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少女が志願した理由

ご覧いただきありがとうございます。

評価、ブックマークしていただきありがとうございます。


文章多めとなっております。

訓練のあと、二人はシミュレーター区画近くの休憩室へ案内された。


休憩室、と言っても、そこに柔らかな空気はあまりなかった。

白い壁。簡素な机。必要な数だけ並べられた椅子。

壁際には、温かい飲み物を出す小さなドリンクサーバーと、レーションが整然と置かれている。


マーリンは席に腰を下ろし、手元の紙コップを見つめる。


中身は薄い紅茶だった。

香りは悪くない。温度も、ちょうどいい。

けれど、口をつける気にはなれなかった。


赤く塗りつぶされたシューティングスター。

撃墜判定。

機体損傷率、七十二パーセント。


ただの訓練結果だ。

ステラは無事で、怪我ひとつしていない。


そう分かっているのに、胸の奥には冷たいものが残っている。


「……次は、もっと早く入らないと」


向かいの席で、ステラが小さく呟いた。


マーリンは顔を上げる。


ステラは紙コップを両手で包むように持っていた。

飲むためというより、手を落ち着かせるためにそうしているように見えた。


その隣には、先ほどの訓練記録を簡易表示した薄い端末が置かれている。

ステラは何度もその画面を見ていた。


彼女は、そこから目を逸らしていない。


「イルクート候補生」


マーリンが呼ぶと、ステラははっとしたように顔を上げた。


「はい!」


返事はいつも通り少し大きい。

けれどすぐに、休憩室にいた数人の士官候補生の視線に気づいたのか、頬を赤くして声を落とした。


「……はい」


その様子に、マーリンは少しだけ目元を和らげる。


「少し休んだ方がいいわ」


「休んでいます」


ステラは真面目な顔で言った。


マーリンは、視線を端末へ落とす。


「それを見ながら?」


「あっ」


ステラは気まずそうに端末へ視線を落とした。


「これは、その……休みながら確認しているので、休憩の範囲内かと」


「そうなの?」


「たぶん……」


最後だけ、少し自信がなくなっていた。


マーリンは何も言わなかった。

ただ、ステラの手元を見た。


紙コップを包む指先は、まだ少し強張っている。

けれど、震えてはいない。


落ち込んでいる。

悔しがっている。

それでも、もう次を見ようとしている。


その姿は、マーリンには少し眩しかった。


「次は、落ちません」


ステラが、ぽつりと言った。


強く宣言するというより、自分に言い聞かせるような声だった。


「さっきの角度なら、もっと早く支援位置を変えれば間に合うと思うんです。あと、ロイス公爵令嬢が前に出られる時の癖も、もう少し見ます。出力が上がる前に、ほんの少しだけ機体の傾きが変わるので」


