次があるの、嬉しいもの
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朝の光は、薄いカーテン越しにやわらかく差し込んでいた。
いつもと変わらないはずの自室。
整えられた調度も、窓辺に活けられた花も、そのままなのに、今朝のマーリンにはすべてが少し違って見えた。
目を覚ました瞬間から、胸の奥がどこか落ち着かない。
不安とは違う。眠る前まで確かにそこにあった熱が、まだ身体の内側に残っているような――そんな感覚だった。
シーツの上で身を起こし、肩にかかった髪を払う。
何気ない動作の途中で、ふと手が止まった。
窓の向こうの夜景。
触れた体温。
まっすぐに告げられた言葉。
そして、自分もまた、隠していたものをようやく言葉にしたこと。
「……っ」
小さく息を呑んで、そのまま顔を伏せた。
頬がかっと熱くなる。誰が見ているわけでもないのに、胸がひどく騒いだ。
――俺は、君が好きだ。
その一言は、昨夜からずっと、心の深い場所に残っている。
役割でも、期待でもなく。フルール・デスポワールだからでもなく。
ただ、君だから。
そこまで思い返したところで、マーリンは両手で顔を覆った。
「……む、無理っ」
困っているのに、声は少し弾んでいた。
嬉しいことは今までだってあった。褒められたことも、必要とされたこともある。
けれど、これはまるで違う。もっとやわらかくて、甘くて、どう扱えばいいのか分からない。
深く息を吐いてベッドを降り、鏡台の前に立つ。
映った自分は、いつもより少しだけ表情がやわらかかった。
「……ほんとうに、私?」
思わず呟く。
張りつめていた目元も、唇の力も、ほんの少し抜けている。
まるで、長いあいだ忘れていた呼吸の仕方を思い出したみたいだった。
ふわっと笑いそうになる自分を見て、慌てて口元を押さえる。
「……そんなに分かりやすい顔、してないわよね?」
鏡に向かって小声で言い訳した、そのとき。
とん、と控えめなノックが響いた。
「お嬢様、起きていらっしゃいますか?」
クリスチーナの声だった。
「ええ、入って」
扉が開き、いつも通り整った身なりのクリスチーナが、朝の支度のための制服を手に入ってくる。
鏡の前のマーリンを見て、ほんのわずかに目を細めた。
「……何か、良いことでもございましたか?」
「えっ?」
反射的に振り返って、マーリンはすぐに後悔した。
クリスチーナは表情を崩さなかったが、口元だけが少し楽しそうだった。
「いえ。なんとなく、お顔がいつもよりやわらかいように見えましたので」
「そ、そんなことないわ」
「そうでしょうか」
「ええ。気のせいよ」
「かしこまりました。では、気のせいということにしておきます」
「クリス」
たしなめるように名前を呼ぶと、クリスチーナは静かに一礼した。
けれど、その目はまったく納得していない。
制服を整えながら、マーリンはそっと視線を逸らす。
隠せていないのだろうか。そんなに分かりやすいのだろうか。
昨夜のことを口に出すつもりはなかった。
まだ自分の中でも整理しきれていない。
けれど――後戻りなんて、もうしたくない。
その思いは驚くほど静かで、けれど確かだった。
「お嬢様?」
「……ううん、何でもないの」
そう答えた声は、自分でも分かるくらい軽かった。
窓の外では、朝の空が明るく広がっている。
今日もまた、講義があり、役目があり、名前があり、立場がある一日が始まる。
それでも、胸の奥には昨夜から消えない小さな温もりが残っていた。
役割でも、期待でもなく、ただ一人の少女として抱えていたいと思える記憶。
鏡の中の自分が、ほんの少しだけ笑っている。
その顔を見て、マーリンはようやく認めた。
――ああ、私、本当に嬉しいんだ。
そう思った途端、また頬が熱くなって、マーリンは誰に見られるでもないのに、思わずふふっと笑ってしまった。
放課後の生徒会室には、紙をめくる音と椅子を引く音だけが静かに残っていた。
机の上には会議で使われた資料が整然と並び、窓から差し込む斜めの光が室内を薄く金色に染めている。
