ロイス公爵の命令
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「公爵閣下が病に伏してからというもの……我々の旗も、すっかり風を失ったようなものだな」
「ああ。近ごろのフェアチャイルドの動きは、実に目まぐるしい。……忌々しい話だが、潮目を読むのがうまい」
「先日も、離脱を申し出た者がいたよ。引き留めるどころか……逆に誘われてしまった。まったく、笑えん冗談だ」
「マーリン様、か。――確かに、見目は芸術品のようだ。だが、結局はそれだけだな、所詮は令嬢。飾りにはなっても、力にはならん。牙もない」
香の煙が、ゆるやかに揺れていた。
重厚な調度に囲まれた応接の一角。薄暗い照明のもと、数人の貴族たちが、互いの距離を確かめるように身を寄せて座っている。
顔は影に沈み、かろうじて浮かび上がるのは、笑みを形づくる口元だけ。その笑みは、礼節の皮をかぶった冷笑にすぎなかった。
「……クロード様さえご健在であれば、ここまでの体たらくには、ならなかったでしょうな」
その言葉に、誰もが口をつぐむ。否定も、肯定もない沈黙。
だが――それは、同意と変わらなかった。
そして、その沈黙は、やがて別の毒に、静かに侵されていく。
「まぁ、待て。マーリン様が正式にブライアン様とご婚約されれば、この膠着も、いずれ打開されよう」
「うむ。あの方ならば、ロイスを立て直すのも容易い。 帝国の中枢にも顔が利く。……我々にとっても、都合がいい」
「であれば、なぜ渋る? さっさと婚約してしまえばいいものを……」
「さぁな。 物分かりの良いご令嬢も、ことさら伴侶選びとなると、慎重になるらしい」
「ふん。見た目に倣って、人形になりきればいいのだ。 余計な感情など、貴族の娘には不要だろうに」
乾いた笑いが、琥珀色のグラスの中で、泡のように弾けた。
その音は、どこまでも軽く、どこまでも薄っぺらで――しかし確かに、腐臭を帯びていた。
◇
ピ、ピーッ……シュー、シュー。
規則正しく刻まれる機械音が、屋敷の奥深くまで染み渡っていた。それはまるで、このロイス家の現在を、そのまま形にしたような音だった。
テルース王国との開戦を目前に控えた、あの年の、あの日。 ロイス家の跡取りであるクロードは、忽然と姿を消した。
何の前触れもなく。
何の言葉も残さずに。
社交界は騒然となった。
筆頭公爵家の嫡男が、戦争の火蓋が切られようとする、まさにその直前に失踪したのだ。
いまだ爵位を譲ろうとしない公爵にしびれを切らし、王国に寝返ったのではないか――。
そんな噂が、真実かどうかも確かめられぬまま、人々の口から口へと、瞬く間に広がっていった。
その頃、マーリンは、まだ十四になったばかりだった。
あまりにも多くの視線と期待と失望が、一斉に、マーリンの肩へとのしかかってきた。
なぜなら、そのときロイス公爵は、いつ命を落としてもおかしくない状態にあったからだ。
奇跡的に一命をとりとめた公爵は、意識を取り戻すと、マーリンの顔を見た。
「……そうか」
喉を引き裂くような、割れた声だった。
それ以上、何も言わなかった。
マーリンは言葉を待った。
兄の名が呼ばれるのを。捜索を命じる声が、続くのを。
だが、公爵は目を閉じただけだった。
それでも――命令がまったく出なかったわけではない。数日後、最低限の指示だけが、淡々と下された。
出国艦船の記録、乗客名簿、通信履歴。
ただ、それだけだった。
捜索は行われた。
だが、それは探しているという形を整えるためのものでしかなかった。
範囲は狭く、期間は短く、報告も形式的なものばかりだった。
マーリンは、何度も懇願した。
もっと調べてほしいと。
まだ追えるはずだと。
けれど、公爵は、聞いていないようだった。あるいは、最初から、聞く気がなかったのかもしれない。
公爵はマーリンに告げた。
「……忘れろ」
マーリンは理解した。この家では、血縁も、情も、ただの手段にすぎないのだと。
――ならば。