そこまで言って、ステラは慌てて口を押さえた。


「す、すみません。休むんでした」


「いいえ」


マーリンは首を横に振った。


「聞いているわ」


ステラは、少しだけ安心したように息を吐く。


「ありがとうございます」


そしてまた、端末を見る。

マーリンも、同じ画面へ視線を落とした。


赤い線は、もう動かない。

ただそこに残っているだけだ。


けれど、ステラの目はそこに止まっていない。

赤く途切れた場所の前を見ている。

次にどこへ動けばよいのかを、考えている。


その強さは、マーリンの知っている強さとは違っていた。


敵を倒す強さではない。

前へ出る強さでもない。


失敗した場所を、もう一度見つめる強さだった。


マーリンは紙コップに指を添える。

温度は、もう少しだけ下がっていた。


「イルクート候補生」


「はい?」


ステラが顔を上げる。


マーリンは少し迷ってから、静かに尋ねた。


「あなたは、どうして軍に入ったの?」



ステラは、しばらく答えなかった。


紙コップを両手で包んだまま、視線だけを中身へ落としている。

湯気はもう、ほとんど立っていなかった。


「どうして、軍に……ですか」


確認するように、ステラは小さく繰り返した。


「ええ」


マーリンは頷く。


「話したくなければ、無理にとは言わないわ」


「いえ!」


ステラは慌てて顔を上げた。


声が少し大きい。

すぐに周囲を見て、また少しだけ頬を赤くする。


「……いえ。大丈夫です。ええと、その、難しい質問ではありませんから」


そう言って、ステラは姿勢を正した。


まるで教官に答えを求められた候補生のように。


「帝国貴族の子女として、家と帝国に尽くすことは当然の務めです。特に現在は戦時下ですし、私にもできることがあるなら、力を尽くすべきだと考えました」


言葉はすらすらと出てきた。


正しい答えだった。


家のため。

帝国のため。

できることをするため。


どこにも間違いはない。

きっと、士官候補生として問われれば満点に近い答えなのだろう。


けれど、マーリンはすぐには頷けなかった。


あまりにも整っていたからだ。


整いすぎた言葉は、ときどき本当の形を隠してしまう。


「そう」


マーリンは紙コップへ視線を落とした。


薄い紅茶の表面が、わずかに揺れている。

自分が動いたのか、カップが動いたのか、少し分からなかった。


「立派な答えね」


「は、はい。ありがとうございます」


ステラはそう返した。

けれど、少しだけ声が沈んだ。


褒められているはずなのに、嬉しそうではない。


マーリンは、それを見ていた。


「でも」


ステラの指が、紙コップの縁をなぞる。


「ロイス公爵令嬢が聞きたいのは、たぶん、そういうことではありませんよね」


マーリンは少し驚いて顔を上げた。


ステラは困ったように笑っていた。


いつもの明るさはある。

けれど、そこに少しだけ弱さが混じっている。


「私、また正しい答えを言いました」


「正しい答え?」


「はい。軍学校でも、家でも、そう答えればだいたい褒められる答えです」


ステラはそう言って、紙コップへ視線を戻した。


「嘘ではないんです。帝国のために役に立ちたいと思っているのも、家のために頑張りたいと思っているのも、本当です」


そこで、少しだけ間が空く。


「でも、それが最初の理由だったかと聞かれると……少し違います」


休憩室の奥で、ドリンクサーバーが小さな音を立てた。

誰かがレーションの包装を開く乾いた音も聞こえる。


それらは普通の音だった。

けれど、二人の間だけは、少し静かになった。


マーリンは急かさなかった。


ステラは、たぶん言葉を選んでいる。

いつものように明るく言い切るのではなく、今は自分の中にあるものを探している。


「本当の理由を、お話ししてもいいですか」


ステラが言った。


その声は、先ほどより小さかった。


マーリンは静かに頷く。


「もちろん」


ステラは一度、深く息を吸った。


紙コップを握る指に、少しだけ力が入る。


