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白い光の底で

ご覧いただきありがとうございます。


操り人形の宇宙ーにんぎょうつかいのそらー 2章になります。

王立宇宙軍士官学校へ向かう途中で、私、ローレッタは寄り道をした。


寄り道。


とても軽い言葉だ。


お菓子を買うとか、駅前の露店をのぞくとか、少しだけ遠回りして景色を見るとか、そういう時に使う言葉だと思う。


でも私が寄ったのは、旧帝都星に残るヘルリッヒ学園の廃墟だった。


うん。


軽くない。


寄り道というより、進路を間違えた人の行き先だ。


それでも、私はそこへ来た。


荷物はトランクひとつ。


中身は、着替えと、最低限の身の回りのものと、王立宇宙軍士官学校の入学関係書類。


それから、私の中にある、私のものではない記憶。


これは荷物に入れてきたわけではない。


置いてこようとしても、勝手についてくる。


かなりしつこい。


私はまだ士官学校の制服を着ていない。


制服は、到着してから配布される。


だから今の私は、ただの旅装だった。


動きやすい上着。


少し擦れた靴。


持ち手が硬いトランク。


つまり、廃墟へ入るには少し不向きで、士官学校へ向かうには少し地味で、不審者としてはそこそこ自然な格好だ。


自然な不審者。


あまり嬉しくない。


旧帝都星の空は、思ったより青かった。


もっと灰色で、もっと煤けていて、もっと戦争の跡そのものみたいな空を想像していた。


でも、空は普通に青い。


少し腹が立つくらい普通だった。


戦争があっても、帝国が滅んでも、人が死んでも、空は案外いつもどおりなのだと思う。


空に情緒を期待してはいけない。


期待しても、だいたい裏切られる。


学園へ続く道は、半分ほど草に埋もれていた。


石畳は残っている。


ただし、隙間から伸びた草が強い。


人の作ったものは壊れるけれど、草は遠慮なく伸びる。


たぶん、草は貴族制度を気にしない。


とても強い。


正門の前には、古いバリケードが置かれていた。


黄色と黒の縞模様は色あせて、ところどころ剥がれている。


中央には、文字が残っていた。


/_/_/ K…EP OUT /_/_/


一部は擦れて読みにくい。


でも、意味はよく分かる。


入るな。


とても分かりやすい。


私は周囲を見回した。


人影はない。


鳥の声と、風が草を揺らす音だけ。


警備員もいない。


監視端末らしきものは門柱についていたが、半分割れていた。片目だけ開けたまま眠っているみたいで、少し気まずい。


「……この様子なら、私みたいな不審者がもう一人くらい入っても文句は言われないかな?」


言い訳としては、かなり弱い。


でも、ここまで来て引き返すという選択肢はなかった。


私はトランクの取っ手をぎゅっと握りしめ、バリケードを踏み越えた。


貴族らしくはない。


士官学校の新入生らしくもない。


でも、たぶん私らしくはある。


少しだけ靴が引っかかって、転びかけた。


「っ、危な……」


危ない。


立入禁止の場所に入って、最初にやることが転倒では、あまりにも格好がつかない。


私はどうにか踏みとどまり、何もなかった顔をした。


誰も見ていない。


誰も見ていないのに、見栄を張る。


人間は面倒だ。


私も面倒だ。


ヘルリッヒ学園は、門を越えたところからもう違っていた。


廃墟なのに、道だけはまだ威張っている。


まっすぐ伸びた中央路。


左右に広がる庭園跡。


奥に見える校舎群。


全部が崩れかけているのに、配置だけは整っていた。


貴族のための学園。


政治と社交と統治を学ぶ場所。


家格がそのまま席順になり、派閥がそのまま廊下の幅になるような場所。


そういう場所だったのだと、私は知っている。


知識としてではなく、もっと嫌な形で。


胸の奥が、先に知っている。


正門から続く石畳は、途中で何度も割れていた。


割れ目から草が伸び、細い白い花がいくつか咲いている。


その花を避けて歩くと、自然に道の端へ寄ることになった。


端へ寄った瞬間、胸の奥で小さく何かが揺れた。


ここは端を歩く道ではない。


中央を歩く者と、端を歩く者がいる道。


そんな感覚。


嫌な記憶だ。


私はむっとして、あえて中央へ戻った。


