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白を隠さない朝

ご覧いただきありがとうございます。

染め直すかどうかを、私はずっと決められずにいた。


机の上には、王都で買った髪染めの箱がある。


もう中身はほとんど使ってしまった。


残っているのは説明書と、少しだけ余った小物と、外箱。


それでも箱は捨てられなかった。


捨てたら、何かを決めなければならない気がしたからだ。


染め直す。


染め直さない。


いつもの髪染めを探す。


入荷を待つ。


白いところを隠す。


隠さない。


選択肢はある。


あるのに、どれも手に取ると熱い。


持っていられない。


鏡の前に立つ。


髪は、茶色に戻っている。


でも、いつもの茶色ではない。


ほんの少し明るい。


ほんの少し薄い。


そして、内側には白が見える。


完全には隠れていない。


髪を耳にかけると、根元に白が出る。


光の下では、内側の白が少し透ける。


きちんと結べば隠せる。


たぶん。


でも、もう見られた。


ミリアに。


セシリアさんに。


シュヴァルベ様に。


それを考えると、胸の奥が落ち着かなくなる。


私は髪を指で押さえた。


茶色い表面の下に、白がある。


白い髪。


私の本当の髪。


それは昨日から急に生えたものではない。


ずっとあった。


ずっと隠していた。


隠すのが当たり前だった。


母にそう言われたから。


家族と違う色だから。


目立つから。


余計なことを聞かれるから。


でも、学園では。


ここでは。


本当に、全部隠さなければならないのだろうか。


ミリアは言った。


学園にいる間は、染めなくてもいいのでは、と。


セシリアさんは言った。


家のことだから、私が決めることだ、と。


どちらも優しかった。


優しい言葉は、時々、難しい。


命令なら従える。


叱られれば謝れる。


禁止されれば諦められる。


でも、自分で決めていいと言われると、足元が広くなりすぎて怖い。


広い場所は、逃げ道もあるけれど、迷子にもなる。


私は迷子になりやすい。


王都の駅でも、学園の訓練棟でも、すぐ迷いそうになる。


自分の髪のことでも迷うとは思わなかった。


いや、髪のことだけではない。


私は、自分のことになるとだいたい迷う。


「……どうしよう」


鏡に向かって言う。


鏡の中の私は、少し困った顔をしている。


茶色い髪の内側に、白。


昨日よりは落ち着いて見える。


でも、見ればわかる。


誰かが近くで見れば、きっと気づく。


すぐ染め直した方がいい。


そう思う。


でも、また一人で焦って染め直して、髪や肌を傷めたら。


シュヴァルベ様は言った。


一人で焦って行うと、肌や髪を傷めます、と。


あの声は、責める声ではなかった。


ただ心配している声だった。


だから余計に、勝手に染め直すのが怖くなった。


怒られるからではない。


心配されるから。


そして、また隠してしまうから。


私は髪の内側をもう一度押さえた。


白は隠れきらない。


隠せていない。


でも、隠しきろうとしていないわけではない。


今も、どうにか隠したくて指が動いている。


それでも。


慌てて染め直すのは、少しだけ待ってみようと思った。


完全に染めるのをやめるとは決められない。


そんなに急には無理だ。


母の声は、まだ胸の中に残っている。


染めなさい。


目立たないように。


余計なことを聞かれないように。


家の者と違う色を見せないように。


それから、別の怖さもある。


シュヴァルベ様が、マーリンを重ねるかもしれない。


シュヴァルベ様の憧れの人。


守るために戦った人。


強くて、危うい人。


白い髪の記憶。


もし、私の白い髪を見て、シュヴァルベ様が私ではない誰かを見るなら。


それが一番怖い。


私はローレッタ。


そう言いたい。


でも、私の中にはマーリンの記憶がある。


自分でも境目がわからない時がある。


それなのに、誰かに間違えられたら。


大切な人に、間違えられたら。


胸の奥がきゅっとなる。


私は鏡の前で息を吐いた。


「少しだけ」


言った。


「少しだけ、このまま」


決意というには、弱い。


宣言というには、小さい。


でも、今の私には、それくらいが精一杯だった。


髪を完全には隠せないまま、学園で過ごしてみる。


すぐ染め直さない。


一人で焦って、また全部隠そうとしない。


ただし、堂々と見せるわけでもない。


そこまで強くはない。


白い部分が少し見える髪を、私はゆっくり結んだ。


強く引っ張りすぎない。


内側が見えすぎないように。


でも、完全に押し込めないように。


