晴れた空の下で
ご覧いただきありがとうございます。
学内模擬戦の空は、よく晴れていた。
雲が少ない。
青が広い。
訓練棟の上に見える空は、いつもより遠くまで澄んでいて、まるで何も悪いことは起きません、と言っているみたいだった。
空は、時々うそをつく。
いや、空がうそをつくわけではない。
私が勝手にそう思うだけだ。
晴れているから安全。
青いから大丈夫。
そんな決まりはどこにもない。
黒い宇宙だって、星が綺麗なまま人形を呑み込む。
それを私は知っている。
知りたくなかったのに、知っている。
だから、よく晴れた空を見上げながら、私は胸の奥が少し曇っていくのを感じていた。
「ローレ」
ミリアが隣から覗き込んでくる。
「空見て固まってる」
「空が広いなと思っていました」
「それはそう」
「とても広いです」
「それもそう」
ミリアは少し笑った。
でも、すぐに私の顔を見て、声を落とす。
「緊張してる?」
「しています」
「よし、正直」
「よし、なのでしょうか」
「よしだよ。隠してないから」
隠していない。
その言葉に、私は少しだけ髪へ意識が向いた。
茶色い髪の内側に、白が少し見えている。
完全には染め直していない。
完全には隠していない。
朝、鏡の前で確認した時、やっぱり胸は跳ねた。
でも、慌てて染め直さなかった。
そのまま結んできた。
内側の白が少し見えるまま。
学内模擬戦の日に、そんな状態で来るなんて、少し前の私なら絶対にできなかったと思う。
今もできているのかは怪しい。
何度も触りそうになる。
見られている気がする。
でも、ここにいる。
耐Gスーツを着て、訓練機の前に立っている。
それだけで、私としてはかなり大きなことだった。
「ローレ、髪触る手」
ミリアが小声で言う。
「あ」
私は手を止めた。
「すみません」
「謝らない」
「はい」
このやり取りも増えた。
謝る。
止められる。
頷く。
また謝りそうになる。
忙しい。
私の口は、自分の主より先に謝ることがある。
少し教育が必要だ。
「第一小隊、集合」
シュヴァルベ様の声が響いた。
一瞬で空気が整う。
私たちは指定された場所へ集まった。
一番機、シュヴァルベ様。
二番機、ダッソーさん。
三番機、トム。
四番機、ピラタスさん。
五番機、ブレゲさん。
六番機、セシリアさん。
七番機、ミリア。
八番機、私。
模擬戦の進行は順調だった。
第一隊、第二隊の模擬戦はすでに終わっている。
多少の失敗や評価点の差はあったけれど、大きな事故はない。
管制の声も落ち着いていた。
観覧用の訓練棟側モニターには、終了した隊の結果が簡易表示されている。
第一小隊は三番目。
つまり、次。
次。
その言葉だけで、胃のあたりが小さくなる。
「各機、搭乗前確認を行います」
シュヴァルベ様が言った。
その声は、いつも通り澄んでいる。
でも、少しだけ柔らかい。
隊員の緊張を見ているのかもしれない。
シュヴァルベ様は一人ずつ声をかけていった。
「ダッソーさん。直衛は、私に合わせすぎないでください。私が前へ出ても、隊全体の軸を見失わないように」
「承知しました、ユンカース様」
ダッソーさんは背筋を伸ばして頷いた。
「グラマンさん」
「はい、ユンカース様」
「切り込み役は、戻る場所を持って初めて機能します。勢いだけで前へ出ないこと」
「はい、ユンカース様」
トムの返事は真面目だった。
横でミリアが少しだけ満足そうにしている。
「ピラタスさん。追撃は深追いと隣り合わせです。グラマンさんの支援に徹してください」
「はい、ユンカース様」
「ブレゲさん。中衛の牽制は、攻撃だけではありません。敵の視線を散らし、味方の退路を作ることも役目です」
「はい、ユンカース様」
ブレゲさんは静かに頷く。
「ヒースローさん。観測と連携管理をお願いします。違和感があれば、ためらわず報告を」
「はい、ユンカース様」
セシリアさんの声は少し緊張していたけれど、落ち着いていた。
