約束
ご覧いただきありがとうございます。
全弾迎撃成功。
その言葉が、通信網を走った。
最初は、誰もすぐには理解できなかった。
空にはまだ爆光の残りが漂っていた。
迎撃弾の軌跡。
砕けたミサイルの破片。
高高度の風に流される白い煙。
王都へ向かっていた二十の赤点は、すべて消えていた。
ひとつも残っていない。
管制の声が、ノイズ交じりに繰り返す。
『全弾迎撃成功。王都への直撃なし。繰り返す、全弾迎撃成功』
その瞬間、作戦空域の通信が弾けた。
『やった!』
『王都が助かった!』
『全弾だ! 全弾止めた!』
『ローレがやった!』
『八番機が止めたんだ!』
『ローレ! 聞こえるか! お前、やったんだぞ!』
誰かが叫ぶ。
誰かが泣く。
誰かが笑う。
通信の向こうで、地上管制の声まで震えていた。
王都は救われた。
ハネダ亭も。
学園も。
市場も。
地下シェルターに身を寄せている人たちも。
シャトルに乗れなかった人たちも。
まだ空を見上げることができる。
それは、喜ぶべきことだった。
歓声は当然だった。
誰もが、恐怖の底から一気に引き上げられたのだ。
叫ばずにはいられない。
泣かずにはいられない。
笑わずにはいられない。
けれど。
シュヴァルベ=ユンカースは、歓声の中で静かだった。
一番機のコクピットで、彼女は身じろぎもしなかった。
全周囲モニターには、赤点消失の表示が並んでいる。
王都防衛網の安堵を示す青い表示。
正規部隊の帰投命令。
残存学生機への待機指示。
それらが、正常な情報として流れていく。
だが、シュヴァルベの視線はそこにはなかった。
彼女が見ていたのは、ひとつの表示だけだった。
八番機。
プラット機。
高度低下中。
姿勢制御不能。
リンク反応微弱。
通信応答なし。
落下。
その文字が、歓声のすべてを遠ざけていた。
「ヒースローさん」
シュヴァルベは言った。
声は静かだった。
静かすぎた。
『はい、ユンカース様』
セシリア=ヒースローの声が、通信に返る。
その声は、すでに震えていた。
「ローレさんの状態を報告してください」
短い命令だった。
隊長としての声。
感情を押し殺した声。
けれど、その奥にあるものを、セシリアは聞き取ってしまった。
『八番機、機体損傷多数。右腕部機能低下。背部スラスター二基沈黙。脚部姿勢制御、応答不安定。外部センサーの大半が消失しています』
セシリアの声は、まだ報告の形を保っていた。
彼女は見ていた。
ずっと。
ローレッタが単機で前へ出た時から。
赤点十七へ向かい、ソードで姿勢制御部を切った時から。
赤点十八を地上軍の射線へ押し込んだ時から。
赤点十九でソードを砕き、右腕を壊した時から。
赤点二十へ機体ごと突っ込んだ時まで。
ずっと、数字を見ていた。
魔力残量。
リンク深度。
身体負荷。
機体負荷。
警告表示。
低下していく反応。
消えていくセンサー。
それでも動き続ける八番機。
見ていた。
見てしまった。
『魔力反応は……』
そこで、セシリアの声が詰まった。
通信の向こうで、小さく息を吸う音がした。
誰も割り込まなかった。
歓声はまだ続いているはずだった。
だが、第一小隊の通信だけは静まり返った。
『魔力反応は、ほとんど消えかけています』
セシリアは言った。
声が細い。
『通信にも反応がありません。先ほど、わずかな音声反応がありましたが、それ以降は……ありません』
シュヴァルベの指が、インタフェースの内側で動かなかった。
動かせなかった。
「生命反応は」
『生体モニターは不安定です。耐Gスーツ側の信号が途切れています。完全なロストではありません。でも、数値が……低いです』
セシリアは最後まで言えなかった。
低い。
危険域。
意識不明。
重度負荷。
言葉はいくつもある。
けれど、どれもローレッタには使いたくなかった。
『機体は、落下しています』
セシリアの声が、ついに崩れた。
『ローレさんの反応が、戻りません』
その報告を終えた直後、セシリアは通信の向こうで息を詰まらせた。
そして、静かに泣き崩れた。
大きな泣き声ではなかった。
セシリアらしい、抑えようとして抑えきれなかった嗚咽。
それが通信に乗った。
その音で、歓声が止まり始めた。
まず、第一小隊の声が消えた。
トムが何かを言いかけ、言葉を失う。
ミリアの呼吸が乱れる。
ダッソーも、ピラタスも、ブレゲも沈黙する。
さらに、作戦回線の騒ぎが少しずつ小さくなった。
誰かが気づいたのだ。
王都は救われた。
でも、八番機が落ちている。
それを止めた少女が、返事をしない。
歓声は、波が引くように消えていった。
残ったのは、機体警告の音と、管制の切迫した声だけだった。
『救難隊、八番機落下予測地点を算出中』
