ただ、それだけのはずだった
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文章多めとなっております。
「お嬢様」
控えめな声が、静かな部屋に落ちた。
マーリンは読みかけていた本から顔を上げなかった。
文字はもう、しばらく前から意味を結んでいない。
そうしていれば、少なくとも何かをしているように見えるからだ。
扉のそばに立っていたのはクリスチーナだった。
背筋はいつも通り伸びている。表情も穏やかだ。けれど、その声にはほんの少しだけ硬さが混じっていた。
「……また?」
「はい。帝国宇宙軍より、正式な使者が参っております」
「正式な、使者?」
「はい。正式な書状も携えているとのことです」
正式。
マーリンは心の中で、その言葉をそっと繰り返した。
最近、屋敷では似たような言葉ばかりが行き交っている。
要請。協力。帝国の未来。ロイス家の名誉。
どれも丁寧で、正しくて、断る側だけを悪者にする形をしていた。
シャルンホルストでの一件以来、宇宙軍からの使者は何度もロイス家を訪れていた。
事件直後に、一度だけ聴取を受けた。聞かれたことには答えた。
それなのに、宇宙軍は納得しなかったらしい。
それ以来、マーリンは直接会っていない。クリスチーナや屋敷の者が応対し、要件だけを聞いた。
言い方はその時々で違っても、答えはいつも同じだった。
お引き取りください――。
それで終わるはずだった。少なくとも、終わってほしかった。
けれど、彼らはまた来る。
丁寧に。礼儀正しく。まるでこちらの事情を十分に分かった上で、それでも扉を叩くことが正しいのだと言わんばかりに。
マーリンは、両手で本を閉じた。
「今度は、どなた?」
「これまでの連絡将校ではございません。宇宙軍作戦本部の方です」
マーリンは膝の上で指を組んだ。力を入れたつもりはなかったのに、指先が少し白くなっていた。
「……また、お断りして」
そう言いかけて、言葉が止まった。
いつもなら、それで済んだ。
会わなければいい。聞かなければいい。そう言って扉の向こうに追い返せばよかった。
けれど今は、その言葉がうまく出てこない。
断れば、また今日だけは終わる。
けれど、それだけだ。
ミハイルは、もう戻らない。
ふと、マーリンは窓辺に目を向けた。
花瓶の花は新しくなっていた。
朝食は冷める前に運ばれ、来客用の茶器はいつも通り磨かれている。
屋敷は、今日も何ひとつ間違えずに動いていた。
怒りが消えたわけではない。
ただ、泣き続けるにも、怒り続けるにも、屋敷の朝はあまりに正しく始まってしまった。
「お父様はなんと?」
マーリンが尋ねると、クリスチーナはわずかに目を伏せた。
「……お会いになるように、と」
その一言で、十分だった。
ゆっくりと息を吐く。
「分かったわ」
マーリンは立ち上がった。
クリスチーナが一瞬だけ、何か言いたげに唇を動かした。けれど、その言葉は形にならなかった。
マーリンは乱れてもいない袖口をそっと整える。
「行きましょう、クリス」
「……はい。お嬢様」
マーリンは一歩、部屋の外へ踏み出した。
応接室までは、そう遠くない。
それなのに、その先に続く廊下が、ひどく長いものに感じられた。
応接室へ向かうまでの廊下は、よく磨かれていた。
窓から差し込む朝の光が床に細く伸びている。
踏み出すたび、マーリンの靴音だけがやけに大きく聞こえた。
隣を歩くクリスチーナは何も言わない。
言いたいことはあるのだろう。けれど彼女は、それを表に出さなかった。
「クリス」
「はい」
「今日の方は、どのような方なの?」
歩きながら尋ねると、クリスチーナはわずかに視線を伏せた。
「帝国宇宙軍作戦本部所属、ギュンター=ドルニエ大佐と伺っております」
「……大佐」
これまで屋敷を訪れていたのは、連絡将校や調査官といった立場の者たちだった。
