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それでも動いてしまう

ご覧いただきありがとうございます。

評価、ブックマークしていただきありがとうございます。


しばらく立て込んでおりまして更新が滞っております。申し訳ありません。


文章多めとなっております。

帝都の空は、近かった。


いや、近いのは空ではないのかもしれない。

マーリンは、小さな窓の向こうに広がる青い惑星を見下ろしながら、そんなことを思った。


公爵家の屋敷から宇宙港へ。そこから連絡艇に乗せられ、軍事軌道上の宇宙軍技術試験施設へ。


移動の手順は驚くほど整っていた。

ただ、決められたものが決められた通りに進んでいく。


「お嬢様」


隣でクリスチーナが声をかける。

マーリンは窓から目を離した。


「平気よ」


答えは早かった。

早すぎて、自分でも少しだけ嫌になった。


クリスチーナは何も言わなかった。ただ、その視線だけがマーリンの指先へ落ちる。

マーリンは、膝の上で重ねた手をそっと緩めた。


「本日は適性確認のみ、とのことです」


「分かっているわ」


ただ、確認するだけ。

何度もそう言い聞かせた言葉は、宇宙(そら)へ上がってから、少しずつ薄くなっていた。


低い振動が足元から伝わった。

連絡艇が試験施設のドックへ接続したのだ。


「行きましょう」


マーリンは自分からそう言った。

クリスチーナが一瞬だけ目を細める。


「はい。お嬢様」


連絡艇のハッチが開く。

その先には、白い照明に照らされた軍施設が続いていた。


通路に余計な装飾はなかった。

そこに立つ軍人たちにも無駄がない。

礼儀正しい視線だけが、静かに向けられていた。


だが、それはいつもの視線とは明らかに違う。


試験対象。


その言葉が浮かんだ瞬間、胸の奥が少し冷えた。


「ロイス公爵令嬢」


通路の先で、ドルニエが待っていた。

濃紺の軍服。静かで、丁寧で、どこまでも隙がない。


「本日はご足労いただき、感謝いたします」


「こちらこそ、お迎えいただきありがとうございます」


声はきちんと出た。姿勢も崩れなかった。


ドルニエはクリスチーナにも短く礼をし、それから視線を戻した。


「本日は、事前にお伝えした通り適性確認です。危険な内容は含まれておりません」


「危険かどうかは、私には判断できません」


「ごもっともです」


マーリンは、少しだけ息が詰まった。


「詳細は管制区画で改めて説明いたします。途中で()()を希望される場合は、その場でお申し出ください」


その言葉は、形だけなら優しかった。

けれど、断る権利があることと、断れることは同じではない。


「分かりました」


ドルニエが通路の奥へ歩き出す。


クリスチーナは半歩後ろに控えている。いつもならその距離は安心できた。

けれどこの施設では、それがひどく遠い。


適性確認。

ただ、それだけ。


マーリンはもう一度、その言葉を胸の中で繰り返した。


けれど。


もう、断るためにここへ来たのではないのだと、マーリンはどこかで分かっていた。



「こちらです」


ドルニエが立ち止まったのは、翼と星を組み合わせた標章が刻まれた扉の前だった。


部屋の中央には長いテーブル、壁面には複数のディスプレイが並んでいた。

奥の透明な壁の向こうでは、白い制服の士官たちが端末の前に座り、何かを確認している。


「インターフェース系、待機」

「基礎測定、スタンバイ」


視線が、一瞬だけマーリンへ向けられ、すぐに戻る。


「お掛けください」


マーリンは頷き、席についた。

ドルニエが端末を起動すると青白い表示が浮かび上がった。


「本日の適性確認は、段階を分けて実施いたします」


段階。

適性確認よりも、ずっと試験らしい響きだった。


「第一に、基礎魔力測定。第二に、インターフェース適合と機体とのリンク確認。第三に、試作機への搭乗を伴うリンク確認。第四に、固定状態での姿勢制御です」


どれも、昨日までの自分には関係のない言葉だった。


「危険はありませんか」


問いかけたのはクリスチーナだった。

その声にははっきりとした硬さがあった。


「通常の試験手順においては、危険は最小限です」


「ゼロではない、ということですね」


ドルニエは一拍置いてから頷いた。


「はい。ゼロではありません」


正直な答えだった。


「ただし、異常が確認された場合は、即時中止します。ロイス公爵令嬢が中止を希望された場合も同様です」


「私が望めば、止まってくれるのですか?」


マーリンは端末の表示を見つめたまま言った。


「はい。試験は停止します」


「本当に?」


ドルニエの表情は変わらない。


