血脈
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流血表現があります。
ローレッタは、あまりにも軽かった。
救護班がコクピットブロックへ入り、固定具を外していく間も、シュヴァルベはその手を離せなかった。
冷たい。
子どもの手だった。
王都を救った手。
四機の戦略級反応ミサイルへ向かい、訓練機で死に近づいた手。
それなのに、今は力がない。
指先は白く、薄く、インタフェースの跡が赤く残っている。
シュヴァルベはその手を両手で包んだ。
少しでも温度を戻すように。
少しでも、こちらへ引き止めるように。
「ローレさん」
声が震えた。
自分の声とは思えないほど、弱かった。
隊長の声ではない。
ユンカース侯爵家の令嬢の声でもない。
ただ、失いたくない相手にすがる声だった。
「迎えに来ました。約束通りです」
ローレッタは動かない。
乱れた茶色い髪の内側から、白い髪が覗いている。
その白さが、焦げたコクピットの中で妙にはっきり見えた。
血の気を失った顔。
唇の端に残る赤黒い跡。
閉じられた瞼。
小さな身体は耐Gスーツに包まれているのに、それでも壊れそうに見えた。
「ローレさん」
シュヴァルベは、さらに声を落とした。
「王都は無事です」
ローレッタの睫毛が、かすかに震えた。
シュヴァルベは息を止める。
救護班の動きも、一瞬だけ止まった。
ローレッタの瞳が、ゆっくり開いた。
焦点は合っていない。
どこを見ているのかもわからない。
それでも、彼女は確かに目を開けた。
唇がわずかに動く。
声はほとんど空気だった。
「……王都、は」
シュヴァルベは身を乗り出した。
「助かりました」
ローレッタの瞳が、少しだけ揺れる。
「……みんな」
「生きています。ハネダさんも、女将さんも、学園も、みんな」
ローレッタの口元が、ほんの少し緩んだ。
笑おうとしたのだと、シュヴァルベにはわかった。
「……よか、った」
それだけ言って、ローレッタの瞼がまた落ちかける。
シュヴァルベは手を握り直した。
「まだ眠ってはいけません。ローレさん、聞いてください」
返事はない。
けれど、指先がほんのわずかに動いた気がした。
それで十分だった。
生きている。
まだ、ここにいる。
そう思った瞬間、ローレッタの身体が急に強く震えた。
「ローレさん?」
小さな咳。
次に、深いところから引きずり出されるような咳。
ローレッタの唇から、赤黒い液体が溢れた。
血だった。
「ローレさん!」
シュヴァルベの声が裏返る。
救護班が即座に動いた。
「頭部を横へ。気道確保!」
「耐Gスーツの胸部圧を緩めます」
「魔力反応、さらに低下!」
ローレッタは苦しそうに咳き込み、細い喉からまた血を吐いた。
量は多くない。
だが、その色が悪い。
黒く、重く、身体の奥から出てきた血だった。
シュヴァルベは動けなくなりかけた。
血を見るのが怖いわけではない。
軍人を目指す身として、訓練で外傷も負傷者も見ている。
だが、ローレッタの口から血が溢れるのは違った。
こんな小さな身体が。
ここまでして。
胸の奥が、冷たく潰れる。
「ユンカース様、手を離さないでください」
ドルニエの声が飛んだ。
地上軍の衛生担当。
彼女は救護班と一緒に入り込み、ローレッタの状態を確認していた。
「意識が戻りかけています。声をかけ続けてください」
「はい」
シュヴァルベは頷いた。
頷いたが、声が出ない。
ローレッタの目は開いている。
しかし、焦点は合っていない。
視線はシュヴァルベを通り越し、どこか遠い場所を見ていた。
唇が動く。
何かを言おうとしている。
だが、言葉にならない。
「ローレさん、ここです」
シュヴァルベはその頬に触れた。
冷たい。
さっきよりも冷たい。
「私はここにいます。聞こえますか」
ローレッタの唇が、また動いた。
「……もど、る」
「戻ります。必ず戻ります」
「……しゅ……」
そこで声が切れた。
咳がまた込み上げる。
救護班が血を拭う。
ローレッタの顔色は、見る間に悪くなっていった。
白いを通り越して、灰色に近い。
手はさらに冷たくなる。
魔力の残滓が、指先から抜けていく。
シュヴァルベはそれを感じた。
人形使いだからこそ、わかった。
ローレッタの内側の灯が、小さくなっている。
消えかけている。
「状態は」