自分もまた、例外ではない。
◇
開けた扉から、足を一歩踏み入れた瞬間、空気が変わった。
冷たい。重い。湿っている。
まるで、異形の怪物の巣へ足を踏み入れたかのような錯覚に、マーリンは思わず肩をすくめた。
部屋の中は薄暗く、窓という窓は分厚いカーテンで閉ざされている。
照明は落とされ、その代わりに医療機器のランプが、ぼんやりとした光を断続的に放っていた。
淡い光は、壁や天井に歪んだ影を落とし、部屋全体を生き物の腹腔のように見せている。
部屋の中央には、薄手のカーテンに囲まれた大きなベッドがあった。
その周囲には無数の機器が並び、床にはケーブルやチューブが絡み合うように這っている。
ベッドから伸びるそれらは、まるで飢えた触手のように床を這い、何かを求めて蠢いているかのようだった。
マーリンには、それが父の命そのもの――なおも何かにすがりつこうとする、執念の形に見えた。
ピ、ピーッ、シュー、シュー。
規則正しい電子音と、空気を吸い込むような呼吸音が、部屋の静寂を占領していた。
それは、眠っているはずの空間が、確かに生きていることを主張する音だった。
マーリンは扉の近くに立ったまま、しばらく動けずにいた。
一歩踏み出せば、もう後戻りはできない。そんな予感が、足を縫い止める。
喉の奥がひどく乾き、唾を飲み込もうとしても、うまくいかなかった。
それでも――マーリンは、どうにか声を絞り出す。
「……マーリンです。……お呼びでしょうか? お父様……」
返事はすぐにはなかった。
ただ、機械の音だけが、変わらぬリズムで鳴り続けている。
沈黙が、じわりと重さを増したそのとき——カーテンの向こうから、しわがれた声が響いた。
「……傍に、来い」
それは、かつて銀獅子と呼ばれた男の声とは思えないほど、かすれ、乾ききったものだった。
マーリンは、思わず息を呑む。そして、指にはめられた小さな赤い石の指輪を、そっと手で覆い隠した。
——大丈夫。
自分に言い聞かせるように、ほんの一瞬だけ指先に力を込めてから、マーリンは、ためらいながらも、ゆっくりと足を進めた。
カーテンの裾が、かすかに揺れる。その向こうにある父の姿を思い描きながら、マーリンは、静かに息を呑んだ。
そっと、布をかき分けた瞬間——冷たい金属の匂いが、肺の奥へと流れ込んだ。
もう見慣れているはずの光景。理解しているつもりだった現実が、改めて突きつけられた。
そこにあるのは、父の姿だった。
ただし、それは、もはや父と呼ぶべきものではなかった。
ベッドの中央に横たわるロイス公爵の身体は、かつての威容を微塵も残していない。
獅子と称されたその肉体は、今や痩せ細り、皮膚は蝋のように青白く、骨の輪郭が痛々しいほどに浮かび上がっている。
身体のあちこちに管が刺さり、血管の代わりに赤黒いチューブが脈打っている。
胸部の上下運動は、人工心肺のリズムに合わせた、機械的なものだった。呼吸音は、もはや肺からではなく、装置の奥から漏れ出していた。
モニターに映る波形。ランプの微かな点滅。そして――
ピ、ピーッ、シュー、シュー……
その規則正しい音は、ここにある命が、かろうじて代替されているにすぎないことを告げていた。
目の前に横たわるそれは、何度見ても、異様だった。
窪みの底に沈んだ、濁った二つの眼球が、ぎょろりと動く。焦点の定まらないその視線が、まるで見えているかのように、マーリンを射抜いた。
「……来たか」
しわがれた声が、喉ではなく、どこか別の場所から響いてくる。声帯すら、もはや本物ではないのかもしれない。
マーリンは、思わず一歩、後ずさった。けれど、すぐに足を止め、踏みとどまる。
――逃げてはだめ。
この父の前では、決して背を見せてはならない。マーリンは静かに頭を下げ、そして再び、ゆっくりと歩みを進めた。
公爵の姿を見つめながら、マーリンは、ふと過去に思いを巡らせていた。
マーリンは、一度も実の母を見たことがない。
そもそも、公爵には正妻がいなかった。
