ただの「自分」になれる場所
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「お嬢様、くれぐれも……」
玄関先で、クリスチーナは三度目になる忠告を口にしかけて、途中で言葉を飲み込んだ。
言い過ぎていると、自覚があったのだろう。小さく咳払いをする。
「……そんなに何度も言わなくても、分かってるわ」
マーリンはそう言って、軽く肩をすくめた。
声は努めて平静を装っていたが、わずかに喉が詰まる。
「私、もう子どもじゃないもの」
言い終えたあと、ほんの一瞬だけ視線が揺れた。
「……それでも心配なのです。あまり羽目を外しませぬように……」
「大丈夫。ちゃんと気をつけるから、クリスはほんとうに、心配性ね」
マーリンは微笑んでみせた。
けれどその笑みは、どこかぎこちなく、頬の筋肉がこわばっているのを自分でも感じていた。
ミハイルは一歩下がった位置で、その様子を黙って見ていた。口を挟むべきか、挟まないべきか
――いつもの距離感を測るように。
「ミハイル様」
クリスチーナが、今度はミハイルに向き直る。
「お嬢様を、お願いいたします」
「はい、承知しています」
一拍置いてから、ミハイルはわざと軽い調子で続けた。
「このじゃじゃ馬が、これ以上暴れ出さないように。しっかり手綱を引いておきます」
「……ちょっと、誰がじゃじゃ馬ですって?」
マーリンが眉をひそめた。
「自覚がないのが一番厄介なんだ」
「二人して、何を楽しそうに……」
文句を言いかけたマーリンだったが、ミハイルとクリスチーナが視線を交わして小さく笑うのを見て、言葉を止めた。
「どうか、良い一日を」
クリスチーナは穏やかに頭を下げ、ミハイルはマーリンの背中を軽く促した。
「さあ、行こう。時間は限られてる」
一瞬、マーリンは足を止めた。
扉の向こう――外の世界を見つめる。公爵家の敷地。責務も、視線も、役割も、すべてが存在する場所。
けれど。
「……うん」
小さく頷いてから、マーリンは顔を上げた。
「それじゃ、行ってきます」
言葉にした瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなる。
扉が閉まる音が、背後で静かに響いた。
マーリンはまだ気づいていない。
それが逃げではなく、自分を取り戻すための一歩であることを。
屋敷の車寄せから少し離れた場所に、見慣れない車が停められていた。
低く構えた流線的なフォルムは、どこか洗練されていて、公爵家のものとは、明らかに雰囲気が違う。
マーリンは足を止め、まじまじとそれを見つめた。
「……これ、ミーシャの?」
「そうだけど」
「ふぅん」
「意外か?」
「ううん、そんなことないわ、ミーシャっぽいと思っただけよ」
マーリンはそう言って、小さく笑った。さっきまでの緊張が、ほんの少しだけ和らいでいる。
「今日は、ゆっくり行くつもりだ」
ミハイルはそう言いながら、運転席側に回り込む……ことはせず、自然な動作で助手席側の扉を開けた。
「……あ」
マーリンは一瞬、言葉を失った。
「屋根、低いのね。それに……席が二つしかない」
「必要十分だろ」
「違うの、そういう意味じゃなくて……」
マーリンは視線を車内に滑らせる。ほぼ隣り合った二つの座席。
なぜか、胸の奥がきゅっと鳴った。
「隣、嫌か?」
からかうような声ではなかった。ただ、選択肢を渡す声。
マーリンはすぐに首を横に振った。
「いいえ。……むしろ」
躊躇いながらも、一歩、近づく。
「その……助手席って、初めてだから……」
口にしてから、頬がほんのり熱を帯びた。そんなことを言いたかったわけじゃないのに。
「……そうか」
ミハイルは短く応じると、ふっと目を細めて手を差し出した。
「お手をどうぞ、お嬢様」
「……ふふ、ありがとう」
