黒い空へ
ご覧いただきありがとうございます。
二週間は、あっという間に過ぎた。
本当に、あっという間だった。
荷物をまとめて、髪を染めて、入学案内を読み返して、必要なものを確認して、また髪を染めて。
それだけで、日付は勝手に進んでいった。
時間というものは、こちらの気持ちをあまり待ってくれないらしい。
もう少しゆっくりしてくれてもいいのに、と思った。
でも、ゆっくりされても困ったかもしれない。
長く待てば待つほど、怖くなるから。
出発の日の朝、私はいつもより少し早く目が覚めた。
寝台の上で、しばらく天井を見ていた。
見慣れた天井。
小さな染み。
端の方にあるひび。
寒い日に少しだけ震える照明。
今日で、この天井を毎朝見ることはなくなる。
そう思うと、胸の奥が少し変な感じになった。
寂しい、とは違うと思う。
たぶん。
この部屋で、いい思い出がたくさんあったわけではない。
寒かったし、狭かったし、窓枠は少し歪んでいた。
でも、私の部屋だった。
そういう場所を出る時、人は少し変な感じになるのだと思う。
私はゆっくり起き上がった。
身体はもう動く。
右腕を伸ばしても、少し引きつるくらいで済む。左足も、朝はまだ軽い。肋骨のあたりは、深く息を吸うと少しだけ違和感がある。
でも、大丈夫。
大丈夫という言葉は便利だけれど、今日は少しだけ本当に大丈夫な気がした。
私は寝台から下りて、鏡の前に座った。
最初に見るのは、顔ではない。
髪の根元。
昨日、ちゃんと染めた。
茶色。
お母さまたちと同じ、プラット家の色。
白は見えない。
私は指先で髪を分けて、何度か確認した。
右側。
左側。
後ろは見えにくいけれど、手鏡を使えばなんとかなる。
大丈夫。
白は隠れている。
王都へ行くのだから、きちんとしていなければならない。
妙な噂を立てられてはいけない。
目立ってはいけない。
私は櫛を通して、髪をひとつにまとめた。
いつもの朝。
いつもと同じ支度。
でも、机の横に置かれたトランクだけが違っていた。
小さな古いトランク。
角は少し擦れていて、金具もぴかぴかではない。
中に入っているのは、着替えが数枚と、お下がりのドレス。筆記用具。王立宇宙軍士官学校の入学案内。必要書類。小さな裁縫道具。
それから、少しのお金。
頑張って貯めたお金だ。
手伝いでもらった小銭や、使わずに残した分を、少しずつ隠すようにして貯めてきた。
大金ではない。
たぶん王都では、あっという間になくなる。
でも、何もないよりはずっといい。
私はトランクの留め具を確かめた。
かちん、と小さな音がする。
これで、私の荷物は全部。
十四年分にしては少ない。
でも、部品にたくさんの荷物はいらない。
……いや、今日からは違うのだろうか。
私は少しだけ首を傾げた。
スペアとしては、もう用済み。
家を出る。
学校へ行く。
軍学校へ。
そう考えた瞬間、胸がきゅっとした。
宇宙。
人形。
白い光。
赤い警告。
剣。
だめ。
私は目を閉じて、ゆっくり息を吸った。
ここは私の部屋。
私はローレッタ=プラット。
今日は出発の日。
戦場へ行く日ではない。
そう言い聞かせてから、目を開けた。
鏡の中の私は、少しだけ知らない顔をしていた。
でも髪はちゃんと茶色だった。
だから、たぶん大丈夫。
朝食は、いつもと同じだった。
少し固いパン。
薄いスープ。
焼いた魚。
お姉さまたちの皿には果物がひと切れ多い。
今日も変わらない。
私が家を出る日でも、食卓は急に豪華にならない。
それが少しだけおかしくて、少しだけ安心した。
もし今日だけ特別な料理が出てきたら、私はどうしたらいいかわからなかったと思う。
ありがとうと言えばいいのか。
泣けばいいのか。
それとも、食べていいのか確認すればいいのか。
難しいことにならなくてよかった。
私はいつも通り、静かに席に着いた。
父は書類を見ている。
お母さまは姿勢よくスープを口に運んでいる。
お姉さまたちは、王都の流行について話していた。
王都。
私は今日、そこへ向かう。
でも、会話に入ることはなかった。
私が知っている王都は、本の中と入学案内の中にしかない。
高い建物。
広い通り。
軍施設。
大きな駅。
それから、人がたくさんいる場所。
想像するだけで、少し目が回りそうになる。
「ローレッタ」
上のお姉さまが、ふいに私を見た。
「はい、お姉さま」
「王都で恥をかかないようにしてよ」
私はパンを持つ手を止めた。