少しだけ。


本当に少しだけ。


石畳の中央は、草が少ないぶん歩きやすい。


そのかわり、見られている気がした。


誰もいないのに。


「廃墟にまで見栄を張らせないでほしい」


小さく文句を言う。


風が草を揺らした。


返事はない。


よかった。


廃墟に返事をされても困る。


左手には、かつての管理棟らしき建物があった。


窓は割れ、壁面の飾りは落ち、入口の柱には蔦が巻きついている。


けれど、柱の根元にはまだ彫刻が残っていた。


翼。


剣。


月桂冠。


帝国が好きそうな意匠だ。


強さと栄光と勝利。


盛りすぎ。


絵皿なら端が割れる量だ。


私は足を止め、彫刻を見た。


翼の先が欠けている。


それでも、翼はまだ広げられたままだった。


折れているのに、飛ぶ形を保っている。


それが少しだけ嫌だった。


私は視線を外し、先へ進んだ。


道は途中で左右に分かれている。


右は校舎棟へ。


左は庭園跡へ。


まっすぐ行けば大講堂。


案内板は倒れていた。


文字もほとんど読めない。


それなのに、迷わない。


迷えない。


私の足が、勝手にまっすぐを選ぶ。


違う。


私の足ではない。


私の中にある記憶が、まっすぐを知っている。


大講堂へ向かう時は、この道を歩く。


入学式。


式典。


表彰。


演説。


人前へ出るための道。


歩くだけで、背筋が勝手に伸びる。


嫌だ。


私は少しだけ肩を丸めた。


反抗としては小さい。


でも、肩くらい自分で丸めたい。


中央路を進むと、噴水跡に出た。


噴水は枯れていた。


水盤はひび割れ、中央の彫像は腰から上がなくなっている。


残った足だけが、台座の上に立っていた。


誰だったのだろう。


皇帝か。


英雄か。


女神か。


上半身がないと、だいたい同じだ。


偉そうな足。


そう思ったら、少しだけ笑いそうになった。


不敬かもしれない。


でも、相手はもう足だけなので許してほしい。


噴水の周囲には、円形の広場が残っている。


昔はここで生徒たちが集まり、家ごとに立ち位置が決まり、派閥ごとに声の大きさが変わったのだろう。


そんなことまで分かる気がした。


分かりたくない。


石畳には、かすかに色の違う部分がある。


白っぽい石。


灰色の石。


黒い石。


模様のように並んでいた。


私はその黒い石を避けようとして、足を止めた。


どうして避けようとしたのだろう。


黒い石が汚れているからではない。


危ないからでもない。


たぶん、そこは下位の家の者が立つ場所だった。


そんな感覚が、記憶の底から浮かぶ。


嫌な場所に詳しくなっていく。


私は深く息を吐いた。


「今は、ただの石です」


声に出す。


誰に言ったのかは分からない。


たぶん、自分に言った。


黒い石を踏んで進む。


何も起こらない。


当たり前だ。


石は石だ。


でも、胸の奥で何かが少しだけ軋んだ。


広場を抜けると、道は緩やかな坂になった。


大講堂は、小高い場所に建っている。


帝国らしい。


人を集める場所を、わざわざ少し上に置く。


見上げさせるため。


近づくほど、正面の階段が大きく見えてきた。


階段の両側には、かつて花壇だった場所がある。


今は野草と低木に占領されている。


白い花。


黄色い花。


名前の分からない蔓草。


それらが、古い貴族の花壇を遠慮なく飲み込んでいた。


いいぞ、もっとやれ。


心の中で応援する。


でも、すぐに足元の石が崩れて、私はよろけた。


「調子に乗ってすみません」


草は返事をしない。


本当に助かる。


坂の途中で、風が強くなった。


崩れた校舎の隙間を抜けて、細い音を立てる。


ひゅう、と鳴る。


少しだけ、人のため息みたいだった。


大講堂へ近づくにつれ、胸が重くなる。


期待。


拍手。


視線。


呼ばれる名前。


その全部が、まだ建物の中に残っているような気がした。


私は足を止めたくなった。


止めてもよかった。


誰も急かしていない。


士官学校への到着には、まだ余裕がある。


そもそも、寄り道している時点で余裕があると言っていいのかは怪しい。


でも、止まると戻れなくなりそうだった。


戻る?


