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公爵令嬢の素顔

ご覧いただきありがとうございます。

扉が閉まると、拍手は少し遠くなった。


少しだけ。


完全には消えない。


厚い扉の向こうで、喝采はまだ続いている。貴族たちのざわめきも、教師たちの落ち着いた声も、若い生徒たちの弾んだ気配も、壁の向こうに薄く残っていた。


フルール・デスポワール。


希望の花。


ロイス公爵家のご令嬢。


さっきまで光の中で降っていた呼び名が、まだ空気に貼りついている。


控え室は、大講堂の横にある小さな部屋だった。


小さい、と言っても貴族用の控え室なので、普通の部屋よりは広い。壁紙は淡い金色で、帝国の紋章が控えめに織り込まれている。窓辺には白い花が飾られ、丸いテーブルには水差しとカップ、温められた布が用意されていた。


控えめ。


ただし、帝国貴族の控えめなので、よく見るとかなり高い。


椅子の脚の彫刻も細かい。


花瓶も、うっかり肘を当てたら心臓が止まりそうな値段に見える。


マーリンは、扉から少し離れた場所で、まだ背筋を伸ばして立っていた。


顔には微笑みが残っている。


壇上で、帝国旗と学園旗を背にしていた時と同じ、穏やかで、美しく、隙のない微笑み。


拍手が遠くなっても、それはすぐには消えない。


消してよい場所かどうか、身体がまだ判断していない。


あるいは、判断していても、癖が許してくれない。


控え室の扉のそばに控えていたクリスチーナが、静かに鍵を確認した。


小さな音がする。


かちり。


外と内側が、ほんの少しだけ切り分けられる音。


その瞬間、マーリンの肩から、わずかに力が抜けた。


本当に、わずかだった。


大講堂にいた者たちなら気づかない。


教師も、来賓も、上位貴族の子女たちも、たぶん気づかない。


けれど、扉のそばにいた侍女は気づいた。


「……クリス」


声は小さかった。


壇上で響かせていた澄んだ声とは違う。


年相応で、少し疲れていて、ほんの少しだけ甘えるような響きがある。


クリスチーナは、すぐに近づいた。


「はい、お嬢様」


その返事も、小さい。


外へ漏れないように。


けれど、お嬢様へは届くように。


クリスチーナは、マーリンの正面に立たず、半歩横へ入った。


侍女の位置。


邪魔にならず、必要ならすぐ手を伸ばせる場所。


「髪飾りを失礼いたします」


「乱れていたかしら」


「乱れてはおりません」


「なら、直す必要はないのでは?」


マーリンが少しだけ首を傾げる。


控え室の中で初めて、表情の端がゆるんだ。


クリスチーナは、銀の花を模した髪飾りへ指を添える。


「整っていても、整え直す理由はございます」


「難しいわね」


「お嬢様ほどではございません」


「私、難しい?」


「少々」


「少々なの?」


「侍女として申し上げられる範囲では、少々でございます」


マーリンは小さく笑った。


大講堂に向けた笑みとは違う。


上品な形を残してはいるけれど、目元が少しだけ幼い。


その一瞬で、控え室の空気がやわらかくなった。


クリスチーナは髪飾りをほんの少し動かした。


ずれていたわけではない。


演壇で乱れたわけでもない。


けれど、直す理由はあった。


そうしなければ、マーリンはいつまでも完璧な公爵令嬢の顔をしたままだったから。


白い手袋の指先が、かすかに動いた。


マーリンは自分の手を見下ろす。


講演台の縁に添えていた指には、まだ少し力が残っている。


さっきまで、そこに拍手が降っていた。


視線が降っていた。


期待が降っていた。


「希望の花、ですって」


ぽつりと言う。


言葉だけなら美しい。


けれど、マーリンの口から出ると、少しだけ困った響きになる。


「フルール・デスポワール」


クリスチーナは丁寧に繰り返した。


「皆さま、とても感銘を受けていらっしゃいました」


「ええ。聞こえていたわ。すり鉢状の講堂って、声がよく響くのね」


「お嬢様のご挨拶も、たいへんよく届いておりました」


「それはよかったわ」


マーリンは微笑んだ。


けれど、その笑みはすぐに少し困ったものへ変わる。


「でも、希望の花なんて」