『救援可能機、応答せよ』
『高度低下、危険域』
『八番機、応答願います。プラットさん、応答してください』
誰も応答しない。
八番機からは、返事がない。
シュヴァルベは、言葉を出せなかった。
ローレッタを失うかもしれない。
その可能性が、ようやく形を持って胸に突き刺さった。
それまでは、考えないようにしていた。
考えれば、指揮が崩れる。
声が揺れる。
隊が崩れる。
だから、見ないようにしていた。
止めても止めても前へ出ていく八番機。
白い魔力の軌跡。
高G機動で歪む機体。
壊れていくソード。
赤い警告。
それでも止まらないローレッタ。
見ていた。
でも、失うとは思いたくなかった。
戻ると言ったから。
約束したから。
必ず戻ると言ったから。
もし戻れなかった、その時は迎えに来てください。
私、待ってますから。
約束です。
その声が、通信の奥でまだ残っている。
シュヴァルベは唇を噛みそうになり、やめた。
そんなことをしても何も変わらない。
何も。
なのに、身体が震えた。
指先が冷たい。
息が浅い。
訓練でローレッタへ何度も言った言葉が、自分の中で空回りする。
呼吸を。
あなたの状態を聞いています。
戻ることを優先してください。
すべて、彼女へ届かなかった。
いいえ。
届いていた。
届いていたのに、彼女は行った。
ローレッタは、死にに行ったのではない。
戻るために行くと言った。
それを、シュヴァルベは止められなかった。
「ローレさん」
声になったのか、自分でもわからなかった。
その時、意識の奥を何かがかすめた。
白く長い髪。
乾いた風。
誰かの笑い声。
振り返る少女。
名前を呼びたいのに、呼べない感覚。
伸ばした手が届かなかった記憶。
もう一度、あの子を失うかもしれない。
そんな言葉が、シュヴァルベの胸の奥に浮かんだ。
あの子。
誰のことか、わからない。
ローレッタのことのはずだ。
今、落ちているのはローレッタだ。
なのに、一瞬だけ、そこに別の影が重なった。
白い髪。
戦場。
失った誰か。
守れなかった誰か。
シュヴァルベは眉を寄せる。
何なのかはわからない。
考えている場合でもない。
今は、ローレッタだ。
マーリンではない。
白い髪の誰かでもない。
記憶の中にいる知らない少女でもない。
今、落ちているのはローレッタ=プラット。
いつも困ると笑う少女。
怖い時ほど「大丈夫」と言おうとする少女。
まかないを食べて「うまうま」と笑う少女。
泣きそうな顔で、誰にも死んでほしくないと言った少女。
シュヴァルベの声で戻れると言った少女。
マーリンの記憶があると告げ、それでも自分はローレッタだと言い切った少女。
シュヴァルベは、自分の中にあったものを初めて正面から見た気がした。
自分は、ローレッタを守りたかった。
危ういから。
放っておけないから。
マーリンを思わせるから。
白い髪が胸を騒がせるから。
検査場で見た時から、理由もなく心が動いたから。
けれど、それだけではなかった。
ローレッタがローレッタとして笑う時。
小さな菓子を大切そうに食べる時。
怖いと言えるようになった時。
大丈夫ではないと答えた時。
誰かを守りたいと震える声で言った時。
その一つひとつを、シュヴァルベは失いたくなかった。
マーリンだからではない。
マーリンを思い出すからだけではない。
ローレッタが、ローレッタだから。
その事実に、今さら心が追いついた。
遅すぎる。
胸の奥が痛む。
自分は、薄々感じていたのではないか。
ローレッタの動きに、戦術に、白い魔力に、言葉に、何度も別の影を重ねていた。
彼女を見ていたようで、どこかでマーリンを見ようとしていた。
だからこそ、ローレッタは言ったのだ。
私はマーリンじゃありません。
私は、ローレッタです。
ローレッタ=プラットです。
その声が、今も刺さっている。
「……ごめんなさい」
シュヴァルベの唇から、ようやく言葉が落ちた。
誰に向けた謝罪かは、わからなかった。
ローレッタへか。
自分へか。
知らない記憶の中の誰かへか。
どれでもよかった。
どれでも、足りなかった。
『ユンカース様』
ミリアの声が入った。
泣きそうで、でも必死に踏みとどまっている声。
『ローレを、助けに行ってください』
トムの声も続く。
『ユンカース様、俺の機体はまだ』
『グラマンさんは動かないでください』
シュヴァルベの声が戻った。
自分でも驚くほど、低く、はっきりしていた。
『三番機は魔力残量不足。救援行動に入れば、あなたも落ちます』
『でも!』
『あなたが落ちれば、サーブさんが追います』
通信の向こうで、トムが息を詰めた。
ミリアも黙った。
『その連鎖を、ローレさんは望みません』
