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他でもない、自分の意志

ご覧いただきありがとうございます。

評価、ブックマークしていただきありがとうございます。


しばらく立て込んでおりまして更新が滞っております。申し訳ありません。


文章多めとなっております。

朝は、いつも通りに来た。


薄いカーテン越しに差し込む光は柔らかく、庭では手入れされた木々の葉が小さく揺れている。

廊下の向こうからは、使用人たちの足音が控えめに聞こえた。銀器の触れ合う音。扉の開閉。誰かが低く交わす挨拶。


ロイス公爵家の朝は、今日も正しく整っていた。


「お嬢様。少し失礼いたします」


背後から控えめな声がして、クリスチーナがマーリンの髪にコームを当てた。


白く長い髪が、朝の光を受けてさらりと流れる。

クリスチーナの手つきはいつも通り丁寧で、少しも乱れがない。

コームが髪を撫でる音だけが、静かな部屋に小さく重なった。


マーリンは鏡台の前に座っていた。


整えられていく髪。

首元に合わせられるリボン。

皺ひとつない服の襟。

白い肌。

静かな目。


どれも、いつも通りのロイス公爵令嬢だった。

けれど、マーリンはそれをどこか遠くから眺めていた。

自分の姿なのに、自分ではないものを見ているようだった。


誰かが丁寧に整え、飾り、今日も外へ出せる形にしていく。

その様子を、ただぼんやりと見つめている。


適性試験から、数日が経っていた。


たった数日。

けれど、もっと長い時間が過ぎたようにも思えたし、まだあの白い試験施設の中にいるようにも思えた。


マーリンは、膝の上に置いた指先をそっと見下ろす。


何も残ってはいない。


傷もない。

震えてもいない。

いつも通り、ロイス公爵令嬢の手だった。


それなのに。


あの時の感覚だけが、まだ消えなかった。


リュールに魔力の糸が通った瞬間。

冷たい金属の身体の奥に、自分ではない何かが目を覚ましたような感触。

そして、次の瞬間には、それが自分の手足であるかのように動いてしまったこと。


動かした、ではない。

動いてしまった。


マーリンは小さく息を吐いた。


そのかすかな変化に、クリスチーナの手が一瞬だけ止まる。


「お加減が優れませんか?」


「いいえ。平気よ」


返事は早かった。

早すぎたことに、マーリン自身が気づく前に、鏡の中のクリスチーナがほんの少し目を伏せた。


「……左様でございますか」


それ以上、クリスチーナは聞かなかった。

ただ、再びコームを動かす手つきが、ほんのわずかだけゆっくりになった。


軍からは、まだ何も届いていない。正式な連絡も、結果の通知もない。

屋敷の者たちも、いつも通りに振る舞っている。


このまま、何もなければ。

そんな都合のよい考えが胸の奥に浮かび、すぐに消えた。


何もないはずがない。

そう思う自分が、少し嫌だった。


クリスチーナが、髪をまとめ終える。

続いて首元のリボンを整え、襟元に指を添えた。


鏡の中のマーリンは、少しずつ完成していく。

美しく、正しく、誰に見られても恥ずかしくない姿に。


けれど、その中にいるマーリンだけが、まだ数日前の白い部屋から戻れていなかった。


窓の外は穏やかだった。

空は青く、庭師はいつも通り花壇の前に膝をついている。世界は、何も変わっていない顔をしていた。


それなのに、マーリンだけが置いていかれている。


いいえ。


置いていかれているのではない。

あの日から、まだ戻れていないのだ。


「お嬢様」


クリスチーナが、最後にそっと髪飾りを留めた。


小さな金具の音が、静かな部屋に響く。


「お支度が整いました」


鏡の中には、いつも通りのマーリン=ロイスがいた。


誰もが望む、正しい姿で。



その時、控えめなノックの音がした。


クリスチーナが最後に髪飾りの位置を確かめ、扉へ向かう。短いやり取りのあと、彼女は一通の封書を手に戻ってきた。


歩みはいつも通り静かだった。

背筋も伸びている。表情も崩れていない。


けれど、封書を持つ指先だけが、ほんの少し硬かった。

マーリンは、それを見ただけで分かってしまった。


来たのだ。


「お嬢様」


クリスチーナは、すぐには続けなかった。

侍女として、報告すべき言葉は決まっている。

それでも、その言葉を口にするまでに、わずかな間があった。


「……帝国宇宙軍より、正式な書状が届いております」