どこへ。


王国へ。


今の私へ。


それとも、記憶の外へ。


よく分からない。


分からないまま、私は進んだ。


大講堂の正面階段は、ひどい状態だった。


中央の数段が崩れ、片側は完全に沈んでいる。


手すりは片方だけ残り、もう片方は根元から折れていた。


階段の上には大きな外扉がある。


外扉は、ただ講堂へ入るためだけのものではなかった。


その奥に、回廊が続いている。


大講堂へ至るための、長い前置き。


帝国は、入るだけでも段取りを作る。


門。


中央路。


噴水。


坂。


階段。


外扉。


そして回廊。


ここまで来ても、まだ講堂ではない。


少ししつこい。


でも、効く。


歩かされるほど、これから何か大きな場所へ向かうのだと身体が思い込んでいく。


そういう作りなのだ。


私はトランクを持ち直し、階段に足をかけた。


一段目。


石が欠けている。


二段目。


草が生えている。


三段目。


足を置いた瞬間、小さく砂が落ちた。


「……怖い」


正直な声が出た。


でも、言ったら少しだけ楽になった。


怖いものは怖い。


私は廃墟探索の専門家ではない。


ただの新入生で、しかも寄り道中で、さらに立入禁止を踏み越えた不審者だ。


怖くて当然。


そう思いながら、一段ずつ上がる。


トランクが重い。


とても重い。


中身はそれほど多くないはずなのに、階段では突然やる気をなくす。


持ち主のやる気まで吸い取ってくる。


「あなたも協力してください」


トランクは協力しない。


ただ重い。


でも、置いていく気にはなれなかった。


この先へ持っていかなければならない気がした。


理由は分からない。


分からないけれど、そういう時はだいたい、記憶が先に知っている。


階段の途中で振り返ると、学園の敷地が少し見渡せた。


草に沈んだ中央路。


壊れた噴水。


崩れた校舎。


遠くの正門。


さっき通ってきた道が、一本の線のように伸びている。


あそこを、かつて誰かが歩いた。


誰か。


いや、白い髪の少女が。


たくさんの視線を受けて。


名前を背負って。


希望と呼ばれて。


私は前を向いた。


最後の段を上がる。


大講堂外側の入口に立つ。


風が、背中から押した。


まるで入れと言われたみたいだった。


「今のは風です。廃墟の意思ではありません」


念のため言っておく。


自分に。


私は傾いた外扉の隙間へ入った。


回廊は、思ったより長かった。


外から見た時は、すぐ講堂に着くと思っていた。


でも違った。


大講堂の外側の入口から、実際の講堂までは、屋内の回廊が続いている。


左右の壁には、古い壁龕が並んでいた。


かつては胸像や記念銘板が置かれていたのだろう。


今はほとんど空だ。


残っているものも、顔が欠けているか、文字が読めないか、片方の翼だけが残っているか。


だいたい中途半端だった。


中途半端に残るくらいなら、いっそ全部なくなった方が楽かもしれない。


でも、なくならなかったものには、なくならなかっただけの意地がある。


たぶん。


回廊の床にも穴が空いていた。


外ほど草はない。


その代わり、天井から落ちた石片が散っている。


割れたガラス。


錆びた金具。


乾いた鳥の巣。


鳥はここを家にしていたらしい。


貴族育成機関の回廊が鳥の物件になっている。


世の中、変わる時は変わる。


私はトランクを持って進んだ。


車輪は使えない。


床が荒れすぎている。


持ち上げるしかない。


重い。


本当に重い。


「あなた、中に石でも入っているんですか」


入っていない。


入っていないはずだ。


でも重い。


廊下の奥から、白い光が差している。


天井の穴から入る光ではない。


講堂の中から漏れている光だ。


今の光。


あるいは、記憶の光。


回廊の壁に、その光が細長く伸びている。


白い道みたいだった。


嫌な道だ。


きれいな道ほど、行き先が怖いことがある。


私は足を止めた。


回廊の真ん中で、トランクを下ろす。


少しだけ手が痛い。


持ち手の跡が掌に残っている。


私は手を開いたり閉じたりした。


「……ここまで来たんだから」


言い訳のように呟く。


ここまで来た。


だから行く。


たぶん、人はこういう理由で引き返せなくなる。


私はトランクを持ち直し、光の方へ進んだ。


