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笑って見送ったあとで

ご覧いただきありがとうございます。

評価、ブックマークしていただきありがとうございます。


しばらく立て込んでおりまして更新が滞っております。申し訳ありません。


文章多めとなっております。

その日、マーリンは落ち着かない様子で何度も窓の外に目を向けていた。


まだ時間はある。そうわかっているのに、胸の奥のざわつきはどうしても収まらない。

部屋の中を行ったり来たりするその姿を、控えていたクリスチーナは静かに見守っていたが、やがて小さくため息をついた。


「お嬢様。さきほどから何度も窓辺を往復なさっています。少しお座りになってはいかがですか?」


その声に、マーリンははっとしたように足を止めた。


「そんなに歩いていたかしら」


「ええ。とてもわかりやすく」


そう言われてしまえば、さすがに少し気恥ずかしい。

マーリンは小さく息をつきながら、自分の頬にそっと触れた。


ミハイルは和平交渉へ向かう出発の前に、わざわざマーリンの元へ立ち寄っていた。

これから向かうのは、戦争を終わらせるための交渉の場だ。

危険な戦場へ赴くわけではない。そう頭では理解している。


それでも心が穏やかでいられないのは、そこへ向かうのが、今のマーリンにとって何よりも大切な人だからなのだろう。


「……そんなに、顔に出てる?」


「はい。ですから、せめてお見送りの時くらいは、もう少し穏やかなお顔をなさってくださいませ。ミハイル様に余計なご心配をおかけになります」


クリスチーナの言葉はもっともだった。

見送る相手にまで不安を背負わせたいわけではない。


「ちゃんと笑えるかしら」


「お嬢様は自然になさっていれば十分お綺麗です」


「それは励ましてるの?」


「本当のことを申し上げただけです」


涼しい顔で返され、マーリンは少しだけ笑った。

そんなやり取りひとつで、張りつめていた気持ちがほんのわずかに和らぐ。


マーリンは机の上に置いてあった小さな包みへと視線を向けた。

深い藍色の布で丁寧に包まれたそれは、ここ数日一人で考えた末に用意したものだった。


「……やっぱり、変じゃないかしら」


「何がでございますか?」


「これ」


マーリンは包みを手に取ると、少し迷うように胸の前で見つめた。


「東方宙域には、お守りというものがあるのでしょう? 持っているだけで、大切な人の無事を願えるもの」


「ええ。そのように伺っております」


「本当に効くかどうかなんてわからないけれど……何もしないで待っているだけよりは、と思って用意したけれど」


そこまで言ってから、マーリンはわずかに目を伏せた。


「……重いと思われないかしら」


本音だった。

恋人になれたことが嬉しい反面、距離感には、まだ少し迷ってしまう。

まして今日のような日に、こんなものを渡せば、自分の不安を押しつけているようにも思えた。


けれどクリスチーナは、そんな主人の逡巡をあっさりと断ち切る。


「ミハイル様は、お嬢様からの贈り物を迷惑になど思われません」


「……そうかしら」


「ええ。むしろ、お喜びになるかと」


その言葉に少しだけ勇気づけられ、マーリンは包みをそっと握りしめた。


やがて扉がノックされ、使用人がミハイルの到着を告げる。


その瞬間、マーリンの胸は大きく脈打った。

待っていたはずなのに、いざその時になると足が少しだけ重い。

それでも顔を上げ、なるべくいつも通りに見えるよう気持ちを整えてから部屋を出た。



ロビーに立っていたミハイルは、いつもと変わらぬ穏やかな面差しをしていた。


「おはよう、マーリン」


「おはよう、ミーシャ」


