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誰が奪ったのか

ご覧いただきありがとうございます。

評価、ブックマークしていただきありがとうございます。


しばらく立て込んでおりまして更新が滞っております。申し訳ありません。


文章多めとなっております。

使用人から告げられた言葉のあと、部屋の中はしんと静まり返った。


マーリンは、まばたきひとつできずに正面を見つめたまま動かなかった。

視線の先にあるはずのものが、何ひとつはっきりと認識できない。

そこにいるはずの使用人の姿さえ、薄い膜の向こう側にあるようだった。


「……違う」


ようやく零れたその声は、自分でも驚くほどか細かった。


違う。

何かの間違いだ。


――必ず帰ってくる。

――帰ってきたら、また出かけよう。


ミハイルの声が、胸の奥で何度も蘇る。

その響きがあまりにも鮮やかなせいで、たった今告げられた報せの方が、よほど現実味を持たなかった。


「何かの、間違いよ……」


その言葉に、誰もすぐには答えない。


使用人は深く頭を下げたまま動かず、クリスチーナもまた、マーリンの斜め後ろで息を詰めたように沈黙している。

その沈黙こそが、何よりも残酷だった。


マーリンは待った。


今のは誤報だと。

あるいは、別の誰かのことだと。


けれど、誰もそんな言葉を口にしない。


そのことが、じわじわと胸の奥を冷やしていく。


「お嬢様……」


背後から聞こえたクリスチーナの声は、かすかに震えていた。


その揺れを聞いた瞬間、マーリンは反射的に首を横へ振る。

まだ、駄目だと思った。


今、慰めるような声をかけられたら、その瞬間に、何か決定的なものが壊れてしまう気がした。


マーリンは膝の上で、知らず知らずのうちに手を強く握りしめていた。

爪が掌に食い込んでいる。

けれど、その痛みさえどこか遠い。


悲しいのかどうかも、まだよくわからなかった。

苦しいのか、怖いのか、それすら曖昧だった。


ただ、身体の内側だけがひどく空っぽになってしまったようで、心だけが何か大きな穴の縁に立たされているような感覚だった。

そして、その底を覗き込むことだけは、どうしてもできなかった。


ミハイルが、死んだ。


その一文を、頭の中で最後までつなげることができない。

「ミハイル」と「死んだ」のあいだに、何か見えない壁があるようだった。


マーリンは乾いた唇をかすかに開く。


何か言わなければならない気がした。

違うと否定するのでも、詳しい説明を求めるのでも、何でもいい。

とにかくこの沈黙を破る言葉が必要なのに、喉の奥はひどく強張っていて、声にならない。


やがて、ようやく絞り出せたのは、ほとんど囁きのようなひと言だけだった。


「……ミーシャが?」


それは問いというより、確かめることを拒んだまま零れ落ちた音に近かった。


返事はなかった。

だが、返事がないという事実が、かえって答えになってしまっている。


その瞬間、胸の奥で何かが小さく軋んだ。


けれど、まだ涙は出なかった。


泣いてしまえば、認めることになる気がした。

泣いてしまえば、もう帰ってこない人だと、そう認めてしまうことになる気がした。


だからマーリンは、ただまっすぐ前を見たまま、()()()()()のように動けずにいた。


理解したくないのか、できないのか、その違いさえ今はわからない。

ただひとつ確かなのは、たった今、自分の中の()()()()()()()()()()()ということだけだった。



しばらくのあいだ、誰も動かなかった。

重たい沈黙の中で、最初にかろうじて形を取り戻したのは、マーリンの理性の方だったのかもしれない。


感情はまだ追いつかない。

だが、だからこそ、その代わりのように頭だけが必死に事実を組み立てようとしていた。


誤報かもしれない。

確認不足かもしれない。

あるいは、まだ生きている可能性が残されているのかもしれない。


その、わずかにでも残っていてほしい希望にすがるように、マーリンは乾いた唇を開いた。


