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誕生日の書簡

ご覧いただきありがとうございます。

身体は、すっかり治った。


そう言っていいのかは少し迷う。


雨の日には肋骨のあたりがずきずきするし、右腕を高く上げると、まだ少し引きつる。左足も、長く歩くと重くなる。


でも医師は、もう日常生活に問題はないと言った。


つまり、治ったということだ。


使える。


そういう意味でも、たぶん、治った。


私は十四歳になった。


誕生日の朝、目が覚めた時、最初に思ったのは、寒い、だった。


めでたい、とか。


嬉しい、とか。


今日から十四歳、とか。


そういうことではなかった。


毛布から出した鼻先が冷たくて、部屋の空気がうすく凍っているみたいで、私は布団の中で少し丸まった。


十四歳になっても、寒いものは寒い。


それはちょっと残念だった。


誕生日だからといって、部屋が暖かくなるわけではないらしい。


当たり前だけれど。


私はゆっくり起き上がった。


身体のあちこちに、古い痛みが残っている。


階段から落ちた時のことは、今でもよく覚えている。


踏み抜いた床。


崩れた手すり。


落ちていく身体。


血の匂い。


そして、宇宙。


あれから、ずいぶん考えた。


マーリン=ロイス。


撃墜女王。


私の中に流れ込んできた、知らないはずの記憶。


最初は、思い出すだけで息が苦しかった。


今も苦しくないわけではない。


でも、少しだけ扱い方を覚えた。


触りすぎない。


考えすぎない。


夜に思い出しそうになったら、毛布を頭までかぶる。


それでだめなら、羊を数える。


羊が途中で人形になって宇宙を飛びはじめた時は、かなり困った。


羊なのに強そうだった。


でも、そういうくだらないことを考えていると、怖さは少しだけ遠くなる。


私は寝台から足を下ろした。


床が冷たい。


左足に体重をかけると、少しだけ違和感がある。


痛いというほどではない。


大丈夫。


私はそう言って、立ち上がった。


鏡の前に座り、髪を見た。


染めた茶色の根元に、また白が出かけている。


ほんの少し。


でも、見える。


十四歳になっても、髪は勝手に白くなる。


誕生日なのだから今日くらい遠慮してくれてもいいのに、髪はそういう気遣いをしない。


私は小さく息を吐いて、櫛を通した。


今日中に染め直さなければならない。


それから服を着替える。


姉のお下がりのワンピース。


袖は少し長いけれど、直してあるので問題ない。裾もほつれていたところを縫った。近くで見なければわからない。


誕生日だからといって、新しい服はない。


それも当たり前だった。


私は鏡の中の自分を見た。


茶色に染めた髪。


少し薄い色の目。


小柄で、まだ子どもみたいな身体。


でも今日から十四歳。


十四歳。


何か変わった気がするかと言われると、別に何も変わっていなかった。


お腹は普通に空いているし、髪は染めなければならないし、屋敷は寒い。


たぶん、人は誕生日を迎えた瞬間に別人になるわけではないのだと思う。


少し安心した。


急に立派な人になれと言われても困るから。


朝食も、いつも通りだった。


少し固いパン。


薄いスープ。


小さな焼き魚。


お姉さまたちの皿には、私のものより果物がひと切れ多い。


それもいつも通り。


私は席に着いて、静かに食べた。


今日は私の誕生日です。


そう言う必要はない。


みんな知っているかもしれないし、知らないかもしれない。


知っていたとしても、何かが変わるわけではない。


お母さまはいつも通り、背筋を伸ばして食事をしていた。


父もいつも通り、何かの書類を見ながらスープを飲んでいる。


お姉さまたちは、来週届く予定の手袋について話していた。


「色は薄い青の方がいいと思うの」


「でも、あのドレスには白の方が合うわ」


「白は汚れが目立つでしょう」


「それは使い方が悪いのよ」


私はパンを小さくちぎりながら、それを聞いていた。


白は汚れが目立つ。


本当にそうだと思う。


髪もそうだ。


少し見えただけで、すぐにわかってしまう。


「ローレッタ」


お母さまが言った。


「はい」


私は顔を上げた。


「髪の根元が少し見えています。午前中に染めなさい」


「はい、お母さま」


誕生日でも、そこは変わらなかった。


むしろ少し安心した。


変わらないものは、扱いやすい。


怒られる理由がわかっているものは、まだいい。


それから、お母さまはお姉さまたちの方を向いた。