名前を呼ばれただけで、表情がやわらいでしまうのを自覚する。

それが嬉しい反面、余計に離れがたさを募らせた。


「もう出るの?」


「ああ。そろそろな」


たったそれだけのやり取りのあと、マーリンは一瞬言葉に詰まった。

本当は言いたいことなど、いくらでもある。

行かないでほしい。危ない目に遭わないでほしい。無事に帰ってきてほしい。

けれど、そのどれもがミハイルを困らせるだけだとわかっていた。


だから、マーリンは胸の内を押し隠す代わりに、手にしていた小さな包みを差し出した。


「ミーシャ。これ……受け取ってくれる?」


ミハイルはわずかに目を見開き、それから包みへと視線を落とした。


「これは?」


「東方宙域では、お守りっていうらしいの。持っている人の無事を願うものなんですって」


少し照れくさくて、最後はどこか説明めいた口調になってしまう。

そんな自分をごまかすように、マーリンは続けた。


「その……絶対に何かが起きないようになる、とか、そういうものではないと思うのだけど。でも、持っていてくれたら、私が少し安心するから」


言い終えた瞬間、自分でもずいぶん身勝手なことを言った気がして、マーリンはほんの少し頬を染めた。


けれどミハイルは笑わなかった。

ただ、とても大切なものを扱うようにその包みを受け取る。


「ありがとう、マーリン」


その一言だけで、渡してよかったのだと思えた。


「……頑張ってね。ミーシャならきっと大丈夫だわ」


ミハイルはその顔を見て、わずかに目を細めた。


「……あまり、そういう顔をしないでくれ」


「え?」


「笑ってくれるのは嬉しい。けれど、無理をしているのはわかる」


やはり隠しきれないらしい。

そのことに少しだけ安堵しながら、マーリンは小さく視線を伏せた。


「だって……心配なんだもの」


するとミハイルは困ったように、それでいて優しく笑った。


「わかっている」


そう言ってミハイルは、そっとマーリンの手を取った。


「必ず帰ってくる」


その言葉は慰めのための軽い約束には聞こえなかった。

だからこそ、マーリンは余計に胸を締めつけられる思いがしたのかもしれない。


「……うん」


「帰ってきたら、また出かけよう」


「次は、私が行き先を決める番よ」


「もちろん」


「じゃあ、とっておきの場所を考えておくわ」


なんとかそう答えると、ミハイルは静かに頷いた。


繋いだ手を離すのが惜しい。

けれど、いつまでもこうしているわけにもいかない。

屋敷の者たちの目があることも、ミハイルが行かなければならない立場にあることも、マーリンは十分に理解していた。


「……行ってらっしゃい、ミーシャ」


ようやくそう言って、マーリンは手を離した。


ミハイルは一度だけ名残を惜しむようにマーリンを見つめ、それから踵を返す。

その背中が遠ざかっていくのを、マーリンはまっすぐ見送った。


せめて最後まで、笑っていよう。

そう決めていたはずなのに、姿が見えなくなるそのほんの少し前、ミハイルがふと振り返った瞬間にだけ、胸の奥で小さな不安がまた鋭く疼いた。


どうか――。


声にならない願いだけが、春の朝のやわらかな光の中に、ひっそりと沈んでいった。



ミハイルの姿が見えなくなっても、マーリンはしばらくその場から動けずにいた。


正面玄関から見える空はよく晴れていて、遠くで風に揺れる木々の枝先がきらきらと光っていた。

こんなにも穏やかな朝だというのに、胸の奥に沈んだものだけが、どうしても晴れてくれない。


ついさきほどまで、たしかにここにミハイルがいた。

名前を呼んで、手を取ってくれて、必ず帰ってくると約束してくれた。


なのに、そのぬくもりはもう手の中にない。