マーリンは膝の上に置いていた指先を、ゆっくりと重ねた。


驚きはなかった。


ただ、胸の奥で何かが静かに沈んだ。


「……そう」


声は思ったよりも落ち着いていた。


落ち着きすぎていた。


「先日の適性確認に関する報告書、とのことです」


クリスチーナは封書を差し出した。

差し出さなければならなかった。


マーリンは、それを受け取る前に一度だけ封書を見つめた。


白い紙。

帝国宇宙軍の紋章。

きちんと整えられた、断りようのない形。


それから、静かに手を伸ばした。


クリスチーナは何も言わなかった。

ただ、深く一礼し、封書をマーリンへ渡した。


封書は、思ったよりも重かった。

紙の重さなど、たかが知れている。

それでも、帝国宇宙軍の紋章が押されたそれは、手の中で妙な存在感を持っていた。


こういうものは、いつだって丁寧だ。

きれいな紙に、正しい文面。

誰が見ても失礼のない形式。

受け取る側が拒みにくいほど、きちんと整えられている。


マーリンは封に指をかけた。

乾いた音が、静かな部屋に小さく響く。


中には数枚の書類が入っていた。

表紙には、整った文字でこう記されている。


――試作人型空間戦闘機(人形) 搭乗適性確認 結果報告。


マーリンは、紙面に目を落とした。


試験対象者。

マーリン=ロイス。


搭乗機体。

試作型 人型空間戦闘機 識別名:リュール。


初回接続時、高い魔力同調を確認。

魔力出力、宇宙軍標準値を大幅に上回る。

魔力制御能力、未訓練者としては極めて異例。

基本機動および姿勢制御に成功。

機体応答遅延、ほぼ認められず。

試作型 人型空間戦闘機 リュールとの親和性、極めて高い。


そこまで読んで、マーリンは息を止めていたことに気づいた。


紙面の上に並ぶ言葉は、どれも整っていた。

乱暴な言葉は一つもない。

恐ろしいことも書かれていない。


褒められている。

認められている。

必要とされている。


そう理解できるだけの言葉が、そこには並んでいた。

けれど、マーリンの胸は少しも温かくならなかった。


そこに書かれているのは、何を感じたかではない。

何ができるかだった。


さらに目を進める。


実戦運用には、継続的な訓練および機体調整を要する。

ただし、限定条件下における早期運用は不可能ではない。

帝国防衛上、当該対象者との継続的協力を強く推奨する。


当該対象者。


マーリンは、その文字をじっと見つめた。


ロイス公爵令嬢でも、フルール・デスポワールでもない。

マーリンでもない。


そこにいるのは、試験対象者であり、当該対象者であり、継続的協力を要する何かだった。


人ではなく、項目。


少女ではなく、結果。


報告書の最後には、総合評価が記されていた。


――極めて高い人型空間戦闘機操縦適性を有する。


たった一行だった。


けれど、その一行はひどく重かった。

マーリンは、もう一度その一文を目でなぞる。


自分にはできる。

そう言われているのだと思った。


ならば、できる者が何もしないことは許されるのか。

そんな問いが、紙面の奥から静かにこちらを見上げてくる。


命令ではない。

脅しでもない。


だからこそ、たちが悪かった。


ここには書かれていない。


リュールに繋がった瞬間、胸の奥が冷えたこと。

自分の身体ではないものが、自分の意思で動く恐ろしさ。

終わった後、指先から感覚が少しずつ戻ってくるまで、何も言えなかったこと。


戦いたくない、という言葉。


怖かった、という気持ち。


どこにもなかった。


「お嬢様」


クリスチーナの声がした。


マーリンは返事をしなかった。

ただ、報告書の最後の一文を、もう一度目で追った。


極めて高い人形使い適性。


それは値札のようだった。


自分の中にあるものへ、帝国軍が正式に価値をつけた。

そして、その価値を知った上で、どうするのかと静かに問いかけている。


マーリンは、紙の端を指で押さえた。


白い紙は、何も言わない。


けれどその沈黙は、どんな言葉よりも重かった。



「お嬢様」


もう一度、クリスチーナが呼んだ。


その声は、いつもと同じだった。

静かで、柔らかく、控えめで。マーリンが幼い頃から聞き慣れている、すぐ傍にある声。


けれど、そこにほんの少しだけ、硬いものが混じっていた。


マーリンは報告書から目を離さないまま、ぽつりと言った。


