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決意を胸の奥に

ご覧いただきありがとうございます。

評価、ブックマークしていただきありがとうございます。


しばらく立て込んでおりまして更新が滞っております。申し訳ありません。


文章多めとなっております。

(……冷めてる)


カップに口をつけたマーリンは、眉をひそめた。


机の上には、書類の束が幾重にも積み重なっている。

それらを前に、椅子に深く腰掛けたまま、しばらく視線を落としていた。


疲労を意識することは、もうずっと前にやめた。認めてしまえば、きっと立ち上がれなくなるからだ。


――大丈夫。


そう言い聞かせ、再びカップを口元に当てたそのとき、控えめなノックが響いた。


「お嬢様、ミハイル様がお見えです」


手が止まる。

マーリンは顔を上げ、ほんのわずかに息を整えた。


「……通して」


返事は、自然なものだったはずだ。けれど胸の奥に、言いようのない違和感が残る。


「失礼するよ」


その姿を見ただけで、肩に力が入る。


クリスチーナが一礼して部屋を出ると、二人の間にわずかな沈黙が落ちる。

視線を合わせるのが怖くて、マーリンは書類に視線を逃がした。


「何の用?」


冷たく響いた自分の声に、内心で眉をひそめる。そんなつもりはなかった。ただ――。


「その山。今日中に片付けるつもりか?」


積まれた書類を見て、ミハイルは呆れたように息を吐いた。


「期限があるものから処理しているだけ……心配されるほどのことじゃないわ」


マーリンは書類を見つめたまま答えた。視線を合わせてしまえば、()()を見抜かれてしまいそうだった。


「なあ、マーリン、……最近の君、変だぞ」


その言葉に、胸の奥がざわついた。変わったのではない。変わらざるを得なかっただけだ。


「……そう?」


淡々と返したつもりだった。けれど、ミハイルに納得した様子はない。


「無理して笑わなくなったし、冗談も言わない。それに——」


言葉を切ったミハイルは一歩、近づいた。


「壁を感じる」


図星だった。マーリンは微かに唇を噛んだ。


「……忙しいだけよ」


これ以上、自分の弱さを知られないため、今のマーリンにできる精一杯の答えだった。


「……そうか」


ミハイルは小さく息を吐く。その声には、怒りよりも、諦めに近いものが滲んでいた。

マーリンは気づかないふりをして、再びペンを取る。

ミハイルの視線を、言葉を、感情を――見ないことにした。


それが、このときのマーリンにとって、唯一の()()()()()だと信じていた。



ミハイルは、マーリンの表情を盗み見るようにして、胸の内で小さく息を詰めた。


――やっぱり、前と違う。


執務机に向かうその姿は、凛としている。誰にも弱みを見せず、責務を果たす貴族そのものだ。

けれど、知っている。それが本来の姿ではないことを。


学園で笑っていたとき。

他愛もない話で、少し拗ねたり、冗談めかして肩をすくめたりしていたとき。


今は、どこか遠い。


触れれば壊れてしまいそうで、けれど、触れなければ、もっと遠くへ行ってしまうような――そんな距離。


(俺は……何をしてる)


男爵家でまだ学生。背負うものの重さを、肩代わりできる立場でもない。

声をかけたところで、きっと「大丈夫」と言う。その一言で、すべてを終わらせてしまう。


それでも。


(放っておけるわけ、ないだろ)


無理をしていることくらい、誰に言われなくても分かる。それを指摘するたび、少しだけ笑って、話を逸らす。

――まるで、これ以上踏み込むな、と言うように。


その笑顔が、何より辛かった。


助けたい。

守りたい。


だが同時に、理解している。マーリンには正式な婚約者がいる。

今の自分が踏み込めば、「支え」ではなく、「重荷」になってしまうかもしれない。だから、慎重になる。


(でも、せめて……)


