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彼女が戦う理由

ご覧いただきありがとうございます。

評価、ブックマークしていただきありがとうございます。


しばらく立て込んでおりまして更新が滞っております。申し訳ありません。


文章多めとなっております。

朝の光が、薄いカーテン越しに静かに差し込んでいた。


その白くやわらかな明るさに、マーリンはゆっくりと目を開ける。

けれど、目覚めたという実感はなかった。

眠っていたのかどうかさえ、よくわからない。

ただ、暗い水の底から無理やり引き上げられるような重さだけが、身体の内側に残っている。


眠ろうと目を閉じるたびに、浮かぶのは同じものばかりだった。

応接室の沈黙。

使用人の固い声。

ブライアンの低く静かな断言。

そして、最後に見たミハイルの笑顔。


何度も浅く意識が途切れた気はする。

だが、そのたびに胸の奥に沈んだ痛みだけが、眠りより先に目を覚ました。


マーリンはしばらく天蓋を見上げたまま動かなかった。


朝が来てしまったのだと思う。


目が覚めたら何もかも元に戻っていて、ミハイルの訃報など誰かのひどい間違いだったと、そんな都合のいいことは起こらなかった。


そのことが、寝起きのぼんやりした意識にじわじわと染み込んでくる。


ミハイルは死んだ。

王国側が動いた。

狙われた。


昨夜、胸を満たしていた怒りは、朝の光の中で少しだけ輪郭を失っていた。

けれど、消えたわけではない。

鈍い熱のまま、胸の底へ沈んでいる。


マーリンは寝台の上でゆっくりと手を握った。


自分の指先は冷たい。

その冷たさが妙に生々しくて、ようやく本当に朝なのだと知る。


けれど今日は、何も考えられなかった。

今日が何曜日なのかさえ、すぐには思い出せない。

講義があるのか、予定が入っているのか、そんなことはどうでもよかった。


世界は、何事もなかったように今日を始めている。


どうして世界はこんなふうに朝を迎えられるのだろう。

どうしてミハイルがもういないのに、窓の外の空はこんなにも穏やかなのだろう。


ぼんやりとそんなことを考えながら、マーリンは半身を起こした。


その拍子に、胸元で小さなものが触れた。

お守りと対になる飾りだった。


昨夜は、それを握ったまま泣いた。

涙が枯れるほどではなかったけれど、静かに、声も立てずに、ただ途切れなく涙を流した。

その痕はもう乾いている。

けれど、涙を流したという事実だけが、目の奥に重たく残っていた。


マーリンはそっと飾りを指先で包む。


冷たい感触。

小さく、軽いはずなのに、今はそれがひどく重たく感じられる。


ミハイルに渡したものと対になる印。

無事を願って渡したもの。

持っていてくれたら、少し安心するからと、そう言って差し出したもの。


それを思い出した瞬間、胸の奥がまた鋭く軋んだ。


あれは届かなかったのだろうか。

願いは、守りにはならなかったのだろうか。


そんなふうに考えたところで意味がないと、頭ではわかっている。

それでも、心は勝手にそういうところへ向かってしまう。


マーリンが、視線を落としたまま長く息を吐いたそのとき、静かに扉がノックされた。


「お嬢様。お目覚めでいらっしゃいますか」


クリスチーナの声だった。


いつもと変わらぬようでいて、ほんのわずかに慎重な響きを含んでいる。

そのわずかな違いだけで、昨日までと同じ朝ではないのだと、改めて思い知らされる。


「……ええ」


返した声は、自分でも驚くほど掠れていた。

少し間を置いてから、扉の向こうでクリスチーナが静かに告げる。


「ご気分が優れないようでしたら、少しお休みになっても」


その言葉に、マーリンは目を閉じた。


休む。


休んだところで、何が変わるのだろう。

目を閉じても、眠っても、何をしても、ミハイルは戻ってこない。


「……いいえ」


マーリンは小さく首を振る。

それから自分でも驚くほど静かな声で続けた。


「起きるわ」


その言葉は、立ち直りの宣言でも何でもない。