「サーブさん。通信と救援。後衛から全体を支えてください。七番機が動けば、八番機の位置も変わります」
「はい、ユンカース様」
ミリアの返事は明るい。
でも、目は真剣だ。
そして、シュヴァルベ様の視線が私に向いた。
「ローレさん」
「はい、シュヴァルベ様」
「八番機は、退路確保と後衛補佐です。無理に前へ出る必要はありません」
「はい」
「ですが、見えた違和感は必ず伝えてください。たまたまでも構いません。あなたの勘は、隊に必要です」
勘。
そう言ってくれるのがありがたかった。
能力ではなく、勘。
たまたま鋭いだけ。
そういう形なら、まだ持っていられる。
「わかりました。たまたまでも、言います」
「はい。たまたまを聞きます」
シュヴァルベ様がほんの少し微笑んだ。
その笑みに、胸が少しだけ楽になる。
けれど、すぐにDDSの文字が頭をよぎった。
異常値。
分類不能。
白系出力適性確認。
あの判定は、標準係数に戻された。
模擬戦難易度も、学内模擬戦として実施可能な範囲に調整された。
そう説明された。
だから大丈夫。
そう思いたい。
でも、システムが一度見たものは、どこかに残っている気がする。
見なかったことになっただけで、消えていない。
私の中のものと同じだ。
「ローレさん」
シュヴァルベ様がもう一度声をかける。
「呼吸を」
「はい」
私は息を吸って、吐いた。
「戻ることを優先します」
「よろしいです」
その言葉で、私は少しだけ頷けた。
搭乗手順はいつも通りだった。
耐Gスーツの接続確認。
通信端末。
手袋型インタフェース。
コクピットへの固定。
トレパペの球状コクピットは、何度乗っても少し不思議だ。
閉じると、外の空がモニターへ置き換わる。
全周囲モニターに、格納区画と発進路の映像が映る。
私は指先をインタフェースへ入れた。
魔力の糸を細く伸ばす。
トレパペの各部へ、そっと行き渡らせる。
強くしない。
深くしすぎない。
人形と自分の境目を、ちゃんと残す。
リンク開始。
表示は安定。
魔力流量、通常範囲。
機体姿勢、正常。
通信確認。
『ユンカース。通信良好』
シュヴァルベ様の声が響く。
順に声が続いた。
『ダッソー。通信良好です』
『グラマン。通信良好』
『ピラタス。通信良好です』
『ブレゲ。通信良好です』
『ヒースロー。通信、良好です』
『サーブ。通信良好です』
私は喉を整えた。
『プラット。通信、良好です』
通信の中の自分の声は、少しだけ硬かった。
でも、震えてはいない。
たぶん。
『第一小隊、発進許可』
管制の声が入る。
『第一小隊、発進します』
シュヴァルベ様の声。
一番機が滑るように前へ出る。
青い魔力スラスターの光が、発進路に伸びた。
続いて二番機。
三番機。
順番に機体が浮き上がる。
私の八番機は最後尾に近い。
後衛補佐。
退路確保。
前へ飛び出す役ではない。
それを何度も頭の中で確認する。
「発進」
私は小さく言い、機体を前へ出した。
トレパペが浮く。
発進路を抜ける。
青い空が全周囲に広がった。
黒い宇宙ではない。
訓練空域の青。
雲の少ない、よく晴れた空。
それでも、人形が空へ出る瞬間、胸の奥の記憶が少し揺れる。
私はローレッタ。
マーリンではない。
撃墜しない。
戻る。
シュヴァルベ様の声が通信に入った。
『各機、隊列確認。前衛、一番機、二番機、三番機、四番機。中衛、五番機、六番機。後衛、七番機、八番機』
『ダッソー、位置良好』
『グラマン、良好』
『ピラタス、良好です』
『ブレゲ、良好です』
『ヒースロー、位置確認。全機、許容範囲内です』
『サーブ、通信状態良好。後衛位置維持します』
『プラット、後衛補佐位置、維持します』
私は七番機の少し後ろ、やや下方に位置を取った。
ミリアの機体を見失わない。
でも、近づきすぎない。
後方から全体を見る。
前衛の動き。
中衛の支援位置。
退路。
戻る線。