門前で断られれば帰る。書状を預ければ退く。少なくとも、そういう形を保っていた。
けれど今回は違う。
その階級が持つ重さを、マーリンは知らないふりができなかった。
「ずいぶん、大げさね」
「はい」
その短い返事だけで、マーリンは十分だった。
応接室の前には、すでにバトラーが控えていた。
「お嬢様。お待ちしておりました」
「お待たせしてしまったかしら」
「いいえ。先方には、しばしお待ちいただいております」
いつも通りの落ち着いた声だった。けれど、その目だけは静かに状況を測っている。
「お父様から、ほかに何か?」
「お会いになるように、とだけ」
それだけ。
会え、と命じられた。
マーリンは一度だけ、ゆっくり息を吸った。
胸の奥が冷たい。けれど、指先だけは妙に熱い。
「分かりました」
バトラーが扉に手をかける。
重厚な扉が、静かに開いた。
応接室の中には、二人の軍人がいた。
一人は年配の男性だった。無駄な飾りのない濃紺の軍服に、略綬と肩章だけがその立場を示している。
威圧的ではない。だが、長く軍にいた者特有の、感情を削ぎ落としたような静けさがあった。
もう一人は若い士官で、資料ケースを抱えていた。
二人はマーリンの入室と同時に立ち上がった。
「ロイス公爵令嬢」
年配の軍人が、深く礼をする。
「お初にお目にかかります。私は帝国宇宙軍作戦本部所属、ギュンター=ドルニエと申します。本日は――」
「挨拶は結構です」
声は、自分で思ったよりも落ち着いていた。
士官がわずかに目を見開いたが、ドルニエ本人は表情を変えなかった。
マーリンは室内へ進み、用意された席の前で立ち止まる。
「すでに、何度もお越しいただいていると聞いております。そのたびに、こちらの答えはお伝えしたはずです」
「はい。承知しております」
「でしたら、本題に入ってください」
言い終えてから、少しだけ胸が痛んだ。
以前の自分なら、もっと柔らかく言えたはずだ。
けれど今は、丁寧に傷つく余裕がなかった。
「失礼いたしました」
ドルニエは、わずかに頭を下げた。
最初からそう言われることを予想していたように見えた。
「では、本題に入らせていただきます」
マーリンが席につくと、ドルニエも腰を下ろした。
士官が資料ケースをテーブルに置き、留め具を外す。
かちり、という小さな音がやけに響いた。
「本日、我々が参りましたのは、先日のシャルンホルスト事件におけるロイス公爵令嬢の行動について、改めて確認を行うためです」
「その件については、すでにお話ししたはずです」
「はい。ですが、今回は事情聴取ではございません」
士官が薄い記録端末を取り出し、ドルニエの前に置いた。
「正式な協力要請のために参りました」
その言葉が、部屋の中に落ちた。
何度も聞いた言葉だった。
けれど、軍服を着た人間に真正面から告げられると、重さが違った。
「私は、軍人ではありません」
「承知しております」
「戦闘訓練を受けたこともありません」
「それも、承知しております」
「でしたら、なぜ」
声が少しだけ揺れた。
マーリンはすぐに唇を結ぶ。けれど、ドルニエはそこを責めなかった。
「ロイス公爵令嬢」
ドルニエは、静かに言った。
「我々は、あなたに無理を強いるために来たのではありません」
その言葉に、マーリンは思わず目を伏せそうになった。
何度も聞いた言葉だ。
やさしい顔をした言葉ほど、拒む隙をなくしていく。
「ただ、我々には確認しなければならないことがあります」
ドルニエは士官に視線を向けた。
士官が端末を操作すると、テーブルの中央に小さな立体映像が浮かび上がる。
青白い光の中に映し出されたのは、宇宙空間だった。
黒い宙域。散らばる光点。乱れる通信記録。
マーリンは息を止めた。
見覚えがある。
忘れられるはずがない。
「こちらをご覧ください」
ドルニエの声は、どこまでも静かだった。