マーリンはゆっくりと自分の右手に視線を落とし、ほんの少し前までミハイルの大きな手に包まれていたそこを、指先でそっと撫でた。


――必ず帰ってくる。


その言葉を思い出すたび、少しだけ救われる気持ちになる。

けれど同時に、胸の奥がきしむようにも痛んだ。


「お嬢様」


背後からかけられた控えめな声に、マーリンはようやく現実へ引き戻される。


「……ごめんなさい。少し、ぼんやりしていたわ」


「そのようでございますね」


叱るでもなく、ただ事実を述べるような口調だった。


「ちゃんと笑って見送れたかしら」


ぽつりと零した言葉に、クリスチーナは一瞬だけ目を瞬かせる。


「はい。とてもお美しゅうございました」


「そういう意味ではないのだけれど」


少しだけ唇を尖らせると、クリスチーナはかすかに微笑んだ。


「でしたら、きっと伝わっております。お嬢様のお気持ちは」


その言葉に、マーリンは何も返せなかった。

伝わっていてほしいと思う。

けれど同時に、それがミハイルの足枷になってはいないかと、そんなことまで考えてしまう。


マーリンは無意識に、自分の胸元へ手をやった。

そこにはもう、小さな包みはない。

代わりに残っているのは、それをミハイルが受け取ってくれた時の、あの穏やかな表情の記憶だけだった。


「……笑ってくれたわね」


「はい」


「迷惑じゃないって、思ってもいいのよね」


「もちろんでございます」


その答えには一片の迷いもなかった。


それでようやく、マーリンは小さく息を吐く。

不安が消えたわけではない。

けれど、あの贈り物を渡したことだけは間違いではなかったのだと、そう思えた。


遠くで車の駆動音が完全に聞こえなくなる。

それと同時に、屋敷の朝は何事もなかったかのように再び静けさを取り戻していった。


けれど、マーリンにとってはもう、先ほどまでと同じ朝ではなかった。


大切な人を見送った。

それだけのことが、胸の中にぽっかりと空白を穿っている。


このままここに立っていては、いつまでも同じことばかり考えてしまいそうだった。


「……行きましょう、クリス」


「かしこまりました」


踵を返しながら、マーリンは一度だけ玄関の向こうを振り返る。


もうそこに、ミハイルの姿はない。

マーリンは視線を伏せ、胸の内だけで小さく呟いた。


――無事で、帰ってきて。


それは見送る時に飲み込んだ願いの、続きのようなものだった。



ミハイルを見送ったその日から、マーリンはどうにも落ち着かなかった。

翌日になっても胸の内のざわめきは消えず、学園で講義を受けていても、意識は何度も遠くへ引きずられてしまう。


黒板には講師の整った文字が次々と並び、それを端末に記録していく生徒たちの指先が規則的な音を立てている。


窓の外、風に揺れる若葉が目に入るたび、マーリンの意識はするりと講義室の外へ滑っていった。


今ごろ、ミハイルはどこまで進んだだろうか。

そんなことを考えたところで答えが出るはずもないのに、思考は何度もそちらへ引き寄せられる。


――必ず帰ってくる。


見送りの際に交わした言葉が、ふいに胸の奥で蘇った。


「――では、この件についてロイス嬢、君はどう考える?」


不意に名を呼ばれ、マーリンははっと顔を上げた。


教壇の上では、老教授が眼鏡の奥からこちらを見ている。

周囲の視線が一斉に集まり、胸がひやりと冷えた。

どうやら、また意識が逸れていたらしい。


問いかけの内容を急いで拾い集め、マーリンは一拍置いてから口を開く。


「……現状では、両国とも決定打を欠いております。講和を模索する動き自体は妥当ですが、前線で小規模衝突が続いている以上、成立には軍事面だけでなく政治的な調整も必要かと」