マーリンは、微笑みながらその手を取る。けれど、指先にはほんのわずかに、緊張が残っていた。
少しだけバランスを崩しながら、踊るような足取りで車内へ身体を滑り込ませる。
シートに腰を下ろした瞬間、視界が変わった。いつもより低い位置から見る景色に、胸が少しざわめく。
「……なんだか、不思議」
「何が?」
「世界が、少し近くなった気がするの」
公爵家の敷地内のはずなのに。
守られている、という感覚だけが、ふっと薄れた気がした。
ミハイルは運転席に座り、シートベルトを締めながら言った。
「今日は、そういう日だ」
モーターの起動音が、ほとんど気づかないほど小さく鳴った。
すると車は滑るように、屋敷の外に向かって動き出す。
――本当に、行くんだ。
シートに背中を預けた瞬間、胸の奥がそわりと落ち着かない感覚に満たされた。
サイドミラーに映る屋敷がどんどん小さくなっていく。
逃げるわけじゃない。
分かっている。
それでも――胸の奥では、小さな期待が、息をひそめて膨らんでいた。
今日は、誰の役割でもない。ただの「自分」でいられるかもしれない、その予感。
緊張で心臓は少し早く打っているのに、それが、不思議と嫌じゃなかった。
まっすぐに前を見つめる瞳には、確かに光が戻り始めていた。
車は静かに屋敷の門を離れていった。
石畳の感触がタイヤ越しに伝わり、やがてそれも滑らかな道へと変わっていく。
マーリンは窓の外を眺めながら、しばらく黙っていた。
流れていく街並み、そびえたつ建物、人々の生活。どれも知っているはずなのに、今日は少し違って見える。
「ねえ、ミーシャ」
「ん?」
「車の運転って……楽しいの?」
少し考えるように、ミハイルは前を見たまま答えた。
「どうだろうな。嫌いじゃない、くらいかな」
「はっきりしないのね」
「ブライアンはあまり好きじゃないらしい。自分で運転してるときの渋滞が特に」
「……ブライアン様も、車の運転ができるのね」
「ああ、一応な」
「そう……」
一瞬、マーリンは考え込むように視線を落とし、それからぽつりと言った。
「私も、教えてもらおうかしら。車の運転」
「マーリンが?」
思わず、といった調子で返すミハイルに、マーリンは肩をすくめる。
「必要ない、って顔してる」
「いや……そういうわけじゃ……」
「でも、運転できたら素敵でしょう?」
マーリンは前を向いたまま、柔らかい声で続ける。
「だって、車があれば、好きな人と二人きりで……どこか遠くへ行けるもの。……誰も知らない場所へ」
一瞬、車内の空気が静まった。
「マーリン」
「ふふ、ごめんなさい」
マーリンはすぐに笑ってみせる。
「冗談よ。こういう台詞を一度言ってみたかっただけ」
無理をした明るさ。それを、ミハイルは聞き逃さなかった。
「……公爵が許さないだろ」
「お父様?」
マーリンは少しだけ言葉を選んでから、答える。
「大丈夫よ。ブライアン様に、許可を貰いさえすれば。彼の言うことなら……お父様も、何も言わないはずだもの」
冗談めかして、マーリンは続ける。
「あら、私だって女の子なのよ?友達と遊んだり、一緒に勉強したり……それに、誰かと――」
一瞬、言葉が詰まる。
「……恋は、難しいけれど。女の子を、満喫してみたいわ」
その声は軽くても、奥に滲むものは軽くなかった。ミハイルはハンドルを握ったまま、静かに問いかける。
「……婚約のことか?」
マーリンは驚いたように目を瞬かせ、そして小さく笑った。
「……ミーシャには、お見通しなのね」
「まあ、な」
マーリンはしばらく黙り込んだ。街のざわめきが、窓の外を流れていく。
「……実は」
その先を、マーリンはまだ言えなかった。
けれど、言葉にしなくてもいいと思える沈黙が、そこにはあった。
「……何でもないわ」
「……そうか」
ミハイルは急かさない。ただ、同じ速度で、同じ道を走り続ける。