「笑わないでくださいね」


「笑わないわ」


「それから、あまり立派な話ではありません」


「立派かどうかを決めるために聞いたわけではないの」


そう答えると、ステラは一瞬だけ目を丸くした。


それから、少しだけ表情を緩める。


「……ロイス公爵令嬢は、そういうところがずるいです」


「ずるい?」


「はい。そう言われると、話してしまいたくなります」


その言い方は、いつものステラに少し近かった。


けれどすぐに、彼女は視線を落とす。


「本当は」


ステラは、紙コップの中の薄い紅茶を見つめたまま言った。


「軍にだけは、入りたくなかったんです」



その一言は、休憩室の中でひどく小さく聞こえた。

けれど、マーリンの耳にははっきり残った。


ステラはすぐに顔を上げようとはしなかった。

紙コップの中を見つめたまま、少しだけ笑う。


「変ですよね」


「変ではないわ」


マーリンは静かに答えた。


ステラの指先が、紙コップを少しだけ強く包む。


「でも、士官候補生が言うことではありません」


「そうかもしれないわね」


「そこは否定してくださらないんですね」


「あなたが嘘をついていないから」


ステラは、困ったように眉を下げた。

それから、ほんの少しだけ肩の力を抜く。


「……兄がいるんです」


ぽつりと、ステラは言った。


「本当なら、兄が軍へ入るはずでした。イルクート家としても、それが一番自然で。家族も、周りも、みんなそう思っていました」


マーリンは黙って聞いた。


イルクート伯爵家。


家名だけは知っている。

けれど、その中で誰が何を背負っているのかまでは知らない。


ステラは続けた。


「でも、兄は行けなくなりました。詳しい事情は……すみません。家のことなので、あまり」


「ええ。無理に話さなくていいわ」


「ありがとうございます」


ステラは小さく頭を下げた。


その礼の仕方は丁寧で、貴族令嬢らしかった。

けれど、次に口を開いた時の声は、少しだけ幼かった。


「それで、私になったんです」


私になった。


その言い方が、マーリンの胸に引っかかった。


選ばれた、ではなく。

任された、でもなく。


ただ、そうなった。


「家族は、私に強く命じたわけではありません」


ステラは慌てるように付け足した。


「本当です。みんな、私を大切にしてくれました。父も、母も、兄も。だから余計に、断れなかったんです」


紙コップの中の紅茶が、ほんの少し揺れた。


「泣かれました。謝られました。お願いされました。ステラしかいないって」


マーリンは何も言わなかった。


責める言葉なら、簡単だったかもしれない。

ひどい家族だと。

そんなことを頼むべきではないと。


けれど、ステラの声には恨みがなかった。


痛みはある。

けれど、憎しみではない。


愛されていたから、断れなかったのだ。


「わたしは、ただ言われたから」


ステラの声が、少しだけ崩れた。

普段の明るい一等士官候補生ではなく、家族の前で立ち尽くしていた少女の声だった。


「家のため、大義名分なんてありません」


マーリンは、その言葉を胸の中で受け止めた。


大義名分。


それは、戦場へ人を送り出す時にとても便利な言葉だ。


帝国のため。

家のため。

未来のため。

守るため。


どれも正しく聞こえる。

正しいからこそ、断る側だけが間違っているように見える。


「私は、そんな立派な人間ではありません」


ステラは小さく笑った。

笑おうとしているだけの顔だった。


「ただ、家族が困っていて。みんなが私を見ていて。私が頷けば、少しは楽になるんだと思ったんです」


「……怖くはなかったの?」


マーリンが尋ねると、ステラは少しだけ目を丸くした。

それから、素直に頷く。


「怖かったです」


その答えは早かった。


「とても」


ステラは紙コップから手を離し、膝の上で指を重ねた。


「軍学校へ行く日、宇宙港のロビーで泣きそうになりました。でも、家族が見送ってくれていたので、泣けませんでした。泣いたら、きっとみんながもっと苦しそうな顔をすると思って」


