白い髪
ご覧いただきありがとうございます。
王都で買った髪染めの箱は、机の上で静かにしていた。
焼き菓子の袋は、少し触るだけでかさりと鳴る。
飴の小袋も、ころころと小さな音を立てる。
でも、髪染めの箱は鳴らない。
黙っている。
黙っているのに、一番こちらを見ている気がする。
困る。
とても困る。
私は椅子に座ったまま、その箱をしばらく見つめていた。
いつもの色ではない。
いつもの箱でもない。
王都の雑貨店で、いつも使っている髪染めが在庫切れだったから買ったものだ。
似た色。
少し明るめの茶色。
店員さんは、白っぽい髪にも入りやすいと言っていた。
白っぽい髪。
その言葉だけで、胸の奥が小さく縮む。
白っぽい、ではない。
白い。
私の本当の髪は、真っ白だ。
プラット家の誰とも違う色。
母に染めなさいと言われた色。
家族と違うから。
目立つから。
余計なことを聞かれるから。
そう言われて、私はずっと茶色に染めてきた。
王都へ来る時も、学園へ入る時も、講義へ出る時も、訓練機に乗る時も。
ずっと。
茶色い髪のローレッタでいた。
それが普通になっていた。
いや、普通だと思うようにしていた。
朝、鏡の前で根元を確認する。
少しでも白が見えたら、胸が冷える。
染め直す時期を考える。
誰にも見られない時間を探す。
それはもう、歯を磨くとか、制服を整えるとか、そういう日常の中に混ざっていた。
でも、本当は違う。
歯を磨く時、誰かに見られて困る人はいない。
制服を整える時、心臓が冷える人もあまりいないと思う。
髪を染めることだけ、私の中ではいつも少し怖い。
怖いけれど、やらなければならない。
私は箱を手に取った。
軽い。
でも、重い。
箱の側面には、仕上がりの色見本が載っている。
柔らかい茶色。
光を受けると少し明るい。
今の私の髪より、たぶん少しだけ軽く見える。
「少しなら、大丈夫」
小さく呟く。
この大丈夫は、痛みを隠すための大丈夫ではない。
誰かに心配をかけないための大丈夫でもない。
ただ、手順を間違えずにやればいい。
誰にも見られなければいい。
そういう意味の大丈夫。
たぶん。
私は箱を開けた。
中には染料、手袋、処理液、説明書が入っていた。
いつも使っているものと、入っているものが少し違う。
嫌な予感がした。
こういう時の嫌な予感は、だいたい当たる。
当たらなくていいのに。
説明書を広げる。
細かい文字がびっしり並んでいる。
私は最初からゆっくり読んだ。
新しい製品だから、ちゃんと読まなければならない。
ちゃんと。
読んで。
途中で、目が止まった。
《現在使用している染料を落としてから使用してください。》
私はその一文を、三回読んだ。
三回読んでも、変わらなかった。
現在使用している染料を落としてから。
落とす。
今の茶色を。
全部。
「……あわわ」
変な声が出た。
手元の説明書が、急に遠くなった気がする。
今の染料を落とす。
つまり、一度、白い髪に戻す。
完全に。
誰にも見られないように。
すぐに染めればいい。
そう思おうとした。
でも、手が少し冷たくなる。
よく見ずに買った自分が悪い。
店で説明書を開いて読む勇気がなかった。
在庫切れと言われて、似た色を選ぶことだけで頭がいっぱいだった。
急いでいた。
焦っていた。
でも、それは言い訳だ。
説明書の中身は、私の事情なんて知らない。
私は椅子に座ったまま、箱の中身をもう一度確認した。
染料落とし用の処理液。
新しい染料。
手袋。
それから、色落ちに関する注意。
白っぽい髪、明るい髪は染まり方に差が出る場合があります。
最初の数回は、汗や水分による色落ちに注意してください。
汗。
水分。
シャワー。
実技訓練。
耐Gスーツ。
嫌な単語が、頭の中で勝手に並んでいく。
「……でも、染めないと」
根元はもう限界に近い。