「少なくとも、この試験区画においては、私の権限で停止できます」


試験は止められる。

けれど、要請が止まるとは言っていない。


「分かりました」


それ以上は尋ねなかった。

尋ねても、同じ場所へ戻るだけだ。


ドルニエは表示を切り替えた。

人型の簡略図が浮かび上がる。いくつかの箇所には、印がついている。


マーリンの喉が、少しだけ狭くなった。


「本日使用する機体は、シャルンホルスト事件で使用された試作機です」


リュール。

マーリンは、心の中でその名を呼んだ。


「機体は最低限の修復と安全確認を終えています。現在は試験用に出力制限をかけた状態です」


表示の片隅に、小さな文字が浮かんだ。

試作機識別名:リュール。


「……その名前」


「事件時の通信記録に残されていた呼称です。技術部内では、便宜上その名で識別されています」


記録は残る。

その言葉が、また耳の奥で響いた。


「試験では、まずインターフェースを通じた適合確認を行います」


「インターフェース……」


人形へ繋がるためのもの。

もう一度、あの感覚に触れるためのもの。


「インターフェース装着後、リンク確認へ移行します」


マーリンは膝の上で手を握りかけ、途中でやめた。


「本日の試験は、あなたを戦場へ送るためのものではありません」


「では、何のためですか」


その問いは、思ったより自然に出た。


「……判断するためです」


「何を?」


「あなたに、どこまでの負荷をかけられるのか。試作機があなたにどこまで応えるのか。そして、今後の協力をどの範囲でお願いできるのか」


そこには、もう遠慮が少なかった。

マーリンは小さく息を吐いた。


「分かりました」


「ありがとうございます」


礼を言われるたびに、自分が少しずつ先へ進んでしまう気がする。

マーリンは視線を伏せた。


「測定システム、オールグリーン」

「インターフェース、初期化完了」


まだ何も始まっていない。

けれど、すべてが始まるために整えられている。


「説明は以上です。ご質問はありますか」


「ありません」


どれも聞けなかった。

聞けば、その答えを受け取らなければならない。


「では、格納区画へご案内します。その後、測定室で基礎魔力測定を行います」


扉が開く。

奥から、金属と、かすかな魔力の匂いが流れてくる。


マーリンは立ち上がった。


適性確認。

ただ、それだけ。


そう言い聞かせる声が、もう少し遠くなっていた。



ドルニエが大きな隔壁の前で立ち止まった。


「この先が格納区画です。機体は移送後、整備班による最終確認が進んでいます」


「まだ確認中なのですか」


「最終確認です。試験そのものに支障はありません」


隔壁の横に立つ士官が、管制へ短く告げる。


「開放申請」


少し遅れて、壁面の灯りが青に変わった。


『開放許可。保持具ホールド確認中。作業班、退避ラインまで下がれ』


通信越しの声が、格納区画の中から響く。白い蒸気のようなものが、床近くを薄く流れた。

マーリンには、開けてはいけない箱の息のように見えた。


格納区画は、思っていたよりも明るかった。

高い天井の下、作業用アームと足場がいくつも置かれていた。


そして、その中央に。人形が立っていた。

マーリンは足を止めた。


リュール。


声には出さなかった。

もちろん、人形が振り向くはずなどない。静かに立っているだけだった。


青白い装甲には色の違う継ぎ目が残り、右腕には仮固定の補強材が走っている。

マーリンには、それが傷跡に見えた


「安全確認は済んでいます。試験では、出力を制限し、動作範囲も管理下に置きます」


「……そうですか」


目はリュールから離れなかった。

あの時、自分はこの人形を動かした。動かしてしまった。


正しいことをした。そう思える。

それでも、傷跡が消えるわけではなかった。


「お嬢様」


クリスチーナの声がした。

強くはない。

マーリンは小さく息を吸った。


「大丈夫よ」


整備士の一人が近づいてきて、ドルニエに短く報告する。


「試作機、外部固定完了。リアクター(魔力変換炉)は低出力スタンバイ。リンク系、初期チェック中です」


「インターフェース系は」


「インターフェースは、セーフティ待機です」


その言葉に、マーリンの指先がわずかに冷えた。


ドルニエはマーリンへ向き直る。


「まずは測定室で、基礎魔力測定を実施します」


今はまだ、繋がらない。

今はまだ、ただ見ているだけ。


それなのに、指先が落ち着かない。

マーリンの身体の方が先に道を探している。そんな気がした。


「測定室へご案内します」


ドルニエが言った。


マーリンは、リュールを見上げた。


「行きましょう」


