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ロイス公爵の命令

ご覧いただきありがとうございます。

評価、ブックマークしていただきありがとうございます。


しばらく立て込んでおりまして更新が滞っております。申し訳ありません。

「公爵閣下が病に伏してからというもの……我々(ロイス派)の旗も、すっかり風を失ったようなものだな」


「ああ。近ごろのフェアチャイルドの動きは、実に目まぐるしい。……忌々しい話だが、潮目を読むのがうまい」


「先日も、離脱を申し出た者がいたよ。引き留めるどころか……逆に誘われてしまった。まったく、笑えん冗談だ」


「マーリン様、か。――確かに、見目は芸術品のようだ。だが、結局はそれだけだな、所詮は令嬢。飾りにはなっても、力にはならん。牙もない」


香の煙が、ゆるやかに揺れていた。

重厚な調度に囲まれた応接の一角。薄暗い照明のもと、数人の貴族たちが、互いの距離を確かめるように身を寄せて座っている。


顔は影に沈み、かろうじて浮かび上がるのは、笑みを形づくる口元だけ。その笑みは、礼節の皮をかぶった冷笑にすぎなかった。


「……クロード様さえご健在であれば、ここまでの体たらくには、ならなかったでしょうな」


その言葉に、誰もが口をつぐむ。否定も、肯定もない沈黙。

だが――それは、同意と変わらなかった。


そして、その沈黙は、やがて別の毒に、静かに侵されていく。


「まぁ、待て。マーリン様が正式にブライアン様とご婚約されれば、この膠着も、いずれ打開されよう」


「うむ。あの方ならば、ロイスを立て直すのも容易い。 帝国の中枢にも顔が利く。……我々にとっても、都合がいい」


「であれば、なぜ渋る? さっさと婚約してしまえばいいものを……」


「さぁな。 物分かりの良いご令嬢も、ことさら伴侶選びとなると、慎重になるらしい」


「ふん。見た目に倣って、人形になりきればいいのだ。 余計な感情など、貴族の娘には不要だろうに」


乾いた笑いが、琥珀色のグラスの中で、泡のように弾けた。

その音は、どこまでも軽く、どこまでも薄っぺらで――しかし確かに、腐臭を帯びていた。



ピ、ピーッ……シュー、シュー。


規則正しく刻まれる機械音が、屋敷の奥深くまで染み渡っていた。それはまるで、このロイス家の現在を、そのまま形にしたような音だった。


テルース王国との開戦を目前に控えた、あの年の、あの日。 ロイス家の跡取りであるクロードは、忽然と姿を消した。


何の前触れもなく。

何の言葉も残さずに。


社交界は騒然となった。

筆頭公爵家の嫡男が、戦争の火蓋が切られようとする、まさにその直前に失踪したのだ。


いまだ爵位を譲ろうとしない公爵にしびれを切らし、王国に寝返ったのではないか――。

そんな噂が、真実かどうかも確かめられぬまま、人々の口から口へと、瞬く間に広がっていった。


その頃、マーリンは、まだ十四になったばかりだった。

あまりにも多くの視線と期待と失望が、一斉に、マーリンの肩へとのしかかってきた。


なぜなら、そのときロイス公爵は、いつ命を落としてもおかしくない状態にあったからだ。

奇跡的に一命をとりとめた公爵は、意識を取り戻すと、マーリンの顔を見た。


「……そうか」


喉を引き裂くような、割れた声だった。

それ以上、何も言わなかった。


マーリンは言葉を待った。

兄の名が呼ばれるのを。捜索を命じる声が、続くのを。

だが、公爵は目を閉じただけだった。


それでも――命令がまったく出なかったわけではない。数日後、最低限の指示だけが、淡々と下された。


出国艦船の記録、乗客名簿、通信履歴。


ただ、それだけだった。


捜索は行われた。

だが、それは()()()()()()()()()を整えるためのものでしかなかった。

範囲は狭く、期間は短く、報告も形式的なものばかりだった。


マーリンは、何度も懇願した。

もっと調べてほしいと。

まだ追えるはずだと。


けれど、公爵は、聞いていないようだった。あるいは、最初から、聞く気がなかったのかもしれない。

公爵はマーリンに告げた。


「……忘れろ」