「……間違ってはいないわ」


クリスチーナの手が止まった。


「リュールは動いたもの。私が動かした。いいえ……動いて、しまった」


紙面に並ぶ文字は、どこまでも正しかった。


魔力同調。

制御能力。

親和性。

早期運用。


ひとつひとつの言葉は冷たいのに、反論できない。

なぜならマーリン自身が、それを覚えているからだ。


あの感覚を。

あの白い試験室を。

自分ではない大きな身体が、自分の意思に従って動いた瞬間を。


「だから、この報告書は――」


「いいえ」


その声は、静かだった。

けれど、はっきりとマーリンの言葉を遮った。


マーリンは顔を上げた。


鏡の中で、クリスチーナがまっすぐこちらを見ていた。

侍女としての姿勢は崩れていない。背筋は伸び、両手はきちんと前で重ねられている。


それでも、その目だけは引かなかった。


「間違っております」


マーリンは、すぐには言葉を返せなかった。


クリスチーナが主人の言葉を正面から否定することなど、ほとんどない。

少なくとも、こうして遮ることはなかった。


「クリス……?」


「失礼を承知で申し上げます」


クリスチーナは深く頭を下げた。

けれど、下げたのは頭だけだった。声は少しも退かなかった。


「その報告書に記された数値や結果が、事実であることは否定いたしません。お嬢様がリュールを動かされたことも、帝国宇宙軍がその力を評価したことも、事実なのでしょう」


そこで一度、言葉が切れた。


クリスチーナはゆっくりと顔を上げる。


「ですが、それを正しい答えになさるのは、間違っております」


部屋の空気が、ほんの少し重くなった。


窓の外では、変わらず朝の光が揺れている。庭師が花壇の前で何かを整えている。

世界は、相変わらず穏やかな顔をしていた。


この部屋の中だけが、そこから切り離されていた。


「この紙には、お嬢様のお心が一行も書かれておりません」


クリスチーナの声は震えていなかった。

だからこそ、その言葉は深く届いた。


「怖かったことも。お疲れになったことも。本当は戦いたくなどないことも。ミハイル様を失われてから、まだ少しもお心が休まっていないことも」


マーリンの指が、報告書の端をわずかに押さえた。

紙が小さく歪む。


「そのどれも、ここにはございません」


クリスチーナは一歩だけ近づいた。


「ここに書かれているのは、お嬢様に何ができるかだけでございます。お嬢様が何を望まれるのかは、どこにも書かれておりません」


マーリンは唇を開いた。


何かを言わなければならないと思った。

このまま黙っていたら、クリスチーナの言葉が全部正しいことになってしまう。


けれど、出てきたのは弱い声だった。


「でも、私にできることがあるなら――」


「できることと、なさるべきことは違います」


今度は、もっとはっきりと遮られた。


マーリンは息をのむ。


侍女が、主人の言葉を遮った。

それも、一度ではなく二度も。


クリスチーナ自身も、それがどれほどのことか分かっているはずだった。

分かった上で、彼女は引かなかった。


「お嬢様は、いつもそうでございます」


その声は、叱責に近かった。

けれど、責めているわけではなかった。

痛いところに触れないようにしてきた人が、初めてそこへ手を伸ばしたような声だった。


「ご自分が傷つくことだけを、あまりにも軽くお考えになります」


「そんなこと……」


「ございます」


即座に返された。

マーリンは言葉を失う。


「誰かのためならば、いくらでも耐えられるとお思いになる。ご自分が我慢すればよいと、ご自分が苦しめば済むと、そうお考えになる」


「……クリス」


「ですが、それは強さではございません」


クリスチーナの目が、わずかに揺れた。


それは怒りではなかった。

悲しみにも似ていた。

もっと奥にある、決して手放せないものに似ていた。


「誰かのために耐えることを、強さと呼ばないでください」


マーリンは何も言えなかった。


クリスチーナは、マーリンを責めているのではない。

それくらい分かっていた。


分かっているから、苦しかった。


「この報告書は、お嬢様に問いを投げかけているように見えます」


クリスチーナは、マーリンの手元の紙を見た。


「ですが、私には……お嬢様の答えを、少しずつ狭めているように見えます」


その言葉に、マーリンの胸が小さく跳ねた。


答えを狭めている。