誰に向けたのか分からないまま、そう言った。

クリスチーナが半歩後ろに続く。


格納区画を出る直前、マーリンは振り返らなかった。

振り返れば、リュールがまだそこにいることを確かめてしまう。


そして、確かめてしまえば。


そう思っただけで、指先が少し冷えた。



測定室は、壁も床も白く、中央には診察台にも似た細長い椅子が置かれていた。

その周囲を囲むように、いくつもの機器と端末が並んでいる。


「こちらへ」


白衣を着た技術士官が椅子を示した。


「座るだけでよろしいのですか」


「はい。まずは基礎測定です。痛みを伴うものではありません」


マーリンは、椅子に腰を下ろした。


クリスチーナは測定室の入口近くで止められている。


床に引かれた細い黄色の線。

ただの安全区域の表示なのだろう。


技術士官が、マーリンの手元へ薄い板を差し出す。透明な板の中に、細い銀糸が無数に走っていた。


「測定板です。こちらに手を置いてください」


マーリンは言われた通りに右手を乗せる。

ひやりとして思わず指が少しだけ強張った。


「力は抜いてください。まずは自然状態での魔力循環を確認します」


「……はい」


端末の画面に、細い線が浮かび上がった。

波のように上下する線。いくつもの数値。マーリンには意味が分からない。

ただ、技術士官たちがそれをじっと見ていることだけは分かった。


「ベースライン取得」

「自然フロー、安定。ノイズ低。変動幅、許容内」

「ログ開始」


今のところ、驚きはない。

それに少しだけ安心しかけて、マーリンは自分でその安心を疑った。


「次に、こちらの指示に合わせて、少しだけ魔力を流してください」


「少しだけ、ですか」


「はい。水差しから一滴落とす程度の感覚で構いません」


一滴。

マーリンは測定板の上の手を見下ろした。


魔力を流す。

戦うためではない。


マーリンは指先に、ほんの少しだけ意識を集める。


流す。


そう思った瞬間、技術士官の指が止まった。

別の士官が画面を覗き込んだ。


「フロー上昇」

「待て、入力値が高い」

「リミット手前。いや、まだ上がります」


マーリンは手を引こうとした。


「そのまま」


技術士官の声が少しだけ早くなる。


「いえ、申し訳ありません。そのまま、維持してください」


水差しから一滴。

その言葉に合わせたつもりだった。


「十分です」


技術士官は端末から目を離さないまま答えた。

そして、ほんの少し遅れて言い直す。


「いえ、十分すぎます」


大きな声はない。誰も騒がない。

けれど、視線だけが端末へ集まる。小さな光が次々に点灯していく。


分からないのに、分かってしまう。


「出力、基準値を超過」


彼らの声が少しずつ熱を帯びていく。

マーリンは測定板の上の自分の手を見つめた。


「止めてもよろしいですか」


「はい。ゆっくりと戻してください」


マーリンは意識を解いた。

測定板の光が弱まり、銀糸の輝きが静かに消えていく。

ほっとするはずだった。


けれど、消えたあとも、指先の奥に熱が残っている。

まるで、まだ何かが流れたがっているようだった。


「お嬢様」


クリスチーナが一歩だけ前に出かける。


「心配ないわ」


クリスチーナは唇を結んだ。だが、その目はマーリンの手元を見ていた。


「結果は」


ドルニエが技術士官へ視線を向ける。


「基礎魔力出力、通常基準を大幅に超えています。ただし、制御は極めて安定しています」


ドルニエには、技術士官も丁寧な言葉を選んでいた。

けれど端末の向こうでは、まだ別の声が低く続いている。


「この出力でノイズが出ないのか」

「ログ、全部残せ。後で照合する」


その言葉が、マーリンの耳に残った。

ドルニエの視線がマーリンへ戻る。


「ロイス公爵令嬢。ご気分はいかがですか」


「悪くはありません」


それは本当だった。


「魔力を出し切ったような疲労感は?」


「ありません」


技術士官たちの視線が、またわずかに変わる。


「では、次に段階出力を確認します」


技術士官が言った。


「こちらの指示に合わせて、三段階で魔力を流してください」


「……分かりました」


マーリンは再び測定板に手を置く。


一度目より、冷たさを感じなかった。


続く段階出力でも、結果は変わらなかった。

弱く流しても、強く流しても、端末の数値は技術士官たちの想定を超えた。


「上限警告」

「リミット、入れろ」

「本人制御、維持されています」


マーリンは慌てて魔力を戻した。


「申し訳ありません」


反射的に謝っていた。

誰に対してなのか、自分でも分からない。


技術士官は首を横に振る。


「いえ。こちらの想定値が()()()()()()


