知らない記憶
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目が覚めた時、最初に思ったのは、天井がいつもより遠い、だった。
変な感想だと思う。
でも本当に、そう見えた。
白くくすんだ天井。隅にある小さな染み。少し歪んだ照明。何度も見たはずの自室の天井なのに、知らない部屋みたいだった。
ぼんやり見上げていると、喉がからからに乾いていることに気づいた。
水。
そう思って、右手を動かそうとした。
その瞬間、腕から肩にかけて、焼けるような痛みが走った。
「っ……!」
声にならなかった。
息だけが変な形で喉から漏れる。
痛い。
ものすごく痛い。
腕だけじゃない。胸も痛い。脇腹も痛い。左足も、重たい石を括りつけられているみたいに動かない。身体のあちこちが、自分のものではないみたいだった。
私は目だけを動かして、自分の身体を見た。
右腕には、厚い包帯と固定具。
胸にも包帯。
布団の下の左足も、たぶん固定されている。
なんだか、荷物みたいだった。
丁寧に包まれているけれど、中身が壊れ物。
……いや、壊れ物なのは、いつもそうかもしれない。
私はお姉さまたちのための部品なのだから、壊れたら困る。
そう思ったところで、ようやく思い出した。
西側の階段。
白く見えた髪。
踏み抜いた床。
落ちていく身体。
冷たい床。
血の匂い。
それから。
宇宙。
「……あ」
思い出した瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。
痛みとは別のものだった。
怖い、に似ている。
でも、それだけではなかった。
悲しい。
苦しい。
怒っている。
寂しい。
全部が一緒になって、細い糸みたいに胸の中で絡まっていた。
私はそれをほどこうとして、すぐにあきらめた。
痛い時に難しいことを考えるのは、よくない。
たぶん。
「お目覚めになりましたか」
かすれた声が聞こえた。
扉のそばに、メイドが立っていた。
顔は知っている。でも名前を呼ぶほど親しくはない。屋敷の人は少ないのに、私はあまり話したことがない。
メイドはほっとした顔をして、すぐに部屋を出ていった。
ばたばたと足音が遠ざかる。
私が起きたことを知らせに行ったのだと思う。
私はもう一度、天井を見た。
目が覚めた。
ちゃんと。
よかった。
でも、どれくらい眠っていたのだろう。
朝なのか、昼なのか、わからない。カーテンの隙間から入る光は薄くて、プラットの空みたいに頼りなかった。
少しして、医師が来た。
検査室にいた、あのおじいさんだ。
「目が覚めたか」
私はうなずこうとして、首にも痛みが走ったので、途中で止めた。
「……はい」
声がひどかった。
砂を飲んだみたいにざらざらしている。
医師は私のまぶたを見て、脈を取り、包帯の上から身体の様子を確かめた。
触られるたびに痛かった。
でも、なるべく顔には出さないようにした。
「無理に動くな。肋骨が数本折れている。右腕と左足も骨折だ。打撲もひどい。頭も打っている」
「……はい」
「三日、意識が戻らなかった」
三日。
私は少しだけ目を開いた。
そんなに。
「生きているのが不思議なくらいだ」
医師はそう言った。
怖がらせようとしている声ではなかった。
本当に、そう思っている声だった。
「しばらくは寝ていることだ。骨がつくまで二か月。まともに動けるようになるまでは、三か月は見た方がいい」
三か月。
今度は、別の意味で胸が痛くなった。
三か月も。
そんなに長く、何もできない。
髪も自分で染められないかもしれない。部屋の片づけもできない。食事の席にも行けない。お姉さまたちの邪魔にならないように動くこともできない。
それに、検査はどうなるのだろう。
身体が使えなくなっていたら。
お母さまが困る。
「……ごめんなさい」
気づいたら、そう言っていた。
医師は少し眉を寄せた。
「謝ることではない」
「でも……階段を壊してしまって」
「壊れていた階段に落ちたんだ」
「でも、私が踏んだから」
「踏んだだけで抜ける床が悪い」
医師はそう言った。
少しだけ、強い声だった。
私は返事に困った。
床が悪い。
そんな考え方をしたことがなかった。
床が悪いなら、床を直さなければならない。
床を直すにはお金がいる。
お金がないなら、直せない。
直せないなら、気をつけて歩くしかない。
だから、私が悪い。
そういう順番だと思っていた。
でも医師は、それ以上何も言わなかった。
私の喉を見て、水を飲ませてくれた。
少しずつ。
水はぬるかったけれど、とてもおいしかった。
うまうま、と言いそうになって、やめた。