いつもの髪染めが入荷するまで待つ余裕はない。
今の色を落として、新しい色を入れるしかない。
誰にも見られなければ、大丈夫。
遅い時間に浴場へ行く。
いつもよりさらに遅く。
誰もいないのを確認する。
手早く、でも丁寧に。
私は説明書をたたみ、もう一度開いた。
手順を頭に入れる。
失敗しないように。
白い髪を、できるだけ短い時間で終わらせるように。
髪を染める時、私はいつも遅い時間に浴場を使う。
寮の共同浴場は、時間帯によってかなり人が多い。
講義後。
訓練後。
食事前。
就寝前。
そのあたりは避ける。
人が少なくなるのを待つ。
静かになるのを待つ。
廊下の足音が減るまで、部屋でじっとしている。
それだけで、少し悪いことをしているような気分になる。
髪を染めるだけなのに。
誰かを傷つけるわけでも、規則を破るわけでもないのに。
それでも、箱を布袋に入れて部屋を出る時、私は息を小さくした。
廊下は静かだった。
灯りは落とされているけれど、足元は見える。
遠くで水音がした。
誰かがまだ浴場にいるのかもしれない。
私は少し待った。
壁際で待つ。
ただ立っているだけなのに、妙に心臓が忙しい。
忙しい心臓は、もっと落ち着いてほしい。
しばらくして、浴場の方から一人分の足音が聞こえた。
私は柱の影に少し寄った。
別に隠れる必要はない。
ないけれど、寄ってしまった。
生徒が一人、タオルを髪に当てながら通り過ぎていく。
こちらには気づかなかった。
足音が遠ざかる。
私はもう少し待ってから、浴場へ向かった。
中には誰もいなかった。
脱衣所も、浴場も、静かだ。
湯気だけが残っている。
私は扉を閉め、念のため周囲を確認した。
誰もいない。
よかった。
本当に、よかった。
まず、準備。
手袋。
説明書。
処理液。
染料。
タオル。
鏡。
全部を手元に置く。
忘れ物はない。
たぶん。
私は髪をほどいた。
茶色い髪が肩口まで落ちる。
見慣れた色。
隠すための色。
でも、この色も私の一部みたいになっている。
本当ではないのに。
私は手袋をはめた。
処理液を髪に伸ばす。
根元から、毛先まで。
いつもは根元だけを染める。
白く出てきたところを隠す。
それで済む。
全体を染めたことは、数えるほどしかない。
だから、髪全体に液を伸ばすだけで少し緊張した。
内側まで。
後ろまで。
ムラにならないように。
髪に処理液が馴染むと、少し匂いがした。
いつもの染料より、少し鋭い匂い。
湯気に混ざって、鼻の奥に残る。
私は時計を見た。
説明書通りの時間を置く。
時間が進まない。
一分が長い。
長すぎる。
誰か入ってきたらどうしよう。
この状態で、髪に処理液をつけたまま、茶色が抜けかけていたら。
どう説明するのか。
染め直しです。
それは本当。
でも、本当の半分だけだ。
半分の本当は、時々嘘より苦い。
私は膝の上で手を握らないようにした。
手袋に液がついている。
うっかり制服やタオルに触れると困る。
手までじっとしていなければならない。
体も心も、じっとしているのは苦手だ。
時計を見る。
まだ。
もう少し。
やっと時間になった。
私は髪を洗い流した。
茶色が湯に溶けていく。
指の間を通って、排水口へ流れていく。
茶色い水。
薄くなって、消えていく。
見慣れた色が、私から離れていく。
私は鏡を見ないようにした。
見ない。
まだ見ない。
ちゃんと流し終えてから。
処理液が残っていないように、丁寧に洗う。
白い髪に戻る。
戻ってしまう。
それがわかっていて、指を止められない。
洗わなければ先へ進めない。
私は最後まで洗い流し、髪から水を軽く絞った。
そして、ゆっくり鏡を見た。
鏡の前には、真っ白な髪の少女が立っていた。
肩口まで濡れた白い髪。
湯気の中で、少し光っている。
顔は私のはずだった。
目も、鼻も、口も、私のもの。