その言葉は、謝罪よりも重かった。

管制側で、誰かが小さく呟く。


「試作機側が拾えば、()()()()()()は早いぞ」


その言葉に、マーリンの指先が冷えた。彼らの言葉はもう次へ進んでいる。


やがて、ドルニエは静かに言った。


「基礎測定は十分でしょう。次へ進んでもよろしいでしょうか」


十分なら、終わっていいはずだ。

そう思ってしまうのは、意地が悪いだろうか。


マーリンは測定板から手を離した。

指先には、まだ熱が残っている。

あの時の熱とは違う。

けれど、遠くで同じ場所へ続いている気がした。


「……はい」


マーリンは立ち上がる。


「では、リンク確認へ移ります」


ドルニエが測定室の扉を開く。

通路の先に、格納区画の明かりが見えた。



搭乗準備は、思っていたよりも早く進んだ。

最初から、そうなる道が用意されていたように見えた。


「試作機リュール、低出力スタンバイ」


「ロイス公爵令嬢、こちらへ」


整備士に案内され、マーリンは足場へ上がった。

足元の金属板を踏むたびに、靴音がやけに大きく響いた。


青白い表面に残る、わずかな傷跡。

マーリンは、そこに手を置きそうになって、やめた。


「搭乗前に確認します」


ドルニエの声が背後から届く。


「この段階でも、中止は可能です」


マーリンは振り返らなかった。


「続けてください」


自分の声は、思ったより静かだった。


胸部ハッチが開く。


球状のコクピット。


あの時は、何も知らなかった。

とにかく、何かをしなければならなかった。


でも、今は違う。

知っている。この中に入れば、何が起こるのかを。


内側は冷えていた。

座席というより、身体を包むための器だった。背を預けると、肩や腰の位置を確かめるように細い支持具が動く。


「生体反応、取得。インターフェース接続待機」


マーリンは両手を差し出した。


左手。

右手。


指先が包まれる。手首が固定される。


「圧迫感はありますか」


「ありません」


答えながら、マーリンは指を軽く曲げた。


インターフェースは、その動きにぴたりとついてくる。まるで最初から自分の手に合わせて作られていたようだった。


「インタフェース、接続確認」

「ハッチ閉鎖」


灰色の内壁が、マーリンを囲んでいる。

ドルニエの声だけが届く。


『ロイス公爵令嬢、聞こえますか』


「聞こえます」


『これよりインターフェースを起動します』


「はい」


答えた瞬間、両手のインターフェースが淡く光った。

手首から先に、細い熱が走る。

まるで、閉じていた扉の隙間から、空気が流れ込んでくるようだった。


『インターフェース、起動』

『リュール側、受信開始』


リュール側。

まだ分かれている。そう思った。

マーリンは指先に、ほんの少しだけ魔力を流した。


一滴。

そう思った瞬間、糸が伸びた。


身体の内側でほどけた糸が、リュールの中へ広がっていく。

待っていたものに触れるように。


違う。

待っていたのは、リュールではない。


『リンクアップ開始』

『第一層、通過。第二層』


マーリンは目を閉じていた。

閉じているはずなのに、暗くない。


ヒューン、という微かな音がした。


あの日と同じ音。

球状の内壁に、光が走った。

コンソールウィンドウが、連鎖するように立ち上がる。文字が高速で流れ、消え、また別の表示へ変わる。


灰色だった内壁に、外の景色が映り始めた。

マーリンは息を止めた。


見えている。自分の目ではないのに。

見えない場所まで、まるで皮膚の外側に目が増えたように分かってしまう。


気持ちが悪い。でも、分かる。

リュールの状態が、自分の身体のように分かる。


『完全リンク域に入ります』


マーリンは、ゆっくりと目を開けた。

そこに映っているのは、リュールが見ている世界だった。


『ロイス公爵令嬢』


ドルニエの声が届く。


『状態は』


「……見えます」


『違和感はありますか』


ある。

けれど、それをどう言えばいいのか分からなかった。


「自分の身体ではないものが、自分の身体みたいです」


一瞬、通信が静かになった。

それから、技術士官の声が低く入る。


『感覚同期、発生』

『深度が高い。ここまで入るのか』


マーリンは小さく息を吐いた。


『右手指部の開閉を確認します』


ドルニエが静かに進める。


『ご自身の手を動かす感覚で構いません』


マーリンはインターフェースの中で、右手の指をほんの少し開いた。


巨大な指が開く感覚。関節が滑り、保持具の負荷がわずかに変わる感覚。

自分の右手とはまるで違うはずなのに、指先の糸がそれを当たり前のように伝えてくる。


『右手指部、コントロール入力確認』

『補正、ほぼ不要』