その並び方が、マーリンの胸の奥に、少しずつ温度を戻していった。
市街地を抜けると、景色はゆるやかに変わっていった。背の高い建物が減り、低い家並みと並木道が続く。
帝都の喧騒は少しずつ遠ざかり、風の音がはっきりと聞こえるようになる。
「……静かね」
マーリンがそう呟いた声は、いつもより柔らかかった。
「この道、あまり使う人がいないからな」
「そう……だから、好きなの?」
「まあ、そんなところだ」
短いやり取り。けれど、その間に流れる空気は、先ほどまでとは少し違っていた。
マーリンは窓に額が触れそうなほど身を寄せ、外を見つめる。木々の間から差し込む光が、車内をまだらに照らした。
「……ねえ、ミーシャ」
「なんだ?」
「ここを走っていると……私、家のことを忘れられる気がするわ」
その言葉は、試すようでもあり、確かめるようでもあった。
「……忘れたい、のか?」
ミハイルは慎重に言葉を選んだ。
「ううん……、違う」
マーリンは首を横に振る。
「忘れちゃいけない。私は。それは分かっているの」
一度、言葉を切る。
「でも……今だけはって、思ってしまうの」
声が、ほんの少し震えた。
「責任も、期待も……ロイス家の令嬢って呼ばれる全部を、ここに置いていけたらって」
マーリンは笑おうとした。けれど、その笑みは途中でほどけてしまった。
「……変よね。こんなに恵まれているのに、逃げたいなんて」
「変じゃない」
ミハイルは即座に答えた。
「そう、かな?」
「ああ」
短く、迷いのない声だった。マーリンは驚いたようにミハイルを見て、すぐに視線を逸らす。
「みんなは、私に期待を向けてくれるの」
その言葉は、どこか遠くを見ているようだった。
「期待に応えてきたから。役目を果たしてきたから。でも……、それは、貴族の令嬢として、正しいって教えられたとおりにしてきただけ……」
マーリンは膝の上で、指をぎゅっと組む。
「そうならなきゃ、いけなかっただけなのに」
その一言で、車内の空気が張り詰めた。
ミハイルは何も言わない。言えなかった、のかもしれない。
ただ、ハンドルを握る手に、少しだけ力が入る。
「……ねえ」
マーリンは、独り言のように続けた。
「ここまで来ると、少しだけ……私、私でいられる気がするの」
窓の外では、空が大きく開けていた。遠くに見える緩やかな丘。走り抜ける風。
それは、自由の形をした景色だった。
マーリンはその風景を、眩しそうに見つめている。
「でも、本当の、私って……」
——そして、その先にあるものを、まだ言葉にできずにいた。
車は、いつの間にか帝都の外れを走っていた。
車内に響くロードノイズ。低い建物。遠くに見える畑と、広い空。
マーリンは、窓の外を見つめたまま、言葉を探していた。探しているというより――怖がっていた。
言ってしまえば、戻れなくなる気がして。
「……ミーシャ」
呼んだ声が、思ったよりも弱くて、自分で驚く。
「どうした?」
変わらない声。それが、最後の引き金になった。
「……私ね」
一度、言葉が途切れる。喉が、詰まる。
「ずっと……ちゃんとしなきゃって思ってきたの」
膝の上で、指が絡み合う。
「ロイス家の令嬢として、みんなの希望として……もし、一つでも間違えたら、期待を裏切ったら、全部壊れるって、ずっと」
小さく、笑う。
「だから、平気なふりをするのは、自然と上手になったわ」
次の瞬間、その笑みが歪んだ。
「でも……ね。時々、分からなくなるの」
声が、震え始める。
「朝起きて、鏡を見て……そこにいる人が、誰なのか」
視界が滲む。
「令嬢で、希望で、役目を持った私は分かるのに……それ以外の私は、どこにもいなくて」
ぽた、ぽた、と涙がドレスに染みを作る。
「あれ?……あ、やだ……」
慌てて瞬きをするが、涙は止まらない。
「……私、本当は、空っぽなのかもしれない」
そう言った瞬間、胸の奥が裂けた。