「では、本日の確認事項は以上だ」
机の奥に座るブライアンが、最後の一枚を閉じながら告げた。
落ち着いた声と無駄のない所作は、この場をまとめることに慣れた会長そのものだった。
「来週の対外交流会に向けた準備は、各自滞りなく進めてくれ」
短い指示のあと、役員たちはそれぞれ返答し、席を立ちはじめる。
副会長、役員たち――この場で自分に求められる役目を知る者たちの動きは早い。
マーリンも資料を揃えながら、小さく息を吐いた。
会議が特別長かったわけではない。それでも終わるたびに肩の力が抜けるのは、この部屋では無意識にきちんとしていなければと身構えてしまうからだろう。
アンネリーゼと同じ頃に加わり、まだ一年生の自分には分からないことも多い。だからこそ、無事に終わるたびに少しだけほっとする。
「マーリン嬢、その書類はこっちでまとめておく」
ふいに声がして、顔を上げる。
ミハイルだった。
新人役員であるマーリンの補佐に回ることは、今では自然なことになっていた。
「あ、ありがとう」
返した声が、思ったより少しだけ弾んだ。
昨日までなら、こんなふうに礼を言うだけで意識することなどなかったのに、今日は違う。
同じ距離、同じ声、同じような動き――それなのに、その一つひとつがやけに近く感じられた。
「どうした?」
「ううん、何でもないわ。ちょっと気が抜けただけ」
「そうか?」
「ええ。ちゃんと役員らしく見えていたなら、大成功よ」
少し胸を張って言ってみせると、ミハイルが小さく笑う。
「そこは自分で言うんだな」
「言うわよ。だって、褒めてくれる人が少ないんだもの」
「じゃあ、今日はよくやってた」
あまりにあっさり言われて、今度はマーリンの方が言葉に詰まる。
「……そういうの、急に言うのはずるいわ」
「褒めろって言ったのは君だろ」
短いやり取りなのに、胸の奥が妙に落ち着かない。
変わってしまったのは、自分の方なのかもしれない。
「……まあ」
不意に、少し離れたところから声がした。
振り向くと、退出しかけていたアンネリーゼが扉の前で立ち止まっている。
口元を扇子で隠しながら、こちらを見ていた。
「今日のマーリン様は、随分とご機嫌がよろしいのですね」
「えっ」
思わず声が裏返る。
アンネリーゼは小さく首を傾げた。やわらかな声色とは裏腹に、扇子の奥の瞳には、かすかに愉しむような光が宿っている。
「少なくとも、会議中のお顔は普段よりずっとやわらかかったですわ。……ミハイル様も、いつもよりよく周りを見ていらしたようですし」
その一言に、マーリンの心臓がどくんと鳴った。
何かに気づかれたのだろうか。そう思った瞬間、背筋が固くなる。
けれどアンネリーゼは、それ以上追及することなく、意味ありげに目を細めただけだった。
「それでは、お先に、ごめんあそばせ」
取り巻きを率いて、静かに扉の向こうへ消えていく。
扉が閉まったあとも、その余韻だけが部屋に残った。
「……聞かれていたのかしら」
「会話らしい会話はしてないだろ」
「そういう問題じゃないの」
唇を尖らせると、ミハイルが苦笑する。
マーリンは困ったように笑った。
「なんだか、見透かされた気分だわ」
「気にしすぎだ」
「そうかしら……そうだといいのだけれど」
その不安を誤魔化すように、マーリンは机上の書類を持ち上げた。
「とにかく、これを片付けてしまいましょう」
「ああ」
自然に半分を受け取るミハイルの指先が、ほんの一瞬だけ触れた。
それだけで、胸の奥がひどく騒ぐ。昨日までだって何度も触れてきたはずなのに、今はまるで初めてみたいだった。
資料棚へ向かう途中、マーリンは小さく息を整える。
「……ねえ、ミーシャ」
「ん?」
「こういうの、少し困るわね」
「何が?」
少し迷ったあと、マーリンは思い切って口を開いた。
「昨日まで普通だったことが、今日は全然普通じゃないの。目が合うだけでどきどきするし、何でもない顔をしようとすると余計に変になるし……」
そこまで言って、自分で小さく笑ってしまう。