――隣に立つだけなら。


ほんのひとときでもいい。肩の力を抜ける時間を、取り戻させてやりたい。

重たい書類から目を離し、「公爵代理」でも「フルール・デスポワール」でもない、ただのマーリンに戻れる時間を。


ミハイルは、決意を胸の奥に沈めた。


――まだ、できることはある。


今はそれで、十分だ。



ミハイルは、言葉を選ぶように視線を落とした。

そして、何でもないことのように口を開く。


「……そういえば、最近、あまり外に出てないだろ」


唐突な指摘に書類から顔を上げたマーリンは、一瞬だけ言葉に詰まった。

すぐに、いつもの穏やかな笑みを作る。


「そんなこと……ないわ。忙しいだけよ」


ミハイルは、その返答を予想していたように小さく息を吐いた。


「だろうと思った」


否定も、責めもしない。ただ、事実として受け止めるだけ。


「だから……少しだけ、時間をもらえないか」


マーリンの指が、書類の端をきゅっと掴む。


「時間?」


ミハイルはマーリンを真っ直ぐに見た。その視線には、同情も、下心もない。


「長くなくていい。半日もいらない。散歩でも、茶でもいい。君が()()()()()()()でいられる場所に行きたい」


マーリンは、思わず視線を逸らした。


――ずるい。


そう思ってしまうほど、優しい言葉だった。


「私……今は」


断ろうとした言葉が、喉で止まる。公爵代理としての責任。婚約者がいる立場。

やるべきことは山ほどある。


それなのに。

ミハイルの言葉が、胸の奥に溜まっていた疲れを、静かに揺らした。


「……約束だけ、なら……」


気づけば、そう口にしていた。マーリン自身が、一番驚いていた。


「でも、もし……」


「もし無理なら、そのときは断っていい」


被せるように、ミハイルが言う。


「君が決めていい」


その言葉に、マーリンはふっと力を抜いた。


「……ありがとう……」


小さな声だったが、確かに届いた。ミハイルは、少し照れたように視線を逸らす。


「じゃあ、今度の休みで」


「ええ……」


短いやり取り。それだけなのに、執務室の空気が、ほんの少しだけ軽くなった。

ミハイルが扉へ向かい、立ち止まる。


「……無理、しすぎるなよ」


振り返らずに言ったその一言に、マーリンは答えられなかった。代わりに、背中に向かって小さく頷く。


扉が閉まり、再び静寂が戻る。

でも、マーリンの胸の奥には、確かに残っていた。


――楽しみ、という感情が。



マーリンは鏡の前で、何度も自分の姿を確かめては、小さく首を傾げていた。


(……服、どうしよう)


普段なら迷うことはない。

公爵家の令嬢として、フルール・デスポワールとして、求められる装いは明確だった。

けれど今回は違う。()()()という言葉が、どうしても頭から離れない。


「……クリス」


控えめに声をかけると、すぐに背後から気配が近づいた。


「はい、お嬢様。……何か、お悩みですね?」


マーリンは一瞬だけ逡巡し、息を吐いた。


「ええと……今度、外出することになって……その、目立たない服装がいいのだけれど」


その瞬間。

クリスチーナの目が、わずかに輝くと、弾んだ声で続ける。


「なるほど、ようやくですね」


「えっ?」


「いえ。失礼しました」


取り繕いながらも、口元は笑っている。


「目立たないが、品があり、かつ可憐ですね?」


「……そこまで言ってないけど」


マーリンが抗議すると、クリスチーナは首を横に振った。


「お嬢様が()()()()()とおっしゃる場合、最高に可愛いが、本人は()()()()()()()装いになります……ご安心ください。正体は決して悟らせません」


クリスチーナが、軽く指を鳴らすと控えていた侍女たちが、待っていましたとばかりに動き出す。


「ちょっと……?」


「高位貴族のご令嬢が、無防備に外を歩くなど、あってはなりません。ですが――」


その声は冗談めいていながらも、揺るがない。クリスチーナは、マーリンの前に歩み寄り、静かに言った。


()()()()()()()()()()()()()()()を、奪うつもりもございません」


その言葉に、マーリンは息を呑んだ。


理解されている。

何も言わなくても。


「……ありがとう」


「お任せください」


クリスチーナは優しく微笑む。


「平民の装い。動きやすく、清楚で、少しだけ可愛らしく、――誰が隣を歩いても、誇らしいと思わせる装いにいたします」


マーリンは、思わず顔が熱くなるのを感じた。


「そこまでは……」


「いいえ、そこまでです」


即答だった。

鏡の中の自分を見つめながら、マーリンは胸の奥で小さく思う。


たった半日。

けれど、()()()()()()()()