今言ったら、たぶん咳き込む。
父とお母さまが来たのは、その日の夕方だった。
部屋に二人がそろって入ってくるのは珍しかった。
父は仕事着ではなく、屋敷の中で着る古い上着を羽織っていた。袖口が少し擦れている。お母さまはいつも通り、背筋を伸ばしていた。
私は起き上がろうとした。
でも、身体がまったく言うことを聞かなかった。
痛みだけが先に来る。
「そのままでいい」
父が言った。
その声を聞いて、私は動くのをやめた。
「申し訳、ありません……」
声がかすれる。
「階段を……壊してしまいました」
父は私を見た。
見た、と思う。
でもすぐに視線は窓の方へ移った。
「西側の階段か」
「はい……」
「あそこは前から危ないと言っていた。修理にはどれだけかかるか」
父は小さく息を吐いた。
それは私に向けたため息なのか、階段に向けたため息なのか、よくわからなかった。
たぶん、両方だと思う。
「応急処置だけで済めばいいが。完全に架け替えるとなると厄介だな」
「ごめんなさい」
私はもう一度謝った。
謝ると胸が痛む。
肋骨が折れているからだ。
でも、謝らない方がもっと痛い気がした。
父は何か言いかけて、やめた。
その代わりに、お母さまが一歩前に出た。
「身体の具合は」
「……痛いです。でも、大丈夫です」
大丈夫。
いつもの言葉。
でも今回は、言ったあとで少しだけ不安になった。
本当に大丈夫なのか、私にもわからなかったから。
お母さまは私の包帯を見た。
右腕。
胸。
布団の下の左足。
その目は静かだった。
「医師から聞きました。肋骨、右腕、左足。頭部の打撲もあるそうね」
「はい」
「跡が残る可能性は」
「……わかりません」
「そう」
お母さまは目を伏せた。
悲しんでいるのかもしれない。
心配してくれているのかもしれない。
そう思いたかった。
けれど、お母さまはすぐに言った。
「将来、必要になった時に支障が出なければよいのだけれど」
私は、胸の中で何かがすとんと落ちるのを感じた。
落ちたけれど、割れなかった。
だって、最初からそこにあったものだから。
「ごめんなさい」
私は言った。
「ちゃんと、治します」
お母さまはうなずいた。
「医師の言うことを聞きなさい。勝手に動いて悪化させてはいけません」
「はい」
「髪は、メイドに染めさせます」
「……はい」
そこまで言うと、お母さまはもう話すことがなくなったようだった。
父も、階段の修理費のことを少しだけ家令と相談すると言って、部屋を出ていった。
お母さまもそれに続いた。
扉が閉まる。
足音が遠ざかる。
私は天井を見た。
来てくれた。
一度だけでも。
それで十分だと思った。
思ったのに、喉の奥が少しだけ苦しくなった。
たぶん、痛みのせいだ。
肋骨が折れているから。
そういうことにした。
それから、私は寝ているしかなくなった。
本当に、寝ているしかない。
起き上がれない。
本も長くは読めない。
右腕は動かせないし、左足は重い。胸が痛むから、深く息も吸えない。寝返りを打つのも大仕事だった。
最初の二日は、痛みと薬のせいで、何も考えられなかった。
眠って、起きて、水を飲んで、少しだけ粥を食べて、また眠る。
世界が小さくなった。
天井。
窓。
布団。
包帯。
それだけ。
でも、身体の痛みに少し慣れてくると、今度は考える時間ばかりが増えた。
考えたくないのに。
考えるしかない。
三日前、倒れた時に見たもの。
あれは夢だったのだろうか。
夢にしては、はっきりしすぎていた。
宇宙の暗さ。
コクピットの冷たい空気。
警告音。
赤い表示。
指先から伸びる白い糸。
人形の腕が、自分の腕みたいに動く感覚。
斬る瞬間の重さ。
急加速で身体が潰れそうになる感覚。
私は人形に乗ったことなんてない。
もちろん、訓練も受けていない。
なのに、知っていた。
引けば進む。
緩めれば流れる。
握れば斬る。
そんなこと、知っているはずがないのに。
それだけではなかった。
名前も、場所も、顔も、音も、匂いも。
全部、ばらばらに頭の中へ落ちていた。
帝国。
ロイス公爵家。
軍服。
戦場。
炎。
白い光。
そして、何度も聞こえた名前。
マーリン=ロイス。
撃墜女王。
その名前なら、知っている。
本で読んだことがある。
王国の歴史書にも、戦争の記録にも出てくる。
今はない帝国の公爵令嬢。
戦場に現れる白い悪夢。
何十、何百という王国機を撃墜した、恐ろしい人形使い。
撃墜女王。
本には、そう書かれていた。
屋敷の人たちも、そう言っていたことがある。
昔の戦争の話になると、誰かが必ずその名前を出す。
「マーリン=ロイスは恐ろしい女だった」