「こんなの、ちょっと不便だわ」
ミハイルは数秒黙っていたが、やがて苦笑するように息を吐いた。
「……それは、俺もだ」
その一言が、ひどく嬉しかった。
自分だけではないのだと分かるだけで、胸の内側が少しやわらかくなる。
「……ふふっ」
「何だ」
「ううん。私だけじゃないんだと思ったら、少し安心しただけ」
生徒会室は役割と責任のある場所だ。
会長はブライアンで、自分はその下で働く一人の役員に過ぎない。
それでも、そんな公的な空間の隅にさえ、昨日までとは違う何かが確かに息づいていた。
――困るのに、嬉しい。
それが、今のマーリンのいちばん正直な気持ちだった。
生徒会室を出たあと、マーリンは廊下の窓から差し込む夕方の光の中を、ミハイルと並んで歩いていた。
放課後の学園は、少しずつ一日の熱を手放しはじめている。
遠くから聞こえる運動部の掛け声も、講義棟の外を行き交う生徒たちの笑い声も、どこかのんびりしていた。
「……ねえ、ミーシャ」
「ん?」
「このあと、少し寄り道してもいい?」
見上げると、ミハイルは一瞬だけ目を細めた。
「どこに?」
「ふふっ、分かってるくせに。いつものところよ」
その返事に、ミハイルは肩をすくめる。
「奇遇だな。俺も同じことを考えてた」
「でしょう?」
マーリンの足取りは自然と軽くなった。
向かった先は、学園の敷地の奥。静かな中庭や湖のほとりをさらに外れた先、雑草に半ば埋もれるようにして残された、古い木造りのガゼボだった。
少し気を抜けば見落としてしまいそうな場所。それでも、一度知ってしまえば忘れられない静けさがある。
以前のマーリンにとって、ここは逃げ場だった。
フルール・デスポワールと呼ばれることから。期待を向けられることから。希望としてしか見られないことから。
名前ではなく役割でしか呼ばれないことに疲れたとき、ようやく肩の力を抜ける場所。
そして、ミハイルが最初にここまで辿り着いた日。昼食を食べ損ねていたマーリンに、ミハイルは紙袋を差し出した。
それは、いちごジャムのサンドイッチだった。
ガゼボに着くと、マーリンはふわっと笑った。
「やっぱり、ここは落ち着くわね」
「人が来ないからな」
「それが一番大事なのよ。静かで、風が気持ちよくて、誰にも見つからなくて……」
そこまで言ってから、声を少しやわらげる。
「……前は、それが嬉しかったの」
ミハイルは何も言わず、先にベンチへ腰を下ろした。
その沈黙は、ただ受け止めるためのものだと分かる。マーリンも隣に腰を下ろした。少しだけ軋む音がした。
目の前には、風に揺れる草と、その向こうにかすかに見える水辺。
前と何も変わらない景色のはずなのに、今日はそのすべてが少しだけ違って見えた。
「でも、今は……」
「ん?」
「秘密」
にっこり笑うと、ミハイルは呆れたように息を吐いた。
「そういうところだぞ」
「何が?」
「急に子どもみたいになるところ」
「失礼ね。私はもともとこういう性格よ?」
「知ってる」
その即答に、マーリンは一瞬だけ目を丸くし、それからくすっと笑った。
「……そうだったわね」
隣で布の擦れる音がした。ミハイルが鞄の中を探っている。
「ほら」
差し出された小さな包みを見て、マーリンはぱちぱちと瞬いた。
「……えっ」
「なんだ、その顔」
「だって、まさか……」
包みを開く。中には、見覚えのあるサンドイッチ。
「ふふっ、やっぱり!」
「やっぱり、って何だ」
「だって、絶対そうだと思ったんだもの! しかも、ちゃんといちごジャム。えらいわ、ミーシャ」
「なんで褒められてるんだ」
「大事なことだからよ」
楽しそうに笑いながら、マーリンはサンドイッチを胸元で大事そうに持った。
「これ、あのときと同じでしょう?」
「同じ店のだからな」
「そうじゃなくて。同じものを、またここで食べるっていうのが大事なの」
その言葉に、ミハイルはすぐには答えなかった。けれど、少しだけやわらいだ横顔が、それだけで十分な返事のように見えた。
「今日はちゃんとお昼を食べたわよ?」
「知ってる。だからそれはおやつだ」
