一歩後ろの誓い
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扉が開くと、外の光とざわめきが控え室の中へ流れ込んだ。
マーリンは一歩、廊下へ出た。
その瞬間、肩の角度が変わる。
ほんの少しだけ。
けれど、クリスチーナには分かった。
控え室の中で困ったように笑っていた少女は、扉を越えたところで奥へ隠れた。
代わりにそこへ立つのは、ロイス公爵家令嬢。
フルール・デスポワール。
希望の花。
白い髪は光を受け、背筋はすっと伸び、歩幅は乱れない。
廊下にいた教師や来賓たちの視線が、自然と彼女へ集まっていく。
マーリンは、それを少しも重たそうに見せなかった。
穏やかに微笑み、必要な角度で会釈し、呼ばれた名にふさわしい姿で歩いていく。
誰もが望む公爵令嬢。
誰もが安心できる帝国の象徴。
誰もが、希望の花だと信じる少女。
「ロイス嬢、素晴らしいご挨拶でした」
年配の教師が声をかける。
マーリンは足を止め、柔らかく礼をした。
「ありがとうございます。身に余るお言葉でございます」
声は澄んでいた。
控え室でクリスチーナに向けた声とは違う。
近さが消え、甘えが消え、かわりに品位と距離が乗っている。
正しい声。
正しい微笑み。
正しい間合い。
教師は満足げにうなずいた。
その横にいた貴族の夫人も、扇の陰で微笑む。
「さすがロイス家のお嬢様ですこと。まこと、希望の花と呼ぶにふさわしい」
「恐れ入ります」
マーリンはもう一度、礼をする。
深すぎず、浅すぎず。
相手を立てながら、自分の家格も損なわない角度。
美しい。
完璧だった。
完璧すぎて、クリスチーナの胸の奥が少し痛んだ。
マーリンはまだ、笑っている。
大講堂から続く喝采の残り香をまとい、廊下でもなお光の中にいる。
その一歩後ろを、クリスチーナは歩いた。
近すぎず、遠すぎない距離。
侍女として正しい位置。
主の邪魔をせず、必要な時にはすぐ手を伸ばせる場所。
それが、クリスチーナの場所だった。
マーリンの白い髪が、廊下の窓から差す光に揺れる。
その背中を見ていると、ふと遠い日の庭園がよみがえった。
初めてこの方に会った日も、白い髪は光を受けていた。
ただし、その時の髪飾りは少し傾いていた。
白い手袋には土がつき、礼装の裾には草の実がついていた。
そして足元には、分解途中の小型魔力計測器があった。
クリスチーナがマーリンと初めて対面したのは、十歳の時だった。
まだ侍女見習いで、背も低く、礼の角度も今よりずっと硬かった。
ロイス公爵家へ上がる前、彼女は何度も言い聞かされていた。
お仕えするのは、ロイス公爵家の姫君。
美しく、聡明で、礼儀正しく、帝国の希望と呼ばれるにふさわしい少女。
年齢に似合わぬ落ち着きがあり、誰から見ても非の打ちどころがない。
そう聞かされていた。
だから、クリスチーナは緊張していた。
とても緊張していた。
呼吸を間違えたら、ロイス家の床にひびが入るのではないかと思うくらい緊張していた。
もちろん、床にひびは入らない。
そんなことで割れる床なら、まず床の方が悪い。
けれど、十歳のクリスチーナには、それくらい世界が重かった。
ロイス公爵家の屋敷は、静かだった。
広く、磨き上げられ、どこもかしこも正しい。
廊下の絨毯はまっすぐで、壁の肖像画は少しも傾いていない。窓辺の花瓶に生けられた花でさえ、決められた角度で咲いているように見えた。
そんなはずはない。
花はそこまで従順ではない。
でも、そう見えた。
それほど、ロイス家の屋敷には整えられた空気があった。
案内役の侍女に連れられて、クリスチーナは庭園へ出た。
白い石畳。
左右対称に刈り込まれた植え込み。
季節の花。
小さな噴水。
教えられていた通り、美しい庭だった。
その美しい庭園の奥で。
白い髪の少女は、しゃがみ込んでいた。
礼装の裾に草の実をつけて。
白い手袋に土をつけて。
髪飾りを少し傾けて。
膝の前には、小型の魔力計測器が置かれていた。
置かれていた、というより。
ばらばらにされていた。
外装は外され、内部の小さな魔力導線が何本も露出している。ねじは白いハンカチの上に並べられ、細い金属片が太陽の光を受けてきらりと光っていた。
点検ではない。
