壊れていない部屋
ご覧いただきありがとうございます。
王都中央ターミナルから学園までは、専用の連絡車で移動した。
連絡車、という言葉から私は小さな車を想像していた。
でも実際に来たのは、細長くて大きな乗り物だった。
窓が広く、座席がたくさん並んでいる。床は揺れず、変な音もしない。座席に座ると、柔らかすぎず硬すぎず、ちょうどよかった。
王都の乗り物は、椅子までちゃんとしている。
少し悔しい。
いや、何に対して悔しいのかはわからない。
セシリア様は私の隣に座っていた。
侍女の方は、荷物と一緒に少し後ろの席に座っている。
私の荷物は、足元の古いトランク一つだけだった。
周りを見ると、新入生らしい人たちは大きな鞄や、きれいな箱を持っていた。従者が別に運んでいる子もいる。
私はトランクを足で少し引き寄せた。
隠れるわけではない。
でも、なんとなく。
窓の外には、王都の街並みが流れていた。
高い建物。
広い道路。
空中を走る交通路。
遠くに見える塔。
どこも整っていて、どこも大きい。
プラットの町なら、道端で犬が寝ていた。
王都では、犬が寝る場所を探すだけでも大変そうだ。
「プラット様、大丈夫ですか?」
セシリア様が小さな声で聞いてくれた。
私は慌てて顔を向ける。
「はい。大丈夫です」
また大丈夫と言ってしまった。
でも今回は、少し本当に大丈夫だった。
たぶん。
「王都は、見るものが多くて……」
「最初はそうですよね。私も、初めて来た時は窓ばかり見ていました」
「ヒースロー様もですか?」
「ええ。兄に、口が開いていると注意されました」
セシリア様が少し恥ずかしそうに笑った。
私は思わず自分の口を閉じた。
開いていたかもしれない。
危ない。
王都は口まで開けさせる。
恐ろしい場所だ。
連絡車は、やがて大きな門の前で速度を落とした。
門には王立宇宙軍士官学校の名が刻まれていた。
濃紺の旗。
銀色の紋章。
剣と翼と星を組み合わせたような意匠。
それが学園の徽章らしい。
軍学校。
王立宇宙軍士官学校。
その文字を見ると、やっぱり胸がきゅっとなる。
でも門は、とても綺麗だった。
戦場の入口には見えなかった。
整えられた道。
広い庭園。
白い校舎。
遠くには訓練施設らしい建物も見える。
どれも大きくて、壊れていない。
壊れていないものが並んでいるだけで、少し落ち着かない。
どこか一か所くらい、床が抜けそうでもいいのに。
いや、よくない。
よくないけれど、慣れたものがないと不安になる。
連絡車が止まると、職員の方が乗り込んできた。
「新入生の皆さん、到着しました。荷物をお持ちのうえ、案内に従ってください」
声がよく通る。
でも怒鳴っているわけではない。
私はトランクを持ち上げた。
右腕が少し引きつる。
大丈夫。
すぐ降りられる。
セシリア様が私の手元を見た。
「お持ちしましょうか?」
「い、いえ。大丈夫です。ありがとうございます」
伯爵令嬢にトランクを持たせるわけにはいかない。
それに、自分の荷物は自分で持てる。
一つしかないから。
私たちは連絡車を降り、職員に案内されて校舎の中へ入った。
学園の中は、外よりもっと整っていた。
床がつやつやしている。
壁に傷がない。
天井に染みもない。
照明は全部同じ明るさで、廊下の端までまっすぐ光っている。
私は歩きながら、つい床を見てしまった。
抜けそうな板がない。
ぎしぎし鳴らない。
少し踏んで確かめたくなる。
でも、そんなことをしたら変な子だと思われる。
もう十分変な子かもしれないけれど、これ以上はよくない。
大きな講堂のような部屋に案内されると、すでに多くの新入生が集まっていた。
席は家名順ではなく、到着順らしい。
私はセシリア様の隣に座らせてもらった。
前方の壇上に、学園職員が数名並んでいる。
制服姿の人もいれば、事務職らしい服装の人もいる。
みんな姿勢がいい。
私も背筋を伸ばした。
伸ばしすぎて、少し肋骨のあたりが引きつった。
「本日は長旅、お疲れさまでした」
壇上の職員が話し始めた。
穏やかだけれど、よく響く声だった。
「皆さんには、これより入学に必要な端末、制服、寮の案内を順にお渡しします。明日からは正式な予定が始まりますので、本日は各自、寮で疲れを取るようにしてください」
疲れを取る。