ただ、今日という一日から逃げきることはできないと知った人間の、かすかな応答にすぎなかった。


けれど、それでもなお声にしてしまえば、少しだけ身体の輪郭が戻ってくる気がする。


マーリンは寝台の縁に足を下ろした。


冷たい床に足先が触れた瞬間、胸の奥に沈んでいた痛みがまた小さく疼く。

だが、それと同時に、昨夜から消えずに残っている熱の存在も、確かにそこにあった。


悲しみは、まだ消えていない。


朝の光の中でその二つは静かに重なり、マーリンの胸の底へ沈んだまま、次に来るものを待っているようだった。



身支度を整えたあと、マーリンはバトラーに伴われて部屋を出た。


磨き上げられた廊下の向こうで、使用人たちの足音が静かに行き交っていた。

一見いつも通りの朝なのに、その静けさの底に張りつめたものがあることくらい、今のマーリンにもわかった。


案内されたのは、ロイス公爵の私室だった。

重厚な扉の前で、バトラーが一礼する。


「旦那様がお待ちです」


マーリンは小さく息を吸い、入室の許可を受けて中へ足を踏み入れた。


ピ、ピーッ、シュー、シュー……。


規則正しく繰り返される機械の動作音の中、寝台に身を預けたまま、ロイス公爵は半身だけをわずかに起こしていた。


濁りきった眼球が、ゆっくりとこちらを向く。その視線だけは少しも弱っていない。


「……来たか」


最初に落ちたその声は、喉の奥を引きずるようにしわがれていた。

肉体の衰えを隠しようもない声だったが、その短い一言だけで、この部屋の主がなお父であることを思い知らされる。


「はい、お父様」


マーリンは進み出て一礼した。

バトラーは扉の脇へ控える。


ロイス公爵は娘の顔を見た。


「……体調は」


それは気遣いではない。

ただ、使い物になる状態かどうかを測るための問い。


「問題ありません」


答えた自分の声が、妙に平坦に聞こえる。

ロイス公爵は小さく鼻を鳴らした。


マーリンは膝の前で手を重ねたまま、次の言葉を待つ。

待ちながら、その短いやり取りだけで、ここに求められているものを理解していた。


ロイス公爵家の令嬢として、命令を受けられる状態でいること。

それだけだ。


「評議会からの正式な報は、すでに各家にも共有されている」


ロイス公爵は感情を交えずに言った。


「……和平交渉の決裂。随行者の死亡。いずれも帝都では今日中に広く知れ渡るだろう……」


その言葉を聞くだけで、胸の奥が小さく軋む。

ミハイルの死が、ひとつの報告として、ひとつの政治的事実として、すでに流通し始めている。

わかっていたはずなのに、改めて父の口から告げられると、その冷たさがいっそう際立った。


「……学園は本日以降、しばらく休め」


マーリンは顔を上げた。


「……休め、ですか」


「……余計な憶測の的になる必要はない」


ロイス公爵の声音は静かだった。


「……今のお前が表へ出れば、無用な接触が増える。……表向きは体調不良で通せ」


短く、断定的な命令だった。

ロイス公爵が視線だけをバトラーへ向ける。


「……手配しろ」


「かしこまりました。学園へはそのように伝達いたします」


短いやり取りのあいだに、マーリン自身の意思が入る余地はほとんどない。

それでも反論しようとは思わなかった。

今の自分が表へ出れば、何かを言われるたびに、あるいは哀れみの視線を向けられるたびに、まともでいられる自信がなかった。


ロイス公爵は、脇の端末へ視線を落としたまま続ける。


「……ルフトハンザ男爵家にも使者を出してある。必要な形式は、滞りなく処理させる」


形式。


その言葉が、妙に鋭く耳に残る。


家同士の連絡も、弔意の表明も、事務的な手続きも必要なのだろう。

それでも今のマーリンには、その冷静さがひどく遠く感じられた。


「……お父様」


気づけば、そう呼んでいた。


ロイス公爵は目だけを向ける。


マーリンは唇を開きかけ、けれどすぐには続けられなかった。


少しでも惜しいと思っているのか。

それとも、本当にただの()()()()()()()としか見ていないのか。


だが、そのどれを問うても、返ってくる答えが自分の望むものではないことも、同時にわかっていた。