マーリンは理解した。この家では、血縁も、情も、ただの()()にすぎないのだと。


――ならば。

自分もまた、例外ではない。



開けた扉から、足を一歩踏み入れた瞬間、空気が変わった。

冷たい。重い。湿っている。

まるで、異形の怪物の巣へ足を踏み入れたかのような錯覚に、マーリンは思わず肩をすくめた。


部屋の中は薄暗く、窓という窓は分厚いカーテンで閉ざされている。

照明は落とされ、その代わりに医療機器のランプが、ぼんやりとした光を断続的に放っていた。

淡い光は、壁や天井に歪んだ影を落とし、部屋全体を生き物の腹腔のように見せている。


部屋の中央には、薄手のカーテンに囲まれた大きなベッドがあった。

その周囲には無数の機器が並び、床にはケーブルやチューブが絡み合うように這っている。

ベッドから伸びるそれらは、まるで飢えた触手のように床を這い、何かを求めて蠢いているかのようだった。


マーリンには、それが父の命そのもの――なおも何かにすがりつこうとする、執念の形に見えた。


ピ、ピーッ、シュー、シュー。


規則正しい電子音と、空気を吸い込むような呼吸音が、部屋の静寂を占領していた。

それは、眠っているはずの空間が、確かに()()()()()ことを主張する音だった。


マーリンは扉の近くに立ったまま、しばらく動けずにいた。

一歩踏み出せば、もう後戻りはできない。そんな予感が、足を縫い止める。

喉の奥がひどく乾き、唾を飲み込もうとしても、うまくいかなかった。


それでも――マーリンは、どうにか声を絞り出す。


「……マーリンです。……お呼びでしょうか? お父様……」


返事はすぐにはなかった。

ただ、機械の音だけが、変わらぬリズムで鳴り続けている。


沈黙が、じわりと重さを増したそのとき——カーテンの向こうから、しわがれた声が響いた。


「……傍に、来い」


それは、かつて銀獅子と呼ばれた男の声とは思えないほど、かすれ、乾ききったものだった。

マーリンは、思わず息を呑む。そして、指にはめられた小さな赤い石の指輪を、そっと手で覆い隠した。


——大丈夫。


自分に言い聞かせるように、ほんの一瞬だけ指先に力を込めてから、マーリンは、ためらいながらも、ゆっくりと足を進めた。


カーテンの裾が、かすかに揺れる。その向こうにある()()姿()を思い描きながら、マーリンは、静かに息を呑んだ。


そっと、布をかき分けた瞬間——冷たい金属の匂いが、肺の奥へと流れ込んだ。

もう見慣れているはずの光景。理解しているつもりだった現実が、改めて突きつけられた。


そこにあるのは、父の姿だった。

ただし、それは、もはや()と呼ぶべきものではなかった。


ベッドの中央に横たわるロイス公爵の身体は、かつての威容を微塵も残していない。

獅子と称されたその肉体は、今や痩せ細り、皮膚は蝋のように青白く、骨の輪郭が痛々しいほどに浮かび上がっている。


身体のあちこちに管が刺さり、血管の代わりに赤黒いチューブが脈打っている。

胸部の上下運動は、人工心肺のリズムに合わせた、機械的なものだった。呼吸音は、もはや肺からではなく、装置の奥から漏れ出していた。


モニターに映る波形。ランプの微かな点滅。そして――


ピ、ピーッ、シュー、シュー……


その規則正しい音は、ここにある命が、かろうじて()()されているにすぎないことを告げていた。


目の前に横たわるそれは、何度見ても、()()だった。



窪みの底に沈んだ、濁った二つの眼球が、ぎょろりと動く。焦点の定まらないその視線が、まるで見えているかのように、マーリンを射抜いた。


「……来たか」


しわがれた声が、喉ではなく、どこか別の場所から響いてくる。声帯すら、もはや本物ではないのかもしれない。

マーリンは、思わず一歩、後ずさった。けれど、すぐに足を止め、踏みとどまる。


――逃げてはだめ。


この()の前では、決して背を見せてはならない。マーリンは静かに頭を下げ、そして再び、ゆっくりと歩みを進めた。


公爵の姿を見つめながら、マーリンは、ふと過去に思いを巡らせていた。

マーリンは、一度も実の母を見たことがない。


そもそも、公爵には正妻がいなかった。

