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後ろを固める少女

ご覧いただきありがとうございます。

評価、ブックマークしていただきありがとうございます。


文章多めとなっております。

仮バディとしての説明を受けてから、いくらか日が過ぎた。

長い休息と呼ぶには短く、気持ちを整えるには少し足りない。


マーリンは再び、帝国宇宙軍の地上訓練施設を訪れていた。


白い通路を進むにつれて、施設の空気が少し変わっていく。

書類を抱えた士官候補生の姿は減り、代わりに整備服を着た者や、端末を手にした技術士官の姿が増えた。


壁の向こうから、低い駆動音が聞こえる。

訓練装置が動いている音だと、案内役の士官は説明した。


「本日は実機ではなく、操縦シミュレーターを使用いたします」


その言葉に、マーリンはほんの少しだけ息を緩めた。


本物ではない。


そう思ったはずなのに、シミュレーター区画の扉が開いた瞬間、その小さな安堵はすぐに薄れた。


広い訓練室の中央には、球状シミュレーターが二基並んでいた。

形は本物によく似ていた。


マーリンは、思わず指先を握った。


今日は訓練だ。

そう言い聞かせても、胸の奥は少し冷えた。


「ロイス公爵令嬢」


隣から明るい声がした。


振り向くと、ステラが立っていた。


訓練用の耐Gスーツを身につけている。

前回の制服姿よりもずっと軍人らしく見えるのに、空色の瞳だけは相変わらずまっすぐだった。


「本日はよろしくお願いします」


ステラはぴんと背筋を伸ばし、勢いよく頭を下げた。


声は明るい。

けれど、指先にはわずかに力が入っている。


そう気づいて、マーリンは少しだけ肩の力を抜いた。


「こちらこそ、よろしくお願いします。イルクート候補生」


その呼び方に、ステラは一瞬だけ表情を引き締める。


「はい!」


返事はやはり少し大きかった。


訓練室の端にいた技術士官が、端末から顔を上げる。

ステラはすぐに口を結び、頬を赤くした。


マーリンは何も言わなかった。

ただ、ほんの少しだけ目元を和らげた。


「本日の訓練は、二機連携の基礎確認です」


ドルニエが説明を始める。


「実機ではなくシミュレーターを使用しますが、操縦系、通信系、索敵表示は可能な限り実機に近づけています。ロイス公爵令嬢はリュール側、イルクート候補生はシューティングスター側へ」