いい言葉だと思った。
堂々と休んでいい、という意味だ。
家では、寝ている時も少し申し訳なかった。
ここでは休むことも予定に含まれているらしい。
すごい。
「明日は支給された制服を着用し、午前八時に中央講堂へ集合してください。入学式典の後、身体測定、魔力検査、適性検査を行います」
魔力検査。
その言葉だけ、他より大きく聞こえた。
私は膝の上で手を握った。
魔力。
測ったことはない。
家では、そんな検査を受けたことがなかった。
血液検査や骨の検査はたくさん受けた。
お姉さまたちのために、身体が使えるかどうかは調べられた。
でも魔力は違う。
測ったことがない。
知らない。
知らないはずなのに、私の中には白い光の記憶がある。
指先から伸びる糸。
人形の四肢を引く感覚。
マーリンの記憶。
もし、測られたら。
何か出てしまうのだろうか。
目立ってしまうのだろうか。
だめだ。
目立ってはいけない。
私は父に言われた。
身の程を弁えろ。
余計な力を見せるな。
でも、余計な力って何だろう。
私にそんなものがあるのだろうか。
ない。
ないはず。
私はローレッタ=プラットだ。
ただの男爵家の三女。
スペアとしても用済みになった、荷物の少ない新入生。
それだけ。
「プラット様?」
セシリア様の声で、私ははっとした。
「はい」
「お顔が少し」
「あ、すみません。少し緊張してしまって」
「明日は予定が多いですものね」
「はい」
嘘ではない。
緊張はしている。
とても。
壇上では、職員の説明が続いていた。
寮の規則。
外出許可。
食堂の利用時間。
消灯時間。
警備部と寮監による見回り。
端末の扱い。
講義での記録。
遅刻した場合の手続き。
一つひとつが、きちんと決まっている。
私は必死に覚えようとした。
でも途中で、全部は無理だとわかった。
ありがたいことに、説明は支給される端末にも入っているらしい。
端末。
それも支給される。
私は少しほっとした。
紙の案内だけで全部覚えろと言われたら、夜までに頭が粉になっていたと思う。
粉になった頭は、たぶん元に戻らない。
困る。
説明の後、新入生は列ごとに移動した。
まず、講義や記録に使う端末が配られた。
薄くて、軽い。
黒に近い濃紺の端末で、裏面に学園の徽章が入っている。
私は両手で受け取った。
落としたらいけない。
絶対に。
これ、いくらするのだろう。
考えない方がいい。
「初期設定は寮で行ってください。起動時に案内が表示されます」
「はい」
職員の方に返事をして、私は端末を鞄にしまった。
次に制服。
事前にプラットで採寸はしていた。
採寸に来た人が、屋敷の古さに少し驚いた顔をしていたのを覚えている。
その時は恥ずかしかった。
今も少し恥ずかしい。
でも制服は、きちんと用意されていた。
濃紺の上衣。
同じ色のスカート。
白いシャツ。
銀色の釦。
胸元には学園の徽章。
剣と翼と星。
宇宙軍の軍服に近いデザインだった。
かっこいい、と思う人もいるのだろう。
私には少し重く見えた。
布の重さではなく、意味の重さ。
これを着たら、私は軍学校の生徒になる。
正式に。
逃げ道がまた一つ閉じる気がした。
でも、制服そのものはとても綺麗だった。
布はしっかりしていて、縫い目も整っている。
お下がりではない。
私の寸法に合わせて作られている。
そのことに気づいた瞬間、胸が少し変な感じになった。
私のための服。
誰かのお下がりではなく。
私の身体に合わせた服。
そんなもの、ほとんど持ったことがない。
嬉しい、と思っていいのかわからなかった。
軍服に近い制服なのに。
戦いにつながるものなのに。
それでも、私のために用意されたものだと思うと、少しだけ手が震えた。
「プラット様」
担当の職員が、制服と一緒に封筒を渡してくれた。
「あなたは第三女子寮です。こちらに入寮案内と部屋番号が入っています」
「第三女子寮……はい。ありがとうございます」
封筒を見る。
第三女子寮。
私は寮というものに住んだことがない。
相部屋だろうか。
誰かと同じ部屋。
私は寝相は悪くないと思う。
でも、夜にマーリンの記憶でうなされたらどうしよう。
髪の根元を見られたらどうしよう。
染料の匂いで変に思われたら。
不安がいくつも浮かんでくる。