「あなたたちも、支度を早めに済ませなさい。午後には仕立て屋が来ます」


お姉さまたちは、はい、と返事をした。


この家では、成人した娘はいつまでも家に残るものではない、と聞いている。


上のお姉さまは婚約が決まっていた。


下のお姉さまにも、近いうちに正式な話が来るらしい。


二人とも無事に成人した。


大きな病気もなく、事故もなく。


それは、とてもいいことだ。


本当に。


そして、二人が無事なら、私はもうスペアとしてはあまり必要ない。


そのことも、わかっていた。


最初は、少し不思議だった。


必要とされるために健康でいる。


そう思っていたのに、健康でいる理由がなくなってしまう。


では私は、何のためにここにいるのだろう。


そう考えたこともある。


でも、答えはすぐに出た。


用済みになったら、新しい役目が与えられる。


親が決めたどこかに嫁ぐ。


それがだめなら、別の形で家の役に立つ。


身売り、という言葉をメイドたちが小声で話していたことがある。


聞かなかったふりをした。


そういうものなのだと思った。


怖くないと言えば、少し嘘になる。


でも、辛いとまでは思わなかった。


だって、私はずっとそういう場所にいた。


自分の行き先を、自分で選ぶ人間ではない。


役に立つ場所に置かれる。


必要なところに運ばれる。


部品とは、たぶん、そういうものだ。


朝食が終わる頃、父が書類から顔を上げた。


「ローレッタ」


「はい、お父さま」


「食後、書斎に来なさい」


私は一瞬、手を止めた。


書斎。


父の書斎に呼ばれることは、ほとんどない。


悪いことをしただろうか。


髪はまだ染めていない。


でも、それならお母さまが注意するだけで済むはずだ。


階段の修理費のことだろうか。


でも、あれはもう終わったはず。


終わったと思っていただけで、まだ何かあったのかもしれない。


胸の奥が、きゅっとなった。


「はい」


私は短く返事をした。


それ以上、何か聞くことはできなかった。



書斎は、屋敷の中で一番まともな部屋だった。


床は抜けない。


窓枠も歪んでいない。


本棚には古い本が並んでいて、壁にはプラット家の紋章が飾られている。暖炉は小さいけれど、ちゃんと使える。


この屋敷にも、きちんとした部屋があるのだと初めて見た時、少し驚いた。


大事な部屋は壊れにくい。


きっと、そういうことなのだと思う。


私は扉の前で一度息を吸い、軽く叩いた。


「入れ」


父の声がした。


「失礼いたします」


扉を開けると、父は窓辺に立っていた。


外を見ている。


薄い空。


古い庭。


手入れの行き届かない植え込み。


父が何を見ているのか、私にはわからなかった。


書斎の中央には大きな執務机がある。


その上に、一通の書簡が置かれていた。


紺色の封筒。


縁には金色の線。


封蝋には、見慣れない紋章が刻まれている。


王家のものとは違う。


でも、ただの家の紋章でもなさそうだった。


きちんと整いすぎていて、少し怖い。


「それを取れ」


父が言った。


私は机に近づき、書簡を手に取った。


封はすでに切られている。


中を見ろ、ということだと思った。


指先が少し冷たくなる。


私は封筒から紙を取り出した。


厚い紙だった。


うちで使う紙より、ずっと上等だ。


文字も綺麗に印刷されている。


最初の行を読んだ瞬間、胸が変な音を立てた気がした。


王立宇宙軍士官学校。


私は、そこから先を読むのが少し遅くなった。


王立宇宙軍士官学校。


貴族の子女、および選抜された平民に入学が許される軍学校。


宇宙軍。


軍。


人形。


戦い。


その言葉たちが、紙の上から跳ねて、胸の中へ入り込んでくる。


息が少し浅くなった。


指先に、白い糸が絡んだ気がした。


見えない。


もちろん、見えない。


でも、覚えている。


全周囲モニター。


赤い警告表示。


黒い宇宙。


白い光を引く人形。


剣を握る感覚。


敵機が迫る。


左上。


死角。


違う、見えている。


「……っ」


私は書簡を握る指に力を入れた。


紙が少し鳴る。


だめ。


思い出してはいけない。


ここは書斎だ。


私はローレッタ=プラット。


プラット男爵家の三女。


戦場にはいない。


人形にも乗っていない。


剣も持っていない。


私は息を吸った。


浅く。


胸の奥がまだ痛い。


古傷のせいか、記憶のせいか、わからない。


「読んだか」


父が言った。


私は目だけで残りの文面を追った。