「ふふふっ、ずるい。そう言われると断れないじゃない」
「断る気あったのか?」
「ないわ」
即答して、マーリンは透明なフィルムから取り出したサンドイッチを一口かじった。
やわらかいパンに、ほどよい甘さのいちごジャム。口に入れた瞬間、自然と頬が緩む。
「……おいしい」
「それは良かった」
前は空腹に染みた。今は胸の奥にじんわり染みる。
同じ味なのに、あの頃とは何もかも違う。それはきっと、ここにいる自分が違うからだ。
「ねえ、ミーシャ」
「ん?」
「あのとき、どうしてここに来たの?」
「探したから」
「ふふっ、やっぱり」
あまりにも即答だったので、マーリンは肩を揺らして笑った。
「ちゃんと見つけられてしまったのよね、私」
「見つけたな」
「……あのときは、ちょっと悔しかったの。せっかく一人になれたと思っていたのに」
そこまで言って、少しだけ視線を伏せる。
「でも……来たのがミーシャでよかったって、たぶん、そのときから思ってた」
風が、二人のあいだをやさしく抜けた。
ミハイルは何も言わない。ただ、その沈黙は少しも苦しくない。
「ここね、前は好きだったけど、少しだけ寂しい場所でもあったの」
「……うん」
「誰にも見つからなくて済むから。名前も呼ばれなくて済むから。そういう意味で安心していたの」
昔の自分を思い出すと、胸の奥が少しだけ痛む。けれど今は、その痛みを真正面から見つめられる気がした。
「でも、今は違うわ」
マーリンは顔を上げる。少しだけ照れたように、それでも隠さずに笑った。
「今は、ここに一人でいたいとは思わない」
その言葉のあとに落ちた沈黙は、不思議なくらい優しかった。
風が吹き、ガゼボの柱に絡んだ蔓が小さく揺れる。
「……それは、いい意味で取っていいのか?」
「ええ。ものすごくいい意味で」
「それなら安心した」
「ふふふっ、何それ」
そのやり取りがなんだか可笑しくて、マーリンは声を立てずに肩を揺らした。
孤独をやり過ごすためだけの場所だったガゼボ。
けれど今は違う。ここはもう、一人で逃げ込むためだけの場所ではない。
好きな人と並んで座って、同じものを食べて、名前を呼ばれて、笑ってもいい場所になっていた。
「ねえ、ミーシャ」
「ん?」
「今度は、いちごジャムだけじゃなくて、クリーム入りもお願いね」
「まだ言うのか」
「言うわよ。大事なことだもの」
少しだけ胸を張ってから、声を落とす。
「……次があるの、嬉しいもの」
ミハイルは一瞬だけ目を丸くし、それから小さく笑った。
「……ああ。あるよ」
その返事が、胸の奥にやさしく落ちる。
次がある。そう思えることが、こんなにも嬉しいなんて。
「ごちそうさま」
「おそまつさま」
「ふふっ、それ、ミーシャが言うの?」
「買ってきたのは俺だろ」
「そうだけど……なんだか可笑しい」
また笑いがこぼれる。
同じ場所。
同じベンチ。
同じいちごジャムのサンドイッチ。
それなのに、ここに流れる時間はもう何もかも違っていた。
名前を呼ばれないために来ていた場所で、今は、好きな人に名前を呼ばれるのが嬉しい。
その変化が、くすぐったくて、あたたかくて、少しだけ泣きたくなるほど愛しかった。
ガゼボを出るころには、陽はだいぶ傾いていた。
さっきまで遠くに聞こえていた運動部の掛け声も、今はずいぶん間遠になり、校舎のあいだを行き交う生徒の姿も、気づけばまばらになっていた。
マーリンは、隣を歩くミハイルをちらりと見上げる。
ガゼボで笑いすぎたせいか、頬がまだ少し熱い。けれど、その理由に気づかれるのは悔しくて、すぐに前を向いた。
「……ねえ、ミーシャ」
「ん?」
「さっきの、ちゃんと覚えておいてね」
「さっきの?」
「いちごジャムのサンドイッチよ。しかも今度はクリーム入り」
少し得意げに言うと、ミハイルは呆れたように息を吐いた。
「注文が細かくなってるな」
「当然でしょう? 一度約束したら、ちゃんとより良いものを目指すのよ」
「なんだそれ」
「向上心って大事じゃない?」
