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クリスチーナ先輩

ご覧いただきありがとうございます。

来賓への挨拶をひと通り終える頃には、マーリンの頬は笑みの形を覚えていた。


覚えすぎていた。


笑っていないつもりでも、鏡を見ればたぶん笑っている。


それは便利で、少し怖い。


礼の角度。


歩幅。


会釈の間。


相手の家格に合わせた言葉選び。


どれも失敗していない。


失敗していないことが、肩の上に少しずつ積もっていく。


大講堂を出た後も、廊下にはまだ入学式の熱が残っていた。


新入生たちは教師に連れられ、いくつかの列に分かれて移動している。貴族子女らしく整然としているようで、視線だけはずいぶん忙しい。


ロイス家の令嬢。


新入生代表。


希望の花。


言葉にならなくても、視線がそう言っていた。


マーリンは、その視線の中を歩く。


白い髪は光を受け、式服の裾は乱れない。


隣を通る教師が足を止める。


「ロイス嬢。この後は学園側の上級生が施設をご案内いたします。少しお待ちください」


「ご配慮、痛み入ります」


マーリンは美しく礼をした。


教師は満足そうにうなずく。


正しい返答。


正しい表情。


正しい新入生。


けれど、マーリンの視線は、その一歩後ろに控えているクリスチーナへ向いていた。


ほんの少しだけ。


教師に気づかれない程度に。


クリスチーナは表情を変えない。


侍女として、静かに控えている。


完璧な一歩後ろ。


その距離を見て、マーリンは少しだけ唇の端を動かした。


「先生」


「はい」


「学園案内は、クリスチーナにお願いしてもよろしいでしょうか」


クリスチーナの目元が、ほんのわずかに動いた。


教師も少し驚いたようだった。


「アリソン嬢に、ですか」


「はい。彼女はヘルリッヒ学園の卒業生ですもの」


マーリンは穏やかに続けた。


「学園側のご案内を辞退するつもりはございません。ただ、式後の身支度や移動を含めて、慣れた者に案内してもらえれば安心です。差し支えなければ」


差し支えなければ。


そう言いながら、断りにくい形にしている。


丁寧で、柔らかく、家格を振りかざさない。


それでいて、ロイス家の令嬢の希望であることは、相手にきちんと伝わる。


教師は一瞬考え、それから笑みを作った。


「もちろんです。アリソン嬢であれば、問題はないでしょう」


「ありがとうございます」


マーリンはもう一度礼をした。


教師が離れる。


周囲の視線も、少しずつ別の列へ流れていく。


それでも、完全には消えない。


マーリンは歩き出しながら、小さな声で言った。


「ねえ、クリス」


「はい、お嬢様」


「案内してくださる?」


「もちろんでございます」


「では、よろしくお願いいたしますね。クリスチーナ先輩」


クリスチーナの足が、ほんの少しだけ止まりかけた。


マーリンは前を向いたまま、笑みをこらえている。


こらえきれていない。


白い頬の横で、笑いの気配が小さく揺れている。


「お嬢様」


「なあに、クリスチーナ先輩」


「その呼び方は、お控えくださいませ」


「どうして? クリスは卒業生でしょう」


「卒業生ではございますが、現在の私はお嬢様の侍女でございます」


「学園の中では先輩でもあるわ」


「侍女でございます」


「先輩侍女?」


「お嬢様」


「冗談よ」


マーリンは小さく笑った。


控えめな笑い声。


けれど、先ほどまでの来賓に向けた笑みとは違う。


少し軽い。


少し近い。


そして、少しだけ幼い。


クリスチーナは叱るべきか迷った。


迷った末、いつものように静かに目を伏せる。


「学園内であっても、私はお嬢様の一歩後ろにおります」


「知っているわ」


マーリンの声が、少しだけ柔らかくなる。


「でも、少しくらい近くてもいいでしょう」


「距離は近すぎても遠すぎても、支えにくくなります」


「クリスは、いつも正しいことを言うのね」


「正しいことを申し上げるのも、侍女の務めでございます」


「では、少し間違ったことを言ってみて」


「難しいご相談です」


「ほら、また正しい」


マーリンは不満そうに言った。


不満そうに言いながら、少し楽しそうだった。


それだけで、クリスチーナはこの案内役を断らなくてよかったと思った。