マーリンは、自分の指先を見下ろした。


泣けない。


その感覚は、少しだけ分かる気がした。


「だから、笑いました」


ステラは言う。


「大丈夫ですって。私、頑張りますって」


それは、きっとこの少女がよく使う言葉なのだろう。


頑張ります。


明るく、まっすぐで、少しだけ無理をしている言葉。


「そうしたら、みんな少し安心した顔をしました」


ステラは、そこで目を伏せた。


「だから、笑ってよかったんだと思いました」


休憩室の空気は変わっていない。


ドリンクサーバーの小さな稼働音。

遠くの通路を歩く足音。

誰かが低く交わす声。


それでも、マーリンには、その場所だけが静かに切り離されたように感じられた。


「イルクート候補生」


「はい」


「あなたは、ご家族を恨んでいるの?」


ステラは少し考えた。


すぐに否定しないところが、かえって正直だった。


「……恨んでいない、と思います」


曖昧な答えだった。

けれど、たぶんそれが本当なのだろう。


「嫌だったことは本当です。怖かったことも。でも、家族が嫌いなわけではありません。むしろ、大好きです」


ステラは顔を上げた。

空色の瞳は少し揺れていたが、濁ってはいなかった。


「だから、断れませんでした」


その言葉は、とても静かだった。

マーリンは、何も言えなかった。


ステラは自分と同じではない。


家族に愛されていた。

頼まれて、泣かれて、謝られて、それでも必要とされた。


マーリンとは違う。

それでも、どこか似ている。


自分で選んだようで。

本当は、選ばない道を少しずつ狭められていた。


ステラは、そんなことには気づいていないのかもしれない。

あるいは、気づいていても、それを恨みとは呼ばないのかもしれない。


「すみません」


ステラは急に背筋を伸ばした。


「暗い話になりました」


「いいえ」


マーリンは首を横に振る。


「話してくれて、ありがとう」


ステラは少し驚いたように瞬きをした。

それから、照れたように笑う。


「ロイス公爵令嬢にそう言っていただくと、少しだけ、話してよかったと思えます」


その笑顔は、まだ少しぎこちなかった。

けれど、無理に作っただけの笑顔ではなかった。



「でも」


ステラは、膝の上で重ねていた指を少しだけ握った。


「でも、だからこそ、私、一生懸命、頑張ったんです」


その声は、先ほどより少し強かった。

強いと言っても、大きな声ではない。

休憩室の隅に置かれたドリンクサーバーの音にも負けてしまいそうな、小さな声。


それでも、そこには確かに芯があった。


「いっぱい頑張りました」


ステラは、照れたように笑った。

自分でそんなことを言うのは、少し恥ずかしいのだろう。

頬がほんのり赤くなっている。


けれど、言葉は止まらなかった。


「私には、大義名分なんてないけれど。少しでも。家族のため、帝国のため、みんなの役に立とうって」


マーリンは、黙ってステラを見ていた。


ステラは逃げていない。

与えられた場所で、泣きながらでも、怖がりながらでも、立とうとしていた。


「最初は、何も分かりませんでした」


ステラは苦笑する。


「姿勢も悪いって怒られて、返事も大きすぎるって注意されて、魔力制御は力が入りすぎだって言われました。あと、座学は……その、最初の頃は少し眠くて」


「眠くて?」


マーリンが思わず聞き返すと、ステラは慌てて手を振った。


「い、今はちゃんと起きています! 本当です!」


その反応があまりに真剣で、マーリンは少しだけ目元を緩めた。

ステラはこほんと小さく咳払いをして、姿勢を正す。


「でも、苦手なものも、できないままにしたくありませんでした。私が何もできなかったら、私を送り出した家族が、きっともっと苦しむと思ったんです」


「……」


「だから、できることを増やしました。座学も、索敵も、通信処理も、機体制御も。最初は全部ばらばらで、何をどうすればいいのか分からなかったんですけど」


ステラは、自分の手を見る。


「何度も失敗して、何度もやり直していたら、少しずつ分かるようになりました。自分が前に出るより、周りを見ていた方がいいこと。誰かの動きを追う方が得意なこと。危ない場所を先に見つける方が、私には向いていること」