教授はゆっくりと頷いた。


「うむ。概ねその通りだ」


講義室の空気がわずかに緩む。

マーリンも平静な顔を保ったまま息を整えたが、指先だけは机の下で小さくこわばっていた。


講義の題材に選ばれていたのは、まさに今この帝国と王国のあいだで続いている戦争だった。

しかも、その和平交渉の場にはミハイルが向かっている。


よりにもよって、と思う。

まるで現実が逃げ場を塞ぐように、何度でもミハイルの存在を突きつけてくる。


だがそれを顔に出すわけにはいかない。

公爵令嬢として、周囲に弱みを見せるべきではないこともわかっている。

頭ではわかっていても、心まで思い通りになるわけではなかった。


講義の終盤、ふと隣席の生徒がめくった紙資料の端に目が留まる。

そこには簡易化された星域図が載っていた。

帝国領と王国領、そのあいだに引かれた前線の表示。


その線を見た瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。


たった一本の線で区切られているように見えても、その向こう側には砲火があり、人が傷つき、死んでいく現実がある。

そして今、ミハイルはその現実に近い場所へ向かっている。


マーリンは無意識のうちに、膝の上で指先をきゅっと握りしめていた。


その時、終業を告げる音が講義室に鳴り響く。


講義室のあちこちで椅子を引く音と小さなざわめきが広がった。

マーリンも周囲と同じように静かに立ち上がる。

何事もなかったかのように端末を閉じ、乱れのない所作で教材をまとめるその姿は、いつものマーリンと少しも変わらないように見えただろう。


けれど、胸の内だけは違っていた。

講義室を出る直前、マーリンは一度だけ窓の外へ目を向ける。

春の光は相変わらず穏やかで、世界は何も変わっていないように見えた。


――そんなはず、ないのに。


胸の奥で小さくそう呟いた感情は、声にも形にもならないまま、再び静かに沈んでいった。



ミハイルを見送ってから、二日、三日と日が過ぎた。


そのあいだも学園の日常は容赦なく続き、マーリンは講義に出て、生徒会へ顔を出し、公爵令嬢としての振る舞いを崩さぬよう努めていた。

けれど、時間が過ぎるほどに胸の内の不安は薄れるどころか、じわじわと広がっていく。


その日も講義を終えたマーリンは、その足で生徒会室へと向かった。


放課後には役員会が予定されている。

気分が優れないからといって欠席するわけにはいかない。

役目を引き受けた以上、私情を理由に手を抜くつもりはなかったし、そんな隙を見せれば余計な憶測を呼ぶこともわかっていた。


生徒会室の扉を開けると、すでに副会長と数名の役員たちが集まっていた。

そして、その一角にはアンネリーゼの姿もある。


マーリンが入室したのに気づくと、アンネリーゼは扇子をひらりと揺らしながら、いかにも優雅に微笑んでみせる。


「ごきげんよう、マーリン様」


「ごきげんよう、アンネリーゼ様」


互いに笑みを浮かべ、礼を失さぬよう挨拶を交わす。

端から見れば、それはどこまでも貴族令嬢らしい美しい光景に映ったことだろう。


だが、そこに親しみなど欠片もなかった。

むしろ、追い落とせる相手として見ている節さえあった。


「本日は少しお顔色が優れませんのね」


扇子の向こうで、アンネリーゼが柔らかく目を細める。

その声色はいたって丁寧だったが、本気の気遣いでないことくらい、マーリンにもわかった。


「少し寝不足なだけです。ご心配なく」


「あら、それはようございました。今は何かと大変な時期ですものね」


その言葉に、取り巻きの令嬢たちが小さく視線を交わす。


何が()()()なのか。そこまで露骨には言わない。

言わないからこそ、貴族社会では十分だった。


生徒会長が不在の間、残された役員たちで仕事を回す。

ただそれだけのことのはずだった。


けれど、ブライアンの名を意識した途端、マーリンの胸にはあの薄い違和感がまた浮かび上がる。


「それでは、始めましょう」