最初に向かったのは、中央講義棟だった。


大講堂から回廊を抜け、白い石の渡り廊下を進む。


天井は高く、柱には帝国の紋章が彫られている。廊下の床は磨き込まれ、窓から差す光が長く伸びていた。


学園。


そう呼ぶには、少し立派すぎる。


城ほどではない。


けれど、普通の学び舎でもない。


ヘルリッヒ学園は、貴族の子女を教育する場所だった。


知識を与える場所であり、作法を磨く場所であり、統治を学ぶ場所。


そして、それ以上に。


帝国社会の中で、自分がどこに立つのかを覚えさせる場所だった。


廊下を歩くだけで、それは分かる。


柱の間に掲げられた名家の寄贈銘板。


家格ごとに分かれた控え室。


上位貴族専用の応接間。


下位貴族が使う共同待機室。


どれも美しい。


美しいからこそ、区切りがよく見える。


「こちらが中央講義棟でございます」


クリスチーナは淡々と説明した。


「基礎教養、帝国史、法、統治理論、社交作法など、ほとんどの座学はこちらで行われます」


「統治理論」


マーリンの目が少し輝いた。


「領地運営の実務もあるのかしら」


「ございます。税制、治安、災害対応、物資配分なども扱います」


「面白そう」


「お嬢様」


「なあに」


「面白いというお顔を少し抑えてくださいませ」


「今、そんな顔をしていた?」


「はい」


マーリンは自分の頬に指を添えた。


「困ったわ。まだ何も始まっていないのに」


「お嬢様は、知らないものを見ると表情に出やすくなります」


「それは直すべき?」


「場によります」


「今は?」


クリスチーナは周囲へ視線を向けた。


廊下の向こうで、数人の新入生がこちらを見ている。


彼らはすぐに目をそらした。


けれど、そらした後も、意識だけはこちらに残っている。


「少しだけ」


「少しだけ直すわ」


マーリンは微笑みを整えた。


途端に、先ほどまでの好奇心は薄い布の向こうに隠れる。


ロイス公爵家令嬢の顔。


クリスチーナは何も言わなかった。


直してほしいと言ったのは自分だ。


けれど、直ってしまうと少し寂しい。


侍女は面倒だ。


主を守るために整えながら、整いすぎた姿に胸を痛める。


自分でも勝手だと思う。


講義室は広かった。


長く階段状に並ぶ席。


正面の黒板と投影装置。


壁には帝国法の基本条文と、歴代皇帝の言葉が額に入れられている。


新入生たちは、教師の指示でいくつかの講義室を見学していた。


マーリンが入ると、空気が少し変わる。


ざわめきが止まる。


視線が集まる。


マーリンは、それを予想していたように穏やかに礼をした。


「ごきげんよう」


返礼が重なる。


声の高さも、角度も、少しずつ違う。


家格が見える。


慣れた者は自然に距離を測り、慣れない者は少し遅れる。


マーリンには分かってしまう。


誰が上位の家か。


誰が派閥を背負っているか。


誰が近づきたがり、誰が恐れているか。


誰が憧れ、誰が値踏みしているか。


分かる。


分かってしまう。


だから、できてしまう。


近すぎない笑み。


遠ざけすぎない会釈。


声をかけられれば、相手の家格に合う言葉を選ぶ。


失礼にならない。


でも、安易に親しすぎない。


ロイス家の令嬢として、正しい振る舞い。


「ロイス嬢、先ほどのご挨拶、とても素晴らしかったです」


下位貴族らしい少女が、緊張した声で言った。


マーリンは柔らかく微笑む。


「ありがとうございます。ご入学、おめでとうございます。ともに学べることを嬉しく思いますわ」


少女の顔が明るくなる。


その後ろで、別の生徒が少し目を細めた。


ロイス家に近づいた。


そう見えたのだろう。


たった一言で、人の位置が動く。


学園は、まだ授業も始まっていないのに、もう社交の盤面だった。


マーリンは、その盤面を見てしまう。


見なければいいのに。


見えてしまう。


講義室を出ると、マーリンは少しだけ息を吐いた。


本当に小さく。


「……学ぶ前から、もう難しいのね」


クリスチーナは答えない。


安易に「大丈夫です」とは言わない。


そう言えば、マーリンはきっと笑う。


大丈夫に合わせて、笑ってしまう。


だから、クリスチーナは視線を少し前へ向けた。


「中庭を通りましょう。風がございます」


「休憩の提案?」