そう言われて初めて、報告書の白さが別のものに見えた。


命令ではない。

けれど、道は示されている。


脅しではない。

けれど、背を向ければ何かを捨てたように思わせる。


「お嬢様」


クリスチーナは、もう一歩近づいた。


その距離は、侍女としては少し近すぎた。

けれど、守る者としてなら、まだ遠いくらいだった。


「どうか、その紙に書かれた言葉だけで、ご自身の行き先をお決めにならないでください」


「……でも」


マーリンは視線を落とした。


報告書の文字が、少しだけ滲んで見えた。

涙ではない。そう思いたかった。


「私が何もしなかったせいで、また誰かが死んだら」


言ってしまってから、胸の奥がきゅっと縮んだ。


ミハイルの顔がよぎる。


笑っていた顔。

困ったように眉を下げた顔。

彼女をマーリンと呼んでくれた声。


もう、返ってこないもの。


「私は、もう……」


最後まで言えなかった。


クリスチーナは、その続きを急かさなかった。

ただ、静かにマーリンを見ていた。


そして、低く告げる。


「その恐れを、お嬢様お一人に背負わせることはできません」


マーリンは顔を上げる。


クリスチーナの表情は、いつもの侍女のものだった。

穏やかで、整っていて、乱れがない。


けれど、その奥にあるものは違った。


「私は、ロイス公爵家の侍女でございます。お嬢様に仕え、お嬢様をお支えする者です」


そこで、彼女は一度だけ深く息を吸った。


「ですが、それ以前に、私はお嬢様をお守りする者でありたいのです」


マーリンの胸が、痛いくらいに鳴った。


クリスチーナは言葉を続ける。


「お嬢様がどのようなお立場にあろうとも、誰からどのように望まれようとも。私は、お嬢様がご自分を差し出すことを、当然とは思いたくありません」


それは、誓いに近い響きを持っていた。


けれどその誓いは、華やかなものではなかった。

主を称えるためのものでもない。


ただ一人の少女を、何があっても守ろうとする人間の言葉だった。


マーリンは、ひどく困ったように笑おうとした。


いつものように。

大丈夫だと。平気だと。

そんな顔を作れば、クリスチーナも少しは安心するかもしれない。


けれど、唇はうまく動かなかった。


「クリス、私は……」


「これはお願いではございません」


クリスチーナの声が、静かに重なった。


マーリンは口を閉じる。


「お止めしております」


その一言は、部屋に落ちて、しばらく動かなかった。


マーリンは何も言えなかった。

怒ることも、笑って誤魔化すこともできなかった。


ただ、報告書の白い紙面だけが、ひどく眩しかった。



クリスチーナは、それ以上何も言わなかった。


言わなかったのではなく、言えなかったのかもしれない。

主の言葉を遮り、止めると告げた。侍女としては、それだけで十分すぎるほど踏み込んでいる。


マーリンも、すぐには返事をしなかった。


返事など、できるはずがなかった。


部屋には、朝の光が満ちている。

鏡台の上にはコームが置かれ、冷めかけた紅茶があり、膝の上には軍から届いた報告書がある。


どれも、少し前までならただの朝の風景だった。


けれど今は、そのすべてが遠かった。


「少し、一人にして」


マーリンがそう言うと、クリスチーナは一瞬だけ目を伏せた。


「……かしこまりました」


拒まなかった。

引き止めもしなかった。


ただ、退室する前に、彼女は深く一礼した。いつもの礼より、ほんの少し長かった。


扉が静かに閉じる。


その音を聞いてから、マーリンはようやく息を吐いた。


報告書を机の上に置く。

手を離しても、その白い紙はそこにあった。逃げも隠れもしない。当たり前の顔で、ただそこにある。


マーリンは、それを見つめた。


クリスチーナの言葉は、胸に残っていた。


できることと、なさるべきことは違います。


その通りだと思った。


この紙には、お嬢様のお心が一行も書かれておりません。


それも、その通りだった。


怖かった。

戦いたくなかった。

できるなら、何も見なかったことにして、いつもの朝に戻りたかった。


けれど。


マーリンは目を閉じた。


数日間、ずっと同じ場所を歩いている気がしていた。

考えても、考えなくても、最後にはそこへ戻ってくる。


白い試験室ではない。

リュールの冷たい感覚でもない。


もっと前。

もっと近くて、もう二度と戻れない場所。