「……その報せは、どこまで確認が取れているの」


使用人は一瞬だけ目を伏せたのち、決まりきった文言を読み上げるように答えた。


「評議会筋より、正式な報として届いております」


正式な報。


「確認したのは誰? 現地から直接? それとも中継の報告だけ?」


問いは自然と早口になっていた。

自分でも抑えきれない焦りが滲む。


「詳細までは、まだ……。ただ、交渉決裂と随行者の被害については、ほぼ間違いないものと……」


「ほぼでは困るわ」


思わず、声が少しだけ強くなる。


使用人が息を呑んだ気配がした。

クリスチーナもまた何か言いかけたようだったが、結局口を開かなかった。


マーリンは膝の上で強く握られたままの手を見下ろす。


爪が食い込んでいる。

その痛みが、かろうじて自分を現実へ繋ぎ止めていた。


「遺体は」


問いかけた瞬間、自分で自分の言葉にひどく傷つくのを感じた。


けれど、聞かずにはいられなかった。

そこが未確認なら、まだ何かが違うのではないかと、そう思わずにはいられなかった。


「……確認されているの?」


使用人はすぐには答えなかった。

それだけで、マーリンの胸の奥にひやりとしたものが落ちる。


「現時点では、詳細な報告はまだ届いておりません」


その返答は、何ひとつ救いにならなかった。


「では、どうしてそんなふうに……」


そこまで言いかけて、マーリンは言葉を失う。


どうしてまだ、何もこの目で見ていないのに確定したように言えるのか。

どうして誰も、それが間違いだと口にしてくれないのか。


胸の奥で渦巻くのは悲しみというより、行き場のない苛立ちに近かった。

それが恐怖の裏返しなのだと認めてしまえば、何も保てなくなる気がした。


「お嬢様」


クリスチーナが、静かに声をかけた。


「どうか……」


その先を、クリスチーナは言えなかった。

落ち着いてください、と言いたかったのかもしれない。

それとも、これ以上はご自分を追い詰めないでください、と。

けれど、どちらの言葉も今のマーリンには届かないだろうことを、クリスチーナ自身がわかっていたのだろう。


マーリンはゆっくりと顔を上げる。


使用人の顔色は悪かった。

その光景だけが、妙に現実感を持っている。

なのに、たった今交わされている言葉だけが、まるで悪い夢の中の出来事のようだった。


「……生きている可能性は」


それは、問いというより願いに近かった。


使用人は唇を引き結び、深く頭を垂れる。


「申し訳ございません。私には、そのように申し上げられる材料がございません」


その返答で十分だった。


可能性がないと断言されたわけではない。

けれど、希望があるとも誰も言ってくれない。

ただ、死亡が確認されたという報だけが先にあり、その周囲を埋めるものは何ひとつ届いていない。


その空白が、かえって残酷だった。


もしかしたら。

そんな言葉はいくらでも頭に浮かぶ。


けれどそれは、すべてマーリンが自分で作り出した希望だった。

誰も裏づけてはくれない。

誰も、それに縋っていいとは言ってくれない。


「……そう」


最後に零れたその一言は、もはや問いではなかった。


それ以上、何を聞けばいいのかがわからなくなっていた。

細部を尋ねれば尋ねるほど、返ってくるのは不完全で冷たい答えばかりで、むしろ心を削られるだけだと、ようやく理解しはじめていたのかもしれない。


膝の上で握りしめた手に、また力がこもる。

泣けないまま、怒ることもできないまま、ただ胸の中だけが少しずつ冷えていく。


今この場で、確かなことは何も掴めなかった。

それでも、何ひとつ掴めなかったという事実だけが、逆にこの報せの重さを否応なく突きつけてくる。


マーリンは視線を落としたまま、小さく息を吐いた。


その吐息は、悲しみというより、希望をうまく持ち続けられなくなりかけた人間のもののように、ひどく頼りなく震えていた。



応接室を出たあと、マーリンはクリスチーナに伴われて、学園の廊下を静かに歩いた。


来た時と同じ校舎のはずなのに、もう何もかもが違って見える。

