この気持ちに、戻る場所はない
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「……どうしたんだ、その恰好は?」
部屋に入るなり、ミハイルは足を止めた。
視線が、マーリンの頭からつま先までを一度なぞる。
「どう? 似合うでしょ?」
マーリンはくるりと小さく回ってみせた。
淡いクリーム色のバルーンスリーブのブラウスに、柔らかなブラウンのチェック柄プリーツスカート。
足元は同系色の編み上げブーツで、全体にやさしく可憐な印象でまとめている。
公爵家の令嬢としてではなく――
ミハイルの隣に並んでも、恥ずかしくない自分でいたくて選んだ服だった。
「ふむ……」
ミハイルは腕を組み、少し考えるように唸る。
「服は悪くない。だが、その髪だとすぐにバレるな」
「わかっているわ。だから――こうするの!」
マーリンはすぐに答え、長く美しい純白の髪に手を伸ばした。
手際よく編み込み、くるりとまとめ上げて、いつもとは違うアップスタイルにする。
「へぇ……手慣れたものだ」
「このくらい、女の子ならお手の物よ」
少しだけ胸を張る。
さらに机の上から、シックなワインレッドのフレームに小さな装飾のついた眼鏡を取り上げ、それをかけて見せた。
「どう?これで私だって、わからないでしょ?」
「……君のその自信が、どこから来るのか不思議だよ」
「髪型を変えて、眼鏡をかける。それだけでも人の印象はずいぶん変わるのよ。それに、まじまじと見られなければ大丈夫」
「なるほど」
そう言ったきり、ミハイルは黙った。
その視線が、もう一度マーリンの服装に落ちる。
ブラウスの柔らかな布地。
揺れるスカートの裾。
首元も、手首も、思ったより軽やかで、年相応の可愛らしさがそのまま出ている。
(……だめだろ、これは)
胸の奥が、妙に落ち着かなかった。
可愛い。
率直に、そう思う。
だからこそ――。
「……いや、まだ足りないな」
「え?」
次の瞬間、ミハイルは自分の着ていたグレーのジャケットを脱ぎ、そのままマーリンに放った。
「これを着て」
「ジャケット? これを? でも、それは――」
「いいから。着るんだ」
「え、ちょっと――」
「着ないなら、今日はどこにも連れて行かない」
「なっ……!」
マーリンが抗議の声を上げるより先に、ミハイルはジャケットを取り上げ、そのまま頭から被せた。
渋々袖を通すと、案の定、肩も袖もぶかぶかだ。
マーリンは露骨に顔をしかめた。
「大きすぎるわ。第一、色が全然可愛くない」
「そのくらいでちょうどいい」
「ちっともよくないわ」
ふくれた声で言い返しながらも、マーリンはジャケットの前を合わせる。
ふわりと、ミハイルの匂いがした。
(せっかく、ミハイルに可愛いって言ってもらいたくて、いっぱい頑張ったのに……)
一方で、ミハイルも小さく息を吐く。
(あんな格好のマーリンを、他のやつに見せられるわけがないだろ……)
「「はぁ……」」
見事に重なったため息に、二人は揃って黙り込む。
けれど、先に立ち直ったのはマーリンだった。
ぶかぶかのジャケットの裾を、きゅっと握る。
――ミハイルのぬくもり。
生地に残る体温と、近すぎるくらいのミハイルの気配。
文句を言いたいはずなのに、胸の奥は少しだけあたたかい。
(……でも、まあ、いいか)
マーリンはそっと目を伏せる。
(ミハイルって、こんなに大きくなったんだ……昔は、私の方が背も高かったのに)
気づけば、口元が少しだけ緩んでいた。
(これ、口に出したら……きっと奪い返しに来るわね)
「……何か言った?」
「いいえ、何でも。ふふっ」
「そうか」
ミハイルは、まだどこか納得しきらない顔のまま、扉の方に促した。
「ほら、早く行くぞ」