リュール。

シューティングスター。


二つの名が、並んで呼ばれる。

それだけで、もう訓練は始まっているような気がした。


「最初は追従、位置取り、死角管理の確認から行います。戦闘を想定した模擬敵機の投入は、その後です」


「承知しました」


マーリンは答えた。

ステラも続けて返事をする。


「はい!」


今度は少し抑えた声だった。

それでも、やはり明るい。


マーリンはシミュレーターへ向かった。

操縦席の前で足を止める。


危険はない。

撃たれても、壊れても、ここでは誰も死なない。


そう分かっている。

それでも、中へ入る時、マーリンの足はほんの少しだけ重かった。


後ろから、ステラが自分のシミュレーターへ入っていく音が聞こえる。


二機一組。


前回聞いた言葉が、静かによみがえった。


ひとりではない。

けれど、それは安心だけを意味しない。


マーリンはインターフェースに手を通した。

冷たい感触が、指先を包む。


すぐ隣の装置から、ステラの声が通信に乗った。


『ロイス公爵令嬢、聞こえますか?』


少し硬い声。

けれど、きちんと前を向いている声だった。


マーリンは小さく息を吸う。


「ええ。聞こえています」


『よろしくお願いいたします』


「こちらこそ」


表示面が起動する。

白い訓練室が消え、代わりに黒い宇宙(そら)が広がった。


マーリンは、それが作り物だと分かっていた。

分かっていたのに、胸の奥で何かが静かに鳴った。


訓練開始まで、あと十秒。


表示された文字を見つめながら、マーリンは指先に流れる魔力を、そっと抑えた。



表示が、ゼロになった。

宇宙(そら)が動き出す。


『訓練開始。第一段階』


機械音声が告げた。


マーリンは、指先に魔力を流す。


応える。

そう感じてしまった。


「……リュール、前進します」


『シューティングスター、追従します!』


マーリンは指先に意識を集中させる。

リュールの機影が、訓練空間の中で前へ滑り出した。


まずは直線移動。

続いて緩やかな進路変更。


その後方、斜め右に、シューティングスターの光点がつく。


離れすぎもしない。

近づきすぎもしない。


進路を変えるたび、少し遅れて、けれど必ず同じ距離へ戻ってくる。


無理のない動き。

きっと、あれが正しい位置なのだろう。

マーリンには、そう見えた。


「追従位置、良好」


管制側の声が入る。


『ありがとうございます!』


ステラの返事が弾んだ。

すぐに、次の指示が入る。


『第二進路へ移行。速度を一段階上げます』


マーリンはわずかに呼吸を整え、リュールを加速させた。


星が、後方へ流れる。

身体には実際の負荷はほとんどない。けれど、視界と魔力の感覚だけは、本当に加速しているように錯覚させる。


リュールは思ったより軽かった。


いや、軽いのではない。

マーリンが動かそうとした分だけ、迷わず応えてくる。


『右、三十度』


小さく呟き、リュールを傾ける。


進路を変える。

姿勢を整える。

わずかに修正する。


どれも、考えるより先に指先が動いた。


『シューティングスター、追従――っ』


ステラの声が、わずかに遅れる。

視界の端で、シューティングスターの光点が予定位置から少し外れた。


「イルクート候補生?」


『大丈夫です。位置、修正します』


すぐにシューティングスターが戻ってくる。


速い。

たぶん、十分に速い。


けれど、その間にリュールは次の進路へ入っていた。


『ロイス公爵令嬢、次の旋回、少しだけ待っていただけますか』


「ええ」


マーリンは答えた。

答えたつもりだった。


けれど、次に表示された進行ラインを見た瞬間、身体が先に動いた。


右へ流れるのではなく、下方へ沈む。

その方が無駄がない。


そう思った時には、リュールはすでに進路を変えていた。


『あっ、そちらですか!?』


ステラの声が跳ねる。


シューティングスターが慌てて軌道を修正する。

斜め後方にいたはずの機影が、一瞬、リュールの真後ろへ流れた。


距離が開く。


「ごめんなさい。今のは」


『い、いえ! 追いつきます!』


ステラはすぐに答えた。


責める声ではない。

むしろ、置いていかれまいとする必死さがあった。


マーリンは、進路を少し落とした。

すると、シューティングスターはすぐに支援位置へ戻ってくる。


やはり、遅いわけではない。

それなのに、合わない。