それは、愛を知らなかったからではない。ただ、公爵にとって、人を傍に置く理由は、子を成すという目的以外に、存在しなかっただけだ。
だからこそ、公爵の周囲には、常に複数の女性がいた。
屋敷に置かれ、役割を与えられ、やがて、何の前触れもなく姿を消す。感情も、関係も、そこには必要とされていなかった。
そして、その中から、ようやく生まれたのが、ロイス家の跡取りであるクロードと、――マーリンだった。
マーリンが生まれて間もなく、屋敷にいた女性たちは、次々と姿を消した。
理由を語る者は、誰一人いなかった。
けれど、子を産んだ時点で、役目を終えたのだということだけは、幼いマーリンにも、はっきりと理解できた。
その中には、きっと、自分の母も含まれていたのだろう。
ロイス公爵にとって、他者はすべて駒だった。
血でさえ、感情でさえ、彼の計算の中では、意味を持たない。
どれほど尽くしても どれほど願っても 愛されることはない。
そう気づいたとき、マーリンは、まだ十にも満たなかった。
それでも、マーリンは公爵を憎みきれなかった。
どれほど冷たくされても、どれほど顧みられなくとも、母を知らないマーリンにとって、公爵はまぎれもない肉親だったからだ。
そして、それは突然訪れた。
クロードが姿を消す、ほんの少し前のこと。ロイス公爵の肉体は、ついに限界を迎えた。
一命はとりとめたものの、それからの日々は、延命の連続だった。
幾度となく手術が繰り返され、身体の大部分は人工臓器――サイバネティックスに置き換えられていった。
今や、心臓も肺も、血液の循環すら、機械に依存している。
それも、限界に近い。
これ以上の延命は、技術的にも困難だと、医師は告げた。
人工心肺と、無数の装置に繋がれた身体。そのどれか一つでも止まれば、命は終わる。
マーリンの父は、もはや生きているのではなく、ただ維持されているだけだった。
それでも、すべてはロイス公爵自身の望みだった。彼は、最期の瞬間まで、生に固執していたのである。
クロードの失踪後、公爵は、マーリンを後継に据えることなど、最初から考えていなかった。
そもそも、帝国の法はそれを許さない。女は爵位を継げない。
ロイス派の貴族たちにとっても、議論にすらならない前提だった。
迷う理由は、どこにもなかった。
クロードの代わりとして、ただひとつ、白羽の矢が立ったのが、ブライアンだった。
マーリンがブライアンと婚約することになったのは、愛でも、信頼でもない。
父に残された時間が導き出した、あまりにも単純で、冷酷な――ただ一つの答えだった。
ピ、ピーッ、シュー、シュー……
マーリンは、この部屋が嫌いだった。だが今、父の命令に従い、再びここに立っている。
「……学園は、どうだ」
問いかけは、機械音に紛れて響いた。まるで、装置の一部が発した信号のように、そこには感情の揺らぎがなかった。
「……はい。毎日、充実しております」
マーリンは、喉の奥に引っかかるものを押し込みながら答えた。言葉は丁寧に、抑揚は極力、削ぎ落とす。
――この部屋では、感情を見せてはならない。
「カーチスライトとは、懇意にしておるか」
「……はい。学業の上でも、助けていただいております」
「……ふむ」
短い沈黙。応答を待つように、機械音だけが部屋を満たした。
「……お前は、まだ賛成しておらんようだな。なぜだ。 カーチスライトが、気に入らんか」
「……いえ。決して、そのようなことは……。ですが……」
言いかけて、言葉が途切れる。マーリンは唇を噛み、視線を落とした。
シュー、シュー……
ロイス公爵は、何も言わない。ただ、濁った眼球だけが、じっとマーリンを捉えていた。
見えているのか、いないのか。それでも、その視線は確かに、マーリンの胸を貫いていた。
「マーリン……。クロードから、指輪を受け取っているだろう。 ……カーチスライトに、渡せ」
「……印章の指輪を……渡す……?」
思わず、声が震えた。無意識に、覆い隠した指先に力がこもる。
印章は、貴族の意志。家そのものだ。
それを――他人に、渡せと?
