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正しい人

ご覧いただきありがとうございます。

社交会のざわめきは、途切れない。


花の香り。


低く流れる音楽。


ティーカップが受け皿に触れる小さな音。


上品な笑い声。


どれも美しく整えられていた。


けれど、その下には家格と派閥と視線が敷き詰められている。磨かれた床よりも滑らかで、花壇の根よりも深い。


マーリンは、その中心に立っていた。


アンネリーゼが去ったあとも、会場の空気はまだ少しだけ尖っていた。


あからさまではない。


誰も大きな声を出さない。


誰も失礼な振る舞いをしない。


けれど、さっき交わされた言葉の形は、見えないまま周囲に残っている。


ロイス家。


フェアチャイルド家。


上位公爵家。


末席公爵家。


古い中枢と、新しく伸びる軍需。


入学式後の歓迎社交会に並ぶには、少し重たい菓子だった。


噛む前から、味が濃い。


マーリンは微笑み続ける。


誰かが近づけば、正しい角度で礼をする。


誰かが褒めれば、控えめに受け取る。


誰かが探るような言葉を投げれば、相手を傷つけず、自分も崩さず、綺麗に受け流す。


その一つ一つが、身体の奥に染みついていた。


幼い頃から教えられた。


何度も直された。


違う、と言われた。


浅い、と言われた。


深すぎる、と言われた。


笑いすぎだと言われ、笑わなさすぎだと言われ、やがてちょうどよい笑みだけが残った。


その笑みを浮かべると、周囲は安心する。


ロイス家の令嬢はさすがだ。


帝国の希望にふさわしい。


フルール・デスポワールとは、まさに彼女のための名だ。


そんな空気が、柔らかくマーリンを包む。


柔らかい。


けれど、少し息がしにくい。


マーリンは、会場の少し離れた場所へ視線を向けた。


アンネリーゼは、取り巻きらしき数人の令嬢に囲まれている。


こちらを見ているわけではない。


むしろ、見ていないことをきちんと示すように、優雅にティーカップを持ち、穏やかに笑っている。


その姿は美しかった。


隙がない。


努力で磨かれた姿。


花というより、薄く研がれた刃。


切るためだけの刃ではない。


飾られても美しい刃。


けれど、触れれば痛い。


マーリンの胸元には、さっきの言葉がまだ残っていた。


最初から立つ場所が違う。


嫌われた、とは少し違う。


見上げられている。


けれど、刺されてもいる。


その感覚を、マーリンはまだうまく飲み込めずにいた。


自分は恵まれている。


それは事実だ。


ロイス家に生まれた。


多くを与えられた。


最初から光の下に立たされている。


だから、足元から積み上げてきたアンネリーゼの棘は、ただの意地悪では終わらない。


終わらせてはいけない気がした。


「ロイス嬢」


また誰かが近づいてくる。


マーリンは微笑みを整えた。


「ごきげんよう」


声は澄んでいた。


胸の内側が少しざらついていても、表へ出る声は変わらない。


相手は伯爵家の子息だった。


先ほどの挨拶への称賛。


今後の講義への期待。


家同士の古い縁を、遠回しに思い出させる言葉。


マーリンは一つずつ受け取った。


少しだけ返す。


多くは渡さない。


親しみを拒まず、近づきすぎない。


「ロイス嬢のご挨拶を聞いて、父もきっと安心いたします」


「まあ。お父上にまでお聞かせするには、少し拙かったかもしれませんわ」


「ご謙遜を。堂々としていらっしゃいました」


「ありがとうございます。ですが、これから学ぶ身ですもの。堂々と見えたのなら、きっと壇上の光のおかげです」


相手は楽しげに笑った。


失礼にならない程度の軽さ。


自分を下げすぎない程度の謙遜。


相手の顔を立て、同時に距離を置く。


会話は自然と綺麗な形で終わる。


相手は満足げに離れていった。


マーリンは、息を吐かない。


吐けば、次の誰かがそれを見るかもしれない。


一歩後ろで、クリスチーナが控えている。


その気配だけが、少しだけ近かった。


ティーカップを差し出すには早い。