ステラは、表示された進行ラインを読み、速度を計算し、周りを確認して動いている。

マーリンは、その前に動いてしまう。


その方がいいと思った。

その方が安全だと思った。

その方が、嫌な感じがしなかった。


それだけだった。


『第三段階』


小さな光点がいくつも現れる。

破片。機雷。敵味方不明の浮遊物。


ステラの声がすぐに飛ぶ。


『前方右、障害物三。左上方に空きがあります。支援位置を維持したまま迂回可能です』


「分かりました」


マーリンは左上方を見る。


たしかに空いている。

ステラの言葉は、きっと正しい。

けれど、その瞬間、胸の奥に微かな引っかかりが生まれた。


左上ではない。


下。


理由は分からない。


けれど、下だ。


マーリンはリュールを沈めた。


『ロイス公爵令嬢!?』


シューティングスターが一拍遅れて追う。

ステラはすぐに進路を修正したが、支援位置はまた崩れた。


その直後、警告音が鳴る。

左上方に、新たな障害物が追加表示された。


『……今の』


ステラの声が、通信の向こうで止まる。

マーリンも、少しだけ黙った。


自分でも分からない。


どうして分かったのか。

どうして、そこではないと思ったのか。


「……ごめんなさい」


先に出たのは、そんな言葉だった。


『いえ。今のは、避けていただいて助かりました』


ステラの声は真面目だった。

けれど、困惑もはっきり混じっている。


『ただ、先に言っていただけると助かります。私、後ろを見失いかけました』


「……ええ。気をつけます」


言いながら、マーリンは少しだけ唇を結んだ。


気をつける。


簡単な言葉だ。

けれど、それが思ったより難しい。


誰かに合わせて飛ぶ。

誰かがついて来るのを待つ。

自分の見えた危険を、言葉にして伝える。


どれも、今までしたことがなかった。


シャルンホルストの時も、適性試験の時も。

マーリンはただ、目の前にある危険へ向かって動いただけだった。


自分一人なら、それでよかった。

よかった、はずだった。


『追従位置、再設定します』


ステラが言った。


『ロイス公爵令嬢、次の進路変更の前に、一呼吸だけください』


「一呼吸?」


『はい。合図でも構いません。短くていいです。右、左、下。それだけでも、私が合わせます』


マーリンは端に映るシューティングスターの光点を見た。


小さな光だった。

けれど、ずっと後ろにいる。

置いていかれても、ずれても、戻ってくる。


「……分かりました」


マーリンは、ゆっくりと答えた。


「次から、言います」


『はい!』


ステラの返事は、少しだけ明るさを取り戻した。


訓練は続く。


リュールが前へ出る。

シューティングスターが追う。


追いつく。

少し遅れる。

また戻る。


まだ、呼吸は合っていない。


けれど、ステラは何度でも支援位置へ戻ってきた。


マーリンはその光点を、何度も確認するようになっていた。

前を見るたびに、後ろも見る。


それだけのことが、ひどく難しかった。



『第四段階へ移行します』


黒い宇宙(そら)の奥に赤い光点が二つ浮かんだ。


まだ遠い。

速度も、進路も、こちらへ一直線というわけではない。


だが、訓練空間の空気が変わった気がした。


すべて作り物だ。

そう分かっていても、視界に赤い表示が灯るだけで、胸の奥が少し冷える。


『敵機二、前方上方。距離、まだあります』


ステラの声がすぐに入る。

少し緊張はある。けれど、先ほどまでより落ち着いていた。


『一機は直進。もう一機は左へ展開しています。射線が重なる前に、右下へ抜けるのが安全です』


たしかに、ステラの言う通りに見えた。

右下には空きがある。敵の射線も、そこなら避けられる。


「分かりました」


マーリンはそう答えた。

答えた直後だった。

胸の奥に、かすかな違和感が走った。


右下。


違う。

そこへ行ってはいけない。


画面に表示された予測線は、右下の安全を示している。


けれど、嫌だった。

ただ、嫌な感じがした。


マーリンは、指先に流す魔力をほんのわずかに変える。

リュールは右下へ流れず、進路を浅く上へずらした。


『ロイス公爵令嬢? そちらは――』


ステラの声が途中で止まる。

次の瞬間、右下の空間を赤い線が走った。


表示上の射撃。

模擬敵機の一機が、予測より早く射線を切り替えたのだ。


もし、ステラの提示した進路をそのまま取っていれば、リュールは射線上にいた。