難しい。


髪型一つで、こんなに調整が必要なのか。


人形の姿勢制御より繊細かもしれない。


私は最後に鏡を見た。


茶色い髪。


その内側に白。


見える。


少しだけ。


心臓が跳ねる。


でも、部屋を出ることにした。



食堂へ向かう道は、いつもより長く感じた。


廊下の灯りが髪に当たる。


誰かとすれ違うたび、視線が髪に向いた気がする。


気のせいかもしれない。


でも、気のせいではないかもしれない。


私は歩き方が少し固くなった。


ゆっくり。


普通に。


肩に力を入れない。


視界は狭くない。


指先は少し冷たい。


呼吸は浅くなりかけている。


訓練の確認みたいに、自分の状態を一つずつ見ていく。


こういう時、シュヴァルベ様の声が頭の中に残っている。


呼吸が浅いです。


肩。


息を吐いて。


私は小さく息を吐いた。


食堂の入口で、少し立ち止まりそうになる。


中にはたくさんの生徒がいる。


光も明るい。


人も多い。


髪の白が見えるかもしれない。


いや、もう見えている。


だから、見えるかもしれないではない。


見える。


そう思った方が早い。


「ローレ!」


ミリアの声がした。


反射で肩が跳ねる。


ミリアは席から手を振っていた。


隣にトム。


向かいにセシリアさん。


いつもの席に近い場所。


私はそこへ歩いた。


ミリアの目はすぐ髪に向いた。


わかった。


でも、何も言わなかった。


ただ、少しだけ笑った。


「おはよ、ローレ」


「おはよう、ミリア」


声が出た。


普通に近い声。


セシリアさんも穏やかに微笑む。


「おはようございます、ローレさん」


「おはようございます、セシリアさん」


トムがパンを持ったままこちらを見る。


髪を見た。


一瞬止まった。


そのあと、すぐにいつもの顔になった。


「おはよう、ローレ。今日のスープ、けっこううまいぞ」


「本当ですか」


「野菜多いけど」


「それは健康的ですね」


「健康的すぎるかもしれない」


ミリアがトムの皿を見る。


「トム、野菜避けてる」


「避けてない。作戦的配置換え」


「食べなさい」


「はい」


トムがすぐ負けた。


私は少し笑った。


笑うと、胸の緊張がほんの少しだけほどける。


誰も、おかしいと言わない。


髪を見ても、騒がない。


昨日の話を無理に掘り返さない。


それがありがたかった。


ありがたくて、少し泣きそうになる。


泣く場面ではない。


食堂でスープを前に泣くのは困る。


スープも困る。


たぶん。


「ローレさん」


セシリアさんが、そっと言った。


「髪、無理にまとめすぎていませんか」


「え」


「少し、きつそうに見えます」


見られていた。


でも、見られている場所が優しい。


隠せているかどうかではなく、痛くないかどうか。


「少しだけ、きついかもしれません」


正直に言った。


すると、ミリアがすぐ反応した。


「あとで結び直そ。きついと頭痛くなるよ」


「はい」


「白いところ見えるのが怖い?」


直球だった。


私はスプーンを持ったまま止まる。


トムがミリアを見る。


「ミリア、もうちょっとこう、角度」


「変に避ける方が怖いでしょ」


「それはそうだけど」


ミリアらしい。


まっすぐで、逃がさない。


でも、逃げ道を塞ぐためではない。


私が変に一人で抱え込まないように、言葉を出してくれている。


「怖いです」


私は小さく答えた。


「見えるのは、怖いです。でも、すぐ染め直すのも、少し怖くて」


ミリアは頷いた。


「そっか」


それだけだった。


「そっか」で終わることもあるのだと思った。


問い詰めない。


結論を急がない。


ただ、受け止める。


セシリアさんも静かに言った。


「今日は、そのままで過ごしてみるのですね」


「はい。完全に決めたわけではないのですが」


「それでよいと思います」


「よい、でしょうか」


「はい。決めきれない時に、急いで決めないことも大切です」


セシリアさんの言葉は、きれいに折り畳まれた布みたいだった。


静かで、手触りが柔らかい。


トムは少し考えてから言った。


「髪、白いとこ見えてても変じゃないぞ」


「ありがとうございます」


「というか、むしろかっこいいかも」


「かっこいい」


予想していない方向から来た。


「茶色の中に白が入ってるの、なんかこう、強そう」


「強そうですか」


「うん。人形使いっぽい」


ミリアが呆れた顔をした。


「トムの褒め方、雑」


「褒めてるぞ」


「知ってる。雑なだけ」


私は思わず笑った。


かっこいい。


強そう。


自分の白い髪に、そんな言葉がつくとは思わなかった。