それでも、口に出してしまったのは別の問いだった。


「……王国との戦争は、どうなるのですか」


ロイス公爵の視線が、わずかに鋭さを増す。


「……決裂した以上、事態は悪化する」


簡潔だった。


「……局地衝突では済まん。軍もすでに動いている」


その言葉に、マーリンの胸の奥で昨夜から消えずにいた熱が小さく揺れる。


軍が動いている。

王国との戦争は、終わるどころか、むしろ深まっていく。


ミハイルが止めようとしていたはずのものが、結局は止まらなかったのだ。


バトラーが、主の言葉を継ぐように静かに口を開いた。


「宇宙軍も、例の件を本格的にご検討いただきたいと」


ロイス公爵は否定しなかった。


「……以前から打診は来ている。断り続けてきたが、今後はそうもいかん」


その一言に、マーリンの指先がかすかに強張る。


宇宙軍。

例の件。

これまで先延ばしにされていた話が、いよいよ現実として迫ってきている。


ロイス公爵は、マーリンを見た。


「……お前の力を求める声は、今後さらに強まる」


それは誇りでも期待でもない。

ただ見通しとして述べられた言葉だった。


「……もっとも、すぐに返答はさせん。まずは、整理すべきことがある」


バトラーが、必要最小限の補足を加える。


「旦那様のお考えでは、現時点では軽々に応じるべきではないとのことでございます。各方面との調整が先になるかと」


その口調はあくまで穏やかだったが、内容に余地はなかった。

マーリンは俯き、膝の上で手を握った。


「……そんな……」


思わず零れかけた声は、すぐに飲み込んだ。


ロイス公爵の濁った視線が細くなる。

鼻から短く息が漏れた。


「ふん。……お前の気持ちなど、どうでもよい」


その一言が、まっすぐ胸に刺さる。


「……ロイスの総意として、お前は役目を違えるな。必要なのは感情ではない」


冷たい命令だった。

娘の悲しみも、喪失も、その前では優先されない。


マーリンは唇を噛み、視線を落とす。


「ロイスには、まだお前の働きが要る」


その言葉に、胸の奥で何かがわずかに軋んだ。


使われる。

求められる。

それは愛されることとはまったく違う。

だが、ロイス公爵家の娘として育てられてきたマーリンには、その差を飲み込んだまま黙っていることしか許されてこなかった。


「……下がれ」


最後にそう言われ、マーリンは静かに立ち上がった。

一礼し、踵を返す。


部屋を出る直前、背後でロイス公爵の低い声がもう一度だけ響いた。


「……マーリン」


足が止まる。


「自分の、役割を忘れるな」


振り返ることはしなかった。

できなかった。


その言葉は慰めではない。

支えでもない。

けれど今のマーリンにとっては、奇妙な形で胸に沈んだ。


ロイスの娘。

泣き崩れることも許されず、弱さを抱えたままでも前へ立たなければならない立場。


その冷たい現実だけが、ミハイルを失った朝の中で、ひどく鮮明に輪郭を持ちはじめていた。



部屋を出たあとも、ロイス公爵の言葉は胸の奥に重く残っていた。


自分の役割を忘れるな。


慰めではなく、命令。

娘へ向けるものではなく、ロイス公爵家の一員へ向ける確認。


マーリンは何も言わず、外で待っていたクリスチーナとともに廊下を戻った。


けれど私室の前まで来たところで、クリスチーナはすぐに扉を開けようとはしなかった。

その手が、扉の前でほんのわずかに止まる。


マーリンはその躊躇に気づき、ゆっくりと顔を上げた。


「……どうしたの」


クリスチーナは一瞬だけ視線を伏せ、それから静かに答えた。


「お嬢様に、お渡しすべきものがございます」


その声色だけで、胸の奥がひやりと冷えた。


私室に入ると、机の上に細長い箱がひとつ置かれていた。

飾り気のない、実務用の保管箱だった。

貴族家に届けられる贈答品のような体裁ではない。

誰かの手を渡り、確認され、分類され、そのうえでここへ届いたものだと一目でわかる。


「現地から回収された所持品の一部、とのことでございます」