『……回避、確認。予測外射撃を回避。被弾なし』


通信の向こうで、ステラが小さく息を呑んだのが分かった。


見えたわけではない。

読んだわけでもない。

ただ、そこに行くのが嫌だった。


それだけだ。


『ロイス公爵令嬢』


ステラの声が戻ってくる。

先ほどより少し慎重だった。


『今の回避、どういう理屈ですか?』


「……理屈」


マーリンは小さく繰り返した。


敵機の推進角度。

射線の切り替え。

進行ラインの揺らぎ。

表示には出ていなかった何か。


そういうものを読み取ったのだと答えられたら、どれほどよかっただろう。

けれど、マーリンは嘘をつけなかった。


「なんとなく、嫌な感じがしたの」


通信が、ほんの一瞬だけ静かになった。


『……嫌な感じ、ですか』


「ええ」


『それ、理論じゃないですよね?』


ステラの声には、責める響きはなかった。

ただ、本当に困っているのが分かる声だった。


マーリンは、少しだけ目を伏せる。


「ええ。だから、説明できないわ」


言ってから、胸の奥が重くなった。


説明できない。

それは、あまりにも頼りない言葉だった。


けれど、リュールは動いた。

結果として、正しかった。


ステラなら、きっと説明できるのだろう。

敵の位置を見て、距離を測り、射線を予測し、判断の根拠を積み上げる。


マーリンには、それができない。

ただ、嫌なものを嫌だと思い、危ないものから逃げるように動く。

それだけだった。


『……分かりました』


ステラが、ゆっくりと言った。

マーリンは少し驚く。


「分かったの?」


『いえ、理屈はまったく分かりません』


その答えがあまりに正直で、マーリンは一瞬だけ言葉を失った。


『でも、ロイス公爵令嬢がそう感じた時は、たぶん何かあります。今の結果を見る限り、無視するべきではないと思います』


「……イルクート候補生」


『ですから、次からはその()()()()がした時に、すぐ教えてください』


ステラの声は、少しずついつもの明るさを取り戻していた。


『理屈は、あとで私が考えます』


マーリンは思わず瞬きをした。


「あなたが?」


『はい。理由が分からないままでは、私が後ろにつけませんから』


そう言うステラの声は、まっすぐだった。

マーリンが説明できないものを、否定せずに受け取り、自分の側で整理しようとしている。

そのことに、マーリンは少しだけ戸惑った。


「……面倒ではないの?」


『面倒です』


即答だった。

マーリンは、今度こそ少しだけ目を丸くする。


『でも、必要です』


ステラはすぐに言い直した。

いや、言い直したのではなく、付け加えたのだ。


『ロイス公爵令嬢の感覚が当たるなら、それを無理に理論へ押し込めるより、私が対応できる形にした方がいいと思います』


言葉の端に、真面目さがあった。


『たとえば、嫌な感じの方向だけでも教えていただければ、私はそちらの射線と退路を確認できます。完全には分からなくても、準備はできます』


マーリンは、視界の端に映るシューティングスターの光点を見る。


小さな光。

けれど、さっきよりも少し近い。


『私は、ロイス公爵令嬢と同じようには動けません』


その声に、落ち込みはなかった。

事実を確認している声だった。


『でも、()()()()はできます』


マーリンは、その言葉を胸の内で繰り返した。


『ロイス公爵令嬢が感じたものを、私が後ろから形にします。そうすれば、たぶん、二機で動けます』


「……二機で」


『はい』


ステラの返事は明るかった。

だが、軽くはなかった。

マーリンはゆっくりと息を吸う。


「分かりました」


そう答えた声は、自分でも少し柔らかく聞こえた。


「嫌な感じがしたら、伝えます」


『お願いします!』


ステラの返事は、また少し大きかった。

管制側から短い咳払いが入る。

ステラが通信の向こうで小さく慌てる気配がした。


『……失礼しました。お願いします』


言い直した声は、少しだけ小さくなっていた。

マーリンは、ほんのわずかに口元を緩めた。


『模擬敵機、再配置。訓練継続』


マーリンは前を見る。

同時に、後ろにいるシューティングスターの位置も確認した。


まだ、合ってはいない。

けれど、ただ遅れているだけではなかった。


ステラは、マーリンが見ていない場所を見ようとしている。

自分が説明できない何かを、あの少女は拾おうとしている。