「は〜い」
返事をしながら、マーリンはジャケットの袖口をそっと撫でた。
可愛い服は隠されてしまった。
思い通りにはいかなかった。
それでも。
今日が、ただの外出ではないことを。
マーリンは、もう胸の奥で知っていた。
二人がデートに選んだのは帝都で一番大きな水族館だった。
入館の列に並ぶマーリンは、小さく呟く。
「なんだか……少し楽しくなってきちゃった……」
「……あまり喋るな。思ったより人が多い……君の声は目立つ、どうしても話したいなら、小声で……」
「は〜い」
今度は、わざと小さな声で返す。
マーリンにはそのやりとりすら、嬉しかった。
水族館の中は、外の喧騒が嘘のように静かだった。
重い扉が閉まった瞬間、空気が変わる。人の声は低く抑えられ、足音さえも柔らかく吸い込まれていく。
照明は落とされ、壁一面に広がる青が、ゆっくりと呼吸しているようだった。
「……すごい」
思わず、声が漏れる。
その音さえ、この場所では少しだけ浮いて聞こえた。
「初めてか?」
「ええ。存在は知っていたけれど……来る機会なんて、なかったから」
正確には、来る必要がなかった。
公爵家の令嬢として、水槽の中の魚を眺める時間は、優先順位のずっと下にあった。
ゆっくりと歩きながら、水槽を覗き込む。
大きなガラスの向こうで、銀色の魚たちが群れをなして泳いでいる。
規則正しい動き。揺れる光。
そのすべてが、現実感を薄めていく。
「……綺麗」
それ以上の言葉が、見つからなかった。
ミハイルは隣で立ち止まり、同じ水槽を見ている。
何かを説明するでもなく、急かすこともない。
ただ、同じ景色を、同じ速度で眺めている。
それが、妙に心地よかった。
(並んでいる……)
守られている、ではなく。
導かれている、でもなく。
ただ、隣にいる。
その感覚に、胸の奥がじんわりと緩む。
「ねえ、ミーシャ」
「どうした?」
「……この場所、不思議ね」
「不思議?」
「ええ。静かで……誰も、私を見ていないみたい」
ミハイルは一瞬、こちらを見たが、すぐに視線を水槽へ戻した。
「そういう場所だからな。ここは」
「うん……」
青い光に照らされた水槽の前で、マーリンは自分の指先を見つめた。
飾り気のない、ただの手。
指輪も、紋章もない。
(私が、私でいてもいい場所……)
胸の奥に、そんな考えが浮かび、慌てて打ち消す。
――贅沢だ。望んではいけない。
それでも。
「……あれが見たいわ」
少し先を指さす。
それは、メデュースの水槽だった。
半透明の身体が、ゆっくりと浮かび、沈み、青い光を受けて淡く揺れている。
「行こう」
ミハイルはそう言って、マーリンの隣に並んだ。
水槽の前に立つと、メデュースたちはただ静かに漂っていた。
自分の意志で泳いでいるのか、それとも水の流れに身を任せているだけなのか、見ているだけでは分からない。
マーリンは、しばらく黙ってそれを見つめていた。
「……綺麗ね」
ぽつりと、そう呟く。
けれど、その声にはどこか寂しさが混じっていた。
「そうだな」
「でも……少し、嫌だわ」
ミハイルが隣でわずかに眉を上げる。
「嫌?」
マーリンは、水槽の中の揺らめく影から目を離さないまま、小さく笑った。
「だって、まるで自分で進んでいるみたいに見えるのに……本当は、水に流されているだけかもしれないでしょう?」
その言葉に、ミハイルは何も返さなかった。
軽々しく肯定も否定もできないと分かっている沈黙だった。
「綺麗で、柔らかくて、壊れやすそうで……でも、自分ではどこにも行けない」
マーリンは、自嘲するように目を細める。
「……少し、似ている気がして」
その言葉が落ちた瞬間、水槽の青い光が急に冷たく見えた。
ミハイルは何かを言いかけた。