それが許されることが、こんなにも心を軽くするなんて。


マーリンは、いつの間にか微笑んでいた。



帝都の中央に位置するその公園は、休日になると多くの人で賑わう。


整えられた並木道。手入れの行き届いた芝生。池の水面には空が映り込み、時折、白い水鳥が羽ばたいた。


ここに集まるのは、主に裕福な平民や下級貴族。

服装も言葉遣いも穏やかで、騒がしさはあるが、荒々しさはない。

――待ち合わせ場所として、これ以上ないほど無難で、安全な場所。


(……本当に、ただの公園なのに)


マーリンは、入口近くに立ちながら、何度目か分からない深呼吸をした。


平民風の服装。

装飾の少ないワンピースに、動きやすい靴。いつもより短いスカートが、どうにも落ち着かない。

無意識に裾を押さえ、きょろきょろと周囲を見回す。


人前に立つことには慣れている。注目されることも、噂されることも、今さらだ。


――けれど。


()()()()()()として見られるのは……慣れてない)


貴族令嬢でもなく。希望でもなく。

ただ、誰かを待つ一人の少女として、立っているという状況が、落ち着かなかった。


不意に、笑い声が耳に入る。


公園の一角。

派手な衣装を身につけた道化師が、大げさに転んでみせ、子どもたちが声を上げて笑っていた。

それを見守る大人たちも、どこか楽しげだ。


(……平和、ね)


帝国と王国の間で、いまだに戦争が続いているとは思えないほど、ここには恐れも疑念もない。

マーリンは、公園の入口をもう一度見る。行き交う人々の中に、探している姿はまだない。


(遅れてる……? それとも、早すぎた?)


心臓が、わずかに速く打つ。

デートという言葉を、まだ完全には受け入れられていないくせに。待っている時間だけは、どうしてこんなにも落ち着かないのだろう。


その時。


人混みの向こうに、見慣れた姿が見えた。周囲を気にするように視線を巡らせて――そして。

視線が、こちらを捉えた。目が合った瞬間。ミハイルの表情が、ふっと柔らぐ。


(……あ)


知らず、息を吐いていた。

胸の奥にあった緊張が、音を立ててほどけていくのを、マーリンははっきりと感じた。

自然と背筋を伸ばした。


――もう、逃げない。

少なくとも、今日だけは。



最初、気づかなかった。


帝都の公園。休日の人波。似たような服装の若い女性がいくらでもいる中で――。

ふと視線が引き寄せられた。

入口近くに立つ、一人の少女。


(……まさか)


控えめな色合いのワンピース。

飾り気はないが、身体の線を不自然に隠さない仕立て。

風に揺れるスカートの裾と、少し落ち着きなく周囲を見回す仕草。


そして。

こちらを見た瞬間、わずかに安堵する、その表情。


胸の奥が、きゅっと締め付けられた。

貴族の令嬢としての威厳も、フルール・デスポワールとしての完成された姿もない。

そこにいたのは、ただ――


(こんな顔、学園でも見たことない)


無防備で。少し不安そうで。それでも、待つことを選んだ少女。


――思わず、表情が緩んでいた。



ミハイル表情が、ほんの一瞬、言葉を失ったように見えた。


(……えっ)