おかしい。


目立つ。


隠しなさい。


そういう言葉ばかりだった。


だから、トムの雑な褒め方でも、少し胸が軽くなる。


雑でも効くことはある。


薬にも色々あるのかもしれない。


「ありがとうございます、トム」


「おう」


トムは少し得意そうに頷いた。


ミリアが「だからなんで得意げなの」と言う。


朝食の空気は、思っていたより普通だった。


普通に食べて。


普通に話して。


普通に、少し笑った。


髪の白は見えている。


隠せていない。


でも、私は食堂に座っていられた。


それは、思ったより大きなことだった。



講義室へ向かう途中、何人かの生徒がこちらを見た。


視線は髪に向く。


前より明らかに多い。


王都記念杯の時の視線とは少し違う。


あれは、記録や噂を見る視線だった。


今のこれは、外見の変化を見る視線だ。


あれ、髪。


色が違う。


白が見える。


そんな声は、実際には聞こえない。


でも、聞こえる気がする。


私は足が少し遅くなった。


すぐ隣にミリアが来る。


「ローレ、歩けてる?」


「歩けています」


「よし」


セシリアさんは反対側に並んだ。


「急がなくて大丈夫です」


トムは少し前を歩いて、自然に人の流れを分けてくれる。


わざとらしくない。


でも、たぶん気を遣ってくれている。


こういう時、トムは前に出る癖が良い方向に働く。


たまに出すぎるけれど。


講義室に入ると、数人がこちらを見た。


私は一瞬、席へ向かう足が止まりそうになる。


その時、後ろから声がした。


「ローレさん」


心臓が跳ねた。


シュヴァルベ様の声だった。


振り向く。


シュヴァルベ様は、いつものように背筋を伸ばして立っていた。


淡い金色の髪が整えられている。


姿勢も、表情も、いつも通り。


けれど、私を見る目は、ほんの少しだけ違う気がした。


昨日、シャワー室で見たあの目。


思いつめたような。


私の髪の向こうに、何かを見ているような。


その余韻が、まだ残っている気がした。


「おはようございます、シュヴァルベ様」


私は礼をした。


声は少し硬かった。


シュヴァルベ様の視線が、私の髪に一度落ちる。


内側の白。


隠しきれていない部分。


見られている。


胸が冷える。


けれど、シュヴァルベ様はすぐに私の顔を見た。


「おはようございます、ローレさん」


いつもの声だった。


ローレさん。


その呼び方。


昨日と同じ。


その前とも同じ。


髪を見ても、変わらなかった。


私は小さく息を吐いた。


自分が息を止めていたことに、その時気づいた。


「……はい」


返事になっていない。


でも、それしか出なかった。


シュヴァルベ様は少しだけ表情を柔らかくした。


「髪を、無理に染め直さなかったのですね」


「はい。まだ、決められなくて」


「決められないまま、急がないことも必要です」


セシリアさんと同じようなことを言う。


でも、声の重さは少し違った。


「一人で焦って傷めるより、ずっと良い判断です」


判断。


褒められているのだろうか。


「ありがとうございます」


「ただ、髪や肌に違和感があれば、すぐに医務室へ。染料が合わない可能性もあります」


「はい」


やっぱり心配の方向が実務的だ。


シュヴァルベ様らしい。


少し安心する。


でも、安心しきる前に、シュヴァルベ様の目がまた髪の内側へ向いた。


ほんの一瞬。


白い根元。


そこを見て、何かを考えている。


私はそれを見逃せなかった。


怖い。


けれど、今の視線は昨日より静かだった。


驚きではない。


もっと深く沈んだもの。


私は聞きたかった。


何を考えているのですか。


その白に、誰を見ていますか。


私を見ていますか。


でも、講義室で聞けるはずがない。


たぶん、二人きりでも聞けない。


「ローレさん」


「はい」


「無理はしないでください」


その言葉は、いつも通りだった。


でも、私は少しだけ違う意味に聞いてしまった。


髪のことも。


気持ちのことも。


マーリンのことも。


全部を無理に隠そうとしないでください。


そう言われているような気がした。


もちろん、シュヴァルベ様がそこまで知っているはずはない。


知っているはずはないのに。


「はい」


私は頷いた。



講義は、いつもより少しだけ長く感じた。


内容が難しかったわけではない。


いや、内容も難しかった。


軍事通信の基礎符号についての講義で、符号の種類がたくさん出てきた。


正直、途中で頭の中に符号が行列を作り始めた。


並ばないでほしい。


でも、それよりも髪が気になった。


窓から入る光。