ミハイルが笑っていた。


いつものように、少し困ったような顔で。

マーリンを見ていた。


フルール・デスポワールとしてではなく。

ロイス公爵令嬢としてでもなく。

ただ、マーリンとして。


それだけのことが、どれほど救いだったのか。

失ってからの方が、よく分かってしまう。


あの声は、もう聞こえない。


名前を呼ぶ声も。

無理をするなと呆れたように言う声も。

笑うまで待っていてくれる、あの穏やかな沈黙も。


もう、どこにもない。


マーリンは膝の上で指を握った。


復讐がしたいだけではなかった。


憎くないわけではない。

奪った者を、許せるはずがない。

ミハイルのいない世界を作ったものを、何も思わずにいられるほど、マーリンは清らかではなかった。


けれど、敵を倒せば胸の穴が埋まるなど、思っていない。

そんなものでは、ミハイルは戻らない。


失ったものは、失ったままだ。


だからこそ、怖かった。


また誰かがいなくなることが。

自分の目の前で、手の届く場所で、誰かが消えてしまうことが。


その時、自分にできることがあったのに、何もしなかったと知ることが。


マーリンは、ゆっくりと目を開けた。


机の上の報告書が、朝の光を受けて白く光っている。


この紙が答えではない。

クリスチーナの言う通りだ。


これはただ、マーリンに何ができるかを書いただけのもの。

マーリンが何を望むかは、どこにも書かれていない。


では、自分は何を望むのか。


戦いたくない。


その答えは、何度考えても変わらなかった。


人形になど乗りたくない。

戦場になど行きたくない。

誰かを傷つけるための力を、誇りたいとも思わない。


けれど。


もう、見ているだけではいたくなかった。


誰かが死ぬかもしれないと知りながら、何も知らない顔をして部屋に閉じこもることは、たぶんできない。


それは強さではない。

きっと、優しさだけでもない。


弱さかもしれない。

逃げられないだけなのかもしれない。


それでも、マーリンの中で答えは少しずつ形になっていた。


数日間、ずっと否定しようとしていた答え。

クリスチーナの言葉を聞いてもなお、消えなかった答え。


マーリンは報告書へ手を伸ばした。

白い紙の端に指を添える。


怖いと思った。


その気持ちが残っていることに、少しだけ安心した。


まだ、自分は怖がれる。

まだ、自分は戦いたくないと思えている。


ならば。


そのまま、選ぶしかない。


ミハイルのためだけではない。

帝国のためだけでもない。

ロイス家のためだけでもない。


次に誰かを失った時、何もしなかった自分を許せなくなる。


それだけは、もう嫌だった。


マーリンは静かに報告書を閉じた。


紙の音は小さかった。


けれどその音は、どこか扉の閉まる音に似ていた。



返答の場は、ロイス家の応接室に整えられた。


天井の高い部屋だった。

壁には古い肖像画が並び、磨き上げられた調度品は、いつも通り公爵家の格式を静かに示している。


けれど、今日の空気はいつもより少しだけ硬かった。


マーリンが入室すると、すでに帝国宇宙軍の使者たちが待っていた。

ドルニエの姿もある。


濃紺の軍服。隙のない姿勢。

先日の試験施設で見た時と同じ、礼儀正しく、冷静で、どこまでも正しい軍人の顔だった。


「ロイス公爵令嬢」


ドルニエが立ち上がり、深く一礼する。


「本日はお時間をいただき、誠にありがとうございます」


「こちらこそ、お待たせして申し訳ありません」


マーリンも、きちんと礼を返した。


声は乱れていない。

姿勢も崩れていない。


公爵令嬢としては、十分に正しい振る舞いだった。


クリスチーナは、マーリンの少し後ろに控えている。


いつもの位置。

けれど、今日だけはその距離が少し遠く感じられた。


全員が席に着くと、ドルニエはテーブルに置かれた書類へ視線を落とした。


「先日お届けいたしました適性確認の報告書につきましては、ご確認いただけましたでしょうか」


「はい。拝見いたしました」


「ありがとうございます」


ドルニエは淡々と頷いた。


その礼には、余計な感情がない。

だからこそ、次の言葉も最初から決まっていたように聞こえた。


「報告書にも記載いたしました通り、ロイス公爵令嬢には、極めて高い人形使い適性が確認されました。特に試作人形リュールとの親和性につきましては、我々の想定を大きく上回る結果です」