「シャルンホルスト事件における、戦闘記録です」
テーブルの上に、青白い人形の輪郭が浮かんでいた。
映像の中で、人形が見えない糸に引かれるように敵機の間合いを外れる。
紙一枚ほどの差で、振り抜かれた刃は届かなかった。
マーリンは、その動きを知っていた。
自分が動かした。
そう思った瞬間、指先に嫌な熱が戻った。
魔力の糸が人形へ広がり、自分の身体ではないものが手足のように動いてしまう、そんな感覚だった。
「こちらは、シャルンホルスト事件で記録された戦闘映像です」
ドルニエが説明する。
「使用された機体は、当時、正規の調整が完了していない試作機でした。操縦者登録も不完全。動力系統にも、人形使いへ過大な魔力負荷を強いる問題があったと報告されています」
士官が端末を操作する。
映像の横に数値が並んだ。細かな意味は分からない。
けれど、それを見る軍人たちの目が変わった。
「それでもロイス公爵令嬢は、この試作機を起動させた。さらに、複数の敵性反応に囲まれた状況で、包囲を抜け、応戦しています」
「……あれは、そうするしかなかったからです」
マーリンは口を開いた。
言葉は、思ったより小さかった。
「はい」
ドルニエは、すぐに頷いた。
否定されなかったことが、かえって苦しかった。
「問題は、その当然の選択を、実際に実行できた者がロイス公爵令嬢であったという点です」
マーリンは覚えていた。
警告音が頭の内側で鳴り続け、赤い表示が瞬くたびに、今度こそ死ぬのだと思った。
けれど、映像の中の人形は迷っていない。
まるで最初から、どう動けばいいのか知っていたみたいに。
「止めてください」
気づけば、そう言っていた。
青白い人形が、敵機の懐へ滑り込む直前の姿勢で静止する。
マーリンは唇を引き結んだ。
見たくなかった。
けれど、目を逸らすこともできなかった。
自分が動かしたはずなのに、少しも自分には見えなかった。
「申し訳ありません」
ドルニエが言った。
「ですが、これを確認せずに話を進めることはできません」
「確認して、どうなさるおつもりですか」
「まずは事実を共有したいのです」
「事実?」
マーリンは小さく繰り返した。
ドルニエは頷き、士官に目配せする。士官は映像の一部を拡大した。
人形の軌道が線で表示される。
「青い線が、ロイス公爵令嬢の搭乗機です。そして赤い線が、敵機の軌道になります」
士官の説明は、丁寧だった。
「ご覧の通り、複数の敵機が包囲する形で接近しています。ですが、青い線はその隙間を抜けるように移動しています」
丁寧だったから、嫌だった。
恐怖も震えも吐き気も映らない。
見えるのは、線と数字だけだった。
「この回避運動は、通常の訓練課程を修了した正規の人形使いでも容易ではありません」
「私は、人形使いではありません」
「承知しております」
ドルニエが答えた。
「承知しているのなら、なぜそのように見るのですか」
少しだけ、声が鋭くなった。
クリスチーナが隣でわずかに身じろぎする。けれど、マーリンは止まらなかった。
「あれは戦果ではありません。私はただ、必死だっただけです。怖くて、何も分からなくて……それに、ムバラク船長がいらっしゃらなければ、私は何もできませんでした」
ドルニエはすぐに頷いた。
「それも把握しています」
「でしたら――」
「ですが、支援を受ければ誰でも同じことができる、という話ではありません」
マーリンは言葉を失った。
ドルニエの声は穏やかだった。
けれど、退く気配はない。
「恐怖の中で動ける者は多くありません。混乱の中で判断できる者は、さらに少ない」
「私は、判断なんて」
「しておられます」
マーリンは息を呑む。
「記録上は、そうなっています」
その言い方が、ひどく冷たかった。
責められてはいない。
逃がしてもらえないだけだ。
「……記録上は」
「はい」
ドルニエは静かに頷いた。