入学許可。


指定日。


準備物。


王都。


寮。


学費。


何度読んでも、意味は変わらなかった。


「……これは」


声が少しかすれた。


「私、宛てですか」


「そうだ」


父は窓の外を見たまま答えた。


「お前の入学が認められた」


認められた。


その言葉は、良いことのように聞こえた。


でも私には、扉がひとつ閉まる音のように聞こえた。


「これ以上、お前を家に置いておくことはできない」


父は静かに言った。


怒っている声ではなかった。


困っている声でもない。


ただ、決まったことを読んでいるみたいな声だった。


「姉たちは成人した。お前の役目も変わる。だが、すぐに縁談がまとまる見込みは薄い」


私は黙って聞いていた。


縁談。


身売り。


用済み。


言葉は違うけれど、近い場所にあるものだと思った。


「王立宇宙軍士官学校であれば、学費と食費はすべて税で賄われる。寮もある。こちらで負担するものは少ない」


それは、とても現実的な話だった。


父らしいと思った。


私は書簡を見下ろした。


学費。


食費。


寮。


つまり、私は家計から外れる。


食卓の皿が、少しだけ楽になる。


使う薪も減る。


染料も減る。


それは家にとって、きっと良いことだ。


「仕送りはしない」


父が言った。


「必要なら、自分で働け。王都には、お前でもできる仕事がいくらでもあるだろう」


お前でも。


その言葉に、胸の奥が小さく縮んだ。


でも、痛いほどではない。


言われ慣れている言葉は、鋭くても刺さる場所が決まっている。


私はうなずいた。


「はい」


王都。


私は行ったことがない。


本で読んだことはある。


大きな駅。


高い建物。


貴族の屋敷。


商店。


軍の施設。


人が多くて、物も多くて、迷子になったら二度と帰れなさそうな場所。


そこに、一人で行く。


働く。


学校に通う。


軍学校に。


「お父さま」


「何だ」


私は書簡を胸の前で持ったまま、ゆっくり口を開いた。


「私に、軍人になれということですか」


言ってから、喉が乾いた。


宇宙軍。


人形。


戦い。


それらがまた胸の中で音を立てる。


嫌だ。


私は戦いたくない。


争いたくない。


人を殺したくない。


マーリンの記憶があるからではない。


いや、あるからかもしれない。


でも、それだけではない。


私が嫌なのだ。


ローレッタ=プラットの私が、嫌だと思っている。


父はゆっくり振り返った。


私を見ている。


たぶん。


その目が何を考えているのかは、わからない。


「軍人になれとは言わない」


私は少しだけ息を吸った。


ほんの少しだけ、胸が軽くなる。


でも父の次の言葉で、それはすぐに止まった。


「ただし、卒業しろ。余計なことはするな。目立つな」


「……目立つな、ですか」


「そうだ」


父は机の方へ歩いてきた。


古い床は、ここでは鳴らなかった。


「身の程を弁えろ。お前はプラット男爵家の娘だ。上位貴族と張り合える家ではない。まして、軍で功を立てようなどと考えるな」


考えていません。


そう言いそうになって、やめた。


考えていないのは本当だ。


功を立てるなんて、そんな怖いこと。


でも、それを言っても意味はない。


父が心配しているのは、私の気持ちではない。


プラット家に余計な波風が立つこと。


たぶん、それだけだ。


「お前は昔から妙に人目を引くところがある」


私は思わず髪に触れそうになった。


でも、書簡を持っていたのでできなかった。


「髪のことは、きちんと隠します」


「それだけではない」


父は短く言った。


それだけではない。


どういう意味だろう。


顔のことだろうか。


事故のあと、メイドたちが私を見る目が少し変わった気がした。


髪を染めていても、何かを探すように見られることがある。


でも私は、その理由を考えたくなかった。


考えても、怖くなるだけだから。


「とにかく、目立つな。誰にも逆らうな。余計な力を見せるな。求められたことだけをしていればいい」


余計な力。


その言葉に、指先がひくりと動いた。


白い糸。


人形。


宇宙。


私は左手で右手を押さえた。


「……はい」


声はちゃんと出た。


少し小さかったけれど。


「お父さま」


「何だ」


「断ることは、できますか」


聞いてはいけない気がした。


でも、聞いてしまった。


だって、軍学校だ。


宇宙軍だ。


人形だ。


マーリンの記憶の中にあった、あの黒い場所へ続いている気がした。