「何も、欲しいって思えなくなって。何が、好きだったかも、よく分からなくて……」
声が、掠れる。
「ただ、求められる自分を選び続けてきただけで……それが、正しいことなんだって、思い込んで」
涙が、頬を伝い、落ちる。
「それが……苦しくて……怖くて」
唇が震える。
「こんなに、苦しいのに……誰にも、言えなくて……」
嗚咽が、漏れた。
「……弱音を吐いたら、だめなんだ。みんなの期待に、希望にならないとだめなんだって」
肩が、小刻みに揺れる。
「怖かったの……お父様には……特に」
その名前を出した瞬間、涙が溢れた。
「失望されるのが怖かったから……」
声が、崩れる。
「切り捨てられるのが怖かったから……」
ぎゅっと、胸を押さえる。
「だから……何も言えなかった……!」
堰を切ったように、涙が零れ落ちる。
「ただ、怖くて……だから、失敗できないの。間違えられない。弱音を吐く余裕も、逃げる場所もなくて……」
顔を覆う。
「……もう、疲れた……」
絞り出すような声。
「もう、どうしていいのか……分からない……」
呼吸が乱れ、言葉が途切れ途切れになる。
「私……生きてるのに……生きてないみたいで……」
嗚咽。
「……助けてって、言っていいのかも……分からなくて……!」
完全に、崩れ落ち、マーリンは、泣いた。
声を殺すこともできず、ただ、涙をこぼした。
しばらく、何も言えない時間が続く。
やがて。
「……十分だ」
ミハイルの声が、静かに届いた。
車は、いつの間にか止まっていた。
ロードノイズが消え、外の風の音だけが残る。
「もう……それ以上、自分を責めなくていい」
マーリンは、顔を上げられなかった。
「君は、ちゃんとやってきた」
低く、確かな声。
「逃げなかった。投げなかった。折れそうになりながらも、立ってた」
一拍、置いて。
「……それだけで、十分すぎる」
マーリンの喉から、震えた息が漏れる。
「……でも……」
「でもはいらない」
即座に、遮られる。
「苦しいって思うのも、怖いって思うのも、弱さじゃない」
静かに、しかし、はっきりと。
「生きてる証拠だ」
そして。
「君は、人形じゃない」
その言葉で。何かが、音を立てて崩れた。
「……っ!」
声にならない声が、溢れる。
マーリンは、子どものように泣いた。肩を震わせ、息を詰まらせ、涙を止めることもせず。
ミハイルは、触れない。
ただ、隣にいる。
「ぐずっ……ありが、とう……」
涙でぐちゃぐちゃになった声。
「ここでなら……折れても……いい……」
「いい…の?」
短く、迷いを含んだ声。
ミハイルは優しく頷いた。
「折れても、ここにいていい」
その一言で、マーリンは、また泣いた。でも、その涙は、少しだけ違っていた。
やがて、泣き疲れて、呼吸が落ち着く。
マーリンは赤くなった目で、恥ずかしそうに笑った。
「……ひどい顔、ね……」
「今さらだ」
小さく、でも優しい。
マーリンは、窓の外を見る。さっきと同じ景色なのに、色が違う。
「……私……今日のこと、忘れない」
ミハイルは、静かに頷いた。
「忘れなくていい」
車は、再び走り出す。涙の跡を残したまま。
折れても、隣にいていい場所がある。
それだけで、マーリンの心は、確かに息を取り戻していた。
しばらくのあいだ、言葉はなかった。
車は静かに走り続けている。窓の外には、緩やかな丘と、遠くまで続く道。
空は高く、雲がゆっくりと流れていた。
マーリンは、シートに深く身を預けたまま、呼吸を整えていた。
胸の奥に残る、ひりつくような痛み。それでも、不思議と――さっきまでの息苦しさはない。
(……泣いたんだ)
そう思うと、少しだけ恥ずかしくなる。
「……ごめんなさい」
ぽつりと、呟いた。
「急に、あんな……子どもみたいに……」
声はまだ掠れているが、さっきほど震えてはいなかった。
ミハイルは、前を向いたまま答える。