「ロイス公爵令嬢がどう感じておられたかとは別に、記録は残ります」
自分がどう感じたかなど関係なく。
残るのは、人形がどう動いたか。
敵をどう退けたか。
「こちらが、最後の交戦記録です」
士官が、映像を少し進める。
止めて、と言おうとした。
けれど声が出なかった。
青い光の人形が、敵の首領機へ向かう。
赤い軌道が乱れ、衝突寸前の距離で交錯する。
次の瞬間、表示の一つが消えた。
ヴュルガー。
その名を見ても、マーリンに迷いはなかった。
あの時、自分は正しいことをした。
ミハイルも、そう言ってくれた。
けれど、マーリンには、ただひどく寒いものに見えた。
「なお、戦闘終盤において、搭乗機には一部損傷が確認されています」
士官が端末を操作し、人形の損傷箇所を示す。
「ただし、機体損傷に至るまでの制御、および損傷後の姿勢維持は、極めて高い水準にあります」
ドルニエの声が、部屋に落ちる。
「この戦闘記録から、宇宙軍技術部および作戦本部は、ロイス公爵令嬢に極めて高い人形操縦適性があると判断しています」
「適性……」
「魔力出力、反応速度、空間把握能力。いずれも通常の候補生を超えています」
マーリンは、テーブルの上の青白い光を見つめた。
適性。
記録。
どれも、自分とは遠い言葉のはずだった。
けれどそれらは今、目の前に並べられている。
マーリンが何も言えずにいると、ドルニエが静かに口を開いた。
「可能性を、確認させていただきたいのです」
その言葉に、マーリンは目を伏せた。
なんてきれいで、なんて残酷な言葉なのだろう。
人は、誰かを戦場に立たせる時でさえ、こんなに美しい言葉を使えるらしい。
「……そうですか」
マーリンは小さく答えた。
自分の声が、自分のものではないみたいに遠かった。
「ロイス公爵令嬢」
ドルニエは、そこで一度言葉を切った。
青白い人形は消されていない。
戦闘記録。数値。軌道。可能性。
どれも目の前にあるのに、そこにマーリンはいなかった。
「我々は、あなたに戦場へ出ろと命じに来たわけではありません」
「では、何を求めていらっしゃるのですか」
マーリンは顔を上げた。
「正式な協力です」
「協力」
「はい」
ドルニエは頷いた。
「まずは適性の確認。必要であれば、機体との再接続試験。その後、宇宙軍技術部による分析にご協力いただきたい」
「それだけですか」
士官が、わずかに視線を動かした。
ドルニエは逸らさなかった。
「現時点では、それが正式な要請内容です」
マーリンは膝の上で手を握った。
「私は、これまで何度もお断りしてきたはずです」
「伺っております」
「それでも、いらっしゃるのですね」
「はい」
「なぜ、私なのですか」
「記録があるからです」
あまりにも早い答えだった。
「記録だけで、人を戦場へ近づけるのですか」
「その判断のために参りました」
「同じことではありませんか」
ドルニエは否定しなかった。
その沈黙だけで、十分だった。
「ロイス公爵令嬢。あなたのお気持ちは理解しているつもりです」
「理解?」
その言葉は、思ったより冷たく出た。
マーリン自身が、少し驚いた。
けれど止まれない。
「大佐は、私の何を理解していると仰るのですか」
ドルニエの眉が、わずかに動いた。
「失礼しました」
「いいえ。お答えください」
マーリンは視線を逸らさなかった。
「私は、戦いたくありません」
はっきりと言った。
言ってしまえば、部屋の空気が変わった。
公爵令嬢らしくない言葉かもしれない。
それでも、本当だった。
「私は軍人ではありません。人形使いでもありません。戦闘訓練を受けたこともありません。シャルンホルストでのことは、ただの偶然です。いえ、偶然でなかったとしても」
そこで一度、言葉が詰まった。
偶然でなかったとしても。
もし、あれが本当に自分の力だったとしても。
その続きが、少し怖かった。
「……それでも、私は、望んでいません」