その言葉に、部屋の空気がわずかに遠のいた気がした。


意味はわかるはずなのに、それが現実として胸に落ちてこない。


マーリンはゆっくりと机へ歩み寄った。

指先が冷たくなっている。

箱の前に立っても、すぐには手を伸ばせなかった。


クリスチーナが、そっと蓋を開く。


中に収められていたものは多くなかった。

タグ。

何かの破片。

そして、小さな布包み。


その布の色を見た瞬間、マーリンの呼吸が止まる。


深い藍色。


見覚えがあった。

あるはずだった。

見間違えるはずもなかった。


マーリンの指先が、震えながらその包みへ伸びる。

触れた途端、布越しにもわかる形があった。


お守りだった。


自分が渡したもの。

東方宙域の習わしだと聞いて、無事を願って持たせたもの。

持っていてくれたら、少し安心するからと、そう言って差し出したもの。


それが、今ここに戻ってきている。


「……っ、うそ」


囁くように漏れた声は、声になりきらなかった。


マーリンは包みを両手で持ち上げた。

布を開く指先がうまく動かない。

何度かもつれ、それでもようやく結び目をほどく。


中から現れた飾りは、見送りの朝に渡した時のままだった。

大きく壊れているわけではない。

血がついているわけでもない。

ただ、確かにミハイルが持っていたはずのものが、もう彼の手の中にはなく、ここへ返されてきた。


それだけで十分だった。


「……嫌」


その一言が、ほとんど無意識に零れた。


やめてほしい。

見たくない。

受け取りたくない。

こんな形で戻ってくるなんて、認めたくない。


けれど目は逸らせなかった。


別れ際の光景が鮮やかに蘇るほど、掌の中の小さな飾りが現実の残酷さを突きつけてきた。


「お嬢様……」


クリスチーナの声が、ひどく遠くから聞こえた。


マーリンは首を振ろうとした。

まだ平気だと。

大丈夫だと。

そう言いたかったのに、喉の奥が詰まって、息すらうまくできない。


必ず帰ってくる、と言っていた。

帰ってきたら、また出かけようとも言っていた。

なのに、戻ってきたのはこれだけだった。


たったこれだけ。


その瞬間、膝の力が抜けた。


マーリンは机に片手をつこうとして間に合わず、その場に崩れ落ちる。

飾りを落とすまいと両手で抱え込んだまま、絨毯の上に膝をついた。


「お嬢様!」


クリスチーナが駆け寄る気配がした。

けれど、もう何も保てなかった。


「どう、して……」


掠れた声が、みっともないほど震える。


「どうして、これが……っ」


言葉の続きにならない。

喉の奥から漏れるのは、意味を成さない息と、押し殺し損ねた嗚咽ばかりだった。


お守りを握る指に力が入る。

掌に金具が食い込む。

その痛みさえ、もう止めにはならない。


「やだ……いや……」


令嬢として整えた声ではなかった。

父の前では飲み込み、他人の前では隠してきたものが、今はもう形もなく崩れていく。


「返して……かえしてよ……」


その一言が零れた途端、涙が堰を切った。


静かに流す涙ではない。

抑えようとしても抑えきれず、呼吸を乱し、言葉を壊しながら溢れてくる涙だった。


「ぅくっ!……ミーシャを……返して……!返してよ!」


両手でお守りを抱え込んだまま、マーリンは俯いて泣いた。

肩が震える。

嗚咽が止まらない。

息を吸うたびに胸の奥が裂けるように痛む。


この小さな飾りだけが、ミハイルはもう戻らないのだと告げていた。


「やだ……っ、やだ……やだよ、ミーシャ!」


子どものように同じ言葉しか出てこない。

どうして、の答えも。

返して、の願いも。

叶うはずがないと、どこかではわかっている。


それでも、そう言わずにはいられなかった。


クリスチーナはすぐそばに膝をついたまま、無理に触れようとはしなかった。

ただ、いつでも支えられる距離で、マーリンが崩れるのを見守っている。


その気遣いが、かえって優しかった。


マーリンは額が絨毯に触れるほど深くうずくまり、飾りを胸元へ抱き寄せた。


こんなに小さなものなのに、今はそれだけが、ミハイルが確かに存在していた証のように思えた。