何か変だっただろうか。不安になりかけた、その時。

ミハイルが、少し照れたように視線を逸らしてから、近づいてきた。


「……その格好、君だって分かるまで、少しかかった」


「……変、だった?」


思わず、スカートの裾をつまむ。


「いや。逆だ」


首を横に振ったミハイルは、言葉を探すように、一瞬だけ視線が揺れる。


「……変じゃない。むしろ、その……よく、似合ってる」


マーリンの胸が、きゅっと跳ねた。


「……そ、そう?」


「……普段より……その、近く感じるというか」


ぎこちなく答える姿に、思わず笑ってしまう。


「クリスチーナたちが張り切ってたから。絶対にバレないけど、絶対に可愛くするって」


「……なるほど」


妙に納得したように、ミハイルは小さく息を吐いた。



色とりどりの看板を掲げたキッチンカーの前で少し悩んだ末、マーリンはストロベリーを選んだ。

ミハイルが苦笑する。


「……なに?」


「いや、何でもないよ」


ミハイルの手には、ビターモカ。甘さを抑えた、大人向けの味。

二人はキッチンカーから少し離れた、木陰のベンチに腰を下ろした。


休日の公園は騒がしく、それでいて不思議と落ち着く。

遠くで子どもたちの笑い声がして、風が優しく木々を揺らす。


マーリンは、包み紙を丁寧に剥がして、そっとアイスに口をつけた。


「……冷たい」


そう言って、少しだけ目を細める。

ミハイルは、その横顔を盗み見るようにしてから、大きく一口含む。


「……苦い、な」


「それ選んだの、自分でしょう?」


「分かってて選んだ」


短いやりとりに、マーリンはくすりと笑った。

その笑い声が、思ったよりも軽やかだったことに、マーリンは少し驚いた。


「……最近、無理してないか」


マーリンの手が、ほんの一瞬止まる。

嘘をつくこともできた。いつものように、曖昧に笑って誤魔化すことも。


けれど。


「……してる、かも」


思いのほか、素直な言葉が口をついて出た。

ミハイルは、それ以上踏み込まなかった。ただ、ベンチの背に腕を回し、空を見上げる。


「君が言わないなら、それでいい」


「それで……いいの?」


「ああ。でも。笑ってる時くらいは、ちゃんと楽でいてほしい」


胸の奥が、じわりと温かくなる。

マーリンは、溶け始めたストロベリーを見つめながら、小さく呟いた。


「……ここに来てよかった」


「それは、俺も」


二人の視線が、ほんの一瞬、重なる。照れたように、同時に逸らして。

またアイスに口をつける。甘さとほのかな酸味が、ゆっくりと広がっていく。


――この時間が、永遠じゃないことは分かっている。


それでも。


公務でも、学園でも、希望でもない。ただの()()()()()