リュール。


その名を聞いた瞬間、マーリンの指先がわずかに動いた。

膝の上で重ねた手に、ほんの少しだけ力が入る。


クリスチーナが、それに気づいたのが分かった。


けれど、何も言わない。

この場で彼女が言えることは、きっと多くない。


「もちろん、ロイス公爵令嬢が未訓練であることは承知しております。したがって、直ちに過度な任務をお願いするものではございません」


ドルニエの言葉は丁寧だった。


「ですが、現在の帝国を取り巻く情勢を鑑みますと、貴女の力は大きな意味を持ちます」


大きな意味。


便利な言葉だと思った。


それが人を守る意味なのか。

敵を倒す意味なのか。

帝国の名を飾る意味なのか。


聞き返せば、きっとどれも正しい答えが返ってくるのだろう。


「帝国宇宙軍といたしましては、ロイス公爵令嬢に対し、今後も継続的な協力をお願いしたく存じます」


部屋の空気が、静かに張り詰めた。


「無論、これは命令ではございません」


その一言は、やわらかな布のように置かれた。

けれど、その下にあるものは硬い。


「ロイス公爵家のご令嬢である貴女に、軍が一方的に命を下すことはできません。また、そのような形を望んでもおりません」


正しい言葉だった。


どこまでも正しい。

だから、逃げ場がなかった。


「我々は、貴女ご自身のお考えを尊重いたします」


マーリンは、目を伏せた。


尊重。


その言葉が、報告書の白い紙面と重なる。


答えを強要されているわけではない。

命令されているわけでもない。


ただ、道が目の前に置かれている。

きれいに整えられ、こちらですと示されている。


その道を選ぶかどうかは、あなた次第だと言われながら。


マーリンは静かに息を吸った。


クリスチーナの声が、胸の奥でよみがえる。


――これはお願いではございません。お止めしております。


その言葉は、まだ残っている。

消えてなどいない。


そして、ミハイルの声も。


実際に聞こえたわけではない。

けれど、記憶の中で彼はいつものように困った顔をして、無理をするなと言いそうだった。


マーリンは、ほんの少しだけ笑いそうになった。


無理をしている。

それくらい、自分でも分かっている。


「ドルニエ大佐」


マーリンは顔を上げた。


「はい」


「帝国宇宙軍からの協力要請、謹んでお受けいたします」


一瞬、部屋の空気が止まった。


それから、軍人たちの表情に、わずかな安堵が広がる。

あまりにも小さな変化だった。けれど、マーリンには分かった。


彼らは、初めからこの答えを待っていた。


「……感謝いたします。ロイス公爵令嬢」


ドルニエが深く頭を下げる。


「貴女のご決断は、帝国にとって大きな力となるでしょう」


「ただし」


マーリンは言葉を重ねた。


自分の声が思ったよりも静かだった。


「これは、ロイス家のためだけではありません」


誰かが息を止める気配がした。


「帝国のためだけでもありません」


マーリンは、膝の上の手をゆっくりとほどいた。


指先は、震えていなかった。

少なくとも、そう見えるはずだった。


「私自身の意思です」


言った瞬間、胸の奥で何かが音もなく沈んだ。


けれど、言葉は取り消せない。

取り消すつもりもなかった。


ドルニエは、ほんの一瞬だけ目を細めた。

それは感銘にも見えたし、確認にも見えた。


「承知いたしました」


彼は静かに答える。


「ロイス公爵令嬢のご意思、確かに承りました」


意思。


その言葉が、部屋の中で丁寧に扱われる。

まるで美しい宝石のように。

あるいは、正式な書類の項目のひとつのように。


「さすがは、フルール・デスポワールでいらっしゃいます」


同席していた将校の一人が、感極まったように言った。


声に悪意はなかった。

むしろ、心からの称賛だったのだろう。


「帝国の()()として、これほど心強いことはございません」


マーリンは微笑んだ。

公爵令嬢として、そうするべき場面だった。


「過分なお言葉です」


そう答える声も、きちんと整っていた。

けれど、胸の奥は少しも温かくならなかった。


希望(レスポワール)