マーリンは指先に魔力を通し直した。


「前方、少し嫌な感じがします」


初めて、そう口にした。


『前方ですね。確認します』


ステラの声がすぐに返ってくる。


それだけで、黒い宇宙(そら)が、ほんの少しだけ広く見えた。



『第五段階、開始します』


黒い宇宙(そら)の中に、赤い光点が六つ灯った。


『敵機、六。前方二、左右一ずつ、後方下に二。完全包囲ではありません。右上方に抜け道があります』


ステラの声が入る。

先ほどより、ずっと早い。


『ただし、前方二機の射線が重なります。ロイス公爵令嬢、いったん速度を落として――』


その言葉を聞きながら、マーリンは前方を見ていた。


右上方。


たしかに、そこは空いている。

ステラの言う通り、安全に抜けるならそこなのだろう。

けれど、前方の二機の動きにほんのわずかに、間があった。


リュールなら、抜けられる。


そう思った瞬間、指先に魔力が流れた。


『ロイス公爵令嬢?』


「前へ出ます」


『えっ』


リュールが加速する。


表示上の星が、一気に後ろへ流れた。

前方の赤い光点が近づく。

警告表示が、赤く視界の端で点滅した。


『前方突破は危険です! 支援位置が維持できません!』


ステラの声が強くなる。


「大丈夫」


マーリンは答えた。


「抜けられます」


それは、たぶん本当だった。


マーリンには見えていた。

前方二機の射線が重なるよりわずかに早く、その隙間を通れる。

リュールの出力なら、間に合う。


自分なら。


『ロイス公爵令嬢、下がってください!』


ステラの声が通信を叩いた。

マーリンは敵正面を見据えたまま、息を止める。


赤い線が交差する。

その直前、リュールがさらに沈むように軌道を変えた。


包囲の継ぎ目が開く。


「まだいけるわ」


言葉が、口からこぼれた。

その時だった。


『ダメです! これは命令じゃありません、()()()です!』


その言葉が、奇妙なくらいはっきりと耳に残った。

マーリンの指先が、一瞬だけ止まる。


『警告。シューティングスター、支援位置逸脱』


視界の端で、シューティングスターの光点がずれる。


シューティングスターは前方突破に合わせきれず、右側面へ流れる。

そこへ、後方下にいた敵機の射線が重なった。


『イルクート候補生、回避――』


誰かの声。

ステラの息を呑む音。


赤い表示が、視界の端で弾けた。


『シューティングスター、被弾判定』


マーリンは、何が起きたのかすぐには理解できなかった。


リュールは抜けた。

前方二機の間を裂き、包囲の外側へ出ている。


けれど。


『機体損傷率、七十二パーセント』


通信が、ひどく遠く聞こえた。


『撃墜判定』


シューティングスターの機影が赤く塗りつぶされた。

その赤が、ゆっくりと消えていく。


ステラの声は、しばらく聞こえなかった。


「……イルクート候補生」


返事はない。


いや、通信は繋がっている。

ただ、ステラが言葉を出せずにいるのだ。


『……はい』


ようやく返ってきた声は、小さかった。


『申し訳、ありません』


謝らないで。


そう言おうとして、言葉が喉で止まった。

謝るのは、ステラではない。


自分だ。


リュールは抜けられた。

マーリンは間に合った。

包囲も破れた。


でも、シューティングスターは落ちた。

自分の後ろについてきた少女が、赤く塗りつぶされた。


本物ではない。

訓練だ。

ここでは誰も死なない。


そう分かっている。


分かっているのに、マーリンの指先から力が抜けた。


視界の中で、赤い敵機表示がまだ動いている。

訓練は中断されていない。

リュールだけなら、まだ戦える。


まだいける。


そう思いかけて、マーリンは息を詰めた。

その言葉を、ついさっき自分は口にした。


まだいける。


その結果が、目の前にある。


「……訓練を」


マーリンの声は、少し掠れていた。


「中断してください」


管制側が短く応じる。


『訓練中断。全機停止』


黒い宇宙(そら)の動きが止まった。

赤い敵機表示も、星の流れも、すべて凍りついたように静止する。


マーリンは、端に残ったシューティングスターの撃墜判定表示を見つめた。


赤い文字。

赤い機影。

七十二パーセント。


ただの数字だ。

ただの訓練結果だ。


それなのに、胸の奥が冷たく重く沈んでいく。


自分は抜けられた。

リュールは包囲を破れた。