副会長の声で役員会が始まった。

議題は次期行事の進行確認、予算配分、役員ごとの担当整理といった、どれも学園の日常を回すためのものばかりである。


マーリンも配布資料に視線を落とし、求められれば的確に意見を述べた。

少なくとも外から見れば、今日のマーリンも普段と変わらぬ冷静さを保っているように見えただろう。


だが実際には、意識の底で別の思考が絶えず揺れていた。


交渉は今、どこまで進んでいるのだろう。

ミハイルは無事だろうか。

そして、その傍らでブライアンは何を考えているのだろう。


「マーリン嬢。この予算案については、どう考える?」


不意に副会長に話を振られ、マーリンは意識を引き戻した。

ほんの一瞬、返答が遅れる。


「……そうですね。この配分ですと来月の臨時催事には少々余裕が足りません。備品費を見直して、予備枠をもう少し確保しておいた方がよろしいかと」


「なるほど。その方向で修正しよう。次は――」


答えそのものは適切だった。

けれど、自分が一瞬遅れたことを、マーリン自身がいちばんよくわかっていた。


役員会が滞りなく終わり、副会長と役員たちが後片づけを始め、取り巻きの令嬢たちもアンネリーゼの周囲へ集まっていく。


マーリンも静かに席を立った。

やるべきことはきちんとやったはずなのに、少しも気は晴れない。

むしろ、目に見えない何かにじわじわと追い詰められていくような息苦しさばかりが残っていた。


このまま次の予定へ向かう気には、どうしてもなれなかった。



ミハイルを見送ってから、もう()()が過ぎていた。

ミハイルの言葉を思えば、まだおかしなことではない。

そう頭では理解しているのに、報せのない時間は、マーリンの心を少しずつ擦り減らしていった。


生徒会室を出たあと、マーリンはしばらく廊下を歩いた。

次の予定までまだ少し時間はある。

本来ならそのまま自習室へ向かうか、いったん講義室へ戻るべきなのだろう。

けれど、どうしてもそんな気にはなれなかった。


マーリンの足が向かった先は、学園の外れだった。


校舎から離れるにつれ、行き交う生徒の姿は少なくなる。

整えられた石畳の道を折れ、植え込みに囲まれた小径を抜けた先。

ひっそりと佇む小さなガゼボは、今日も変わらずそこにあった。


誰にも邪魔されない場所。

そして何より、ミハイルと過ごした記憶がまだ静かに残っている場所だった。


中へ入ると、春の風が細く吹き抜け、蔦の葉をかすかに揺らしていた。

差し込む光はやわらかく、昼下がりの空気は驚くほど穏やかだ。

それなのに、ここへ来た途端、胸の奥に押し込めていた感情がじわりと浮き上がってくる。


マーリンはそっとベンチに腰を下ろした。

少し前まで、隣にはミハイルがいた。


同じ場所。

同じベンチ。

ついこのあいだまで、ここは一人でやり過ごすための場所だったはずなのに、今ではもう違う。

ミハイルと並んで座って、名前を呼ばれて、笑って、同じものを食べてもいい場所に変わってしまった。


そのことを思い出した途端、マーリンの胸によみがえったのは、あの甘い香りだった。


いちごジャムのサンドイッチ。


紙袋から取り出して、透明なフィルムをもどかしそうに剥がして、ようやく口にしたあの味。

甘酸っぱい苺の香りが口いっぱいに広がった瞬間、嬉しくて仕方がなくて、思わず頬に手を当ててしまったことまで、ありありと思い出せる。


マーリンは膝の上でそっと指を重ねた。


今度は、いちごジャムだけじゃなくて、クリーム入りもお願いね。


あの時、少しだけ胸を張ってそう言った自分の声まで蘇る。

そして、そのあとに口をついて出た言葉も。


――次があるの、嬉しいもの。


あの時は、本当にただ嬉しかった。

またここへ来られる。

また隣に座れる。

また同じように笑える。

そんな()があることが、胸の奥にやさしく落ちていくのを感じていた。


けれど今、その言葉を思い返すと胸の奥がきしむように痛んだ。


次がある。

そう信じたからこそ、今はこんなにも心細い。