マーリンがくすくす笑うと、ミハイルも仕方なさそうに口元を緩めた。
こうして他愛もない話をしているだけで楽しい。次があると信じられるだけで、世界が少し明るく見える。
石畳の道を並んで歩く。
講義棟も、水辺に光る夕日も、風に揺れる木々の影も、見慣れたはずなのに今日はひどくやさしく見えた。
しばらくして、ミハイルがふいに口を開く。
「来週、少し学園を空けることになりそうだ」
その声音はあまりにも自然で、マーリンは一瞬だけ意味を取り損ねた。
「え?」
「数日くらいになると思う」
足がほんのわずかに鈍る。けれどミハイルはすぐに歩調を緩め、マーリンに合わせた。
「そう、なの?」
「ああ。非公式の会合だ。王国側と穏健派の貴族が接触する。表立ったものじゃないが……まあ、和平に向けた下準備みたいなものだな」
風が、二人のあいだを静かに抜けていく。
和平交渉。
その言葉自体に驚きはない。公爵家に生まれた以上、そういう話が遠い世界のものではないことくらい分かっている。
けれど、来週、学園を空けるという具体的な言葉になると、急に胸の奥へ沈んできた。
「それじゃあ……ブライアン様も?」
「関わってる。表に立つのはあいつのほうだ。俺はその補佐みたいなものだよ」
マーリンは小さく息を飲む。
すでに爵位を継いでいるブライアンには、学園の中だけでは終わらない場所が用意されている。そしてミハイルもまた、その隣に立つ人なのだ。
「……大事なこと、なのね」
「たぶんな。うまくいけば、少しは先に進む」
「……うまく、いかなかったら?」
問いかけたあとで、自分の声が少し固かったことに気づく。
ミハイルはすぐには答えず、苦笑するように息を吐いた。
「そのときは、そのときだ」
「もう……そういう言い方、ずるいわ」
「そうか?」
「そうよ。心配になるじゃない」
言った瞬間、ミハイルがほんの少し目を見開く。
「してるのか」
「してるわよ」
考えるより先に言葉が出ていた。
その顔がなんだか可笑しくて、マーリンは少し笑いそうになったけれど、胸の奥のざわめきは消えない。
不安、と呼ぶにはまだ曖昧だった。
ただ、ガゼボで抱いていたやわらかな幸福のすぐ外側に、別の現実がちゃんとあるのだと急に思い出してしまっただけだ。
「……危ないことは、しないで」
少し視線を落としたまま、マーリンは言った。
「できれば平和的に。できれば無傷で。できれば、ちゃんと帰ってきて」
「注文が多いな」
「当然でしょう?」
そこでようやく顔を上げる。
「ようやく、好きな人と気持ちが通じたのよ? それなのに、簡単に危ないところへ行かれたら困るわ」
言い切ってから耳まで熱くなる。けれど、引っ込める気にはなれなかった。
ミハイルはそんなマーリンを見つめ、それからふっと笑う。
「……分かった。なるべく無茶はしない」
「なるべくなのね」
「約束できないことは言わない主義なんだ」
「それ、本当にずるい言い方だわ」
むぅ、と眉を寄せると、ミハイルは少しだけ目を細めた。
「でも、帰ってくるつもりで行く」
その一言に、マーリンは息を止めた。
冗談でも慰めでもなく、ただ真っ直ぐに言ってくれたのだと分かる。
「……うん」
ようやく、それだけ答える。
胸の奥のざわめきは消えてはいない。それでも、それ以上にミハイルの言葉を信じたいと思った。
学園の門が少しずつ近づいてくる。
外へ出れば、そこには公爵令嬢としての立場があり、帝国の事情がある。今日みたいな時間は、ずっと続くわけではない。そんなことは最初から分かっている。
それでも。
幸福のすぐ外側に現実があったとしても、その現実の中でさえ、今の二人はちゃんと並んで歩いている。
それだけは、確かだった。
学園の門を出るころには、空はすっかり夕暮れの色を深めていた。
公爵家の車が、少し離れた場所で静かに待っている。見慣れたはずのその光景が、今日のマーリンには少しだけ遠く見えた。
門前の石畳の上で、二人は自然と足を止める。
さっきまで並んで歩いていた距離が、そのまま続いているだけのはずなのに、ここで立ち止まった瞬間だけ空気が少し変わった。