マーリンは、ふと前回の訓練記録を思い出した。

赤く途切れた、シューティングスターの軌跡。


けれど、その少し前。


リュールの後ろへ、何度も戻ろうとしていた線。

崩れた位置を立て直そうとしていた動き。

射線を避けながら、帰る場所を残そうとしていた軌跡。


あれは、偶然ではなかった。

センスだけでもない。


この少女が、何度も練習して、何度も失敗して、それでも諦めなかった結果なのだ。


「イルクート候補生」


マーリンは静かに呼んだ。


ステラが顔を上げる。


「あなたは、努力したのね」


その言葉を聞いた瞬間、ステラはきょとんとした。

まるで、そんなふうに言われるとは思っていなかったように。


「え、ええと……はい」


少し遅れて、ステラは頷く。


「たぶん、しました」


「たぶん?」


「自分で頑張りましたって言うのは、ちょっと恥ずかしいので……」


そう言いながらも、さっき自分で「いっぱい頑張りました」と言っていた。

そのことに気づいたのか、ステラはますます赤くなった。


「今のは忘れてください」


「どちらを?」


「全部です」


「難しいわね」


マーリンがそう返すと、ステラは困ったように眉を下げた。


その表情が、少しだけ年相応に見えた。


士官候補生でも、伯爵家の令嬢でも、マーリンの仮バディでもない。

ただ、頑張ったことを褒められて照れている少女。


その姿に、マーリンの胸は少しだけ痛んだ。


「でも、本当に」


ステラは紙コップを持ち直した。


「私は、すごく優れた人間だったから選ばれたわけではないと思います。もちろん、適性があったのはありがたいです。でも、それだけでは、ここにはいられませんでした」


彼女は少しだけ視線を落とす。


「何も持っていないなら、せめて身につけようと思ったんです。立派な理由がないなら、せめて立っていられるだけの力を持とうって」


それは、少し不器用な言葉だった。

けれど、嘘はなかった。


「だから、撃墜判定も……悔しいです」


ステラの指が、紙コップの縁を軽く押す。


「怖くなかったわけではありません。でも、それ以上に悔しかった。まだ足りなかったんだって、思いました」


「怖かったの?」


マーリンが尋ねると、ステラは素直に頷いた。


「はい」


短い返事だった。


「でも、それ以上に本物ではないから、次があると思えました」


ステラは顔を上げる。


「本物だったら、次はありません。だから、訓練でよかったんです。落ちた場所を、ちゃんと見られますから」


マーリンは返事を忘れた。


ステラは、本当に次を見ている。


落ちたことをなかったことにするのではなく。

怖くなかったふりをするのでもなく。

落ちた場所を見て、次に落ちないために考えている。


それは、マーリンにはまだうまくできないことだった。


「私、次はもっと役に立ちます」


ステラは言った。


「ロイス公爵令嬢が前を見ていられるように、後ろを見ます。戻る場所を残します。前より、きっと上手くやります」


その言葉には、無理な明るさだけではないものがあった。


積み重ねてきた人間の声だった。


マーリンは、紙コップに添えていた指をそっと離した。


「ええ」


それだけ答える。


「期待しているわ」


言ってから、少しだけ驚いた。

自分がそんな言葉を口にしたことに。


ステラも同じように驚いた顔をした。

そして次の瞬間、ぱっと表情を明るくする。


「はい!」


また、声が少し大きい。

今度は、休憩室にいた士官候補生の一人がこちらを見た。


ステラは慌てて口を押さえる。


「……はい」


小さく言い直した声は、少しだけ弾んでいた。



「それに」


ステラは、少しだけ恥ずかしそうに視線を泳がせた。


何かを打ち明けるというより、言いたくて仕方がないことを、どうにかきちんとした形にしようとしている顔だった。


「そのおかげで、ロイス公爵令嬢のバディになれました!」


明るい声だった。

また、少し大きい。


けれど今度は、ステラ自身も気づかなかったらしい。

空色の瞳をきらきらさせて、まっすぐマーリンを見ている。


マーリンは、少しだけ返事に困った。


「……それは、よかったことなの?」


「はい!」


即答だった。

少しの迷いもなかった。


「すごく!」


あまりにもまっすぐだったので、マーリンは思わず瞬きをした。


自分のバディになる。


それは、つまりリュールの隣を飛ぶということだ。

戦場に出るということだ。

危険な場所で、マーリンの後ろを見続けるということだ。


訓練では、ただの撃墜判定だけで、あれほど胸が冷えた。


本物なら、どうなるのか。


そう考えただけで、マーリンは紙コップに添えていた指を少しだけ強くした。

けれどステラは、嬉しそうに笑っている。


「私、まさか自分がロイス公爵令嬢のバディ候補に選ばれるなんて思っていませんでした」