けれど、その前に、マーリンがふっと息を吐いて首を横に振る。
「……ごめんなさい」
「え?」
「せっかく一緒に来たのに、こんな話をするつもりじゃなかったの」
マーリンはようやくメデュースから目を離し、ミハイルを見上げた。
その表情には、さっきまでの陰りがまだ少し残っている。
それでも、そこに引きずられまいとする意志も、確かにあった。
「大丈夫だ。気にしなくていい」
「ううん。今日は――」
一度言葉を切ってから、マーリンは小さく笑った。
「今日は、ちゃんと楽しい日にしたいの」
そう言って、ぱちんと軽く手を打つようにして気持ちを切り替える。
「次に行きましょ」
今度の声は、先ほどよりも明るい。
無理に作った軽さではあるけれど、それでも前を向こうとする声だった。
ミハイルは、そんなマーリンを数秒見つめてから、静かに頷く。
「……ああ」
けれど、マーリンはすぐには歩き出さなかった。
ふと、もう一度だけメデュースの水槽を振り返る。
「……ねえ、ミーシャ」
「ん?」
「目もないのに……どうやって獲物を捕まえるのかしら?」
ミハイルは、水槽の中へ視線を戻した。
「こうやって、触手を伸ばして捕まえる」
そう言って、指先でそっと空をなぞる。
静かに、けれど確実に絡め取るような動きだった。
「触手、ね……」
マーリンは、少しだけ目を丸くする。
「なんだか、少し怖いわ」
「見た目のわりに、したたかだな」
「こんなにふわふわして見えるのに?」
「ふわふわしてるように見えるだけだ。近づいてきたものは、ちゃんと逃がさない」
マーリンはもう一度、水槽の中を見つめた。
ただ流されているだけに見えたその生き物が、実際には、見えないままに触手を伸ばし、何かを捕らえて生きている。
「ふふ……見た目に騙されるのね」
そう言って笑ったものの、その視線は少しだけ長くメデュースたちに留まった。
(ただ漂っているだけじゃ、ないのね)
綺麗で、やわらかくて、壊れやすそうに見えても。
見えないところで、ちゃんと何かを伸ばし、掴んでいる。
そのことが、なぜだか胸の奥に小さく残った。
「ほら、次に行くんだろ」
ミハイルの声に、マーリンははっとして顔を上げる。
「ええ。……行きましょ」
そう言って歩き出す足取りは、さっきよりも少しだけ軽かった。
次の展示へ向かって歩き出すと、水族館の青い光が再び二人を包んだ。
やがて辿り着いたのは、頭上を覆うように巨大な水槽が広がる、ドーム状の空間だった。
半円状のガラスの向こうを、魚の群れがゆったりと横切っていく。
揺れる水の影が、床だけでなく、人々の肩や髪にまで淡く落ちていた。
さっきまで胸の奥に引っかかっていた重さも、その青い揺らめきの中で少しずつほどけていくようだった。
マーリンは、隣を歩くミハイルの横顔を盗み見てから、誰にも聞こえないほど小さく息を吐く。
そのときだった。
すれ違ったばかりの集団のうち、一人が、何かに引かれるようにふいに足を止めて振り返った。
ドームの天井から落ちる青白い光が、その視線の先――マーリンの横顔と、どれほど形を変えても隠しきれない白銀の髪を照らす。
「……なぁ、さっきの子、見たか?」
「……? いや、まさか……」
周囲から、ひそひそとした声が聞こえる。
ざわり、と空気が揺れる。
こちらへ向けられた視線が、ひとつ、またひとつと増えていった。
マーリンがその異変に気づいて顔を上げた瞬間――どこかで、はっと息を呑む音がした。
「――あ」
自分でも気づかないほど、小さな声。
けれど、それは確かに遅かった。
「なぁ、似てないか……?」
心臓が、嫌な音を立てた。
マーリンは、反射的に一歩下がる。
(違う。気のせいよ。ここには、私を知っている人なんて……)
そう思おうとした瞬間。