その言葉はいつも、綺麗な花冠のように差し出される。

けれど、かぶせられた瞬間、首が少しだけ重くなる。


「今後の訓練日程および詳細につきましては、改めて書面にてご連絡いたします。ロイス公爵家にも、正式な手続きを踏んで通知を行います」


「分かりました」


「貴女のご協力に、帝国宇宙軍一同、深く感謝いたします」


ドルニエたちはもう一度、揃って頭を下げた。


整った礼だった。


マーリンはそれを受けながら、ふと思った。


これは、きっと美しい場面なのだろう。


公爵令嬢が、帝国のために自ら力を貸す。

誰かが後に語るなら、きっとそういう形になる。


けれど本当は、もっと小さなものだった。


怖くて。

苦しくて。

それでも、もう誰かを失うのが嫌で。


逃げられなかった少女が、逃げないと決めただけ。


マーリンは、静かに目を伏せた。


そう。


これは命令ではない。


誰かに押しつけられたわけでもない。


自分で選んだ。


そう思わなければ、きっとこの場に立っていられなかった。



応接室での会談が終わった頃、別の部屋では小さな通信窓が開かれていた。


ロイス家の屋敷内にある、来客用ではない一室。

壁には厚い防音処理が施され、窓もない。

飾り気のない机の上に、暗号化された通信装置だけが置かれている。


青白い光が、部屋の中に薄く浮かんでいた。


通信窓の向こうに映っているのは、ブライアン=カーチスライトだった。


「それで」


穏やかな声だった。


()()()()()()()は、どう答えられたのかな」


通信越しに頭を下げたロイス家の関係者は、感情を抑えた声で答えた。


「帝国宇宙軍からの協力要請を、お受けになりました」


「なるほど」


ブライアンは、静かに目を伏せた。


驚いた様子はなかった。

喜びをあらわにすることもなかった。


ただ、受け取るべき報告を、正しく受け取った。

その程度の反応だった。


「ご自身の意思であると、明言されております」


その言葉に、ブライアンはほんの少しだけ沈黙した。


通信映像の揺らぎが、彼の輪郭をわずかに滲ませる。


「……彼女らしい」


そう言った声は、やわらかかった。


惜しむようにも聞こえた。

誇るようにも聞こえた。

ただ、そのどちらであっても、答えは変わらないようだった。


「宇宙軍側は、今後の訓練日程と正式な手続きを進めるとのことです。ロイス家としても、受け入れの準備を整えるようにと」


「ロイス家としても、か」


ブライアンは小さく繰り返した。


「公爵家の名を損なわぬよう、形式は必要だね」


「はい」


「彼女はまだ学生だ。加えて、公爵令嬢でもある。扱いを誤れば、宇宙軍だけの問題では済まない」


通信の向こうで、関係者がもう一度頭を下げる。


「その点は、屋敷の者にも徹底いたします」


「頼むよ」


ブライアンの声音は最後まで穏やかだった。


「彼女を、ただの戦力として扱わないように」


その言葉だけを聞けば、心遣いに聞こえた。


実際、そこに嘘はないのだろう。

ブライアンは、マーリンを粗末に扱うつもりなどない。


関係者もそれを理解しているように、静かに頷いた。


「お気遣い、痛み入ります」


「気遣いではないよ。当然の礼節だ」


ブライアンは微笑んだ。


整った、優しい微笑みだった。


「価値あるものは、価値あるものとして扱わなければならない。粗雑に扱えば、本人も、ロイス家も、帝国も損なわれる」


「仰る通りでございます」


「彼女は特別だ。だからこそ、正しく遇されるべきだ」


通信映像の中で、ブライアンは机上の書面へ視線を落とした。