掃除でもない。
分解だった。
しかも、かなり真剣な分解だった。
クリスチーナは、最初、状況が理解できなかった。
帝国の希望。
ロイス公爵家の姫君。
完璧な令嬢。
そのはずの少女が、庭園の奥で、侍女たちの目を盗み、小型の魔力計測器を分解している。
聞いていた話と違う。
かなり違う。
違いすぎて、どこから礼をすればいいのか分からない。
白い髪の少女は、近づく気配に気づいた。
はっと顔を上げる。
淡い瞳が、クリスチーナを見た。
一瞬、しまった、という顔をした。
それから、ものすごい速さで背筋を伸ばした。
「ごきげんよう」
声は澄んでいた。
表情も整っている。
それだけなら、確かに聞かされていた通りの令嬢だった。
ただし、手元には分解途中の魔力計測器。
白い手袋には土。
礼装の裾には草の実。
髪飾りは斜め。
隠せていない。
まったく隠せていない。
案内役の侍女が、短く息を吸った。
クリスチーナは、もっと固まった。
白い髪の少女は、さらに背筋を伸ばす。
完璧な令嬢の顔を作ろうとしている。
作ろうとしているのは分かる。
けれど、足元の計測器がすべてを裏切っていた。
「あなたが、新しく来る侍女見習い?」
「は、はい」
クリスチーナは慌てて礼をした。
「クリスチーナ=アリソンと申します」
その名を聞いた少女は、ぱっと表情を明るくした。
「クリスチーナ」
名前を呼ばれた瞬間、クリスチーナは背筋をさらに伸ばした。
「はい」
「長いわね」
「……申し訳ございません」
「謝ることではないわ。そうね、クリスと呼んでもいい?」
初対面である。
しかも、相手はロイス公爵家の令嬢である。
侍女見習いとしては、はい以外の選択肢はほとんどない。
「はい。お嬢様のお望みでしたら」
「では、クリス」
少女は嬉しそうに笑った。
その笑顔は、ほんの少し子供っぽかった。
そしてすぐに、足元の計測器を見下ろす。
「これは、その……調子が悪そうだったの」
調子が悪そうだった。
便利な言い方だった。
ただし、計測器はすでに外装を外され、内部まで露出している。
調子が悪そう、という段階はたぶん過ぎている。
「お嬢様」
案内役の侍女が、低い声で言った。
少女の肩がわずかに揺れる。
「壊してはいないわ」
「お嬢様」
「まだ」
「お嬢様」
「……少しだけ、構造が気になったの」
白い髪の少女は、観念したように言った。
少しだけ。
その言葉のわりに、部品の数が多い。
クリスチーナは、どう反応してよいのか分からなかった。
帝国の希望。
ロイス公爵家の姫君。
完璧な令嬢。
そのはずの少女は、好奇心に負けて叱られる覚悟をしている、年相応の少女だった。
少女は、クリスチーナの方をちらりと見る。
それから、礼装のポケットに手を入れた。
小さな包みが出てくる。
包みの中身は菓子だった。
「クリス」
「はい」
「甘いものは好き?」
クリスチーナは、包みと少女の顔を交互に見た。
まさか。
いや、まさかではない。
たぶん、口止めである。
ロイス公爵家の姫君が、初対面の侍女見習いに菓子で口止めしようとしている。
大事件だった。
少なくとも、十歳のクリスチーナにとっては、屋敷の床どころか天井までひびが入るくらいの衝撃だった。
「お嬢様」
クリスチーナは、どうにか声を出した。
「はい」
少女は、なぜか少し期待した顔をしている。
菓子を受け取ってもらえると思っている顔だった。
「まず、手袋をお替えくださいませ」
少女は瞬きをした。
「お菓子は?」
「その前に、手袋を」
「クリスは真面目ね」
「はい」
「そこは否定してくれてもいいのよ」
「手袋を」
少女は少しだけ拗ねた顔をした。
本当に少しだけ。
けれど、すぐに笑った。
「分かったわ」
その時の笑顔を、クリスチーナはよく覚えている。
完璧な笑みではなかった。
いたずらが失敗した子供の顔。
でも、叱られても楽しいものを見つけてしまった顔。
少し困ったようで、少し嬉しそうで、とても生きている顔だった。
少女は、土のついた手袋を外した。
クリスチーナは替えの手袋を受け取り、そっと差し出す。
細い指。
まだ幼い手。
けれど、その指先には分解した導線を扱った跡があった。
ただ守られるだけの手ではない。
何かに触れたい手。
知りたいものへ伸びる手。