回廊の最後には、内扉があった。


外扉よりも大きい。


けれど、片側は外れ、もう片側は斜めに開いている。


その隙間から、講堂の中が見えた。


暗い。


でも、中央だけが白い。


天井のどこかに大きな穴が空いているのだろう。


光が、すり鉢の底へ落ちている。


私は内扉を抜けた。


ヘルリッヒ大講堂は、すり鉢状だった。


入口から見下ろす形になる。


中央の舞台へ向かって、座席が段々に下りている。


反対側と左右には、上へせり上がるように席が広がっていた。


一階席。


二階席。


三階席。


かつては、そこに人がぎっしり座っていたのだろう。


家格ごとに。


派閥ごとに。


招かれた順番ごとに。


今は違う。


上階の席は、ほとんど崩れ落ちていた。


三階席は一部の梁と床だけが残り、黒い肋骨みたいに空へ突き出している。


二階席も半分以上が抜け落ち、座席の列が途中で途切れていた。


一階席だけが、比較的形を残している。


比較的、だ。


つまり、安全ではない。


倒れた座席。


背もたれだけ残った座席。


床に沈むように傾いた座席。


割れた手すり。


落ちた天井材。


錆びた照明器具。


全部が、足元を信用するなと言っていた。


講堂の天井には、大きな穴が空いていた。


そこから白い光が差している。


光は、すり鉢の底にある舞台と演台を照らしていた。


まるで、そこだけがまだ使われているみたいに。


廃墟なのに、舞台だけが現役の顔をしている。


ずるい。


床はひどく荒れていた。


あちこちに穴が空いている。


床板が抜け、下の構造が黒く覗いている場所もある。


瓦礫が積み重なったところには、割れた石材や曲がった金属片が混じっていた。


足を置く場所を間違えると、簡単に落ちる。


落ちたら、たぶん一人では上がれない。


それは困る。


かなり困る。


旧帝都星の廃墟で穴に落ちました、などという理由で士官学校に遅れるのは嫌すぎる。


私は入口でしばらく床を見た。


安全そうな場所を探す。


完全に安全な場所はない。


少し安全そうな場所ならある。


それをつないで、前へ進むしかない。


私はトランクを持ったまま、段になった通路を下り始めた。


一歩。


埃が舞う。


二歩。


床板が鳴る。


三歩。


トランクが座席の端にぶつかった。


「すみません」


思わず謝る。


座席に謝った。


だいぶ危ない。


でも、座席は返事をしない。


優しい。


私は慎重に進んだ。


慎重に。


とても慎重に。


自分でも少し笑えるくらい慎重に。


でも、笑えなかった。


講堂の中央へ近づくほど、胸の奥が重くなる。


ここに、拍手があった。


ここに、視線があった。


ここに、名前を呼ぶ声があった。


そんなはずはない。


今は廃墟だ。


鳥の声と、風の音と、私の足音しかない。


それなのに、耳の奥がざわめく。


私は穴を避けて、最前列まで下りた。


最前列の座席は、三つほど形を保っていた。


そのうち一つは、背もたれが少し傾いているだけで、座面は残っている。


私はそこにトランクを置いた。


ことり、というには重い音がした。


「ここで見ていてください」


トランクは返事をしない。


でも、座席に置くと、妙に観客らしく見えた。


私の荷物。


私の唯一の観客。


拍手はしてくれないだろうけれど、文句も言わない。


とても助かる。


私はトランクを最前列に残し、舞台へ向かった。


演台へ上がるための階段は、片側が崩れていた。


残った段もひびだらけで、端が欠けている。


上には、天井の穴から落ちた光が降りていた。


白い。


冷たい。


舞台だけが、今も誰かを待っているみたいだった。


「待たなくていいです」


小さく言った。


声が講堂に吸われる。


私は壊れた階段に足をかけた。


一段目は、まだ持つ。


二段目は、少し沈んだ。


私は息を止めた。


床は抜けなかった。


偉い。


床を褒める日が来るとは思わなかった。


三段目。


舞台の上へ。


光の中へ出た瞬間、空気が変わった気がした。


視界が少し白くなる。


足元には埃。


前方には朽ちた座席。


すり鉢状に広がる観客席。


崩れた二階席。


ほとんど落ちた三階席。


最前列に置かれた私のトランク。


そして、天井の穴から差す光。


その光が、演台の中央を照らしている。


