことをおっしゃるのね」
「必要なら言う」
「必要?」
「君は褒められると、荷物を増やす」
マーリンは言葉を止めた。
胸の奥を、短い針で突かれたようだった。
ミハイルの言葉は飾らない。
だから痛い。
けれど、傷つけるための痛さではない。
隠れているものを見つけられた時の、逃げ場のなさだ。
「……荷物というほどでは」
「今はな」
今は。
その言葉が、資料の上に落ちる。
腕の中の紙は軽い。
けれど、ミハイルの視線はその軽さを信用していなかった。
「ミーシャ」
呼びかけは、とても小さかった。
周囲には届かない声。
ミハイルは何も言わず、マーリンを見た。
「頼られるのは、嫌ではないの」
「知っている」
「役に立てるのも、嬉しいの」
「それも知っている」
「なら」
「だから言っている」
ミハイルの声は低かった。
「嬉しい顔をして、抱え込むから」
マーリンは黙った。
反論は浮かぶ。
大げさだとか。
本当に少しだけだとか。
生徒会長からの正式な依頼だとか。
新入生代表として当然だとか。
どれも間違いではない。
けれど、言葉にするとミハイルの目を見られなくなりそうだった。
「休憩は取ります」
マーリンは小さく言った。
「本当に?」
「本当に」
「クリスチーナ嬢」
急に呼ばれ、クリスチーナが一礼する。
「はい、ミハイル様」
「見張っていてください」
「承知しております」
即答だった。
マーリンは目を丸くした。
「二人とも、私を何だと思っているの」
「お嬢様です」
クリスチーナが静かに答える。
「放っておくと、無理をする」
ミハイルも続ける。
二人の声は違うのに、内容はほとんど同じだった。
マーリンはしばらく二人を見比べる。
それから、降参するように息を吐いた。
「……分かりました。この資料を確認したら休みます」
「この資料を」
ミハイルが拾う。
マーリンはにっこり微笑んだ。
「ミハイル様は、本当に細かいところに気づかれますのね」
「逃げたな」
「淑女の処世術です」
「便利な言葉だ」
そのやり取りに、クリスチーナの表情が少しだけ緩む。
マーリンはまだ少女でいられる。
少なくとも、この二人の前では。
けれど、腕の中には資料がある。
生徒会から渡された、小さな役割の束。
マーリンはそれを軽いと思っている。
軽いから、抱えられる。
抱えられるから、手放さない。
そのことの怖さを、まだ誰もはっきりとは言えなかった。
中庭の白い花が、風に揺れている。
決められた場所で、綺麗に咲いている。
マーリンは資料を抱え、クリスチーナとともに回廊を歩き出した。
頼られた。
必要とされた。
それは確かに嬉しい。
だから、少し疲れたとしても、笑っていられる気がした。
「大丈夫よ、クリス」
マーリンはそう言って微笑む。
クリスチーナは、すぐには頷かなかった。
資料はまだ軽い。
けれど、小さな重さは積もっていく。
そしてマーリンは、積もったものを下ろすのがひどく下手だった。
ここまでお読みいただき有り難うございました。
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