そこにも同じ報告が届いているのかもしれない。


「ロイス公爵令嬢として、でございましょうか」


関係者が慎重に尋ねる。


「それもある」


ブライアンは短く答えた。

そして、少しだけ間を置いた。


「けれど何より、帝国に必要な人材としてだ」


部屋の空気が、ほんのわずかに冷えた。


通信越しの言葉に、怒気はない。

命令の響きも薄い。


それなのに、その一言は重かった。


「……承知いたしました」


「誤解しないでほしい。私は彼女を軽んじているわけではない」


ブライアンは顔を上げる。


「だからこそ、彼女の力は正しく用いられるべきだ。帝国のために。そして、それが結果として彼女自身のためにもなる」


関係者は、深く頭を下げた。


「そのように、屋敷内にも伝えておきます」


「頼んだよ」


ブライアンは穏やかに頷いた。


通信窓が閉じる直前まで、その微笑みは崩れなかった。

優しく、礼儀正しく、どこまでも正しいまま。


青白い光が消えると、部屋は静けさを取り戻した。


そこにはもう、誰の声も残っていない。


ただ、マーリンの意思として処理された決定だけが、静かに重みを増していた。



すべてが終わったあと、マーリンは自室へ戻った。


扉が閉まる音は、思っていたよりも小さかった。

けれど、その小さな音でさえ、胸の奥に落ちていくようだった。


朝だったはずの光は、いつの間にか少し高くなっていた。

窓辺に差し込む日差しは明るく、庭の緑も、整えられた家具も、何ひとつ変わっていない。


変わったのは、きっと自分だけだ。

そう思って、マーリンはゆっくりと鏡台の前に戻った。


そこには、軍から届いた報告書が置かれている。

クリスチーナが片づけなかったのだろう。

あるいは、片づけられなかったのかもしれない。


白い紙面は、朝と同じ顔をしていた。


極めて高い人形使い適性。

試作人形リュールとの親和性。

早期運用は不可能ではない。

継続的協力を強く推奨する。


そこには、マーリンの価値が書かれている。


けれど、やはり、マーリンの気持ちはどこにもなかった。


怖かったことも。

戦いたくないことも。

クリスチーナに止められて、何も言えなかったことも。

ミハイルを思い出すたび、胸の奥がまだ痛むことも。


何も。


マーリンは椅子に腰を下ろし、報告書へ手を伸ばした。


紙の端に触れる。

薄くて、軽い。


それなのに、ひどく重い。


「……これは」


声に出すつもりはなかった。


けれど、言葉は小さくこぼれた。


「これは、私が選んだことだから」


誰に聞かせるためでもない。

部屋にはマーリンしかいない。


自分に言い聞かせるための言葉だった。


命令ではなかった。

強制でもなかった。

誰かに手を引かれたわけでもない。


自分で立って、自分で答えた。


そうでなければならなかった。


そう思えなければ、あの場で口にした言葉も、これから歩く道も、たぶん耐えられない。


マーリンは報告書を閉じた。


これでいい。


そう思おうとした。


その時、紙を押さえていた指先が、ほんの少しだけ震えた。


マーリンはそれを見つめる。

しばらくしてから、そっと反対の手で包み込んだ。


窓の外では、変わらず穏やかな光が庭を照らしている。


朝は、もう終わろうとしていた。


けれど、あの日から続いている何かは、まだ終わっていなかった。

ここまでお読みいただき有り難うございました。


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