まるで、そこに立つべき人がまだいるみたいに。


私は舞台の端に立ち、しばらく動けなかった。


ここに立つと、講堂全体が見える。


すり鉢状の席が、自分へ向かってくるように見える。


全部の席から見られる場所。


誰かを見下ろす場所ではない。


見られる場所だ。


逃げ場がない。


壁際へ逃げるには遠すぎる。


扉へ戻るには、床の穴を越えなければならない。


後ろへ下がっても、光からは出られない。


そんな場所。


私はようやく、演台の中央にある壊れた講演台へ近づいた。


石と木でできた古い台。


上部は割れている。


角は欠け、表面には煤と埃が積もっていた。


私はそっと手を伸ばす。


指先が、冷たい縁に触れた。


ざらりとした埃がつく。


そこまでは、今のものだった。


次の瞬間。


白い光が、強くなった。


「……っ」


私は反射的に目を細めた。


崩れていた天井が、高く整っていく。


割れた壁が滑らかな白へ戻る。


焼けた帝国旗が、鮮やかな色を取り戻す。


抜け落ちていた三階席が、整然とした曲線を描いて蘇る。


二階席の欄干が磨かれ、一階席の座席がまっすぐ並ぶ。


空席だった座席に、無数の人影が満ちていく。


式服姿の生徒たち。


礼装の貴族たち。


教師らしき人々。


軍服を着た者もいる。


色が戻る。


音が戻る。


匂いまで戻る。


磨かれた床の匂い。


新しい布の匂い。


香水。


緊張。


期待。


その全部が、私の胸へ押し寄せた。


私は手を引こうとした。


でも、指先は講演台から離れない。


いや、離れている。


今の私は、廃墟の中に立っている。


でも、同時に、過去の光の底へ沈んでいる。


これは私の記憶ではない。


私のものではない。


そう分かっているのに、知らないとは言えない。


知っている。


この光を。


この拍手を。


この息苦しさを。


拍手が鳴った。


大きい。


とても大きい。


嬉しい音のはずだった。


誰かを迎える音。


祝福する音。


でも私の胸は、少しずつ重くなっていく。


拍手は、手で作る音なのに、鎖みたいに聞こえた。


変な話だ。


拍手に鎖はついていない。


ついていないのに、逃げ場がなくなる。


帝国。


ロイス公爵家。


フルール・デスポワール。


希望の花。


美しい言葉が、胸の奥で沈んでいく。


希望と呼ばれるたびに、逃げられなくなる。


花と呼ばれるたびに、咲くことだけでなく、散ることまで期待される。


そんな感覚が、記憶の底から滲み上がった。


誰のものだろう。


考えなくても分かる。


でも、まだ言いたくない。


舞台袖に、ひときわ白い影が立っていた。


白い髪。


光を受けると、ほとんど銀に見える。


肌は透けるように白く、背筋はまっすぐで、肩の位置も、顎の角度も、少しも乱れていない。


式服は完璧に整っている。


袖口も、襟元も、リボンの角度も。


白い手袋に包まれた指先は細く、動きのひとつひとつが、まるで最初から決められていたみたいに美しい。


人が見惚れるために作られた絵画のようだった。


でも、絵画ではない。


呼吸している。


立っている。


たぶん、怖がっている。


私は、その少女の指先を見た。


一瞬だけ。


ほんの一瞬だけ、指が震えた。


すぐに止まる。


誰も気づかない。


座席の貴族たちも、生徒たちも、教師たちも。


誰も。


でも私は見た。


見えてしまった。


胸の奥が痛む。


司会役の声が、講堂に響いた。


「新入生代表挨拶」


その名が、すり鉢状の講堂を上へ上へと駆け上がっていく。


三階席の奥まで。


貴族たちの囁きの上まで。


拍手の波の底まで。


「ロイス公爵家令嬢、マーリン=ロイス、ご登壇ください」


マーリン=ロイス。


名前が呼ばれた瞬間、白い少女はほんの少しだけ顎を引いた。


そして顔を上げる。


微笑む。


完璧な笑顔だった。


白い光の中で、マーリンは誰もが望む姿になった。


帝国の名門。


ロイス公爵家の令嬢。


美貌と才知。


類いまれなる魔力適性。


社交、学業、礼法、統治能力。


できる。


振る舞える。


できてしまう。


振る舞えてしまう。


だから、人々は彼女を見る。


そして思う。


この少女ならば、と。


希望だ、と。


花だ、と。


私は、その言葉を聞いていないはずなのに、聞こえた。


希望の花。