小柄で、頼りなくて、少し疲れた顔。
でも、髪が白いだけで、まるで別人に見えた。
自分ではないみたいだった。
「……私」
声が小さく落ちる。
鏡の中の少女も、同じ形で口を動かす。
白い髪。
濡れて、頬に張りつく。
本当の色。
隠していた色。
母に嫌がられた色。
家族と違う色。
そして、マーリンの記憶に近い色。
胸の奥が、ざわりと揺れた。
黒い宇宙。
白い機体。
赤い警告。
撃墜記録。
怪物。
希望の花。
その言葉たちが、髪の白に引かれて出てきそうになる。
私は慌てて鏡台の縁を掴んだ。
違う。
私はマーリンではない。
そう言う前に、喉が少し詰まった。
私は、自分のことをマーリンの生まれ変わりだと思っている。
そう理解している。
マーリンの記憶があるから。
マーリンの感情があるから。
人形の動かし方を知っているから。
戦争が怖いから。
戦いたくないから。
でも、白い髪の少女を見ていると、それだけではない気がしてしまう。
マーリンだから白いのではない。
ローレッタの髪が白い。
この身体の髪が白い。
この顔の、私の髪が。
「私は、ローレッタ」
声に出す。
湯気の中で、頼りない声だった。
「ローレッタ=プラット」
鏡の中の少女が、同じように言う。
「マーリンじゃない」
言ったあと、胸が少し痛くなった。
マーリンを否定したかったわけではない。
マーリンの記憶は、私の中にある。
怖さも、後悔も、戦いたくない気持ちも、誰かを守りたい願いも。
それらは消えない。
でも、鏡の中にいる白い髪の少女は、私だ。
マーリンではない。
たぶん。
たぶん、という言葉がついてしまうのが、少し悔しい。
私は髪に触れた。
濡れた白い束が、指にかかる。
柔らかい。
茶色に染めている時と同じ感触。
色だけが違う。
それなのに、こんなに怖い。
こんなに心細い。
「染めないと」
私は息を吐いた。
このままではいられない。
いられないと思ってしまう自分が、少し悲しい。
でも、今はまだ無理だ。
誰かに見られるのは。
シュヴァルベ様に見られるのは。
もっと無理だ。
私は新しい染料を手に取った。
新しい染料は、いつものものとは勝手が違った。
混ぜ方も少し違う。
液の柔らかさも違う。
髪に伸ばした時の感触も違う。
いつもは根元を中心に染めるだけだ。
白く出てきた部分へ、そっと色を入れる。
全体を染めることは少ない。
だから、肩口までの髪全体に染料を伸ばすのは、思ったより大変だった。
髪の内側。
耳の後ろ。
襟足。
毛先。
後ろ側は鏡を見てもよくわからない。
私は何度も手の位置を変えながら、染料を伸ばした。
白い部分が少しずつ茶色に覆われていく。
それを見ると、ほっとする。
ほっとするのに、どこか寂しい。
さっきまで鏡にいた白い髪の少女が、また隠れていく。
隠れてくれる。
隠してしまう。
どちらなのかわからない。
「ムラになりませんように」
小さくお願いする。
誰にお願いしているのかはわからない。
髪染めの神様がいるなら、少し手伝ってほしい。
髪染めの神様というのは、かなり専門的な神様だ。
王都にはいろいろあるから、いるかもしれない。
少しだけ変なことを考えて、息が楽になる。
時間を置く。
説明書通りに。
今度はさっきより落ち着いていた。
白い髪をもう見なくていいからかもしれない。
いや、正確には、鏡の中の私はまだ染料まみれで、少し変な姿だった。
これはこれで見られたくない。
絶対に見られたくない。
特にミリアに見られたら、きっと笑わないように頑張ってくれる。
頑張って、でも少し笑うと思う。
トムなら普通に笑う。
セシリアさんは笑わないけれど、タオルを差し出してくれそうだ。
シュヴァルベ様は。
想像しかけて、やめた。
シュヴァルベ様が白い髪の私を見たら、どう思うのだろう。
ローレさん。
そう呼んでくれるだろうか。
それとも、少し違う目で見るだろうか。