それは、愛を知らなかったからではない。ただ、公爵にとって、人を傍に置く理由は、()()()()という目的以外に、存在しなかっただけだ。


だからこそ、公爵の周囲には、常に複数の女性がいた。

屋敷に置かれ、役割を与えられ、やがて、何の前触れもなく姿を消す。感情も、関係も、そこには必要とされていなかった。


そして、その中から、ようやく生まれたのが、ロイス家の跡取りであるクロードと、――マーリンだった。


マーリンが生まれて間もなく、屋敷にいた女性たちは、次々と姿を消した。

理由を語る者は、誰一人いなかった。


けれど、子を産んだ時点で、()()()()()()のだということだけは、幼いマーリンにも、はっきりと理解できた。


その中には、きっと、自分の母も含まれていたのだろう。


ロイス公爵にとって、()()()()()()()だった。

血でさえ、感情でさえ、彼の計算の中では、意味を持たない。


どれほど尽くしても どれほど願っても 愛されることはない。


そう気づいたとき、マーリンは、まだ十にも満たなかった。


それでも、マーリンは公爵を憎みきれなかった。

どれほど冷たくされても、どれほど顧みられなくとも、母を知らないマーリンにとって、公爵はまぎれもない()()だったからだ。


そして、それは突然訪れた。

クロードが姿を消す、ほんの少し前のこと。ロイス公爵の肉体は、ついに限界を迎えた。


一命はとりとめたものの、それからの日々は、延命の連続だった。

幾度となく手術が繰り返され、身体の大部分は人工臓器――サイバネティックスに置き換えられていった。

今や、心臓も肺も、血液の循環すら、機械に依存している。


それも、限界に近い。

これ以上の延命は、技術的にも困難だと、医師は告げた。

人工心肺と、無数の装置に繋がれた身体。そのどれか一つでも止まれば、命は終わる。


マーリンの父は、もはや()()()()()のではなく、ただ()()()()()()()だけだった。


それでも、すべてはロイス公爵自身の望みだった。彼は、最期の瞬間まで、生に固執していたのである。


クロードの失踪後、公爵は、マーリンを後継に据えることなど、最初から考えていなかった。

そもそも、帝国の法はそれを許さない。女は爵位を継げない。

ロイス派の貴族たちにとっても、議論にすらならない前提だった。


迷う理由は、どこにもなかった。

クロードの代わりとして、ただひとつ、白羽の矢が立ったのが、ブライアンだった。


マーリンがブライアンと婚約することになったのは、愛でも、信頼でもない。

父に残された()()が導き出した、あまりにも単純で、冷酷な――ただ一つの答えだった。



ピ、ピーッ、シュー、シュー……


マーリンは、この部屋が嫌いだった。だが今、父の命令に従い、再びここに立っている。


「……学園は、どうだ」


問いかけは、機械音に紛れて響いた。まるで、装置の一部が発した信号のように、そこには感情の揺らぎがなかった。


「……はい。毎日、充実しております」


マーリンは、喉の奥に引っかかるものを押し込みながら答えた。言葉は丁寧に、抑揚は極力、削ぎ落とす。

――この部屋では、感情を見せてはならない。


「カーチスライトとは、懇意にしておるか」


「……はい。学業の上でも、助けていただいております」


「……ふむ」


短い沈黙。応答を待つように、機械音だけが部屋を満たした。


「……お前は、まだ賛成しておらんようだな。なぜだ。 カーチスライトが、気に入らんか」


「……いえ。決して、そのようなことは……。ですが……」


言いかけて、言葉が途切れる。マーリンは唇を噛み、視線を落とした。


シュー、シュー……


ロイス公爵は、何も言わない。ただ、濁った眼球だけが、じっとマーリンを捉えていた。

見えているのか、いないのか。それでも、その視線は確かに、マーリンの胸を貫いていた。


「マーリン……。クロードから、指輪を受け取っているだろう。 ……カーチスライトに、渡せ」


「……印章の指輪を……渡す……?」


思わず、声が震えた。無意識に、覆い隠した指先に力がこもる。


印章は、貴族の意志。家そのものだ。


それを――他人に、渡せと?