マーリンは指を閉じた。

リュールの手も閉じる。


『次に、右腕を肩の高さまで上げます』


それくらいなら、誰にでもできる。

自分の腕なら。


マーリンは糸を意識した。

人間の腕とは違う。何もかもが違う。それなのに、動かし方が分かる。


糸を一本、軽く引いた。

右腕が上がる。


『右腕部、目標角度到達』

『コントロールが速い』


最後の声だけ、報告というより呟きだった。


マーリンは唇を引き結ぶ。


速いと言われても、分からない。

遅くしろと言われても、きっと分からない。


ただ、動いてしまう。


『左腕も同様に』


左腕が上がる。

右よりも少し楽だった。


そう感じてしまった瞬間、胸の奥が冷えた。


『両腕、保持』

『保持具負荷、低下。機体側が均衡を取っています。いや、入力が入っています』

『本人入力か?』

『そう見えます』


マーリン自身にも分からないものを、彼らが数字で分かろうとしている。


『上体姿勢の変更へ移ります』


リュールは支えられたまま、ゆっくりと上体を傾ける。戻す。左へ振る。右へ振る。


身体がもうひとつある。

それは、気持ちの悪い感覚のはずだった。

実際、気持ち悪い。


どこを動かせばいいのか。

どこに力を逃がせば倒れないのか。

リュールの身体が教えてくる。


あるいは。

自分が、もう覚えている。


『驚いたな』


管制室のどこかで、低い声が漏れた。


『これで初めて乗ったとは、とても思えん』


「初めてではありません」


マーリンは、反射的に言っていた。


「今日で、二度目です」


誰もすぐには答えなかった。

事実を言っただけだった。

それなのに、その場にいた者たちは皆、少しだけ言葉を失ったように見えた。



試験は、そこで終わるはずだった。

少なくとも、マーリンはそう思っていた。


けれど管制室の中で、若い技術士官がドルニエに近づいた。


『……大佐。この安定度なら、簡易回避も取れます……』


『……予定にはない』


ドルニエの声が返る。


『承知しています。ただ、姿勢制御だけでは判定が薄い。無人機一機、セーフティ距離を維持した接近なら……』


『……本人の同意が必要だ』


会話が止まる。

それから、ドルニエがこちらへ通信を戻した。


『ロイス公爵令嬢』


丁寧な声だった。


『当初の予定には含まれておりませんでしたが、簡易回避試験を追加する提案が出ています』


マーリンの指が、インターフェースの中で強張った。


『無人機を一機、指定軌道で接近させます。武装および接触はありません。姿勢を崩さず指定座標へ移動できるかを確認するだけです』


「……ここで、行うのですか」


『いいえ。隣接する機動試験区画へ移動します』


少しだけ息がしづらくなった。


『外宇宙へ出るわけではありません。施設内の無重力試験区画です』


外ではない。

戦場ではない。

ただの試験区画。


そう説明されても、マーリンには、またひとつ扉の奥へ進むように聞こえた。


「拒否できますか」


『もちろんです』


ドルニエは即答した。

その答えは、たぶん本当だ。


「……一機だけですか」


()()は一機です』


本当に、言葉というものは隙間を残すのがうまい。


「分かりました」


『本当に、よろしいですか』


ドルニエが確認する。

今度はすぐに頷けなかった。


インターフェース。

銀色の線。

その先にある、青白い巨体。


言葉を重ねるほど、足元が薄くなっていく。


「……はい」


マーリンは答えた。


「試験なら」


その言葉に、自分が縋っているのが分かった。


『機動試験区画へ移送』


管制室の声が切り替わった。


『移送レール、ロック解除。リュール、移動開始』


低い振動が、コクピットの内側まで伝わってきた。

固定されたまま、レールに沿って運ばれているだけだ。

それでも、巨大な身体が移動する感覚は、マーリンの内側にも伝わってきた。


厚い隔壁が開き、その先に広い空間が現れた。


壁も床も天井も遠い。

いや、無重力区画では、どこが床なのかさえ少し曖昧だった。


空間の中には、青白い標識灯と、細い安全ラインが浮かぶように配置されている。

遠くには蜂の巣のようなラックが並び、小さな機体がいくつも固定されていた。


マーリンには、黒い宇宙の手前まで連れてこられたように思えた。


『移送完了』

『保持具、試験ホールドへ移行』


リュールの身体が、少しだけ自由になる。

完全に解放されたわけではない。マーリンは、その違いを自分の身体のように感じた。


動ける。

そう思ってしまった。


『無人機一番、起動』


リュールの視界の端に、小さな機影が映った。

丸みを帯びたフォルム。表面には試験用の識別灯が点滅していた。