壁に差し込む午後の陽射しも、行き交う生徒たちの話し声も、どこか遠い世界の出来事のようだった。


クリスチーナは何も言わなかった。

ただ、半歩後ろに控えながら、いつもよりわずかに近い距離でマーリンに付き添っている。


校舎を出て、正門へ向かうまでの道すがらも、春の景色は驚くほど穏やかだった。

風はやわらかく、木々の梢は光を受けて揺れている。

遠くでは、部活動に向かうらしい生徒たちの笑い声まで聞こえた。


そのことが、かえって現実味を失わせる。


こんなにも穏やかな午後なのに。

世界は何も変わらないまま続いているのに。

自分の中でだけ、何かが決定的に壊れてしまった。


それでも、足は止まらない。

止まったところで、何かが変わるわけではないことも、もうわかっていた。


迎えの車はすでに正門前で待機していた。

マーリンが近づくと、扉を開いた使用人が深々と頭を下げる。


その恭しい仕草ひとつさえ、今日はひどく重く感じられた。


マーリンは何も言わず車に乗り込む。

クリスチーナもすぐ後に続いた。


扉が閉まると、外の音が遠のく。

途端に、車内を満たした静けさが、応接室でのあの沈黙を思い出させた。


車は滑るように動き出す。


森を抜け、見慣れた帝都の街並みがゆっくりと流れていく。

高層建築のガラス壁面に陽光が反射し、上空を走る輸送機の影が道路の上をかすめていく。

人々はそれぞれの日常を生き、車列は規則正しく進み、信号灯は何事もないかのように色を変える。


その整いすぎた秩序が、今のマーリンにはひどく残酷だった。


マーリンは窓に映る自分の顔をぼんやりと見つめた。


青ざめている。

それでも泣いた痕はない。

むしろ、涙ひとつこぼれていないことの方が、自分でも奇妙に思えた。


「お嬢様」


不意に、向かいに座るクリスチーナが静かに呼びかけた。


マーリンはすぐには返事をしなかった。

返せなかったのかもしれない。


クリスチーナもまた、それ以上は何も言わなかった。

慰めの言葉はきっといくらでもある。

けれど、今のマーリンにとっては、そのどれもがあまりに軽く響いてしまうことを、クリスチーナは知っているのだろう。


だから二人のあいだには、ただ静かな時間だけが流れた。


その沈黙の中で、マーリンはふと膝の上に置いた自分の手へ視線を落とす。


この手で、つい先日ミハイルの手を取った。

この手で、お守りを渡した。

そのぬくもりはたしかにあったはずなのに、いまそれを思い出そうとすると、指の隙間からこぼれ落ちていくみたいにうまく掴めない。


――必ず帰ってくる。


また、その言葉が蘇る。


その約束に縋りたかった。

まだ、それが嘘になるとは思いたくなかった。

正式な報だと言われても、死亡が確認されたと言われても、心のどこかがなお、それを拒み続けている。


望みが、何度も何度も浮かんでは消える。


やがて、車は公爵邸の門をくぐった。


見慣れたはずの屋敷が、今日は妙によそよそしく見えた。

石造りの外壁も、整えられた庭園も、規律正しく並ぶ使用人たちの姿も、何も変わっていない。

けれどその変わらなさが、かえって屋敷全体に沈んだ空気を際立たせているようだった。


車が止まり、扉が開く。


マーリンはすぐには降りなかった。

視線を上げた先にある玄関は、たった今戻ってきたばかりだというのに、もう以前と同じ場所ではないように思えた。


ここへ入れば、もう後戻りはできない。

報せを聞く前の自分には、決して戻れない。


そんな感覚だけが、ひどくはっきりと胸に残る。


「お嬢様」


再びクリスチーナに呼ばれ、マーリンはようやく小さく息を吸った。


それから何も言わないまま、ゆっくりと車を降りる。


玄関へ向かう足取りは静かだった。

だがその一歩一歩が、自分の知らないどこかへ連れて行かれるように、ひどく重たく感じられた。



私室へ通されたあと、マーリンはしばらく扉の前に立ち尽くしていた。


クリスチーナは何か言いたげにしていたが、結局何も口にしなかった。

ただ、すぐ外に控えておりますので、とだけ静かに告げて一礼し、音を立てぬよう扉を閉める。


部屋の中は、今朝のままだった。

窓辺に置かれた花瓶。