退くには目立つ。


声をかけるには場所が悪い。


クリスチーナは何もせず、ただ位置を整えた。


誰かの視線がマーリンの白い手袋へ集まりすぎないよう、ほんの少しだけ半歩ずれる。


それだけで十分だった。


マーリンは振り返らずに、胸の奥で礼を言った。


言葉にはしない。


言葉にすれば、甘えたくなる。


甘えれば、少しだけ崩れる。


崩れれば、きっと周囲は不安になる。


希望の花は、しおれた顔をしてはいけない。


たとえ花瓶の中にいるような息苦しさがあっても、美しく咲いているように見えなければならない。


その時、大広間の空気が静かに変わった。


誰かが大声を出したわけではない。


手を叩いた者もいない。


教師が注意したわけでもない。


ただ、人の流れが自然に分かれた。


騒がしかった一角が落ち着き、マーリンへ集まりすぎていた視線が少しずつ散っていく。


まるで、乱れかけた布の皺を、見えない手がそっと伸ばしたようだった。


マーリンは、そちらを見た。


会場の中央から少し外れた位置に、一人の上級生が立っていた。


背が高く、姿勢がよい。


髪はきちんと整えられ、式服の着こなしには無駄がない。華やかさで目を引くタイプではない。だが、一度視界に入ると、そこにいるだけで場の形が決まる。


声を張らない。


笑いすぎない。


誰かを押しのけない。


それなのに、人の流れが彼を避けるように整っていく。


生徒たちは、彼がどこへ向かうのかを自然に見ていた。


教師たちは、止めない。


むしろ少し安堵している。


彼は近づきすぎない距離で立ち止まり、隙のない所作で礼をした。


「ロイス嬢。ご入学、おめでとうございます」


「ありがとうございます、ブライアン様」


マーリンがそう返した瞬間、周囲の空気が納得したように静まった。


ブライアン=カーチスライト。


ヘルリッヒ学園の生徒会長。


カーチスライト家の嫡男。


礼儀正しく、有能で、教師からも生徒からも信頼される上級生。


生徒会長が正式に挨拶に来た。


ならば、他の者は少し控えるべきだ。


そんな判断が、誰に命じられるでもなく広がっていく。


マーリンの周囲にあった視線の密度が、わずかに薄くなった。


息が入る。


助けられた。


そう思った。


「本日のご挨拶、拝聴いたしました」


ブライアンは穏やかに言った。


「大変見事でした。言葉の選び方も、間の取り方も、この学園の新入生代表として申し分ありません」


「身に余るお言葉です」


「いいえ。あれほど整った挨拶は、上級生でも容易ではありません。教師方も安心なさっていました」


安心。


その言葉が、また胸に触れた。


マーリンは微笑む。


「皆さまに安心していただけたのなら、光栄ですわ」


「ええ。帝国の未来を担う方にふさわしいお姿でした」


帝国の未来。


ふさわしい姿。


褒め言葉だった。


ブライアンの声には悪意がない。


むしろ、敬意がある。


彼はマーリンを軽んじていない。


きちんと価値ある存在として扱っている。


けれど、その価値はたぶん「マーリン自身」ではなかった。


ロイス家の令嬢。


学園の象徴。


帝国の希望。


フルール・デスポワール。


ブライアンの目は、まっすぐマーリンを見ている。


なのに、少しだけ遠い。


「その名に恥じぬよう、努めてまいります」


マーリンはそう答えた。


正しい返答だった。


ブライアンは静かにうなずく。


「ロイス嬢なら、必ず」


その言葉も、やはり正しい。


静かで、丁寧で、疑いがない。


だからこそ、胸の奥に小さな重さが落ちた。


ブライアンは、会場へ視線を流した。


「少し、人が集まりすぎていましたね」


「私の周りに、でしょうか」


「はい。新入生代表への関心としては自然です。ですが、視線が一点へ寄りすぎると、場の均衡が崩れます」


「均衡」


マーリンは、その言葉を小さく繰り返した。


ブライアンは穏やかなままだ。


「誰か一人へ注目が偏れば、周囲の者は自分の立ち位置を誤ります。近づきすぎる者も出る。逆に、必要以上に距離を取る者も出る。どちらも、社交の場では余計な摩擦になります」