そのことが、マーリンの心を、確かに少しずつ解かしていった。



二人はアイスを食べ終えつつあった。

マーリンが紙ナプキンで指先を拭っていると、不意に甲高い声が近づいてくる。


「みてみてー!」


ぱたぱたと軽い足音。赤い風船を手にした小さな女の子が、二人の前を駆け抜けていった。

風船は紐の先で、少し危うげに揺れていた。


「あ……」


マーリンは、その赤を目で追った。女の子は楽しそうに走り、母親らしき女性が少し遅れて声をかける。


「こら、あんまり遠くに行っちゃだめよ」


そのやりとりを見て、マーリンの表情がふっと柔らぐ。


「……可愛いわね」


「子ども、好きなのか」


「うん。……見てるだけで、少し安心するもの」


そう言った直後だった。風が、強く吹いた。木々がざわめき、赤い風船が、大きく煽られた。


「あっ――」


女の子の小さな手から、紐がすり抜ける。風船は、意思を持ったかのように、ゆっくりと空へ浮かび上がった。

女の子は、ぽかんと風船を見上げていた。


けれど、次の瞬間。


「わあぁっー!」


泣き声が、公園の空気を切り裂いた。


「まって、まってよぉ……!」


女の子は必死に追いかけるが、風船は風に押され、近くの木の枝へと流されていく。

赤が、緑の葉の間に引っかかる。


「ごめんなさい、ミーシャ。これ持ってて」


マーリンは、立ち上がっていた。ミハイルがその動きに気づき、声をかけるより早く。

食べ終えた紙ごみとナプキンをミハイルの手に押し付けると、小走りで女の子の方へ向かっていった。

ミハイルは、一瞬だけ呆然としてから、苦笑する。


「……本当に、君は」


ベンチに残されたミハイルの視線の先で、マーリンは女の子の前に屈み込み、優しく声をかけていた。

赤い風船は、木の枝で揺れている。


風船と子ども。


ささやかな親切。


ただの、よくある休日の一幕だ。


けれど。


このささやかな親切が、次の波紋を呼ぶことを知らなかった。



ミハイルは、少し離れた場所からその様子を見ていた。


マーリンは女の子の前にしゃがみ込み、目線を合わせている。

柔らかな声で、何かを話しかけているのだろう。女の子の泣き声が、少しずつ小さくなっていくのが分かった。


――ああいうところだ。


胸の奥で、苦笑とも溜息ともつかない感情が滲む。

立場も、身分も、状況も。全部忘れたみたいに、誰かのために動いてしまう。それが、マーリンなのだ。


マーリンは女の子の手を取り、木の枝に引っかかった赤い風船を指さして、何か説明している。

きっと「大丈夫」「すぐ取れるわ」だとか、そんな言葉だろう。


女の子は、こくこくと頷いていた。

その様子を見て、ミハイルは安堵しかけ、そして、気づいた。

女の子の視線が、少しずつ変わっていることに。


最初は、泣き止んだばかりの子ども特有の、ぼんやりした目だった。

けれど今は違う。


まるで、()()を思い出そうとするように、マーリンの顔を見つめている。


――まずい。


ミハイルの背筋に、ひやりとしたものが走る。平民の服装。髪型も、装飾も、完璧に隠している。


それでも。隠しきれない。

立ち居振る舞い。声の抑揚。そして何より――整いすぎた顔立ち。

女の子が、小さく首を傾げた。


「……ねえ、おねえちゃん……」


その呼びかけに、ミハイルは踏み出していた。

マーリンが、にこりと笑う。


「どうしたの?」


女の子の瞳が、きらりと光る。


「どこかで――」


ミハイルは自然な動作で近づき、女の子とマーリンの間に、ほんの少しだけ身体を差し入れる。


「風船、あそこだね。高いな」


話題をずらす。子どもの注意を、別の方向へ。

マーリンが一瞬だけ、驚いたような顔でミハイルを見る。それもすぐに状況を察したような表情に変わる。


――伝わった。


それだけで、十分だった。

女の子は、ミハイルを見上げ、次にまたマーリンを見る。

何か言いたそうに口を開きかけたとき、遠くから母親の声が飛んできた。


「大丈夫!?」


「あ、ママ!」


女の子は振り返り、そちらへ駆け出した。

マーリンは、その背中を見送りながら、ほっと小さく息を吐く。


ミハイルは、胸の奥でようやく力を抜いた。


――今のは、危なかった。


ミハイルは、そっと拳を握った。

こんな穏やかな時間でさえ、マーリンは、完全には()()ではいられない。


それでも。


「……ありがとう、ミーシャ」


マーリンは小さく、笑った。その笑顔を見て、ミハイルは思う。


どれだけ危うくても。

どれだけ、先が見えなくても。


――それでも、守りたい。



「ご迷惑をおかけしました。突然泣き出してしまって……」


深く頭を下げるその仕草は、落ち着いていて、きちんとした身なりだった。裕福な平民――あるいは下級貴族か。


「いえ、大丈夫です」


ミハイルが答えるより早く、マーリンが一歩前に出た。


「風船が木に引っかかってしまって。お嬢さん、とても不安だったみたいで」


柔らかな声。丁寧だが、へりくだりすぎない言い方。母親は安心したように笑い、女の子の頭を撫でる。


「そうだったのね。よかった……ありがとう」


そして、その視線が――マーリンへ向いた。

ほんの一瞬。母親の表情が止まる。


視線が、髪、目元、姿勢。なぞるように動く。

ミハイルは、内心で息を詰めた。


――気づくな。


母親は、困惑したように微笑んだ。