ドルニエは黙って聞いていた。
「人形を動かした感覚を、覚えています。警告音も、赤い表示も、通信越しの敵意も、刃が迫る気配も。自分の指先が、自分のものではなくなっていくような感覚も」
青白い映像が視界の端で揺れている。
「……怖かったのです」
その言葉は、小さかった。
けれど、部屋の中でやけにはっきり響いた。
「とても、怖かった」
誰も口を挟まなかった。
だからマーリンは、言えた。
「私は、あれをもう一度やりたいとは思いません。誰かを殺したいとも思いません。敵を倒して褒められたいとも、帝国の役に立ったと讃えられたいとも思いません」
言ってから、マーリンは少しだけ目を伏せた。
そんなことを言える立場ではないのかもしれない。
「ですから、これまでお断りしてきました」
マーリンは、もう一度ドルニエを見た。
「それは、失礼にあたることだったのでしょうか」
「いいえ」
ドルニエは首を横に振る。
「あなたには、断る権利があります。しかし、断る権利があることと、我々が要請を続けることは、矛盾しません」
権利はある。
その上で、彼らは来る。
何度でも。
断るたびに、丁寧に頭を下げて。
そしてまた、扉を叩く。
「それは……優しい脅しのようですね」
マーリンが呟くと、士官が顔を上げた。
ドルニエだけは、表情を変えなかった。
「そう受け取られるのであれば、申し訳ありません」
「謝らないでください。謝られると、こちらがひどいことを言ったみたいになります」
少しだけ、沈黙が落ちた。
言ってから、自分の声に棘があったことに気づいた。
「失礼いたしました。少し、言い過ぎました」
マーリンは小さく頭を下げた。
「いえ」
ドルニエは首を横に振る。
「当然のご反応です」
マーリンは視線を落とした。
青白い人形。
数値。
軌道。
記録。
自分の恐怖が、誰かの資料になっている。
「私は、戦いたくありません」
もう一度、言った。
今度は確認のように。
自分自身に言い聞かせるように。
「それだけは、変わりません」
ドルニエは、ゆっくりと頷いた。
「承知しました」
その返事は短かった。
けれどマーリンには、そこに終わりがないことも分かっていた。
引き下がる言葉ではない。
次の言葉へ進むための、静かな区切りだった。
「変わらないと仰るなら、それで構いません。我々も、ロイス公爵令嬢のお考えを無視するつもりはありません」
「……そうでしょうか」
「少なくとも、そのつもりで参りました」
「では、どうして」
言いかけて、マーリンは口を閉じた。
同じ問いを、何度繰り返しても答えは変わらない。
ドルニエは士官に視線を向ける。
映像が切り替わった。
戦闘記録ではない。いくつもの宙域図と、細かな数値。
「こちらは、直近三か月の前線における交戦記録です」
赤い点が、星図の上に灯る。
ひとつ、ふたつ。
数えようとする前に、さらに増えた。
「……こんなに」
「表に出ているものだけです。機密に分類されているものを含めれば、数はさらに増えます」
「それを、なぜ私に」
「知っていただきたいからです。ロイス公爵令嬢がシャルンホルストで見たものは、戦場では珍しいものではありません」
珍しいものではない。
あの恐怖が。
あの混乱が。
赤い警告音が。
そして、誰かが戻らなくなることが。
「テルース王国との戦闘は、長期化しています。戦線は広く、すべての宙域に十分な戦力を回すことはできません」
「そのための宇宙軍ではないのですか」
「はい」
ドルニエは頷く。
「我々にも限界があります」
限界がある。
その言葉は、思ったより重かった。
「人形使いは足りておりません。優秀な者ほど前線で消耗します。補充も追いついていない。訓練中の候補生を予定より早く部隊へ回す例も出ています」
士官の顔が、わずかに強ばった。
それは、資料の中の数字ではない何かを思い出した顔だった。