けれど、シューティングスターは落ちた。


それが、訓練記録に残った最初の結果だった。



シミュレーターの扉が開いた時、訓練室の空気は始まる前よりもずっと静かだった。


マーリンはシミュレーターから降りる。

足元は揺れていない。身体にも負荷は残っていない。


本物ではなかったのだから、当然だ。

けれど、指先にはまだ冷たい感覚が残っていた。


隣から、ステラも出てくる。


顔色は悪くない。

怪我もない。


けれど、あの赤い表示だけが、まだマーリンの目の奥に残っている。

ステラはマーリンを見ると、すぐに姿勢を正した。


「申し訳ありません、ロイス公爵令嬢」


頭を下げるのが早かった。

早すぎた。


「私の追従が遅れました。支援位置も維持できず、結果として――」


「イルクート候補生」


マーリンは、その言葉を遮った。

思ったよりも静かな声だった。


ステラが顔を上げる。


「あなたのせいではありません」


「ですが」


「いいえ」


マーリンは首を横に振った。


あまり強く言うと、ステラを責めているように聞こえてしまう。

それが嫌で、言葉を選ぼうとする。


けれど、うまく選べなかった。


「私が、待たなかったの」


空色の瞳が、わずかに揺れた。


「私が前へ出た。あなたが追いつく前に」


そこまで言って、マーリンは口を閉じる。

それ以上言うと、また何か違うものになりそうだった。


ただ、事実だけを言いたかった。


「訓練結果を共有します」


管制席の方から、訓練教官が声をかけた。

正面の壁に、先ほどの記録が投影される。


赤く途切れたシューティングスターの軌跡が、そこにはっきりと残っていた。


「ロイス公爵令嬢の反応速度、回避率、突破力はいずれも極めて高い数値です」


教官の声は事務的だった。


「特に第五段階における前方突破判断は、()()()()()()成立していました。リュールの出力と反応を前提とするなら、包囲離脱は可能です」


その言葉が、静かに落ちる。


「ですが、二機一組としては失敗です」


軍人たちの言葉はどうしてこんなに整っているのだろう。

整っているから、逃げ場がなかった。


「イルクート候補生は、支援位置を維持しようとしていました。追従判断も遅くありません。ただ、ロイス公爵令嬢の加速と進路変更が、支援機の行動許容範囲を超えています」


ステラが小さく息を呑む。

マーリンは、壁に映る二つの軌跡を見つめた。


「結果として、シューティングスターは孤立しました」


教官の指示棒が、赤い判定位置を示す。


「被弾判定。機体損傷率七十二パーセント。撃墜判定です」


ステラの肩が、ほんの少しだけ落ちた。


すぐに戻した。

背筋を伸ばし直した。


けれど、マーリンには見えてしまった。


「今回の問題は、どちらか一方の能力不足ではありません」


ドルニエが口を開いた。


「ロイス公爵令嬢は突破できた。イルクート候補生も支援位置を維持しようとした。ですが、二機の判断が噛み合っていなかった」


その通りだと思った。


マーリンは前しか見ていなかった。

同じ訓練空間にいたのに、ステラとは見ていたものが違っていた。


「ロイス公爵令嬢」


ドルニエがマーリンを見る。


「貴女の突破判断そのものは誤りではありません。ただし、二機編成においては、相手の位置を待つ必要があります」


「……はい」


「イルクート候補生」


「はい」


「貴官の追従判断も誤りではない。だが、ロイス公爵令嬢が通常の想定より早く動くことを前提に、支援位置の取り方を再検討する必要がある」


「はい」


悔しさを押し込めている声だった。

マーリンはそれを聞きながら、胸の奥が少し苦しくなる。


少なくとも、ステラだけの失敗ではなかった。

それをステラ自身も分かっているはずなのに、彼女は自分の責任として受け取ろうとしている。


「改めて言います」


ドルニエは、二人を見た。


「単機としての能力と、二機一組としての能力は別です」


静かな言葉だった。


「リュールが前へ出るだけなら、今回の突破は成功でした。ですが、シューティングスターが残されるなら、それは編成としての成功ではありません」


ステラの指先が、ぎゅっと握られる。


「二機一組とは、片方が生き残るための形ではありません。()()()()()()()ための形です」


その言葉は、簡単なようで、ひどく難しかった。


自分が前に出ればいい。

自分が敵を落とせばいい。

自分が耐えればいい。


そういう考え方では、きっと駄目なのだ。