隣で制服を受け取っていたセシリア様が、自分の封筒を見て言った。
「私は第二女子寮でした」
「第二女子寮……」
「第三女子寮のすぐ隣の建物です。近いですね」
「そうなのですか?」
「ええ。食堂も同じですし、何かあれば声をかけてください」
私は一瞬、返事が遅れた。
何かあれば。
声をかけて。
そんなふうに言われると思っていなかった。
「ありがとうございます、ヒースロー様」
「こちらこそ。明日から、よろしくお願いいたします」
セシリア様は丁寧に頭を下げた。
私は慌てて頭を下げ返した。
よろしく。
そう言われた。
同じ新入生として。
少しくすぐったい。
でも、悪い感じではなかった。
第三女子寮は、白い外壁の綺麗な建物だった。
第二女子寮と並んで建っていて、間には手入れされた庭がある。
低い植え込み。
小さな噴水。
石畳の道。
どこも整っている。
雑草は少ない。
プラットの庭なら雑草がもっと元気に胸を張っていた。
ここの雑草は、たぶん生える前に見つかってしまうのだと思う。
少しだけ同情した。
寮の入口では寮監の女性が迎えてくれた。
背筋が伸びていて、目がよく動く人だった。
怖いというより、見落としがなさそうな人。
「第三女子寮へようこそ。皆さんは本日から、ここで生活します。規則は端末にも記載されていますが、わからないことがあれば必ず確認すること。勝手な判断はしないように」
「はい」
新入生たちの返事がそろった。
私も少し遅れて返事をした。
「消灯は早いですが、部屋の明かりが使えなくなるわけではありません。ただし、消灯後は学園警備部と寮監による見回りがあります。不要な外出、他室への出入りは禁止です」
見回り。
私は少しだけ安心した。
誰かが見ている。
それは少し窮屈だけれど、同時に安全でもある。
屋敷では、誰も見ていない場所がたくさんあった。
そのせいで階段から落ちた。
いや、それは私が西側の階段を使ったからだけれど。
でも、見回りがあるなら、床が抜ける前に誰かが見つけてくれるかもしれない。
……この寮の床は、そもそも抜けなさそうだけれど。
入寮手続きはすぐに終わった。
私は鍵を受け取り、案内された廊下を進む。
廊下も綺麗だった。
階段も軋まない。
床も沈まない。
手すりはしっかり壁についている。
私は思わず、手すりを軽く握った。
動かない。
すごい。
当たり前のことなのかもしれない。
でも、私には少し感動だった。
部屋は二階の端に近い場所だった。
扉の前で鍵を差し込み、回す。
かちゃり。
軽い音。
中に入って、私は立ち止まった。
個室だった。
相部屋ではない。
一人の部屋。
小さめだけれど、十分広い。
机。
椅子。
衣装棚。
寝台。
棚。
洗面台。
窓。
全部ある。
そして、全部が壊れていない。
天井に染みがない。
窓枠が歪んでいない。
床が抜けそうにない。
壁紙が剥がれていない。
私はトランクを持ったまま、部屋の真ん中でしばらく固まった。
ここに住んでいいのだろうか。
間違えて、上位貴族用の部屋に入ってしまったのではないだろうか。
でも鍵は合った。
部屋番号も合っている。
私はそっと寝台に近づいた。
布団がふかふかしている。
指で押すと、沈む。
すぐ戻る。
すごい。
もう一度押した。
戻る。
すごい。
三回目を押そうとして、やめた。
誰かに見られたら大変だ。
ふかふかの布団を確認しすぎる新入生になるところだった。
私はトランクを床に置いた。
荷ほどきは、すぐに終わった。
着替えを衣装棚へ。
お下がりのドレスを吊るす。
筆記用具を机へ。
入学案内と書類を棚へ。
お金は小さな袋に入れて、机の引き出しの奥へ。
染料も確認した。
ちゃんとある。
これが一番大事かもしれない。
最後に制服を手に取った。
濃紺。
銀の釦。
学園の徽章。
明日はこれを着る。
入学式典。
身体測定。
魔力検査。
適性検査。
魔力検査。
その言葉だけが、また胸に残った。
私は制服を丁寧に椅子の背にかけた。
明日、しわになっていたら困る。
目立つ。
それはだめ。
端末の初期設定をしようと思ったけれど、食堂の時間が近かった。
私は少し迷って、先に夕食へ行くことにした。
食堂の場所は、入寮案内に書かれている。
第二女子寮と第三女子寮の間を抜け、学園中央の食堂棟へ。
迷わない。
たぶん。