「はい」
「プラット家の名前を出すことになるのだから。田舎者みたいにきょろきょろしないこと」
「はい。気をつけます」
下のお姉さまが小さく笑った。
「でも、初めての王都でしょう? きょろきょろしない方が難しいんじゃない?」
「それでも、しないようにします」
私はなるべく真面目に答えた。
実際、しないようにしなければならない。
王都で迷子になったら困る。
きょろきょろして、変な人に声をかけられても困る。
それに、目立ってはいけない。
父にも何度も言われた。
目立つな。
身の程を弁えろ。
求められたことだけをしろ。
その通りにすれば、きっと大丈夫。
「髪は染めたのね」
お母さまが言った。
「はい。昨日、染めました」
「王都でも怠らないように。白が出れば、すぐ目立ちます」
「はい」
「染料は足りるの?」
「少し持ちました。なくなったら、買います」
「そう」
お母さまはそれ以上、何も言わなかった。
私はスープを飲んだ。
少しぬるい。
でも、いつもの味だった。
たぶん、この味もしばらく食べられない。
そう思うと、急に大事なものみたいに感じた。
薄いスープなのに。
不思議だ。
私は最後まで残さず食べた。
食べ終わって、椅子を引く。
音が立たないように、そっと。
「ごちそうさまでした」
いつものように言った。
返事はなかった。
それも、いつものことだった。
支度はすぐに終わった。
終わってしまった、と言った方が近いかもしれない。
だって、持っていくものが少ない。
衣装棚の前で悩むほど服はないし、机の中に大事な品がたくさんあるわけでもない。
私は何度もトランクを開けて、中身を確認した。
着替え。
お下がりのドレス。
筆記用具。
入学案内。
書類。
裁縫道具。
お金。
何度見ても、同じだった。
増えない。
当たり前だけれど。
机の上に、小さなリボンが残っていた。
子どもの頃に使っていたものだ。
少しほつれていて、もう使えない。
持っていくか迷った。
迷って、やめた。
使えないものを持っていく余裕はない。
私はリボンを机の引き出しに戻した。
引き出しを閉める。
それだけなのに、少し胸が苦しくなった。
変だ。
ただの古いリボンなのに。
私はトランクを持ち上げた。
重い。
でも、持てないほどではない。
右腕が少し引きつったので、左手も添えた。
大丈夫。
歩ける。
私は部屋を出る前に、もう一度だけ振り返った。
寝台。
机。
鏡。
薄いカーテン。
小さな部屋。
ここで過ごした時間が、急に全部私を見ている気がした。
何を言えばいいのかわからなかったので、小さく頭を下げた。
部屋にお辞儀をするのは、少し変かもしれない。
でも、誰も見ていないからいい。
「……お世話になりました」
声に出すと、本当に出ていくのだとわかった。
私は扉を閉めた。
見送りは、父とお母さまと、メイドが二人だけだった。
お姉さまたちはいなかった。
支度があるのだと思う。
仕立て屋が来る日だったかもしれない。
違ったかもしれない。
どちらでも、あまり変わらない。
玄関広間は、いつもより少し寒かった。
高い天井。
古い床。
壁にかかったプラット家の紋章。
見慣れているはずなのに、今日だけ少し遠く見えた。
父は扉の近くに立っていた。
お母さまはその横。
メイドたちは少し下がった場所にいる。
私のトランクは、足元に一つだけ。
馬車はない。
迎えもない。
シャトル発着場までは歩く。
そこから軌道上のステーションへ向かう古い定期便に乗ることになっている。
王都への便は、ステーションで乗り換えだ。
入学案内に書いてあった。
何度も読んだから覚えている。
父が私を見た。
「王都で目立つな」
見送りの言葉は、それだった。
とても父らしいと思った。
私はうなずいた。
「はい、お父さま」
「余計なことをするな。上位貴族には逆らうな。プラット家の名を汚すな」
「はい」
次に、お母さまが言った。
「髪をちゃんと染めること」
「はい、お母さま」
「染料を切らさないように。身だしなみは、怠ればすぐにわかります」
「はい」
それで終わりだった。
身体に気をつけなさい、とか。
困ったら手紙を書きなさい、とか。
そういう言葉はなかった。
でも、私はそれを冷たいとは思わなかった。
父とお母さまは、必要なことを言ったのだ。
私に必要なのは、目立たないこと。
髪を染めること。
家に迷惑をかけないこと。
それで十分。
十分のはずだった。