後ろの席の視線。


髪紐のきつさ。


内側の白。


私は何度も髪に触れそうになって、手を止めた。


触らない。


触ると余計に気にしているように見える。


でも、触らないと白が出ていないか不安になる。


難しい。


「プラット」


セスナ教官の声で、私はびくっとした。


「はい、セスナ教官」


「今の問いに答えろ」


問い。


問いとは。


えっと。


今、何の話をしていたのだったか。


符号。


通信。


緊急時。


優先順位。


私は頭の中を必死に探した。


「緊急通信では、通常符号よりも簡略化された優先符号を使い、受信側の確認を待たずに最低限の情報を送る、です」


合っているだろうか。


セスナ教官は少しだけ頷いた。


「半分だ。残りはヒースロー」


「はい、セスナ教官。発信者、位置、状態、要請内容を順に短く伝え、重複送信によって欠落を補います」


「よし」


助かった。


セシリアさんに助けられた。


講義後にお礼を言おう。


いや、今も心の中でお礼を言っておく。


ありがとうございます、セシリアさん。


セスナ教官の視線が私に戻る。


「プラット。集中を散らすな」


「はい、セスナ教官」


短い注意。


いつも通り。


髪のことには触れない。


見えているはずなのに、何も言わない。


セスナ教官は、必要のないところで生徒の外見に触れない。


少しほっとした。



講義が終わると、セシリアさんがそっと近づいてきた。


「ローレさん、大丈夫ですか」


「はい。半分だけ答えられました」


「半分でも答えられていました」


「残りはセシリアさんに救われました」


「それなら、二人で一問分ですね」


その考え方は優しい。


私は少し笑った。


ミリアが横から言う。


「ローレ、今日はずっと髪気にしてる」


「はい」


正直に認めた。


「気になります」


「そりゃ気になるよね」


ミリアは軽く頷く。


「でも、ずっと見てると髪の方も緊張するよ」


「髪も緊張しますか」


「するかも」


「髪に申し訳ないです」


トムが吹き出しそうになった。


「ローレ、髪に謝るのか」


「必要なら」


「それはさすがに髪も困るだろ」


少し笑った。


笑える。


髪の話で。


怖い話だけではなく、少し変な話にもできる。


それが不思議だった。


白い髪は、まだ怖い。


でも、みんなの前では、少しだけ怖さの形が変わる。


一人で鏡の前に立っていた時とは違う。


見られても、すぐに壊れない。


そのことを、私は少しずつ確かめていた。



昼食のあと、私は少しだけシュヴァルベ様と並んで歩いた。


セシリアさんたちは先に次の講義室へ向かっている。


完全に二人きりではない。


廊下には他の生徒もいる。


でも、話せるくらいの距離だった。


心臓が少し忙しい。


白い髪を見られてから、シュヴァルベ様と二人で話すのは初めてだった。


「ローレさん」


「はい」


「髪のことで、困っていることはありますか」


聞かれた。


やっぱり。


でも、声は穏やかだった。


「困っていることは、たくさんあります」


正直に言ってしまった。


「あ、すみません。言いすぎました」


「謝ることではありません」


いつもの言葉。


私は少しだけ笑った。


「目立つのが怖いです」


「はい」


「母に染めるように言われていたので、染めないでいることも怖いです」


「はい」


「家のこともあります。プラット家の者と違う色なので」


「はい」


シュヴァルベ様は遮らない。


ただ聞いてくれる。


私は言うか迷った。


最後の怖さ。


でも、それは言えない。


シュヴァルベ様がマーリンを重ねるかもしれない。


それを本人に言えるはずがない。


「それから」


声が小さくなる。


「シュヴァルベ様に、変に思われたくありません」


言えたのは、そこまでだった。


マーリンの名前は出せない。


でも、一番近い場所までは言った。


シュヴァルベ様の足が少しだけ止まった。


私も止まる。


廊下の端。


窓から光が入って、床に長く伸びている。


「変に、ですか」


「はい。白い髪は、目立ちますし。その、家でも、あまり良いものではないと言われていたので」


シュヴァルベ様は静かに私を見た。


髪ではなく、顔を。


「私は、ローレさんの髪を変だとは思いません」


胸が揺れた。


「本当ですか」


「はい」


「でも、驚きましたよね」


「驚きました」


正直だった。


「驚きましたが、変だと思ったわけではありません」


「では、何を」


言いかけて、止まった。


聞いていいのか。


聞いてはいけないのか。


シュヴァルベ様は少しだけ目を伏せた。


「少し、考えていました」