その手を見た時、クリスチーナは思った。
この方は、守られるだけの令嬢ではない。
けれど、守られなくていい方でもない。
好奇心で庭園の奥まで行き、計測器を分解し、菓子で口止めしようとしてしまう。
止めなければならない。
叱られないよう守らなければならない。
でも、全部を閉じ込めてしまえば、この瞳の光まで消えてしまう気がした。
その時のクリスチーナには、まだうまく言葉にできなかった。
分かったのは、ひとつだけ。
この少女の一歩後ろに立つのは、きっと大変だ。
とても大変だ。
でも、嫌ではない。
むしろ少しだけ、胸が熱くなった。
白い髪の少女は、新しい手袋をはめると、背筋を伸ばした。
「クリス」
「はい」
「さっきのことは」
「魔力計測器の件でございますか」
「……言い方が具体的ね」
「事実でございます」
「そこを少しふんわりさせることはできない?」
「侍女見習いには難しいかと」
少女は頬を膨らませた。
ほんの一瞬。
それから、すぐに公爵令嬢の顔へ戻ろうとした。
戻りきれていなかった。
「では、ロイス家の機密ということで」
その言葉を、クリスチーナはずっと覚えている。
初めて会った日。
初めて口止めされかけた日。
そして、初めて思った日。
この方を守りたい、と。
廊下のざわめきが、クリスチーナを現在へ戻した。
マーリンは来賓の前で、穏やかに微笑んでいる。
白い髪は美しく整えられ、式服に草の実はついていない。
もちろん、手元に分解された魔力計測器もない。
目の前にいるのは、誰が見ても完璧なロイス公爵家令嬢だった。
それなのに、クリスチーナには一瞬だけ、庭園の奥で手袋を汚していた少女が重なって見えた。
「クリス」
小さな声がした。
マーリンは廊下を歩きながら、前を向いたまま呼んだ。
公の場では、あまり崩せない声。
それでも、クリスチーナにだけ届くように少し低い。
「はい、お嬢様」
クリスチーナは一歩後ろから返す。
「私、どこか乱れている?」
「いいえ」
「今、少し視線を感じたのだけれど」
「失礼いたしました」
「謝るほどのことではないわ。何を見ていたの?」
マーリンは歩みを止めない。
廊下の先には、来賓へ挨拶をするための広間がある。
周囲には教師も、生徒も、貴族たちもいる。
だから会話は小さい。
でも、確かに二人の間だけに落ちていた。
「少し、昔のことを思い出しておりました」
「昔?」
マーリンの声に、わずかに興味が混じる。
「初めてお嬢様にお会いした日のことを」
マーリンの歩幅が、ほんの少しだけ乱れかけた。
すぐに整う。
本当に、すぐ。
誰も気づかない。
クリスチーナ以外は。
「私、そんなに完璧に見えた?」
その問いは、少しだけ楽しそうだった。
同時に、少しだけ怖がっているようにも聞こえた。
クリスチーナは、すぐには答えなかった。
完璧。
聞かされていた話では、確かに完璧だった。
美しく、聡明で、礼儀正しく、帝国の希望と呼ばれるにふさわしい少女。
けれど、実際に会った時のマーリンは、庭園の奥で魔力計測器を分解していた。
白い手袋に土をつけて。
礼装の裾に草の実をつけて。
菓子で口止めを試みて。
完璧かどうかで言えば、かなり難しい。
「クリス?」
「初めてお会いした時から、お嬢様はお嬢様でした」
マーリンは横顔だけで、明らかに納得していない顔をした。
「それは答えになっているの?」
「なっております」
「もっと面白い答えを期待していたのに」
「面白いお話などございません」
「今の間が怪しいわ」
「ございません」
「二回言うともっと怪しいのよ、クリス」
マーリンは小さく笑った。
声は控えめだった。
廊下のざわめきに紛れる程度。
でも、クリスチーナには届いた。
壇上の希望の花とは違う。
少し子供っぽくて、油断していて、クリスチーナだけが知っているマーリンの顔。
横顔の端に、それがほんの少しだけ出ていた。
クリスチーナは、その顔を守りたいと思った。
ただし、彼女は自分の立場も理解している。
侍女であり、護衛であり、主の一歩後ろに立つ者。
髪を整えることはできる。
手袋を替えることはできる。
疲れに気づくことはできる。
冷えた指先を温めることもできる。
必要な時に支えることもできる。