シュヴァルベ様の憧れの人は、マーリンだ。
守るために戦った人。
強く、危うい人。
記録の中の白い影。
もし、私の髪を見て、その影を重ねられたら。
胸が冷える。
考えてはいけない。
まだ見られていない。
見られないように染めている。
だから大丈夫。
私は時計を見た。
時間になった。
髪を洗い流す。
茶色い水が流れる。
今度は染料が落ちているだけだ。
必要な分が落ちて、残る分が髪に入る。
そういうものだ。
たぶん。
私は丁寧に洗い、タオルで水気を取った。
濡れた髪は、茶色に見えた。
でも、いつもより明るい。
少し薄い。
乾かせば変わるかもしれない。
私は急いで乾かした。
熱を当てすぎないように、でも早く。
髪が乾いていく。
茶色。
茶色だ。
鏡の中の私は、茶色い髪に戻っていた。
戻っていた。
でも。
「……少し、明るい」
私は髪を指で持ち上げた。
根元を見る。
茶色は入っている。
白は見えない。
でも、いつもの落ち着いた栗色ではない。
ほんの少し明るい。
ほんの少し、薄い。
光に当たると、内側が少し白っぽく透けるような気がする。
気のせいかもしれない。
気のせいであってほしい。
私は髪の内側を指で押さえた。
白は見えない。
見えない、はずだった。
後ろはどうだろう。
襟足は。
内側は。
耳の後ろは。
確認する場所が多すぎる。
私は鏡の前で、何度も髪をめくった。
見えない。
たぶん。
大丈夫。
しばらく気をつければいい。
汗をかきすぎない。
髪を濡らしすぎない。
強い光の下で、内側を見せない。
訓練後は早めに整える。
誰かに髪を触らせない。
考えることが多い。
多すぎる。
髪一つで、どうしてこんなに作戦会議みたいになるのだろう。
人形戦の戦術判断より、今の私には難しいかもしれない。
でも、やるしかない。
私は道具を片付けた。
処理液の空き容器。
染料の残り。
手袋。
説明書。
全部、布袋にまとめる。
浴場の床や洗面台に染料が残っていないか確認する。
誰かに見られて困るものはないか。
何度も見る。
大丈夫。
何も残っていない。
たぶん。
私はもう一度鏡を見た。
茶色い髪の私がいる。
いつもの私に近い。
でも、どこか違う。
少し明るい。
少し薄い。
さっき見た白い髪の少女が、まだ鏡の奥にいる気がする。
髪を茶色に戻しても、消えない。
見えなくなっただけ。
「私は、ローレッタ」
もう一度、小さく言った。
鏡の中の私も、同じように口を動かした。
「マーリンじゃない」
その言葉は、さっきより少しだけ小さかった。
でも、言えた。
私は布袋を抱えて、浴場を出た。
廊下は静かだった。
誰にも会わなかった。
部屋へ戻り、扉を閉める。
鍵をかける。
そこでようやく、深く息を吐いた。
終わった。
染められた。
白は見えない。
見えない、はず。
机の上に、王都で買った焼き菓子と飴がまだ置いてある。
髪染めの箱だけがなくなった。
私は焼き菓子の袋を少し触った。
かさり、と軽い音がした。
その音が、少しだけ安心させてくれる。
甘いものは強い。
今食べると、少し元気が出るかもしれない。
でも、今は食べなかった。
口に入れたら、さっきの鏡の白い髪まで一緒に飲み込んでしまいそうだった。
私は椅子に座り、髪の内側をもう一度指で押さえた。
茶色。
茶色だ。
大丈夫。
しばらく気をつければいい。
そう思ったのに、胸の奥は落ち着かなかった。
鏡の中の私は、茶色い髪に戻っていた。
でも、ほんの少し明るい。
ほんの少し、薄い。
いつもと違う。
白は見えない。
見えない、はずだった。
それなのに、鏡の中の私だけが、まだ真っ白な髪の少女を覚えている気がした。
ここまでお読みいただき有り難うございました。
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