声が聞きたい。顔が見たい。ただ隣にいてほしい。


ガゼボの外では、風に揺れた枝先から、ひらりと淡い花びらが舞い落ちる。

それを目で追いながら、マーリンはふと先日の自分を思い返した。


今さら考えたところで仕方がない。

そんなことはわかっているのに、思考は同じところを何度も巡ってしまう。


――ありがとう、マーリン。


包みを受け取った時の、ミハイルの穏やかな声が蘇る。

あの時、たしかにミハイルは笑ってくれた。

迷惑そうな色など、少しもなかった。

それなのに、安心したい気持ちとは裏腹に、胸騒ぎだけがどうしても消えてくれない。


それでも、どこかで願っていたのだ。

今回はきっと大丈夫だと。

ミハイルは必ず帰ってきて、またここで会えるのだと。


「……怖い」


零れた声は、思っていたよりもずっと小さかった。

誰に聞かれるでもないその場所で、ようやく口にできた本音だった。


ミハイルがいれば、大丈夫だと思えた。

どれほど苦しくても、どれほど心が乱れても、ミハイルがそこにいてくれるだけで、糸が切れずに済んでいた気がする。


その糸が、今は遠い。


その時、どこか遠くで鐘の音が鳴った。


次の時間を告げる合図だ。

現実へ戻れと急かすようなその音に、マーリンはゆっくりと顔を上げる。


どれだけここにいたところで、ミハイルから報せが届くわけではない。

不安が消えるわけでもない。

それでも、ほんの少しだけでもこうして立ち止まれたから、次の一歩を踏み出せる――そんな気がした。


マーリンは立ち上がり、乱れのないよう制服の裾を整える。


もう一度だけ、ガゼボの中を見渡した。

静かで、やさしくて、残酷なほどに思い出に満ちた場所。


「……また、来るわ」


誰に聞かせるでもなくそう呟いて、マーリンは踵を返す。


それでも入口の手前で、足がほんの一瞬だけ止まった。

しかし、立ち止まってはいられない。


マーリンは小さく息を吸い、歩き出す。


春の光は相変わらず穏やかだった。

なのに、その穏やかさが今はひどく遠く感じられる。


胸の奥に沈んだ不安は、少しも薄れてはいなかった。

むしろ、一人になったことでその輪郭をいっそうはっきり与えられたようですらある。


そしてその不安は、次に訪れるものが決して良い知らせではないのだと、まだ形にならないまま、静かに告げているようだった。



校舎へ戻る道すがら、マーリンはもう一度だけ深く息を吸った。


春の空気はやわらかく、頬を撫でる風も穏やかだ。

けれど、中央棟へ足を踏み入れたあたりから、空気の僅かな違いが肌に触れはじめた。


廊下を行き交う生徒たちのざわめきが、どこか落ち着かない。

ひそひそと囁き合う声が、いつもより低い。

気のせい、と片づけるには、それはあまりにも揃いすぎていた。


マーリンは表情を変えぬまま、歩調を乱さず廊下を進む。


その途中、廊下の端に立っていた生徒会役員の一人が、マーリンの姿を見た途端、気まずそうに視線を逸らした。

何かを知っている――そう感じさせるには十分な反応だった。


マーリンは足を止めた。


「何かあったのですか?」


穏やかに問いかけると、その役員は小さく肩を揺らした。


「い、いえ……その……」


歯切れの悪い返答だった。

明らかに何かを知っている。あるいは、何かを聞いたのだろう。


「何かあったのなら、はっきり仰ってください」


声を厳しくしたつもりはなかった。

それでも相手はびくりと身を強ばらせる。


「……申し訳ありません。私も、詳しくは……まだ」


その言葉に、胸の奥がひやりと冷えた。


詳しくは、まだ。

その言い方はつまり、何もないわけではないということだ。


「そう、ですか……」


マーリンはそれ以上追及しなかった。

ここで問い詰めたところで、確かな答えが返ってくるとは限らない。

むしろ中途半端な噂だけを拾えば、余計に心が乱れるのはわかっていた。


それでも、胸騒ぎだけは抑えられない。


役員と別れたあとも、歩きながら耳に入ってくる断片的な声が、嫌でも意識に引っかかる。