「謝ることじゃない」
短く、それだけ。マーリンは、少し驚いてから、力なく笑った。
「……泣き顔、ひどかったでしょう」
「ひどかったな」
即答だった。
「……もう」
文句を言う気力もなく、マーリンは小さく肩をすくめる。
「でも」
ミハイルが、続けた。
「ちゃんと、マーリンの顔だった」
その言葉に、マーリンは一瞬、息を止める。
マーリンの顔。
それは、何よりも欲しかった言葉だった。
「……ねえ、ミーシャ」
少し間を置いてから、マーリンは言った。
「私……今日、たくさん弱いところを見せたわ、とても、人には見せられない。」
「見たな」
「……幻滅、した?」
問いかけは、恐怖を含んでいた。
ミハイルは、ハンドルを握る手に力を込めたまま、ゆっくり首を横に振る。
「逆だ」
マーリンは、視線を向ける。
「前より、ちゃんと君が分かった気がする」
それは、慰めではなかった。評価でも、同情でもない。
隣に立つ人間としての言葉だった。
マーリンの胸が、静かに温かくなる。
「……ありがとう」
今度は、ちゃんとした声で言えた。
しばらく走ったあと、ミハイルは、何気ない調子で言う。
「この先に、少し景色のいい場所がある」
「うん……」
「ベンチがあってな。ほかには何もないけど」
マーリンは、窓の外を見てから、小さく頷いた。
「……少し、歩きたい」
「わかった」
車が緩やかに減速する。
マーリンは、シートベルトを外しながら、ふと自分に気づいた。
(……私、ちゃんとしたいって言えた)
とても小さなことだ。
けれど、それは確かな変化だった。
車を降りると、風が頬を撫でた。泣きはらした瞼がひんやりと冷える。
マーリンは、深く息を吸う。
「……生きてる、って感じがする」
独り言のように言うと、ミハイルが横で息を吐いた。
「それは、よかった」
並んで歩く。肩が触れそうで、触れない距離。
救われたわけじゃない。明日から、また責務は戻ってくる。
それでも。
「……ミーシャ」
「ん?」
「今日のこと……忘れないで」
少しだけ、強く言った。ミハイルは、歩調を合わせたまま答える。
「忘れない」
それで十分だった。
マーリンは、空を見上げた。
涙で曇っていた視界は、もう、澄んでいる。
壊れても、立ち止まっても、戻ってこられる場所がある。
そのことを、身体が覚えている。
次に泣くときも。
次に立ち上がるときも。
――きっと、大丈夫だ。
マーリンは、そう思えた。
「……ここだ」
小高い丘の途中に、古い木製のベンチがあった。
背もたれは低く、ところどころ塗装が剥げている。
「……本当に、何もないのね」
マーリンがそう言うと、ミハイルは肩をすくめた。
「だからいいんだ」
二人並んで腰を下ろす。
ベンチは少しだけ軋んだが、壊れる気配はない。
眼下には、畑と、点々と家が立ち並ぶ小さな街並み。
人の声は届かず、風と鳥の鳴き声だけがある。
マーリンは、しばらく黙って景色を眺めていた。
(……さっきまで、世界が遠かったのに)
今は、ちゃんとここにいる。
「ねえ、ミーシャ」
「ん?」
「さっき……私、かなりひどかったわよね」
ミハイルは、少し考えてから答えた。
「泣き方が、下手だったな」
「そこ!?」
思わず声が裏返る。
「普通、もっと言い方があるでしょう」
「あるが、嘘になる」
マーリンは一瞬呆れて、それから――ふっと、息が抜けた。
「……もう、何よそれ」
口元を押さえたまま、小さく笑う。それは、声にならない、かすかな笑いだった。
ミハイルは、その様子を横目で見て、わずかに目を細める。
「今のほうが、いい」
「なにが?」
「表情」
マーリンは、照れたように視線を逸らした。
「……そんなに、変、だった?」
「ああ」
即答する。
「さっきまでは、張り詰めすぎてたんだと思う」
マーリンは、胸に手を当てる。確かに、そこにあった重さが、少し軽い。