私は部屋を出る前に、もう一度だけ部屋を見た。
綺麗な部屋。
壊れていない部屋。
私だけの部屋。
胸が少し熱くなった。
怖いくらい、ちゃんとしていた。
食堂棟の前で、セシリア様と合流した。
約束したわけではない。
でも、入口の近くで私を見つけると、セシリア様はほっとしたように微笑んだ。
「プラット様」
「ヒースロー様」
「お部屋はわかりましたか?」
「はい。とても綺麗で、驚きました」
「第三女子寮も綺麗なのですね。第二女子寮も、思っていたより快適そうでした」
思っていたより。
伯爵令嬢の思っていたよりと、私の思っていたよりは、たぶん違う。
でも、どちらも快適なら良いことだ。
「食堂、ご一緒してもよろしいですか?」
私は勇気を出して聞いた。
言ってから、厚かましかったかもしれないと不安になった。
でもセシリア様はすぐにうなずいた。
「もちろんです。私も一人では少し心細かったので」
心細い。
セシリア様でも。
私は少し驚いた。
でも、同時に安心した。
私だけではないのだ。
食堂の中に入ると、私はまた立ち止まりそうになった。
広い。
天井が高い。
照明が明るい。
長いテーブルがいくつも並び、奥には料理がずらりと置かれている。
ビュッフェ形式。
入学案内に書いてあったけれど、実際に見ると意味が違った。
好きなものを取っていい。
たぶん、そういう仕組み。
でも本当に?
本当に好きなものを取っていいのだろうか。
決まった皿ではなく。
お姉さまたちと数を比べなくてもよく。
果物をひと切れ多く取って怒られたりしないのだろうか。
私は料理の並ぶ台を見つめた。
パン。
スープ。
肉料理。
魚料理。
野菜。
卵。
果物。
小さな焼き菓子まである。
軍学校と聞いて、私はもっと硬いパンと塩気の強いスープを想像していた。
兵士の食事。
黙って食べる場所。
そんな感じを想像していた。
でもここは、思っていたよりずっと明るい。
生徒たちは話しながら食事を選んでいる。
笑い声もある。
もちろん姿勢は良い人が多いけれど、空気は思ったより柔らかかった。
「種類が多いですね」
セシリア様が言った。
「はい」
私は真剣にうなずいた。
多い。
多すぎる。
これは試験かもしれない。
取りすぎると身の程を弁えていないと思われる。
少なすぎると体調が悪いと思われる。
普通。
普通の量を取らなければ。
普通ってどれくらいだろう。
私は周りの皿をちらちら見ながら、パンとスープ、少しの肉料理、野菜を取った。
果物は迷った。
とても迷った。
りんごの薄切りがあった。
つやつやしていた。
うまうまそうだった。
でも、取りすぎではないだろうか。
私がじっと見ていると、セシリア様が小さく笑った。
「果物、お好きなのですか?」
「えっ」
「とても真剣に見ていらしたので」
恥ずかしい。
私は顔が熱くなった。
「す、少しだけ」
「では取りましょう。長旅の後ですし」
セシリア様は自然に果物を皿へ取った。
私も、それに続いて薄切りを一つ取った。
一つ。
でも、とても嬉しい。
席に着いて、二人で食べ始めた。
スープは温かかった。
パンは柔らかかった。
肉はちゃんと味がした。
野菜も新鮮だった。
りんごは、しゃくっと音がした。
甘い。
「……うま」
言いかけて、止めた。
危なかった。
セシリア様がこちらを見る。
「お口に合いましたか?」
「はい。とてもおいしいです」
私は真面目に言った。
本当においしい。
食堂で毎日これが食べられるなら、食費が税で賄われるというのはすごいことだと思う。
税金。
誰かが払っているもの。
大事に食べなければ。
私はりんごの最後のひとかけまで、きちんと食べた。
食事中、セシリア様とは少しだけ話した。
王都のこと。
寮のこと。
明日の予定のこと。
セシリア様はやはり礼儀正しく、少しおとなしい。
でも話しにくい人ではなかった。
私が変なことを言っても、笑わずに聞いてくれる。
それがとてもありがたかった。
「明日の魔力検査、少し緊張しますね」
セシリア様が言った。
私はスプーンを持つ手を止めそうになった。
「ヒースロー様も、緊張されるのですか?」
「ええ。家で何度か測ったことはありますが、学園の正式な検査はまた別でしょうから」
家で測ったことがある。
やっぱり、普通はあるのだろうか。
私はない。