トレパペのモニターに、隊形図が表示される。
私はその線を見ながら、指先の糸を薄く広げた。
ただ、周囲を感じようとしただけ。
風の流れ。
味方機の推力。
空域境界。
仮想敵が出るなら、どこから来るか。
そう考えると、空の中にいくつか薄い道が見える気がした。
気のせい。
たまたま。
鋭い勘。
それでいい。
指定空域に到達する。
モニターに、DDSの表示が出た。
模擬戦開始準備。
難易度設定、第四段階下位。
勝利条件、指定時間内の防衛線維持および仮想敵機の撃退。
通信制限、軽度。
地形条件、高高度市街投影。
敵機行動、適応型。
第四段階下位。
学内模擬戦としては高め。
でも、実施可能範囲。
説明通りだ。
私は少しだけ息を吐いた。
『各機、開始直後は敵行動を確認します。前衛は突出しないこと。中衛は防衛線を維持。後衛は退路と通信を確認してください』
『グラマン、了解』
『サーブ、了解です。トム、出すぎないで』
『わかってる』
『通信中です』
ミリアの声が少しだけ鋭くなる。
トムが少し黙った。
私は思わず笑いそうになった。
でも、すぐにDDSのカウントが始まる。
三。
二。
一。
模擬戦開始。
モニターに仮想敵影が現れた。
最初の展開は、順調だった。
敵影は三機。
前方やや上。
市街投影のビル群を模した立体障害の影から出てくる。
実体ではないが、シミュレーション上は遮蔽物として扱われる。
高高度市街投影。
空の中に、透明な街が浮いているような光景だった。
少し綺麗。
でも、見とれている余裕はない。
『三番機、四番機、前へ。牽制のみ。五番機は右側から支援。六番機、敵機進路を確認』
『グラマン、了解』
『ピラタス、了解です』
『ブレゲ、支援位置へ移動します』
『ヒースロー、敵三機、こちらの前衛を誘導する動きです。左奥に仮想障害密度が高い区域があります』
『確認しました。グラマンさん、左へ流されないように』
『はい、ユンカース様』
トムの三番機が前へ出る。
速い。
でも、思ったより抑えている。
ピラタスさんの四番機が、その少し後ろを鋭く追う。
ブレゲさんの五番機が牽制射線を置き、敵の進路を狭める。
シュヴァルベ様の一番機は、前衛の少し後ろで全体を見ていた。
必要な時だけ、一歩前へ出る。
ダッソーさんの二番機が、その横を守る。
隊として動いている。
ちゃんと。
私は後方から、戻る線を見た。
三番機と四番機が前へ出た後、戻る場所。
七番機ミリアの通信範囲。
六番機セシリアさんの観測線。
私はその隙間に自分の位置を置く。
『八番機、後衛退路、確保しています。三番機、四番機が戻る場合は右下方が空いています』
言ったあと、少し緊張した。
たまたまの勘。
でも、言う。
『サーブ、八番機の退路情報確認。右下方、通信状態良好』
『ヒースロー、右下方に敵影なし。退路として有効です』
『グラマン、了解。戻る時は右下方へ』
トムの声が返ってくる。
私の言葉が、隊の中で使われた。
少し不思議だった。
少し怖い。
でも、悪くない。
DDSは次の課題を出してくる。
敵機増援、二機。
通信制限、部分強化。
防衛線圧迫。
難しい。
でも、まだ対応できる。
シュヴァルベ様の指揮は落ち着いていた。
『一番機、前衛指揮を維持。二番機、左側面。五番機、敵増援を牽制。六番機、通信制限範囲を確認。七番機、八番機、後衛線を下げすぎないように』
『ダッソー、了解』
『ブレゲ、了解です』
『ヒースロー、通信制限範囲、中央よりやや左です』
『サーブ、後衛線維持します』
『プラット、退路線、維持します』
私はモニターの端に出る赤い影を見た。
敵の動きは、思ったより嫌らしい。
前衛を押し込むのではなく、戻る場所を少しずつ削る。
私の役割に直接触れてくるような動き。
たまたま。
そう言い聞かせる。
DDSが私を見ているわけではない。
隊全体へ課題を出しているだけ。
でも、胸の奥はざわついた。