「……失礼ですが、どこかでお見かけしたことが……?」


来たか、とミハイルは思う。だが、マーリンは一瞬も動揺を見せなかった。


「よく言われるんです」


そう言って、少しだけ困ったように、照れたように笑った。


「人違いですよ」


それは、貴族の令嬢の笑みではなかった。街の中で生きる、どこにでもいそうな――けれど、どこか目を引く女性の笑み。

母親は、数秒ほど考え込むようにマーリンを見つめ――


「あ……そう、ですよね。最近、似た顔の方が多くて。」


自分に言い聞かせるように、そう言った。()()()()()。そう結論づけたらしい。

表情には違和感が残ったままだ。だが、それ以上、踏み込もうとはしてこなかった。


「本当に、ありがとうございました」


再び丁寧に頭を下げると、母親は女の子の手を引いた。


「ほら、お礼を言って」


手を引かれた、女の子がくりくりとした目で、まずマーリンを見て、それからミハイルを見る。


「……ねえ、おにいちゃん」


ミハイルは一瞬、自分のことだと気づかず、きょとんとした顔をした。


「うん?」


「おねえちゃんの、こいびとさん?」


一瞬、時間が止まった。


「「――――えっ」」


マーリンとミハイルの声が、ぴたりと重なる。


「ち、ちが……っ」


否定しようとしたマーリンの声は、途中でひっくり返り、言葉にならなかった。

ミハイルもまた、わずかに目を見開いたまま、言葉を探していた。


頬が一気に熱を帯びるのが、はっきりわかる。


「こ、こら。そんなこと言うものじゃないでしょ」


慌てて母親が女の子の肩に手を置く。


「ごめんなさいね。子どもって、思ったことをそのまま口に出してしまうから……」


「い、いえ……」


マーリンは小さく首を振った。声が、まだ少し震えている。

女の子は悪びれる様子もなく、二人を見上げてにこっと笑った。


「だってね、おねえちゃん、すごくきれいだし」


そう言ってから、今度はミハイルを見る。


「それに、おにいちゃんも、やさしそうだから」


純粋な瞳に見つめられて、ミハイルは困ったように、けれど否定しきれないように笑った。


「ありがとう」


その返事が、妙に真剣だったことに、マーリンは気づいた。


「じゃあね!おねえちゃん!おにいちゃん!」


女の子は母親に手を引かれながら、元気よく手を振った。


二人は、そろって小さく手を振り返す。

親子の姿が人混みに紛れて見えなくなっても、しばらく、どちらも言葉を発せずにいた。


「……恋人さん、か」


沈黙を破ったのは、マーリンだった。

ミハイルは、少しだけ視線を逸らし、それから静かに息を吐く。


「……嫌だったか? そう言われて」


こいびと。

冗談のような一言だったはずなのに、その言葉は胸の奥で、静かに残った。

マーリンは一瞬考えてから、首を振った。


「ううん。嫌じゃ、ないわ。むしろ――」


マーリンは、言いかけた言葉を飲み込んだ。


――むしろ?


ミハイルは、問いかけようとして思いとどまる。


ただの幼馴染だ。約束も、未来も、何ひとつ決まっていない。


——いや、違う。決まっている未来なら、すでにある。

マーリンには、正式な婚約者がいる。


この時間が、許されないものだと知りながら。笑い合っていながら、どこかで距離を測ってしまうのは、そのためだ。


だから、こいびとさん、には程遠い。


それでも今は、同じベンチに座り、同じ空気を吸っている。

その事実だけが、胸の奥を静かに温めていた。


ミハイルには、その距離が、さっきよりほんの少しだけ近づいた気がしていた。



気づけば、日が傾き始めていた。


黒塗りの車が、角を曲がって見えなくなるまで、ミハイルはその場に立っていた。

もう、とっくに行ってしまったはずなのに。それでも、足が動かなかった。

小さく息を吐く。胸の奥に残る、言葉にしきれない感覚を、ゆっくりと飲み込む。


今日のマーリンは、いつもと違っていた。

笑顔が、少しぎこちなくて。ふとした瞬間に、どこか遠くを見るような目をしていて。


それでも——。


アイスを頬張るときの、無防備な表情。女の子にしゃがみ込んで話しかける、柔らかな声。

風船を追いかけて、無茶をしようとするところ。


どれも、胸に残って離れない。


(……無理をしてる)


そう思った。

そして同時に、それでも笑おうとしている姿が、ひどく愛おしかった。


守りたい、と思ってしまった。


それが、許されない立場であることくらい、理解している。

マーリンには、すでに決められた未来がある。


それでも。


(今は……まだ)


今日だけは、今日の時間だけは、嘘じゃなかった。笑って、隣を歩いていたのは、確かだ。

ミハイルは、拳をそっと握りしめた。


公園の喧騒は、いつの間にか遠ざかり、夕暮れの風が肌を撫でる。でも、胸の奥に残った温度は、簡単には消えなかった。


「……また、誘おう」


誰に聞かせるでもなく、呟く。

どんな結末が待っていようとも。少なくとも、マーリンが笑える時間を、奪われる前に。


ミハイルは、ゆっくりと歩き出した。

マーリンとは逆の道を、同じ余韻を胸に抱いたまま。


それが、いつまで許されるのか。

ミハイルは、まだ考えないことにした。

ここまでお読みいただき有り難うございました。


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