笑顔も、ぬくもりも、あの幸福も、その全部がこのお守りの向こう側にある。


なのに、その持ち主はもういない。


その事実が、ようやく逃げ場なく、痛みとして身体の中へ入り込んできていた。



どれほど泣いたのか、わからなかった。


嗚咽が少しずつ弱まり、息が乱れたまま、ようやく涙だけが細く続く頃になっても、マーリンはまだお守りを離せなかった。

離してしまえば、本当に何も残らない気がした。


泣き崩れたまま、絨毯の上で小さく身を縮めるマーリンを、朝の淡い光だけが静かに照らしていた。


気がつけば、嗚咽は途切れがちになっていた。

けれど呼吸はまだ浅く乱れていて、胸の奥には鈍い痛みが残り続けている。


マーリンは絨毯の上に膝をついたまま、しばらく動けなかった。

両手の中のお守りだけは、なお強く握りしめている。


やがて、そばに控えていたクリスチーナが、そっとハンカチを差し出した。

マーリンはすぐには受け取れなかったが、少ししてからようやく震える指でそれを取る。


「……ありが、とう」


掠れた声だった。

令嬢として整えられた声音からはほど遠い。

けれど今のマーリンには、それを恥じる気力も残っていなかった。


クリスチーナは何も言わなかった。

慰めの言葉も、落ち着いてくださいという声もない。

ただ、それ以上壊れぬよう静かに待っていてくれる。


マーリンは涙に濡れた頬を拭い、ようやくゆっくりと息を整える。


泣いたからといって、痛みが消えるわけではない。

喪失が軽くなるわけでもない。

むしろ、さきほどまで言葉にもできなかったものが、はっきりと輪郭を持って胸の中へ沈んだだけだった。


ミハイルはもう戻らない。


その現実が、今はいやになるほど確かだった。

それでもなお、完全に崩れきれなかったのは、胸の奥に別の熱が残っていたからかもしれない。


王国側が動いた。

交渉を壊すための動きだった。

ミハイルは最後まで収めようとしていた。

だからこそ、狙われた。


ブライアンの言葉が、ひとつずつ、泣ききったあとの静かな頭の中へ戻ってくる。


さきほどまでは、ただ痛かった。

ただ苦しくて、ただ返してほしくて、それしかなかった。

けれど涙が一度決壊したあとでは、その言葉は別の重さを持って沈んでいく。


その考えが、胸の奥へゆっくりと()を張り始める。


マーリンはハンカチを握ったまま、視線を落とした。

膝の上には、お守りと対になる飾り。

掌の中には、ミハイルが持っていたはずのそれ。


最後まで収めようとしていた人が死んだ。

争いを止めようとしていた人が狙われた。


その事実が、悲しみだけでは収まらない形を取り始めている。


「……王国が」


かすれた声が、小さく零れた。


なぜミハイルが死ななければならなかったのか。

なぜ最後まで争いを止めようとした人が、そういう形で奪われなければならなかったのか。


問いの先には、もう漠然とした闇ではなく、ひとつの影がある。


王国。


その名を思うだけで、胸の奥がひどく冷たく、そして熱くなる。


マーリンはゆっくりとお守りを胸元へ引き寄せた。


ミハイルの死は、まだ大きすぎて、すべてを整理することはできない。

ブライアンの言葉がどこまで事実で、どこからが彼の判断なのかも、今の自分には見極められない。

けれど、ひとつだけはわかってしまっている。


ただ泣いているだけでは、何も戻らない。


そのことが、泣き崩れたあとの身体に重く沈んでいた。


会いたい。

返してほしい。

まだ信じたくない。

そのどれもが本当だ。


けれどそのすべての底に、もうひとつ、言葉になりきらない感情がある。

静かで、冷たく、しかし消えないもの。


マーリンはまだはっきりとは認めていなかった。

認めてしまえば、もう元には戻れない気がしたからだ。


それでも、心はもう知っている。


ミハイルを奪ったものを、このまま何事もなかったように世界の中へ埋めてしまうことだけは、どうしても耐えられない。


「……このままでは」


小さく漏れた声は、自分自身へ向けたものだった。


このままでは終われない。