私はトランクから手を離し、扉の前で姿勢を正した。
それから、深く頭を下げた。
「お世話になりました」
言葉にした瞬間、胸がきゅっとなった。
思っていたより、ずっと強く。
愛情を、少しでももらった記憶はほとんどない。
抱きしめられたことも、頭を撫でられたことも、たぶん数えるほどしかない。
誕生日を祝われた記憶も、あまりない。
私はお姉さまたちのためのスペアで。
用済みになったら、家を出る部品で。
それだけだった。
それなのに。
胸が痛い。
どうしてだろう。
わからない。
わからないけれど、痛かった。
この屋敷が好きだったのかもしれない。
好きではなかったのかもしれない。
でも、ここしか知らなかった。
それはたぶん、少し寂しいことなのだと思う。
頭を上げると、父はもう家令の方を見ていた。
お母さまは私の髪を見ていた。
根元が出ていないか、確認していたのかもしれない。
私はもう一度、小さく頭を下げた。
「行ってまいります」
返事はなかった。
メイドの一人が、少しだけ目を伏せた。
それが見送りらしいものの、全部だった。
私はトランクを持ち、玄関を出た。
外の空気は冷たかった。
屋敷の中より、少しだけ軽い。
門までの道を歩く。
砂利が靴の下で小さく鳴る。
庭は手入れが足りていなくて、低い植え込みの枝が少し伸びすぎている。花壇には、花より雑草の方が元気だった。
雑草は強い。
水をあげなくても、誰も褒めなくても、勝手に育つ。
少しうらやましい。
門の前で、私は振り返らなかった。
振り返ったら、足が止まりそうだったから。
門を出ると、石畳の道が続いている。
少し荒れた道だ。
ところどころ石が浮いていて、雨の日には水たまりができる。
今日は晴れていた。
プラットの空は、いつも通り色が薄い。
青というより、洗いすぎた布みたいな色。
風は穏やかだった。
遠くに畑が見える。
古い家が並んでいる。
煙突から細い煙が上がっている。
犬が一匹、道端で寝ていた。
私が近づくと、片目だけ開けて、すぐまた閉じた。
見送りありがとう、と思った。
たぶん、向こうは何も考えていない。
シャトル発着場までは、歩いて行ける距離だ。
でも、トランクを持って歩くと少し遠い。
右腕に負担をかけないように、時々持ち替えながら進んだ。
石畳の段差で左足が少し痛む。
大丈夫。
ゆっくり歩けばいい。
急ぐ必要はない。
定期便の出発までは余裕がある。
道の途中で、何人かの村人とすれ違った。
見たことのある顔もあった。
でも、話しかけられることはなかった。
私も、軽く頭を下げるだけにした。
プラット男爵家の三女が王都へ行くらしい。
そういう話は、たぶんもう広まっている。
でも、それが良いことなのか悪いことなのか、みんな判断に困っているのかもしれない。
軍学校。
貴族の子女。
王都。
言葉だけなら立派だ。
でも、私を見ればわかる。
トランクは一つ。
見送りも少ない。
服も新しくない。
立派な旅立ちではない。
それでも、私は歩いた。
道の両側に広がる景色を、なるべくよく見るようにした。
畑。
低い丘。
遠くの森。
小さな川。
古い橋。
のどかな風景。
特別綺麗というわけではない。
豊かでもない。
でも、静かだった。
私はこの静けさの中で育った。
怒鳴り声もあったし、冷たい沈黙もあった。
でも、外の景色だけはいつも静かだった。
この景色も、見納めかもしれない。
そう思うと、急に全部が大事に見えた。
昨日までは何とも思わなかった石垣まで、少し寂しそうに見える。
勝手なものだと思う。
失くすかもしれないと思った瞬間、人は急に大切そうに見る。
私はそういうところ、少し都合がいい。
でも、今日くらいは許してほしい。
誰に許してほしいのかは、わからないけれど。
シャトル発着場は、町の外れにある。
発着場、という名前だけは立派だ。
実際には、広い舗装地と、古い管制塔と、小さな待合室があるだけ。
看板の文字は少しかすれている。
王都へ向かう人が多い星ではないから、これで十分なのだろう。
定期便のシャトルは、もう発着場の端に停まっていた。
白かったはずの外装は、ところどころ灰色になっている。
機体の横には傷も多い。
でも飛ぶのだと思う。
飛ばなかったら困る。
私は待合室で受付を済ませた。
入学案内と一緒に届いた乗船証を見せると、係員はちらりと私を見て、すぐに通してくれた。
「出発まで、まだ少しあるよ」
「はい。ありがとうございます」