「……泣いたら、少し恥ずかしくなったの、でもね……なんだかすっきりしたわ」
「それは、正常だな」
「そういうもの?」
「たぶん」
ミハイルは、空を見上げながら続ける。
「泣くってことは、守ってたものを一度手放すことだ」
マーリンは、その言葉を噛みしめる。
「……私、ずっと必死だったのね、自分では、分からなかったけど……」
「自分で、気づかないことはいくらでもある、誰かに言われて気づくことなんて、いくらでもある」
「……じゃあ」
少し間を置いて、マーリンは小さく言った。
「今日は、もう必死じゃなくていい?」
ミハイルは、ベンチに背を預けたまま答える。
「必死にならなくていい。今日は、デートだろ」
その言葉に、マーリンは目を瞬かせると、噛み締めるように言った。
「デート、か……そうよね。今日は、デートだものね」
「ああ、デートだからな」
しばらく沈黙。
それから、マーリンは肩をすくめて言った。
「じゃあ……少しだけ、楽をするわ」
そう言って、ほんのわずかに身を寄せると、ベンチの背もたれに身を預ける。
撫でるような風が髪を揺らす。涙の痕は、もう乾いていた。
「ねえ、ミーシャ」
「なんだ」
「今日、ここに来てよかった」
はっきりとした声だった。
ミハイルは、短く息を吐く。
「……それなら、よかった」
その横顔は、どこか安心したようにも見えた。マーリンは、空を見上げながら、胸の奥で思う。
(泣いてもいい場所がある)
(笑ってもいい時間がある)
それだけで、人は、もう少し前に進める。
ベンチに並んで座る二つの影が、ゆっくりと、同じ方向に伸びていた。
ベンチを立つと、足元の砂利が小さく音を立てた。
風は先ほどよりも穏やかで、空の色も少しだけ柔らいでいる。
「……そろそろ行くか」
ミハイルが、何気ない調子で聞く。
「うん。もう十分に景色を満喫したわ」
マーリンは、深く息を吸ってから答えた。瞼はまだ少し重い。
けれど、不思議なくらいに、胸は軽かった。
二人は並んで歩き出す。
さっきまで座っていたベンチが、ゆっくりと遠ざかる。
「ねえ、ミーシャ」
「ん? 今度は何だ」
「さっきの私、忘れてくれていいから」
少し照れたように、けれど冗談めかして言う。
ミハイルは、ほんの一瞬だけ間を置いてから、微笑んだ。
「いや、忘れない」
「……即答しないで」
「ちゃんと理由がある」
「聞きたくない気がするわ」
「なら言わないでおく」
そんなやり取りに、マーリンは小さく笑った。声を抑えた、軽い笑い。
それができることが、もう嬉しい。
道の先で、子どもの声が聞こえる。風に揺れる畑の作物と、土の匂い。
「……世界、ちゃんと動いてるわね」
「止まってたら困る」
「でも、私の中では止まってた気がする」
マーリンは、自分の足元を見つめながら言った。
「さっきまで、ね……」
ミハイルは歩調を合わせたまま、静かに問いかける。
「今は?」
「今は……」
少し考えてから、マーリンは前を向いた。
「ちゃんと、前に進んでる」
ミハイルは何も言わなかったが、歩幅が、ほんの少しだけ揃った。
「ねえ」
「まだあるのか」
「今日のこと、楽しかったわ」
今度は、はっきりと。
ミハイルは、照れたように視線を逸らす。
「……それで十分だ」
道は続いている。
日常へ戻るための、いつもの帰り道。
けれど、マーリンは知っていた。
(今日みたいな日があったってこと)
(泣いて、笑って、歩き直したってこと)
それは、確かに胸の中に残る。
夕暮れの中、二人の影は並んで伸びていく。
寄り添いすぎず、離れすぎず、ただ隣に立つ、そんな距離。
(……ありがとう、ミーシャ……)
――でも、その距離は確実に近づいていた。
ここまでお読みいただき有り難うございました。
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