名前で見る人
ご覧いただきありがとうございます。
「マーリン嬢」
ロイス嬢ではなく。
希望の花でもなく。
名前を呼ぶ声だった。
マーリンは思わず顔を上げた。
大広間のざわめきが、一瞬だけ遠のいた気がした。
花の香りも、家格の線も、正しい距離も、その声の前で少し薄くなる。
人の輪の向こうに、ひとりの青年が立っていた。
帝国では珍しい黒い髪。
深い海の底を思わせる、静かな蒼い瞳。
整った顔立ちではある。けれど、ブライアンのように華やかで、場そのものを支配する美しさではなかった。
静かで、冷静で、少し近寄りがたい。
それなのに、目が合った瞬間、マーリンの胸の奥で、さっきまで沈んでいた重さが少しだけ揺れた。
青年は、公の場にふさわしい距離で足を止め、丁寧に礼をした。
「ご入学、おめでとうございます」
「ミハイル様。ごきげんよう」
その呼び方は少し堅い。
けれど、その堅さすら、二人の間では小さな合図だった。
ここは大広間だ。
周囲には生徒がいる。
教師もいる。
貴族の目もある。
幼い頃の距離には戻れない。
だから、ミハイル=ルフトハンザは彼女を「マーリン嬢」と呼び、マーリンは彼を「ミハイル様」と呼ぶ。
線を引く。
その線の内側にあるものを、二人とも知っている。
「先ほどの挨拶、聞いていた」
ミハイルは言った。
声は低く、落ち着いている。
大げさに褒める気配はない。
「とても立派だった」
「ありがとうございます」
マーリンは礼儀正しく微笑む。
すると、ミハイルはほんの少しだけ目を細めた。
「立派すぎた」
マーリンは瞬きをした。
褒め言葉のはずなのに、少し違う角度から飛んできた。
「……それは、どう受け取ればよろしいのでしょう」
「褒めている」
「本当に?」
「半分は」
「半分」
マーリンは、危うく笑いそうになった。
すぐに口元を整える。
危ない。
ここは大広間だ。
いま笑いすぎれば、周囲が意味を探す。
ミハイルは、その様子を見ていた。
疲れている、と人前では言わない。
少し無理をしている、とも言わない。
そんなことを口にすれば、マーリンがもっと綺麗な顔を作るからだ。
そういうところが、少し困る。
そして、少し助かる。
「大広間は、人が多い」
「歓迎社交会ですもの」
「花を見に行く」
「……誘い文句としては、少し簡潔すぎませんか」
「必要な理由は揃っている」
ミハイルは庭園側の回廊へ視線を向けた。
中庭に面した回廊。
大広間から完全に離れるわけではない。硝子越しに花壇が見え、社交会の客が少し足を休めるには自然な場所だ。
逃げるのではない。
花を見る。
空気を変える。
そういう形にすれば、誰も強くは咎めない。
マーリンは少しだけ目を伏せた。
社交会の途中で中心から離れるのは、褒められたことではない。
けれど、ブライアンが整えた場は、今なら安定している。人の輪もほどけ、視線も一か所に寄りすぎていない。
ほんの短い時間なら、乱れにはならない。
むしろ、彼女が窓辺へ移れば、新入生たちも別の輪を作りやすい。そう見せることもできる。
休むにも理由がいる。
息をするにも形がいる。
貴族の社交とは、優雅な顔をした迷路だった。
「ミハイル様は、相変わらず口実を選ぶのがお上手ですね」
「事実だ。花はある」
「それだけですか」
「君は疲れている」
マーリンは言葉を止めた。
周囲には、まだ人がいる。
だからミハイルの声は低い。
けれど、その短い一言は、花の香りよりずっとまっすぐ届いた。
「……公の場ですわ」
「だから、花を見に行く」
ミハイルは表情を変えない。
不器用だ。
けれど、逃げ道の作り方は雑ではない。
マーリンは小さく笑った。
大広間用の笑みではない。
ほんの一瞬だけ、年相応の顔がこぼれる。
一歩後ろのクリスチーナが、静かに頷いた。
行ってもよい、という合図。
それもまた、公の場で乱れない範囲の、ごく小さな動きだった。
ミハイルはクリスチーナへも軽く礼を向ける。
「クリスチーナ嬢。少しだけ」
「はい、ミハイル様」
クリスチーナは控えめに答えた。
その短いやり取りに、余計な意味はない。
けれど、ミハイルがマーリンを一人で連れ出すのではなく、クリスチーナの立場もきちんと置いたことは分かる。
マーリンは近くにいた教師へ視線を向けた。
「少し、中庭の花を拝見してまいります」
教師は穏やかに頷いた。
「どうぞ。回廊も本日は開放しております」
「ありがとうございます」
マーリンは礼をし、ミハイルとともに回廊へ向かった。
並ぶには近すぎる。