「移動経路の提案でございます」


「言い方が上手ね」


「侍女でございますので」


マーリンは少しだけ笑った。


その笑いに、先ほどの息苦しさが少し薄れる。


クリスチーナは、それで十分だと思った。


中庭には、きちんと整えられた花壇が並んでいた。


白い花。


青い花。


帝国旗の色に合わせた赤い花。


どれも手入れが行き届いている。


行き届きすぎているくらいだった。


花壇の中央には噴水があり、周囲には白いベンチが置かれている。生徒たちが数人、距離を取りながら話していた。


その距離にも意味がある。


近すぎる者たちは同じ派閥。


離れすぎている者たちは、まだ様子見。


噴水の正面に座れる者と、端に立つ者。


小さな中庭にも、序列はあった。


マーリンは花壇の前で足を止めた。


「綺麗ね」


「はい」


「でも、少し緊張するわ」


「花壇が、でございますか」


「ええ。全部、きちんと咲いているから」


クリスチーナは花壇を見る。


なるほど、と思った。


ここでは、花でさえ役割を持っているように見える。


美しい配置。


正しい色。


必要な場所に、必要な形で咲くこと。


それは、フルール・デスポワールと呼ばれた少女にとって、たぶん少し笑えない。


「お嬢様」


「なあに」


「図書室へ向かいましょう」


「どうして?」


「花壇を見続けていると、お嬢様が難しいお顔になります」


「私、そんな顔をしていた?」


「はい」


「クリスは本当によく見ているのね」


「務めでございます」


「務めだけ?」


クリスチーナは一瞬、答えを止めた。


マーリンは花壇を見ている。


白い横顔。


少しだけ探るような声。


ただの主従ではなく、もう少し近い言葉を欲しがっている。


それが分かる。


分かるからこそ、クリスチーナは慎重になる。


近づきすぎれば、守れないものが増える。


遠ざかりすぎれば、気づけないものが増える。


「務めであり、私の望みでもございます」


マーリンは、ゆっくり振り返った。


「それは、ずるい答えね」


「申し訳ございません」


「謝られると、もっとずるいわ」


マーリンはそう言って、少しだけ笑った。


それ以上は聞かなかった。


クリスチーナも、それ以上は言わなかった。


図書室は、マーリンの目を少し危険なくらい輝かせた。


高い天井まで続く書架。


移動式の梯子。


閲覧机。


静かな照明。


古い紙の匂いと、管理された魔力灯の柔らかな光。


帝国史。


統治論。


魔力理論。


人形工学概論。


宇宙航行史。


貴族家系譜。


分類札を見ているだけで、マーリンの足取りが少し速くなる。


速くなりかける。


クリスチーナが半歩だけ前へ出た。


「お嬢様」


「まだ何もしていないわ」


「する前のお顔でございます」


「それ、昔も聞いた気がする」


「昔から申し上げております」


「では、私も昔から変わっていないのね」


「はい」


「それは褒め言葉?」


「場合によります」


マーリンは少し拗ねた顔をした。


すぐに戻した。


近くに司書らしき教師がいたからだ。


「ロイス嬢」


司書が礼をする。


「図書室の利用説明は、のちほど正式に行われます。閲覧許可区分についても、家格と履修科目に応じて細かく分かれておりますので」


「承知いたしました」


マーリンは礼儀正しく頷く。


家格と履修科目。


ここにも線がある。


誰がどこまで読めるか。


誰が何を知ることを許されるか。


学びの場所ですら、すべてが平らではない。


マーリンは一瞬だけ、書架の奥を見た。


立入制限のかかった扉。


金色の紋章。


特別閲覧室。


彼女なら、おそらく申請すれば入れる。


ロイス家の名があるから。


けれど、それは自由ではない。


許されているという形の、別の鎖でもある。


「すごいわね」


図書室を出てから、マーリンは言った。


「本が多いからでございますか」


「それもあるけれど」


マーリンは少し考える。


「知ることにも席順があるみたい」


クリスチーナは何も言えなかった。


その通りだったからだ。


ヘルリッヒ学園は、美しい。


よく整えられている。


貴族を育てるためのすばらしい環境がある。


けれど、そこにあるすべては、帝国の形をしていた。


家格。


派閥。


社交。


序列。