自分もステラも生き残る。


マーリンは、壁の記録をもう一度見る。


赤く途切れたシューティングスター。


そこにいるはずの少女は、すぐ隣で立っている。

無事に。

何も失わずに。


「……申し訳ありません」


マーリンは、静かに言った。


ステラが驚いたようにこちらを見る。

マーリンはステラではなく、壁に映る赤い軌跡を見ていた。


「次は、待ちます」


その言葉は、誰への返答だったのか分からなかった。


やがて、ステラが小さく息を吸う。


「私も、次は追いつきます」


ステラは、今度は首を横に振った。


「追いつく、という言い方は違うかもしれません。ですが、ロイス公爵令嬢が前へ出るなら、そこに合わせる方法を考えます」


その声には、悔しさがあった。

けれど、それ以上に折れない芯があった。


「今回の記録を、もう一度確認してもよろしいでしょうか」


ステラは教官へ向き直る。


「支援位置が崩れた瞬間と、射線が重なったタイミングを見直したいです」


教官が頷く。


「許可します」


ステラはすぐに壁の記録へ向き直った。


マーリンは、その横顔を見つめた。

自分なら、あの赤い表示から目を逸らしたくなる。


でも、ステラは違う。


撃墜判定を、自分が弱い証にするのではなく、次に生き残るための材料にしようとしている。

その強さは、マーリンのものとは違っていた。


リュールの軌跡は鋭い。

シューティングスターの軌跡は折れた。


けれど、折れた場所を見つめ直せるのは、きっとステラの強さなのだ。


マーリンは、そのことをまだうまく言葉にできなかった。



訓練記録の確認が終わる頃には、訓練室の空気も少しだけ落ち着いていた。


ドルニエと教官たちは記録を保存し、次回までに調整する項目を端末へ送っている。


マーリンは壁から消えた記録の残像を、まだ見ているような気がしていた。


「ロイス公爵令嬢」


横から声がした。


ステラだった。


先ほどよりは落ち着いている。

けれど、頬にはまだ少し赤みがあり、指先はきゅっと握られている。


「先ほどは、申し訳ありませんでした」


マーリンは、少しだけ眉を寄せる。


「イルクート候補生。先ほども言いましたが、あなたが謝ることではありません」


「ですが、私が追従できていれば、撃墜判定は避けられたかもしれません」


「私が待っていれば、撃墜判定は出ませんでした」


言葉は静かだった。

けれど、少しだけ強かったかもしれない。


ステラは目を見開き、それから困ったように唇を結んだ。


二人の間に、小さな沈黙が落ちる。

どちらも間違っているようで、どちらも少しずつ正しかった。


マーリンは、ふと息を吐く。


「ごめんなさい」


「えっ」


ステラが慌てて顔を上げる。


「いえ、あの、ロイス公爵令嬢が謝られるようなことでは」


「では、あなたも謝らないで」


マーリンがそう言うと、ステラは一瞬きょとんとした。

それから、少しだけ困ったように笑った。


「……難しいですね」


「ええ」


マーリンも小さく頷く。


「とても」


その言葉に、ステラの肩から少しだけ力が抜けた。

けれど、すぐに彼女は真面目な顔に戻る。


「私、考えました」


「何を?」


「ロイス公爵令嬢に追いつく方法です」


マーリンは黙ってステラを見た。

ステラは、先ほどよりも少し落ち着いた声で続ける。


「最初は、私がもっと速く動ければいいのだと思いました。ロイス公爵令嬢の加速についていけるように、判断を早くして、位置取りを詰めて、支援範囲を維持して……」


そこで、彼女は一度言葉を切った。


「でも、たぶん、それだけでは駄目です」


「駄目?」


「はい」


ステラは頷く。


「私は、ロイス公爵令嬢と同じようには飛べません」


その声に、卑屈さはなかった。


「同じ速度で前に出ようとすれば、また支援位置を崩します。無理に追えば、今度は私だけでなく、ロイス公爵令嬢の退路まで潰してしまうかもしれません」


マーリンは、ステラの言葉を聞いていた。


ステラは顔を上げる。


空色の瞳は、まだ少し揺れている。

けれど、その奥にある光は消えていなかった。


「ですから、私が後ろを固めます」


その言葉は、明るくはなかった。

けれど、まっすぐだった。


「ロイス公爵令嬢が前へ出るなら、私はその後ろを見ます。戻る場所を残します。射線を確認して、退路を作って、追うのではなく、()()()()()()()()()にいます」