きちんと整えられた寝台。

書きかけのまま閉じられた端末。

机の上に読みかけの本が置かれているのも、すべて見慣れた自分の部屋のはずなのに、今はどこか別の場所のように感じられる。


マーリンはゆっくりと部屋の中央まで歩き、それから力を失ったようにソファへ腰を下ろした。


静かだった。


屋敷の中なのだから、完全な無音ではない。

それでも、この部屋の中だけは奇妙なほど静まり返っていて、その静けさがかえって胸を圧迫する。


マーリンは膝の上に視線を落とした。


そこにあるのは、自分の手だけだった。

つい先日まで、その手はミハイルの手に触れていた。

お守りを差し出し、受け取ってもらい、別れ際にはそっと包まれもした。


なのに今、そのぬくもりを思い出そうとすると、指先からこぼれ落ちるみたいにうまく掴めない。


そのことが、たまらなく恐ろしかった。

マーリンは両手をぎゅっと握りしめ、ゆっくりと背を丸めた。


その拍子に、視界の端で小さなものが揺れた。

胸元に下げていた飾りだった。

ミハイルに渡したお守りと対になる、同じ意匠のもの。


それを見た瞬間、心のどこかに無理やり押し込めていた記憶が、一気に浮かび上がる。


――東方宙域では、お守りっていうらしいの。

――持っていてくれたら、私が少し安心するから。


あの時、ミハイルは笑って受け取ってくれた。

大切なものに触れるみたいに、丁寧に。

ありがとう、と穏やかに言って。


その笑顔が、まるでつい先ほどのことのように鮮やかに蘇る。


「……っ」


喉の奥で、小さく息が詰まった。


そこから先は、まるで堰を切ったようだった。


必ず帰ってくる、と言った声。

帰ってきたらまた出かけよう、と交わした約束。

ガゼボで一緒に食べた、いちごジャムのサンドイッチ。

次があるの、嬉しいもの――そう言った時の、自分の浮き立つような気持ち。


どれもまだ新しくて、どれもまだ温かい。

それなのに、それが今は全部、ひどく遠い。


「……どうして」


ぽつりと零れた声は、自分でも驚くほど弱かった。


どうして。

その言葉しか出てこない。


どうしてミハイルだったのか。

どうしてこんなにも簡単に失われてしまうのか。


問いかけても、答えはどこにもなかった。


部屋の静けさだけが、残酷なほどに変わらずそこにある。


マーリンは顔を伏せ、胸元の飾りを強く握りしめた。

小さな金具が掌に食い込む。


もし、これが夢なら。

もし、まだ何かの間違いなら。

そんな願いが、また頭をよぎる。


けれど、応接室での沈黙を思い出した瞬間、その願いはひどく脆く崩れた。


誰も否定してくれなかった。

誰も、違うとは言わなかった。

正式な報だと告げられたその事実だけが、じわじわと心の奥へ沈んでいく。


ミハイルは、本当に、帰ってこないのかもしれない。


そこまで考えた時、胸の奥のどこかが深く軋んだ。


息がうまくできない。

喉の奥が熱いのに、身体の芯は冷えていく。


そしてようやく、ひとしずく、涙が膝の上に落ちた。


それは驚くほど静かだった。


泣くつもりなどなかった。

泣いてしまえば、認めることになると思っていた。

けれど、ひとつ零れてしまうと、そのあとは止め方がわからなかった。


マーリンは声も立てずに俯いたまま、ただ涙を落とし続けた。


嗚咽はない。

激しく取り乱すこともない。

けれど、その静かな涙の方が、かえって深く胸を抉る。


ミハイルはもういない。


その事実が、ようやく、痛みとして身体の中へ入り込んできていた。


会いたい、とマーリンは思った。

ただ一目でいい。

声を聞きたい。

もう一度だけ名前を呼んでほしい。


けれど、その願いが叶わないのだとしたら。

本当に、もう二度と会えないのだとしたら。


マーリンは両手で顔を覆い、震える息を飲み込んだ。


一緒にガゼボで笑ったことも。

一緒にいちごジャムのサンドイッチを食べたことも。

恋人になれたのだと胸を満たした幸福も。

そのどれもが、今はあまりにも眩しく、あまりにも痛い。


どれほど時間が経ったのか、わからなかった。