待合室には数人しかいなかった。
商人らしい男の人。
荷物を抱えた老夫婦。
軍服を着た人が一人。
私は端の席に座った。
トランクを膝の前に置く。
手をその上に重ねる。
窓の向こうに、シャトルが見える。
あれに乗る。
あれで、空を越える。
軌道上のステーションへ行く。
それから、王都へ。
胸がきゅっとした。
でも、前ほどではなかった。
宇宙という言葉は、まだ怖い。
黒い空を思い出す。
白い光を思い出す。
人形の剣を思い出す。
でも、今日は戦場へ行くわけではない。
ただ、学校へ行く。
そう。
ただの学校。
軍学校だけれど。
人形に乗るかもしれないけれど。
でも、私は目立たない。
戦わない。
誰も斬らない。
平凡に、静かに、卒業する。
私はトランクの持ち手を握った。
中には、少しのお金が入っている。
働かなければならない。
王都には、私でもできる仕事がたくさんあると父は言った。
本当にあるのだろうか。
皿洗いならできる。
掃除もできる。
髪を染めるのも、自分のならできる。
……それは仕事にならない。
少しだけ笑いそうになった。
笑いそうになって、やめた。
待合室で一人で笑うと、たぶん目立つ。
しばらくして、搭乗の案内があった。
私はトランクを持って立ち上がった。
右腕に少し力が入る。
大丈夫。
歩ける。
係員に案内されて、シャトルへ乗り込む。
中は狭かった。
古い匂いがした。
金属と油と、少しだけ人の匂い。
座席に腰を下ろして、トランクを足元に置く。
安全ベルトを締める。
手が少し震えていた。
私はその手を膝の上で重ねた。
大丈夫。
これはただの定期便。
戦場ではない。
コクピットではない。
私は操縦者ではない。
ただの乗客。
ただのローレッタ。
発進前の振動が足元から伝わってきた。
低い音が鳴る。
機体が目を覚ますみたいに震える。
私は窓の外を見た。
発着場。
管制塔。
薄い空。
遠くの町並み。
古い屋敷はここからは見えない。
でも、あの方向にある。
私は少しだけ、そちらへ目を向けた。
さようなら。
声には出さなかった。
出したら、泣きそうになる気がしたから。
泣くほどのことではない。
私はそう言い聞かせた。
シャトルが動き出した。
ゆっくりと滑る。
それから、一度大きく震えて、身体が座席に押しつけられた。
浮いた。
地面が離れる。
町が下へ落ちていく。
いや、私が上がっているのだ。
発着場が小さくなる。
道が細くなる。
畑が四角い模様になる。
家々が玩具みたいになる。
犬が寝ていた道も、もうわからない。
私が歩いてきた石畳も、屋敷へ続く道も、少しずつ景色の中に溶けていく。
思っていたより、あっけなかった。
十四年間いた場所は、上から見るとこんなに小さい。
小さいのに、私にはずっと世界の全部みたいだった。
胸がきゅっとなる。
今度は痛い。
でも、私は泣かなかった。
窓に額を近づける。
空の色が変わっていく。
薄い青。
もっと薄い青。
白に近い青。
そして、だんだん暗くなる。
昼なのに。
太陽はあるのに。
空が黒くなる。
その瞬間、指先が小さく震えた。
黒い宇宙。
白い光。
赤い警告。
撃墜女王。
マーリン=ロイス。
私は慌てて手を握った。
違う。
これは記憶じゃない。
今、見ている空だ。
私の空だ。
ローレッタ=プラットが、初めて見る宇宙。
シャトルはさらに上がっていく。
やがて、薄い青色の空は完全に消えた。
窓の外には、真っ黒な空が広がっていた。
星が光っている。
遠く、冷たく、静かに。
私は息を止めた。
怖い。
綺麗。
帰りたい。
行かなきゃ。
全部が一緒に胸の中で揺れた。
私は膝の上で両手を握りしめた。
髪はちゃんと茶色。
荷物は一つ。
お金は少し。
行き先は王都。
王立宇宙軍士官学校。
私は目立たない。
戦わない。
平凡に生きる。
そう決めた。
黒い空の向こうで、何かが私を待っている気がした。
でも私は、それに気づかないふりをした。
今はまだ。
ただの出発でいい。
私は窓の外を見つめながら、小さく息を吐いた。
「……行ってきます」
誰に向けた言葉なのかは、わからなかった。
屋敷か。
プラットの町か。
それとも、私の中にいる誰かか。
返事はなかった。
ただ、黒い空だけが、どこまでも広がっていた。
ここまでお読みいただき有り難うございました。
面白いと思っていただけましたら、評価、ブックマークをお願いいたします。
励みになります!