「そうなの?」


「はい。だって、ロイス公爵令嬢ですよ?」


「……私だけれど」


「その、そうではなくてですね」


ステラは慌てて手を振る。


「フルール・デスポワールで、リュールを動かせる方で、帝国中が知っている方で、その、ええと……本物の……」


そこまで言って、ステラははっと口を閉じた。


前回の顔合わせで、自分が何を言ったのか思い出したのだろう。

頬がみるみる赤くなる。


「も、申し訳ありません。また本物って言いかけました」


「もう言っているわ」


「申し訳ありません!」


勢いよく頭を下げる。


マーリンは少しだけ困った。

けれど、その困り方は嫌なものではなかった。


「怒ってはいません」


「本当ですか?」


「ええ。ただ、本物と言われると、少し困るだけ」


「は、はい。気をつけます」


そう言って、ステラは背筋を伸ばした。

伸ばしたのに、すぐにまた少しだけ前のめりになる。


「でも、本当に光栄なんです」


その声は、今度は少しだけ落ち着いていた。


「私、頑張ってよかったって、思いました。軍学校に入った時は、何をしているのか分からなかったんです。どうして私なんだろうって、何度も思いました」


ステラは、紙コップを両手で包む。


「でも、今は少しだけ思えるんです。あの時から頑張ってきたことが、()()につながったのかもしれないって」


その言葉が、マーリンには少し痛かった。


ここは、軍施設の休憩室だ。

訓練のあとで、撃墜判定の記録がまだ端末に残っている場所だ。

この先には、もっと危険な場所がある。


それなのに、ステラはここへ来られたことを嬉しいと言う。


「イルクート候補生」


「はい」


「私の隣にいることは、きっと楽ではないわ」


ステラは、ぱちりと瞬きをした。


「はい。少し分かりました」


「少し?」


「はい。少しです」


真面目に答えるので、マーリンはまた少し困った。


ステラは続ける。


「たぶん、これからもっと分かるのだと思います。ロイス公爵令嬢の速さも、判断も、私がどれだけ遅れるのかも」


「……」


「でも、それでも、私は選ばれてよかったと思っています」


ステラの声は明るい。

けれど、軽くはなかった。


「怖くないわけではありません。撃墜判定だって、少しだけ……いえ、かなり怖かったです」


そう言って、ステラは照れたように笑う。


「でも、怖かったから、次はもっと頑張れます」


その言葉に、マーリンは息を止めた。


怖かったから、頑張る。


怖いから逃げるのではなく。

怖くないふりをするのでもなく。


怖かったから、次に備える。


ステラは、そういうふうに前へ進む少女なのだ。


「ロイス公爵令嬢の隣で何ができるのか、まだ全部は分かりません」


ステラは言った。


「でも、前よりは分かりました」


「後ろを固めること?」


「はい!」


ステラは嬉しそうに頷く。


「私、後ろを固めます。ロイス公爵令嬢が前を見ていられるように。帰ってこられる場所を残せるように」


その言葉は、訓練後にも聞いたものだった。


けれど今は、少し違って聞こえた。


役割としてだけではない。

ステラ自身が、自分の歩いてきた道の先に見つけた答えのようだった。


「それに」


ステラは、また少しだけ表情を明るくする。


「もし私がちゃんと後ろを固められたら、ロイス公爵令嬢も少しは安心して前を見られますよね?」


「……そうね」


安心。


その言葉が、すぐには胸に馴染まなかった。

それでも、ステラがあまりにも真剣に言うから、マーリンは否定できなかった。


「そうだと、思うわ」


ステラはぱっと笑った。


「では、やっぱり頑張ります!」


結局そこへ戻るのね。

そう思って、マーリンはほんの少しだけ目元を緩めた。

ステラはその変化に気づいたのか、嬉しそうに頬を染める。


「今、少し笑いました?」


「そうかしら」


「はい。少しだけ」


「気のせいではなくて?」


「たぶん、違います」


ステラは少し得意げに言った。

その表情があまりに素直で、マーリンは今度こそ少しだけ困ったように笑った。


ほんの少しだけ。

すぐに消えてしまうような小さな笑みだった。


けれど、ステラはそれを見て、まるで大きな戦果を得たかのように嬉しそうな顔をした。


「私、やっぱりバディになれてよかったです」


その言葉は、あまりにも眩しかった。

マーリンは返事をしようとして、少しだけ遅れた。


「……そう」


ようやく出た声は、静かだった。


「それなら、私も」


続きは、すぐには出てこなかった。


よかった、と言うにはまだ怖い。

けれど、悪いことだとは思えなかった。


少なくとも、この少女が隣にいることを、嫌だとは思わなかった。


「私も、あなたを置いていかないようにしないといけないわね」


ステラはまっすぐ頷いた。


「はい。お願いします」