「――ねえ、あの子見て!」
「やっぱり、フルール・デスポワールじゃないか!?」
はっきりとした声が、空気を切り裂いた。
一瞬、世界が凍りついた。
ざわ、と周囲の空気が揺れる。
抑えられていた声が、一斉に息を吹き返す。
「えぇ?」
「フルール?今、そう言った?」
「嘘だろ……フルール・デスポワールが、なんでこんなところに?」
マーリンの耳には、もう断片的にしか音が入ってこなかった。
血の気が引いていく。
指先が冷たくなる。
(あ……だめ……)
隠していたはずの名前。
役割。
立場。
それらが、一気に押し寄せる。
「……まずい」
低く、短く、ミハイルの声がした。
次の瞬間、ミハイルの手がマーリンの手首を掴む。
「走るぞ」
「え……?」
「いいから!」
引かれるまま、足が動く。
視界が揺れ、青い光が流れていく。
背後で、誰かが叫んだ。
「待て!本当に本人か!?」
「男と一緒だぞ!」
「どこ行くんだ!」
水族館の静けさは、もうない。
代わりに、現実が、日常が、容赦なく追いかけてくる。
通路を曲がり、展示の影に滑り込む。
人の波を縫うように、ミハイルは迷いなく進んでいく。
「ミーシャ……!」
「大丈夫、離れるな」
その声は、驚くほど落ち着いていた。
非常口の表示が見える。
ミハイルは迷いなく扉を押し開けた。
その向こうから、日暮れ前のやわらかな風が流れ込む。
外へ出た瞬間も、立ち止まる暇はなかった。
マーリンは手を引かれるまま、再び駆け出す。
空はまだ青さを残している。
けれど西の光はすでに低く、街並みの輪郭を淡い金色に縁取っていた。
背後のざわめきは少しずつ遠ざかっていく。
それでも、追ってくる視線の気配だけは、なかなか消えてくれなかった。
(やっぱり……)
胸が、ぎゅっと締め付けられる。
どれだけ隠しても。
どれだけただの私でいようとしても。
私は――逃げられない。
曲がり角をいくつも越え、ようやく、人影の少ない場所へ出た。
ミハイルが足を止める。
「……ここなら、ひとまず」
息が、荒い。
胸が、上下する。
マーリンは、自分の手が、まだミハイルに掴まれていることに気づいた。
離される気配は、ない。
怖さと、安堵と、悔しさが、ないまぜになる。
(楽しかったのに……)
ほんの少し前まで、確かに、笑っていたのに。
日常は、あまりにも簡単に侵入してくる。
それが、マーリンの世界だった。
それでも。
繋がれた手の温もりだけが、
まだ、ここに残っていた。
扉が閉まる音は、驚くほど静かだった。外の喧騒が、ぴたりと遮断される。
まるで、別の世界に踏み込んだかのように。
広い室内。余計な装飾のない、落ち着いた色調。
足元に敷かれた柔らかな絨毯が、走り続けていた身体を受け止める。
「……ここなら、大丈夫だ」
ミハイルがそう言って、ようやく息を整えた。
マーリンは、すぐには返事ができなかった。
胸が、まだ早鐘を打っている。
呼吸が浅い。
視線を上げると、大きな窓があった。
そこから見えるのは、夕暮れに沈みかけた帝都だった。
空の下のほうには、まだ燃えるような赤が残っている。
けれど頭上へ行くほど色は深まり、青は紫へ、紫は夜の気配へと変わっていた。
高くそびえる建物の窓や壁面が、沈みかけた夕日の色を受けて、赤く、金色に染まっている。
規則正しく並ぶ街路。
遠くを走る車の列は、すでに灯り始めたライトを連ね、細い川のように街を流れていた。
「……きれい」
思わず、零れた声。
「だろ」
ミハイルは窓際に歩み寄り、隣に立つ。
だが、肩が触れ合うほど近づくことはしない。
ほんの、半歩分の距離。
「こんなふうに、上から街を見るのは……初めて」
「そうなのか?」
「ええ。高い場所に立つことはあっても……こんなふうに眺めたことはなかったから」