白い手袋の指先が、空中で小さく揺れる。


花びらをつまもうとして、何もつかめなかったような動き。


「呼び名としては、少し大きすぎるわ」


クリスチーナは答えなかった。


否定すれば、嘘になる。


肯定すれば、重さを認めてしまう。


どちらも、今すぐには選びにくかった。


マーリンは窓辺へ歩いた。


控え室の窓からは、中庭が見えた。


整えられた花壇。


白い石の歩道。


噴水。


生徒たちが移動するための回廊。


そのすべてが美しい。


帝国貴族のために作られた学園。


見えるものは美しい。


見えないものは、もっと複雑だ。


家格。


派閥。


期待。


誰と親しく話すべきか。


誰の誘いを断るべきか。


どの家の子息にどれだけ笑いかければ、失礼にならず、近すぎもしないのか。


マーリンには、それが分かる。


分かってしまう。


どう振る舞えばよいか。


どの角度で微笑めばよいか。


どの言葉を選べば、ロイス公爵家の令嬢として正しいか。


できてしまう。


だから、やらない理由がなくなる。


「花と呼ばれるには、少し落ち着きが足りないと思うの」


マーリンは窓の外を見たまま言った。


「希望と呼ばれるには、怖がりすぎるし。帝国の象徴と呼ばれるには……」


そこで言葉が止まる。


クリスチーナは、少しだけ近づいた。


「呼ばれるには?」


マーリンは肩越しに振り返る。


困ったように笑った。


「胸の内側が、ずいぶん騒がしいわ」


それは、壇上のマーリンからは一切見えなかったものだった。


誰も知らない。


誰も知らなくていいと思われているもの。


けれど、クリスチーナには見えてしまう。


見えてしまった以上、知らないふりはできない。


「お嬢様のご挨拶は、お見事でございました」


クリスチーナは言った。


「ありがとう。でも、あれは少し……花というより、飾り棚の上に置かれた高そうな壺の気分だったわ」


クリスチーナがわずかに目を伏せる。


「お嬢様。たとえとしては、少々」


「だって、落としたら大変でしょう?」


マーリンは振り返って、小さく笑う。


その笑顔は、壇上のものよりずっと柔らかい。


完璧ではない。


けれど、こちらの方がずっと彼女らしかった。


クリスチーナは叱るべきか迷った。


侍女としては、たしなめるべきかもしれない。


公爵令嬢を高そうな壺にたとえるのは、かなり危うい。


ただ、本人が自分で言っているので、危うさが少し増している。


「お嬢様」


「はい」


「高そうな壺は、ご自分で歩いたり、お話しになったりはいたしません」


「では、私は壺より高性能ね」


「その方向で納得なさらないでくださいませ」


マーリンは口元を押さえて笑った。


今度は、少しだけ声が漏れる。


講堂へは届かない。


控え室の中だけに落ちる笑い声。


クリスチーナは、その音を聞いて胸の奥が少し緩んだ。


同時に、少し痛んだ。


こんなふうに笑う少女を、さっきまで大講堂のすべてが見上げていた。


誰もが帝国の希望だと信じていた。


でも、今ここにいるのは、高そうな壺に自分をたとえて、少し得意げに笑う少女だった。


その軽さは、長く続かなかった。


控え室の外を、誰かが通る足音がした。


革靴の音。


二人分。


近づいて、扉の前を過ぎる。


その瞬間、マーリンの姿勢が変わった。


背筋が伸びる。


顎の角度が整う。


目元に穏やかな微笑みが戻る。


指先の遊びも消えた。


窓辺に立つ姿は、すぐに公爵令嬢のものになる。


ほんの一呼吸。


それだけで、彼女は戻れる。


戻れてしまう。


足音が遠ざかるまで、マーリンは完璧だった。


扉の向こうの者は、きっと何も知らない。


この部屋の中で彼女が壺の話をしていたことも。


笑っていたことも。


希望の花という呼び名を少し持て余していたことも。


何も。


足音が完全に消える。


マーリンは、ゆっくり息を吐いた。


「……今の、聞こえたかしら」


「壺のお話でございますか」


「言わないで、クリス」


「申し訳ございません」


「声は小さくしていたはずなのだけれど」


「扉の外までは届いておりません」


「本当に?」


「はい」


「ならよかったわ」