離れすぎると不自然。
その中間を選ぶ。
クリスチーナは一歩後ろにつく。
三人の距離は、きちんと公の形を保っていた。
それでも、大広間の中心から離れるだけで、肩の上に積もっていたものが少し軽くなる。
回廊へ出ると、音がやわらいだ。
大広間のざわめきは柱と壁に遮られ、輪郭を失っている。花の香りも少し薄くなり、かわりに中庭の土と水の匂いが混じった。
硝子越しの光が床に落ちている。
白い花壇。
淡い青の花。
小さな噴水。
整えられた庭。
美しいことに変わりはない。
けれど、大広間よりは息がしやすかった。
マーリンは、ほんの小さく息を吐いた。
本当に小さく。
淑女としては問題にならない程度。
けれど、ミハイルは見逃さなかった。
「ほら」
「……まだ何も言っていないわ」
「息が詰まっていた」
「そんなことは」
「ある」
短い。
遠慮がない。
けれど、乱暴ではない。
マーリンは白い手袋の指先を見下ろした。
少しだけ力が入っている。
「ミハイル様は、相変わらず目ざといのですね」
「公の場だからって、そうやって逃げるのはずるいな」
マーリンは目を瞬かせた。
それから、ほんの少しだけ口元を緩める。
回廊の遠くには人影がある。
完全に私的な場所ではない。
それでも、大広間よりはずっとましだった。
「……ミーシャは、相変わらず意地が悪いわ」
その呼び名は、とても小さかった。
クリスチーナにしか聞こえないほどの声。
けれど、それだけでマーリンの肩から少し力が抜ける。
ミハイルは笑った。
完璧ではない笑い方だった。
場に合わせて作られた笑みではない。
少し呆れて、少しだけ安心したような、幼い頃の名残がある。
マーリンには、その方が落ち着いた。
「意地が悪いのではなく、現実を言っている」
「現実は時々、言い方を選んでほしいわ」
「君が聞き流さない言い方を選んでいる」
「つまり、やっぱり意地が悪いのね」
「否定はしない」
マーリンは小さく笑った。
大広間で見せていた笑顔ではない。
少し呆れて、少し楽しそうで、少しだけ素直な笑み。
その顔を見て、クリスチーナの表情がわずかにやわらいだ。
ほんの少し。
侍女としての顔を崩さない範囲で。
「それで」
ミハイルは中庭へ視線を向けたまま言った。
「何を言われた」
マーリンの笑みが、少しだけ止まった。
「何を、とは?」
「顔が違う。入学式の後より、硬い」
「……本当に目ざといのね」
「見るしかないからな」
その言葉は淡々としていた。
けれど、マーリンは少しだけ視線を落とした。
見るしかない。
その一言には、きれいな装飾がない。
ブライアンの言葉が、まだ胸の奥に残っている。
帝国の未来。
中心に立つ方。
正しい意味で中心に。
どれも丁寧で、敬意があり、間違ってはいなかった。
彼は助けてくれた。
集まりすぎた視線を散らし、誰にも恥をかかせず、場を整えてくれた。
正しい人だった。
本当に、正しい人だった。
それなのに、彼の言葉の中でマーリンは、少しずつ飾られていく気がした。
花瓶に挿される白い花。
きれいに見えるよう、正しい場所へ置かれる花。
ブライアンは悪くない。
むしろ、助けてくれた。
だから余計に、胸の重さをどこへ置けばいいのか迷う。
「ブライアン様は」
マーリンは、ゆっくり言葉を選んだ。
「とても正しい方ね」
「知っている」
「ええ。生徒会長ですものね」
「それだけじゃない。昔から、そういう男だ」
「ミハイル様は、ブライアン様と親しいの?」
「親しい、とは少し違う。よく知っているだけだ」
その言い方に、マーリンは少しだけ首を傾げた。
ミハイルは余計な説明を足さない。
足りないところを飾る気もない。
「彼は場を見る。人の流れを見る。役割を見る。必要な場所に、必要なものを置く」
「……本当に、よく見ていらっしゃるのね」
「見ていないと、置かれる」
短い言葉だった。
けれど、マーリンの胸にひっかかった。
置かれる。
さっき自分の中で揺れた問いと、よく似ている。
では自分は、どこに置かれるのだろう。
「ブライアン様は、私を助けてくださったわ」
「だろうな」
「とても丁寧で、失礼なところもなくて、皆が安心するように場を整えてくださって」
「うん」
「それなのに」
そこから先が、うまく出てこなかった。
褒められたのに、胸が重い。
助けられたのに、少し息がしにくい。
敬意を向けられたのに、自分ではないものが見られている気がする。
そんなことを言えば、わがままに聞こえる。
恩知らずにも聞こえる。