怖がる理由など、ないはずだった。


『接近開始』


無人機が動く。ゆっくりと。

なのに、マーリンの中で赤い警告音が鳴った。


それだけで、身体が反応した。


『ロイス公爵令嬢、指定座標へ移動してください。右後方、三メートル』


マーリンが動く前に、リュールが動いた。

無重力の中を滑るように右後方へ流れる。大きな動きではない。


『姿勢制御、安定。目標座標、誤差内』

『コントロール反応、速い』


避けようと思ったわけではない。

刃が届く前に、身体が動いただけだった。


刃などない。これは無人機だ。

そう思い直そうとしても、指先の糸はもう次の動きを探していた。


『二機目を追加できます』


マーリンの喉が鳴る。

ドルニエはすぐには答えなかった。


『ロイス公爵令嬢』


また、こちらへ確認が来る。


『続行は可能ですか』


今度は、少しだけ間があった。

マーリンはリュールの視界で、停止した無人機を見た。


「……一度だけなら」


自分の声が、少し遠かった。


『二機までです』


ドルニエが管制室へ告げる。


『それ以上は行わない』


『二機接近、テスト軌道入力』

『セーフティ距離、維持』


二つの無人機が、リュールの視界に入る。


ひとつは正面から。

もうひとつは左下方から。


速度は遅い。軌道も単純。管制された、安全な動き。


迫ってくる。

挟まれる。

逃げ道が細くなる。


『指定座標、左上方二メートル。姿勢保持』


マーリンは、糸を引いた。引いたと思うより早く、リュールが動く。

無人機二機の間を、まるで最初からそこに道があったかのように抜ける。

青白い装甲の表面を、無人機の識別灯がかすめた。


『二機ともセーフティ距離内』

『指定座標、到達』


その声が、勝利の報告のように聞こえた。

マーリンは気分が悪くなった。


ただ、また動いてしまっただけだ。


『試験終了』


ドルニエの声が響いた。


『無人機を停止。保持具、再ホールド』

『出力リミット、維持』


リュールがゆっくりと元の位置へ戻される。

視界にあった標識灯が、少しずつただの景色に戻っていく。


マーリンは、ようやく息を吐いた。


『機動確認を終了します』


終わった。

終わったはずなのに、指先の糸はまだ緩まない。

まるで長い距離を走った後のように、胸の奥が熱かった。


『リンクダウンへ移行。段階遮断、開始』


景色が、少しずつ色を失っていく。

光が薄れ、コンソールウィンドウが閉じ、最後に帝国宇宙軍の紋章だけが淡く残った。


それも、すぐに消える。

コクピットは、また無機質な灰色へ戻った。


『ハッチ開放準備。内部圧、正常』


『ロイス公爵令嬢。ご気分は』


マーリンは少し遅れて答えた。


「……悪くは、ありません」


だから、試験は成功なのだろう。


『ハッチ解放』


外の光が差し込む。

搭乗橋の向こうに、クリスチーナがいた。


マーリンは立ち上がろうとして、足元の感覚を確かめた。


リュールの脚ではない。

そう思ってから、ゆっくりと一歩を踏み出した。


足は震えていなかった。



搭乗橋を降りるまで、マーリンは一度も振り返らなかった。


決めていたわけではない。

けれど、リュールの方へ視線を向けたら、まだ糸が繋がっていることを確かめてしまいそうだった。


「お嬢様」


クリスチーナが駆け寄ってくる。

今度は、誰にも止められなかった。

ぎりぎりの距離で立ち止まり、マーリンの顔を見た。


「お加減は」


「大丈夫よ」


言ってから、マーリンは少しだけ息を吐く。


「身体は、本当に」


そう付け加えると、クリスチーナの表情がわずかに曇った。


「痛みは?」


「ないわ」


「ご気分は?」


「悪くはないわ」


けれど、マーリンにとっては、少しも良くなかった。


管制室の向こうでは、技術士官たちが端末に集まっていた。


「基礎出力、規格外」

「リンク深度、完全域到達」

「搭乗側インターフェース、補正ほぼ不要」

「無人機二機、接触なし。セーフティ距離内」

「予定外試験ログ、保存完了」


ドルニエは管制卓の前に立ち、表示を見ていた。表情はいつもと変わらない。

だが、熱を、彼だけが押さえているようにも見えた。


「大佐」


若い士官が声を潜める。


「総合評価を出しますか」


「まだだ。本人の状態確認が先だ」


「しかし、現段階でも十分に――」


ドルニエの視線が、そこでわずかに動いた。

若い士官は口を閉じる。

けれど聞こえなくても、分かる。


「ロイス公爵令嬢」


ドルニエがこちらへ歩いてくる。

クリスチーナが、自然に半歩だけ前へ出た。


「本日の試験は、ここまでとします」


「……終わり、ですか」


「はい。本日の試験は終了です」