マーリンは、その言葉を心の中で繰り返した。


帰る。


そんなふうに、考えたことがあっただろうか。


「それでは、あなたが危険になるわ」


思わず言う。

ステラは、少しだけ笑った。


「危険にならない場所なんて、たぶんありません」


その返答は、候補生らしくないほど静かだった。


「でも、どこが一番危険かを考えることはできます。どこにいれば、ロイス公爵令嬢が戻りやすいかも、考えられます」


「……イルクート候補生」


「私は、前で道を切り開くのは得意ではありません」


ステラは言った。


「でも、後ろを見続けることならできます」


その言葉に、マーリンは何も返せなかった。


後ろを見る。

それは、簡単なようで難しい。


マーリンは前を見ることばかり覚えてきた。

失ったものへ手を伸ばす時も、守ろうとする時も、いつも前へ出た。


後ろには、誰かがいたのかもしれない。

けれど、それを見る余裕などなかった。


今は違う。


後ろにいると言う少女がいる。

自分と同じように飛べないことを認めたうえで、それでも隣に立つ方法を探している。


「……私は」


マーリンは、ゆっくりと言葉を探した。


「誰かに後ろを見てもらうことに、慣れていません」


ステラは、少しだけ目を丸くした。

それから、柔らかく頷く。


「では、慣れてください」


「……ずいぶん簡単に言うのね」


「簡単ではないと思います」


ステラは真面目な顔で言った。


「でも、訓練ですから」


その言い方があまりにまっすぐで、マーリンは少しだけ困ってしまった。


そうだった。


これは、できないことを確認して、できるようにするための時間なのだ。


ステラは、それを知っている。

マーリンよりも、ずっと自然に。


「分かりました」


マーリンは静かに言った。


「次は、あなたが後ろにいることを忘れないようにします」


「はい」


ステラが、ぱっと顔を上げる。


「私も、次はもっとちゃんと後ろを固めます」


また、少し声が大きい。

でも、その明るさを、少しだけそのままにしておきたいと思った。


ステラは改めて姿勢を正す。


「ロイス公爵令嬢」


「はい」


「私、頑張ります」


それは、候補生としては少し幼い言葉だった。

けれど、今のステラには一番似合っていた。


マーリンは小さく頷く。


「ええ。私も、待つ練習をします」


口にしてから、少し不思議な言葉だと思った。


戦うための訓練で、待つことを覚える。

前へ出るためではなく、誰かが戻る場所を残すために。


ステラは嬉しそうに笑った。

その笑顔を見て、マーリンはほんの少しだけ胸が痛んだ。


この子を二度と、赤い表示に変えたくない。


マーリンは、自分に言い聞かせるように、そっと指先を握った。



訓練記録は、何度でも再生できた。


教官の許可を得たステラが、支援位置の崩れた箇所を確認したいと言ったからだ。


正面の壁に、再び黒い宇宙(そら)が映し出される。

そこに、二本の軌跡が浮かび上がった。


リュールの軌跡。

シューティングスターの軌跡。


リュールの線は、鋭かった。


迷わず前へ出て、包囲の継ぎ目を裂き、敵の射線が重なる前に抜けている。

それだけを見れば、成功だった。


単機なら。


その言葉が、マーリンの胸の奥に残っている。


では、シューティングスターはどうだったのか。


マーリンは、赤く途切れた線だけを見ていた。

撃墜判定。機体損傷率、七十二パーセント。

そこばかりが、目に焼きついていた。


けれど記録を少し戻すと、違うものが見えた。

シューティングスターは、ただ遅れていたわけではなかった。


リュールが前へ出た瞬間、シューティングスターは一度、支援位置から外れている。

だが、すぐに戻ろうとしていた。


真後ろではない。

斜め下。

敵の射線を避けながら、リュールが戻るための空間を残す位置。


ステラは、そこへ入ろうとしていた。


「ここです」


ステラが、壁の軌跡を指さした。


「この角度だと、後方下の敵機から射線を取られます。次はもっと早く、こちら側に残るべきでした」


声は真剣だった。

悔しさはある。けれど、もう沈んではいない。


撃墜判定を受けた場所を、ステラはまっすぐ見ていた。


マーリンは、その横顔を見る。


自分なら、そこを見られただろうか。


赤く途切れた場所を。

自分が落ちた場所を。

失敗した瞬間を。


ステラは見ている。


次に落ちないために。


「イルクート候補生」


マーリンが呼ぶと、ステラはすぐに振り向いた。


「はい」


「あなたは、ずっと後ろを見ていたのね」


ステラは一瞬、きょとんとした顔をした。


それから、少しだけ困ったように笑う。


「はい。だって、それが私の()()ですから」


あまりにも自然に言うものだから、マーリンは返す言葉を失った。


その言葉は、少し怖い。

けれど、今のステラの声には違う響きがあった。


「ロイス公爵令嬢は、前を見てください」


ステラは言った。


「私は、後ろを見ます」


「……でも」


「もちろん、置いていかれたら怒ります」


ステラは、少しだけ頬を膨らませた。


「今日みたいに」


その言い方が、あまりにまっすぐで、少しだけ幼くて。

マーリンは、思わず目を瞬かせた。


「怒るの?」


「怒ります。バディですから」


ステラは真剣だった。


「勝手にどこかへ行かれたら、困ります」


責められているのに、少しだけ胸が軽くなった。


怒ってくれるのだ。


遠慮して黙るのでも飲み込むのでもなく。

バディだから、困ると言ってくれる。


「……気をつけます」


「はい。お願いします」


ステラは満足したように頷いた。

それから、すぐにまた記録へ向き直る。


「ですので、次はこの位置を試したいです。ロイス公爵令嬢が前へ出る時、私が斜め下に残れば、退路を塞がずに射線を見られます」


マーリンは壁の軌跡を見る。


リュールの線。

シューティングスターの線。


まだ、並んではいない。


リュールは先へ行きすぎている。

シューティングスターは遅れている。

呼吸も合っていない。

バディと呼ぶには、きっとまだ未完成だ。


けれど。


赤く途切れる直前まで、シューティングスターの軌跡はリュールの後ろにあった。


置いていかれながら。

崩れながら。

それでも、戻ろうとしていた。


マーリンは、その小さな線を見つめた。


それは、華やかな戦果ではない。

誰かに称えられるような機動でもない。


けれど、リュールが戻る場所を残そうとした線だった。


「……次は」


マーリンは静かに言った。


「その位置を、見ます」


ステラが振り向く。


「はい!」


返事は、また少し大きかった。


訓練記録の表示が閉じられていく。

リュールの軌跡も、シューティングスターの軌跡も、白い壁の中へ消えていった。


けれど、マーリンの目にはまだ残っていた。


鋭く前へ伸びる線。

その後ろへ、何度も戻ろうとする線。


まだ並んではいない。


けれどリュールの後ろには確かに、シューティングスターの軌跡が残っていた。

ここまでお読みいただき有り難うございました。


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