ロイス家の令嬢としては、かなり出来の悪い感想だ。
「それなのに、苦しい?」
ミハイルが代わりに言った。
マーリンは顔を上げた。
彼は中庭を見ている。
マーリンを追い詰めるような目ではなかった。
ただ、横に置くように言葉を出した。
「……苦しい、というほどでは」
「なら、息が浅い」
「それは同じではなくて?」
「少し違う」
「どう違うの」
「苦しいと言うと、君は否定する。息が浅いなら、まだ認める」
マーリンは黙った。
少し腹立たしい。
かなり正しい。
そういうところも、ミハイルは昔から変わらない。
「ミーシャは、私をどうしたいの?」
「息をさせたい」
即答だった。
マーリンは、また言葉を失った。
回廊の光が、白い髪に落ちる。
中庭の花が風に揺れる。
大広間で浴びていた光とは違う。
こちらの光は、少しだけ静かだった。
「皆、私を見ているのね」
ぽつりと、言葉がこぼれた。
ミハイルは少しだけ間を置く。
「見ているな」
「でも、私なのかしら」
言ってから、少し変な言葉だと思った。
大広間では、誰もがマーリンを見ていた。
入学式でも、社交会でも、視線はずっと彼女に向けられていた。
けれど、その視線の先にいたのは、本当に自分だったのか。
ロイス公爵家の令嬢。
帝国の希望。
フルール・デスポワール。
美しい呼び名は、どれも少し遠い。
マーリンは窓の外へ視線を向けた。
花壇の白い花が、風に揺れている。
決められた場所で、綺麗に咲いている。
誰かが美しいと褒める。
誰かがよく手入れされていると言う。
でも、その花の名前を知っている人はどれくらいいるのだろう。
「おかしなことを言ったわ」
マーリンは小さく笑った。
「忘れて」
「忘れない」
即答だった。
マーリンは顔を上げる。
ミハイルは、静かに彼女を見ていた。
「俺は、マーリンを見ている」
飾り気のない言葉だった。
だから、余計に逃げ場がない。
マーリンは視線を落とした。
胸の奥が熱くなる。
社交会の光とは違う。
もっと小さくて、もっと困る熱。
「……そういうことを、簡単に言うのね」
「簡単じゃない」
「そうは聞こえなかったわ」
「必要だから言った」
「必要?」
「言わないと、君はすぐ花瓶に戻る」
「花瓶?」
「綺麗に飾られて、動かないやつ」
マーリンは思わず笑ってしまった。
声は小さい。
けれど、本物だった。
「ひどいわ。せめて花にして」
「花も動かない」
「花瓶も動かないでしょう」
「だから問題なんだ」
「……よく分からない理屈ね」
「君は動いている方がいい」
言われて、マーリンは黙った。
動いている方がいい。
知らないものに目を輝かせる自分。
図書室の分類札に足を止める自分。
クリスチーナを先輩と呼ぼうとして困らせる自分。
壊れかけの測定器を見つけると、つい中身を見たくなる自分。
そういう自分を、彼は知っている。
そして、嫌わない。
それどころか、そちらを見ようとする。
「……困るわ」
マーリンは小さく言った。
「どうして」
「そう言われると、戻りにくくなるもの」
「戻らなくていい」
「それは無理よ」
ミハイルはすぐには返さなかった。
公の場では、軽々しく言えないことがある。
ロイス家の令嬢であること。
帝国の希望と呼ばれること。
役割から降りられないこと。
そのすべてを、彼も知っている。
だから、無理に引き剥がそうとはしない。
「なら、戻る前に息をしろ」
その言い方があまりにミハイルらしくて、マーリンは少し笑った。
「命令?」
「お願い」
「お願いにしては、少し強いわ」
「君が聞き流すからだ」
「私はそんなに聞き流していないわ」
ミハイルは何も言わず、マーリンの顔を見た。
その沈黙が、答えのようだった。
マーリンは負けたように目を伏せる。
「……少しだけ」
「うん」
「少しだけ、疲れたわ」
言えた。
そのことに、マーリン自身が一番驚いていた。
疲れた。
たったそれだけの言葉。
大広間では言えない。
ブライアンの前でも言えなかった。
アンネリーゼの前では、なおさら言えるはずがない。
けれど、ここでは小さくこぼれた。
ミハイルは大げさに驚かなかった。
心配しすぎた顔もしなかった。
ただ、少しだけ表情をやわらげる。
「うん」
それだけだった。
それだけで、十分だった。
クリスチーナは一歩後ろで、そのやり取りを見ていた。
マーリンが少女に戻る瞬間だった。
希望の花でも、ロイス家の令嬢でもなく、ただのマーリンとして息をする瞬間。
クリスチーナは安堵する。