「ですから、場を整えてくださったのですね」


「生徒会長として、当然のことです」


当然。


その言い方には、少しも誇りが混じらない。


本当に当然だと思っている声だった。


「それに」


ブライアンは、ほんの少しだけ表情をやわらげた。


「ロイス嬢には、余計な混乱の中心ではなく、正しい意味で中心に立っていただくべきです」


マーリンは微笑みを保った。


「正しい意味で、ですか」


「はい。学園は帝国社会の縮図です。中心に立つ者が乱れれば、周囲も乱れます。ですが中心に立つ者が穏やかであれば、場は自然と落ち着く」


ブライアンの言葉は、よく整っていた。


理屈も通っている。


教師が聞けば満足するだろう。


上位貴族が聞いても、うなずくだろう。


たぶん、何も間違っていない。


「私は、場を整えることしかできません」


ブライアンは続けた。


「ですが、ロイス嬢はそこに立つだけで場を整える方です」


その言葉は、賞賛だった。


間違いなく。


けれどマーリンは、胸の奥が少しだけ冷えるのを感じた。


立つだけで場を整える。


それは人への言葉なのか。


飾られた旗や、壁に掲げられた紋章へ向ける言葉ではないのか。


そう思ってしまった自分を、マーリンはすぐに笑みの奥へ隠した。


「買いかぶりですわ」


「いいえ」


ブライアンは静かに首を振る。


「ロイス嬢は、ご自分の立場を正しく理解していらっしゃる。だからこそ、今日の挨拶も、この場での振る舞いも美しい」


「……美しい、ですか」


「はい」


即答だった。


迷いがない。


「ただ華やかという意味ではありません。役割と振る舞いが一致しているものは、美しい。私はそう思います」


マーリンは、ほんの少しだけ言葉を失った。


役割と振る舞いが一致している。


ならば、役割から外れた自分はどう見えるのだろう。


控え室でクリスチーナに甘えた声を出す自分。


図書室の分類札に目を輝かせる自分。


高そうな壺だの、クリスチーナ先輩だのと言って笑う自分。


庭で壊れかけた測定器を見つけると、つい中を見たくなる自分。


それらは、彼の目には美しくないのだろうか。


それとも、見えないのだろうか。


「カーチスライト様」


近くに控えていた生徒会役員の上級生が、控えめに声をかけた。


「次のご挨拶の順ですが」


ブライアンはそちらへ視線を向けた。


そして、すぐに西側の窓辺へ目を移す。


「その件は後に。西側の窓辺に人が滞っています。教師の方へ、通路を開けていただくようお願いを」


「承知しました」


生徒会役員は短く礼をし、人の流れの中へ戻っていった。


短いやり取りだった。


けれど、それだけで会場の皺が一つ伸びる。


窓辺に溜まっていた生徒たちが、自然に中央へ流れる。


教師が別の輪へ声をかける。


上級生が新入生を案内する。


誰も叱られない。


誰も恥をかかない。


誰も自分が動かされたことに傷つかない。


ブライアンは、会話をしながら大広間全体を見ていた。


どこに人が滞り、どの輪が大きくなりすぎ、どこで教師の手が足りていないか。


どの派閥の子女が近づきすぎ、どの家が距離を置きすぎているか。


誰を中心へ誘えば場がやわらぐか。


誰を休ませれば、目立たずに空気がほどけるか。


すべてを声高に支配するのではなく、指先で駒を動かすように整えていく。


優秀だった。


本当に、優秀だった。


だからこそ、少しだけ怖い。


彼の前では、散らかったものが整っていく。


ざわついたものが静まっていく。


人は、置かれるべき場所へ置かれていく。


では自分は、どこに置かれるのだろう。


その問いは、まだはっきりした形にならない。


ただ胸の奥で、小さく揺れた。


「失礼いたしました」


ブライアンはマーリンへ向き直る。


「いいえ。生徒会長としてのお務め、お見事です」


「場を整えるだけです。主役は新入生の皆さまですから」


「それを自然になさるのは、難しいことだと思います」


マーリンの言葉に、ブライアンは少しだけ目を細めた。


喜んだというより、正しく評価を受け取った顔だった。


「ありがとうございます」


柔らかい。


けれど、隙はない。


「ロイス嬢にも、いずれ学園内で多くの役割が集まるでしょう」


「私に、ですか」


「ええ。今日の挨拶で、多くの者が確信したはずです。ロイス嬢は、この学園でただ学ぶだけの方ではない」


「私はまだ新入生ですわ」


「だからこそです」


ブライアンの声は穏やかだった。


「最初にどこへ立つかは、大切です。人は、最初に見た形を基準にします。今日、皆が見たのは、帝国の希望として立つロイス嬢です」


また、希望。


その言葉は花の香りのように甘い。


甘いのに、長く吸うと息が詰まる。


「重い名ですわ」


マーリンは、少しだけ冗談めかして言った。


本音の輪郭を、軽さで包む。


ブライアンはその軽さを、丁寧に受け止めた。


けれど、内側までは見ない。


「重い名だからこそ、価値があります」


「価値」


「はい。軽い称号は、人を支えません。ですが、重い名は周囲の者に基準を与える。フルール・デスポワールという呼び名は、ロイス嬢だけのものではありません。帝国が若き貴族へ示す、ひとつの理想です」