「何を、ですか」


「あなたが、これまで一人で隠してきたものについて」


その答えは、予想していなかった。


マーリンのことではない。


少なくとも、今の言葉はそうだった。


「一人で」


「はい。髪のことも、痛みのことも、怖さのことも。ローレさんは、隠すことに慣れすぎています」


胸が痛い。


でも、その痛みは責められた痛みではなかった。


「白い髪を見て、私はそのことを考えていました」


「私のことを、ですか」


思わず聞いた。


シュヴァルベ様は少し不思議そうにした。


「はい。あなたのことです」


あなたのこと。


その言葉が、胸の奥にゆっくり落ちる。


私は息を吐いた。


気づかないうちに、また止めていたらしい。


「ローレさん」


「はい」


「染めるかどうかは、あなたが決めることです。家の事情もあるでしょう。すぐに答えを出す必要はありません」


「はい」


「ただ、逃げるためだけに急いで染め直すのなら、少し待ってください」


同じことを、私も思っていた。


逃げるために染め直す。


その言葉は、胸に刺さる。


「逃げているのでしょうか」


「怖いものから距離を取ることが、すべて悪いとは思いません」


シュヴァルベ様は言葉を選ぶように言った。


「ですが、あなたが自分を傷めてまで隠す必要はありません」


私は髪の内側を触りかけて、止めた。


「私は、自分を傷めているつもりは」


言いながら、言葉が弱くなる。


つもりはなくても、焦って染め直していた。


説明書を読み、処理液を使い、鏡の前で震えていた。


それが傷める方向ではなかったとは、言い切れない。


「少しだけ、待ってみます」


私は言った。


「完全に染めないと決めたわけではありません。でも、慌てて一人で染め直すのは、やめます」


シュヴァルベ様は、静かに頷いた。


「それがよいと思います」


その声に、少し安心した。


けれど、安心の下にまだ不安は残る。


シュヴァルベ様は私を見ている。


ローレさんと呼んでくれる。


変だとは思わないと言ってくれる。


でも、白い髪を見た時の、あの思いつめた目はまだ忘れられない。


何かがある。


私にはわからない何か。


その不安は、完全には消えなかった。



夕方、寮の部屋に戻ってから、私はまた鏡の前に立った。


朝より、髪は少し乱れている。


内側の白も、少し見えている。


一日過ごした。


この髪で。


食堂にも行った。


講義も受けた。


廊下も歩いた。


視線はあった。


でも、壊れなかった。


誰も、おかしいとは言わなかった。


ミリアは普通に話してくれた。


セシリアさんは急がなくていいと言ってくれた。


トムは強そうと言った。


それは少しよくわからないけれど、悪くはなかった。


シュヴァルベ様は、いつもと同じ声で呼んだ。


ローレさん。


髪を見た後でも。


私を、そう呼んだ。


私は鏡の中の髪を見た。


白い髪は、まだ少し見えている。


隠せていない。


でも、隠しきろうともしていない。


それが正しいのかは、まだわからない。


母に知られたら、きっと叱られる。


プラット家の者としておかしいと言われるかもしれない。


王都で目立つなと言った父の声も、どこかから聞こえる気がする。


それに、マーリンのこともある。


私はローレッタだ。


そう思いたい。


でも、白い髪を見ると、記憶の奥の白い影が揺れる。


シュヴァルベ様がそこに何を見るのかも、まだ怖い。


だから、大丈夫とは言えない。


言えないけれど。


私は髪の内側をそっと指で撫でた。


白い束が、茶色の間から少し見える。


隠れていない私。


隠しきれていない私。


それでも、一日、ここにいた私。


「少しだけ」


私は鏡に向かって言った。


「このまま」


逃げるために染め直すのは、少しだけ待ってみよう。


完全に受け入れるのは、まだ無理だ。


堂々と見せるのも、まだ無理。


でも、慌てて消すのはやめる。


それだけで、今は十分な気がした。


机の上には、王都で買った焼き菓子がある。


私は一つ取り出して、口に入れた。


さくり、と音がした。


甘い。


うまうま。


少しだけ、息が楽になる。


白い髪は、まだそこにある。


茶色の下で、内側で、光に触れると少し見える。


私はそれを、もう一度鏡で確認した。


怖い。


でも、前よりほんの少しだけ、目を逸らさずにいられた。


髪を染めない余韻は、軽くはなかった。


けれど、痛みだけでもなかった。


それは、まだ名前のつかない小さな選択として、私の肩口で静かに揺れていた。

ここまでお読みいただき有り難うございました。


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