シュヴァルベの声は、驚くほど低かった。
救護班員が短く答える。
「高Gによる全身負荷。内臓損傷の疑い。魔力切れが進行しています。意識混濁、循環低下。搬送だけでは間に合いません」
「処置を」
「この場で魔力の受け渡しが必要です」
その言葉に、周囲の空気が変わった。
魔力の受け渡し。
魔力保持者から、魔力切れを起こした者へ、一時的に供給する応急処置。
教本で学ぶ。
訓練でも習う。
だが、実際に使う場面は重い。
失敗すれば、供給側も倒れる。
受け取り側の身体が弱っていれば、流しすぎても危険になる。
「私の魔力を使ってください」
シュヴァルベは即答した。
考える時間など必要なかった。
「ユンカース様」
ドルニエが顔を上げる。
「一番機での出撃と降下で、ユンカース様の魔力もかなり減っています」
「構いません」
「構います。供給側が倒れれば、処置が中断します」
「それでも、私が」
「私の魔力を使ってください!」
通信越しではなく、外から声がした。
ミリアだった。
彼女は八番機の残骸の外にいて、救護班の邪魔にならない位置で待機していた。
声だけが、震えながら届く。
「私、まだ残っています。ローレに使ってください!」
「私も」
セシリアの声も続く。
泣き腫らした声。
それでも、はっきりしている。
「観測で消耗していますが、残りはあります。ローレさんに使ってください」
さらに、別の少女の声が上がる。
「地上軍士官学校、ドルニエ隊所属、補助衛生生です。私の魔力も使えます」
「私も!」
「少しなら!」
外にいる女子生徒たちが、次々と声をあげる。
選抜生。
地上軍の補助生。
名も知らない生徒。
ローレッタに助けられた街の空の下で、彼女たちは自分の魔力を差し出そうとしていた。
シュヴァルベは目を閉じた。
ローレッタは、知らないだろう。
自分がどれほど多くの人に手を伸ばされているのか。
自分をどれほど軽く扱っても、周りは彼女を軽く扱わない。
「サーブさん、ヒースローさん」
シュヴァルベは言った。
「補助をお願いします」
外の声が止まる。
「はい、ユンカース様」
ミリアの返事。
「はい」
セシリアの返事。
「供給は私が主導します。あなたたちは補助として、流量の安定と監視を」
「わかりました」
ドルニエがすぐに布を指示した。
「外から見えないように遮蔽を張って。急いで」
救護班がコクピットブロックの入口に布を張る。
破れた簡易シートと救護用の遮蔽布。
完全ではないが、外から内部は見えなくなった。
シュヴァルベはローレッタの耐Gスーツへ手をかけた。
胸元の固定具を外す。
医療処置のためだ。
ためらう余裕はない。
それでも、指先は慎重だった。
傷つけないように。
壊れた花に触れるように。
固定具を外し、胸元をわずかにはだける。
その瞬間。
シュヴァルベの手が止まった。
ローレッタの胸元に、淡い光が浮かんでいた。
魔力紋。
魔力が限界まで枯渇し、身体が危機に陥った時、血筋に刻まれた紋章が浮かぶことがある。
貴族にとって、それは血の証だった。
どの家に属しているか。
どの血を引くか。
身体の奥に刻まれた、血の紋章。
シュヴァルベ自身にもある。
ユンカース家の紋章は、腕に浮かぶ。
青い魔力に似た、翼と歯車を組み合わせた紋。
それは誇りであり、責務であり、家の証だった。
だが、目の前に浮かぶ紋章は、プラット家のものではなかった。
小さな男爵家の紋章ではない。
王国貴族の紋章ですらない。
シュヴァルベは息を止めた。
見間違いではない。
見間違えるはずがない。
彼女はそれを知っている。
調べた。
何度も見返した。
王国軍史の資料で。
帝国戦史の記録で。
撃墜女王に関する断片的な文書で。
禁書扱いに近い旧帝国貴族紋章録で。
何度も。
何度も。
フルール・デスポワール。
帝国の希望の花。
気高く、美しい紋章。
白い花弁を思わせる魔力紋が、ローレッタの胸元に淡く浮かんでいる。
消えかけの命に合わせるように、弱々しく。
それでも、確かにそこにあった。
シュヴァルベの喉が鳴った。
これは。
これは、遠い昔に血が絶えたはずの家の紋章。
ガイア帝国、ロイス公爵家。
そして。
撃墜女王と呼ばれた人。
マーリン=ロイスの紋章。
「ユンカース様?」
セシリアが外から声をかける。
「どうしましたか」
シュヴァルベは答えられなかった。