一度もない。
「プラット様は?」
聞かれて、私は一瞬迷った。
正直に言うべきか。
でも、嘘をつく理由もない。
「私は……ちゃんと測ったことがなくて」
「そうなのですか?」
「はい。家では、身体の検査の方が多かったので」
言ってから、少し説明が変だったかもしれないと思った。
セシリア様は不思議そうにしたけれど、深く聞かなかった。
「では、なおさら緊張しますね」
「はい。少し」
かなり。
とても。
すごく。
でも、少しと言った。
便利な言葉だ。
食事が終わる頃には、身体の疲れが急に重くなってきた。
乗り継ぎ。
王都。
学園。
説明。
寮。
食堂。
一日でたくさんのものを見すぎた。
頭の中が荷物でいっぱいだ。
私のトランクより重いかもしれない。
食事の後、セシリア様と別れて、私は寮へ戻った。
「また明日、中央講堂で」
「はい。ヒースロー様、今日はありがとうございました」
「こちらこそ。おやすみなさい、プラット様」
「おやすみなさい」
おやすみなさい。
誰かにそう言うのは、少し久しぶりだった。
言われるのも。
胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなった。
入浴を済ませて部屋に戻る頃には、消灯時間が近づいていた。
学園の浴場も、とても綺麗だった。
お湯がたっぷりあって、床が滑らず、壁にカビもない。
すごい。
ここは本当に軍学校なのだろうか。
王都の軍学校は、兵士を甘やかすのではなく、清潔に保つものなのかもしれない。
その方が病気にならない。
合理的。
たぶん。
部屋に戻ると、机の上に置いた制服が目に入った。
濃紺。
銀の釦。
徽章。
明日は、これを着る。
私は端末の初期設定を済ませた。
名前を入力し、学生番号を確認し、明日の予定を開く。
入学式典。
身体測定。
魔力検査。
適性検査。
文字で見ても、やっぱり魔力検査のところで目が止まった。
私は端末を閉じた。
見なかったことにはならない。
でも、今見続けても仕方がない。
消灯時間になると、廊下の照明が少し落ちた。
部屋の明かりは使える。
でも、案内通り、消灯後は静かにする必要がある。
しばらくして、廊下の向こうから足音が聞こえた。
規則正しい足音。
見回りだ。
学園警備部と寮監。
誰かが廊下を確認している。
私はベッドの端に座って、その音を聞いていた。
怖くはなかった。
むしろ、少し安心した。
この建物は壊れていない。
床は抜けない。
階段も軋まない。
誰かが見回っている。
私は一人だけれど、完全に放っておかれているわけではない。
そのことが、少し不思議だった。
私は髪の根元を確認した。
まだ茶色。
大丈夫。
それから制服をもう一度見て、ベッドに入った。
布団はふかふかだった。
沈む。
戻る。
体を包む。
私は思わず、息を吐いた。
「……すごい」
小さくつぶやく。
こんな寝台で寝たら、朝まで起きられないかもしれない。
それは困る。
明日は入学式典。
遅刻したら目立つ。
目立つのはだめ。
私は端末の目覚ましを確認した。
二回確認した。
不安になって三回確認した。
よし。
大丈夫。
私は明かりを落とした。
部屋は暗くなったけれど、窓の外には王都の光がぼんやり見えた。
プラットの夜とは違う。
暗いのに、明るい。
遠くで都市が息をしているみたいだった。
私は布団の中で手を握った。
明日。
魔力検査。
適性検査。
もし何か出たらどうしよう。
もし、私の中にある知らない記憶が、数字になってしまったら。
もし、白い光が見つかってしまったら。
父の声が蘇る。
目立つな。
身の程を弁えろ。
余計な力を見せるな。
私は目を閉じた。
大丈夫。
目立たない。
普通にする。
普通の結果になる。
たぶん。
そう言い聞かせた。
でも、眠りに落ちる直前、指先がほんの少し動いた。
見えない糸を探すみたいに。
私はその手を布団の中でぎゅっと握った。
明日は、何も起きませんように。
そう願った。
でも願いというものは、たぶん、聞き届けられない時ほど強く形になる。
明日の朝が来るのが、少し怖かった。
ここまでお読みいただき有り難うございました。
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