ほっとしたように言ってから、マーリンは窓辺の椅子へ腰を下ろした。


腰を下ろす動きまで整っている。


疲れているはずなのに、雑にならない。


クリスチーナはそれを見て、胸の奥が少し痛んだ。


マーリンは守られるだけの少女ではない。


頭がよく、強く、周囲を見る目もある。


だからこそ、自分に求められているものを理解しすぎる。


逃げたいと言えない。


疲れたと言えない。


怖いと言えない。


言えば、きっと誰かが困るから。


困らせることを、彼女は嫌う。


ロイス家の令嬢として。


帝国の貴族として。


そして、たぶんそれ以前に、ひとりの少女として。


クリスチーナは、温められていた布を手に取った。


「お嬢様」


「なあに、クリス」


「お疲れではございませんか」


マーリンは少しだけ目を丸くした。


それから、ふわりと笑う。


「大丈夫よ」


その返事は軽い。


あまりにも自然で、聞き逃してしまいそうになるほどだった。


けれど、クリスチーナは聞き逃さない。


大丈夫。


マーリンは、そう言う時ほど大丈夫ではない。


もちろん、まだ入学式を終えただけだ。


大きな事件が起きたわけではない。


倒れたわけでも、泣いたわけでも、傷ついたわけでもない。


それでも、クリスチーナはその言葉の形を覚えた。


この人は、苦しくても先に笑う。


疲れていても、先に周りを安心させる。


手が冷えていても、大丈夫と言う。


いつか、この言葉を止めなければならない時が来るかもしれない。


そんな予感が、ほんの少しだけ胸を掠める。


クリスチーナは、その予感を表へ出さなかった。


「手をお預かりしてもよろしいでしょうか」


「そんなに冷たい?」


「少し」


「少しなら、大丈夫ではなくて?」


「少しでも、温めて悪いことはございません」


マーリンは困ったように笑った。


けれど、手を差し出す。


白い手袋を外すと、指先は思ったより冷えていた。


細い指。


壇上であれほど美しく講演台に添えられていた指。


今は少しだけ力が残っている。


クリスチーナは温かい布で、そっと包んだ。


「くすぐったいわ」


「動かないでくださいませ」


「クリス、少し厳しい」


「お嬢様が動かれるので」


「少しだけよ」


「その少しが、髪飾りにも手袋にも響きます」


「私、そんなに動いているかしら」


「はい」


「……公爵令嬢としては?」


「控え室の中では、多少」


マーリンは目を細めた。


「外では?」


「完璧でございました」


その言葉に、マーリンの表情がほんの少し緩んだ。


安堵。


それが見えた瞬間、クリスチーナの胸はまた痛んだ。


完璧でよかった。


そう思わせてしまうことが。


「よかった」


マーリンは小さく言った。


「本当に、よかった」


「お嬢様」


「ううん。だって、もしつまずいたり、言葉を間違えたり、礼の角度が変だったりしたら、皆、困るでしょう」


「皆さまが、でございますか」


「ええ。先生方も、来賓の方々も、ロイス家を見ている方々も。それから、私を希望の花と呼んでくださった方々も」


マーリンは布に包まれた指を見下ろす。


「期待してくださることは、ありがたいわ」


それは本当だった。


彼女は期待をすべて憎んでいるわけではない。


帝国の役に立ちたいと思う心もある。


ロイス家の名に恥じないようにしたいという誇りもある。


誰かに認められることが、まったく嬉しくないわけでもない。


ただ。


少し大きすぎる。


一人の少女の両手には、少しだけ余る。


「ねえ、クリス。学園って、もっと自由な場所だと思っていたの」


マーリンは窓の外へ視線を戻した。


「自由、でございますか」


「ええ。新しい教科書、新しい先生、新しい友人。知らないものがたくさんあって、きっと毎日退屈しないのだろうって」


「実際、退屈はなさらないかと」


「それはそうね。退屈する暇もないくらい、見られているもの」


マーリンは苦笑した。


その顔は少しだけ幼い。


けれど、次の瞬間にはまた公爵令嬢の形へ戻ろうとする。


戻らなくていい、とクリスチーナは思った。


思うだけだった。


言えない。


言えば、マーリンが困る。


困った顔で、また大丈夫と言う。