印章の指輪を、ブライアンに渡す。それは、マーリンにとって――


「マーリン。儂は、公爵位を降りる……」


「お父様……!? でも、お兄様が……まだ……!」


「次期公爵は、カーチスライトだ。 ……お前も、わかっておろう」


「……」


「正式に、婚約せよ」


「……そんな……っ! 私は――!」


思わず口をついて出た言葉を、マーリンは呑み込んだ。唇を強く噛みしめ、喉の奥で、言葉を殺す。

言ってしまえば、終わってしまう。抑え込んできたものが、すべて溢れ出てしまう。


――自分の中の、強い、何かが。


ロイス公爵は、目を細めた。鼻から短く、乾いた息を吐く。


「ふん。お前の意志など、どうでもよい。 ロイスの総意として、意志を示せ。……これは命令だ。わかったな」


――ミーシャ。


その名が、喉の奥で引っかかった。


叫びたかった。

違う、と。

嫌だ、と。


けれど、声にならない。口を開けば、涙がこぼれてしまいそうだった。

父の前で泣くことは、許されない。この人にとって、涙もまた()()なのだから。


マーリンは、唇を噛んだ。強く、強く。

かすかに、血の味がした。


「……」


「ロイスには、カーチスライトしかおらん。 お前も、それを理解しているはずだ」


その言葉が、マーリンの胸の奥に深く突き刺さった。

――理解しているはずだ。

それは、マーリンの意志など、初めから存在しないという宣告だった。


「次期ロイス公爵は、ブライアン=カーチスライトだ。 正式に、婚約せよ……これは命令だ。――己に課された、役割を忘れるな」


己の役割――(貴族令嬢として、()()()ことをしろ)


マーリンは、胸の奥で固めたはずの小さな決意が、音もなく、ゆっくりと崩れていくのを感じた。

あのときの手の温もりは、今ではもう、遠い。


「…………かしこまりました。お父様」


その声は、自分のものとは思えないほど、乾いていた。



――かしこまりました。お父様。


今、小さな決意は、たった一言で、あまりにも容易く踏みにじられた。


「よいな」


ロイス公爵の声は、変わらず冷たい。それは、命令の履行を確認するだけの、機械的な響きだった。


「……はい。お父様」


返事は、もはや反射だった。そこに、思考も、感情もない。マーリンは、ただ、従うという選択だけをなぞっていた。


父の命令に従えば、ロイス家は保たれる。それが、父の望む未来であり、自分に課された()()

クロードがいなくなったあの日から、マーリンは、代わりになろうとしてきた。


——それは本当に、自分の望みだったのだろうか。それとも、ただ教え込まれただけの()()()()だったのか。


わからない。

もう、何も。


「……話は終わりだ。下がれ」


「……はい。失礼いたします」


マーリンは、深く頭を下げ、背を向けた。扉が開き、執事が、無言で姿を現す。

扉へ向かう足取りは、妙に軽かった。まるで、自分の身体ではないような感覚。


それが、絶望と諦めから生まれたものだと、マーリンが気づいたのは、部屋を出て、背後で扉が静かに閉まった――その後だった。



扉が静かに閉まり、静寂が戻る。


ピ、ピーッ、シュー、シュー。


機械の音だけが、部屋に残された。

ロイス公爵は、ゆっくりと目を閉じた。まぶたの裏に、マーリンの姿が浮かぶ。


あの目。

あの声。

あの、かすかな震え。


「……あれでいい」


しわがれた声が、機械の振動に乗って、空気を震わせた。誰に聞かせるでもない、独り言。

だが、その声音には、揺るぎない確信があった。


濁って目が、天井の一点を捉える。そこには、何もない。

だが、その虚無の奥にある()()を見据えるかのように、ロイス公爵は、ゆっくりと目を細めた。


「……あとは、この肉に代わる()があればいい」


ピ、ピーッ、シュー、シュー……


機械の音が、わずかに高まる。まるで、それが公爵の思考に呼応しているかのように。


「マーリンは、よく耐えた。……あれでよい。あれでこそ、価値がある」


その言葉に、わずかな笑みが混じった。だが、それは喜びではない。

自らの計算が、寸分違わず予定通りに進んでいることへの、冷たい満足だった。


「……もうすぐだ。あれが完成すれば、すべてが変わる。我々は、永遠になる。意志も、記憶も、すべて——」


言葉が、そこで途切れた。


ピッ、ピピッ、ピピッ……


機械の音が、一瞬、乱れる。

警告灯が赤く点滅し、低く、押し殺したような警報音が鳴り始めた。


「ぐっ……ふ、ふん。……まだだ……まだ、終わらん……」


ロイス公爵は、かすれた息を吐きながら、濁った瞳をゆっくりと閉じる。


やがて、警報は止み、部屋の中に、再び静寂が満ちていった。


ただ、機械の音だけが、何事もなかったかのように、変わらぬリズムで鳴り続けていた。

ここまでお読みいただき有り難うございました。


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