自分で言って、少しだけ苦く笑う。
式典。
公務。
演説台の上から見る景色。
あれは、見るというより、見られている感覚だった。
けれど、今は違う。
ここには、視線も、期待も、命令もない。
ただ、夕暮れの街が、静かに広がっているだけだった。
マーリンは、ゆっくりと息を吐いた。
「……ごめんなさい」
唐突な言葉に、ミハイルがこちらを見る。
「何が?」
「楽しかったのに……台無しにしてしまって」
「そんなことはない」
即答だった。
「むしろ――」
ミハイルは少し言葉を選ぶように、間を置く。
「……ああやって、名前を呼ばれて、追われるのが、君の日常なんだって。改めて、思い知らされただけだ」
マーリンは、黙ったまま、窓の外へ視線を戻した。
胸の奥が、じん、とする。
「……逃げたかったわけじゃないの」
ぽつりと、こぼす。
「ただ……今日は、少しだけ、忘れたかった」
公爵令嬢であることも。代理であることも。
フルール・デスポワールという名前も。
「笑ってた時間が、嘘だったみたいになるのが……怖くて」
言葉にした瞬間、喉が詰まる。
ミハイルは、何も言わない。
ただ、こちらを見ている気配だけが、背中に伝わる。
「……ねえ、ミーシャ」
「うん」
「私、ちゃんと……楽しんでいいのかしら」
自分でも、驚くほど弱い声だった。
「誰かと出かけて。笑って。そんなことをしている間に、何かを裏切っている気がして」
沈黙。
やがて、ミハイルがゆっくりと口を開く。
「……君は、誰も裏切ってない」
その声は、低く、落ち着いていた。
「役割を背負っているからって、心まで縛られる必要はない」
マーリンは、唇を噛みしめる。
「でも……私は、選ばれた存在だから」
「違う」
きっぱりとした否定。
「君は、選ばれた道を歩いてるだけだ。君自身が、誰かの所有物になったわけじゃない」
その言葉が、胸に落ちる。
完全には理解できない。
それでも――否定されなかった。
「……ここ、不思議ね」
マーリンは、話題を変えるように言った。
「逃げ込んできただけなのに……少し、安心する」
「日常から、半歩外れてる場所だからな」
「半歩……」
「完全に逃げたわけじゃない。でも、飲み込まれてもいない」
マーリンは、その言葉を反芻する。
半歩。
それは、今の自分に、ちょうどいい距離だった。
ふと、気づく。
まだ、ミハイルの手が、自分の手を握っていることに。
「……その、手」
「あ……」
慌てて離そうとするミハイルの手を、マーリンは、きゅっと握り返した。
「待って。……ちっとも、気にならないわ」
むしろ――。
そう思ったけれど、言葉にはしなかった。
「今日は……本当に、楽しかったの」
はにかむように、笑う。
「追いかけられたのは……まあ、その……スリルがあったけど」
「スパイ映画みたいだったな」
「ふふ……悪い男に連れ去られる、可哀想な令嬢?」
「いや、凄腕のスパイに守られる、強い女性だ」
思わず、吹き出す。
胸の奥に溜まっていたものが、少しだけ、ほどけていく。
窓の外では、夕焼けの赤がゆっくりと沈み、代わりに夜の青が街を包み始めていた。
マーリンは、そっと思う。
(……もう少しだけ、この場所にいたい)
その願いが、言葉になる前に――
街のあちこちで、ぽつり、ぽつりと照明が灯り始めた。
高層の建物の窓。
通りに沿って並ぶ街灯。
橋の輪郭をなぞるような細い光の列。
沈みかけた夕日の赤が、少しずつ人工の灯りに置き換わっていく。
昼でも夜でもない、ほんのわずかな境目の時間。
その移ろいを見つめながら、
二人のあいだにもまた、言葉にできない何かが、ゆっくりと形を変え始めていた。
窓の外では、もう帝都の灯りだけが夜をかたちづくっていた。