その返事があまりにも素直だったので、マーリンはまた少しだけ笑いそうになった。



「それに」


ステラは、少しだけ声を落とした。


先ほどまでの明るさが消えたわけではない。

けれど、そこに別の温度が混じった。


ふざけているのでも、勢いで言っているのでもない。

きちんと考えて、言葉にしようとしている顔だった。


「私、ロイス公爵令嬢を尊敬しています」


マーリンは、紙コップに添えていた指を止めた。


「尊敬?」


「はい」


ステラはまっすぐ頷く。


その瞳に、いつもの憧れはある。

けれど、それだけではなかった。


「だって、ロイス公爵令嬢は、ご自分で志願されたのでしょう?」


志願。


その言葉は、思っていたよりも鋭く胸に触れた。


マーリンは、すぐに返事をしなかった。


紙コップの中の紅茶は、もう少し冷めている。

表面は揺れていない。


なのに、マーリンにはそれが少しだけ歪んで見えた。


「本当は怖かったのに、帝国宇宙軍へ協力すると、ご自分で決められたって聞きました」


ステラは続ける。


「誰かに言われたからではなく、家のために仕方なくでもなく、自分で行くって」


マーリンの指先に、ほんの少し力が入った。


違う。


そう言いかけて、言葉は出なかった。


完全に違うわけではない。


自分は、たしかに言った。

協力要請を受けると。

これはロイス家のためだけでも、帝国のためだけでもない。

私自身の意思だと。


その言葉は嘘ではなかった。


けれど、あれは本当に志願だったのだろうか。


軍から届いた報告書。

極めて高い適性。

継続的協力を要する重要対象。

また誰かを失うかもしれない恐怖。

そして、どこかで静かに整えられていた道。


それらの中で、自分は選んだ。


選んだ、はずだった。


「すごいと思いました」


ステラは、素直に言った。


「私は、言われたから来ました。家のためって言えば、きっと聞こえはいいです。でも、本当は、断れなかっただけです」


「イルクート候補生……」


「だから、自分から選べる人はすごいと思います」


その言葉に、マーリンは何も返せなかった。


自分から選べる人。


そんな綺麗なものとして見られていることが、苦しかった。


ステラは知らない。


マーリンの中に、復讐心があったことを。

ミハイルを失った痛みが、まだ奥で燃えていることを。

守りたいという願いと同じくらい、奪われたことへの怒りがあったことを。


そして、自分で選んだと信じなければ、立っていられなかったことを。


「私も」


ステラは紙コップを見下ろし、小さく笑った。


「いつか、そういうふうに選べるようになりたいです」


それは、あまりにもまっすぐな願いだった。


マーリンは、唇を開いた。


違うの。

私はあなたが思っているような人間ではない。


初めて会った時のようにそう言えばよかったのかもしれない。

けれど、それを言えば、ステラの中にある何かを壊してしまう気がした。


憧れ。

尊敬。

前を向くための小さな支え。


それが間違いを含んでいるとしても、今ここで奪うことが正しいとは思えなかった。


「……それは」


マーリンは、ゆっくりと言葉を探す。


自分のことには答えられない。

だから、ステラを見ることにした。


軍に入りたくなかった少女。

家族を恨みきれず、断れず、それでも一生懸命頑張った少女。

撃墜判定を受けても、次に落ちないための線を見つめ直せる少女。


「それは、とてもすごいことだと思うわ」


ステラは、目を丸くした。


「え?」


「あなたが、頑張ってきたこと」


マーリンは続ける。


「大義名分がなかったと言ったわね。でも、何もなかったわけではないでしょう」


ステラは少しだけ困ったように眉を下げた。


「そう、でしょうか」


「ええ」


マーリンは頷く。


「怖かったのに、それでも軍学校へ行った。嫌だったのに、逃げずに学んだ。記録も、あなたは目を逸らさなかった」


ステラの指先が、紙コップの縁をそっと押す。


「それは、簡単なことではないと思うわ」


休憩室の空気は静かだった。


遠くで誰かが椅子を引く音がする。

ドリンクサーバーの小さな稼働音が続いている。


ステラはしばらく黙っていた。

それから、少しだけ頬を赤くする。


「……ロイス公爵令嬢にそう言っていただけると」


「ええ」


「その、すごく……困ります」


「困るの?」


「はい」


ステラは真剣に頷いた。


「嬉しすぎて、どうしたらいいか分かりません」


その答えがあまりに素直だったので、マーリンは少しだけ目を瞬かせた。

そして、ほんのわずかに笑った。


ステラはそれを見て、またぱっと表情を明るくする。


「今、笑いましたね」


「さっきも言われたわ」


「はい。二回目です」


「数えているの?」


「いえ、その、たまたまです!」


慌てるステラの声が少し大きくなる。