行けば、何かが始まってしまう。


そんな気がした。


私は平凡に、目立たずに生きると決めた。


戦わないと決めた。


だから安心して、とマーリンに言った。


なのに。


父は、少しも迷わなかった。


「許さない」


短い言葉だった。


それで終わりだった。


断れない。


私は書簡を見下ろした。


紙は綺麗だった。


紺色の封筒も、金色の紋章も、まっすぐな文字も、全部が綺麗だった。


綺麗なものは怖い。


汚れていないものほど、こちらの汚れがよく見える。


「出発は二週間後だ」


父は言った。


「荷物をまとめろ。必要なものは最低限でいい。学校から支給されるものもある」


「はい」


「髪は染めておけ。王都で妙な噂を立てられては困る」


「はい」


「学園では、プラット家の名を汚すな」


「はい」


返事をするたびに、胸の中が少しずつ空っぽになっていく気がした。


でも、空っぽの方がいい。


何かが詰まっていると、痛むから。


父は机の上の別の書類に目を落とした。


話は終わったらしい。


私は書簡を封筒に戻した。


「これは」


「持っていけ。準備物を確認しろ」


「はい」


私は両手で書簡を持ち、頭を下げた。


「失礼いたします」


父は返事をしなかった。


でも、それもいつものことだった。



書斎を出ると、廊下は少し暗かった。


窓の外はまだ昼なのに、屋敷の中はいつも影が多い。


私は書簡を胸に抱えたまま、ゆっくり歩いた。


足元を見て。


床板が浮いていないか確かめながら。


もう階段を踏み抜きたくはない。


痛いのは嫌だ。


迷惑をかけるのも嫌だ。


西側の階段は、まだ使えない。


応急処置だけされて、板が打ちつけられている。


あの日から私は、そこを見るたびに胸が少し冷たくなる。


でも今日は、別のものが怖かった。


王立宇宙軍士官学校。


宇宙軍。


人形。


争い。


頭の中で、その言葉たちがぐるぐる回る。


私は戦わない。


そう決めた。


軍人になれとは言われていない。


父もそう言った。


ただ卒業すればいい。


目立たず、身の程を弁えて、言われたことだけをする。


それなら、できるかもしれない。


たぶん。


私は昔から、目立たないようにするのは得意だ。


怒られないように笑うのも。


痛くても大丈夫と言うのも。


自分のしたいことを飲み込むのも。


全部、慣れている。


だから大丈夫。


学校でも同じようにすればいい。


上位貴族に逆らわない。


誰とも争わない。


人形に乗ることがあっても、目立たない。


できないふりをする。


いや、ふりではないかもしれない。


私は人形に乗ったことがないのだから。


でも、記憶は知っている。


指先が知っている。


それが一番怖かった。


私が何も知らないままだったらよかったのに。


知らないなら、できない。


できないなら、選ばれない。


選ばれなければ、戦わなくていい。


でも、私の中には、知らないはずのものがある。


マーリン=ロイス。


撃墜女王。


恐ろしい人だと本には書かれていた。


でも、本当は違う。


戦いたくなかった人。


争いが嫌いだった人。


それでも戦場から逃げられなかった人。


私は胸の中で、そっと呼びかけた。


大丈夫。


私は、あなたみたいにはならない。


あなたの記憶があっても、私はローレッタだから。


私は戦わない。


目立たない。


平凡に生きる。


そう決めたから。


廊下の窓に、自分の姿がぼんやり映った。


茶色に染めた髪。


細い肩。


手にした紺色の書簡。


少しだけ、知らない子みたいに見えた。


私はその子から目をそらした。


自室へ戻らなければ。


荷物をまとめる。


二週間後には、この屋敷を出る。


誕生日だからといって、何かが変わるわけではないと思っていた。


でも、変わってしまった。


朝はいつも通りだったのに。


食事もいつも通りだったのに。


十四歳になった私は、家を出ることになった。


軍学校へ行くことになった。


選べないまま。


いつものように。


私は書簡を抱える手に、少しだけ力を込めた。


紙が胸に当たる。


紺色の封筒は冷たかった。


私は小さく息を吸う。


それから、誰にも聞こえないくらいの声で言った。


「……はい」


書斎で返した返事と、同じ言葉。


それしか、言えなかった。

ここまでお読みいただき有り難うございました。


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