魔力の糸を広げすぎないようにする。
深く読みすぎない。
見える気がする線を、全部見ようとしない。
マーリンの記憶は、こういう場面で勝手に答えを出そうとする。
敵の誘導。
遮蔽の使い方。
通信制限の意味。
落とす順番。
違う。
落とさない。
戻る。
『ローレさん』
シュヴァルベ様の声が入る。
『はい、シュヴァルベ様』
『呼吸が浅くなっています。八番機は現在位置を維持。急がなくていい』
『はい』
その声で、胸の奥の記憶が少し引いた。
私は私の役割へ戻る。
八番機。
後衛補佐。
退路確保。
マーリンの記憶に飲まれない。
シュヴァルベ様の声が、私をこちらへ引き戻してくれる。
怖い。
でも、戻れる。
滑り出しは順調だった。
敵機を撃墜するというより、課題を一つずつ処理していく。
防衛線を維持し、前衛が深追いせず、中衛が支援し、後衛が通信と退路をつなぐ。
DDSが出してくる局面は難しい。
でも、シュヴァルベ様の指揮の下で、ぎりぎり形になっていた。
トムは何度か前へ出かけたけれど、ピラタスさんとミリアに止められて戻った。
ピラタスさんの追撃は鋭い。
ダッソーさんの直衛は堅い。
ブレゲさんの牽制は派手ではないけれど効いている。
セシリアさんの観測は正確で、ミリアの通信整理は速い。
私は、その後ろで戻る道を探す。
見えたものを伝える。
「たまたま」の形にして。
『八番機、中央下方の空域が狭くなっています。五番機が下がる場合、右後方へ』
『ヒースロー、確認。中央下方、敵誘導線が重なっています』
『ブレゲ、右後方へ下がります』
『一番機、五番機の後退を確認。八番機、続けてください』
『はい』
続ける。
それは、少し怖い言葉だった。
でも、必要とされるのは嫌ではない。
役に立てている。
そう感じると、胸の奥が少し温かくなる。
同時に、危うい。
私はすぐ、自分の価値を役に立つことに結びつけてしまう。
役に立てないと、ここにいてはいけない気がしてしまう。
それは良くないと、最近少しだけわかってきた。
でも、わかることと止められることは別だ。
私の中は、いつも少し遅れている。
その時だった。
モニターの端が、一瞬だけ乱れた。
ざざ、と細い線が走る。
すぐ消える。
私は瞬きをした。
気のせい。
かと思った。
『ヒースロー、観測表示に一瞬乱れがありました』
セシリアさんの声が入った。
最初に言ったのは、セシリアさんだった。
やっぱり見間違いではなかった。
『具体的には』
シュヴァルベ様がすぐ確認する。
『敵機表示の軌跡が一拍遅れました。現在は復帰しています』
『サーブさん、通信状態は』
『今のところ良好です。軽いノイズはありますが、制限範囲内です』
『了解。各機、表示の乱れに注意。行動は現状維持』
表示の乱れ。
胸がまたざわつく。
DDS。
再判定。
異常値。
あの言葉が頭の中で繋がりそうになる。
でも、まだ小さな乱れだ。
模擬戦なら、通信制限も表示遅延もある。
課題の一部かもしれない。
そう思おうとした。
DDSの表示が次の課題へ切り替わる。
敵機、追加二機。
通信制限、中度へ移行。
防衛線再設定。
難易度補正、適応中。
適応中。
その文字が、少し長く残った。
いつもより長い。
『ローレ』
ミリアの通信が来る。
『はい』
『今、後衛側の表示、変じゃなかった?』
『少し、遅れた気がします』
『だよね』
ミリアの声から、いつもの軽さが少し消えている。
『ヒースロー、後衛側でも表示遅延を確認しました』
セシリアさんがすぐ報告する。
『管制、こちら第一小隊。観測表示に複数回の遅延。課題仕様か確認願います』
シュヴァルベ様が管制へ呼びかける。
少しの沈黙。
それから管制の声が入った。
『第一小隊、管制。表示遅延は課題仕様外。現在確認中。模擬戦は継続、警戒せよ』
課題仕様外。
その言葉で、喉が乾いた。
仕様ではない。
耐Gスーツの暑さは仕様だった。
でも、これは仕様ではない。