けれど同時に、胸の奥が少し痛む。
自分もマーリンを守りたい。
ミハイルもマーリンを見ている。
それでも、この二人だけで帝国の期待すべてから彼女を守ることはできない。
大広間に戻れば、また視線が集まる。
花の名前より、花の置き場所を求める世界へ戻る。
それを止める力は、今のクリスチーナにはなかった。
回廊の向こうから、人の気配が近づいた。
教師と上級生らしい足音。
短い休息は終わりに近づいている。
マーリンはそれを聞き、ゆっくりと背筋を伸ばした。
少女の顔が、奥へ隠れていく。
代わりに、フルール・デスポワールの微笑みが戻る。
その変化を見て、ミハイルの眉が少しだけ寄った。
「マーリン」
名前を呼ばれて、マーリンは足を止める。
ミハイルも、周囲を見て声を落とした。
「無理をするな」
命令ではない。
社交辞令でもない。
ただ、心配する言葉だった。
マーリンは少しだけ困った顔をする。
それから、いつものように笑った。
「大丈夫よ、ミーシャ」
ミハイルは、その言葉をまったく信じていない顔をした。
あまりにも正直な顔だった。
マーリンは、もう一度だけ笑う。
今度は、ほんの少し本物だった。
「その顔、ひどいわ」
「信用できない言葉を聞いた顔だ」
「ひどい」
「本当のことだ」
「クリスに似てきたのではなくて?」
一歩後ろで、クリスチーナがわずかに目を伏せた。
「恐れ入ります」
「褒めているのよ」
「半分ほどでしょうか」
ミハイルが小さく笑った。
マーリンもつられて笑う。
短い笑い声。
小さな回廊に落ちる、ほんの少しだけ自由な音。
それでも、人影は近づいている。
マーリンは顔を上げた。
「戻らないと」
「うん」
「花瓶に?」
「できれば、花瓶ではなく」
ミハイルは少し考えた。
「歩く花くらいで」
「それはそれで不思議ね」
「君には似合う」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
マーリンは微笑み、大広間へ戻る方へ歩き出した。
ミハイルは半歩だけ後ろに下がる。
公の距離へ戻る。
クリスチーナはいつもの一歩後ろへ入る。
大広間へ近づくにつれて、ざわめきが大きくなる。
花の香りが濃くなる。
視線が、またマーリンへ集まり始める。
光が降りる。
希望の花という呼び名が、再び彼女の上に重なる。
けれど胸の奥には、さっきの声が残っていた。
マーリン。
その名を呼ぶ声だけが、彼女を花瓶の外へ出してくれる気がした。
社交会が終わりに近づく頃、マーリンは再び完璧な笑顔で挨拶を交わしていた。
周囲は彼女を希望の花として見る。
ブライアンは、彼女を正しく場に置く。
アンネリーゼは、越えるべき壁として見つめる。
それぞれの視線が、マーリンの上に重なる。
重なって、少し重い。
それでも、先ほどより息は浅くない。
回廊の短い時間が、胸の奥にまだ残っている。
大丈夫、という言葉を信じない顔。
花瓶ではなく、歩く花だと言った声。
名前を呼ぶ声。
そのどれもが、マーリンを少しだけ現実へ戻してくれる。
クリスチーナは一歩後ろで支える。
ミハイルは名前を呼んで止めようとする。
その二つの場所でだけ、マーリンはまだ少女でいられた。
会場の出口近くで、生徒会役員の上級生が近づいてきた。
名前は名乗らない。
ただ礼儀正しく、必要な距離で足を止める。
「ロイス嬢」
「はい」
マーリンは微笑んだ。
「カーチスライト様よりご伝言です。新入生代表として、後ほど少しだけお力をお貸しいただきたいとのことです」
丁寧な言葉だった。
正しい依頼だった。
断る理由のない、きれいな形をしていた。
マーリンは静かにうなずく。
「承知いたしました。ブライアン様に、喜んでお手伝いいたしますとお伝えください」
「かしこまりました」
生徒会役員は礼をして離れていく。
その背中を見送りながら、マーリンはほんの少しだけ息を吸った。
正しい依頼。
正しい役割。
正しい場所。
また、花瓶が用意されたのかもしれない。
けれど今のマーリンは、胸の奥で小さく反論する声を持っていた。
花瓶ではなく。
歩く花。
その言い方は少しおかしくて、少し救いだった。
マーリンは大広間の光の中で微笑む。
ロイス家の令嬢として。
フルール・デスポワールとして。
そして、誰にも見えないほど小さく、マーリンとして。
ここまでお読みいただき有り難うございました。
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