このまま、ただ喪って、泣いて、何もできずにいるだけでは。


その思いが、ようやく感情ではなく、意志に近いものとして胸の内へ沈みはじめる。


クリスチーナは何も言わなかった。

けれど、その沈黙の中でマーリンの呼吸が少しずつ整っていくのを、ただ静かに見守っていた。


泣いたあとの静かな部屋には、まだ喪失の匂いが濃く残っている。


悲しみは消えない。

痛みも消えない。

けれどその底に沈んだ熱は、もうただの涙では終わらないものになりつつあった。



部屋の中には、まだ泣いたあとの静けさが残っていた。


涙の痕は消えていない。

喉の奥には嗚咽の名残が痛みのように引っかかっている。

けれど、さきほどまで胸の内を埋め尽くしていた感情の濁流は、少しずつ形を変えはじめていた。


マーリンは膝の上のお守りを見つめた。

このままでは終われない。

その思いだけが、泣き崩れたあとの心の底に、妙にはっきりと残っている。


マーリンはゆっくりと指先を握りしめた。


ミハイルは最後まで争いを止めようとしていた。

感情に呑まれず、なお交渉を続けようとしていた。

それなのに奪われた。


その死を、ただの報せとして流されるだけで終わらせていいはずがなかった。


「……何もできないなんて、いや」


声に出したその言葉は、驚くほど小さかった。

けれど、確かに意志の形をしていた。


マーリンはお守りをそっと包み直し、胸元へ寄せる。


何もできないわけではない。


その考えが、ふいに浮かぶ。

そう思った瞬間、父の言葉の中に混じっていたものが、別の重さで蘇った。


宇宙軍。

そして、自分の力を求める声。


初めて人形に乗った時の感覚が、マーリンの中にかすかに蘇る。


あれは偶然だったのだろうか。

それとも、本当に自分にできることがあるのだろうか。


「お嬢様……?」


クリスチーナの声に、マーリンは顔を上げた。


「宇宙軍からの話は、まだ取り下げられていないのよね」


問いかけたその声に、クリスチーナは一瞬だけ目を見開く。

だがすぐに表情を整え、慎重に答えた。


「はい。再三にわたって正式な要請が届いております」


「そう」


短く返しながら、マーリンは視線を落とした。


宇宙軍は、自分の力を欲している。

それは家の都合でもあり、軍の都合でもある。

だがもしそこに、自分の意志を差し込める余地があるのなら。


ただ失うだけでは終わらない道が、そこにあるのかもしれない。


それでも――。


マーリンは静かに息を吸った。

ミハイルが奪われたまま、ただ守られているだけでいることの方が、今はよほど苦しかった。


「戦争を、終わらせなければならないわ」


ぽつりと零れたその言葉は、表向きには正しかった。

和平が潰えた今、これ以上の戦火を広げないために、誰かが動かなければならない。

人が死に続けるのを止めなければならない。


けれど、その正しさの奥にあるものを、マーリンは自分で知っていた。


終わらせたい。

王国を。

ミハイルを奪ったものを。

この痛みの原因になったものを。


その正しさの奥に、もっと暗く切実な熱があることを、マーリンは知っていた。


クリスチーナは何も言わない。

ただ、その言葉の重さを測るように、静かにマーリンを見つめている。


マーリンは立ち上がった。

泣き崩れたあとの身体はまだ少し重い。

足元も頼りない。

それでも、立てる。


立たなければならないと、今は思えた。


「……今すぐ答えを出すわけではないけれど」


それはクリスチーナへ向けた言葉であると同時に、自分自身への確認でもあった。


「けれど、このままでいるつもりはない」


その声は静かだった。

だが、さきほどまでとは違う硬さを持っていた。


悲しみは消えていない。

喪失も埋まらない。

ミハイルが戻らないという事実も、少しも変わってはいない。


それでも、ただ涙に沈んでいるだけの時間は、もう終わりつつあった。


マーリンは胸元のお守りへそっと触れた。


冷たい感触。

けれど、その冷たさの向こうに、たしかにミハイルの存在があったことを思わせる。