ただひとつだけ、はっきりしていることがある。


ミハイルを奪われた。

自分から、大切な人を奪われた。


その感覚だけが、涙の底で、静かに、しかし消えることなく残り続けていた。



扉の向こうで、控えめなノックの音がした。


マーリンは顔を上げなかった。

どれくらいそうしていたのか、自分でもわからない。

窓の外の光は少しだけ傾き、室内の静けさは先ほどよりも深くなっているように思えた。


「お嬢様」


扉越しに聞こえてきたのは、クリスチーナの声だった。


その呼びかけに、マーリンはすぐには返事をしなかった。

声を出そうとすると、喉の奥がひどく強張って、うまく言葉になってくれない。


「……何」


ようやく絞り出した声は、思っていた以上に掠れていた。


扉の向こうで、クリスチーナがほんの一瞬言葉を探す気配がする。


「来客がございます」


その一言に、マーリンの指先がわずかに止まった。


来客。

こんな時に。


胸の奥に、疲れとも苛立ちともつかない鈍い感情が広がる。


誰にも会いたくなかった。

慰めの言葉も、気遣いも、今は何ひとつ受け止められる気がしない。

それどころか、誰かの口から改めてミハイルの名を聞くだけで、ようやく繋ぎ止めていた何かがまた壊れてしまいそうだった。


「断って」


ほとんど反射のようにそう言うと、扉の向こうが一瞬だけ静まる。


けれど、クリスチーナはすぐには引かなかった。


「……それが」


その声の含みだけで、ただの弔問ではないのだとわかる。


マーリンはゆっくりと顔を上げた。

涙の痕が残る頬に、まだ少しだけ乾ききらない熱がある。


「何」


今度は先ほどよりもはっきりと問う。


扉越しのクリスチーナは、慎重に言葉を選ぶように続けた。


「すでに、学園にも社交界にも、ある程度の話が広がり始めております」


その言葉に、マーリンは目を伏せた。


やはり、と思う。

そうなるだろうことは頭のどこかでわかっていた。

その想像するだけで、疲れ切っていた心がまた別の意味で強張る。


マーリンは膝の上で手を重ねた。

悲しみだけでいっぱいだったはずの胸の底に、じわりと別の感情が滲み始める。


こんなふうに、まだ何も整理できていないうちから。

まだ自分の中でさえ受け止めきれていないうちから。

外ではもう、ミハイルの死が()()として流れ、()として扱われ始めている。


そのことが、たまらなく侮辱のように思えた。


「……誰が来ているの」


しばらくしてから、マーリンは低く問うた。


今度の沈黙は短かった。


「カーチスライト様でございます」


その名が告げられた瞬間、部屋の空気がまた少しだけ変わった気がした。


ブライアン。

和平交渉の場に、ミハイルと共にいたはずの人間。

そして今、最も早くこの屋敷を訪れた男。


その事実だけで、胸の奥に沈んでいた悲しみがわずかに揺れる。

それはまだ怒りと呼ぶには早い。

だが、ただの悲嘆とも違う、鋭く硬い何かだった。


扉の向こうで、クリスチーナが静かに続ける。


「お通しするかどうかは、お嬢様のご判断にお任せいたします」


マーリンはすぐには答えなかった。


会いたくはない。

今は誰の顔も見たくない。

けれど、ブライアンだけは別だった。


あの場にいた人間。

ミハイルの最期に最も近かったかもしれない人間。

何かを知っているかもしれない人間。


その可能性が、マーリンの心をわずかに持ち上げる。

やがて、マーリンはゆっくりと唇を開く。


「……ここへ」


その声は、思いのほか静かだった。


「お通しして」


扉の向こうで、クリスチーナが小さく一礼する気配がした。


足音が遠ざかっていく。

ひとり残された部屋の中で、マーリンは無意識のうちに胸元の飾りへ触れていた。


その冷たい感触を指先で確かめながら、ゆっくりと息を吸う。


悲しみはまだ、胸の奥に深く沈んだままだった。


けれどその底で、何か別のものが、静かに目を覚まし始めていた。



扉が開くまでのわずかな時間が、ひどく長く感じられた。


マーリンはソファに座ったまま、姿勢だけは崩さずにいた。