「前線では、今も人が死んでいます。兵士だけではありません。輸送船団の護衛も、避難する者たちもです」
私のせいではない。
私は軍人ではない。
マーリンは何も言えなかった。
「ロイス公爵令嬢。我々は、あなたを英雄に仕立て上げたいわけではありません」
本当に、と言いかけて、マーリンはやめた。
「帝国の象徴として担ぎ上げたいわけでもない」
それは嘘だ。
そう思った。
けれどドルニエ個人が嘘をついているようには見えなかった。
彼はたぶん、本気でそう考えている。少なくとも、今この場では。
「ただ、あなたの力で救える命があるかもしれない」
救える命。
優しい響きのはずだった。
けれど胸に落ちた瞬間、その言葉は少しだけ黒い熱を帯びた。
ミハイルは、もう戻らない。
王国が奪ったものは、戻らない。
なら、次は。
次は間に合うかもしれない。
誰かを失わずに済むかもしれない。
奪われる前に、止められるかもしれない。
そして、許せない。
ミハイルを奪った戦争が。
その向こうにいる王国が。
その二つを、まだうまく分けられなかった。
だからマーリンは、黙っていた。
「……救える、命」
ようやく出た声は、ひどく頼りなかった。
「確約はできません。戦場に絶対はありません。あなたが協力してくださったとしても、すべてを救えるわけではない」
その正直さが、かえって残酷だった。
「ですが、救える可能性は増えます」
ドルニエは逃げなかった。
「一人でも。ひとつの船でも。届く手が増えれば、変わるものがあります」
マーリンは自分の手を見下ろした。
白い手。人形を動かした手が、誰かを救える手にもなる。
「私は、誰かを殺すために人形を動かしたいわけではありません」
「はい」
「戦果を挙げたいわけでもありません」
「承知しております」
「帝国の希望などと呼ばれることも、望んでいません」
「では、何を望まれますか」
マーリンはすぐに答えられなかった。
思い浮かんだのは、手の届かないものばかりだった。
もう戻らない朝のことまで、浮かんでしまった。
「……もう」
ぽつりと、声がこぼれる。
「もう、誰もあんなふうに失いたくありません」
言ってから、胸が痛んだ。
弱音だった。
願いだった。
言い訳だった。
そして、たぶん本音だった。
言葉にした瞬間、それはもうマーリンだけのものではなくなった。
ドルニエは、それを逃さなかった。
「そのために、協力をお願いしたいのです」
うまい言い方だと思った。
はっきりと言われたなら、拒めたかもしれない。
けれど、誰かを救うために、と言われれば。
もう誰も失いたくないという自分の言葉に重ねられれば。
拒む理由が、少しずつ形を失っていく。
「これは命令ではありません」
ドルニエの声が、少し低くなる。
「あなたには断る権利があります」
「……何度も聞きました」
「それでも申し上げます」
ドルニエは真正面から言った。
「我々は、あなたの意思を必要としています」
意思。
マーリンは目を閉じた。
戦いたくない。
誰も死なせたくない。
許せない。
逃げたい。
けれど逃げた先でまた誰かが死ぬかもしれない。
その矛盾が胸の中で絡まり、どれが自分の意思なのか分からなくなっていく。
「……適性を確認するだけ、と仰いましたね」
「はい。まずは適性確認です」
「その結果を見てからでも、断ることはできますか」
「もちろんです」
すぐに返ってきた答えだった。
すぐすぎて、かえって信じられない。
「本当に?」
「軍としては、正式にそのように扱います」
軍としては。
それ以上は、約束できないのだろう。
それでもマーリンは、その隙間を見なかったことにした。
「……少しだけ、考えさせてください」
ドルニエは深く頷く。
「もちろんです」
青白い人形が消える。
戦闘記録も、赤い軌道も、数字も消える。
けれど、一度見てしまったものは消えなかった。
マーリンの指先には、まだ熱が残っている。