光は遠いはずなのに、鼓動だけが、いつまでもうるさい。
マーリンは、指先をきゅっと握りしめた。
離してしまえば、この時間まで零れ落ちてしまいそうで。
「……ねえ、ミーシャ」
呼ぶ声が、思ったよりも弱かった。
それだけで、自分の中の何かが揺らいでいると分かる。
「どうした?」
優しい声。
それが、今は少しだけ、残酷に感じた。
「今日ね……楽しかったの」
言葉にした瞬間、胸がきゅっと締めつけられる。
楽しかった――ただ、それだけのことなのに。
「笑って、走って、息が切れて……それだけなのに、どうしてか、すごく……」
声が、続かなかった。
幸せだった
そう言ってしまえば、きっと戻れなくなる。
「……怖くなったの」
絞り出すような声。
「このまま、何も考えずに笑ってしまったら、私……戻れなくなる気がして」
ミハイルは、何も言わない。
それでも、黙って聞いていると分かる距離だった。
「私はね、本当は知ってるの」
マーリンは、俯いたまま続ける。
「今日みたいな時間は、長く続かないって。私には、帰る場所があって……期待されている役割があって……」
その役割を、捨てる勇気はない。
捨ててはいけない、と教え込まれてきた。
「だから……」
指先が、無意識にミハイルの袖を掴む。
「……だから、欲しいって思ってはいけないのに」
小さく、息を吸った。
「また、こうして並んで歩きたいって思ってしまう」
言ってしまった。
胸の奥で、何かが音を立てて崩れる。
「名前を呼ばれて。何者でもない顔で、笑って……」
声が震え始める。
「それだけで、十分だなんて……そんなふうに思ってしまう自分が、怖いの」
マーリンは、ゆっくりと顔を上げた。
「ねえ、ミーシャ。私……欲張りよね」
欲張りだ。
与えられているものがあるのに、それとは別の温度を求めてしまうのだから。
「……違う」
ミハイルの声は、低く、静かだった。
「それは、欲張りなんかじゃない」
マーリンは、かすかに首を振る。
「だって……ミーシャといると、息ができるの」
涙が、堪えきれずに滲む。
「頑張らなくてもいいって、思ってしまうの。何かを証明しなくても、ここにいていいって……」
一粒、涙が零れた。
「そんなふうに思ってしまうのは……きっと、間違ってる」
零れた雫が、床に落ちる音はしなかった。
けれど、胸の奥では、はっきりと響いていた。
「私……あなたの隣にいる自分を、好きになってしまった」
それは、告白だった。
けれど、マーリンはまだ、それを告白だと理解していない。
恋と呼ぶには、あまりにも臆病で。
願いと呼ぶには、あまりにも切実で。
窓ガラスに映る帝都の灯りが、揺れるように二人の輪郭を照らしていた。
その淡い光の中で、マーリンはただ一つだけ、確信していた。
――この気持ちに、戻る場所はない。
マーリンの言葉が、夜気の中に溶けていく。
その余韻が消えるまで、ミハイルはすぐに口を開かなかった。
窓の外では、帝都の灯りが静かに瞬いていた。
その淡い光が、二人の影をガラス越しに滲ませる。
伸びて、重なって、また離れる。
「……マーリン」
呼ぶ声は、静かだった。
それでも、迷いはなかった。
「君が言ったこと、全部……正しいと思う」
マーリンの肩が、わずかに揺れる。
「君には立場がある。背負ってきたものも、これから背負わされるものも、俺は知ってる」
知らないふりは、できなかった。
優しさの名を借りた逃げも、選ばなかった。
「だから、君が怖がるのも…… 欲しがってはいけないと思うのも、当然だ」
ミハイルは一歩、距離を詰めた。
近づきすぎない。
けれど、離れない。
「でもな」
そこで、ほんの一瞬だけ息を整える。
「それでも、俺は……、君がそうやって息をする場所から、目を逸らせなかった」