涙の痕はすでに拭っている。

頬の熱も、呼吸の乱れも、どうにか表に出さないよう押し込めた。

そうしなければならないと、半ば無意識に思ったのだ。


やがて扉が静かに開き、クリスチーナが一歩下がる。

その向こうから姿を現したブライアンは、いつもと変わらぬ整った身なりをしていた。

乱れのない服装、隙のない所作、静かな足取り。

けれど、額の端に貼られた薄い保護材だけが、彼もまたあの場にいたのだと無言のまま物語っていた。


「……急な訪問を許してほしい、マーリン嬢。あの場にいた者として、君には私から話しておくべきだと思ったのでね」


ブライアンは数歩進み、マーリンの前で立ち止まる。

そしてゆっくりと頭を下げた。


「まずは哀悼の意を表する。君にとって、つらい報せだったことは理解している」


その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が小さく軋む。


哀悼。

つまりこの男もまた、ミハイルの死をすでに覆らぬものとして受け取っているのだ。


マーリンは膝の上でそっと指先を重ねた。


「……あなたも、その場にいらしたのよね」


挨拶も返さず、そう問うた自分の声が、思っていたより冷たく響いた。

けれど、今はそれを取り繕う気力もない。


ブライアンは否定しなかった。


「ああ。僕もあの場にいた」


「なら、教えてください」


マーリンは顔を上げる。


「何があったのですか」


その問いには、悲しみも怒りも、疑念もすべて混ざっていた。

何かを知りたい。

いや、知ることで、この現実を別の形に変えたい。

そんな焦りが、自分でも抑えきれないほど滲んでいた。


ブライアンはすぐには答えなかった。

一度だけ目を伏せ、慎重に言葉を選ぶような間を置く。


「交渉は、表向きには決裂だ」


表向き。

その一語に、マーリンの指先がぴくりと動く。


「……表向き?」


「そうだ」


ブライアンは静かに続けた。


「だが、僕はあれを単なる不成立と片づける気はない」


その声音はあくまで落ち着いていた。

感情を煽るような強さはない。

それなのに、言葉だけが妙に重く沈んでいく。


「途中までは、まだ立て直しの余地があった。互いに譲れぬ点はあったが、それでも完全な破談に至るほどではなかった。……少なくとも、あの瞬間までは」


「あの瞬間?」


「王国側が動いた」


短く、はっきりとした言葉だった。


マーリンの呼吸が止まる。

ブライアンは視線を逸らさないまま続ける。


「偶発的な衝突ではない。あれは最初から交渉を壊すための動きだ。帝国側から先に仕掛けたとは考えにくい。そう見るだけの理由が、あの場にはあった」


そこまで言い切られると、もはや疑いようがない。

少なくとも、今のマーリンにはそう思えた。


「……ミーシャは」


唇がかすかに震える。


ブライアンの声は変わらず低く、静かだった。


「最後まで収めようとしていた。誰よりも冷静だったよ。感情的にもならず、なお交渉を続けようとしていた。だからこそ、狙われたのだろう」


その一言が、鋭く胸に突き刺さる。


巻き込まれたのではない。

偶然でもない。

狙われた。


その輪郭を与えられた瞬間、マーリンの中で悲しみの形が変わりはじめる。


「王国が……」


気づけば、唇がそう動いていた。


ブライアンはその言葉を否定しなかった。

すぐに肯定もしない。

ただ、わずかに目を伏せるだけだった。


その沈黙は、どんな断言よりも雄弁だった。


やがてブライアンは静かに口を開く。


「少なくとも、ミハイルの死は王国側の動きと切り離して考えられない。僕はそう判断している」


部屋の中が、ひどく静かだった。


マーリンは胸元の飾りを指先で握りしめた。

小さな金具の冷たさが、皮膚を通してじわりと広がっていく。


ミハイルは、最後まで収めようとしていた。

それなのに。

それなのに、死んだ。


悲しみだけでは立っていられなかった場所に、別の何かが流れ込んでくるのを、マーリンははっきりと感じていた。


ブライアンはそれ以上何も押しつけなかった。