その言い方では、明日以降まで終わったことにはならない。


「結果は、どうでしたか」


自分で尋ねてから、少し後悔した。


「予想以上です」


褒め言葉ではない。けれど、期待外れでもない。


「基礎魔力出力、リンク深度、姿勢制御、回避反応。いずれも、技術部の想定を超えています」


技術士官の一人が、端末を見つめたまま低く言った。


「この反応なら、訓練課程に入れれば、かなり早い段階で()()()()に――」


空気が止まった。

その言葉は、届いてしまった。

クリスチーナの表情が硬くなる。


「今、何と」


声は静かだった。

けれど、刃物のように細かった。


ドルニエが一歩前へ出る。


「現時点で、ロイス公爵令嬢を実戦に出す決定は一切ありません」


「現時点では、ですね」


クリスチーナが返す。

その目はまっすぐドルニエを見ていた。


ドルニエは否定しなかった。


「本日の結果は、あくまで適性確認として記録されます」


「記録」


マーリンは小さく繰り返した。


記録は残る。

そして残った記録は、次の理由になる。


「ロイス公爵令嬢」


ドルニエの声は低かった。


「誤解のないよう申し上げます。我々は、本日の結果だけであなたに軍務を求めるつもりはありません」


「本日の結果だけでは、ということですね」


言葉が出た。

自分でも、少し驚いた。


ドルニエは一瞬だけ沈黙した。


「……必要な手順は踏みます」


「手順」


クリスチーナが小さく息を吸う。

マーリンはそれを手で制した。


大丈夫、という意味ではない。

ここで言葉を重ねても、きっと何も変わらない。


「分かりました」


そう答える声は、ひどく落ち着いていた。


技術士官たちは、まだ端末を確認している。

リュールは格納庫へ戻された。

何もかも、正しく片づけられていく。


「お嬢様」


今度は強い声ではなかった。


そっと、手を差し出してくる。

マーリンは一瞬だけ迷い、それからその手を取った。


温かかった。

インターフェースを外したばかりの指先には、その温度が少しだけ遠く感じられた。


「少し、お休みいただきます」


クリスチーナがドルニエへ言った。

問いかけではなかった。


「控室をご用意しています」


「ありがとうございます」


クリスチーナは礼をした。


マーリンも続こうとして、少しだけ遅れた。


足元はふらついていない。

それなのに、一歩目だけが少し重かった。


管制区画を出る直前、マーリンは振り返った。

隔壁の向こうに、リュールが見える。


もう動いていない。

それなのにマーリンには、リュールだけがまだこちらを覚えているように見えた。


クリスチーナの手を、少しだけ強く握る。

クリスチーナは、何も言わなかった。

その沈黙だけが、唯一、マーリンを測らないものだった。



控室は、小さな部屋だった。


壁際に細い長椅子と簡素なテーブルがひとつ。

水差しと、まだ湯気の立つ茶器が置かれている。軍施設の中にしては、少しだけ人の気配がある部屋だった。


マーリンは長椅子に腰を下ろした。

クリスチーナがすぐ隣に控える。いつもなら半歩下がるはずなのに、今は近かった。


「お水を」


「ありがとう」


マーリンは受け取り、口をつけた。

それでようやく、自分がずっと口の中を乾かしていたことに気づいた。


「お加減は、本当に」


「大丈夫、心配しすぎよ」


言ってから、マーリンはコップを見下ろした。


何度も言っている。

そのたびに、少しずつ意味が薄くなっていく。


「身体は、平気なの」


それだけは本当だった。


クリスチーナは答えなかった。

嘘ではないと分かっている。

けれど、全部でもないと分かっている。そんな顔だった。


マーリンはコップをテーブルに置いた。

ゆっくりと手を握る。


自分の手だ。

そのはずだった。


「クリス」


「はい」


「私、動かしてしまったわ」


クリスチーナの表情がわずかに揺れる。


「お嬢様が望まれたことではありません」


「でも、動いた」


慰めてほしいわけではなかった。

否定してほしいわけでもない。


ただ、言葉にしなければ、指先に残った感覚だけが本当になってしまいそうだった。


「動かしたいわけではなかったの」


「存じております」


「戦いたいわけでもない」


「はい」


「それなのに、動くのね」


クリスチーナは静かに息を呑んだ。



扉が控えめに叩かれた。


クリスチーナがすぐに立ち上がる。扉の向こうを確認し、マーリンへ目で尋ねた。

マーリンは小さく頷く。


扉が開かれ、ドルニエが入ってきた。

すぐに立ち止まり、深く礼をする。


「失礼いたします」


マーリンは姿勢を正した。

疲れていても、背筋だけは伸びる。


そう教えられてきた。