『各機、落ち着いてください』
シュヴァルベ様の声がすぐ入る。
『防衛線維持。危険があれば即座に後退します。ローレさん、後衛退路の確認を』
『はい』
私は指先の糸を広げかけて、止めた。
広げすぎない。
でも、見なければならない。
退路。
戻る線。
七番機、六番機、五番機。
前衛が戻る道。
仮想市街の隙間。
通信制限の端。
そこに、嫌なゆがみがある気がした。
見えないのに、ある。
糸の先が、ざらりと何かに触れる。
「……変」
声が漏れた。
『八番機、後衛右下方に違和感があります。表示上は空いていますが、通らない方がいいと思います』
『理由は』
シュヴァルベ様が聞く。
理由。
ない。
たまたま。
勘。
『勘です』
言ってしまった。
少し恥ずかしい。
でも、シュヴァルベ様はすぐに返した。
『了解。各機、右下方退路は使用禁止。七番機、代替退路を』
『サーブ、左後方に代替線を作ります。ヒースローさん、確認お願いします』
『ヒースロー、左後方、現時点では敵影なし』
私の勘が、隊の判断になった。
胸が跳ねる。
その直後、右下方の表示が乱れた。
何もなかったはずの空域に、仮想敵の赤い影が一瞬だけ現れて消える。
遅れて警告音。
表示遅延。
もし通っていたら。
背中が冷たくなる。
『八番機の報告、有効。全機、表示だけに頼らないでください』
シュヴァルベ様の声が少し硬くなった。
模擬戦は、まだ続いている。
でも、何かがずれている。
少しずつ。
紙の端が湿って、形を失っていくみたいに。
DDSの表示がまた乱れた。
難易度補正、適応中。
適応中。
適応中。
同じ文字が三度、重なって見えた。
赤い線が走る。
管制の通信に、ざざ、とノイズが混じった。
『第一小隊、管制。現在、DDS接続に……ザ……軽微な異常……確認……』
ノイズが強くなる。
『管制、通信が不安定です。指示を再送願います』
シュヴァルベ様が呼びかける。
『第一小隊……模擬戦……中断……ザ……全機、帰投……繰り返す、模擬戦中断。全機、学校へ帰投せよ』
中断。
その言葉が、全機に落ちた。
『第一小隊、了解。模擬戦を中断し、帰投します』
シュヴァルベ様の声は乱れない。
『各機、戦闘行動停止。隊形を維持したまま帰投。前衛は速度を落としてください。七番機、通信維持。八番機、退路確認』
『サーブ、了解。通信維持します』
『プラット、退路確認します』
戻る。
帰投。
その言葉に少しだけ息が戻る。
でも、DDSの表示はまだ消えていなかった。
模擬戦中断。
中断。
中断。
その文字の裏で、赤い何かがちらつく。
仮想敵影の残像。
消えたはずの警告。
私は後方の線を探した。
学校へ戻る道。
安全な空域。
管制誘導。
全部、表示上はある。
でも、少しだけざらついている。
『八番機、学校側帰投路、表示に乱れがあります。左側へ少し広く取った方が安全です』
『ヒースロー、確認。学校側帰投路に軽微な表示遅延。八番機案を支持します』
『一番機、了解。全機、左側へ幅を取って帰投。速度を上げすぎないように』
『グラマン、了解』
トムの声も真面目だった。
誰も軽口を言わない。
晴れた空の中、八機が隊形を保って戻る。
模擬戦は中断された。
敵影は消えた。
それなのに、心臓はまだ速い。
モニターに映る青空が、少しだけ薄く見える。
雲はない。
空は明るい。
でも、どこかに見えない影がある。
DDS。
適応中。
異常値。
私の中で、言葉がまた絡まる。
これは私のせいだろうか。
あの再判定で、私が変な値を出したから。
システムが、私の中のマーリンの記憶に触れたから。
そんなはずはない。
そう思いたい。
でも、胸の奥はそう簡単に信じてくれない。
帰投は、管制の指示通りに行われた。
発進路へ順に降りる。
一番機から着陸。
二番機。
三番機。
四番機。
五番機。
六番機。
七番機。
最後に、私の八番機。
着陸姿勢。
速度を落とす。
脚部接地。