言いながら、シュヴァルベ自身の胸も痛んだ。
ローレッタなら、きっと望まない。
誰かが自分を助けるために落ちることを、あの少女は何より嫌う。
それでも。
助けに行かない理由にはならない。
『ヒースローさん』
セシリアの嗚咽が一瞬止まる。
『……はい、ユンカース様』
『八番機の落下予測をください。わずかな反応でも構いません。拾えるものを全部』
『はい』
セシリアは泣きながら、それでも端末を操作した。
『八番機、現在高度低下中。背部スラスター二基沈黙、左脚部補助スラスターに微弱反応があります。ただし制御入力なし。落下角は南東へ流れています』
『地上衝突までの予測は』
セシリアが息を詰める。
『……長くありません』
時間を言わなかった。
言えなかったのだ。
シュヴァルベはそれ以上聞かなかった。
聞けば、心が乱れる。
乱れる余裕はない。
『ダッソーさん』
『はい、ユンカース様』
『一番機の直衛を解除します。あなたは残存隊の統制を補佐してください』
『しかし、ユンカース様』
『命令です』
短く告げる。
ダッソーは一拍だけ黙り、返事をした。
『承知しました、ユンカース様』
『サーブさん』
『はい、ユンカース様』
『通信を維持してください。私と八番機の回線を優先。管制との橋渡しを』
『はい、ユンカース様』
『ヒースローさん、八番機の位置を私に送り続けてください』
『はい、ユンカース様』
『ブレゲさん、ピラタスさん。残存学生機をまとめ、セスナ教官の指示を受けてください』
『はい、ユンカース様』
『はい』
シュヴァルベは一番機の機体状態を確認した。
ライフル二発使用済み。
冷却不完全。
魔力残量低下。
機体損傷は軽微。
まだ飛べる。
だが、魔力消費は危険域に近い。
八番機を追えるか。
追える。
追わなければならない。
『ユンカース、何をする気だ』
セスナ教官の声が入る。
シュヴァルベは答えた。
『八番機を回収します』
『許可は出していない』
『申請します』
『却下だ。正規救難隊が向かっている』
『間に合いません』
沈黙。
セスナ教官も、それをわかっていた。
だから、すぐには否定しなかった。
『一番機も魔力残量が落ちている。追えば、お前も危険だ』
『承知しています』
『ユンカース』
セスナ教官の声は、怒鳴っていなかった。
そのことが、かえって重かった。
『隊長は、隊員を助けるために自分を落とす役ではない』
『はい、セスナ教官』
『わかっているなら』
『ですが、隊長は隊員を見捨てる役でもありません』
シュヴァルベは言った。
その言葉は、自分の奥から出てきた。
『ローレさんは、戻ると約束しました』
通信の向こうが静かになる。
『もし戻れなかった時は、迎えに来てほしいと』
胸が痛い。
でも、声は揺らさない。
『約束しました』
セスナ教官の沈黙が続いた。
長いようで、短い沈黙。
『……無茶な機動はするな』
それは許可ではなかった。
少なくとも、形の上では。
だが、止める言葉でもなかった。
『救難隊へ位置情報を送る。お前は八番機の落下速度を落とせ。回収は救難隊が行う』
『はい、セスナ教官』
『ユンカース』
『はい』
『お前も戻れ』
シュヴァルベは目を閉じかけ、すぐに開いた。
『はい』
一番機が向きを変える。
青いスラスターが再点火する。
その青は、いつもより少し揺れて見えた。
シュヴァルベはライフルの冷却固定を解除し、機体姿勢を下へ向けた。
遠く下方。
雲の下へ落ちていく八番機。
白い軌跡は、もう見えない。
代わりに、煙の細い線だけがあった。
ローレッタの機体が落ちている。
その中で、ローレッタが待っている。
待っているから、と言った。
ならば。
約束を守らなければならない。
マーリンではなく。
白い髪の記憶でもなく。
ローレッタ=プラットとして、迎えに行かなければならない。
「待っていてください」
シュヴァルベは、小さく言った。
通信には乗せなかった。
自分の声として、ただコクピットの中に落とした。
「今、行きます」
一番機が急降下に入る。
耐Gスーツが身体を締めつける。
警告表示が出る。
魔力残量低下。
冷却未完了。
降下角注意。
それでも、シュヴァルベは目を逸らさなかった。
青い空の下、王都は救われた。
歓声は遠くでまだ残っている。
けれど、シュヴァルベの世界にはもう一つしかなかった。
落ちていく八番機。
その中にいる、失いたくない少女。
ローレッタを失うかもしれないという恐怖が、胸の奥で鋭く鳴っている。
それでも、シュヴァルベは降下を続けた。
約束を守るために。
ここまでお読みいただき有り難うございました。
面白いと思っていただけましたら、評価、ブックマークをお願いいたします。
励みになります!