学びでさえ、そこから逃げられない。


「お嬢様は、どの本からでもお読みになれるでしょう」


「そうね」


マーリンは微笑んだ。


「だからこそ、少し怖いのかもしれないわ」


クリスチーナは、すぐに慰めを返さなかった。


怖くありません、とは言えない。


大丈夫です、とも言えない。


その言葉は簡単だ。


簡単な言葉は、マーリンをまた笑わせてしまう。


だから、クリスチーナはただ一歩後ろに立った。


近すぎず。


遠すぎず。


マーリンが歩き出すまで、何も言わなかった。


社交用サロンは、学園でありながら、ほとんど貴族邸の応接間だった。


柔らかな椅子。


低いテーブル。


壁際に並ぶティーカップ。


花の香り。


窓から見える中庭。


ここで生徒たちは休憩し、交流し、情報を交換する。


つまり、油断してはいけない場所である。


「休憩所に見えるわ」


マーリンが言った。


「休憩所でございます」


クリスチーナは答える。


「ただし、会話も行われます」


「会話」


「はい」


「それは、少し疲れる休憩ね」


「ヘルリッヒ学園でございますので」


「便利な言葉ね」


マーリンはサロンの入口から中を見た。


数人の上級生がすでに座っている。


視線がこちらへ向いた。


すぐに、笑顔が作られる。


マーリンはその笑顔の種類を見分ける。


純粋な歓迎。


家格への敬意。


接近の計算。


牽制。


羨望。


少しの嫉妬。


いろいろ混ざっている。


混ざりすぎて、ティーカップの中なら味が分からなくなりそうだった。


「ロイス嬢」


上級生の一人が立ち上がりかける。


マーリンはその前に、軽く礼をした。


「ごきげんよう。お邪魔はいたしませんわ。施設を拝見しているだけですので」


座っていた上級生は、少しだけ動きを止め、それから微笑んだ。


「まあ、ご丁寧に。いつでもいらしてくださいませ」


「ありがとうございます」


近づきすぎない。


拒まない。


誘いを受け取った形にはする。


けれど、席には座らない。


波風を立てずに、まだ輪の外にいる。


マーリンは自然にそれをした。


サロンを離れたところで、マーリンは小さく息を吐いた。


「今のは、座った方がよかったかしら」


「お嬢様のご判断で問題ございません」


「クリス」


「はい」


「問題がない答えではなく、クリスの答えが聞きたいわ」


クリスチーナは少しだけ黙った。


廊下の窓から光が差している。


人は少ない。


それでも、誰が通るか分からない。


「現時点では、座らなくてよかったかと」


「理由は?」


「相手の派閥がまだ見えません。最初にどなたの席へ座ったかは、後で意味を持ちます」


「そうよね」


マーリンは苦笑した。


「分かっていたわ。分かっていたのに、聞いてしまった」


「確認は大切でございます」


「違うわ」


マーリンは首を振る。


「クリスに、違うと言ってほしかったのかもしれない」


クリスチーナは目を伏せた。


マーリンは続ける。


「そんなこと気にしなくていいって。好きな席に座って、好きな人と話せばいいって。学園なのだから、友人くらい好きに作ればいいって」


声は穏やかだった。


けれど、その奥に小さな疲れがあった。


「……でも、そうはいかないのよね」


クリスチーナは答えない。


言えば嘘になる。


ヘルリッヒ学園は、自由な場所ではない。


少なくとも、ロイス公爵家令嬢にとっては。


「友達はできるかしら」


マーリンがぽつりと言った。


「皆、私を見ているのかしら。それとも、希望の花を見ているのかしら」


廊下の空気が、少しだけ静かになる。


クリスチーナは、すぐに慰めなかった。


できます、と軽く言えば、マーリンはきっと安心した顔を作る。


大丈夫です、と言えば、彼女は大丈夫そうに笑う。


だから、クリスチーナは一歩だけ近づいた。


近すぎない範囲で。


「お嬢様」


「なあに」


「少なくとも私は、お嬢様を見ております」


マーリンが、ゆっくり振り返る。


「ロイス公爵家令嬢ではなく?」


「はい」


「希望の花ではなく?」


「はい」


「……高そうな壺でもなく?」


クリスチーナは一瞬だけ沈黙した。


「その件は、まだ記憶に新しすぎます」


マーリンは吹き出しかけた。


慌てて口元を押さえる。