「戦場で笑っていたらしい」
「人形を斬るのが好きだったのだろう」
「王国の兵士を、虫のように落とした」
みんな、そう言う。
私も、そうなのだと思っていた。
だって、本に書いてあるから。
大人たちが言うから。
歴史というものは、たぶん、そういうものなのだと思っていた。
でも。
違った。
少なくとも、私の中に流れ込んできたものは、違った。
マーリンは、笑っていなかった。
少なくとも、戦いたくて笑っていたわけではない。
剣を振るたびに、胸の奥が削れていた。
敵機を落とすたびに、何かが壊れていった。
通信の向こうで悲鳴が途切れるたびに、手が震えた。
それでも止まれなかった。
守るものがあったから。
守りたい人がいたから。
守れなかったものが多すぎたから。
戦いが好きだったわけではない。
争いが好きだったわけでもない。
むしろ、嫌いだった。
たぶん、心の底から。
戦場の光は綺麗だった。
でも綺麗だから嫌だった。
人形の動きは思い通りだった。
でも思い通りに動くから嫌だった。
斬れる。
避けられる。
落とせる。
勝てる。
だから、逃げられない。
そんな記憶だった。
私は布団の中で、動かせる左手を少しだけ握った。
指先が震えている。
痛みのせいか、記憶のせいか、わからない。
「……私も、嫌い」
小さくつぶやいた。
戦いは嫌い。
争いも嫌い。
誰かが怒鳴る声も、誰かが泣く声も、苦手だ。
食卓の空気が少し悪くなるだけで、私はすぐに笑ってしまう。
怒られないように。
目立たないように。
誰も傷つかないように。
そんな私が、戦場なんて行けるはずがない。
行きたくもない。
人を殺すなんて、絶対に嫌だ。
マーリンの記憶は、私の中にある。
そう思う。
でも、それは私ではない。
たぶん。
たぶん、というところが少し怖い。
だって、思い出した時、私は確かに知っていた。
人形の動かし方を。
敵の死角を。
白い光の引き方を。
そして、誰かを斬った感触を。
あれが自分のものではないと言い切るには、あまりにも近かった。
自分のものだと言うには、あまりにも重かった。
私は目を閉じた。
まぶたの裏に、宇宙が浮かんだ。
暗くて、冷たくて、果てしない宇宙。
その中に、白い光を引く人形がいる。
剣を構えている。
たくさんの敵に囲まれている。
逃げ道はない。
でも、逃げない。
逃げられない。
「……嫌だよ」
声が震えた。
誰に言ったのか、自分でもわからなかった。
マーリンにか。
自分にか。
それとも、まだ見たことのない戦場にか。
「私は、そんな人生は嫌だよ」
胸が痛んだ。
肋骨の痛みだけではない気がした。
でも、泣かなかった。
泣くほど、自分の気持ちが形になっていなかった。
私の人生は、きっと平凡でいい。
目立たなくていい。
お姉さまたちの邪魔をせず、家の役に立てる時が来たら役に立って、それまで静かに暮らす。
できれば、誰も怒らせずに。
できれば、誰も傷つけずに。
できれば、戦いなんて遠い本の中の話にしたままで。
それでいい。
それがいい。
撃墜女王なんて呼ばれたくない。
英雄にも、悪夢にもなりたくない。
白い光なんて引かなくていい。
剣なんて握らなくていい。
私はローレッタ=プラット。
プラット男爵家の三女。
それ以上でも、それ以下でもない。
……本当は、それだけで十分なのかは、少しわからない。
でも今は、そういうことにしたかった。
「大丈夫」
私はつぶやいた。
いつもの言葉。
でも今度は、お母さまに向けたものではなかった。
お医者さまに向けたものでもない。
自分に。
そして、私の中にいる誰かに。
「今度は、大丈夫だから」
窓の外では、薄い空が少しずつ暗くなっていた。
プラットの夕方は、色が薄い。
夜になる直前だけ、世界が静かに息を止める。
私はその空を見ながら、左手を布団の上に置いた。
指先はまだ少し震えていた。
見えない糸を引くみたいに、勝手に動きそうになる。
私はその指を、ぎゅっと握った。
動かないように。
もう、何も操らないように。
「戦わないよ」
声は小さかった。
誰にも届かないくらい。
でも、それでよかった。
「平凡に、目立たずに、生きるから」
それは願いだった。
約束だった。
少しだけ嘘みたいな、祈りだった。
「だから安心して。マーリン」
そう言うと、胸の奥の焼けるような痛みが、ほんの少しだけ静かになった気がした。
たぶん、薬が効いてきただけだ。
そう思うことにして、私は目を閉じた。
ここまでお読みいただき有り難うございました。
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