理想。


基準。


価値。


どれも美しい言葉だった。


美しすぎて、マーリンの居場所が少しずつ狭くなっていく。


「私は、皆さまの理想になれるほど立派ではありません」


「立派であろうとする姿が、すでに理想です」


ブライアンは迷わず答えた。


その返答は、あまりにも正しかった。


逃げ道がないほどに。


マーリンは微笑むしかない。


「その名に恥じぬよう、励みます」


「ええ。ロイス嬢なら、必ず」


同じ言葉。


同じ確信。


同じ正しさ。


けれど、今度は少しだけ重く聞こえた。


「何かお困りのことがあれば、いつでも生徒会へ」


ブライアンは一礼した。


「学園内のことでしたら、私で調整できる範囲も多い。遠慮なくお申しつけください」


親切な言葉だった。


形だけではない。


彼なら実際に手配し、調整し、問題をなかった形に整えてくれるだろう。


困りごとがあれば、生徒会へ。


それは支えの言葉だった。


同時に、正しい場所へ導く言葉でもあった。


困ったことは整えられる。


乱れたものは直される。


足りないものは補われる。


では、整えられたあとに残る自分は何なのだろう。


マーリンはその問いを、飲み込んだ。


「その時は、よろしくお願いいたします」


「こちらこそ」


ブライアンは礼をし、静かに離れていった。


彼が歩く先で、人の流れがまた整っていく。


誰かが通路を開ける。


教師が別の生徒へ声をかける。


上級生が新入生を窓辺から中央へ誘導する。


場の空気は、少し前より落ち着いていた。


本当に、助けられた。


それなのに、胸の奥の重さは消えない。


正しい人。


正しい言葉。


正しい距離。


正しい場所。


それらは美しく、頼もしく、少しだけ冷たい。


「お嬢様」


クリスチーナが、半歩だけ近づいた。


声は小さい。


けれど、マーリンだけに届く距離だった。


マーリンは顔を上げる。


「大丈夫よ、クリス」


言ってから、少しだけしまったと思った。


クリスチーナの目が、わずかに細くなったからだ。


彼女はその言葉を、あまり信用していない。


マーリンは誤魔化すように、窓辺へ視線を向けた。


大丈夫。


本当に、何か悪いことが起きたわけではない。


助けられただけ。


褒められただけ。


敬意を示されただけ。


なのに、少し疲れていた。


ブライアンはマーリンを見てくれた。


きちんと。


丁寧に。


敬意をもって。


けれど彼が見ていたのは、たぶん希望の花だった。


マーリン自身ではなく。


「少し、窓辺へ?」


クリスチーナが尋ねる。


逃げるためではない。


休むためとも言わない。


ただ、呼吸を整えるための道を置いてくれる。


マーリンは首を小さく振った。


「まだ平気よ」


「お嬢様」


「本当に。今は」


今は。


その言葉に、クリスチーナは何も返さなかった。


代わりに、マーリンの一歩後ろへ戻る。


近すぎず、遠すぎない。


けれど、必要になればすぐ手を伸ばせる距離。


マーリンはその小さな支えに甘えた。


ほんの少しだけ。


社交会のざわめきが戻る。


花の香りも、音楽も、上品な笑い声も、何事もなかったように大広間を満たしていく。


誰かがまた、マーリンへ近づこうとする。


別の誰かが、それを少し待つ。


ブライアンが整えた流れの中で、会場は以前よりなめらかに動いていた。


マーリンはもう一度、笑顔を整えた。


ロイス家の令嬢として。


フルール・デスポワールとして。


それが、この場で一番正しい姿だった。


けれど、正しさの中にいると、少しだけ息がしにくい。


その時、大広間の向こうから声がした。


「マーリン嬢」


ロイス嬢ではなく。


希望の花でもなく。


名前を呼ぶ声だった。


マーリンは思わず顔を上げた。


胸の奥に落ちていた重さが、ほんの少しだけ揺れる。


大広間の花の香りも、家格の線も、正しい距離も、その声の前で少しだけ遠のいた。

ここまでお読みいただき有り難うございました。

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