印章の指輪を、ブライアンに渡す。それは、マーリンにとって――
「マーリン。儂は、公爵位を降りる……」
「お父様……!? でも、お兄様が……まだ……!」
「次期公爵は、カーチスライトだ。 ……お前も、わかっておろう」
「……」
「正式に、婚約せよ」
「……そんな……っ! 私は――!」
思わず口をついて出た言葉を、マーリンは呑み込んだ。唇を強く噛みしめ、喉の奥で、言葉を殺す。
言ってしまえば、終わってしまう。抑え込んできたものが、すべて溢れ出てしまう。
――自分の中の、強い、何かが。
ロイス公爵は、目を細めた。鼻から短く、乾いた息を吐く。
「ふん。お前の意志など、どうでもよい。 ロイスの総意として、意志を示せ。……これは命令だ。わかったな」
――ミーシャ。
その名が、喉の奥で引っかかった。
叫びたかった。
違う、と。
嫌だ、と。
けれど、声にならない。口を開けば、涙がこぼれてしまいそうだった。
父の前で泣くことは、許されない。この人にとって、涙もまた無駄なのだから。
マーリンは、唇を噛んだ。強く、強く。
かすかに、血の味がした。
「……」
「ロイスには、カーチスライトしかおらん。 お前も、それを理解しているはずだ」
その言葉が、マーリンの胸の奥に深く突き刺さった。
――理解しているはずだ。
それは、マーリンの意志など、初めから存在しないという宣告だった。
「次期ロイス公爵は、ブライアン=カーチスライトだ。 正式に、婚約せよ……これは命令だ。――己に課された、役割を忘れるな」
己の役割――(貴族令嬢として、正しいことをしろ)
マーリンは、胸の奥で固めたはずの小さな決意が、音もなく、ゆっくりと崩れていくのを感じた。
あのときの手の温もりは、今ではもう、遠い。
「…………かしこまりました。お父様」
その声は、自分のものとは思えないほど、乾いていた。
――かしこまりました。お父様。
今、小さな決意は、たった一言で、あまりにも容易く踏みにじられた。
「よいな」
ロイス公爵の声は、変わらず冷たい。それは、命令の履行を確認するだけの、機械的な響きだった。
「……はい。お父様」
返事は、もはや反射だった。そこに、思考も、感情もない。マーリンは、ただ、従うという選択だけをなぞっていた。
父の命令に従えば、ロイス家は保たれる。それが、父の望む未来であり、自分に課された役目。
クロードがいなくなったあの日から、マーリンは、代わりになろうとしてきた。
——それは本当に、自分の望みだったのだろうか。それとも、ただ教え込まれただけの刷り込みだったのか。
わからない。
もう、何も。
「……話は終わりだ。下がれ」
「……はい。失礼いたします」
マーリンは、深く頭を下げ、背を向けた。扉が開き、執事が、無言で姿を現す。
扉へ向かう足取りは、妙に軽かった。まるで、自分の身体ではないような感覚。
それが、絶望と諦めから生まれたものだと、マーリンが気づいたのは、部屋を出て、背後で扉が静かに閉まった――その後だった。
扉が静かに閉まり、静寂が戻る。
ピ、ピーッ、シュー、シュー。
機械の音だけが、部屋に残された。
ロイス公爵は、ゆっくりと目を閉じた。まぶたの裏に、マーリンの姿が浮かぶ。
あの目。
あの声。
あの、かすかな震え。
「……あれでいい」
しわがれた声が、機械の振動に乗って、空気を震わせた。誰に聞かせるでもない、独り言。
だが、その声音には、揺るぎない確信があった。
濁って目が、天井の一点を捉える。そこには、何もない。
だが、その虚無の奥にある何かを見据えるかのように、ロイス公爵は、ゆっくりと目を細めた。
「……あとは、この肉に代わる器があればいい」
ピ、ピーッ、シュー、シュー……
機械の音が、わずかに高まる。まるで、それが公爵の思考に呼応しているかのように。
「マーリンは、よく耐えた。……あれでよい。あれでこそ、価値がある」
その言葉に、わずかな笑みが混じった。だが、それは喜びではない。
自らの計算が、寸分違わず予定通りに進んでいることへの、冷たい満足だった。
「……もうすぐだ。あれが完成すれば、すべてが変わる。我々は、永遠になる。意志も、記憶も、すべて——」
言葉が、そこで途切れた。
ピッ、ピピッ、ピピッ……
機械の音が、一瞬、乱れる。
警告灯が赤く点滅し、低く、押し殺したような警報音が鳴り始めた。
「ぐっ……ふ、ふん。……まだだ……まだ、終わらん……」
ロイス公爵は、かすれた息を吐きながら、濁った瞳をゆっくりと閉じる。
やがて、警報は止み、部屋の中に、再び静寂が満ちていった。
ただ、機械の音だけが、何事もなかったかのように、変わらぬリズムで鳴り続けていた。
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