そうできてしまう。


「本日のご協力、改めて感謝いたします」


もう何度目だろう。

逃げ場を少しずつ狭くする言葉。


マーリンは、ほんの少しだけ目を伏せた。


「試験は、終わったのですね」


「はい。本日の予定はすべて終了しました」


その一語を、マーリンは聞き逃さなかった。


「結果は、正式な報告書としてロイス公爵家へ提出いたします。詳細な分析には数日を要しますが、速報値としては、先ほどお伝えした通りです」


「予想以上、ですか」


「はい」


ドルニエは否定しなかった。


「ただし、これをもって即座に軍務を求めるものではありません」


「今後については、まだ否定なさらないのですね」


ドルニエは一拍だけ黙った。


「必要な手順は踏みます」


「その手順の先に、私の意思は残りますか」


きっと、もう見えている。

見えているのに、見ないふりをしている。


ドルニエの声が少し低くなる。


「本日はお疲れでしょう。これ以上の説明は控えます。お戻りの連絡艇は準備できています」


「ありがとうございます」


「ただ、最後に一点だけ」


マーリンは顔を上げた。


「本日の結果は、あなたにとって望ましいものではなかったかもしれません」


「……」


「ですが、()()()()()()()は、重要な結果です」


クリスチーナの指が、わずかに動いた。

マーリンはそれを視界の端で見た。


怒っている。

また、怒ってくれている。


「宇宙軍にとって」


マーリンは呟く。


「私がどう感じたかは、結果には入らないのですね」


ドルニエはすぐには答えなかった。


「その両方を満たす道を、探す必要があります」


「あるのですか」


ドルニエは嘘をつかなかった。


「探します」


ある、とは言わなかった。

それが、ドルニエという人なのだろう。


「分かりました」


本当に分かったわけではない。

ただ、これ以上はもう何も聞きたくなかった。


ドルニエはもう一度礼をする。


「本日は、ありがとうございました」


部屋には、マーリンとクリスチーナだけが残る。

マーリンは深く息を吐く。


「宇宙軍にとって、重要な結果。ね」


口にしてみると、思ったより冷たい言葉だった。


「お嬢様」


クリスチーナが近づく。


「帰りましょう。今は、ここに長くいらっしゃるべきではありません」


許可を求める声ではない。

マーリンは少しだけ笑った。


「クリスがそう言うのなら、従うわ」


「当然です」


返事は早かった。

その早さが、少しだけ胸を温かくした。


マーリンは立ち上がる。


膝は震えていない。

足元もふらつかない。

身体は、最後まで平気だった。


それが、やっぱり嫌だった。


控室を出る。

白い通路が続いている。来た時と同じ。

けれどマーリンには、少し違って見えた。


ここへ来た時は、まだ自分に言い聞かせる言葉があった。


通路の向こうから、技術士官たちの声が漏れてくる。

ひとつひとつの言葉が、遠くの雨音のように聞こえた。

けれど、そのすべてが自分のことを指しているのだと分かってしまう。


ログ。

総合評価。


残るのは、できたことだけだ。


連絡艇へ向かう途中、通路の窓から格納区画の一部が見えた。

隔壁の向こうに、リュールが立っている。


もう動いていない。


ただの試作機として、整備士たちに囲まれている。

目は勝手にそこへ向かう。


リュール。


すべて、終わっている。終わっているはずなのに。

マーリンの指先だけが、まだあの人形を覚えていた。


「お嬢様?」


クリスチーナの声で、マーリンは歩き出す。


「何でもないわ」


嘘だった。


連絡艇のハッチが開く。

マーリンは窓際の席に腰を下ろした。

ゆっくりと施設から離れていく。


窓の向こうに、帝都の青い惑星が広がっていた。

ひどく、美しかった。


前線。

赤い点。

戻らない人。


マーリンは膝の上で手を握った。


「私にできることがあるのなら」


唇から、また同じ言葉がこぼれた。


誰かを救えるかもしれない手。

誰かに求められてしまう手。


可能性。


マーリンは目を閉じた。

その言葉が嫌いだった。


連絡艇が軌道を離れる。

身体がわずかに沈む。


地上へ戻っていくはずなのに、マーリンには、自分が少しずつ宇宙の方へ引かれているように思えた。


適性確認。

ただ、それだけ。


そう言い聞かせた言葉は、もう試験場の床に落ちていた。


リュールはもう動いていない。


それなのにマーリンの指先だけが、まだあの人形を覚えていた。

ここまでお読みいただき有り難うございました。


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