胸の奥には、ミハイルのいない空白がある。
そしてそのさらに奥で、許せないという感情が、小さく息をしていた。
「考える時間は、必要でしょう」
「本日はこれ以上お時間をいただきません。ただ、正式な書状は提出させていただきます。内容をご確認のうえ、後日ご返答いただければ」
士官が、封蝋の押された書状をテーブルに置いた。
厚手の紙。帝国宇宙軍の紋章。整った形式。
ただの紙のはずだった。
けれどマーリンには、小さな鎖のように見えた。
「お父様にも、同じものを?」
「はい。ロイス公爵閣下宛にも、同様の書状をお届けしております」
やはり。
これはマーリン一人への要請ではない。
公爵家への要請だ。
「お嬢様」
扉のそばに控えていたバトラーが、静かに口を開いた。
「旦那様より、伝言を預かっております」
「……伺います」
「ロイスの名に恥じぬ判断を、と」
ロイスの名に恥じぬ判断。
何を選べば恥なのかは、言われなくても分かる。
「……そう」
クリスチーナがわずかに眉を寄せる。
けれど彼女は口を挟まない。
挟めない。
「返答を急がせるつもりはありません」
ドルニエは、書状を少しだけマーリンの方へ寄せた。
「いつまでに?」
「三日後までに」
「三日で、決めろと」
「適性確認を受けるかどうかを、です」
まずは確認だけ。
けれど、その先に続く道は見えている。
「もし、私が断ったら」
「そのご意思を記録し、上申いたします」
「それだけですか」
「軍としては」
また、その言葉。
「……分かりました。三日後までには」
ドルニエは深く頭を下げた。
「感謝いたします」
まだ何も受けていないのに。
その言葉で、マーリンは気づいてしまった。
考える。
検討する。
返答する。
どれも断りではない。
それだけで、彼らにとっては一歩進んだことになるのだ。
「……今日は、これでよろしいでしょうか」
「はい。本日はこれで失礼いたします」
ドルニエたちが退出の礼をする。
マーリンも立ち上がり、公爵令嬢として礼を返した。
その動きは、自分でも驚くほどきれいにできた。
扉が閉まる。
重い音が、部屋に落ちた。
テーブルの上には、封蝋の押された書状だけが残っている。
ドルニエたちが退出しても、バトラーは扉のそばに残っていた。
いつものように、静かに。
「お嬢様。旦那様より、追加のご伝言がございます」
その言葉だけで、胸が冷えた。
「伺います」
「返答を先延ばしにする必要はない、と」
室内が静かになった。
マーリンは、瞬きを一度だけした。
「……そう」
答えは、もう決まっている。
はっきりと言われたわけではない。
けれど、それ以外の意味に取りようがなかった。
「旦那様は、他にも?」
クリスチーナが尋ねた。
声は丁寧だった。けれど、わずかに硬い。
「いいえ。それだけでございます」
たったそれだけ。
たったそれだけで、人の行き先は変わる。
マーリンは書状に手を伸ばした。
硬く、冷たく、正しい形をしていた。
指先が触れる。
指先の感覚が、またかすかに戻った気がした。
魔力の糸。
赤い警告。
黒い宇宙。
青白い記録。
そして、戻らない人。
「お嬢様」
クリスチーナの声は、思いのほか強かった。
けれど、その先の言葉だけは飲み込まれた。
三日待っても、何も変わらない。
失いたくない。
許せない。
どちらが本当なのか分からない。
どちらも本当だから、分からない。
「もし」
マーリンは、書状を見つめたまま言った。
「もし、それで誰かが助かるのなら」
危うい理屈だと分かっている。
それでも、捨てられなかった。
「お嬢様」
クリスチーナの声が、少し震えていた。
「どうか、急いでお決めにならないでください」
それは、クリスチーナ個人の言葉だった。
マーリンはようやく彼女を見た。
クリスチーナは姿勢を崩していない。
けれど、その目だけが、いつもの冷静さを失いかけている。