けれど、ロイス公爵家の役割や帝国の期待そのものから、マーリンを連れ出すことはできない。
希望の花という呼び名を、廊下の向こうから消すこともできない。
拍手を止めることもできない。
大講堂に満ちたすべての視線を、代わりに受けることもできない。
守りたい。
でも、すべては守れない。
その事実を、クリスチーナはまだ深くは知らなかった。
知らないというより、知らないふりをしていた。
まだ、手を伸ばせば届くと思っていた。
一歩後ろにいれば、必要な時に支えられると思っていた。
「クリス」
マーリンがまた呼んだ。
「はい」
「さっきの私、ちゃんと希望の花に見えた?」
その問いは、軽い声で包まれていた。
けれど、中身は軽くなかった。
クリスチーナは、前を歩く背中を見る。
白い髪。
まっすぐな姿勢。
誰もが望む歩幅。
見えた。
見えすぎるほど見えた。
誰よりも美しく、誰よりも気高く、誰もが安心する形で。
だからこそ、少し怖かった。
けれど、今そのまま言葉にしてはいけない。
怖かった、とは言えない。
重かった、とも言えない。
「はい」
クリスチーナは静かに答えた。
「とても」
マーリンの肩が、ほんの少しだけ緩んだ。
安堵。
それを見た瞬間、クリスチーナの胸はまた痛んだ。
この少女は、希望の花に見えたかどうかで安堵してしまう。
本当は、花でなくてもいいはずなのに。
ただの少女でもいいはずなのに。
そう言いたかった。
言えなかった。
言えば、マーリンは困る。
困って、きっと笑う。
「よかった」
マーリンは小さく言った。
「皆がそう見てくださるなら、頑張れるわ」
「お嬢様」
「大丈夫よ、クリス」
まただ。
あまりにも自然に、その言葉が出る。
大丈夫。
マーリンはそう言う時ほど、大丈夫ではない。
クリスチーナは、もうそれを知り始めていた。
知り始めていることを、マーリンには言わない。
「ご挨拶の後、温かいものをご用意いたします」
「ええ。お願い」
「手も、もう一度温めましょう」
「そんなに冷たい?」
「少し」
「少しなら大丈夫よ」
「少しでも、でございます」
マーリンは横顔で笑った。
「クリスは厳しいわ」
「お嬢様が大丈夫とおっしゃる時は、少し厳しいくらいでよろしいかと」
マーリンは一瞬だけ黙った。
それから、ふわりと笑う。
「そういうところ、初めて会った時から変わらないのね」
「お嬢様もでございます」
「私も?」
「はい」
「では、私は昔から立派な公爵令嬢だったのね」
「……はい」
「今の間も怪しいわ」
「お嬢様」
「なあに」
「ご来賓の方々が見ていらっしゃいます」
その一言で、マーリンの表情が整う。
本当に、すぐだった。
先ほどまでの小さな笑みは奥へ隠れ、穏やかで隙のない微笑みが戻る。
廊下の先、広間の入口で、来賓たちが待っていた。
教師が紹介のために一歩進み出る。
マーリンは、そこへ迷いのない足取りで向かった。
その背中は美しく、気高く、誰もが望む公爵令嬢そのものだった。
クリスチーナは一歩後ろに続く。
そこが自分の場所だった。
近すぎず、遠すぎない場所。
主の邪魔をせず、必要な時に手を伸ばせる距離。
その距離を、クリスチーナは誇りに思っていた。
守ると決めた距離。
初めて出会った庭園で、土のついた手袋を差し替えた時から。
菓子で口止めされかけた時から。
この方は、守られるだけの令嬢ではない。
けれど、守られなくていい方でもない。
そう思った時から。
マーリンは広間の入口で立ち止まり、来賓たちへ美しい礼をした。
白い髪が、光を受けて揺れる。
誰かがまた、小さく囁いた。
希望の花、と。
マーリンは微笑む。
何も重くないように。
何も怖くないように。
ただ咲くことが当然であるかのように。
クリスチーナは、その一歩後ろに立つ。
守ると決めた。
髪を整え、手袋を替え、疲れに気づき、必要なら支える。
どんな時も、お嬢様の一歩後ろにいる。
その時のクリスチーナは、まだ知らない。
一歩後ろにいるだけでは、届かないものがあることを。
それでも今は、その一歩が彼女のすべてだった。
マーリンは振り返らない。
希望の花と呼ばれるための笑顔で、再び帝国の視線の中へ進んでいった。
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