マーリンが、顔を上げる。
「君が笑ってるときも。 無理をしてるときも。 全部、俺は見てきた」
言葉が、胸の奥から引きずり出される。
「守るとか、支えるとか……正直、そんな立派なことは言えない」
自嘲するように、かすかに笑った。
「でも、君が人形みたいだって自分を言うたびに、俺の中で、何かが壊れそうになる」
マーリンの瞳が、揺れる。
「君は、選ばされてきただけだ。 望まれて、期待されて、その通りに動くことを正しさだと教え込まれてきた」
だからこそ、とミハイルは続ける。
「俺は、君を正しい選択として欲しいんじゃない」
一歩、さらに近づく。
「逃げ道でもない。 慰めでもない。 未来を保証する約束でもない」
その距離で、はっきりと告げた。
「それでも―― 俺は、君を選ぶ」
短い言葉だった。
けれど、そこに迷いはなかった。
「君が戻れないと思う場所に、俺も一緒に立つ」
マーリンの息が、詰まる。
「君が立場に縛られても、自由になれなくても…… それでも、隣にいたいと思った」
視線を逸らさずに、続ける。
「君が泣くなら、そこにいる。笑うなら、同じ速さで歩く」
それだけでいい、と。
「完璧な未来なんて、いらない。誰に認められなくてもいい」
ミハイルは、そっと手を伸ばした。
触れるか触れないか、その距離で止める。
「……マーリン」
名前を呼ぶ声が、柔らかくなる。
「俺は、君が好きだ」
その一言は、飾り気もなく、ただ真っ直ぐだった。
「役割でも、期待でもなく。フルール・デスポワールだからでもない」
ミハイルの瞳が、わずかに揺れる。
「ただ、君だから」
その言葉に、マーリンの頬を涙が伝う。
「だから――それでも、俺と一緒にいるか?」
選択肢は、委ねられていた。
けれど、その問いには、確かな意思が宿っている。
マーリンの頬を伝う涙は止まらない。
それでもその表情は、先ほどよりも、少しだけ――息がしやすそうだった。
見つめあった二人は、しばらくそのまま動けずにいた。
夜景の光が、窓越しに静かに差し込み、床に落ちた影が、寄り添うように重なる。
やがて、その影がわずかに揺れ、ゆっくりと離れた。
「ミーシャ……」
マーリンは、切なげに名前を呼ぶ。
声はかすれ、胸の奥から絞り出すようだった。
その声を聞いた瞬間、ミハイルはもう耐えられなかった。
強く抱き寄せる。
逃がさないように。
失わないように。
耳元で、低く、必死にささやく。
「マーリン。……君を、渡したくない」
一瞬の沈黙。
それから、マーリンは何度も、何度も頷いた。
「うん……うん……。嬉しい……」
声が震える。
顔を上げたマーリンの瞳から、一筋の雫が静かに零れ落ちた。
「……どうして泣くんだ」
戸惑ったように、ミハイルが呟く。
マーリンはくしゃりと笑いながら、ぽろぽろと涙をこぼした。
「ぐすっ……ごめんなさい……。 嬉しくて……」
言葉が追いつかない。
「だって、ずっと……ずっと…… 私、好きだったんだもん……」
息を吸い、震える声で、はっきりと告げる。
「大好きだったの。 ミーシャのことが……!」
ミハイルの胸が大きく上下した。
ミハイルはそっとマーリンの頬に手を添え、親指で零れた涙を優しく拭う。
その触れ方は、驚くほど慎重で、壊れものを扱うようだった。
「……泣かせるつもりなんて、なかった」
苦笑まじりの声に、マーリンは首を横に振る。
「いいの……。こんなふうに泣いたの、久しぶりだから……」
ミハイルは答えず、ただ、もう一度マーリンを抱きしめた。
強くはない。
けれど、確かで、揺るがない。
その腕の中で、マーリンは小さく息を吸う。
そして、そっと顔を上げた。
至近距離で、視線が絡む。
ミハイルは、わずかに息を呑む。