「でも、期待に応えられるなら、応えないと」


マーリンは静かに言った。


「できるなら、するべきでしょう?」


クリスチーナはすぐには答えられなかった。


それは正しい。


ロイス公爵家の令嬢として、貴族として、帝国の未来を担う者として。


正しい。


正しいから、止めにくい。


正しさは、時々とても冷たい鎖になる。


マーリンは自分の手を見る。


温かな布に包まれた指先は、少しずつ色を取り戻していた。


「希望の花なんて、少し大げさよね」


そう言って、彼女は笑う。


「でも、誰かがそう呼んで安心するなら、そう見えるように頑張るわ」


クリスチーナは胸の奥で、何かが沈むのを感じた。


守りたい。


この少女を、完璧な公爵令嬢ではなく、今みたいに少し困った顔で笑う少女のまま守りたい。


けれど、侍女である自分にできることは限られている。


髪を整えること。


身なりを整えること。


疲れに気づくこと。


必要なら、そっと支えること。


帝国の期待から、ロイス家の役割から、フルール・デスポワールという名から、完全に連れ出すことはできない。


その無力さを、クリスチーナはまだ知らないふりをした。


知らないふりをしなければ、今この場に立っていられない。


マーリンは立ち上がり、控え室の鏡の前へ向かった。


鏡には、完璧な公爵令嬢が映っている。


白い髪。


整った式服。


細い首筋。


穏やかな笑み。


誰もが期待する少女。


マーリンは、その鏡の中の自分をじっと見た。


そして、ほんの一瞬だけ、舌を出した。


子供っぽくて、公爵令嬢らしくない表情。


クリスチーナが目を細める。


「お嬢様」


「今のは見なかったことにして」


「難しいご相談です」


「では、ロイス家の機密ということで」


「それはますます見なかったことにはできません」


「クリスは融通が利かないわ」


「お嬢様のためでございます」


「便利な言葉ね」


「はい」


「認めるのね」


「はい」


マーリンは小さく笑った。


今度は、本当に楽しそうに。


その笑い声は控え室の中だけに落ちる。


講堂の外へは届かない。


帝国の誰にも聞こえない。


だからこそ、クリスチーナはその笑い声を大切に覚えておこうと思った。


温かい飲み物よりも。


高価な花瓶よりも。


完璧な挨拶よりも。


こちらの笑い声の方が、ずっと失くしてはいけないもののように思えた。


やがて、扉の外から控えめな声がかかった。


「ロイス嬢。来賓の方々へのご挨拶のお時間でございます」


次の挨拶。


次の来賓。


次の役目。


マーリンの笑い声は、すっと息を潜めた。


鏡の前で背筋が伸びる。


先ほどまでの少女は、ゆっくりと奥へ隠れていく。


代わりに、フルール・デスポワールが戻ってくる。


希望の花。


ロイス公爵家令嬢。


帝国の象徴。


クリスチーナは髪飾りを整え、礼装の襟元を直した。


本当は、もう整っている。


けれど、整え直す理由はある。


「お嬢様」


「ええ。行きましょう、クリス」


マーリンは微笑む。


完璧な、公爵令嬢の笑みで。


けれど扉へ向かう直前、彼女は少しだけ立ち止まった。


「……ねえ、クリス」


「はい」


「さっきの私、ちゃんと希望の花に見えた?」


クリスチーナはすぐには答えなかった。


見えた。


誰よりも美しく、誰よりも完璧に。


だからこそ、少し怖かった。


けれど侍女として、今返すべき言葉はひとつだった。


「はい。とても」


マーリンは安堵したように笑った。


「よかった」


その言葉は、ひどく小さかった。


扉が開く。


外の光とざわめきが、控え室の中へ流れ込んできた。


遠くで、まだ誰かが希望の花と呼んでいる。


マーリンはその声に向かって、もう一度歩き出す。


クリスチーナは一歩後ろに続く。


守りたいと思う。


けれど、どこまで守れるのかは分からない。


マーリンは振り返らなかった。


希望の花と呼ばれるための笑顔で、再び帝国の視線の中へ戻っていった。

ここまでお読みいただき有り難うございました。


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