「交渉が……」

「いや、まだ正式には……」

「でも、評議会筋から――」


階段を上がったところで、今度は見慣れた姿が目に入る。


クリスチーナだった。


本来であれば、この時間にクリスチーナがここまで出てくることは決してない。

しかも、いつもの落ち着いた佇まいではなく、明らかにマーリンを探していたのだとわかる様子で立っている。


目が合った瞬間、クリスチーナの表情がわずかに強ばった。

その顔を見た時、マーリンの胸の内で何かが、音もなく沈んだ。


「クリス」


呼びかける声は、自分でも驚くほど静かだった。


クリスチーナは周囲を一度だけ確認すると、すぐにマーリンの傍まで歩み寄る。

その足取りには、普段の彼女にはない硬さがあった。


「お嬢様」


「何があったの」


問い返しは、ほとんど反射だった。

クリスチーナは一瞬だけ口を閉ざし、それから声を落とす。


「……屋敷より連絡が入っております」


その一言だけで十分だった。

ただの呼び出しではない。それがわかる。


「お父様から?」


「いえ。屋敷の方で、至急お戻りいただきたいと」


マーリンはゆっくりと息を吸った。


「……内容は?」


クリスチーナは、今度こそすぐには答えなかった。


答えられないのではない。

ここで口にすべきかを迷っているのだ。

その一瞬の躊躇が、かえって何より雄弁だった。


良い報せではない。

それだけは、もうはっきりしている。


「場所を変えましょう」


ようやく絞り出すように言ったクリスチーナに、マーリンは黙って頷いた。


二人は並んで歩き出す。

だが、ほんの数歩進んだだけで、マーリンは気づいてしまう。


和平交渉に関する報せだ。


そう直感した瞬間、胸の奥に沈んでいた不安が、ただの曖昧な予感ではなく、冷たい現実の影として形を持ちはじめた。


マーリンは無意識のうちに、ぎゅっと指先を握り込む。


どうか、違って。


そう願う心とは裏腹に、足は一歩ずつ、確実に悪い報せの方へと運ばれていった。



クリスチーナに伴われ、マーリンは学園内の応接室のひとつへ入った。

普段であれば来客や一時的な打ち合わせに使われるだけの、何の変哲もない部屋だった。


室内には、屋敷からの使いとして見知った使用人が一人、硬い表情で控えていた。

マーリンが入ると、使用人は深く頭を下げる。


「お嬢様」


その声もまた、ひどく固かった。


マーリンは勧められるまま椅子に腰を下ろした。


座ってしまえば、もう逃げ場はない。

そう頭のどこかで思いながらも、マーリンは表情を崩さなかった。

崩せなかったのかもしれない。


「……報せとは、何かしら」


先に口を開いたのはマーリンだった。

自分でも驚くほど、声は静かだった。


使用人はわずかに視線を伏せる。

その一瞬の間が、ひどく長く感じられた。


「本日、評議会筋より正式な報が入りました」


正式な報。


その言葉だけで、胸の奥が冷えていく。


「和平交渉は――決裂したとのことです」


マーリンは何も言わなかった。

言えなかった。


使用人はなおも続けた。


「交渉の場で混乱が生じ、随行していた方々にも被害が出たと……」


そこまで聞いた時、マーリンの指先が微かに震えた。


随行していた方々。

その中に誰が含まれているのか、考えるまでもない。

なのに心はまだ、続きを拒んでいた。


「その中のお名前に……」


お願い。

やめて。

それ以上、聞きたくない。


胸の奥のどこかで、たしかにそう叫ぶ声がした。

けれど唇は動かない。

止める言葉が、出てこない。


「ミハイル=ルフトハンザ様は――」


その名を聞いた瞬間、世界から音が遠のいた気がした。


「死亡が確認された、とのことです」


マーリンは何を言われたのか、一瞬わからなかった。

ここまでお読みいただき有り難うございました。


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