マーリンはゆっくりと瞳を閉じた。
逃げではない。
覚悟でもない。
ただ――選んだ。
額に、そっと唇が触れる。確かめるような、短い接触。
次に、頬。
そして、ためらいながら――唇へ。
それは、とても静かなキスだった。
深くも、強くもない。
けれど、確かにそこに想いがあった。
マーリンの指が、ミハイルの服の裾をきゅっと掴む。
ミハイルは、ほんの少しだけ力を込め、マーリンを抱きしめ直した。
唇が離れたあとも、二人の距離は、もう元には戻らなかった。
「……ミーシャ」
「……ああ」
言葉は、それ以上いらなかった。
選ばれたのではない。
選び合ったのだ。
この夜。
この場所。
このぬくもり。
すべてが、確かな証だった。
夜の帝都の灯りが、窓の向こうで静かに瞬いている。
その余韻の中で、二人はただ、同じ未来の気配を見つめていた。
部屋は静かだった。
灯りは落とされ、窓の外の夜景だけが、薄くカーテン越しに滲んでいる。
ミハイルは、マーリンの手を離さなかった。
強く握るわけでもなく、引き寄せるでもない。
ただ、そこにあることを確かめるように。
マーリンもまた、そっと指を絡める。
その小さな動作ひとつで、胸の奥が温かく満たされていくのを感じた。
肌に残るぬくもりも、近すぎるほど近くにある気配も、もう何ひとつ、夢のようには思えなかった。
「……不思議ね」
ぽつりと、マーリンが言った。
「何が?」
「世界は何も変わっていないのに……私だけ、少し違う場所にいるみたい」
ミハイルは、夜景から視線を外し、マーリンを見る。
「……悪い意味か?」
「ううん」
マーリンは小さく首を振った。
「むしろ……やっと、地面に足がついた気がするの」
これまでずっと、期待の上に立ち、責務に引き上げられ、正しくあれと言われ続けてきた。
それが当たり前で、疑うことすら許されなかった。
けれど、今は――
誰かに選ばれたのではない。役割として必要とされたのでもない。
ただ、ここにいていい、と言われた。
それだけで、呼吸が深くなる。
ミハイルは、少し照れたように視線を逸らしながら言う。
「……大げさだな」
「そうかしら?」
マーリンは、くすっと笑った。
その笑みは、さっきまでより少しだけやわらかく、無防備だった。
「でもね。今日一日で、私……たくさん取り戻した気がするの」
「何を?」
「泣いてもいいこと。弱くなっても、隣に誰かがいること。それから……」
言葉を探すように、少しだけ間を置く。
「誰かを好きになっても、いいってこと」
ミハイルの指が、ほんのわずかに強くなる。
「……それは」
「うん」
マーリンは、はっきりと頷いた。
「ミーシャだから、よ」
沈黙が落ちる。
けれどそれは、気まずさではなかった。
満ち足りた、静かな時間。
ミハイルは深く息を吸い、ゆっくり吐いてから言う。
「……これから、どうなるかは分からない」
「ええ」
「簡単じゃないし、きっと、思ったよりずっと大変だ」
「……わかってる」
それでも。
マーリンは、そっとミハイルの胸に額を預けた。
その仕草は、もう戸惑いよりも自然だった。
「でもね。今日みたいな日が、たまにあるだけで……私は、また頑張れる気がするの」
ミハイルは、何も言わず、マーリンの髪に指を通す。
やわらかく梳くその手つきは、さっきよりもずっと静かで、親密だった。
それが、答えだった。
夜は、まだ深い。けれど二人はもう、急がなかった。
手を繋ぎ、同じ景色を見て、同じ速度で呼吸をする。
それだけで、十分だった。
――結ばれた、という実感は、派手な言葉ではなく、
この静けさの中に、確かにあったのだから。
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