フルール・デスポワール。


美しい呼び名。


綺麗な檻。


マーリンは舞台袖から一歩を踏み出した。


拍手が波のように寄せる。


最初の一歩。


次の一歩。


歩幅は正確だった。


急がない。


遅れない。


見る者が、美しいと思う速度で歩いている。


その美しさが、少し怖い。


舞台の中央へ向かう間、マーリンの視線はまっすぐ前に置かれていた。


客席の誰にも偏らない。


誰か一人に媚びない。


誰か一人を無視しない。


公爵家令嬢の視線。


帝国の象徴としての視線。


でも、白い手袋の中で指先がもう一度、小さく動いた。


震えを押さえるように。


私は息を止めた。


すごい。


私は素直にそう思った。


私なら、あの場で一歩目からつまずく。


いや、たぶん呼ばれる前にお腹が痛くなる。


無理。


絶対に無理。


あれだけの視線を浴びて、背筋をまっすぐにして、微笑むなんて。


人間業ではない。


でも、マーリンは人間だった。


だから、苦しい。


完璧に見える人が本当に完璧なら、まだ楽だった。


あの人は特別だから。


あの人は自分と違うから。


そう思える。


でも、指先が震えた。


ほんの一瞬。


誰にも見えない小さな震え。


それだけで、彼女は人間になってしまう。


マーリンは演台の前に立った。


拍手が続く。


長い。


長すぎる。


称賛は、長く続くと逃げ道を塞ぐ。


彼女はそれを受け止めるように、静かに礼をした。


白い髪が揺れる。


式服の袖が光を返す。


どこまでも優雅。


どこまでも正しい。


それは、帝国が望む少女だった。


拍手がようやく収まっていく。


すり鉢状の講堂に、静けさが戻る。


三階席の奥まで、視線が集まっている。


マーリンは講演台に手を添えた。


白い手袋。


細い指。


震えは、もう見えない。


見えないように、閉じ込められている。


彼女は顔を上げた。


光が、その白い髪を照らす。


美しい。


眩しい。


でも、どうしてこんなに苦しいのだろう。


マーリンは口を開く。


まだ声は聞こえない。


聞こえる前に、胸の奥が締めつけられる。


ここから始まるのだ。


入学式。


帝国の学園。


家格と派閥と期待の中で、希望の花として立つ日々。


マーリン=ロイスが、まだ自分の運命を知らなかった頃。


いや、何も知らなかったわけではない。


期待の重さは知っている。


完璧に振る舞う苦しさも知っている。


光の中で指先が震えることも知っている。


それでもまだ、戦場を知らない。


失う痛みを知らない。


撃墜女王という名を知らない。


宇宙の静けさの中で、最後にマーリン=ロイスと名乗る未来を知らない。


私は、その姿を見ていた。


綺麗だ。


眩しい。


そして、やっぱり苦しい。


マーリンは、誰もが望む美しい花としてそこに立っていた。


けれど、その花の根元には、もう白い光の重さが積もっている。


私は、講演台に触れたままの自分の指先を見た。


ローレッタ=プラットの指。


埃で少し汚れた指。


でも、その奥に、白い手袋越しの震えがまだ残っている気がした。


拍手が遠くなる。


白い光が増す。


私は、自分の足元が薄くなるような感覚に襲われた。


ローレッタ=プラットとして、廃墟の大講堂に立っている私。


マーリン=ロイスの記憶の底へ沈んでいく私。


二つが重なる。


重なって、ずれる。


これは、私の記憶ではない。


けれど、私の中にある記憶。


もう失われたはずの帝国が、まだ美しかった頃。


マーリン=ロイスが、まだ自分の運命を知らなかった頃。


希望の花と呼ばれた少女が、本当はただの少女でもあった頃。


私は目を閉じた。


少し震える息を吐いた。


廃墟の冷たい空気なのか、過去の白い光なのか、もう分からない。


最前列に置いたトランクが、ぼんやりと見えた。


私の唯一の観客。


その観客も、白い光の中で少しずつ遠ざかっていく。


拍手がまた満ちる。


今度は、遠くからではなく、内側から。


その音に導かれるように、私はゆっくりと記憶の奥へ沈んでいく。


そして、私は。


遠い日の光景に、身を委ねた。



操り人形の宇宙―にんぎょうつかいのそら― 第二章 撃墜女王

ここまでお読みいただき有り難うございました。


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