目の前のローレッタを見る。
白い髪。
白い魔力。
マーリンの記憶があると告げた声。
私はマーリンじゃありません。
私は、ローレッタです。
ローレッタ=プラットです。
その言葉が、胸の奥で響く。
彼女はマーリンではない。
そうだ。
そうでなければならない。
ローレッタは、ローレッタだ。
守られるだけではなく、守りたいと泣きながら言った少女。
まかないをおいしそうに食べる少女。
怖いと言えるようになった少女。
自分を軽く扱いすぎる、危うく、愛しい少女。
マーリンの影ではない。
けれど、この紋章は。
この血は。
何を意味するのか。
シュヴァルベの中で、記憶にもならない何かがまたかすめた。
白い髪。
笑い声。
手を伸ばしても届かなかった背中。
失いたくないと泣いたような、誰かの心。
そのすべてを、シュヴァルベは押し込めた。
今は違う。
今は紋章を考える時ではない。
ローレッタが死にかけている。
それだけが、最優先だった。
「処置を続けます」
シュヴァルベは言った。
声はまだ震えていた。
けれど、戻した。
「サーブさん、ヒースローさん、流量補助を」
「はい、ユンカース様」
「はい」
ミリアとセシリアが遮蔽布の外から手を差し入れ、救護班の指示で魔力補助の接点を取る。
シュヴァルベは、ローレッタの胸元に直接手を当てた。
魔力紋の光が、掌の下で弱く揺れる。
強く流してはいけない。
急がなければならない。
壊れかけた身体に、命を繋ぐ分だけ。
シュヴァルベは自分の青い魔力を、細く、細く整えた。
ミリアの魔力が支えに入り、セシリアの魔力が流れを整える。
外から、ドルニエが状態を読む。
「流量、少し強い。落として」
「はい」
「脈、弱い。ですが反応あります」
「続けます」
ローレッタの身体が、かすかに震える。
眉が苦しげに寄る。
「ローレさん」
シュヴァルベは呼んだ。
「戻ってください」
返事はない。
「王都は助かりました。あなたが守りました。だから、あなたも戻ってください」
ローレッタの指が、ほんの少し動いた。
シュヴァルベはそれを見逃さなかった。
「そうです」
声が震える。
「戻る約束です」
魔力を流す。
掌の下のフルール・デスポワールが、淡く光る。
その美しさが、胸に痛い。
憧れの紋章だった。
歴史の中で見上げた人の証だった。
撃墜女王。
帝国の希望の花。
けれど、今、その紋章を宿しているのは、伝説ではない。
目の前で血を吐き、冷たい手をして、それでも王都を守った十四歳の少女だ。
シュヴァルベは、ゆっくり息を吸った。
マーリンではない。
ローレッタだ。
この紋章が何を意味していても。
この血がどこへ繋がっていても。
今、自分が守るべき相手は、ローレッタ=プラットだ。
「ローレさん」
シュヴァルベは、血の紋章の上に手を置いたまま囁いた。
「私は、あなたを見ます」
ローレッタの瞼は開かない。
それでも、呼吸がほんの少しだけ深くなった。
ドルニエが短く言う。
「反応、わずかに回復。搬送準備に移れます」
その場にいた全員が息を吐いた。
ミリアが小さく泣いた。
セシリアも、声を殺して泣いていた。
シュヴァルベは涙を流さなかった。
まだ、流せなかった。
ローレッタの胸元には、布で隠される直前まで、淡い紋章が残っていた。
フルール・デスポワール。
ロイス公爵家の血の紋章。
遠い昔に絶えたはずの名。
マーリン=ロイスの証。
シュヴァルベはそれを知っている。
その意味も知っている。
見間違うはずがない。
だって、それは。
彼女がずっと憧れてきた人のものだったのだから。
操り人形の宇宙ーにんぎょうつかいのそらー 第1章 摸擬戦編 完。
ここまでお読みいただき有り難うございました。
ここで1章は完となりまして、一旦更新を休止させていただきます。
お気づきかもしれませんが、登場人物の名前にはすべて航空機に関係する名前(一部もじっていますが)を使っています。
例えば、
ローレッタ=プラットはプラット・アンド・ホイットニーから。
マーリン=ロイスはロールス・ロイス社と同社がかつて製造していた航空機用エンジンから。
シュヴァルベ=ユンカースはユンカース航空機・発動機製作株式会社とメッサーシュミット Me262の愛称から。
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