――もう、別れ際なのだ。
そのことを、言葉にしなくても分かってしまう。
「……送ってくれてありがとう」
マーリンがそう言うと、ミハイルは小さく首を振った。
「送るのは今さらだろ」
「そうだけれど」
ふふっと少しだけ笑う。
けれどその笑いは長く続かなかった。門まで一緒に歩いてくれることさえ、今日は以前よりずっと特別に感じられたからだ。
夕方の風が制服の裾を揺らしていく。
どこかの車が石畳を鳴らして通り過ぎる音が、遠くに聞こえた。
「来週、いつ頃になるの?」
何気ないふうを装って尋ねる。
けれど、自分の声が少しだけ慎重になっているのが分かった。
「まだ細かい日程は決まってない。けど、数日は空けることになると思う」
数日。
それだけなのに、胸の奥がほんの少し沈む。たったそれだけで寂しいと思うなんて、少し前の自分なら想像もしなかった。
「すぐ戻るよ」
ミハイルがそう言って目を細める。
マーリンは「……ええ」と頷いたものの、うまく笑えた気はしなかった。
引き止めたいわけではない。
ただ、無事でいてほしい。ちゃんと帰ってきてほしい。
それだけなのに、言葉にしようとすると妙に難しい。
沈黙が落ちる。
ミハイルは急かさず、ただそこに立ってくれている。そのことが、かえってマーリンに言葉を探させた。
「……ねえ、ミーシャ」
「ん?」
夕暮れの光の中で、ミハイルの目がこちらを見る。
マーリンは一度だけ息を整えてから、少しだけ胸を張るようにして言った。
「帰ってきたら、また会いましょう」
言ったあとで、自分でもその言葉のまっすぐさに少し驚く。
もっと曖昧に言うこともできたはずなのに、それをしたくなかった。
「今度は、私が行き先を決めるわ」
ミハイルがほんのわずかに目を見開く。
「君が?」
「ええ。いつもミーシャが連れ出してくれるでしょう? だから次は、私の番よ」
少し得意げに笑ってみせる。
「ふふふっ、覚悟しておいてね。次はちゃんと、私が考えるんだから」
「それは楽しみだな」
「本当に?」
「ああ。本当に」
その返事に、ようやく少しだけ笑える。
次がある。そう思えることが、こんなにも嬉しい。
マーリンはほんの少しだけ視線を伏せた。
「だから……ちゃんと帰ってきて」
今度の声は、さっきよりもずっと小さかった。
けれど、ミハイルには十分届いたらしい。
ミハイルはすぐには答えなかった。
その代わり、ゆっくりと一歩だけ距離を詰める。門前で、誰かに見られるかもしれない距離。それでも、触れそうで触れないところまで来て、低い声で言った。
「帰ってくる」
断言だった。
「君が次の行き先を決めてるなら、なおさらな」
その言い方に、マーリンは思わず笑ってしまう。
笑ってしまうのに、胸の奥はひどく熱かった。
「……何それ。ずるいわ」
「そうか?」
「そうよ。そんなふうに言われたら、待つしかなくなるじゃない」
ミハイルが少しだけ笑う。
「待っててくれるのか」
「もちろん待つわよ。今さら聞くこと?」
むっとしたふりをして返すと、ミハイルの表情がやわらいだ。
風が吹き、マーリンの髪が肩先で揺れた。
ミハイルの指先が一瞬だけその髪に触れそうになって、けれどすぐに引く。
学園の門前。
人目のある場所。
その躊躇いごと、今は愛しかった。
「……約束よ」
「重い約束だな」
「今さら軽くなんてできないわ」
そう言ったあとの沈黙は、少しも苦しくなかった。
「……ちゃんと、帰ってきてね」
今度は飾らない声だった。
ミハイルは短く「ああ」と答える。
その一言だけで、十分だった。
マーリンはもう少しだけここにいたいと思った。
けれど、車は待っているし、日も落ちかけている。
「……それじゃ」
「ええ」
「また、今度」
「ああ」
返ってくる声は短いのに、ひどくやさしい。
マーリンはようやく踵を返した。
数歩進んでから、どうしても気になって振り返る。
ミハイルは、まだそこに立っていた。
視線が合う。それだけで、胸の奥の寂しさが少しだけ和らいだ。
「……ふふっ」
小さく笑ってしまう。