笑い声は小さかった。


けれど、本物だった。


「クリス」


「はい」


「そういうところ、好きよ」


「お嬢様」


「侍女として困る?」


「少々」


「では、クリスチーナ先輩としては?」


クリスチーナは、今度こそ困った顔をした。


ほんの少し。


本当に、ほんの少し。


けれどマーリンには、それで十分だった。


「お嬢様。その呼び方は」


「だめ?」


「公の場では、お控えくださいませ」


「公ではなければ?」


「……状況によります」


マーリンの目が少し輝いた。


「完全には拒まないのね」


「お嬢様」


「今のは、かなり大きな譲歩だわ」


「譲歩ではございません」


「では、先輩の寛大さ?」


「お嬢様」


マーリンは笑った。


今度は少しだけ、肩の力が抜けている。


クリスチーナはその笑顔を見て、胸の奥に温かなものを感じた。


主従であり、姉妹のようでもある。


けれど、決して対等にはなれない。


その距離は、温かい。


同時に、限界でもある。


マーリンはその限界に、時々そっと触れる。


クリスチーナは、その手を完全には拒めない。


けれど、握り返すこともできない。


侍女だから。


守る者だから。


一歩後ろに立つ者だから。


案内の終わりに、二人はもう一度中庭へ出た。


風が少し出ていた。


白い花が揺れる。


講義棟の窓が光を返し、大講堂の屋根が遠くに見えた。


美しい場所だった。


よく整えられ、よく磨かれ、どこを歩いても帝国の品位が感じられる。


けれど、美しいだけではない。


花壇の配置にも、サロンの席にも、図書室の閲覧区分にも、講義室の視線にも、見えない糸が張り巡らされている。


家格。


派閥。


社交。


序列。


マーリンは、それを理解してしまった。


理解できてしまうから、逃げにくくなる。


「学園って、もっと自由な場所だと思っていたの」


マーリンは中庭を見上げながら言った。


「本も、先生も、友人も、新しいものがたくさんあって。きっと毎日、退屈しないのだろうって」


「退屈はなさらないかと」


クリスチーナが言うと、マーリンは横目で見た。


「クリス、それは慰め?」


「事実でございます」


「そうね。退屈する暇はなさそう」


マーリンは小さく笑った。


希望の花としてではない。


ほんの少しだけ、クリスチーナに甘える少女として。


「でも、少し疲れそう」


「休める道を覚えておきます」


「私が逃げるため?」


「お嬢様が呼吸を整えるためでございます」


「言い方が上手ね」


「侍女でございますので」


「では、クリスチーナ先輩としても覚えておいて」


クリスチーナは答えに迷った。


ほんの短い沈黙。


マーリンはその沈黙を見て、楽しそうに笑う。


「今のはだめ?」


「……学園内で、人のいない場所に限ります」


「本当に?」


「お嬢様」


「ふふっ。ありがとう、クリス」


その笑顔は、光の中で少しだけやわらかく見えた。


クリスチーナは一歩後ろに立つ。


その距離は近い。


手を伸ばせば届く。


髪飾りを直すことも、袖口を整えることも、冷えた指先を包むこともできる。


けれど、帝国の期待から連れ出すには遠い。


ロイス家の役割から逃がすには、遠すぎる。


その距離が、いつか届かないほど遠くなることを、クリスチーナはまだ知らない。


知らないまま、守りたいと思っていた。


学園の午後は穏やかだった。


風はやわらかく、花壇の花は美しく、白い校舎は光の中で静かに輝いている。


マーリンは中庭の向こうに立つ大講堂を見上げた。


希望の花と呼ばれた場所。


帝国の視線が、最初に彼女へ集まった場所。


その横顔は美しかった。


けれど、クリスチーナには、ほんの少しだけ少女のままに見えた。


「行きましょう、クリス」


「はい、お嬢様」


マーリンが歩き出す。


クリスチーナは一歩後ろに続く。


美しい花園の中で、まだ見えない棘が、静かに伸び始めていた。

ここまでお読みいただき有り難うございました。

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― 新着の感想 ―
本日この作品を見つけ、一気に読んでしまいました。 続きが楽しみです。
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