ただ静かに、けれど確実に、マーリンの中へ材料だけを置いていった。


「必要なら、僕の知る限りのことは話そう。マーリン嬢には知る権利がある」


最後にそう言って、ブライアンは一礼する。


その物腰はどこまでも丁寧で、非の打ち所がない。

それなのに、ブライアンが去ったあとにも、部屋の中にはひどく冷たいものだけが残った。


扉が閉まる。


その音が、やけに大きく響いた。



扉が閉まったあとも、しばらくその音だけが耳の奥に残っていた。


マーリンはソファに座ったまま、すぐには動けなかった。

つい先ほどまでブライアンが立っていた場所を、ただじっと見つめる。

けれどそこにはもう誰もおらず、部屋の中には沈みきった静けさだけが広がっていた。


王国側が動いた。

ミハイルは狙われた。


ブライアンが残していった言葉が、頭の中でゆっくりと形を持ちはじめる。


事故でも、不運でもない。

誰かが仕掛け、交渉を壊した。

その()()として、ミハイルは死んだ。


そこまで考えた瞬間、胸の奥が鋭く痛んだ。


悲しい。

苦しい。

会いたい。

その気持ちは、少しも消えていない。


けれどその悲しみの底へ、先ほどまでなかった熱がゆっくりと流れ込みはじめている。


()()()()()()()


マーリンは胸元の飾りを強く握りしめた。

小さな金具が掌に食い込む。


ミハイルは最後まで収めようとしていた。

感情的にならず、なお交渉を続けようとしていた。

それなのに、狙われた。


その言葉の並びは、まるで歪んだ刃のように、何度も胸の内を引き裂いていく。


「……どうして」


かすれた声が、静かな部屋に落ちる。


どうして、ミハイルだったのか。

どうして、あの人が死ななければならなかったのか。

どうして、最後まで争いを止めようとした人が、そういう形で奪われなければならなかったのか。


答えはない。

けれど今のマーリンには、その問いの先に浮かぶ影がひとつしかなかった。


王国。


その二文字を意識しただけで、胸の奥の熱がわずかに色を変える。


「……許さない」


それは気づけば、唇から零れていた。


驚くほど小さな声だった。

けれど、その一言だけは妙にはっきりしていた。


許さない。

ミハイルを奪ったものを。

あの人の未来を断ち切ったものを。

自分がようやく手にした幸福を、こんな形で踏みにじったものを。


マーリンはゆっくりと顔を上げる。

窓の外では、夕刻の光が薄く庭園を染めていた。

その穏やかさが、今はひどく遠い。


また会えるのだと信じていた。

帰ってきたら、今度は自分が行き先を決めるのだと、そんな未来を疑いもしなかった。


それを奪われた。


その実感が、ようやく悲しみの奥で輪郭を持ちはじめている。


ミハイルは帰ってこない。

そしてそれは、ただ失われたのではない。

奪われたのだ。


マーリンは膝の上でゆっくりと手を開いた。

掌には、飾りの金具が食い込んだ跡が残っている。


その赤い痕を見つめた瞬間、胸の中に沈んでいたものが、少しだけ別の形を取った気がした。


泣きたい。

叫びたい。

今すぐ全部を壊してしまいたい。


まだ何をすべきかはわからない。

まだどうすればいいのかも見えていない。

けれど、ただ喪うだけで終わるつもりはないと、その一点だけは妙に静かに胸へ沈んでいく。


「……ミーシャ」


その名を呼ぶ声は、祈りのようでもあり、誓いのようでもあった。


マーリンはそっと目を閉じる。


瞼の裏に浮かぶのは、最後に見たミハイルの笑顔だった。

必ず帰ってくる、と言ったあの声。

その約束を壊したものがあるのなら。


それを、許してはいけない。


そう思った瞬間、悲しみの底に沈んでいた感情が、初めてはっきりとひとつの形を取った。


それはまだ、復讐と呼ぶには早い。

だが、もうただの喪失ではなかった。


ミハイルを奪ったものへ向けて、マーリンの心は静かに牙を剥きはじめていた。

ここまでお読みいただき有り難うございました。


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