次に会える。帰ってきてくれる。約束したのだ。
そう信じたまま、マーリンは迎えの車へと歩いていく。
夕暮れは、もう夜へ変わりかけていた。けれどその境目に交わした言葉だけは、しばらく消えずに胸の中に残り続けた。
夜の私室は、昼間よりもずっと静かだった。
窓の外には、帝都の灯りが遠く揺れている。昼のあいだは輪郭を持って見えていた街並みも、今はやわらかな闇に溶けて、点々とした光だけが浮かんでいた。
マーリンは寝台の縁に腰かけたまま、しばらくじっとしていた。
制服から部屋着に着替え、髪もほどいている。いつもと変わらない夜の支度を済ませたはずなのに、心だけがまだ昼の続きに置き去りになっているようだった。
「……ふふっ」
気づけば、小さく笑っていた。
今日一日を思い返すだけで、胸の奥がくすぐったくなる。
朝、鏡の前で一人で真っ赤になってしまったこと。
クリスチーナに少し怪しまれて、慌てて誤魔化したこと。
生徒会室で、何でもない視線にどきどきしてしまったこと。
アンネリーゼに「ご機嫌がよろしいのですね」と言われたときは、本当に心臓が止まるかと思った。
「もう……あれは反則でしょう」
誰に向けるでもなく呟いて、マーリンは膝の上で指を重ねた。
けれど、その恥ずかしささえ今は少し楽しい。
それから、ガゼボのことを思い出す。
古びた木の匂い。風に揺れる草。少し軋むベンチ。
そして、差し出された、いちごジャムのサンドイッチ。
同じ場所。
同じ味。
それなのに、あの頃とは何もかも違っていた。
前は、誰にも見つからないための場所だった。
けれど今は、好きな人と並んで座って、同じものを食べて、名前を呼ばれて、笑っていられる場所になった。
「……次は、クリーム入り」
ぽつりと呟いてから、また自分で可笑しくなる。
たったそれだけの約束が嬉しくてたまらない。
たったそれだけのことで、明日が少し待ち遠しくなる。
そんな自分が、少し前の自分には想像もつかなかった。
マーリンは、そっと後ろに手をついて顔を上げた。
窓の向こうの夜空は、深く静かな色をしている。
幸せだった。
そう、素直に思える。
誰かを好きになること。
好きだと言われること。
また会いたいと願うこと。
そんな当たり前のことが、自分にはずっと遠いもののように思えていた。
生徒会室の沈黙も。
ガゼボの笑い声も。
門前で交わした約束も。
どれも全部、本物だった。
「……帰ってきてくれるわよね」
そう口にした瞬間、胸の奥に小さな波紋が広がった。
ミハイルは、帰ってくると言った。
約束だってした。
それを疑う理由なんてないはずなのに、心の底に説明のつかない小さなざわめきが残っている。
不安、と呼ぶにはまだ曖昧だった。
ただ、静かな水面の底に、小さな波紋だけが残っているような感覚。
「……気のせいよね」
そう言って、マーリンは自分で小さく頷いた。
今日が幸福だったことに変わりはない。ミハイルの言葉も、ガゼボで過ごした時間も、門前で交わした約束も、全部ちゃんと本物だった。
「うん。きっと、そう」
今度は少しだけ明るく言ってみる。
そうすると、本当に少しだけ胸が落ち着いた気がした。
窓辺に立ち、カーテンを少しだけ開く。
冷たい夜気が、わずかに頬を撫でた。
帰ってくる。
ミハイルはそう言った。
約束よ、と自分も言った。
「次は、私が決めるんだから」
小さく呟いて、マーリンはふっと笑う。
それは自分自身への確認でもあった。
部屋へ戻り、寝台に横になる。
瞼を閉じると、今日の景色がいくつも浮かんだ。
ガゼボの木漏れ日。いちごジャムの甘さ。門前で見上げた、ミハイルの瞳。
次に会える日が、待ち遠しい。
その気持ちだけは、もう否定できなかった。
胸の奥に残る小さなざわめきごと抱えたまま、それでもマーリンは静かに目を閉じる。
幸福はまだ、壊れていない。
今はただ、そのことを信じていたかった。
ここまでお読みいただき有り難うございました。
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