機体安定。
リンク解除。
表示は正常。
でも、指先が少し冷えていた。
私はインタフェースから手を抜いた。
コクピットが開く。
外の空気が入ってくる。
耐Gスーツの中が少し蒸れている。
青空の匂いというものがあるのかはわからないけれど、外の空気はシミュレータの空気よりずっと軽かった。
私は昇降装置を使って機体から降りた。
足が地面に触れる。
戻った。
ちゃんと戻った。
その瞬間、膝から力が抜けそうになる。
でも、なんとか立った。
「ローレ!」
ミリアが先に駆け寄りかけて、整備員に止められそうになり、ぎりぎりで速度を落とした。
「走ってません」
「走っていました」
私は思わずそう言った。
ミリアが少し笑った。
その笑顔を見て、やっと少し現実に戻る。
セシリアさんも近づいてくる。
「ローレさん、顔色が悪いです」
「少し、緊張しました」
「少しではなさそうです」
「では、かなり」
「はい」
正直に直すと、セシリアさんは少し安心したようだった。
トムも降りてきて、頭をかいた。
「なんか、最後変だったな」
「変でした」
ミリアが真面目に頷く。
「表示遅れと通信ノイズ。課題仕様外って管制が言ってた」
ピラタスさんとブレゲさんも、互いに端末を確認しながら話している。
ダッソーさんはシュヴァルベ様の近くで、管制担当者の動きを見ていた。
シュヴァルベ様は、セスナ教官と短く話している。
その横顔は落ち着いている。
でも、目が少し鋭い。
DDSの異常。
模擬戦中断。
帰投指示。
全部、ただの小さな不具合ではないのだろう。
「第一小隊、全員機体から離れろ」
セスナ教官の声が響いた。
「整備班と管制が機体ログを確認する。勝手に端末へ触るな」
「はい、セスナ教官」
全員が返事をする。
私は少し離れた場所へ移動した。
トレパペが並ぶ。
八機。
どれも訓練機だ。
標準的で、バランスの良い機体。
危険な実戦機ではない。
それなのに、今は少し違って見えた。
全周囲モニターに残った乱れ。
DDSの表示。
赤い線。
全部がまだ目の奥にある。
「ローレさん」
シュヴァルベ様が来た。
「はい、シュヴァルベ様」
「最後の退路判断、助かりました」
「たまたまです」
「そのたまたまを報告できたことが重要です」
その言葉に、少しだけ胸が温かくなる。
でも、すぐに曇る。
「でも、あの異常は」
言いかけて、止まる。
私のせいでしょうか。
そう聞きそうになった。
聞いてどうするのだろう。
シュヴァルベ様が否定してくれたら、安心したいのか。
それとも、肯定されるのが怖いのか。
自分でもわからない。
シュヴァルベ様は私の途中で止まった言葉を、無理には引き出さなかった。
「今は、管制と教官の確認を待ちましょう」
「はい」
「あなたが一人で結論を出すことではありません」
胸が痛い。
見透かされた気がした。
「はい」
今度は、少し小さく答えた。
その時だった。
青い空に、不気味な警報音が鳴り響いた。
高く、長く、冷たい音。
訓練棟の壁面灯が一斉に点滅する。
赤。
赤。
赤。
晴れた空の下で、警報だけが現実感を持っていた。
周囲の生徒たちがざわめく。
整備員が走る。
管制塔の方で、通信が飛び交う。
セスナ教官の表情が一気に厳しくなる。
「全員、その場を動くな」
声が飛ぶ。
私は空を見上げた。
よく晴れている。
雲はほとんどない。
空はこんなに青い。
それなのに、警報音は止まらない。
胸の奥に、重い雲がかかっていく。
DDSの表示。
適応中。
異常値。
分類不能。
白い髪。
白い記憶。
全部が、青い空の下で静かに繋がっていく気がした。
私はシュヴァルベ様の隣で、動けずに立っていた。
空は晴れている。
それなのに、私の心には、黒い雲がゆっくり広がっていた。
ここまでお読みいただき有り難うございました。
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