その目を見て、胸が痛んだ。
「ありがとう、クリス」
「お嬢様」
「でも、三日考えても、きっと同じよ」
「そんなことは」
「あるわ」
マーリンは静かに言った。
マーリンは書状を見下ろす。
封蝋の紋章が、朝の光を受けて鈍く光っている。
「……適性確認を、受けます」
部屋の空気が、わずかに揺れた。
「軍務に就くわけではありません。戦場に出ると決めたわけでもない。今回お受けするのは、適性確認への協力のみです」
確認するだけ。
試すだけ。
どれも、扉を開くための言葉だった。
それでも、その言葉に縋った。
縋らなければ、立っていられなかった。
「バトラー」
「はい」
「宇宙軍にお伝えして。マーリン=ロイスは、適性確認への協力を受け入れる、と」
「かしこまりました」
バトラーは深く一礼した。
ロイス家は、こうして動く。
決まったことは、正しく進む。
「ただし」
マーリンは言葉を足した。
「これは、軍務を受けるという意味ではありません。あくまで適性確認への協力です。その点を、必ず明記してください」
「承知いたしました」
少しでも線を引きたかった。
まだ戻れる。
そう自分に言い聞かせるための線だった。
「お嬢様」
「大丈夫よ」
今度は、先ほどより少しだけ柔らかく。
「戦場に行くと決めたわけではないもの」
嘘ではない。
クリスチーナは何か言いかけて、結局、頭を下げた。
「……承知いたしました」
マーリンは窓の外を見る。
庭は相変わらず美しかった。
花は咲き、噴水は水を上げ、鳥が枝を揺らしている。
何も変わっていない。
ただ、一つの返答が決まっただけ。
それなのにマーリンには、自分が何かを失ったように思えた。
「……私にできることがあるのなら」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟いた。
それは決意に似ていた。
けれど、祈りにも、言い訳にも、そして敗北にも似ていた。
バトラーが部屋を出ていく。
扉が閉まる音は、ひどく静かだった。
それなのに、いつまでも耳の奥に残った。
応接室には、マーリンとクリスチーナだけが残される。
宇宙軍の書状は、まだ封蝋も切られていない。
中身も読まれていない。
それでも、返答だけが先に決まってしまった。
「お嬢様」
クリスチーナの声に、マーリンは振り向かなかった。
「怒ってる?」
「……いいえ」
返事は少し遅れた。
「怒ってなど、おりません」
嘘だ、とマーリンは思った。
けれどクリスチーナは、それ以上何も言わなかった。
その沈黙が、いちばん優しかった。
そして、いちばん痛かった。
マーリンは、手元の書状を見下ろした。
封蝋はまだ切られていない。
それなのに、もう中身を読んでしまったような気がした。
「これ、持っていくわ」
「お部屋へ?」
「ええ」
クリスチーナは一礼した。
応接室を出ると、廊下は相変わらず明るかった。
部屋へ戻る途中、窓の外に空が見えた。
澄んだ青だった。
それなのにマーリンは、その向こう側を見てしまう。
黒い宇宙。
青白い人形。
消えていく赤い表示。
戻らない人。
ミハイル。
名を呼びそうになって、やめた。
呼んでも、返事はない。
マーリンは書状を胸に抱えた。
「私にできることがあるのなら」
それは、決意ではなかった。
希望でもなかった。
自分を納得させるための呪文だった。
隣で、クリスチーナが何も言わずに歩いている。
その沈黙に守られながら、マーリンは廊下を進んだ。
扉の前で、マーリンは一度だけ立ち止まる。
適性確認。
ただ、それだけ。
ただ、それだけのはずだった。
けれど、どこか遠くで扉が開いたような気がした。
そしてその向こうから、冷たい宇宙の風が、音もなく流れ込んできていた。
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