ならば、この痛みも、この怒りも、何ひとつ無駄にしてはいけない。


「クリス」


「はい、お嬢様」


「少し休んだら、宇宙軍からの要請文書を見せて」


その言葉に、クリスチーナの目がわずかに揺れた。

驚きはあっただろう。

だがクリスチーナはすぐに深く一礼する。


「承知いたしました」


それだけだった。


部屋の中はまだ静かで、喪失の痛みもなお濃く残っている。

けれどその静けさの底で、マーリンの中にはすでに、次へ進むための小さな意志が生まれていた。


それはまだ決意と呼ぶには未熟で、傷ついた感情の延長にすぎないのかもしれない。

それでも、確かに一歩だった。


ただ奪われるだけで終わるつもりはない。

その思いだけが、いまは静かに、そして確かに、マーリンの胸の奥で形を取りはじめていた。



クリスチーナが静かに部屋を出ていったあと、私室には再び静けさが戻った。


マーリンは机の傍へ歩み寄り、そっと椅子に手をかけた。

座る前に、一度だけ窓の外へ視線を向ける。


窓の外は穏やかだった。

けれど、その穏やかさを以前のようには受け取れなかった。


ミハイルは、奪われた。


その言葉だけが、痛みとともに胸の底へ居座っている。


マーリンは胸元のお守りへ手を伸ばした。

そしてもう片方の手で、机の上に置いたままのお守りをそっと包む。


対になる二つ。

一つは自分の手元に残り、もう一つは戻ってきた。


「……無駄にはしない」


口にしたその声は、驚くほど静かだった。


ミハイルの死を。

自分の痛みを。

この胸の中に残った怒りを。

何ひとつ、ただ流されるままに終わらせたくはなかった。


マーリンは椅子に腰を下ろす。


視線の先には、閉じられたままの端末。

書類を開けば、宇宙軍からの要請に関する記録もあるのだろう。

父の言葉どおり、すぐに返答を求められているわけではない。

けれど、もう自分はその話から目を逸らせないところまで来てしまっている。


人形に乗った時の感覚が、また薄く蘇る。

試作機(リュール)の中で魔力が噛み合った瞬間。

恐怖の中で、それでも動けた自分。

あの時はまだ、何かを守るために動いた。

では今はどうなのか。


戦争を終わらせるため。

そう言えば、誰も否定はしないだろう。

けれど、その言葉の下に、もっと暗く切実な感情が潜んでいることを、マーリンは知っていた。


それでもかまわない、と今は思った。


たとえ始まりが綺麗ではなくても。

たとえ怒りが混じっていても。

このまま何もしないでいるよりは、ずっとましだった。


マーリンは端末に手を伸ばし、だがすぐには起動しなかった。

その代わりに、机の上へ戻ってきたお守りをそっと置き直す。


「ミーシャ……」


名を呼ぶ声は、まだ祈りに近い。

誓いと呼ぶには、少しだけ脆い。

それでも、その脆さごと抱えたまま進むしかないのだと、もうわかっていた。


もし本当に自分に力があるのなら。

もし本当に戦えるのなら。

ならば、その力を使わずにいることの方が、今のマーリンには耐えがたかった。


ロイスの娘として。

宇宙軍に目をつけられるだけの適性を持つ者として。

そして何より、ミハイルを奪われた一人の人間として。


もう、ただ守られているだけではいられない。


マーリンはゆっくりと端末を起動した。


淡い光が立ち上がり、静かな部屋に新しい明かりが差す。

表示された最初の画面を見つめながら、マーリンは小さく息を吸った。


悲しみは、まだ終わっていない。

涙も、きっとまだ尽きてはいない。

けれどその先にあるものへ、今、自分の手で触れようとしている。


「……もう、奪われるだけでは終われない」


その言葉は、誰に聞かせるでもなく、静かに部屋へ落ちた。


お守りの傍らで淡く光る端末画面を見つめるマーリンの横顔には、まだ喪失の影が濃く残っていた。

それでもその瞳の奥には、昨日までなかった硬さが、確かに宿りはじめている。


戦う理由は、もう生まれてしまっていた。

ここまでお読みいただき有り難うございました。


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