すぐに周囲の視線を気にして、また小さくなる。


「……たまたまです」


その様子に、マーリンは目元を緩めた。

けれど、胸の奥の重さは消えなかった。


ステラの言葉は、優しかった。

まっすぐで、明るくて、こちらを少しだけ暖かくしてくれる。


だからこそ、痛い。


自分は、その尊敬にふさわしい人間ではない。


でも。


マーリンは、ステラを見る。


この少女がそう信じているなら。

自分の後ろを固めると言ってくれるなら。

せめて、その信頼だけは裏切りたくない。


「イルクート候補生」


「はい」


「次の訓練でも、後ろをお願いしていいかしら」


ステラは、一瞬だけ固まった。

それから、まっすぐに背筋を伸ばす。


「はい!」


今度の返事は、やっぱり少し大きかった。


けれどマーリンは、注意しなかった。



休憩の終わりを告げる合図が、壁際の端末から小さく鳴った。

それは会話を遮るには十分で、余韻を壊すには少しだけ控えめな音だった。


ステラは慌てて紙コップを置き、背筋を伸ばす。


「次の確認に行ってまいります」


「ええ」


マーリンは頷いた。


「無理はしないで」


そう言ってから、少しだけ不思議な気持ちになる。


昨日までなら、きっと違う言い方をした。

頑張って、気をつけて、よろしくお願いします。


そんな、正しくて、邪魔にならない言葉を選んだはずだった。

けれど今は、無理をしないでと言いたかった。


ステラは一瞬だけ目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。


「はい。無理をしないように、いっぱい頑張ります」


「それは、無理をする人の言い方ではないかしら」


「えっ」


ステラは真剣に考え込んだ。

その顔があまりにも真面目で、マーリンは少しだけ困ったように目元を緩める。


「……気をつけます」


「ええ。そうして」


ステラはもう一度、丁寧に頭を下げた。

それから、端末を抱えて休憩室を出ていく。


扉が閉まる直前、彼女は振り返った。


「ロイス公爵令嬢」


「はい」


「次は、もっとちゃんと後ろを固めます」


その言葉は、明るかった。


けれど、ただ明るいだけではなかった。

赤い表示も、自分が語った理由も、全部抱えた上での明るさだった。


マーリンは静かに頷いた。


「頼りにしています」


ステラの顔が、ぱっと輝く。


「はい!」


扉が閉まった。

休憩室には、また静けさが戻る。


ドリンクサーバーの低い音。

遠くの通路を歩く足音。

紙コップの中で、冷めた紅茶がわずかに揺れている。


マーリンはしばらく、その扉を見つめていた。


志願した理由。


ステラには、それがあった。


最初から立派なものだったわけではない。

むしろ、本人は大義名分なんてないと言った。


言われたから。

家族に頼まれたから。

断れなかったから。


それでも、ステラはそこから逃げなかった。


軍に入りたくなかった少女は、訓練を重ね、失敗を見つめ、後ろを固めるという自分の位置を見つけた。


自分の意思ではなかった始まりを、少しずつ自分のものにしようとしている。


では、自分はどうなのだろう。


マーリンは、紙コップに指を添えた。


自分は志願したのか。


あの日、宇宙軍の要請を受けた。

誰かに命じられたわけではない。

自分でそう言った。


他でもない、自分の意志だと。

けれど、その言葉の奥にあったものを、マーリンは知っている。


次に誰かを失うことへの恐怖。

奪った者を許せないという、胸の奥の熱。

正式な報告書。

整えられた手続き。

断りにくい空気。


それらの全部が、あの言葉の周りにあった。

それでも、自分で選んだのだと思いたかった。


そう思わなければ、進めなかった。


「ご自分から志願されたって」


ステラの声が、耳の奥に残っている。

尊敬している、と彼女は言った。

その言葉は、嬉しいより先に痛かった。


マーリンは、自分がその尊敬にふさわしい人間だとは思えない。


けれど。


ステラが後ろを固めると言うのなら。


自分の背を見て、戻る場所を残そうとしてくれるのなら。


せめて、自分はその場所へ戻ることを覚えなければならない。


置いていかない。

振り切らない。

ひとりで前へ出すぎない。


それは、昨日までのマーリンにはなかった訓練だった。

マーリンは冷めた紅茶を一口飲んだ。


少し渋かった。

けれど、味はした。


「志願した理由、か」


小さく呟く。


答えは、まだ出ない。


ステラには、それがあった。

たとえ最初は、自分で選んだものではなかったとしても。


では、自分には。


マーリンは、その問いにまだ答えられなかった。

ここまでお読みいただき有り難うございました。


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